■■■ 奈良時代にこんなことが――一言主大神は語る/6.淳仁天皇の御代(758〜764)――(ハチマキおじさん)■■■


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 4月24日(土)09時36分30秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.1 淳仁天皇の即位(天平宝字二年(七五八)八月)
 八月一日 孝謙天皇は皇位を皇太子の大炊王(おおいのおおきみ)に譲られ、淳仁天皇が誕生したのじゃ。淳仁天皇は、天武天皇の孫で、一品の舎人親王の第七子で、この時二十五歳じゃった。母は、当麻(たぎま)氏の出で、名は山背(やましろ)といい、上総守・従五位上の当麻老の娘じゃ。

 淳仁天皇の即位前記(天皇の国風諡号、漢風諡号、系譜、人となりなどを記したもの)によれば、皇太子の道祖(ふなど)王は聖武天皇の服喪中に哀悼の心がなかったので、天平勝宝九年(七五七)三月孝謙天皇と光明皇太后は、藤原豊成、藤原仲麻呂、紀麻路、多治比広足、文室智努(ふんやのちぬ)らと宮中で策を練り、皇太子を廃し、王の身分として私邸に帰らせたとある。これより以前に、仲麻呂は亡き息子真依(まより)の妻・粟田諸姉(もろあね)を大炊王に嫁がせ、仲麻呂の私邸・田村第に住まわせていた。そして四月、大炊王は皇太子となったのじゃ。やがて孝謙天皇は、病がちの光明皇太后に孝養を尽くしたいとの理由で、大炊王に皇位を譲ったわけじゃ。実際には、天皇とはいえ皇太后と仲麻呂に実権を握られた治世に嫌気がさしたのではないかの。淳仁天皇の即位までには、仲麻呂が大きく関わっておることが分かるじゃろう。

 淳仁天皇の治世はわずか六年じゃった。最初は、孝謙上皇や仲麻呂に気を遣いつつ、天皇として懸命に努力したのじゃ。しかし、光明皇太后が亡くなると情勢は大きく変わり始めた。孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになると、天皇は見るに見かねて諫言したのじゃ。これが上皇の激怒をかい、上皇と天皇が対立することになる。それはとりもなおさず、仲麻呂の権力低下を意味するわけじゃ。やがて、仲麻呂は謀反を起こし誅殺される。それにともなって重祚した称徳天皇によって淳仁天皇は淡路島に流され、憤死されるのじゃ。

 聖武天皇をはじめとして多くの天皇が藤原氏の影響を強く受けたのじゃが、淳仁天皇は藤原氏というより藤原仲麻呂個人に振り回されたような人生だったのではないかの。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 4月27日(火)18時44分54秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.2 般若経を念誦せよ(天平宝字二年(758)八月)
 八月十八日に、天皇は次のような勅を出された。
「陰陽寮が奏上して言うには、「占いの本によると来年は厄年にあたり、水害、日照り、疾病などの災害が起こる」と。聞くところによると「摩訶般若波羅密多経は諸仏の母であり、四句の偈を受持し念誦すれば、思いもよらぬほど福徳が集まる」という。それ故、天子がこれを念ずれば、戦乱や災害は国内に入らず、庶民が念ずれば病気や疫病神は家の中に入らない。悪を断ち、吉祥を得ることこれに勝るものはない。全国に布告して、老若男女の区別なく、行住坐臥口にとどめ、皆ことごとく摩訶般若波羅密多経を念誦させよ。およそ文武百官の者達は、朝廷に出仕し官司につく際に路上において毎日常に念誦して、無駄に往復してはならない。願わくば、風雨は季節通りで水害や日照りがなく、寒暖は順調で疾病の災いを避けられることを。広く遠近の者達に告げて、朕の意志を知らしめよ」

 摩訶般若波羅密多経は、大般若経の一部で二十七巻からなる。これほど大部の経典を通勤の途上で念誦せよといわれても困るのではないかの。実際に念誦させたのは般若心経だったようじゃ。般若心経は、大般若経の要約で、現在のものは二百六十六文字からなる。この程度なら暗誦できるじゃろう。般若心経の効果なのじゃろう、翌三年の記事には大風による被害が記録されておるだけで、水害、日照り、疫病などは起きなかった。

 般若心経がいつ我が国に伝来したかは定かではない。じゃが、世界最古とされる「貝葉梵字般若心経」が東京国立博物館の法隆寺宝物館に収蔵されておるそうじゃ。これは六百九年に伝来したそうじゃから、淳仁天皇の御代にはよく知られておったじゃろう。般若心経は、宗派を越えて今では最も広く読まれておるお経じゃ。その普及に淳仁天皇が寄与されたのかもしれんの。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 5月 1日(土)10時14分59秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.3 3 来寇準備命令(天平宝字二年(758)十二月)
 十二月十日、帰国した遣渤海使の小野朝臣田守らが、唐において安禄山が謀反を起こしたことを報告したのじゃ。その余波は渤海国にも及んできたため、報告は生々しいものじゃった。これを受けて、天皇は太宰府に概略次のような勅を出されたのじゃ。
まず、「安禄山は天に背いて叛逆したのだから、必ず失敗するだろう。征西する計画は不可能だから、却って海東を侵略することを疑う必要があろう」としたうえで、次のように命じられた。
「太宰府の長官の船王(ふねのおおきみ)と次官の吉備真備は、ともに碩学として、名声は当代に聞こえている。朕は二人を心に選んで重責を委ねている。この状況を知った上は、予め防衛策を立て、たとえ来寇がなくても準備を怠ることのないようにせよ。立案した上策と準備すべき様々な事柄とを、一々具体的に記録して報告せよ」
安禄山の来寇に備えて、大宰府に準備命令が出されたわけじゃ。この勅の背後には藤原仲麻呂がおるのじゃ。たび重なる新羅の無礼な朝貢に対し新羅征討をもくろんでいた仲麻呂は、安禄山の乱を利用して軍事力の強化を図ろうとしたのじゃ。

