■□■□■ 久米邦武『神道は祭天の古俗』(オロモルフ)■□■□■

 テキスト――

甲:『史學會雜誌』
 第二編二十三号、二十四号、二十五号(明治二十四年十月、十一月、十二月)

乙:『史海』
 第八巻(明治二十五年一月)

 甲と乙には微妙な違いがありますが、後で刊行された乙を基本にしました。
 原文には傍点、返り点、振り仮名が多数ありますが、インターネットでは出せないので略しました。
 久米の使う漢字には一般には使われない難しい字体があり、また俗字も多くあります。これらは最大限そのまま入力しましたが、不可能なものは同じ意味の字体を使いました。
 パソコンによっては出ないものもあると思いますので、?となってしまう漢字のうしろには( )を入れて説明をつけました。
 たとえば、“評(言+平)”、“岳(丘/山)”など便宜的な方法で説明しました。
 また変体仮名もかなりありますが、通常の仮名に直しました。

 最初と最後は『史海』編集者(鼎軒)の評です。
 本文中に一行空けはまったくありませんが、見やすくするために節の変わり目は一行空けました。

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久米邦武君の史學に於ける古人未發の意見實に多し、而して余は此篇に於て最も敬服せり、故に既に史學會雑誌に掲載せしものなりと雖も君に請ひて左に之を掲載し以て讀者の瀏覧に供す、
余は此篇を讀み、私に我邦現今の或る神道熱信家は決して緘黙すべき場合にあらざるを思ふ、若し彼等にして尚ほ緘黙せは、余は彼等は全く閉口したるものと見做さゝるべからず、
               鼎  軒

○神道は祭天の古俗

  (文科大學教授)久米邦武
日本は敬神崇佛の國なり。國史は其中より發達したるに。是迄の歴史家は其沿革を稽ふることを忽にしたる故に。事の淵底に究め至らぬを免れず。因て爰に其概略を論ずべし。
敬神は日本固有の風俗なり。中比に佛教を外國より傳へ。合せて政道の基本となりたり。其は聖徳太子の憲法に始まり。大化の令に定まる。大旨は格の孝謙帝ノ詔に。(神護二年七月)、〔攘災招福必憑幽冥。敬神尊佛清淨爲先。云云〕とあるにて見るへし。又桓武帝の詔に。(延暦二十五年正月)、〔攘災殖福佛教尤勝。誘善利生無如斯道〕とあるにて。神佛の別を見るべし。葢神道は宗教に非ず。故に誘善利生の旨なし。只天を祭り。攘災招福の祓を爲すまでなれば。佛教と竝行はれて少しも相戻らす。故に敬神崇佛を王政の基本となして。今日に至りたる習俗は。臣民に結ひ着て。堅固なる國體となれり。然れども神の事には。迷溺したる謬説の多きものなれば。神道佛教儒學に偏信の意念を去りて。公正に考へるは。史學の責任なるべし。因て爰に現在の國民。敬神の結習より。遡りて東洋祭天の古俗を尋究し。朝廷の大典たる。新嘗祭・神嘗祭・大嘗會の起り。伊勢内外宮・及び賢所は。みな祭天の宮にして。諸神社に鏡玉劍を神禮に象る由來。神道には地祇人鬼を崇拜する習俗なく。死穢・諸穢を忌避て潔癖を生じ。祓除を科する法より?(幣の下が犬)風を生じ。利害交ありて。人智の發達するに從ひ。儒學・佛教・陰陽道等を傳て。其?(缶+欠)乏を補完矯正するの必要に論及し。千餘百年來敬神崇佛の國となりて。今に至るまで。敬神の道は崇佛と並行はれて。隆替なきことの考を述ん。

   國民敬神の結習
外面より見れば。日本は崇佛國と化したる樣なれども。さにあらざることは。今にも都鄙人民の結習を察すべし。例へば東京の貴賤は。某區に山王祭をなし。某區に神田祭をなし。某は天神。某は稻荷と。各氏神に祭禮をなし。是を毎年の大典となせり。其區は今の行政區に非ず。古農村にてありし時の村區に因るものなり。今は都會となりて。田地なければ。祭禮の本旨を證するに足らず。いづくの田舎も。村々に皆氏神ありて祭禮をなすは。全國に通じたる風俗なり。其氏神の區域は。今の村區と異なる所も多く。祭禮の習例も。各土に少異あれど。大抵新穀の登りたるを以て。濁酒を釀し。蒸飯を炊きて。神酒供饌となし。各其地の古俗によりて祭る。因て供日とも稱す。濁酒蒸飯は古時の生活の?(≒状)にて。祭禮は報本の意を表して。神に福を?(示+壽)るなり。是を衆民の毎年天に事ふる務となし。而して水旱風雨疾病等の節々には。攘災の?(示+壽)祭をなす。又其日々の勤むる所を見るべし。早旦に旅行すれば。野村も裏店も男女となく。朝起れは河流井水に浣嗽し畢て?(示+壽)拜をなす。拍手の聲の聞へぬ里はなし。是神代よりの景象なり。細に其?(示+壽)拜の?(≒状)を觀れば。合掌するもあり。南無の聲聞ゆるもあり。或は上下四方を拜し。或は出日の方に向ふ。立もあり。跪もありて。崇佛にも似たり。或は回教拜日の民かとも誤らる。其は?(示+壽)拜を教ふるもの流々義々なりしによる(佛教の正式を教へられたる者は佛壇に向ふ)此に却て眞率の誠を表せり。實は皆天に?(示+壽)りて。福を求むる所にて。往古の祓禊祭天の遺俗なり。日本人の日本人たる眞面目なり。されば國俗一般に清潔を喜びて。穢を嫌ふこと甚し。支那朝鮮の諸国とは。大に習俗を異にす。泰西人も東洋潔癖の國と稱せり。其潔癖は。敬神より來りたれば。彼衛生の清潔とは異なる所あれども。迚も角も美風なり。支那朝鮮も。厥始は祓除祭天の俗より發達したれど。早く時世の推遷につれて本を失ひ。因て國體も變化して。動搖不定の國域となりたるに。日本のみは建國の初に天神の裔を日嗣の君と仰ぎてより。固く古俗を失はずして。其下に國をなしたれば。今に天子は常日に高御座の禮拜を怠り給はず。新穀登れば。神嘗・新嘗祭を行はせられ。毎年大祭日として。全国に之を祝ひ。御一代に一度の大嘗會を行はせらる。是神道の最重最古なる典なり。雲上の至尊より。野村裏店の愚民まで。毎日毎年天に事へ本に報ふの勤めは一規にして。勸めずして存し。令せずして行はれ君臣上下一體となりて結合したるは國體の堅固なる所にて。思へば涙の出る程なり。衆人の皆稱する。萬代一系の皇統を奉じ。萬國に卓越したる國なりとは。かゝる美俗の全國に感染し。廢らぬ故に非ずや。實に國史に於て緊要なる節々なり。

