■□■□■「甲類乙類」とは何か(オロモルフ)■□■□■


◆◆◆ 1.古代日本語母音論 ◆◆◆

 古代史SFを書くときの資料になると思いますので、掲載いたします。

 最近、以下の本を購入しました。

◎松本克己『古代日本語母音論――上代特殊仮名遣の再解釈――』ひつじ書房(199501)

第1章 古代日本語母音組織考
    ――内的再建の試み――
第2章 上代語「5母音説」
    ――その後の展開――
第3章 日本語における動詞活用の起源

 著者は1929年生まれ。東大文学部言語学科卒。金沢大学教授、筑波大学教授、静岡県立大学教授。1991年から94年まで日本言語学会会長。


◆◆◆ 2.「甲類乙類」の謎 ◆◆◆

 わたしは、『卑彌呼と日本書紀』を書いて以来ずっと、古代日本語における「甲類乙類」の別について、興味を持ってきました。
 邪馬台国所在論や神の語源論に密接に関係することだからです。
 そこで、この問題についての一般向けの啓蒙書を探していたのですが、なかなか良書が見つかりません。
 で、買ってみたのがこれですが、啓蒙書ではなく、論文を集めた難しい本でした。大野晋との論争もあります。
 ・・・というわけで、私にはとうてい読みこなすことが出来ません。

 著者のこの問題での立場は、かなりユニークでして、インターネットのウイキペディアに分かりやすい説明があります。
「甲類乙類」の研究史の中です。
「上代特殊仮名遣」で検索してください。

 ただし、私の素人考えでは、ウイキペディアの断定的な記述に比べて、この本に書いてあるのは、もっとソフトで微妙なように思えます。


◆◆◆ 3.素人なりの整理 ◆◆◆

「甲類乙類」について、素人なりに纏めてみます。
 奈良時代の文献を調べると、「キギケゲコゴソゾトドノヒビヘベミメヨロ」の合計19、『古事記』のみに現れる「モ」を含めると20の音韻が、じつは二種類あって使い分けられており、橋本進吉がそれを「上代特殊仮名遣」と呼んで研究し、その二種類を「甲類乙類」としたのです。
 橋本進吉は明治15年に生まれ昭和20年に没した国語学者で、著名な東大教授です。

 甲類と乙類はどう違うのかといいますと、もちろん推理ですが、以下のように言われています。

甲類:母音が現在の発音に近い。
乙類:母音が中舌音でウムラウトのようなもの。

(舌の位置や形で、現在のイやエは前舌音、ウオアは後舌音、中舌音はその中間です)

 どうしてこういう推理が出来るかといいますと、それは奈良時代の日本語の漢字を使った表記によります。
 奈良時代の文献では、たとえば、〈子〉の「コ」には古、故などが使われ、〈心〉の「コ」には許、己、虚などが使われていて、混在していないことから、二種類の音韻があったのだろうと考えられているのです。
 50音図に記すと、下のようになります。
 ○で囲んだのが、甲類乙類に分けられる音です。
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◆◆◆ 4.私が行き当たった具体例(1) ◆◆◆

 これまで本を書いていて私が直面した具体例を二つ記します。
 ひとつは、『卑彌呼と日本書紀』を書いた時の邪馬台国所在地問題です。

◎『魏志倭人伝』にある〈邪馬台(ヤマト)〉の「ト」は乙類。
◎大和朝廷のあった〈大和(ヤマト)〉の「ト」は乙類。
◎〈大和〉の語源ではないかと言われる〈山処(ヤマト)〉の「ト」も乙類。
◎一方、九州説の有力候補地〈山門(ヤマト)〉の「ト」は甲類。

 こういう事から、大和説が有力だとされるのですが、そう簡単な問題ではありません。


◆◆◆ 5.私が行き当たった具体例(2) ◆◆◆

 もう一つは、『卑彌呼と日本書紀』および『靖国神社に参拝しよう』に書きました、〈上(カミ)〉と〈神(カミ)〉が同源かどうかの問題です。

◎〈上(カミ)〉の「ミ」は甲類。
◎〈神(カミ)〉の「ミ」は乙類。

〈上(カミ)〉の「ミ」を表す漢字は美、〈神(カミ)〉の「ミ」を表す漢字は微、未、尾と書かれているため、この両者の「ミ」の音韻は別であり、甲類と乙類に分けられる――と考えるのです。