 ところで、当代きっての碩学・吉備真備が太宰府の次官に左遷されたのは、仲麻呂に煙たがられたからじゃ。天平勝宝六年(754)四月のことじゃった。じゃが、いざ防衛準備となると仲麻呂も軍学者の側面ももつ真備を用いざるを得なかったというわけじゃ。皮肉な話ではあるが、この場合は適所に適材がおったと言えそうじゃ。真備を中心に検討された防衛上の問題点が翌年三月に報告されておる。

 たとえ来寇がなくても準備を怠るなという天皇の言葉は、今でも大切にされるべきじゃろう。国を守るためには、必要な防衛力の確保は当然として、相手に攻撃を躊躇させるだけの軍事力も備えておく必要があるのじゃ。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 5月 4日(火)19時53分27秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.4 真正面からの直言(天平宝字三年(759)五月)
 五月九日に天皇が出された勅の一部を次に述べよう。
「 … 人民の声を聴こうとしても隔てられて聞き難く、無実の罪に泣く者が居るのではないか、広く世界の隅々まで見ることは難しく、憂いに包まれた家があるのではないかと、朕はひそかに恐れている。そのためよい建言を広く取り入れ、よい策略をあまねく問い、衆智によって国を益し、多くの賢人によって人々の利をはかろうと願っている。そこで、百官の五位以上と僧侶の師位以上の者は、すべて意見を書き密封し上表文として奉り、真正面から直言し、隠したり畏れたりしてはならない。 … 」
災害などの頻発に対し、治世に問題があるのではないかと、官人や僧侶に意見を求めた勅なのじゃ。少しでも治世を安定させたいとする天皇の姿勢が見えるじゃろう。このような例は、『日本書紀』では天武九年(680)十一月、同十年十月、および『続日本紀』の養老五年(721)二月にも見られが、今回のものが最も大上段に振りかぶった感がある。

 六月二十二日の記事に、この勅に対する上奏文の例が四件記述されており、それらの意見に対する朝廷の対応も述べられておる。全部でどれほどの数の直言があったのかは分からぬが、具体的な提言があり、それに対処しておることは分かる。この時代の組織は単純で、官吏と僧侶以外は、少数の商人を除くとほとんどが農民じゃった。したがって、下手な発言をして官吏や僧侶の身分を外されると生活レベルは一気に下がることになる。真正面から直言せよといわれても、政治の問題を指摘するなどできはせんじゃろう。

 その点、今の日本は幸せじゃの。言いたいことの言い放題じゃ。マスコミなどは、言論の自由なるものを錦の御旗にかかげ、国益に反することでも平気であげつらう。愛国心とまでは言わぬが、もう少し自国を、自分の家族を、自分自身を大切にした発言をして欲しいものじゃ。国民のために直言を求める淳仁天皇の姿勢を見習って欲しいのじゃよ。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 5月 8日(土)09時15分25秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.5 公文書偽造(天平宝字三年(759)七月)
 七月十六日に、公文書偽造の記事が出ておる。すなわち、
「左京の人・中臣朝臣楫取(かじとり)が、勅書を偽造し、庶民を欺き惑わせた。このため、出羽国の柵戸(きのへ)に配流した」
柵戸は、辺境の地とくに東北地方の城柵に配され、開墾や農耕に従事する民戸じゃ。この時期、柵戸としての強制移住は、浮浪人はもとより、重罪人や前線逃亡の兵士などへの懲罰的意味もあったのじゃ。現にこの年の九月には浮浪人二千人が雄勝の柵戸にされておる。また、翌年の三月にも犯罪歴のあるおよそ五百人が雄勝の柵にうつされておる。前年十二月に完成したばかりの雄勝城の柵戸の補強が急務だったのじゃ。その一環として楫取も流されたのじゃろう。当時、勅書偽造の罪は遠流だったのじゃ。

 ところで、楫取はどのような内容の勅書を偽造したのかは分からぬが、随分と大胆なことをしたものじゃ。しかし、公文書偽造はこれだけではない。天平宝字八年(764)九月に起こった藤原仲麻呂の乱においては、太政官符を偽造して兵を徴発し、また自らの逃げ道を作ろうとしておる。延暦七年(788)五月には、官司の印を押した公文書を偽造し官庫の物品を搾取するという事件も起こっておる。公文書偽造ならびに行使じゃな。この犯人は、逮捕直前に首をくくって自殺しておる。

 公文書偽造だけではなく、公印の偽造・行使もあった。和銅四年(711)十二月に、太政官の印を偽造し位階を授けた男が流罪になっておる。また同様の事件が宝亀三年(772)十月にも起きておるのじゃ。