  東洋祭天の起り
萬國の發達を概見するに。祭天は人類襁褓の世に於て。單純なる思想より起りたる事なるべし。葢人類の始めは。柳宗元の所謂る。草木榛々鹿豕?(≒貔)々なる山野に群居をなし。天然の産物を假りて生活を遂れば。其恩恵の有難くして。寒暑風雨の變化の怖しさに。必ず彼蒼々たる天には此世を主宰する方のましまして。我々に禍福を降し給ふならんと信したる。觀念の中より。神といふ者を想像し出して。崇拜をなし。攘災招福を?(示+壽)り。年々無事に需用の物を収穫すれは。報本の祭をなすことを始たるなり。何國にても神てふものを推究むれば天なり。天神なり。日本にてかみてふ語は。神・上・長・頭・髪に通用す。皆上に戴く者なり。其神を指定めて。日本にては天御中主といふ。支那にては皇天上帝といひ。印度にて天堂といひ。眞如ともいひ。歐米にてゴッドといふ。皆同義なれども。祭天報本の風俗は各異なるのみ。此の如く神は上古人の想像より出たるものなれば。人智のやゝ發達して。風俗の厖雜なるに從ひ。其種類搗スし。終には際限もなく。牛鬼蛇神蟲豸まて敬拜するに至る國もあれど。是は次第に枝葉を追ひたるにて。推究むれば。天神より地祇を出し。神祇より人鬼を出し。終に物怪を信するに至りたるのみ。是も人智發達の初期に於て。多少一度は免れざる事なるべし。印度の人智は早く發達し。六佛出てゝ三生因果の説を始め。二千五百年前に釋迦出て。其意を推闡して衆に説教したれば。信徒より天に代る世の救主と仰かれたり。釋迦とは能仁の義にて。徳充ち道備はりて萬物を濟度するの義と云。是宗教の起りなり。其後六百餘年を經て。猶太に耶蘇出て。亦天降の救主と仰がる。思ふに麥西も耶蘇も。印度釋教の西に流傳して。別派の宗教をなしたるものなるべし。釋教の東に流傳したるも。耶蘇降生の前後よりの事なり。日本の神道は。元來其以前に早くあることにて。救主もなし。三生因果の教もなし。只祭天報本より起りて俗をなし。天神の子を國帝に奉し。中臣忌部等の貴族之を佐け。太占迎神等の法を傳へ。神慮を承けて事を裁制し。祭政一致の治をなしたるは、是國體の定まりて皇統の因て起る根源なり。其時まては單純なる祭天にて。地祇てふものもなし。書紀推古帝の時に。〔新羅任那二國王遣使奉表之曰。天上有神。地有天皇除此二神。何亦有畏耶〕とあるにて。我國體を知るべし。亦神道を知るべし。
釋迦も孔子も耶蘇も。祭天の俗より生れ出たれば。我國體に戻ることなし。神道にも戻るなし。爰に東洋一般に行はれたる。上古祭天の俗を略陳せん。支那の人智は最早く發達し。易傳に(孔子の著)〔庖犧氏仰觀象于天俯察法于地視鳥獣之文與地之宜始畫八卦〕と。是彼邦哲理の發りにて。今を距る少くも五千年前にあり。思ふに其時日本も韓土も。巳に人民は群居をなして。亦祭天の俗をなしたるならん。其後五六百年を經たる比は。彼は少昊氏の衰世となりて。祭天の俗紊亂したり。呂刑に〔民興胥漸。泯々?(林/分)々罔中于信。以覆詛盟(盟約を守らぬを云、)虐威庶戮(惨酷の刑を行ふを云、)方告無辜于上帝。上帝監民罔有馨香。徳刑發聞惟腥。皇帝哀矜庶戮之不辜。報虐以威。乃命重黎、絶地天通。罔有降格。云云〕とあり。國語に楚觀射父之を解釋して。(原文長ければ、漢書郊祀志に引たるを擧、)少昊氏之衰也。九黎亂徳。民神雜糅不可方物。家爲巫史。烝享無度。?(シ+賣)齊盟而神不?(≒盆+蜀)。嘉生不降禍災薦臻?(端の右+頁)?(王+頁)受之。乃命南正重司天。以屬天。命火正黎司地以屬地云云。是謂絶地天通〕といへり。是厥初は純粋に天を畏敬したる人民も。經濟に慣るゝに從ひ。漸神を慢る有様にて。是までは惟一の天神を崇拜したることを證せらる。然るにやがて重は天を郊し。黎は地を祀ると言做し。天神地祇を郊祀し。皇天后土とて。天を父とし地を母とすること始まり。三四百年を經て。虞書に〔類于上帝?(煙の火→示)于六宗。望秩于山川。?(ぎょうにんべん+扁)于群神〕(舜典)と見ゆ。巳に地を祀る。故に日月星辰風伯雨師も祭ることとなる。山川を祀る。故に丘陵墳衍も祀ることとなりて。多神崇拜の俗となりたり。されば人鬼の崇拜も亦起れり。虞書に〔歸格于藝祖〕と。夏書に〔用命賞于祖。不用命戮于社〕(甘誓)とあり。祖とは帝宮の内に明堂を建て。國祖を天に配して祭る。故に祖と稱す。實は祭天の堂なり。社は地祇なり。漢郊祀志に。〔自共工氏覇九州。其子曰勾龍。能平水土。死爲社祠。有烈山氏王天下。其子曰柱能殖百穀。死爲稷祠。故郊祀社稷所從來尚矣。云云。湯伐桀。欲遷夏社。不可。作夏社。(書名)乃遷烈山子柱。而以周棄代爲稷祠〕とあり。因て後人社稷は人鬼を祭るかの疑問起れり。孝經援神契に〔社者土地之主也。稷者五稷之長也〕と見えたれは。後漢の大儒鄭玄〔古者官有大功。則配食其神。故勾龍配食於社。棄配於稷〕と説きて。略一定の説となりたり。されば祖は祭天の堂にて。社は土地の主なれど。頓て習例變りて。宗廟社稷といひ。鬼神といふ語も起り。宗廟には國帝の祖先を祭り。?(示+帝)?(示+合)とて重き祭典あり。是は人鬼なり。社稷には春秋兩度の祭をなし。郡縣にも社稷を置く。村々にも春秋の社祭をなす。猶我供日の如し。即社日は其日なり。唐詩に桑柘影斜秋社散。家々扶得醉人歸とあるにて。其風俗を想像すべし。然れども彼は地祇なり。我供日は天神なり。其主とする神異なり。此く日本支那の俗は相似たれども。實は相異なれば。神祇の事は殊に根元を澄し。紛れぬ樣に考へんを要す。

   新嘗祭神嘗祭大嘗祭
日本の上古は。彼禹貢の冀州に島夷皮服と。楊州に島夷卉服と見ゆ。冀州の島夷は。韓人の皮を以て交通したるにて。楊州の島夷は。倭人の麻穀の木棉を以て交通したるなり。此く四千年前より。三土互に交通したれば。風俗も交互に輸入したらん。然れども倭韓は尚神祇を分つことはなく。純に天を祭れり。又一千年を經て。周初に至り。黒龍江の山野に於て。最_獰文盲と稱したる粛愼さへも。石?(奴/石)?(木+苦)矢を以て交通したる程なれば。倭韓の發達は。彼少昊氏衰世の如きを經過する時代ならん。天皇繼統の世數を人世の通率にて推算すれば。天祖の降跡は二千四五百年前と思はる。周の中葉なり。此時巳に天兒屋命(神産靈の裔)太玉命(高産靈の裔)の二氏。中臣部・忌部を分掌し。中臣は太占・祓除の法を傳へて神に事へ。忌部は齋物を調へて民を率うるは。彼重黎の天地を分掌したるに甚相似たり。其祭天の大典は新嘗祭なり。新嘗祭は天照大神を祭るに非す、天を祭る古典なり其は神代巻に。〔素戔鳴尊見天照大神新嘗時。則陰放屎於新宮。又見天照大神方織神衣居齋服殿。則剥天斑駒。穿殿甍而投納云云〕と見ゆ。是大神窟戸籠りの原因にて、天照大神の親ら新嘗祭神衣祭を行はせられたるにて明證となすべし。又觸穢不淨を忌むの風俗も。みな此時代以前より早くあることなり。且新嘗祭は支那にもあり。爾雅釋天に。〔春祭曰祠。夏祭曰?(示+勺)。秋祭曰嘗。冬祭曰蒸〕(王制も畧同し、周禮は異なり、取らす、)董仲舒は〔祠者以正月始食韮也。?(示+勺)者以四月食麥也。嘗者以七月嘗黍稷也。蒸者以十月進初稻也〕と説き。郭璞は嘗を嘗新穀也と。蒸を進品物也と注す。然れば嘗蒸は同死く新穀を進むる祭にて。我神嘗新嘗兩祭に似たり。我九月に神嘗。十一月に新嘗と分つは。何代比より例なるや。紀の天武五年九月に。〔神官奏曰。爲新嘗卜國郡〕と。十月に〔發幣帛於相新嘗諸神祇〕とあるは。神嘗例幣のことにて。〔十一月乙丑。以新嘗事不告朔〕とある。是を史に見えたる始めとす。
新嘗祭は東洋の古俗にて。韓土も皆然り。後漢書(魏志も同し)に。高勾驪は〔以十月祭天。國中大會。名曰東盟。〕とあり。東盟は東明にて。豐明節會のことならん。?(シ+歳)は〔常用十月祭天。飲酒歌舞。名之爲舞王〕とあり。馬韓は〔常以五月田竟(魏志は下種訖に作る)祭鬼神。晝夜群聚歌舞。輙數十人相随。踏地爲節。十月農功畢亦如之〕とあれば。夏冬兩度の大祭をなし。皆節會を行ふなり。夫餘ハ〔以臘月祭天。大會連日。飲食歌舞名曰迎鼓〕とありて。此國のみ十二月なれど。其趣は同し。我國の嘗祭も。固り兩度行はるゝには非す。式に九月の神嘗ハ伊勢神宮の條に記し。十月の新嘗ハ四時祭の條に記す。神祇令の義解に。〔神嘗祭。謂神衣祭日便即祭之〕とありて。伊勢神宮に於て擧行せらる。天皇ハ神祇官に行幸ありて。奉幣使を發せらるゝまでなり。(前の天武紀の文を見よ)江家次第に。〔天皇宣常毛奉留長月乃神嘗乃御幣會。汝中臣能申天奉禮。中臣微音稱唯退〕とあり。是を例幣と稱す。十一月の新嘗こそ。令に下卯大嘗祭とありて。天皇神祇官(正式は中和院)に於て親祭ある。職員令義解に〔謂嘗新穀以祭神祇也。朝者諸神之相嘗祭。夕者供新穀於至尊也〕とあり。祭畢て。豐明節會を行はる。格の宇多天皇の詔に。(寛平五年三月)〔二月祈年。六月十二月月次。十一月新嘗等。國家之大事也。欲歳災不起。時令順度。預此祭神。京畿九國大小通計五百五十八社〕とあるにて。其大要を知るべし。古は新嘗祭を大嘗ともいひたれど。令に〔凡天皇即位。惣祭天神地祇。〕又〔凡大嘗者。毎世一年。國司行事〕とある。天子一代一度の大祭に混同するを以て。毎年の嘗を新嘗といふことになりぬ。大嘗會は神祇官に悠紀主基兩神殿を新造せられ。天子天之羽衣をめして親祭ある。其は二條良基公假名文の文和大嘗會記あり。就て其概略を見るへし。今上は明治四年十一月に擧行せられたり。是は世に記臆したる人も多かるべし。余は岩倉全権大使に随ひ米國へ航する船中に在りしに。其日米國公使「デロンク」氏。天皇陛下一代一度の大祭日とて。祝辭を演し。祝杯を擧たり。此の如く新嘗大嘗祭は大神宮も親察し給へる古典にて。皇統と共に繼續し。神道に於て最重の祭なれハ。臣民は皆知らざるべからず。

