■□■□■ 日露戦争時の無電望楼折衝における外務省の愚かさ(オロモルフ) ■□■□■


◆◆◆ 1.まえがき ◆◆◆

 日露戦争の時代の外務省には、小村寿太郎のような愛国の有能外交官がいて、日本の国益のために活躍したことが知られていますが、外務省そのものの体質には、すでにあの時代から、現在の「事勿れ体質」の萌芽が見られたようです。
 こういう問題にはまったくの素人ですが、無線技術の歴史を調べている間に知ったことを、以下に記します。


◆◆◆ 2.無電望楼の緊急性 ◆◆◆

 日露戦争の海戦において、日本人が製造した無電装置が大活躍し、日本海海戦などを勝利に導いたことは、(年輩者には)よく知られています。
 日本海軍が無電を装備するに至った経緯を簡単に記すと、以下のとおりです。

 日露戦争の時代は、マルコーニが無電を発明してまもないころで、世界のどの軍隊も、無電の装備には未着手でした。
 そのようなとき、天才的な先見性をもった海軍の秋山眞之(日露戦争時の旗艦三笠の参謀)が
「無電の実用化と大陸半島沿岸における無電望楼*の建設」
 ――を軍首脳に提案しました。
 やはり天才だった山本権兵衛海軍大臣(のちの総理)は、この若い士官の提案の重要性をいち早く見抜き、号令をかけました。

 はじめはマルコーニの無電装置を購入する計画もあったようですが、あまりにも高額だったので中止し、必死で自力開発を急ぎました。
 技術を受け持って努力したのは、最初期は学歴の無い天才技術者・松代松之助で、本格化してからは、木村駿吉でした。

 木村駿吉は、勝海舟や福澤諭吉をのせた咸臨丸の最高責任者だった木村摂津守の次男で、東大理学部の大学院を出てアメリカのイエール大で博士号PhDを得た学者でした。
 もともとは理論家でしたが、国家存亡の危機であるため、好きな理論を封印して、戦争時に素人でも使用可能な、壊れにくく扱いやすい無電装置の開発に全力を注ぎ、かろうじて間に合わせました。

[当時の日本で無電の技術を経験している人は一人もおらず、紙の上の知識を多少は持っている人もたかだか数人でしたから、じつによくやったと思いますし、開発を提案した秋山眞之の達識も印象的です]

 軍では、この無電装置を軍艦に装備するとともに、全国に望楼をつくってそこに設置する計画をたて、大車輪で実行に移しました。

 しかし、ロシアの艦隊を迎え撃つためには、日本の沿岸だけの望楼では不十分です。
 東シナ海や日本海での海戦に備えるためには、どうしても、朝鮮半島やシナ大陸の沿岸に無電望楼をつくる必要がありました。
 陸海軍はこのことに必死になりました。

[以下は、田丸直吉『日本海軍エレクトロニクス秘史』からの抜粋です。田丸氏は、戦中にドイツの技術情報を日本に知らせるために、潜水艦で密かにドイツをめざして奇跡的にドイツに到着し、奇跡的にドイツの敗戦を生き抜き、戦後も活躍しました。この秘史は、ドイツに行く前に海軍の日露戦争時の史料を見る機会があって、その折りにメモした極秘のノートを元にしているそうです]

[*:当時は無線による電話はまったく未開拓で、無線電信(無電)がやっと出来るかどうかという時代でした]


◆◆◆ 3.陸海軍の外務省への要望 ◆◆◆

 そこで陸海軍は、外務省にあてて文書を出し、大陸の清国政府と半島の韓国政府に、無電望楼用の土地借用の折衝を依頼しました。

 すなわち、

『清国南部において』
一、福建省沿岸の重要なる市邑及開港場等に電信局設置並之を設置すへき土地の使用権。
一、福州より福建省内重要なる市邑等に電信局設置並之を設置すへき土地の使用権。