 現在の刑法では、詔書偽造の場合「無期または三年以上の懲役」であり、公文書偽造では「一年以上十年以下の懲役」となっておる。どの時代の罪がより厳しいかは別として、相変わらず同じような犯罪が行われておるということじゃ。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 5月11日(火)19時42分32秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.6 新羅人の送還(天平宝字三年(759)九月)
 九月四日に、天皇は次のような勅を出されたのじゃ。
「近年、我が国への帰化を希望する新羅人を乗せた船が連なるほどに来ている。賦役の苦しみを忌避せんとして、墳墓の地を捨て遠くまで来ている。彼等の心情を思うに、故郷を恋しく思わないはずがない。再三問い質して、心から帰りたいと思う者があれば、食料を支給して送還せよ」
新羅の賦役が厳しいため、我が国への帰化希望者があとを絶たなかったのじゃ。天皇は、帰化希望者を受け入れつつも、帰国したいとする者へも手を差しのべておるのじゃ。淳仁天皇の優しさが表れておるようじゃろう。

 一方で、本章3項で簡単にふれたがこの時期は藤原仲麻呂を中心に新羅征討の準備が進められておった。三ヶ月前の六月には、新羅征討のための軍事行動規程を大宰府に作らせておる。また、半月後の九月十九日には新羅征討のための船五百隻を三年以内に建造するようにとの命令が出されておるのじゃ。このような中でのこの勅じゃ。深読みすれば、帰国希望者に日本の姿勢を伝えさせ、新羅の反省を促そうとの意図と思えなくもない。しかし、知られたくない情報が伝えられる危険性もある。ワシは、単に天皇の善意から出たものじゃと考えておる。

 この勅を読むと、北朝鮮からの脱北者を思い出さんかの。故国での厳しい生活に耐えかねて、韓国や日本へより良い生活を求めて故郷を捨てた人々のことじゃ。ここまでは奈良時代と同じじゃが、この先が違う。この勅は帰りたい者は帰そうと言っておるが、今の脱北者達は国に帰れば命に関わるようじゃ。千二百五十年経って、生活レベルは向上したかもしれんが、社会生活はむしろ不自由になっておる。総体的には、やはり人間はさほど進歩しておらんということじゃろう。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 5月15日(土)09時31分16秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.7 税金逃れ(天平宝字三年(759)十二月)
 十二月四日の記事は、隠し田による脱税とその摘発を指示しておる。
「隠没田(おんもつでん)は武蔵国で九百町、備中国では二百町が存在する。そこで、その道(どう)の巡察使に命じて台帳に照らして田を調べさせる。その他の諸道の巡察使にも田を調べさせるのもこのためである。巡察使がまだその国境に到着する以前に田を隠していることを自首する者は罪を免除する」
隠田(おんでん)は、私的に開墾し土地台帳に登録されず、租を収めていない隠し田のことじゃ。隠没田は、摘発されて官に没収された隠田を言う。この記事は、隠し田の実例を挙げて、各道の巡察使に隠田の摘発を命じているわけじゃ。田を調査することは巡察使の重要な使命の一つじゃった。

 摘発した隠田の処置については、次の記事がある。
「天平宝字四年(760)十一月六日 天皇はつぎのように詔した。「 … 七道の巡察使が摘発した隠し田は、国司に命じて土地の大きさに従って、全課役を負担する正丁の土地に加えよ。もし正丁の不足する国があれば、剰余の田として、貧家に耕作させて家業を続けさせ、憂えている人の負担を軽くさせたい。これを広く遠近に伝えて、朕の心を知らせしめよ」と」

 奈良時代にすでに隠し田が存在し、かつ朝廷がその摘発に躍起になっていた様子が分かるじゃろう。厳しい租税から逃れるための庶民の知恵じゃよ。したたかな庶民のことじゃ、巡察使の摘発などで、一掃されるようなことはない。隠し田は、度重なる検地をも逃れ、明治時代まで存続する。したがって、日本全国至る所に隠し田に関する伝説や民話が残っておる。形こそ違うが、税金逃れは今に至るも続いておる。むしろ複雑かつ巧妙になっておる。凡人の金銭欲は、時代とともに増大しても、減少することなどないのじゃ。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 5月22日(土)18時52分53秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.8 新銭鋳造(天平宝字四年(760)三月)
 三月十六日に、天皇は次のような勅を出された。
「銭を使用し始めてから、すでに久しくなる。公私にわたりその必要性と利便性は、銭に勝るものはない。しかしながらこのごろ私鋳銭が大変多くなり、贋金が全体の半分にもなっている。急にこれを禁断すると、市場に混乱が起きかねない。そこで、新しい銭をつくって、旧銭と併用させることとする。願うところは、民に損が出ず、国に益があることである。その新しい銭の文字は「万年通宝」とし、新銭一を旧銭十相当とする。銀銭の文字は「大平元宝」とし、銀銭の一を新銭十相当とする。金銭の文字は「開基勝宝」とし、金銭の一を銀銭十相当とする」
このように銅銭、銀銭、金銭の三種類が新たに鋳造されたと『続日本紀』は伝えておるのじゃ。しかし、奇妙なことに銀銭については使用された痕跡がなく遺品もいまだに確認されておらんのじゃ。