   太神宮も天を祭る
伊勢太神宮には。三神器の鏡劔を(後に劍は尾張熱田太神宮)齋奉ること。普く世の知所なるべし。此鏡は。古事記に。太神宮の詔を記して。專爲我御鏡而如拜吾前伊都岐奉〕とあれば。俗に太神を祠ると思ふも無理ならねど。是も實は天を祭るなり。我御魂の字に注意すべし。此に適例あり。大三輪社は。書紀一書に〔大己貴神曰唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂、今欲何處住耶。對曰。吾欲住於日本國之三諸山。故即營宮彼處。使就而居。大三輪神之神也〕と見えて。大己貴神の自ら幸魂奇魂を祠たる所なり。魂とは天の靈顯をいふ。さなくては己が己の魂を崇拜するの理あらんや。大神の我御魂と詔給へるも正にこれに同し。又垂仁紀に〔故随大神教。立其祠於伊勢國。因興齋宮於五十鈴川上。是謂磯宮。乃天照大神始自天降之處也〕とあるを熟看すべし。始自天降之處とは。天孫瓊々杵尊西降の時。猿田彦大神の〔吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川〕(紀一書)といひたるに考合すれば。其時天照大神は。高天原(大倭)より伊勢に遷都ありて。東國を經營し給へると思はる。磯宮は其宮址なれは。大神の在す時も必す新嘗殿齋服殿を造りて天を祭り。其大殿にて政事を裁せらるゝこと。崇神以前の式の如くにてあるべし。外宮は其離宮なり。古事記傳に。外宮は師の祝詞考に。萬葉集なる登都美夜の例を引て。其は常の大宮の外に建置れて行幸ある宮を云なれば。即天皇の宮にして。別に主あることなし。然れば此伊勢の外宮も。五十鈴宮の外宮にして。天照大御神の宮なりと云たるは。昔より比なき考にして。信に然ることなり。然れば元來有し天照大御神の外宮に。豐受大神をば鎭祭たるなりとあるは。本居氏諸説の中に。最價値ある金言なり。故に外宮は豐受姫を祠るに非す。磯宮の外宮なり。又磯宮は天照大神を祠るに非す。其大宮の跡に神鏡を齋奉りたるなり。大三輪社には。今も寶殿を造らす。只拜殿のみなりと。是は三諸山を幸魂奇魂の鎮まる所として崇拜し。別に神體を齋かさればなるべし。伊勢三輪兩神宮の起りは此の如し。皆天を祭るなり。然れども伊勢は天照大神の御魂にて。三輪は大國魂の御魂といへば。直に其人を祭るが如く聞ゆ。因て早き時代より伊勢を天神。三輪を地祇と別ち。之を推究むれば。亦人鬼崇拜の堂の如くにも聞ゆ。因て後世に伊勢を大廟などゝ誤稱するものあり。其は次に辨明すべし。又天照大神の徳を日に比べて天照と申し。大日?(靈の下が女、≒靈女)貴と申奉る。故に五瀬命ハ我日神子孫而向日征虜。此逆天道也と云給ひ。聖武帝は東大寺に大佛を鑄造し給へり。毘廬遮那佛は大日如來なれば。大神を其權化と信し給ふ故なり。天に在て最も人に功用の顯著なるは。日輪に過るものなし。因て大神の徳を賛稱したるにて。大神は日輪のことには非す。又日を天と思ひたるにも非す。大神は天の代表者と信し。日に比べたるなり。大神宮は其詔に我前に拜むが如くせよとの旨に從ひて。其御魂を拜む所なり。漢土の宗廟に國祖を天に配亨するとは。大に異なり。

