■□■□■ 夫婦別姓>夫婦同姓の歴史<〔「戸籍制度」の基本知識〕(解法者)■□■□■

◆◆◆ 夫婦別姓(1) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月17日(月)22時22分46秒 ◆◆◆

>夫婦同姓の歴史(1)<

 「夫婦同姓」はたかだか明治以来100年の歴史に過ぎないという者がいる(末尾の柳谷慶子の書籍 12頁)。また「わが国の夫婦の氏は、別氏から同氏へと変遷してきた」(末尾の井戸田博史の書籍 70頁)。<浅学の極み>の何物でもない。
 確かに大名を始とする上流の武士階級ではそうだっただろう。しかし、大半を占める庶民は必ずしもそうではなかった。そういう一部の者を捉えて全体を推し量るというのは<愚の骨頂>だ。
 丹波国山国荘(現京都市右京区京北)枝郷の下黒田村における土地の「譲り状」(大永は八年〔1528年〕に、「坊 姫」と「坊 又三郎」という夫婦が土地を福石女に譲渡している。また、枝郷の下黒田村の井本家に残る文書(土地「譲り状」−天文14年〔1545年〕)にも、「鶴野さいま」が井本家に嫁入りし「井本さいま」と実家の苗字から婚家の苗字に変更している(末尾の坂田聡の書籍 149頁)。
 ところで、江戸時代には庶民には「苗字」がなかったなどという<妄言>がまかり通っている。大きな誤りである。江戸時代の農村において「支配者に名ばかりを載せ、苗字を書いてないのは下位者・使用人を賤しめての省略記載で、苗字の無記すなわち無姓ということにはならない」(末尾の洞富雄の書籍 4頁)。東京都中野区江古田の氏神氷川神社の弘化3年〔1846年〕の造営奉納取立帳の全村85軒の戸主の全員に「苗字」が記載されていた。これは何も江戸近郊のことではなく、長野県松本平の南安曇郡の33ヵ村の講中2345人のうちわずか16人を除いて「苗字」を持っている(末尾の豊田武の書籍 140頁)。こういう例はゴマンとあったことが指摘されている。
 江戸時代の農民は何も上流階級にかぎらず総ての者に「苗字」があったと考えられるのである。

 ※ 『苗字と名前の歴史』坂田 聡 吉川弘文舘〔歴史文化ライブラリ− 211〕
   2006年4月1日
   『苗字の歴史』豊田 武 中央公論社〔中公新書 262〕1971年9月25日
   「日本近世の『家』と妻の性観念」柳谷慶子(『歴史評論』636号 2003年
   4月1日12頁
   「江戸時代の一般庶民は果たして苗字を持たなかったか」洞 富雄(『日本歴史』
   50号1952年7月1日 4頁〔後に下記に所収〕 ただし、表現が異なる。
   (洞富雄(1)という)
   『庶民家族の歴史像』洞 富雄 校倉書房 1966年2月5日
   (洞富雄(2)という)
   『家族の法と歴史』井戸田博史 世界思想社 1993年3月20日


◆◆◆ 夫婦別姓(2) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月18日(火)21時44分11秒 ◆◆◆

>夫婦同姓の歴史(2)<

 それでは、江戸時代の「夫婦の氏」はどうなっていたのだろうか。

1.武家
 幕府の法令はなかったとされる(末尾の熊谷開作の書籍 129頁)。慣習法に委ねられていた。「腹は借り物、武士のたね」というように、武士の世界は男の世界であり、男が武士の「家」を継ぐという体制が整っていた。したがって、「妻」はよそ者という観念が成立していたから、「妻」が生来の「姓」のままでいることが一般化されていたとされる。

2.農民
 洞富雄(1)の資料でも「同人妻」とある。「妻」は共同生産者としての地位は決して低くなく、この点で武士階級の家庭とは大きく異なっていた。「夫婦同姓」だったと考えてよい。

3.町民
 これも「妻」が表に出ることはなかったが、農民と同じく「妻」はよそ者という観念が成立しておらず、これも「夫婦同姓」だったと考えてよい。

 ※ 「夫婦の氏」熊谷開作(『婚姻法成立史序説』熊谷開作 酒井書店 1970年
   12月10日 126頁)