 新銭の鋳造は、贋金の横行によるとしておるが、銭の鋳造権をもつ藤原仲麻呂がその権威付けのために行ったとの見方もあるのじゃ。また、新銭に旧銭の十倍の価値を持たせることによって政府の利益を図ろうとしたのではないかとも言われておる。

 それにしても流通している貨幣の半分近くが贋金とは、驚くべきことじゃろう。贋金によって巨額の利益を上げていた者どもがおったということじゃ。なにせ、第二章3項でも述べたが我が国最初の銀銭「和同開珎」が鋳造されて七ヶ月後には偽造禁止令が出ておるほどじゃから、贋金造りは最高の金儲けの手段なのじゃろう。

 現代でもスーパーノートと呼ばれる極めて精巧な偽百米ドル札が作られておる。北朝鮮国内で印刷され、北朝鮮政府の保護のもとに国外で流通させていると言われておる。違法な金儲けを国家レベルで行っているとしたら、あまりに情けない話ではないかの。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 5月25日(火)19時47分55秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.9 光明皇太后崩御(天平宝字四年(760)六月)
 六月七日に光明皇太后が崩御された。『続日本紀』が告げる薨伝からめぼしい内容を拾い出してみよう。
「皇太后は、藤原鎌足の孫で正一位・太政大臣を追贈された藤原不比等の娘である。幼くして聡明で思慮深いとの評判が高かった。皇太子だった聖武天皇に迎えられ十六歳で妃となった。つねに礼の教えに通じ、厚く仏道を崇めた。孝謙天皇と皇太子を産んだが、皇太子は二歳で夭折した。天平元年(729)皇后となった。皇太后は、仁慈に富み、志は人々の苦しみを救うことにあった。東大寺と諸国の国分寺とを創建したのは、もともとは皇太后が聖武天皇に勧めたからである。また、悲田院と施薬院を創設して、飢えと病で苦しんでいる天下の人々を治療し養った。孝謙天皇が皇位につくと、皇后宮職を紫微中台と改め、勲功のある人や賢明な人を選び抜いて中台の官人とした」
光明皇太后は、幼名を安宿媛(あすかべひめ)といい、その美しさが光り輝くようだったので光明子とも呼ばれたのじゃ。才色兼備だったということじゃな。

 この記事に書かれていない皇太后の功績は、今で言う正倉院御物じゃろう。聖武天皇の七七忌(天平勝宝八年(756)六月二十一日)に天皇の遺品を東大寺に施入し、盧舎那仏に献納されたのじゃ。その目録が、『国家珍宝帳』として残されておる。その巻頭と末尾には、皇太后の御製の願文があり、献納の意図などが知られる。その巻尾では、
「先帝が愛用された珍しい品々を眼にすると、先帝の生前が思い出されて泣き崩れてしまう。そのため、謹んで盧舎那仏に奉献したい。願わくば、この善因によって先帝の霊が安らかに往生されんことを」としておる。先帝への慕情が感じ取れるじゃろう。

 光明皇太后のお陰で、世界に類を見ない多くの珍宝が伝えられてきたのじゃ。我が国が世界に誇れる宝じゃ。毎年秋には奈良国立博物館で「正倉院展」が開かれておる。この時期ぐらいこれらの珍宝に接して、我が国の文化の素晴らしさを実感して欲しいものじゃ。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 5月29日(土)09時50分3秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.10 吉備真備と兵法(天平宝字四年(七六〇)十一月)
 十一月十日、朝廷は舎人六人を太宰府に派遣したのじゃ。大宰府の次官の吉備真備から、諸葛亮の八陳(軍陣の八つの形式)、孫子の九地篇(九種類の地形に対応した戦術)および軍営の作り方を学ばせるためじゃ。本章3項でふれたように、藤原仲麻呂は安禄山来寇に備え大宰府の防備を固めるとともに、新羅への侵攻を計画しておった。前年九月に船五百隻の建造を始めたことは本章6項で話したとおりじゃ。また、翌年一月には、新羅を征討するために四十人の少年に新羅語を習わせておる。

 見知らぬ新羅の地で戦うためには、地形に応じた戦術と陣立てを身につけておく必要があり、それを真備から習わせようとしたわけじゃ。ところで、吉備真備はどの程度兵法の知識を持っていたのじゃろうか。彼は、霊亀二年(七一六)に遣唐留学生となり、唐に赴き、天平七年(七三五)僧玄らと帰国し、多くの漢籍、武器などをもたらした。以後日本に流布した漢籍の祖本は真備がもたらしたとも伝えられておる。

 また、日本に「孫子の兵法」を伝えた人物ともいわれ、留学中は「諸葛亮の兵法」と「孫子」を深く学んだと言われておる。天平勝宝四年(七五二)遣唐副使として再び入唐し、同六年(七五四)に鑑真をともない帰国したのじゃ。太宰府次官として、国際緊張のなか大宰府の防衛策をまとめ、また怡土城構築など海岸線の防備を固めておる。ここでも兵法の知識が存分に生かされたのじゃ。さらに、天平宝字八年(七六四)九月の藤原仲麻呂の謀反に際しては、その平定に活躍した。薨伝は、「指揮や編隊は非常に優れた軍略で、賊軍は策謀に陥り、短期間で平定された」と伝えておる。真備の兵法は、単なる学問ではなく、実践においてもその真価を発揮したのじゃ。従二位・右大臣まで登りつめ、八一才で薨じた。まさに当代随一の学者であり、政治家じゃった。