  賢所及ひ三種神器
賢所には伊勢神體寶鏡の寫しを齋まつる。内侍所といふも是なり。往古は三神器を大殿に奉し。天皇は同牀にましまして。政事をなし給ひしに。崇神帝の時に。鏡劍の寫しを造り。眞器をば大和の笠縫邑に祠りたり。是伊勢神宮の起り也。其時より寫しの鏡劍を大殿におかれたり。是賢所の起りなり。古語拾遺(神武帝の條)に〔從皇天二祖之詔。建樹神籬。所謂高皇産靈・神皇産靈云云〕とあるは別也。其は八神殿と稱し。後には神祇官に建られ。南北朝の比まても存せり。世にはかゝる故事なども知らぬ人ありて。近年春秋二季に皇靈祭を行はるゝにより。賢所は歴代の皇靈を祭る所にて。俗の位牌所の樣なるものと誤りて。拜する人もあるよし。因て此に略辨しおくなり。皇居中に祭天の祠堂を建るは。高麗の古代にも相似たることあり。魏志に〔高句驪好治宮室。於所居之左右。立大屋祭鬼神〕と見ゆ。前にいふ如く。唐虞の文祖も後世に宗廟と變し。人鬼崇拜の靈屋となりたり。高麗も革命數回のすえ。古式は廢れたらん。只我邦のみ一系の皇統を奉して。古式を繼續するは。誠に目出たき國と謂べし。
天照大神の鏡劍玉を天孫瓊々杵尊に授け給ひてより。三種神器と稱し。天皇の御璽となして傳受せらる。其鏡は八咫鏡。玉は八尺勾?(總の糸→王)の御統にて。並に天石窟の前に。賢木に掛て飾りたる物なり。劍は素盞鳴尊の出靈簸川上に於て。八岐大蛇を征服して献したる。天叢雲劍にて。後に草薙劍と稱し。尾張熱田神宮なることは世に隠れなけれども。此三器ハ。もと何用になる物なるや。是迄説く者なし。按ずるに。是は祭天の神座を飾る物なるべし。紀景行帝の條に。豐國(今の豊前)の神夏磯城は。〔拔磯津山賢木。以上枝挂八握劍。中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊。亦素幡樹于船舳参向〕と見え。仲哀帝の條に。筑紫岡縣主の迎へ船には。〔上枝掛白銅鏡。中枝掛十握劍。下枝掛八咫瓊〕とあり。伊覩縣主も〔拔取百枝賢木。立于船之舳艫上枝掛八尺瓊。中枝掛白銅鏡。下枝掛十握劔参迎(中略)天皇如八尺瓊之勾。以曲妙御宇。且如白銅鏡。以分明看行山川海。乃提是十握劍平天下。矣〕とあり。神皇正統記に。三神器を智仁勇に喩へたるは此言に本づく。故に三器は天神の靈徳に象りたるものにて。普通には鏡を神體に用ふ。日本武尊の日高見國へ打入りの船には。〔大鏡懸於王船〕と鏡のみなり。今も神殿に鏡を安んずるは此縁なり。又玉も神體に用ふ。筑前風土記に〔宗像大神自天降。居峙門山之時。以青?(草冠に豚の右+生)玉置奧津宮之表。以八尺紫?(先に同じ)玉置中宮之表。以八咫鏡置邊宮之表。以此三表成神體之形。納置三宮〕とあるにて知べし。(宗像三社は、三女命の玉鏡を納れて、天を祭りたる社なることも明かなり)劍は戦時の式にて。所謂荒魂を表す。故に天石窟前の賢木は劍を挂けず。後世も劍を神體に用ふることは普通には之なし。彼是を考へ合すれば三器を以て神座を飾るは。天安河の會議に創まりたるに非ず。遙の以前より祭天の古俗なるべし。韓土にも似たる風俗あり。魏志に〔馬韓信鬼神國邑各立一人。主祭天神名之天君。又諸國各有別邑。名之爲蘇塗。立大本懸鈴鼓。事鬼神。諸亡逃至其中。皆不還之。其立蘇塗之義。有似浮屠〕とあり。我は鏡玉を懸け。彼は鈴皷を懸く。其物は異なれども。大方は同じ。國邑に天神の社あり。皆これを以て神座とし。社の境内地を定め。其境内にては人を殺し人を捕ふるを得ぬ法なり。我邦社寺の境内は。幕府の時までも守護入部を禁ず。是も其起りの古きことを知るべし。

  神道に地祇なし
神道に地祇なしとは。頗る世聽を驚かすならん。然れども余は神道に地祇なしと信ずるなり。支那の地祇てふ字は。后土を祀り。社稷を祠り。山川を祭ることなどを云。我古代にハかゝる例なし。但し諾冉二尊の八大洲國及山川草木を生ことは。書紀の正文に記して。山神は大山津見神。海神は大綿津見神。(又少童命)土神は埴安。野神は野椎。木神は久々能智などゝ。紀の一書及古事記に載たり。是は山・川・野等を主るものにして。大山津見の子孫ハ吾田國(今の薩日隅)君なり。海神は。記に阿曇連等者其綿津見神之子。宇都志日金拆命之子孫也〕とあり。又姓氏録にも見ゆ。伊豆伊豫の三島社。及隠岐に大山祇神を祠るは。吾田君の兼領地にて。筑前志賀島の海神社は。海神國なるべく。對島・壹岐・隠岐。但馬・播磨等の海神社は。其兼領地なるべきことは。已に史學會雜誌におきて辨したり。夫れ天照大神・月讀命は。日月を祭るに非ず。津守氏の住江津に祠る住吉社は。津神を祭るに非す。山神社・海神社も亦然り。又後世の地神祭。或は北辰祭は。皆陰陽道に出つ。是を以て日本に日月星辰を祭り。山海河津を祀ると思ふ者は。全く歴史を解せざる者の妄説にて。辨するに足らず。爰に辨ぜざるを得ざることは。神武帝以來の歴史に。明かに天神地祇を記し。後に神祇官を置き。神祇令を制し。續紀の元明帝聖武帝の宣命文にも。天坐神地坐神とあり。地祇とは如何なる神をいふにやと考ふれば。神祇令に。〔凡天神地祇者。神祇官皆依常典祭之〕と。義解に〔謂。天神者。伊勢・山城鴨・住吉・出雲國造齋神等類是也。地祇者。大神・大倭葛木鴨・出雲大汝神等類是也〕といへり。出雲國造齋神とは出雲の熊野社にて。出雲大汝神とは杵築の大社なり。熊野社は素戔鳴尊を祭る。因て天神とし。大社は大汝命を祀る。因て地祇としたるにや。其別甚た明白ならねども。支那の皇天后土とは異なることハ明かなり。大神はおほみ王と訓す。大三輪社の事は前條に擧たる如く。大汝命の幸魂奇魂を祠りたる社なれば。亦天神とこそ云べけれ。大倭葛木鴨は。紀に(一書)〔大己貴神之子。即甘茂君〕とあり。記に〔大國主神娶坐胸形奧津宮神多紀理毘賣命。生子阿遅?(金+且)日子根神。云云。今謂迦毛大神者也〕とあり。姓氏録に。〔大國主神之後。大田田禰古命之孫。大賀茂都美命奉齋賀茂神社〕とあれば。景行成務の朝に建たる社にて。大三輪社と同體の神社と思ハるれば。地祇は只大國主命のみを云が如し。姓氏録の神別に。天神天孫地祇を分ちて。地祇には大國主・胸形三神・海神・天神・穂分・椎根津彦・井光・石押別等の後を?(≒彙)集したり。海神は住吉神と共に諾尊祓除の時に現生し。筑前那珂郡並に其社あり。宗像社は天照大神の御女なるに。住吉と素戔嗚とは天神に列し。海神と宗形とは地祇に列す。何とも其理の聞えぬことなり。
地祇の起りを繹ぬるに。紀に神武帝宇陀より磯城磐余へ打入の前。〔天神訓之曰。宜取天香山社中土。以造天平瓮八十枚。?(≒并)造厳瓮。而敬祭天神地祇〕とあるを始見とす。其時弟猾の奏には。〔今當取天香山埴。以造天平瓮。而祭天社國社之神〕に作れば。天神地祇と天社國社とハ互文にて。其實ハ同し。時に椎根津彦・井光・石押別ハ。皆軍に從ひたれば。所謂地祇は大三輪社あるのみ。皇師に抗したる登美彦(即長髄彦)ハ。大三輪の一族なれば。此地祇は大三輪社をさすに非ざる明けし。且大己貴命の大三輪社を建たるは。瓊々杵尊の西降し。天照大神伊勢降臨の後ならん。然れば日向の宮に於て。大國魂神を地祇として祀らるゝ故もなし。崇神紀に〔先是天照大神・倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内〕とハ。必ず神武帝の大倭を平定して。大三輪君より五十鈴姫を皇后に納給ふ後のことなるべく。其以前の國社は大己貴に非ざること明々白々なり。是を以て考ふるに天社國社とは。天朝より齋きたるを天社とし。國々に齋きたるを國社とするなるべし。今の官幣社國幣社の如し。祭神にて別つに非ず。故に筑紫の宗像社は國社にて。出雲熊野社ハ天社とし。墨江の住吉社は天社にて。筑紫の海神社ハ國社とするも妨けなし。みな天に在す神を祭るなり。地に顯れたる神にハ非ず。又人鬼を崇拜する社にも非ず。然るに早き時代より此義を誤りたるにや。天社國社を神祇と譯したり。古事記は漢譯の誤なしと稱すれども。紀は〔崇神帝七年定天社國社。及神地神戸〕とあるを。記は〔定奉天神地祇之社〕と書たり。令も其時代に定めたれば。已に神祇の別を誤れり。まして姓氏録は猶百年も後の書なれば。前に論ずるが如き混雜なる分別をなすに至れり。令義解に山城の鴨を天神とし。大倭萬木鴨を神祇としたるも甚疑し。山城の鴨は別雷神社(一に若雷)と稱す。故に天神としたるならん。然れども其創建に遡れば。大倭の京にてありし時ハ。山背は吉野と同しく。青垣山の外の平野にて。此に天社を建られたることは不審なり。思ふに大倭の大三輪社の如く。山城の國社なるべし。平安奠都の後は。其國の産土神なる故に。別段に尊敬せられたるなり。凡諸神社祭神の説は。神道晦みたる後の附會なれば。紛々として影を捉ふが如し。姓氏録に素戔鳴は天神。天穂日は天孫。宗像三女は地祇とするが如く。不倫甚だし。此くいふ故に。神祇は人鬼を崇拜するものゝ如くなりて。益神道の本旨を失ひたり。