『韓国において』
一、沿岸に於ける重要なる市邑及開港場等に電信局設置並之を設置すへき土地の使用権。

 等を取得する件の閣議請議案を提出、直ちに交渉を開始することに閣議の決定を見た。

 ・・・というわけで、下記のような総理大臣あての文書、および外務大臣あての文書が出されました。


◆◆◆ 4.総理大臣宛の文書 ◆◆◆

『 官房第3656号ノ2
 近来無線電信の研究頗る其の歩を進め之を軍事上其の他に応用するに其の効力頗る大なるものあり、殊に之を清国南部及韓国沿岸と帝国領土及艦船との間に設置するを得は、平時は勿論戦時と謂通信を確実敏活ならしめ軍事上其の他に便益を与ふること至大なるへきに付諸外国に先んし前記の清国南部及韓国沿岸に無線電信交換所を設置するの特権を帝国政府に取得し置かんこと最必要と認め茲に閣議を請ふ
   明治32年9月4日
                       海軍大臣    山本権兵衛
                       陸軍大臣 子爵 桂  太郎
  内閣総理大臣 侯爵 山縣有朋 殿 』


◆◆◆ 5.外務大臣宛の文書 ◆◆◆

『 官房機密第219号ノ2
 今般清国南部及韓国沿岸に無線電信交換所を設置するの特権を帝国政府に取得し置度件に関し請議に及ひ置候処別紙甲号写の通閣議決定相成候に付ては別紙乙号要領に依り右特権取得方可然御取計相成度此段及御照会候也
   明治32年11月14日
                       海軍大臣    山本権兵衛
                       陸軍大臣 子爵 桂  太郎
  外務大臣 子爵 青木周蔵 殿
 別紙甲号(省略)
 別紙乙号(交換所設置の特権を取得し度線路。以下3.と同一内容)


◆◆◆ 6.担当窓口の先見性の無さ ◆◆◆

 この閣議決定に基づく訓令に対しまして、清国特命全権公使男爵西徳二郎は、外務大臣宛に、以下のような【恐るべき意見書】を送ってきたそうです。
 要約いたします。

〈1〉無線電信は未だ実験段階なので、直ちに清国に設置するのは軽挙である。
〈2〉しかも陸上では有線電信の方が良い。
〈3〉清国が拒絶するのは必然なので、余計なトラブルを起こす必要はない。
〈4〉鉄道敷設のような問題ならまだしも、日本の利益にならない問題で清国の心証を害するのは得策ではない。

 田丸氏は、この窓口の態度に対して、
「当時ロシアの侵略意図は察知されており、バルチック艦隊の回航に備えて海軍が万全の対策をとらねばならなかったが、出先機関にはそれを察知する能力が無かったらしい」
 ――と記しています。

 日本そのものが死ぬか生きるかの瀬戸際だったというのに、そのあまりの呑気さに唖然とします。
 田丸氏は書いておりませんが、海軍は激怒した模様です。
 そして、次節のように、もっと具体的に15の地点を指示して、さらなる折衝を強く依頼しました。

[当時の外務大臣の青木周蔵は、例のペルー人質事件のとき、白髪傲慢大使と言われた人の曾祖父です。司馬遼太郎は青木周蔵のことを、「何をしたのかよく分からない人物」と批判しています]


◆◆◆ 7.具体的に指示した15の地点 ◆◆◆

 福州市街若は其の附近
 五虎島若は羅星島錨地附近
 東丈島
 回船島
 烏拉島
 ピラミッド角
 チンモ角
 ケモイ島南東部
 廈門市街若は其の附近
 チャペル島
 タオンヒール
 ジョカコ角
 東引島若は蘭嶼
 三都島南東部
 ヒューヤン島

[これらの場所がどこかについては、知識がありませんが、バルチック艦隊が通りそうな沿岸であることは確かです]

 海軍としては、これらを大使に書き送ることによって、ぜひ折衝するよう圧力をかけたのでしょう。
 しかし、ダメでした。


◆◆◆ 8.惨めだった清国との折衝結果 ◆◆◆

 その後、明治33年の義和団の事件などがあって折衝が遅れましたが、それでも形式的には申し入れたようです。
 しかし、言を左右するなど、いいかげんな返事しか得られず、体よく拒絶されてしまったそうです。