 今の時代、学者の能力まで望まんから、せめて当代きっての政治家と呼ばれる人物が欲しいものじゃの。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月 1日(火)20時09分19秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.11 皇族が猟奇殺人 (天平宝字五年(761)三月)
 三月二十四日、皇族の葦原王(あしはらのおおきみ)が殺人の罪で流罪にされたのじゃ。何ともすさまじい事件なので、『続日本紀』の記事を記述してみよう。
「葦原王は、刃物で人を殺した罪によって、龍田真人の姓を与えられ、種子島に流罪となった。男女六人もまた随行させられた。葦原王は、三品の忍壁親王の孫で、従四位下の山前王の息子である。生まれつき性格が凶悪で、酒の店で遊ぶことを好んだ。ある時、御使連(みつかいのむらじ)麿と酒を飲みながら博打をしていて突然怒り出し、麿を刺し殺し、太股の肉を切り取り胸の上に置き切り刻んだ。その他の罪状も明らかになったので、太政官で審議した結果を奏上した。天皇は、葦原王が皇族であるので法のままに処罰するに忍びず、王名を除いて配流とした」
如何かな、猟奇ともいえそうな事件じゃろう。現代のバラバラ事件などと比べればまだ罪は軽いかもしれんが、このような記述が残されたのは当時としても大きな話題となったからじゃと思われる。

 刃物による殺人は、律に従えば斬刑に当たる。しかし、皇族や功績の大なる者などが罪を犯した場合は、太政官が審議した結果を天皇に奏上し、天皇の裁可を仰ぐべきことが名例律8で定められておるのじゃ。この事件では、天皇は罪一等を減じて臣籍に落として遠流の処置とされたわけじゃ。天皇の判断は、法律を越えておったのじゃ。

 事件の内容以外で、この記事は興味深い事柄を伝えておる。第一章8項で触れたことじゃが、天平勝宝六年(754)に出された双六禁止令にもかかわらず、皇族までもが相変わらず博打に関わっていたことじゃ。そしてもう一つ、平城京にはすでに酒を飲ませる店があり皇族までもが出入りしていたということじゃ。殺人事件を介して奈良朝の社会状況を伝えてくれておるのも、『続日本紀』の価値と言えるじゃろう。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月 5日(土)12時59分21秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.12 孝謙上皇の復権(天平宝字六年(762)五月)
 淳仁天皇と孝謙上皇とが仲違いをされた。そのため五月二十三日に、お二人は保良宮から平城京にお帰りになり、天皇は中宮院に、上皇は法華寺に入御されたのじゃ。そして、六月三日に上皇は、五位以上の官人を朝堂に呼び集められ、つぎのように詔されたのじゃ。「… 淳仁を今の帝として立てて年月を経る間に、朕に対し礼儀正しく従わず、卑賎の者が仇敵に対する言動の如く、言うべきでないことを言い、なすべきでないことをなした。すべてそのようなことを言われるべき朕ではない。 … 政事(まつりごと)のうち、通常の祭祀などの小事は淳仁帝が行い、賞罰などの国家の大事は朕が行うこととする。 …」
天皇と上皇の不和が決定的になったことが分かるじゃろう。その原因は、淳仁天皇が孝謙上皇に対して、「言うべきでないことを言い、なすべきでないことをなした」からなのじゃが、この詔からだけでは何のことだかさっぱり分からん。宝亀三年(772)の道鏡伝などから、上皇が道鏡を寵愛したことに対し、淳仁天皇が諫めたのではないかと考えられておるのじゃ。

 この詔からは、以後の実権は上皇に移ったように見えるが、どうもそうではないようじゃ。少なくも藤原仲麻呂の乱が起きるまでは、皇室の象徴である駅鈴と御璽が淳仁帝の御座所である中宮院にあったからじゃ。しかし、たとえ実体が伴わなかったとしてもここまで上皇が強い態度に出られたのは、政権の移動が行われ始めていたということじゃ。光明皇太后が亡くなられ仲麻呂の権力に陰りが出始める一方、道鏡という精神的支えを得た上皇が天武天皇直系の誇りを取り戻していったわけじゃよ。

 政権の交代はいつの世にもある。それが庶民を少しでも幸せにするものであって欲しいのじゃが、残念ながらこの事件も含め庶民をないがしろにしたものがほとんどなのじゃ。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月 8日(火)20時02分58秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.13 物乞い百人陸奥へ(天平宝字六年(762)十二月)
 十二月十三日に乞索児(ほがいびと)百人を陸奥国にわりつけ、土地を与えて定住させたとの記事が見られる。ホガイとは、神を祝福して幸せを招くことじゃ。乞索児は、もともとは祝詞を歌い芸を演じてまわる芸人じゃった。万葉集にも彼等の歌が二首あげられておる(3885,3886)。しかし、次第に各家の門口に立ち寿詞(ほがい)を述べて、門付けをもらうようになったのじゃ。はやく言えば、物乞い、要するに乞食じゃな。おそらく平城京近辺の物乞い百人を、柵戸(きのへ)として陸奥に移して開拓に当たらせようとしたのじゃろう。