  神道に人鬼を崇拜せず
神道に人鬼を崇拜することは。古書に絶えてなきことなり。伊勢大神宮は固より大廟に非ず。忍穂耳尊社の豐前香春にあるハ後に辨ずべし。次て瓊々杵尊の日向可愛山陵。彦火火出見尊の日向高屋山陵。?(盧+鳥)?(慈+鳥)草葺不合尊の日向吾平山陵は。並に延喜式に無陵戸とありて。又〔神代三陵。於山城國葛野郡田邑陵南原祭之。其兆域東西一町。南北一町〕とあり。是は何代に築かれしにや。日向の遠隔なるを以て。陵代を作りて祭られし故に。日向三陵は守戸もなく。終に其處も知れぬ樣に移果たり。(可愛山陵は薩摩穎娃郡に、高屋山陵は同國阿多郡加世田郷鷹屋に在べきなり、)且田邑陵は神社には非ず。墓祭りをなす所なり。是神道の風なるべし。故に神武帝の畝傍山陵にも神社を建てず。綏靖帝以後歴代の天子を神社に祠りたることなし。八幡大菩薩を神功皇后應神天皇といふは。佛説の入たる後の事なり。是は別に説あり。續日本後紀。承和七年五月藤原吉野の議に。〔山陵猶宗廟也。縱無宗廟者。臣子何處仰〕といへり。此の如く。天子に神社を建たる例なきに。臣下には神社を建て。朝廷より祭らるゝことは。斷々あるべき理に非ず。あるハ後世の神社に祭神を附會したるより誤られ。終に神社ハ人鬼を崇拜する祠堂の如く思ひたるのみ。近比に至り。攝津住吉社を埃及波斯の塚穴堂に類すといふ説あり。其は古史を知らぬ人の誤想なり。住吉の三神は筑紫博多を本社とす。神功皇后征韓の還りに。務古水門(今の神戸附近)に建られ。仁徳帝の比。墨江には創建せり。(史學會雑誌に詳か也)三神社を並へ祠たる形の墓堂に似たるも。此地に表・中・底筒男の墓あるべきに非ず。余往年信濃上諏訪社に詣り。寶殿の樣を見るに。甚墓堂に似たり。されども諏訪は健御名方命の領國にて。上諏訪社にて湖東を治め。下諏訪社にて湖西を治めたる跡にて。其社を神名帳に南方富神社とあり。富は刀賣なり。健南方命の其女をして天神を齋かせしめしに因て稱するならん。建築の樣を望みて墓穴の堂と思ふは僻見なり。(後に奧津棄戸の風俗を述ふると并せ考ふべし)
神道に宗廟なし。大神宮を大廟と稱するは。甚しき誤謬なれども。世にかりそめに此く唱へる人もあり。韓土にも之に似たることあり。東國通鑑に。〔百濟始祖十七年(漢元壽元年といふ、西暦紀元前二年)立國母廟〕とあるを熟考するに。我大神宮の如き宮と思はるれども。高麗の末になりてハ。此く誤解したるならん。我諸神社にも是に似たる誤解は甚多し。大國魂社・大神社等は。大已貴其人を祭るに非ず。大已貴命國を造り。其地に建たる社殿なり。すべての天社國社も同例なり。故に國造を國の宮つみと云。此は歴史の考究に甚肝要なることにて。古代國縣の分割。造別受領の跡を徴すべし。例へば豐前國香春神社は。神名帳に。田川郡辛國息長大姫大目命神社。忍骨神社。豐比当ス神社とある三座にて。辛國は韓國なり。息長大姫大目命は以前の領主にて。忍穂耳尊新羅より渡り。此を行在として西國を征定せられ。後に豐姫の受領せし地と思はる。(史學會雜誌第十一號星野氏の論説を参考)社殿は其政事堂也。土佐香美郡に天忍穂別神社あり。別は造別の別なり。紀景行帝の條に。〔當今之時。謂諸國之別者。即其別王之苗裔焉〕とあるにて知るべし。此も忍穂耳尊豐前より上洛の途次に。暫駐蹕ありし地なるべし。凡神社は古時國縣の政事堂なり。神名帳大和に添御縣坐神社。葛木御縣神社。志貴御縣坐神社。高市御縣神社等あり。猶後世の郡家の如し。美濃に又比奈守神社(厚見郡)あり。比奈守は。紀の景行帝の條に。〔巡狩筑紫國。始到夷守。(中略)乃遣兄夷守・弟夷守二人令覩。乃弟夷守還來而諮之。曰諸縣君泉媛〕(日向諸縣郡)とある夷守に同し。魏志に〔到對島國。其大官曰卑狗。副曰卑奴母離。云云。至一支國。(壹岐)官亦曰卑狗。副曰卑奴母離〕とあり。卑狗は彦なり。卑奴母離は比奈守なり。彦は後の荘司地頭の如く。比奈守は荘下司地頭代の如し。是某彦・某姫社。若くは夷守社等は。領主の建たる祭政一致の政事堂にて。某縣社・某縣坐神社と。其義一なり。又倭文・物部・服部・兵主・楯縫・玉造・鏡作・等の神社は。各伴部の地に建たる社にて。久米郡・麻績郡・忌部村・鳥取村などと謂か如く。後世の荘衙に同し。前にもいふが如く。宗像社は。筑前風土記に據るに。天照大神の三女。筑紫に身形部を領し。鏡玉を表として。韓土往返の津に建たる三社なり。大和石上坐布留御魂神社ハ。垂仁帝の時に建られたる武庫にて。中に?(音+師の右)靈寶劍をも納めたれば。之を神體として。石上社を建たり。前條に擧たる天香山社は。神を祭る瓮を造る土を出す山なるを以て。往古より祠られたる社なり。常陸風土記に。鹿島郡の鐵礦を鹿島社領として採掘を停めたるも。同し政略なるを知るべし。總て上古の神社は。皆此の如き原由にて。神魂・高魂社を始め。神代に國土を開きたる人の創建したる社と見れば。神名帳諸社の起りは氷釋すべし。盡く祭天の堂に外ならず。然るを其社號に泥みて祭神の名と誤るより。天神地祇の混雜を生じ。人鬼を祭る靈廟にまぎれ。神道の主旨亂れて。遂に謀叛人の藤原廣嗣を松浦社に祭り・大臣の菅原道眞を天滿宮と崇めて。天子も膝を屈め給ふ。歴代の天子ハ一も神社に祭ることなきに。却て補佐大臣より一郡一邑の長までも神に化するは。冠履倒装の甚しきなり。末世の拘忌より。狐を祠りて稻荷とし。蛇を祠りて市杵島姫とし。鼠を崇めて大已貴神と謂ふが如きは。凡下流俗の迷ひにて。論ずるに足らざれども。其?(幣の下が犬)端を啓きたるハ。天神より強て地祇を別ちて。遂に人鬼を混淆し。此く亂れたるなり。佛法の入らぬ以前。陵墓に厚葬の風はあれども。人鬼を崇拜することなく。宗廟の祭もなく。惟大神を祭るを神道とす。是日本固有の風俗なり。