 田丸氏は、つぎのように評しています。
「日清戦争に勝利を収めた後でもあり、もっと有能な外交官を得ておれば、その後大きな影響があったものをと惜しまれる」

 まったくその通りです。
 肝心の折衝担当の公使が「最初からやる気が無い」のですから、うまくいく筈はありません。
[現在中国や韓国にいる外交官と同じですね]
 この外務官僚のだらしのなさによりまして、海軍は余計な苦労をしなければなりませんでした。


◆◆◆ 9.どうしようもなかった韓国との折衝結果 ◆◆◆

 他方韓国で折衝にあたった特命全権公使林権助は、ある程度は折衝したらしいのですが、適当な口実で拒絶されてしまいました。
 そこで借地を釜山にしぼって申し入れましたが、これも受諾されず。
 結局、
甲:軍事力を背景に強硬に申し入れる。
乙:折衝を継続しながら、事実上は建設してしまう。
 ――の二案しかないだろう、という結論になり、双方ともに不可能だとして、韓国への無電望楼建設も消滅してしまいました。


◆◆◆ 10.結局、日露戦争ではどうしたのか ◆◆◆

 清国も韓国も、要人たちは、ロシアに籠絡されてしまって、これが極東が植民地になってしまうかどうか(シナ、朝鮮半島、日本の人たちがロシアの奴隷になって消滅してしまうかどうか)の瀬戸際であるとの認識も責任感もなく、日本ただ一国が多大な犠牲を払って戦い抜きました。
 そして、朝鮮半島が戦場になってから、いくつかの半島沿岸の島に必死で無電望楼を建設して、ロシア艦隊との戦いに活用しました。
 一方シナの大陸沿岸の方は、ほとんど建設できずに終わったようです。

 しかしそれでも、日本海に浮かぶ日韓双方の小島などに多くの無電望楼を作り、日本海軍はそれらを最大限に活用して、ロシア艦隊を撃滅しました。

[有名な竹島にも設置されました。そのための竹島調査が多くなされており、当時かなりの数の日本人が居住していたことが、日露戦史に記されています。完全に日本人が活躍していた島であり、韓国とは無関係でした。オロモルフはこの時代の日本海軍による竹島調査資料を防衛庁戦史室で発見しまして、諸方面にコピーして送りましたが、その価値を分かってくださって丁寧な礼状をくださったのは、中村粲先生だけでした]

[無電望楼は目視によって敵情を探り、さらに無電によって敵の情報をキャッチし、味方の軍艦や国内の司令中枢と連絡しますが、ほとんどの無電望楼は国内要所と有線で連結されました。近くは有線電話、遠方は有線電信です。この有線網によって、必要な情報が東京の大本営や軍令部に送られました。島の場合にはこの有線網は海底ケーブルでした。現在のように無線による自在な通信は出来ませんでした。また暗号も未発達でした。なお日露戦争ではほとんどの分野で日本の技術が上でしたが、暗号の解読はロシアが上だったようです(というよりも日本人が苦手とする分野です)]


◆◆◆ 11.むすび ◆◆◆

 以上は、先見性がなく事勿れ主義で国益を損ねる外務省の体質は日露戦争の前からあったのだ――という近代史の事例です。

 南京大虐殺の記念館が無数にできても抗議ひとつしない日本外務省の萌芽を見る思いです。

『国際通信の日本史』(東海大学)にも書きましたが、戦前戦中も、ロシアを刺激したくない――という外務省の弱腰が、日本の国際通信の植民地状態からの離脱を大幅に遅らせたと思います。

[戦争になって外務省が忙しくて通信関係の対外折衝に出席しなくなった時代になって、はじめて、遞信省の対外折衝がうまくいくようになった――という皮肉な話が、遞信省側の史料に記録されています]

 この事件から多くの教訓が得られますが、おそらく川口外務大臣などは、まったく無関心だと思います。

 オロモルフが何か言っても、ごまめの歯ぎしりです。
 情けない!


[日本の名誉のために付記。
 外務官僚ではありませんが、アメリカ世論を日本の味方につけるために、獅子奮迅の活躍をした人物がいました。金子堅太郎や高峰譲吉です。このような人物の活躍が日本を救いました。戦費調達のために心血を注いだ高橋是清もそうです]


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