 この時期、このような例が他にもある。天平宝字三年(759)九月には、板東の八国と北陸の四国の浮浪人二千人を雄勝の柵戸にしたとの記録もある。この時の記事および神護慶雲三年(769)正月の記事などから、実際には雄勝城と桃生城とに千人ずつ配属されたようじゃ。出来たばかりの雄勝城と桃生城とに柵戸を配し、開墾や農耕に従事させようとしたわけじゃ。二千人もの浮浪人をよく集めたものじゃとは思うが、浮浪人が東北の地で農民として定着するじゃろうか。そもそも浮浪人は、税の負担から逃れるために自ら土地を捨てたものが大半なのじゃ。故郷から遠く離れた東北に流刑者のように移されたのではなおさらじゃ。乞索児も同様じゃ。彼等はもともと門付けで生計を立てておったので、定住にはなじまないじゃろう。彼等を定住させるためには、それなりの優遇措置が必要じゃろう。神護慶雲三年(769)正月の記事では、浮浪人の定着が難しいとの陸奥国からの言上を受けて、太政官は「そこに定住しようと願う者には租税の軽減措置を与え、他の地域のものが移住したいと願うようにさせたい」と奏上し、それが許されておる。

 乞索児や浮浪人を移動させ定着させられれば、税収入が増え朝廷にとっては好都合じゃが、人は物ではないからそう思うようにはいかん。移された者にも利益を与える必要があると太政官は奏上したわけじゃ。何事によらず、自分のことだけではなく、つねに相手の立場に配慮することが大事なのじゃが、今の世の中それが出来ておらんのではないかの。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月12日(土)09時38分4秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.14 飢饉への備え(天平宝字七年(763)三月)
 三月二十四日に、諸国に命じて不動倉のカギを太政官に進上させたのじゃ。国司が交替する時、不動穀の確認が大変煩わしいからじゃ。カギがなければ確認の必要がないわけじゃ。倉の修理が必要な時や湿気で穀に損害が出る可能性がある時は、申請してカギを受け取るようにさせたのじゃ。

 不動倉とは、諸国の正倉のうち不動穀を収納する倉庫のことじゃ。不動穀は、非常時に備えて貯えておく穀で平常時には使用されんのじゃ。これに対し、経常的に使用されるのが動用穀で、動用倉に収められる。不動穀は、和銅元年(708)から蓄積が開始されておる。天平期には、田租約三十年分相当という莫大な量が蓄積されていたとの指摘もあるのじゃ。しかし、本来使用されることのない不動穀じゃが、蓄積された古い穀を入れ替えるとして使用されるようになっていく。平安時代になり律令制が崩壊していくと有名無実化されていくのじゃ。

 この時期に不動倉のカギを進上させた背景は、国司交替の煩わしさを避けることもあったのじゃろうが、朝廷にとって不動倉の重要性が増したためじゃろう。前年、三河、尾張など九カ国が旱害に襲われたのをかわきりに、京および畿内をはじめとする全国各地で飢饉が発生し、不動穀の供出が行われたのじゃ。陸奥国では疫病が流行り、食糧の供給がなされておる。年が変わった天平宝字七年二月(この記事の一月前)にも、出羽で飢饉が起きておるのじゃ。このような状況の中で、不動倉の朝廷による一括管理がおこなわれたのじゃろう。

 それにしても、飢饉などの緊急事態に備え、田租三十年相当の穀物を備蓄していたとはすごいことではないか。四十パーセント程度の日本の穀物自給率の現状を知ったら、奈良時代の太政官らは何と言うじゃろうか。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月15日(火)20時48分38秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.15 鑑真の功績(天平宝字七年(763)五月)
 五月六日、鑑真大和上が逝去された。『続日本紀』は、その卒伝を伝え功績を高く評価しておる。鑑真は、唐の揚州龍興寺の高僧であったが、留学僧の栄叡や業行らの要請を受け、我が国への渡海を決意する。五回にわたり渡海を試みるがことごとく失敗するのじゃ。この間、栄叡が死去し、それを泣き悲しんで鑑真は失明したのじゃ。天平勝宝六年(754)に遣唐副使大伴古麻呂の船に便乗し二十四人の弟子とともに渡来し、我が国に帰化した。朝廷は、鑑真を東大寺に安置し供養したのじゃ。

 鑑真は、経典の誤りを正したり、新しい医薬の知識を伝えたりしたのじゃが、なんと言っても我が国の授戒制度を確立したことが特筆に値しよう。正式な僧尼になるためには、戒律を遵守する必要がある。「戒」は、釈迦の教えに則り正しい生活をしていく上での「きまり」であり、自らに課し守るものじゃ。一方、「律」は僧尼間の誓いじゃ。律を誓うには、十人以上の正式な僧侶の前で儀式(これを授戒という)を行う必要がある。授戒を行う僧を戒師というが、当時の日本には戒師がいなかったため正式な授戒は行われず、諸仏を請じて自ら誓願を立てる自誓受戒という形式をとっておった。