   神は不淨を惡む
神に事へるには清淨を先として。穢惡を忌嫌ふは。神道の大主旨なり。紀一書に。諾尊の冉尊殯?(かばねへん+僉)の所より還り。〔吾前到於不順也凶目汚穢之處。故當滌去吾身之濁穢。則往至筑紫日向小戸橘之木原。而祓除焉。遂將滌身之所汚。云云〕とありて。海神住吉神は生れ。又天照大神月讀尊素戔鳴尊の三貴子ハ生れ給へり。(記も同し)、素戔鳴尊の大神新嘗に當り。祭殿に放屎し。馬を逆剥して齋服殿に投納れたるは。神道破滅。尚武鎮壓の主義と思はる。因て大神ハ位を遜れて窟戸に入給ふに至れり。神道に觸穢を忌むことの至嚴なる此の如し。魏志(東夷傳の倭國)に。〔始死。停喪十餘日。當時不食肉。喪主哭泣。他人就歌舞(誄のことなるべし)飲酒。已葬。擧家詣水中澡浴。以加練沐〕とあれば。中國のみならず。西國まで一般の風俗皆然り。此風に原つきて。清淨を以て神に仕へる式は定まる。所謂る天清淨。地清淨。内外清淨。六根清淨ハ。敬神の主要たり。神祇令に。散齋の内より〔不得弔喪問病食肉。亦不判刑殺。不决罰罪人。不作音楽。不預穢惡之事〕と。義解に〔謂穢惡者不淨之物。鬼神所惡也〕とあり。三代格に。齋月齋日に弔喪問病判署刑殺文書決罰食宍預穢惡を六條の禁忌と云。邦人の肉食を嫌ふも。かゝる習慣より來ることなるべし。後漢書(東夷傳倭○魏志も同し)にも。〔行來度海。令一人。不櫛沐。不食肉。不近婦人。名曰持衰〕と見え。格にも。神社の境内附近にて。屠割・狩獵・牧牛馬を禁忌する等を考合すべし。足利時代まで忌のことをすべて觸穢と云。死喪大祭戦争等には朝を輟め。音奏雜訴評定を停め。行刑を停むるを法とす。徳川時代にても。喪には鳴物を停む。俗に御停止と云是なり。又産穢・血荒・踏合等ありて。出仕を忌避るは。皆神道の遺風なり。
諸穢中に於て尤も忌嫌ふハ死穢なり。古代に人死すれば。其屋を不淨に穢れたりとて棄たり。紀一書。素戔鳴尊の新羅より杉檜?(木+豫)樟苴凾フ種を日本に植しむる條に。〔芍ツ以爲顯見蒼生・奧津棄戸將臥之具〕とあり。奧津の津は助詞なり。奧とは死人の臥したる奧の間にして。棄戸とは艪以て棺を製し。死人を歛し。其處に遺骸を置て棄去りたるなり。陵墓は家の貧富に應して厚葬の風なれども。殯歛葬埋には專業人ありて執行たることならん。後世に穢多の起りもかゝる風俗より生したることなるべし。又歴代天皇の必す宮殿を遷さるゝも。奧津棄戸に原由したることなるべし。格の弘仁五年六月太政官符に。〔?(てへん+僉)天平十年(西暦七百三十八年)五月廿八日格。國司任意。改造館舎。儻有一人病死。諱惡不肯居住〕と見ゆれば。其時代まても此風俗は存したり。韓土も同じ風俗なり。紀の皇極天皇元年五月の條に。〔凡百濟新羅風俗。有死亡者。雖父母兄弟夫婦姉妹。永不自看。以比觀無慈之甚。豈別禽獣〕とあり。其比日本は死を忌嫌ふて親戚皆棄去る風は熄たれども。親しく神社に近つきて事へる家には。此風猶嚴重に行ハれたり。其證ハ北島氏文書の貞治四年(南朝正平二十年、西暦千三百六十五年)十月。出雲國造貞孝(北島の祖なり)目安に。〔自曩祖宮向宿禰人體始。至資孝。四十代。皆止亡父喪禮之儀。打越于神魂社。(隔十餘里)令相續神火神水之時。國衙案主、税所、神子神人等令參集。奏舞楽。遂次第之神役。令一人相傳神職也。而彼孝宗者。五體不具。親父孝宗死去之時。荷入棺拾遺骨。爲觸 穢不淨之間。不可奉近付于神體之條。無其隠。云云〕とあれば。國造・大宮司・祭主・神主などの家は。親の葬禮をも打止め。國司立會にて。祓除し。神火神水相續の式禮を擧行したる有様は。彼百濟新羅に異ならざるを知る。神事に濁穢を忌嫌ふにつきて。祓除の法ハ生したり。就ては古來種々の歴史も多く。弊害も亦多かりし。此に其一を擧げん。貞治より少し降り。康暦元年(南朝天授五年、西暦一三七九年)ハ。伊勢外宮の改造久しく期を過ぎたる末にて。十二月廿六日いよいよ遷宮式を擧行せんとするに。禁裏の御衰日なりと。前關白准后二條良基の沙汰にて。又延引したる時。迎陽記に。父参議東坊城長綱の物語を記して曰。〔(前略)不憚御身之慎。被遂尊神之禮者。更不可有其咎。還可有冥感。前賢所爲有如此事。中院禪閤正和興福寺供養。己欲出車之處。或者投入生頭於車中見告之。事可被行哉。可被延引之由。申之輩有之。大義不可憚少。興福寺供養。依此事延引。天下之口遊不可遁歟。所寄清祓可遂供養之由被申。于今爲美談者也。云云〕とあるにて。神事に穢を忌避け。少しの出来事にて。大儀を延引することなど。數々ありたるを知るべし。神事にあつかるときハ。常人さへ此の如し。まして神に仕へるを常職とする人は。死穢を忌嫌ふこと甚嚴なるべきに。時世移りて。今は神職の葬儀を主ることとまでなりたるは。神道の本義に於て甚如何なることなり。

   祓除は古の政刑
神道は穢惡を惡む至て嚴なる故に。祓除を行ひ。身を清淨にして神に事へるを大主旨とせり。上古神宮皇居を別たざりし時代に於て。朝廷の有様は。後の伊勢神宮の如きものなりと想像すべし。國造伴造の分轄する國縣の府治も。盡く其式に倣ひ。因て諸國に天社國社は設けたり。其天社國社に於て取扱ふ事は、年年新嘗祭(即後の氏神祭禮)をなして報本の意を表し。祓除を行ひて攘災招福をなすに外ならず。故に臣民みな毎年農桑諸業より収めたる。粟米布帛等を撰みて神に奉納す。之をみつぎと云。後世に御初穂といふ是なり。災害若しくは罪過に因て。祓除の料を納むるをあがものと云。猶後の贖罪金の如し。朝廷國縣の經濟皆是にて立ち。刑罰も是に依りたり。是を祭政一致の治とするなり。祓除の起りは甚古し。諾冉二尊も筑紫橘小戸の祓除あり。魏志に〔詣水中澡浴〕と記す。(並に前に出)蓋し神道と共に?(しんにゅう+貌)古より來りたることなるべし。其法は中臣家に傳はる書紀一書(天石窟の條)に。〔天兒屋命、則以神祝祝之〕と。又〔掌其解除之大諄辭〕とあり。今の中臣祓は其諄辭にて。原文は簡古なりしを。文武帝の朝に。?(≒柿)本人麻呂修潤したる文なりと云。(衆人の前にて、再三反覆し誦する詞に、甚古拙なる所あれは、人の誠敬を損する故なるべし)神の供物は齋部家にて掌る。古語拾遺に。〔命太玉命率諸部神造和幣〕と。又〔宣太玉命率諸部神供奉其職如天上儀〕(天上は天朝の義と見るべし)とありて。又神武の朝に〔其裔孫天富命率供作諸氏造作大幣〕と。又〔宮内立藏。令齋部氏永任其職〕とある等にて見るべし。神宮皇居の別れたる後は。調貢の法も改まりて。此藏は齋藏・内藏・大藏の三藏に分れ、大寶令に大藏省あり。内藏寮あり。又齋藏は神祇官にありて。祓除の贖物を納めたるなるべし。
祓除の主旨は。支體を清め。心を清め。清淨なる天地に呼吸するに非ざれば。靈顯なる天神の加護を蒙り得ずとの旨なり。是宗教の善根懺悔に近し。されども此旨につきて別に心身を清くする教文もなく。因て世に誘善利生の方を述べたる教典もなし。本居宣長は神ながら言擧せぬ國と誇れども。言擧せぬにて神道宗教をなす程の力なきこと明かなり。而して右に説たる如く。古は祓除を政治の本となし。刑罰も是に因て行へり。素盞鳴尊神の。御田に重播・毀畔・埋溝・挿籤したるうへに。大嘗殿を穢し。重々の罪を犯したるは。神道破滅を主張したる所爲にて。天照大神も御位を遜れんとするに至りしに。諸大臣等盡く服せす。天安河の會議にて。大神の復位を勸め。素盞鳴尊に重罪を科したるは。是國是一定して。皇室の安固したる根柢なり。國史に於て最重最要の節にて。神道の最功力ある處とす。此時尊に〔科之以千座置戸〕とは。釋日本紀に。〔私記曰。座是置物之名也。言置積祓物者。正是千處也。置戸者。是積置此千處之物。便爲其戸。令罪人出其中。故云置戸也〕と釋せり。(余は千處の齋藏を科したるにて、戸は烟戸のことならんと思ふなり)又〔至拔髪以贖其罪。亦曰拔其手足之爪贖之〕とあるは。亦曰の文を是とすべし。其は一書に、〔已而科罪於素盞鳴尊。而責其祓。是以有手端吉棄物。足端凶棄物〕とも。又〔即科素盞鳴尊千座置戸の解除。以手爪爲吉爪棄物。以足爪爲凶爪棄物。乃使天兒屋命、掌其解除之大諄辭而宣之焉。(是は中臣氏の記録に拠たる者と覺へたり齋部氏の記録を?(≒并)せ考ふれは、其贖物は彼氏の齋藏に納むべし)世人慎収己爪者。此其縁也〕とあるに合へばなり。古より貴人には死刑を行ひたる例なし。蓋解除の科に輕重の差等あるまでのことなるべし。其解除には。必す吉凶の兩を重科す。紀の履仲帝五年に。〔則負惡解除・善解除。而出於長渚崎令祓禊〕と見え。三代格延暦二十年五月十四日に至りて。大・中・小祓の物を定めらる。其詔に〔承前。神事有犯。科祓贖罪。善惡二祓。重科一人。條例已繁。輸物亦多。事傷苛細。深損黎元。仍今弛張立例〕とあれば。平安京の初めに至り。始めて兩科を一重に改められたり。

