■□■□■ 朝鮮の戸籍制度――李氏朝鮮時代の戸籍――〔「戸籍制度」の基礎知識〕(解法者)■□■□■


◆◆◆ 朝鮮の戸籍制度(14) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 9月12日(金)09時50分10秒 ◆◆◆

>李氏朝鮮時代の戸籍(1)<

 李氏朝鮮時代は1392年から始まるが、当初は政権の交代による混乱により戸籍の整備もままならず、しかも高麗時代の戸籍制度を踏襲するほかなかったが、第3代の「太宗(1401年〜1418年)から政治も安定し、戸籍制度が整備されていった。
 この間の事情は「惟我太祖、承高麗板蕩之余、慮民産之無恒、戸口之日縮、巌立戸籍之法、自成籍以後、逃亡流入入、及許接容隠之人、按律科罪、載諸元典」(『世宗実録』巻八十八 世宗十四年庚申〔1440年〕二月丙辰条)、「太祖思うに、高麗の政情紊乱を受継いだため、民の資産は無く、人口は減り、人民の逃亡・流入が相次いだ。その状態を慮り、戸籍法を厳しく運用し、違反者を罰するため諸法を整備する」で明らかである。
 「太宗」は「謹按経済戸典、近年以来、戸口之法不明、差役不均、良賤混淆、其弊不少、今後京外官、推考成籍、戸首人夫妻外四祖、及率居子孫弟姪、以至奴婢、年歳備載」(『太宗実録』巻二十七太宗十四年甲午〔1414年〕四月乙巳条)。「「経済戸典」を見るに、近年、戸口を管理する法が適切に運用されず、賦役の衡平が犯され、良民・賤民の区別が乱れ、その弊害は少なくない。今後は京(漢城)他の官吏は戸籍を作成するにつき戸主は夫婦のほか4祖、および同居の子・孫・弟(妹も含む)・姪(兄弟の息子)から奴婢に至るまで年齢と共に登載しなければならない」と戸籍の整備を進め、戸籍が確定した後に登載されている者を隠したときは杖100を科し、その村の里正と郡県の守令にもそれぞれ杖70と60の罰が与えられた(『太祖実録』巻二十七 太祖ニ年癸酉〔1393年〕十一月己巳条)。
 この時代の戸籍として有名なものは、「司宰公諱?夫人宋氏の戸口」(太祖ニ年〔1393年〕)である。これは女性が戸主になっている。八祖の世系が登載されている。
 この時代には「隣保制度」が定められた(『太宗実録』巻十三太宗七年丁亥〔1407年〕正月甲戌条)。これは10戸あるいは34戸を1隣保とし、その中で恒産と信用のある者を正長とし、隣保内の人口、姓名、年齢、身分の良賤を記録させ、新来者、死亡者、出生者がある場合には地方官(郡・県の守令)に報告させる義務を負わせるものであった。目的は人民の管理にあったが、先のとおり政治の紊乱によってなかなか戸籍の整備(3年に1度成籍された)は整わなかった。

 ◆ 弟に妹も含み、姪とは兄弟の息子を指すことは日本の古代戸籍
  にも見られる(『日本古代戸籍の研究』南部  12頁 吉川弘文館
  平成4年〔1992年〕2月20日)

 ★ 太 祖
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A1%82
   太 宗
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)
   世 宗
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E5%AE%97_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)
   李氏朝鮮
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE


◆◆◆ 朝鮮の戸籍制度(15) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 9月12日(金)10時04分11秒 ◆◆◆