 来朝した鑑真は、「今よりのち授戒伝律はもっぱら和尚に任す」という孝謙天皇の勅を受け、東大寺の大仏殿の前に臨時の戒壇を築き、聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇などに菩薩戒を授けたとされておる。また僧尼達にも三師七証の具足戒を授けたという。これが我が国最初の登壇授戒とされておるのじゃ。その後、東大寺に常設の戒壇院が設けられ、さらに筑紫観世音寺や下野薬師寺にも戒壇が設置され、地域ごとに分担した授戒制度が整備されたのじゃ。

 鑑真は、老齢をいたわって大僧正の任を解かれたのちは、唐招提寺を建立し戒律の道場とし、死ぬまで若い僧侶の育成に努めた。乱れた僧尼を矯正しようとする厳しい姿勢が敬遠され、僧綱の地位を追われたとの指摘もある。奈良時代を代表する名僧であったことは確かじゃ。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月18日(金)19時58分11秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.16 暦の変更(天平宝字七年(763)八月)
 八月十八日、従来の儀鳳歴(ぎほうれき)を廃し、大衍歴(だいえんれき)を用いることにしたのじゃ。したがって、翌天平宝字八年(764)からの暦は大衍歴が用いられておるのじゃ。ここで、内田正男編著『日本暦日原典』をもとに古代の暦を振り返ってみよう。

 『日本書紀』における「歴」の初見は、欽明天皇十四年(553)六月じゃが、我が国で暦が正式に採用されたのは持統天皇六年(692)からと考えられておる。この時は、元嘉歴と儀鳳歴とが併用されておったのじゃ。月朔には元嘉歴が、日食の予報には儀鳳歴が用いられていたと考えられておる。文武天皇の即位以降、すなわち文武元年(697)八月以降は儀鳳歴のみが用いられるようになったのじゃ。したがって、『続日本紀』の前半の記録は儀鳳歴により、天平宝字八年以降の記録は大衍歴によっておるわけじゃ。この大衍歴は、天安元年(857)まで用いられ、宣明暦へと引き継がれたのじゃ。宣明暦は貞観四年(862)から貞享元年(1684)まで八百二十三年間使用された。

 儀鳳歴は、唐で麟徳二年(665)から六十四年間使用された麟徳歴のことで、唐では儀鳳歴とは呼んでおらなんだ。編者は李淳風で、元嘉歴より計算法が進んでおったのじゃ。一方、大衍歴は、唐代暦法中の傑作といわれ、唐では開元十七年(729)から三十三年間使用された。撰者は、僧の一行じゃ。我が国には、天平七年(735)四月に遣唐留学生・吉備真備が大衍歴経一巻と大衍歴立成十二巻を献上したことによって伝えられたのじゃ。ただちに使用されたわけではなく、二十二年後の天平宝字元年(757)に大衍歴議が教科書に採用され、標記の暦法変更へとつながっていったのじゃ。

 日の出、日没、月の満ち欠けなど、暦は日常生活に密接に関連しておる。より精度の高い暦を求めて、暦法の変更がなされたわけじゃ。明治五年(1872)に太陽暦が採用されるまでは、各地方毎に地方歴が作られておった。例えば、伊豆・相模では三島大社に関係する暦師・河合家が作った三島暦が使われたのじゃ。この暦は、かな文字の暦では日本最古で、鎌倉時代まで遡るそうじゃ。地味な分野じゃが、暦の変遷も興味深いものがある。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月22日(火)19時53分42秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.17 貧者の救済(天平宝字八年(764)三月)
 三月二十二日に次のような勅が出された。
「… 近年水害や旱害が生じ人民はかなり飢え窮乏している。京の東西の市には物乞いが多い。 … 聞くところによると、弾正台(だんじょいうだい)の少疏(しょうそ)・正八位上の土師宿禰嶋村は、自分の貯えていた食料を出して、十余人の困窮者を助け養っているという。その行為は小さくてともその道義心は褒められるべきである。よって、位一階を授ける。今後、もしこのようなことがあれば、所管の官司はよく調べて実状を記録し太政官に申告せよ。一年のうちに二十人以上を救済した者には位一階を加え、五十人以上には位二階を加えよ。ただし正六位以上はこの限りではない」
本章14項でも触れたが、天平宝字六年からこの年に至るまで、日照りや洪水で飢饉は深刻なものになっていたのじゃ。このため、貧窮の人々を救済する篤志家が現れてきたのじゃ。朝廷は、奨励する意味もあって、貧民を救済した篤志家への叙位を法制化したわけじゃ。

 この勅が適用された例は、天平神護二年、宝亀二年、宝亀十一年、延暦五年、延暦九年に見られる。天平神護二年の例では五十七人を救済し、宝亀十一年の例では女性がなんと百五十八人を救済しておる。このような大規模な救済が出来るということは、一般人の中にも大きな富を有する人々が現れてきたことを意味しておる。貧富の格差が増大してきたのじゃ。