〈神〉が〈上〉から発生した――という仮説は、本居宣長以来のものですが、仮にそうでないとしても、古代の〈X〉から〈上〉と〈神〉の双方が出てきたのだろう・・・との同源説が有力です。
 これに対して大野晋が、「甲類乙類」の違いがあるから無関係の言葉だ――という説を発表しました。
 大野晋という人は、私にはよく分からない学者ですが、渡部昇一さんが大野説に猛然と反対し、論争になりました。

 言葉の意味が複雑になるにつれて、音韻が変化し、甲類と乙類が交替する現象は、外国にも日本にもあると例証し、最終的には大野氏は沈黙してしまったそうです。

〈上(カミ)〉と〈神(カミ)〉の同源問題は、長く論争されたようですが、ごく最近、(ほぼ)最終的に決着したそうです。
 その事は、文献とともに『靖国神社に参拝しよう』に書きましたが、以下簡単に記してみます。

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 姿を見せないように隠れる事を示す動詞の〈クム〉から、奥まった隠れた場所を意味する〈クマ〉が派生した。
(これは熊野のクマや目に隈が出来るのクマにも通じます)
 この〈クマ〉の母音が交替(U←→A)して、〈カム〉という語が成立した。
(こういう交替はよくあるのだそうです)
 そして、その〈カム〉から、〈上(カミ)〉と〈神(カミ)〉の双方が成立した。

**********

 神聖な山から流れ出る豊かな川の川上は、深く暗い森の奥であり、それはまた神の存する畏敬すべき場所でもある――という事なのでしょう。
 つまり、〈上(カミ)〉と〈神(カミ))〉は同源同根の言葉なのです。
 渡部昇一さんの完全な勝利ですね。

(ついでながら、・・・守(カミ)や女将(おカミ)なども同源らしい。なお上という漢字で書かれるもう一つの日本語に「ウエ」がありますが、これは板や紙の上側などをあらわしていて、川上の「カミ」とはまったく違うそうです)


◆◆◆ 6.参考文献 ◆◆◆

 論争の多い問題についての分かりやすい解説書を書くのは難しいのでしょうが、これまで探した範囲では、そういう本はほとんどありません。
 ここでは、私が使っている本を記します。

◎吉川弘文館『國史大事典』(吉川弘文館)

 日本最大の国史事典ですが、その「音韻」項目の中の「国語音韻史」という小項目に、ほぼ一頁にわたって、整理された説明があります。
(この解説によると、「甲類乙類」の違いは平安時代にはほとんど無くなり、ついで平安末から鎌倉時代にかけて、ヤ行とワ行の区別が減り、さらに室町から江戸時代にかけてジとヂ、ズちヅの区別が無くなったそうです。逆に促音とか撥音とか長い母音(ー)とかが加わってきたそうです)

◎渡部昇一『国語のイデオロギー』(中公叢書)

 この本に、大野晋との「上神」論争が記されていますが、そこに、「甲類乙類」とは何かが、分かりやすく説明されていて、とても勉強になります。

◎白川静『字訓』(平凡社)

「甲類乙類」と言われても、ある言葉がどちらなのか、素人には皆目分かりません。
 そこでこの辞書を引くことになります。
 この辞書には、「甲類乙類」の別が、最大限記されていて、とても便利です。
 驚くのは、「渡部大野」論争までが出ていることです。
 もの凄く勉強になる大型辞書です。


◆◆◆ 7.注 ◆◆◆

 前の50音図で分かりますように、○のついている「甲類乙類」に分けられる音は、イの段とエの段とオの段の三段に限られています。
 アイウエオとワヰウヱヲの違いも、この三つの段のみです。


◆◆◆ 8.録音が無い! ◆◆◆

 当たり前の話ですが、録音が出来るようになったのはごくごく最近のことであり、明治から前は人間の話し言葉を音として記録することは出来ませんでした。
 まして奈良時代やその前ともなりますと、文字で書かれた文献ですら、ごく限られています。
 その限られた文献で発音を推理するのですから、ため息が出るほど大変ですし、意見が割れるのも当然です。
 とは言いましても、千何百年も前の発音を議論できるほどの資料が残されている日本という国は素晴らしいと思います。

(この「甲類乙類」を利用して、古代史SFの情報テーマみたいなものが書けるのではないでしょうか。どなたかチャレンジしてください)


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