◆◆◆ 夫婦別姓(3) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 4月 1日(火)13時12分46秒 ◆◆◆

>夫婦同姓の歴史(3)<

 明治3年〔1870年〕9月4日、明治新政府によって「自今平民苗字被差許事」と「苗字差戻」の布告がなされた。これまでの「苗字」は「氏」と定められた。「苗字」公認は明治4年の「戸籍法」制定に関係があった。
「苗字」については、明治3年11月に、原田甲斐、青山播磨などの国名、大石主税、栗山大膳名などの官名を附すことを禁じ、明治5年5月には、大石蔵之助良雄、西郷吉之助隆盛などのような通称と実名を併称することを禁止した。8月には苗字・名前・屋号とも改称を禁じた。
 ここで問題となったのが、「女は結婚して後も生家の氏を称するのか、夫の氏を称するのか」という点である。明治8年〔1875年〕5月9日に、石川県から内務省に先の問題について「伺い」を出し、内務省は「夫の家の苗字を名乗るべきである」という意見を附して太政官にさらに「伺い」を出した。太政官は法制局に審議させた。法制局は、身分と姓氏は別のものであり、妻に夫家の氏を称すること(夫婦同姓)は歴史にも反し大困難が生じるから、慣法に従うべしと翌年2月5日に答申し、太政官もこれを受けて、妻は従来の氏を称すべきであるが、夫の家を相続した場合に限っては夫家の氏を称すべきである、と回答し、内務省はこれを4月7日に石川県に指令している。これは江戸時代の武家社会の慣行を踏襲したものである。この方針は明治31年〔1898年〕の民法施行まで維持された。
 政府が「夫婦別姓」を堅持したのは、「家」内の家族は血族を以って構成されるべきで、妻は外(他の戸籍)から入って来た者であり、夫の「家」(夫の戸籍)の代表者である戸主と同じ氏から除外されるべきというにある。


◆◆◆ 夫婦別姓(4) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月20日(木)16時08分26秒 ◆◆◆

>夫婦同姓の歴史(4)<

 政府の方針は、庶民から厳しい批判にさらされた。「養女や夫死亡後継嗣がなく妻が夫家を家督相続したときは、その家の氏を称するのに対し、妻のみが実家の氏を用いることはおかしいのではないか」(明治7年〔1874年〕8月20日の内務省左院宛「伺い」)、「民事上の契約書などにおいて生家の氏を称し、あるいは夫家の氏を称するなどまちまちで民事上の紛議を醸生する恐れがある」(明治20年〔1887年〕11月30日の山口県の内務省への「伺い」)、「嫁家(夫家)の氏を称するのは地方一般の慣行である」(明治22年〔1889年〕12月27日の宮城県の内務省への「伺い」)、「民間普通の慣例によれば婦は夫の氏を称しその生家の氏を称する者は極めて僅かである」(明治23年〔1890年〕5月2日の東京府の内務省への「伺い」)が寄せられている。『女学雑誌』(242号)〔女学雑誌社 明治23年 466頁〕にも「凡そ夫あるの婦人は、多く其夫の家の姓を用い居る」とあることから「夫婦同姓」が一般化していたのは間違いなかろう。
 庶民には「夫婦同姓」が原則で、政府が「夫婦別姓」を説いても従わなかったことを示している。

 ※ 『フランス法の氏名』木村健助 関西大学出版・広報部 1977年3月30日
   「ドイツにおける夫婦の氏」唄 孝一(『創立十周年記念論文集』東京都立大学
   1960年3月30日 163頁
   「西ドイツにおける氏の規制(1)」富田 哲(『名古屋大学法政論集』106号
   名古屋大学1985年11月30日 327頁(富田哲(1)という)
   『夫婦別姓の法的変遷−ドイツにおける立法化』富田 哲 八朔社 1998年9月
   30日(富田哲(2)という)
   「女性史からみた氏と戸籍の変遷(6)」久武綾子(『戸籍時報』342号 日本
   加除出版