 一方で、行基による民衆への布教や大仏建立への民衆の協力などによって仏教が広く浸透し、善行や施しの意義が理解されていったのじゃろう。当時は国からの賑給(しんごう)以外は、このような個人の篤志家に頼らざるを得なかったのじゃ。現在は行政による生活保護やボランティア団体の活動などもあるが、やはり一人でも多くの個人が弱者を助けようとする心を持つことが大切なのではないかの。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月26日(土)10時02分52秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.18 藤原仲麻呂の乱(天平宝字八年(764)九月)
 九月十一日に、藤原仲麻呂の乱が起こり、『続日本紀』は次のように伝えておる。
「大師の藤原恵美朝臣押勝(藤原仲麻呂)が謀反を企てていることがはっきりと漏れてきた。高野天皇(称徳天皇)は少納言の山村王を使わして、中宮院(淳仁天皇の御所)の駅鈴と内印(天皇御璽)を回収させた。押勝はこれを聞いて、息子の訓儒麻呂(くずまろ)らに待ち受けさせて、これを奪わせた。高野天皇は、授刀少尉の坂上苅田麻呂…らを遣わし、訓儒麻呂らを射殺させた。 … この夜、押勝は逃走し、官軍はこれを追討した」
藤原仲麻呂の乱は、天皇御璽などの激しい争奪戦によって始められたのじゃ。初戦に敗れた仲麻呂は一族を率いて瀬田を経て近江国庁に入ろうとするが、瀬田橋が焼き落とされ高嶋郡に逃走する。仲麻呂は、塩焼王を偽帝に立てて越前国に逃れようとするが、愛発(あらち)関越えも果たせず、勝野の鬼江で惨殺され、十八日にその首が京に送られたのじゃ。

 九月二十日に、乱の平定が宣言されるとともに、孝謙上皇が再び政務を執ることをおよび、道鏡を大臣禅師とすることを宣言したのじゃ。そして、十月九日に淳仁天皇の帝位を廃し、大炊親王(おおいのみこ)として淡路国に流罪とした。そして、上皇が重祚して称徳天皇が誕生したというわけじゃ。仲麻呂の時代が終わり、道鏡の時代が始まったのじゃ。

 藤原仲麻呂の乱は、内印の争奪戦から始まったわけじゃが、内印は皇権の発動に不可欠であり皇位の象徴でもある。その内印が中宮院にあったということは、本章12項でも触れたが事実上淳仁天皇が皇権を掌握していたわけじゃ。それを孝謙上皇が奪取したわけじゃよ。したがって、孝謙上皇によるクーデターとの見方も出来るのじゃ。見事な内印の奪取とその後の仲麻呂討伐には、吉備真備の功績が大であったと言われておる。真備は仲麻呂が逃走した九月十一日に正四位下から従三位に叙せられておる。

 孝謙上皇を真備や藤原永手などの反仲麻呂派が支えたが、仲麻呂を支える有能な人材はおらなんだ。仲麻呂は稀に見る優秀な人物であったが、惜しむらくは独善的であり協調性に欠けておったのじゃろう。今の世でもそのような人物は見かけられるのではないかの。


◆◆◆ 奈良時代にこんなことが−一言主大神は語る 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2010年 6月29日(火)19時52分55秒 ◆◆◆

6.淳仁天皇の御代(758〜764)

6.19 淳仁天皇 淡路に流罪(天平宝字八年(764)十月)
 十月九日、称徳天皇の命を受け兵部卿の和気王らは兵士数百人を率いて淳仁帝の御座所・中宮院を取り囲んだのじゃ。急なことで帝は身支度が調っていなかったのじゃが、和気王らは急ぐよう急きたてた。数人の護衛者は逃げ去って従う者も無く、僅かに母と親族の二、三人と共に歩いて図書寮の西北の場所に到着したのじゃ。ここで、淳仁帝を帝の位から退け、親王の位を与えて淡路国の公として退けるとの旨の詔を伝えたのじゃ。詔を伝えると、和気王らは淡路公(淳仁帝)とその母を連れて小子門(ちいさこべもん)にいたり、道路に留めていた鞍付きの馬に乗せたのじゃ。右兵衛督・藤原蔵下(くらじ)麻呂が、淡路の配所に護送して一つの院に幽閉したのじゃ。このため、淳仁帝は淡路廃帝とも呼ばれておる。かくして、淳仁帝は政治の場から完全に追放されてしまったのじゃ。

 この日、称徳天皇は次のような勅を出されておる。
「淡路国を大炊(おおい)親王に与える。淡路国の官物・調・庸などの類は大炊親王の裁量に任せる。ただし、官稲出挙(すいこ)の利稲は、従来通り国衙(こくが)財政にあてる」
これで、一応生活の心配はないわけじゃが、幽閉の身であることに変わりはない。一年後の天平神護元年(765)十月二十二日に、幽閉された憤りに耐えきれず、垣根を越えて逃亡を企てるのじゃが、引き戻されてしまった。その翌日、淡路廃帝は命を落とされたのじゃ。薨年は三十二歳じゃった。

 すべての人々が淡路廃帝を見捨てたわけではない。「多くの人が商人と偽って淡路に向かっていると聞く」(天平神護元年二月)とか、「淡路公を連れてきて再び帝として立て、天下を治めさせたいと思っている人もいるらしい」(天平神護元年三月)などの称徳天皇の言葉があるのじゃ。道鏡を寵愛する称徳天皇より、淳仁天皇のほうが望ましいと考える人々が少なからずあったということじゃ。淡路廃帝の死は、自殺の可能性が高いが、何らかの力が働いたとも考えられよう。いずれにせよ、流罪になった最初の天皇であり、仲麻呂や道鏡などの政治家に翻弄された短い一生じゃった。


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