>李氏朝鮮時代の戸籍(2)<

 李氏朝鮮時代の戸籍がようやく整備されるようになったのは、第7代王「世祖」(1455年〜1468年)の代からである。それは『経国大典』が編纂されたからである(「戸典」は1460年に完成)。
 「戸典」(戸籍条)は「毎三年改戸籍、蔵於本曹 漢城府 本道 本邑」と定めた。『続大典』(1744年)の「戸典」では二年成籍と変更されたが、戸曹 漢城府 本道 本邑のそれぞれに「戸籍」が置かれたことがわかる。
 韓国に現存する帳籍である「山陰戸籍」から戸籍を見てみたい。「山陰戸籍」は壬辰倭乱(1592年)の前の宣祖3年〔1570年〕の「庚午戸籍」と宣祖39年〔1612年〕の「丙午戸籍」の各1冊から成っている。
「戸水軍成夢虎年七拾玖壬子生本昌寧(父禦侮将軍萬亨 祖禦侮将軍貴達外祖父金應文本七原)妻林召史年七拾玖壬本羅州(父宗守 祖末叱孫曽祖希同 外祖父張有光本仁同) 率子水軍春得年陸拾壱庚午生(三祖上同祖林宗守 外)妻沈召史伍拾陸乙亥生本山陰(父大元祖大仁 曽外祖 明孫 徐貴孫本鎮海) 率孫水軍興敏年貳拾伍丙午生加現率次孫水軍應敏年貳拾壱庚戌生移居邑内加現 率次孫水軍應百年拾伍丙辰生」「戸主の水軍(身分)で「成 夢虎」は歳79(1492年〔壬子〕生)、本貫は昌寧である。(父は禦侮将軍〔身分〕で「(成) 萬亨」、祖父は禦侮将軍〔身分〕で「(成) 貴達」、外祖父は「金 應文」で本貫は七原である)。妻は「林」(名前は記載されてない〔召史〕)で79歳、本貫は羅州である)。(父は「(林) 宗守」、祖父は「(林) 末叱孫」、曽祖父は「(林) 希同」、外祖父は「張 有光」といい本貫は仁同である)。子は水軍(身分)で「(成) 春得」といい歳は61(陸拾壱)、1510年〔庚午〕生)、(三祖は前と同じ、祖父は「林 宗守」という)妻「沈」(名前は記載されてない〔召史〕)で56歳(伍拾陸)、
1515年〔乙亥〕生、本貫は山陰である)。(父は「(沈) 大元、祖父は「(沈) 大仁」、曽外祖父(名前は不明)、祖父(意味不明)は「明孫」、「徐 貴孫」(世系は不明)で本貫は鎮海である」。孫は水軍(身分)で「(成)興敏 」といい、歳は25、1546年〔丙午〕生)(現況を加える)、次孫も水軍(身分)で「(成)應敏」といい、歳は21、1550年〔庚戌〕生)、村内に移転した(現況を加える)。もう1人の次孫も水軍(身分)で「(成)應百」といい、15歳で1556年〔丙辰生〕生)である」

 ★ 世 祖
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%A5%96_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)
 ★ 経国大典
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%85%B8制と
   租庸調 制との関係に就いて」鈴木 俊(『東亜』第8巻4号)


◆◆◆ 朝鮮の戸籍制度(16) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 9月14日(日)12時16分28秒 ◆◆◆

>李氏朝鮮時代の戸籍(3)<

 「山陰戸籍」での特徴を挙げると、@ 逃亡者、別居者および死亡者も戸籍に登載されている。この時代には「同一戸内で生活を共にする者を一緒に入籍させる」のが原則となっていた「夫戸、本以籍其戸口内之人口也、是以、別居者則雖親子、別自為戸、而不入於其中」(『番渓髄録』巻三 田制後録 上 柳 馨遠)。「山陰戸籍」はこの原則に反する。これは戸籍がなお人口の動態を把握するためのものであるとされる(崔 弘基の前掲書 146頁)。A 身体障害者(「篤疾」)を戸籍に明記している。これは「戸籍」が賦役などの基礎資料に使用されたことを示している。
 次に「大丘戸籍(現在の大邸に残された戸籍)」(粛宗26年〔1700年〕)のものを見てみたい。
「老職嘉大夫洪大一年玖拾辛丑本南陽 父納粟軍資監参奉貴仁 祖権知訓練院奉事守漢 曽祖学生承香 外祖学生金世光本金海率婦寡女崔召使年肆拾参戊子孫子武学爾淵年拾陸乙卯 奴末叱金良産壹所生婢億禮庚辰 奴山ト良産壹所生婢時介年玖拾辛丑 ニ所生奴千同年捌壹庚戌 右三口甲戌迯亡丁卯戸口相準」、「老職嘉大夫(身分)「洪 大一」は年90で1601年(辛丑)生まれ、本貫は南陽である。父は納粟軍資監参奉(身分)で「(洪) 貴仁」といい、祖父は権知訓練院奉事(身分)で「(洪) 守漢」という。曽祖父は学生(身分)の「金 世光」、本貫は金海で亡くなった息子の妻「崔」(名前は記載がない〔召使〕)で年は43(肆拾参)1648年生まれ(戊子)である。孫は「(洪) 爾淵」、年は16、1675年(乙卯)生まれである。男の奴隷「末叱金」(姓はない)がおり、ここで生まれた女の奴隷「億禮」が1640年(庚辰)に生まれている。もう1人男の奴隷「山ト」(姓はない)がおり、ここで生まれた女の奴隷「時介」、歳は90(玖拾)、1601年(辛丑)に生まれている。別のところで生まれた男の奴隷「千同年」(姓はない)は81歳で1610年(庚戌)に生まれている。この3口の奴隷が1634(甲戌)に逃亡(迯亡)した。この戸口の記載内容は1687年(丁卯)の戸口に準拠している」

