■□■□■ 美空ひばりは古賀政男の前で何を歌ったか?(オロモルフ)■□■□■


■■■ 1.美空ひばりと古賀政男 ■■■

 私は美空ひばりより前の歌手を楽しんだ世代ですが、ひばりにも興味はあります。
 私がひばりの歌を初めて聴いたのは、昭和24年のことです。
 デビュー直前のひばりが笠置シズ子のブギを歌ったのを、NHKがたしかニュースの時間に一部放送したのです。
 あまりに巧いので仰天した記憶があります。
 劇場でひばりを聴いたことはありませんが、十代前後のひばりがむちゃくちゃ上手かったのは確かですね。
 そのひばりのデビュー前の歌について、不明の事があるので書き込みます。

 美空ひばりは昭和24年8月12歳のときに、『踊る竜宮城』に出演して『河童ブギウギ』(藤浦洸作詞、浅井挙曄作曲)を歌い、レコード(ただしB面)になりました。これがひばりのレコードデビューとされています。
(この歌はひばり全集に入っていますけど、まあフツウの歌だと思います)
 そのあと『悲しき口笛』で主役を演じ、その主題歌『悲しき口笛』(藤浦洸作詞、万城目正作曲)が大ヒットして、実質的なデビューを果たします。
 レコードの発売は同年9月だったようです。
 そしてコロンビアと契約し、翌昭和25年からヒットを連発するのですが、昭和24年より前の数年間は、母親があちこち連れて歩いて、何とかデビューさせようと必死で運動していました。

 その運動の一つに、古賀政男との面会があります。
 昭和22年の春、横浜桜木町の焼けビルでのど自慢大会があり、そこに古賀政男が審査員として来ていました。
 ひばりを連れた母親は古賀政男の楽屋に強引に入り込み、娘の歌をぜひ聴いてくれ――と頼んだそうです。

 古賀は想像する以上に包容力のある人だったらしく、無名の少女が大人の歌を歌うのを聴いてくれました。
 歌ったのは『悲しき竹笛』(*1)。
 伝えられるところでは、古賀政男はひばりの歌を褒めてくれたそうです。
 しかしデビューには直接は結びつきませんでした。
 当時の社会のモラルは厳しいものがあって、少女が大人の歌を歌うことへの反発が大きかった事も原因でしょう。

 この話はこれでお終いなのですが、じつはこの件について異論があるらしいのです。
 この時ひばりが古賀政男の前で歌ったのは『悲しき竹笛』一曲だけではない、二曲か三曲歌っていた。
 ――という説です。いくつかの伝記で読みました。
 ひばり母の性格からいっても、その可能性は十分にあると思います。
 私の疑問というのは、もし仮にそうだったとしたら、『悲しき竹笛』以外の歌は何だったのか――という事なのです。
 当時盛んに歌われていて、ひばりの十八番だった『長崎物語』(*2)では?
 ――という人もいるらしいのですが、これは古賀メロディではありません。

 無理矢理考えますと、そのころひばりの両親が好きだったという古賀メロディが候補に浮かびます。
 伝記によりますと、父親は『裏町セレナーデ』(*3)が好きでよくギターを弾きながら歌っていたそうです。
 とても良い歌です。
 一方母親が好きだったのは、戦前の『女の階級』(*4)だったとか。
 これもとても良い歌です。
(この二曲とも後にひばりは吹き込んでおり、『ひばりの古賀メロディ』のどれかで聴くことができる筈です)
 まあ、いろいろと推理は出来るのですが、確信は持てません。
 もしこういう事に詳しい方がおられたら、お教えください。

(オマケ1)古賀政男音楽博物館全景
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写真1

(オマケ2)古賀政男が作曲をしていた書斎
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写真2


■■■ 2.(*1)ひばりが歌った『悲しき竹笛』について ■■■

 何年か前に産経新聞のコラムで、古賀メロディの話がありましたが、そこに明かな間違いを数カ所見つけました。
 私はすぐにその数カ所を指摘する手紙を出しまして、編集者と電話で話し合いました。
 結局、『悲しき竹笛』を『悲しき口笛』としていた件だけが訂正されました。
(それ以外は訂正されませんでしたが、それでも産経は良心的です。A紙など他の新聞の間違いを指摘した事も何回かあるのですが、産経以外で返事が来た事はありませんから・・・)

『悲しき竹笛』は町工場の親方さんが触れておられましたが、昭和21年6月の発売で、作詞は西條八十、歌は近江俊郎と奈良光枝。
 最初の接吻映画として喧伝された『或る夜の接吻』の主題歌で、美空ひばりが古賀政男に会ったころ、大ヒットしていました。
 西條八十がつけた最初の題は『哀しき笛』だったが会社の案で『悲しき竹笛』としたのだそうです。少なくとも私の中高校時代には、ひばりの『悲しき口笛』より多く歌われていたと思います。
 有名な『リンゴの歌』に続く戦後最初期のヒット歌謡で、奈良光枝を有名にした歌です。