◆◆◆ 夫婦別姓(5) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月23日(日)00時52分17秒 ◆◆◆

>夫婦同姓の歴史(5)<

 わが国おける「民法典」の編纂事業は明治3年〔1870年〕から始まった。明治11年〔1878年〕に司法省による「民法草案」が編纂された。そこでは「婦ハ其夫の姓ヲ用フ可シ」(第188条)と定められた。先の太政官の「夫婦別姓」とは異なるものであった。なぜ、「夫婦別姓」が変更されたかというと、文明開化を急ぎ欧米の制度の導入をはかった影響であると考えられる。具体的にいうと、キリスト教的な夫婦一体論の法理・慣習によるものである(末尾の木村健助の書籍 88頁)。
 その後、民法典はフランス人ボァソナ−ドの影響下で編纂作業が続けられ、明治21年〔1881年〕に第一草案が完成した。ここでも「夫婦同姓」が定められた(人事編第38条)。その「理由書」によると、「入嫁入夫の形態と夫婦同氏は我国の慣習であり、実態である」としている。先の庶民の慣行が認識されたのである。この第一草案では「独立して一家をなす者を戸主とし、その家内にある親族を家族とする」(第392条1項)、
「戸主および家族の婦はその戸主の家族とする」(同条2項)と定めた。これは妻は血族ではないが夫に附随すべきであるということであった。これは先のとおり当時の法慣習およびキリスト教的夫婦一体思想に基づくものとされる(末尾の星野通の書籍 237頁)。
 この「夫婦同姓」は「再調査案」(明治23年1月)でも維持された。
 同年10月に公布された民法(「旧民法」という明治26年から施行予定)は、「戸主および家族(妻も含む)はその家の氏を称す」(第243条)と定めた。これと以前の法案との違いは「夫の氏」から「夫の「家」の氏」への変更にある。すなわち、旧民法では「家」を前面に押し出してきたことにある。

 ※ 「民法制定以後の婚姻法」星野 通(『家族問題と家族法 U 婚姻』
   酒井書店 1957年2月25日


◆◆◆ 夫婦別姓(6) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月23日(日)00時49分43秒 ◆◆◆

>夫婦同姓の歴史(6)<

 政府はそれでも「夫婦別姓」にこだわっており「戸籍簿」では「夫婦別姓」が貫かれていた。これに対しては「旧民法」の断行派(梅 謙次郎)・延期派(富井政章・穂積八束)もこぞって「夫婦別姓」に反対し「夫婦同姓」を支持していた。
 「旧民法」は結局、明治31年〔1898年〕6月21日に廃案となり施行されなかった。それに代わって施行されたのが現行民法である。その第746条では「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ稱ス」と定められた。「旧民法」の「夫婦同姓」が踏襲されている。
 これは戦後の昭和23年1月1日の改正民法の第750条「夫婦は、婚姻の際に定めたところに従い、夫又は妻の氏を称する」と「夫婦同姓」の原則は維持されている。
 「夫婦同姓」はたかだか明治以来100年の歴史に過ぎないという者はいかにも政府が「夫婦同姓」を強いたように言うが、先のとおり庶民は「夫婦同姓」に傾いていたのである。
 ところで、「夫婦別姓」は2つの意味がある。〈1〉妻の独立性の否定−家族は夫の血縁によって構成されるもので、血縁でない妻はそれから排除される(韓国の制度)、〈2〉妻の独立性の容認−妻が夫から独立し、氏も別となる、である。わが国においては〈2〉からの「夫婦別姓」論が展開されていることは承知のとおりである。


◆◆◆ 質疑応答 ◆◆◆

Re:夫婦別姓(1) 投稿者:オロモルフ 投稿日:2008年 3月18日(火)12時10分4秒

>江戸時代の農民は何も上流階級にかぎらず総ての者に「苗字」があったと考えられるのである。

 こういう話を知って、意を強くしました。
 前にもちょっと記しましたが、私の祖父(幕末の生まれ)の出身の村では全員が名字を持っていたようです。長野県の山奥の山林業の村です。
 ですから、江戸時代までは名字を持つ人は少なかったという話は、不思議に思えます。
 また、夫婦別姓だったという話も、私が子供のころから聞いていた祖父祖母の話と合いません。
(その前の外国の氏名の話は、ううむ、難しいですね。いろんなケースがあることはよく分かりました)