 ★柳 馨遠(1672年〜1673年)
http://www.yugyo.org/jap/thought/unfolding/kob4.php?lang_code=JAP&country_code=KO&time_code=B4


◆◆◆ 朝鮮の戸籍制度(17) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 9月17日(水)08時56分2秒 ◆◆◆

>李氏朝鮮時代の戸籍(4)<

 李氏朝鮮時代の戸籍の記載様式をまとめると、戸ごとに戸主(官職、姓名、年齢、生年、本貫、男子直系尊属(曾孫まで)、外祖父の官職)、妻(身分、名、年齢、生年、生年、男子直系尊属(曾孫まで)、外祖父の官職)、母(身分、名)、男子(官職、名、年齢、生年)、女子(名、年齢、生年)、奴婢などを原則として記載していた(女子は名を記載せずに「某」と記載することが一般的に行われた)。家族というより家(戸)に居住する者および家門(血縁集団)の記載という形式だった。これは「大丘戸籍」の様式であるが、李朝末期まで踏襲された。
 戸籍編成の目的は、徴用(徴税・兵役)、官職(封建的身分)、科挙(官吏登用試験)の受験資格の把握にあったとされる。副次的には住民の土地への従属関係を示し、移動を制限するものでもあったと考えられる。
 戸籍は最終的には国家が把握したが、その手順は@ 面で集計、A 牧・郡で原戸籍簿を作成、B 漢城(首都)の観察使に送付・管理、となっていた。
 3年1回の割合で作成された(現実には国政の紊乱により実現しなかった)。

 ◆ 朝鮮の姓
    http://ameblo.jp/dreamtale/day-20060620.html
   『朝鮮の姓』朝鮮総督府 第一書房 1977年8月日(復刻版)
   『朝鮮の姓名氏族に関する研究調査』朝鮮総督府中枢院 1934年11月20日
   『朝鮮の姓の由来』稲葉君山 厳松堂京城支店 大正12年9月5日


◆◆◆ 朝鮮の戸籍制度(18) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 9月17日(水)08時53分6秒 ◆◆◆

>李氏朝鮮時代の戸籍(6)<

 戸籍の末尾に「統括表」といって、各級(身分)の地方行政区域内の総戸数と男女別の人口を通計するものが添付されていた。「山陰戸籍」および「大丘戸籍」に存在する。「山陰戸籍」と「大丘戸籍」の例を示す。