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写真3


ひとり都のたそがれに
思い哀しく笛を吹く
ああ細くはかなき竹笛なれど
こめし願いを君知るや


花の都はたそがれて
窓にさみしき銀の星
ああ想いせまりて吹き吹く調べ
風よ伝えよかの君に

(ああ細くはかなき配給なれど・・・という左翼的な替え歌も歌われたとか・・・)


■■■ 3.(*2)ひばりが得意だった『長崎物語』について ■■■

 これは戦前の歌なのですが、終戦直後に大ヒットして盛んに歌われていました。
 美空ひばりが古賀政男の前でこれを歌ったのではないか――という意見がありますのは、デビュー前のひばりがこれを大得意としていたからです。
 次のエピソードがあります。

 昭和24年に『河童ブギウギ』や『悲しき口笛』でレコードデビューする前、ある人がコロンビアとひばり側の間に立って、レコード吹き込みを提案したことがありました。
 そこでひばりは大張り切りで『長崎物語』を歌ったそうです。
 まだ持ち歌の無い時代ですから、当時もっとも得意にしていた戦前の歌を歌ったのです。
 結果は発売されず、がっかりしたそうですが、おそらくは仲介した人が無責任で金をせびったか何かだったのでしょう。
 負けん気の強いひばりは相当悔しかったらしく、自伝にその顛末を書いていますが、絶好のチャンスに歌ったほど得意だったのだから、古賀政男の前でも歌ったのではないか――という推理が成立するのです。


赤い花なら曼珠沙華
オランダ屋敷に雨が降る
濡れて泣いてるジャガタラお春
未練な出船の
ああ鐘がなる
ララ鐘がなる

 この『長崎物語』は、梅木三郎作詞、佐々木俊一作曲、由利あけみ歌で、昭和14年10月にビクターから発売されて大ヒットとなり、さらに戦後になって多くの人に歌われて、メロディーが町にあふれました。
 たしか昭和21年か22年のころ、検査に落ちた規格外れのハーモニカ(変な音が出る!)が闇市で超安値で売っていたのを親に買って貰ったとき、中学生だった私はまっさきにこれを吹きました。

 作詞の梅木三郎(黒崎貞治郎)は本職が東京日々新聞の記者で、他に高木東六の名曲として知られる『空の神兵』の作詞などをし、戦後は新大阪新聞、毎日新聞東京本社などの要職にあり、プロ野球毎日オリオンズのオーナーにもなって政治力を発揮した遣り手の人物です。プロ野球問題では物議をかもし新聞だねになった事もあったらしい。

 作曲の佐々木俊一は、ビクターの売れっ子作曲家で、灰田勝彦の『燦めく星座』、小唄勝太郎の『明日はお立ちか』、竹山逸郎の『月よりの使者』(*5)、淡谷のり子の『白樺の小径』、小畑実の『高原の駅よさようなら』・・・など、戦中から戦後にかけて数々の名曲を生んでいます。

 歌手の由利あけみは音楽学校で専門的に学び、女学校の教師から歌手になった人。『熱海ブルース』(佐伯孝夫作詞、塙六郎作曲←この人については別の話題の時に記します)でデビューしたビクターの中堅歌手ですが、なんといってもこの『長崎物語』の大ヒットで有名になった人です。

 この歌謡曲はいわゆる“長崎もの”のはしりですが、詠まれている“ジャガタラお春”は実在の女性で、悲しい物語として知られています。
 いま残されているのは、史実を元にした「物語」ですが、ジャガタラ娘のなかではもっとも記録が残っている人だそうです。
 史上有名な島原の乱のあと、危機感を持った幕府は外人追放を強め、オランダ人をジャガタラ(ジャカルタ)に追放しましたが、そのとき、長崎周辺にいたオランダ人と結婚した日本女性やその子どもたちも、一緒に日本を追われました。
 追われた混血少年少女は、合計して十一人いたとされていますが、ジャガタラお春さんもその一人で、追放当時十四歳でした。

 お春さんは、日本人の母親から大和撫子としてのしっかりとした教育をうけており、短歌をつくることもできました。
 十七歳のとき、ジャガタラから九州の友人に送った手紙に書かれた短歌が記録されています。

思ひやる日本(やまと)の道ははるけきも
夢に間近く越えぬ夜ぞなき

 素朴な望郷の歌で、その素朴さがかえって涙をさそいます。
 当時のオランダは東南アジアに大変な勢力を持っており、インドネシアから九州まで手紙が届いたのですね。
 この手紙が有名な“ジャガタラ文”ですが、それを詠み込んだのが、『長崎物語』の四番の歌詞です。


平戸はなれて幾百里
つづる文さえ着くものを
なぜに帰らぬジャガタラお春
サンタクルスの
ああ鐘がなる
ララ鐘がなる

 お春さんは成人したのち、シナ商人の妻となって、さほど悲惨ではない人生を送ったと伝えられています。
 多少はほっとするお話です。

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『長崎物語』のあと、『長崎の鐘』『長崎のザボン売り』『長崎のランタン娘』『長崎シャンソン』・・・など「長崎もの」がたくさん出来ましたが、私の印象にいちばん残っているのは昭和22年の『長崎エレジー』(島田磬也作詞、大久保徳二郎作曲)です。
 映画は見ていませんが『地獄の顔』の四つくらいもあった主題歌の一つです。この映画の主題歌でいちばん有名なのは『夜霧のブルース』ですけど、私はそれよりも『長崎エレジー』の方が好きでした。