   神道の弊
天地は活世界なり。循環して息まず。常に新陳代謝しつゝ進めり。故に其中に棲息する萬物萬事。みな榮枯盛衰をなし。少し活動を失ひたる停滞物は。頓て廢滅に歸すること。皆人の眼前に觀察する所なり。故に久くして弊れざるものハなし。日本の創世は神道より成り。皇基は是に因りて奠定したり、其主要の節目は。前に述べたる條々に略盡せり。夫も數千年間に漸々と修正改進したる結果なるべく。神武帝の橿原に神人一致の政治を建給ひし時も。多少改革ありたるならん。亦九世を經て。時運益進み。崇神の朝に。神宮皇居を別けられたれば。神物官物も別れ。從ひて齋藏官倉も別れ。調貢の法も改まり。政治兵刑みな改まらざるを得ざれども。古來沿習の餘勢あれば。猶祭政一致の制によりて。漸々と變じたるは見易き情實にて。そは歴史上にも概見する所なり。三韓服屬し。應神・仁徳の兩盛代を經て。履仲。反正・允恭三朝に移る比には。已に刑罰の變革したるを見る。武内宿禰甘内宿禰兄弟權を爭ひたるとき。くかたち〔探湯〕をなしたり。允恭帝群卿國造の氏姓(即譜第)詐冒を改正の時も。〔諸氏姓人等沐浴齋戒。各爲盟神探湯則於和橿丘之辭禍戸(石+甲)。坐探湯瓮而引諸人令赴曰。得實則全。偽者必害。或?納金煮沸。攘手探湯。云云詐者愕然之。豫退無進〕とあれば。探湯は神に要して詐偽者を發覺する。鞠訊法なるべし。是當時に盛んに行はれたることと見えて。北史(東夷倭傳)に。〔毎訊冤罪。不承引者。以木壓膝。或張強弓。以弦鋸其項。或置小石於沸湯仲。令所競者探之。或置蛇瓮中令取之。曲者即螫〕とあり。是は西國筋の事を觀察のまゝに記したることならん。諸国の國造伴造等支配下には。頗る惨酷の法も行はれたらん。繼體帝二十四年に。〔爰以日本人與任那人。頻以兒息諍訟難決。元無能判。毛野臣楽置誓湯、曰。實者不爛。虚者必爛。是以投湯爛死者衆〕とありて。我朝の任那諸國に人心を失ひたるハ。其等の暴政に由るものなり。此時代人智漸く開け。既に神道にては治むべからず。因て儒学を講じ。亦佛教も流入せんとす。履中帝の時に。安曇連濱子が仲皇子に徒黨したる巨魁なるを以て。事平くの後詔して。〔將傾國家罪當死。然垂大恩。而免死科墨。即日黥之〕と見え。又允恭の忍阪姫皇后も。〔赦鬪?(鶏の左+雉の右)國造死刑。貶其姓謂稻置〕と見ゆ。其年に爲皇后定刑部とあれは。已に死刑其他の刑名も生したり。併し黥は貶等にて。甘内宿禰の紀直に賜ひ。?(≒鬪)?(鶏の左+雉の右)國造を稻置に貶する類にして。黥の刑ハなきことなるべし。履中五年に。〔伊弉諾神託祝曰。不堪血臭矣。因以卜之兆云。惡飼部等黥之氣。故自是後頓絶以不黥飼部而止之〕とあり。記の安康の條に。〔面黥老人來。我者山代之猪甘也〕とあるを見れば、厮養の諸部は黥する習法なることを知るべし。支那歴史の記する所によれば。日本の古は文身の俗なるに。今は東國の賤民に文身俗を存するまでにて。西國には却て其俗なきは。かゝる由縁にて。自然に黥を廢したることなるべし。崇神の朝に神人別れてより。履中帝まで七世を經たれば。時運已に進み。神道の弊を生じたるを見る。
人智の開進して。學藝鬱興し。上下の生活益滿足なる時代となれば。祭政一致の政に依頼し。大占を以て神慮を迎へて事を斷し。諄辭を以て解除をなして刑罰をなすまでにては。國の治安を保つべからず。此時となりては。舊來これに浸染したる風俗には亦?(幣の下を犬に)習を存して。洗除するに困むことあるは必然の理なり。紀の孝徳帝大化二年三月甲申の詔に。〔有被役邊畔民。事畢還郷之日。忽然得疾。臥死路頭。於是路頭之家。乃謂之曰。何故使人死於余路。因留死者友伴。強使祓除。由是兄雖臥死於路。其弟不収者多。(其弊一なり)復有百姓。溺死於河。逢者乃謂之曰。何故於我使遇溺人。因留溺者友伴。強使祓除。由是兄雖溺死於河。其弟不救者衆。(其弊二なり)復有被役之民。路頭炊飯。於是路頭之家乃謂之曰。何故任情炊飯余路。強使祓除。(其弊三なり)復有百姓就他借甑炊飯。其甑觸物而覆。於是甑主乃使祓除。(其弊四なり)如是等類。愚俗所染。今悉除斷〕とあるは。是今の警察違註罪に科する贖銭をば。人民相互に科徴したるなり。神道の死穢不淨を忌嫌ひ。事に觸れ端に就て祓除を強索する陋習ハ。千二百年前迄存して。其時旅行の困難思ひやられたり。公役にて巳を得ざるの外は。郡郷の往來交通絶えて。猶歳月を經るならば。國の繁盛なる道は頓に塞り果てん。此時に當り佛教僧徒等宣教の方便によりて。郡郷を巡りて道路橋梁を修架せしめ。池溝を開き。往來を通し。生産工藝を教へたる功は。歴史に歴々と記載し。文武元明の朝に至り。始めて貨幣を鑄造し。諸國に令して米を行旅に賣らしめ。終に奈良の盛治を見るに至りたり。其大恩は永く忘却すへからす。