      山陰庚午帳籍の統括表

都巳上陸百参拾戸内    人口の多い(都会)の行政区域(都巳上)630戸の内訳
  良丁  荘男参百玖拾捌     良丁  壮年の男子    398人
      荘女四百貮拾貮         壮年の女子    422人
      老男貮百七拾          老人の男子    270人
      老女壹百壹           老人の女子    101人
      弱男貮拾参           弱年の男子     23人
      弱女貮             弱年の女子      2人
  公賤  荘奴七拾壹           壮年の男の奴隷   71人
      荘婢七拾壹           壮年の女の奴隷   71人
      老奴貮拾七           老人の男の奴隷   27人
      老婢              老人の女の奴隷   人数記載なし
      弱奴貮拾            弱年の男の奴隷   20人
      弱婢拾壹            弱年の女の奴隷   11人
  私賤  荘奴四百肆           壮年の男の奴隷  404人
      荘婢参百捌拾貮         壮年の女の奴隷  312人
      老奴陸拾捌           老人の男の奴隷   68人
      老婢伍拾参           老人の女の奴隷   53人
      弱奴陸拾七           弱年の男の奴隷   67人
      弱婢陸拾七           弱年の女の奴隷   67人
      際               続く(戸籍の記載が次に続く)
             監官        幼学  呉 慶遠
                       色吏  陳 大勲
             戸籍官(監官)   幼学(身分)
                       色吏(身分)

      大丘庚午帳籍の西下下同 統括表

巳上戸壹百四拾四戸以 作統貮拾玖統   少し大きな行政区域(巳上)144戸
                       29統で構成されている
 元人口陸百貮拾口以          620人
  男貮百捌拾陸口内           男子 286人の内
   壮壹百拾伍口             壮年 115人
   老参拾口               老人  30人
   弱陸拾壹               弱年  61人
  女参百拾四口内           男子 314人の内
   壮百捌拾七口             壮年 187人
   老参拾口               老人  30人
   弱壹百拾七口             弱年 117人
                       風憲  都 爾咸
                       約正  白 自黄
                       風憲(身分)
                       約正(身分)

 「山陰戸籍」では、行政区域名がないが、「都巳上」とあることから、
面より上級の「県」ではないかとされている(崔 弘基の前掲書 153頁)。
「大丘戸籍」では面(西下下同)
の表記がある。
 「大丘戸籍」では「奴婢」の記載がないが、これは存在しないのでは
なく、戸籍が賦役の把握を目的としているため、賦役が課せられない
奴婢は省いたものと考えられる。
 なお、同じようなものが高麗時代にもあったと思われる。それは
新羅時代にも「統括表」に当る「村籍」が存在したからである。


◆◆◆ 朝鮮の戸籍制度(19) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 9月20日(土)04時42分37秒 ◆◆◆

>李氏朝鮮時代の戸籍(7)<

 李氏朝鮮では、人民が賦役を逃れるのを防止するため戸籍制度と平行して「五家統制」と「號牌制」が採られている。
 「五家統制」とは、「太宗」時代の「隣保制」と同じく(李氏朝鮮時代の戸籍(1)参照)5戸を1統とし、その中で恒産と信用のある者を正長とし、統内の人口、姓名、年齢、身分の良賤を記録させ、新来者、死亡者、出生者がある場合には地方官(郡・県の守令)に報告させる義務を負わせるものである。これがなかなか運用されなかったことは「五家之統、講定己久、以歳歉尚未行矣」、「五家統制は定められてから時間が経っているが、未だに行われていない」(『増補文献備考』巻一六一 戸口考一〔領義政 「鄭 太和」の孝宗[1650年〜1659年]への上啓文〕)からもうかがえる。
 「號牌制」とは、姓名を職業、階級などとともに確認し、これを戸の入口に貼付するものである。目的は、@人民の身分を掌握する、A 戸口を掌握する、B 盗賊を防止する(戸内に人を潜ませることを防止)、C 人民の流出を防止する、ことにあった(『世祖実録』巻十ニ 世祖四年丙戌〔1420年〕四月壬戌条)。これも「太宗」時代に設けられた制度(数年で廃止)が、その後もたびたび復活・廃止を繰り返した。それは「號牌制」が軍役の選択に使われたからである。人民の抵抗は激しく、官も巻き込んで騒乱状態にまで発展する状況にもなり、また人民は官に賄賂を贈り軍役が免除される公賤・私賤に身分を変えたりして「號牌制」は有名無実と化した。「號牌制」は粛宗3年〔1677年〕に復活し、日本統治時代まで続いた。「號牌」は最初は戸の入口に貼付するものであったが、時代を経るにつれ携帯用になり、紙から(偽造が容易なため)牙、角、木に変わった。