思えば思うほど腹が立つ 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月21日(金)14時22分10秒
 おそらく唯物史観論者の言い草だと思えるが、江戸時代には士農工商の下で農民は搾取の対象でしかなく、苗字だって持たなかったという。
 こんなバカなことはないだろう。
 そうであるならば、日本が明治維新後に欧米諸国に肩を並べるほどになるはずがない。国力とは国民総体のものである。一部の上層部のみでそれの増進が図れるものではない。こんなことは常識と思えるのだが。
 オロモルフ師匠は、農村出身者の偉人を紹介された。その中に女性もいたとは驚きであった。
 師匠の科学史はとても読み応えがある。

 それともう一つ 「夫婦別姓」を唱える者はそれいいのだが、不利な証拠を隠すということが行われている。
 先の明治政府の「夫婦別姓」についての庶民の反応もその一つである。他にもあるからおいおい提示します。

Re.思えば思うほど腹が立つ 投稿者:ハチマキおじさん 投稿日:2008年 3月21日(金)20時56分48秒
 オロモルフさんご無沙汰しております。
 解法者さんの説をサポートさせて頂きます。
 江戸時代は庚申信仰が盛んになり、庚申塔が多く建てられました。
 庚申塔の中には、施主名を刻んだものがあります。
 名だけのものが多いのですが、なかには姓名の書かれたものもあります。
「庚申塔の研究」清水長輝(名著出版)からは、次の姓が読み取れます。
 承応三年(1654)のものには、下川、原口、清水
 承応四年(1655)では、金子,山田、山川、川村など
 私が横須賀で実物で確認したものの一部は次の通りです。
  寛政五年(1793)のもので、山崎姓2名、鈴木姓2名、山田姓2名、計6名
  文化四年(1807)のもので、松永姓2名、鈴木姓3名、山田姓4名、計9名
 江戸時代の庚申信仰は一般庶民に広く行われていましたので、これらの姓は庶民(横須賀は設置場所から見て農民)のものと考えられます。
 また名だけのものについては、名を刻めばその地域の人にとっては、誰が施主だったか容易に分かるため、しいて姓を書く必要はなかったのだと思います。
http://www12.ocn.ne.jp/~koushin/

ハチマキおじさん へ 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月22日(土)01時19分2秒
 ありがとうございます。論考の冒頭に記しましたが、ここには私より遥かに碩学の方がいらっしゃる。
 >庚申塔の中には、施主名を刻んだものがあります<
 そうですか、有力な証拠ですね。

 これからも訂正・反論をお願いいたします。
とにかく、私では手に負えないものですから。

 ハチマキおじさん 本当にお久しぶりです。

Re2.思えば思うほど腹が立つ 投稿者:オロモルフ 投稿日:2008年 3月22日(土)11時54分3秒
 解法者さん、ハチマキおじさん、ありがとうございます。
 なるほど、庶民の信仰(娯楽でもある?)だった庚申塔に刻まれた氏名からも、江戸時代の庶民が名字を持っていたことが推量できるのですね。
 じつに興味深いです。
 公的な文書に書く書かないは別にして、多くの人が名字を持っていたと思います。
 文献が残っているわけではなく伝承だけですが、山林業だった私の先祖は江戸時代に「名字帯刀を許された」そうです。
 しかしそれは公的に名乗ることを許されたのであって、名字そのものは「許されるずっと前」から持っており、先祖以外の同じ村の人たちも全部持っていたそうです。
 明治になって無数の名字が出来たそうですが、その中には、隠れ名字を表に出したものもあれば、それまでの名字を変更したものも多数あったのでは?
 名字を持ってはいるが公的には名乗らない――という習慣(規則?)は、庚申塔に名を刻む時にもあり、名字を出すのを遠慮した可能性もあるのでは――と思います。


タイトル一覧に戻る