   儒學佛教陰陽道の傳播
神道の日本を襁褓の裏に育成して。國體を定め皇統を始めたるは。其最功力ある時代なりとす。然ども成長の後に。時運の進みて。大陸地に萬般の學藝鬱興すれば。我國にも輸入して。益開進せざるべからず。漢の朝鮮を滅ぼし。平壌に帯方郡を置くに當り。我西國より交通する者三十餘國に及ひ。筑紫伊都津を開き。彼郡よりも使節館を建たれば。通譯の人もなかるべからず。漢字も講ぜざるべからず。崇神帝の末には。加羅國地を献して内屬し。任那府を韓土に置れたり。此時已に祭政一致にて治むべからず。必ず漢の儒學ハ輸入したらん。更に遡りて考ふれは。秦人馬韓に移住して辰韓を成し。少名彦命の海を航し來りて。大已貴神と共に國を造り。醫療禁厭の法を教へたる時より。漢學ははや入たるならん。(時代は書紀の紀年を舍て考ふべし)應神帝百濟より博士を召し。皇子に論語千字文を授けしめ給ひしは、儒學の宮中まで上りたるなり。其時の儒學は固より朱子學に非ず。亦唐の註疏にも非ず。大抵晉末に當れば。何晏の集解にて。修身よりは寧ろ政治學に近し。其後繼體帝の朝に。五經博士を召され。天智帝以後は、隋唐の學を主用せらる。皆政治學なり。神道とは其用を異にす。而して儒學の最も主張する天地の郊祀宗廟の?(ころもへん+帝)?(示+合)等は、一も用ふるなくして、猶古來の神道祭天の俗に從はれたるは其慮る所甚深し、神道を説くものゝ特に着眼すべき要點なり。然れども神道は誘善利生の教典なきのみならず。攘災招福にも欠典を感したらん。因て漢學の傳播に從ひて。陰陽道も入たるならん。是は漢代盛んに行はれたる讖緯書に本つく者なり。北史に〔百濟知醫薬・蓍龜。與相術・陰陽五行法〕とあれば。必す此國を經て輸入したらんと覺ゆ。紀の推古帝十年に。〔百濟僧觀勒來之仍貢暦本。及天文地理書。?(≒并)遁走甲方術之書也。是時選書生三四人。以俾學習於勸勒矣。云云。大友村主高?(≒聰)學天文遁甲以成業〕とあり。三代格に。陰陽道は周易・新撰陰陽書・黄帝金匱・五行大義等を主用す。易は五經の一にて。繼體の朝已に學に立たり。緯書の傳はること必早からん。古事記及ひ書紀の一書を熟看するに。神代巻には陰陽説及ひ周時の風俗に附會したる痕跡をまゝ發見す。蓋漢學已に入り。佛教まだ傳はらぬ際に於て。緯書其他の方術を以て。未來を前知し。災害を避ることを講したる結果なるべし。是も亦一時の氣運にして。久しきを經て弊れ。今も民俗に存する陋習は。神道佛教よりも。陰陽説より出たる拘忌甚多し。
儒學は只現在を論す。陰陽道の未然を知るも。誘善利生の旨に乏し。佛教の三生因果を説くは。神道の襁褓を離れて。心理を開闡するに。倔強の教なり。其支那に傳播したるは。我倭奴國の使洛陽に至りし比に端を開き。神功皇后征韓の比は。已に盛んに行はれ。應神帝の比には。高麗百濟に流布したり。其後三韓の往來頻繁になり。筑紫中國筋に流入りたるは必す早からん。史乗に見えたるは、繼體帝の朝に始まる。欽明帝戊午歳(法王帝説に?(據をりっしんべんに)る。書紀の紀年にては宣化帝三年なり)に至り。遂に斷然と百濟より佛典佛像の獻を受給へり。是彼國の後るゝ百五十年なり。文明の競進より論ずれば遅鈍なりとすれども。國の舊俗を守るに厚く。急遽に外教に移らざるは。日本人の氣象にして。國體の堅固なる由縁なり。佛教者は因て實相眞如の體は、我熱信する天神なることを示し。本地埀跡の理を説たるを以て。衆心靡然として之に帰依し。敬神の心を移して。?(≒并)せて崇佛に注き。二百年を經て。敬神崇佛の國となり。佛教の研闡は他國を超越するに至りたるは。歴史上に於て、國の光輝と謂て可なり。佛教の入りたる後は。神社と佛寺と。並に崇敬せられて勝劣なきは。歴史に明白なり。佛に偏して神に疎なりと思ふは僻める説なり。但し佛教も久しきを經るに從ひて弊れたり。委しくは他日を待て論せん。若又神道にのみ僻し。今日まで神道のみにて推來るならは。日本の不幸は實に甚しからん。前條に擧たる大化二年の詔を一顧すべし。崇神帝以後數百年間に。神道の國民を教化したる結果は如何なるぞ。續紀神龜二年七月の詔に。〔今聞諸國神祇。社内有穢?(自/死)。及放雜畜。敬神之禮。豈如是乎。宜國司長官自執幣帛。慎致清淨、常爲歳事〕と。又天平二年九月の詔に〔安藝國周芳國人等。妄説禍福多集人衆。妖祠死魂云有所祈。近京左側山原。聚集多人妖言惑衆。多則萬人、少乃數千〕とあり。かゝる人民を開誘する爲めに。唐韓諸國の皆弘むる佛教の方便に依らすして。教典さへ備はらぬ神道の古俗に任せたらば。全國今に蒙昧の野民に止まり。臺灣の生蕃と一般ならんのみ。
神道の日本を育成したるは、慈母の恩あり。されども成人の後まで。永く母の左右にのみ居るべからず。總て地球諸国みな神道の中より出て。種々に變化したれども。國本を維持して。順序よく進化したるは、日本のみなり。神道の時に定りたる國帝を奉して、敢て變改せず、神道の古俗を存して敢て廢棄せす、かの新陳代謝の活世界を通過し、時運にも後れさればなり。凡國には主宰者を立てゝ、政務の本を統べざるべからず、此至尊なる位は斷して人事を以て定め難し、智愚賢不肖を擇まず。只其創世に當り。純に天神を信したる時に於て。神意とて定めたる君主を。國のあらん限り。永遠に奉すべし。此外に萬古不易の國基を定むる方法はなし。日本人民は天神の子孫を天日嗣に奉し、少しも心を變せず、其日嗣の天子に、悪徳の君は一代もなく、又系統の絶える不幸にも逢はず、九世親盡たる疎遠の系統に、此の位を傳ふ不幸にさへ逢はずして、今日に至るは、誠に人力には非し、天神の加護を忘るべからず、他國を見よ盡く人事の?(鹿を三つ合わせた字)忽にて。一度國祚を變更したれは、帝位は國民の競争物となり。常に國基を安定するに辛苦しつゝ經過するに非ずや。我國の萬代一系の君を奉するは、此地球上に又得られぬ歴史なり、其誇るべき國體を保存するには。時運に應して。順序よく進化してこそ。皇室も益尊榮なるべけれ。國家も益強盛となるべけれ。世には一生神代巻のみを講して。言甲斐なくも。國體の神道に創りたればとて。いつ迄も其襁褓の裏にありて。祭政一致の國に棲息せんと希望する者もあり。此活動世界に。千餘百年間長進せざる物は新陳代謝の機能に催されて。秋の木葉と共に揺落さるべし。或は神道を學理にて論ずれは。國體を損ずと。憐れ墓なく謂ものもあり。國體も皇室も。此く薄弱なる朽索にて維持したりと思ふか。歴朝の烈を積み。其神道の中より出たる國を養成せられたる。百廿餘代の功徳は。染みて人心にあり。其間に他の諸國は、一度國本を變動し再び復すへからすして。革命の禍を痛嘆したる歴史を經過したれば。最早皇綱は安固なり。此に觀察して、益盛大富強を圖るべし。徒に大神宮の餘烈にのみ頼むは。亦是秋の木葉の類なるべし。余既に神道の大本に就て。其國體と共に永遠に保存すべき綱領と。國民に浸潤したる美風とを論述したり。其他の廢朽に屬する枝葉と。中世以來の謬説とは。本を振し葉を落して。本幹を傷害せざる樣にすべし。是亦國家に對する緊要の務めなり。

神道を以て「只天を祭り攘災招福の祓を爲すまでなれば、佛教と並行はれて相戻らず」と云ふ、卓見と云ふべし、若し佛法にして渡來せざりしならんには、神道は或ひは宗教とまで發達したらんも知るべからずと雖も、中途にして佛法渡來し且つ之と共に文學移入したりければ、我神道は半夜に攪破せられたる夢の如く、宗教の躰を備ふる能はざりしなり。後世に至り之を以て宗教となさんと欲するものありと雖も、是れ遅まきの唐辛にして國史は之を許さゝるなり、而して其事實を證するもの著者に若くなし、
            鼎 軒 妄 批


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