 ★ 世祖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%A5%96_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)


◆◆◆ 朝鮮の戸籍制度(20) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 9月20日(土)04時39分26秒 ◆◆◆

>李氏朝鮮時代の戸籍(8)<

 李氏朝鮮時代の戸籍制度の運用については、先のとおり『経国大典』が編纂されたからであるが、それが運用の順調を意味するものではない。この辺りの事情については「戸口之法、無他焉、入籍則有利而無害、脱籍則有害而無利、民斯従之矣、苟使入者有害、出者有利、名雖撻而求其入、民不肯入矣」(『経世遺表』丁 若 巻十三 地官修制 戸籍法条)、「戸口に関する法は、入籍者に有利で害が無く、脱籍者に害が有って利益が無ければ、人民は法に従うようになる。これに反し、入籍者に害が有り、脱籍者に利益があれば、日に鞭打って(撻)入籍を促しても人民は入籍しない」があり、人民が移来移居して定住しないのは役を避けるためである(『増補文献備考』巻一六一 戸口考一)とされていることから、戸籍制度が機能しなかったことがわかる。李朝はこれを見て、先のとおり「五家統制」と「號牌制」を創設したが、これも機能しなかった。


◆◆◆ 朝鮮の戸籍制度(21) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 9月24日(水)12時14分46秒 ◆◆◆

>李氏朝鮮時代の戸籍(9)<

 李氏朝鮮時代の戸籍の登載親族範囲は先のとおり四祖に縮小されたが、これはあくまで「戸籍制度」に限られた。その他の制度は高麗時代の制度を踏襲し、「五服制」(服喪を父系の4世祖(親等)を共にする親族に限り、5世祖は親族であるが服喪を免れ、6世祖は親族ではないという制度)が採られた(『経国大典』(禮典 五服条)。母系に属する外祖父母および妻族についての服喪期間が減縮されたが、これは李氏朝鮮時代において父系中心的親族組織が強化された結果である。「相避制」(一定の親族が同じ官職に就くことを禁止する制度)も承継されたが、ここでも高麗時代の「母の姉妹の夫」および「母の姉妹の子」が除外され、やはりここでも父系中心的親族組織が重視されている。「婚姻忌避制」も中国の明朝の法令である『大明律』を受入れ、これを朝鮮に合わせた『大明律直解』(巻第六 の戸律婚姻)で詳しく定めている。ここでは「戸籍制度」の説明が主で、朝鮮の親族関係は本題ではないので簡単に述べるが、「婚姻忌避」の範囲は父系血統が高麗時代と同じく重視され「同姓不婚」の原則は維持された。問題は外族であるが、母族の6寸(再従兄弟)、妻族の3寸(叔、姪)〔「金 斗憲」『朝鮮家族制度研究』乙酉文化社1949年−日本統治時代の「仏教専門学校」教授〕(6寸[再従兄弟]という見解あり−崔 弘基〔前掲書 195頁〕)であり、父系血統と比べて狭くなっている。犯人隠匿・親族相盗に関する「刑の軽減」についても父系血統中心主義が貫かれている(『大明律直解』巻一名例律 親属相為容隠条、巻一八 刑律 相盗条)。
 これらのことから、高麗時代と同じく目的(服喪、就官、婚姻など)によって親族の範囲を決めていたものと考えられる。

 李氏朝鮮時代には、「族譜」が盛んに編纂されるにつれ、人民にとっては「戸籍」よりも「族譜」に重点が置かれ「戸籍」と「族譜」の併用、換言すれば「族譜」と「戸籍」の遊離が進行したのである。考えてみれば、「戸籍」は国家が賦役などのために人民を統制する目的で作成したもので、人民にとっては「家門」を表彰する「族譜」の方が重要だったことは当たり前のことだったのである。こういう意識が日本統治時代になっても日本式の「戸籍制度」を容認したのである。

 ★ 大明律
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%98%8E%E5%BE%8B
 ※ 『大明律例訳義』高瀬喜朴 創文社 1989年2月28日
   『大明律直解:校訂』朝鮮総督府中枢院調査部 1936年3月30日


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