波が歌うよ長崎の
港めぐれば石だたみ
愛の灯(ひ)ともす希望の家に
サンタ・マリアの鐘が鳴る


君に捧げた純潔は
永遠(とわ)に散らさぬ白い薔薇
乙女心は青(ブルー)の海に
夢を浮かべてすすり泣く


親がなければ孤児(みなしご)の
歌もかなしや片羽鳥
顔で笑って心で泣いて
行くぞ嵐が俺を待つ

 何度でも聞きたくなる名曲です。


■■■ 4.(*3)ひばりの父親が好きだった『裏町セレナーデ』について ■■■

 野村俊夫作詞、霧島昇と二葉あき子歌。
 昭和21年10月発売ですから、ひばりが古賀政男に面会した時はよく歌われていた筈です。
 後に同名の歌が吉田正作曲で出来たので混乱しますが、これは終戦直後の歌で、焼け跡の悲惨な状況の中で希望を見出そうという歌詞です。
 歌の流行を見ますと、本当に悲惨な時代には『リンゴの歌』のような明るい歌が流行り、少し落ち着いてくると『湯の町エレジー』のような悲しい歌が流行るのですね。
 この歌は『悲しき竹笛』に押されたためか爆発的なヒットにはならず、古賀政男も残念がっていたそうですが、ひばりの父親のような歌謡曲好きはよく歌っていたのでしょう。


花の都に身はうらぶれて
影もやつれた八日月
帰るねぐらにたゞ待つものは
暗い曠野(あれの)のあゝ夜の風


一人うたえば淋しい唄も
二人うたえば夢ごころ
星の小窓に楽しくうたう
愛の調べのあゝセレナーデ

「この歌の三行目にとくにご苦心の跡がありますね。「たゞ待つものは」の部分は光っております」
 ――と音楽記者の森一也が言うと、古賀政男は微笑して、
「そこ迄解ってくれる人は少ないよ。有り難う」
と言ったそうです。
 たしかに、いかにも古賀メロディらしい節回しです。
 小節のきかせどころですね。

 前奏や間奏にスチールギターが使われていました。


■■■ 5.(*4)ひばりの母親が好きだった『女の階級』について ■■■

 昭和11年12月発売の歌で、村瀬まゆみ作詞、楠木繁夫歌。吉屋信子原作の映画『女の階級』の主題歌です。
(村瀬まゆみは島田磬也の別名です)

 吉屋信子は戦前から戦後にかけて活躍した女流作家。
 少女ものが多いので私は読んだ事がないのですが、戦前有名だった作家です。
 私的な事で恐縮ですが、母が吉屋信子の英語の家庭教師をしていたので、家に通っていたらしいです。よく話に聞きました。文学上の用語を盛んに質問されるので解らず困ったそうです。

(『三百六十五夜』で町工場の親方さんが触れておられた女優の山根寿子さんの家庭教師もしていました)

これは『三百六十五夜』の楽譜です。
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写真6

『女の階級』の古賀メロディとしての位置づけは、私の勝手な評価ですが、同じ年に出た『男の純情』と対をなすと思っています。

これは『女の階級』の楽譜です。
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写真5


君に捧げた純情(まごころ)の
愛が女の生命なら
弱い涙は今日かぎり
すてて茨の道を行く


君を信濃の高原に
涙かくして見送れば
靡く煙も一すじに
燃えて火を吐く浅間山


■■■ 6.(*5)『月よりの使者』の歌い出しについて ■■■

『長崎物語』の所で『月よりの使者』に注(*5)をつけましたが、それは上の『三百六十五夜』との関係です。
 古賀政男の『三百六十五夜』は昭和23年7月発売。佐々木俊一作曲の『月よりの使者』は翌昭和24年の3月発売。
 佐々木俊一は、『月よりの使者』を作ったとき、歌い出しの部分がどうしても大ヒット中の『三百六十五夜』に似てしまうので、一升瓶をぶら下げて古賀邸に行って、「お許しを・・・」と頼み、古賀はこれを了承したので、発売に漕ぎ着けた――という話があります。
 昔有名な話でした。
 しかしこの二つの曲は、雰囲気がまった違っており、歌い出しが同じだと感じる人はあまりいないと思います。
 たしかに両曲ともに「ミ」で始まって「オクターブ上のミ」に移り、ついで「ド→シ→ラ」となりますが、出だしの「ミ」の長さがまったく違っていて古賀作品は「ミミ→上のミミ」ですし佐々木作品は「ミミミ→上のミ」です。またその後も長短もまったく違いますから、真似とは言えないと思います。
 曲や詩の同一性はよくトラブルになりますが、短い断片を取り出して議論するべきではないと思います。ただその境界が難しいですね。

(『月よりの使者』をSFと間違える人がいるらしいですね!)

〈以上はチャンネル桜の憂児さんの掲示板「古来閑話」に掲載したものです〉


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