■■■ 紀元節復活と田中卓博士の献身(オロモルフ)■■■


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4215『紀元節復活と田中卓博士の献身1』◆◆◆

『皇統の危機に思う』から抜萃いたします。

◎GHQ命令による紀元節の廃止と復活運動

 日本の建国を祝う国家の公的な祝日としての「紀元節」は、明治五年にきまった改暦――旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年一月一日とする――の直後に定められたもので、明治六年は暫定的に一月二十九日として祝いましたが、同年十月の布告で、二月十一日を休暇として奉祝することが決められました。
 その根拠は、『日本書紀』の神武天皇の即位の記録です。
 神武紀につぎのようにあります。

辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年、尊正妃爲皇后。
(辛酉の年の春正月の庚辰の朔(一日)に、神武天皇は橿原宮に即位された。この年を天皇の元年とし、正妃を尊んで皇后とされた)

 おめでたいとされる辛酉(しんゆう)の年を『記紀』から推定し、さらに正月の一日を政府の学者塚本明毅が西暦に換算(推理)して、紀元前六百六十年の二月十一日を紀元(皇紀)と定め、祝日にしたわけです。
 推古天皇の辛酉の年(第二蔀の初め)をひとつの基準にしたと言われています。

 これが「紀元節」のいわれで、現在の「建国記念の日」ですが、当然ながら終戦によって大きな混乱が起こりました。
 戦後の最初の紀元節は昭和二十一年ですが、とりあえず昭和二十三年までは、旧来のままで機能しておりました。
 しかし、昭和二十二年から社会党でキリスト教徒の片山総理が「新憲法にふさわしい祝日」を新たに定めることにし、「紀元節」を「建国の日」として残す案はつくったものの、GHQ(進駐軍)の意見によって二月十一日は消されてしまいました。

 新しい祝日は昭和二十三年七月に施行されましたが、そこに紀元節が無かったことを不満とする多くの人たちが協力して、占領が終了した昭和二十七年から、「紀元節復活運動」が盛り上がりました。
 世論は復活意見が圧倒的でしたが、左翼政党やいわゆる文化人の反対があり、昭和三十二年から改正案が国会に出されたものの、審議未了が延々と続き、なかなか復活しませんでした。
 しかし根強い国民の希望があり、昭和四十一年六月、佐藤内閣の時に「日付は審議会で決める」という条件付きで「建国記念の日」を設ける法律が国会を通り、その「審議会」での激しい討論の末、憂国の士の執念が実って、実質「紀元節」の復活である二月十一日の「建国記念の日」が決まり、翌昭和四十二年から実施されました。

 この復活案は与野党の激しい攻防の舞台となって長い時間がかかったのですが、左翼傾向の歴史家や文化人の運動に対しては、後に述べる田中卓博士らの奮闘のほかに、津田左右吉の賛成論が有効だったようです。
 津田は戦前の正史批判で有名なため左翼古代史家たちの偶像でしたが、「史実ではないが、キリストや仏陀の降誕も同様なことだ」として、儀式としての祝日を是認したのです。

 さて、「紀元節」が「建国記念の日」として復活するまでの二十年に近い保守派対反日派の攻防の中で、じつに異色の活動をしたのが、反日派の側に立った三笠宮殿下だったのです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4216『紀元節復活と田中卓博士の献身2』◆◆◆

◎紀元節反対運動に邁進された三笠宮殿下

 三笠宮殿下の「紀元節復活反対の御発言」を、いくつか記しておきます。
 参考にしたのは里見岸雄の著作です。

「・・・二月十一日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが、肝心の歴史学者の発言が少ないのはどうしたわけか。・・・先日松永文相に会ったとき、「日本書紀に紀元節は二月十一日とは書いてない」といったら驚いていた。・・・このさい、この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ、二月十一日・紀元節反対運動を展開してはどうか・・・。この問題は純粋科学に属することであり、右翼左翼のイデオロギーとは別である。(『毎日新聞』昭和三十二年十一月十三日/左派学者三島一氏の還暦を祝う会での挨拶)」
「茅誠司学術会議会長に、紀元節反対運動を起こすことを要請」
「私の紀元節反対論について、反対の意見が来るが、結論ばかりである。(『文藝春秋』 紀元節についての私の信念/昭和三十四年一月号)」
「真理を主張するのがなぜいけないのか。(同前)」
「紀元節の問題はすなわち日本の古代史の問題である。(同前)」
「日本紀元二千数百年といふ思想は決して古来から存在したものではなく、むしろ西暦紀元の輸入に伴って明確化した。(同前/これは正しくなく平安時代からだそうです)」
「(紀元節復活に反対するのは)生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての、責務である。(同前)」
「もし二月十一日が祝日にきまれば、われわれはその廃止運動を展開するであろう。(同前)」

 周辺の人たちの困惑が目に浮かびますが、宮様は、国家の儀式としての紀元節論と歴史学における国家紀元論とを混同しておられ、その混同は、いくら指摘されても直らなかったそうです。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4217『紀元節復活と田中卓博士の献身3』◆◆◆

◎紀元節問題での里見岸雄の諫言

 里見岸雄博士は日蓮系の異色の愛国者で、現在の国体学会(雑誌「国体文化」を刊行)の元を作った人ですが、当然ながら紀元節復活に邁進しておりましたから、これら三笠宮殿下の御言葉や御活動には慨嘆し、「諫言」を公表しました。

『紀元節反対運動を煽動する三笠宮の演説に就いて』(『国体文化』昭和三十三年一月)
   A 毎日新聞の記事
   B 記事の信憑性について
   C 紀元と紀元節
   D 紀元節反対運動の煽動
   E 純粋科学の煙幕
   F 皇族を御辞退になる道
   G 宮内庁長官に

 ABC・・・は目次ですが、里見岸雄は激しながらも、紀元節のいわれや、紀元節論と紀元論とは異なることや、紀元節反対運動は科学ではなくイデオロギーである事など、諄々と説き、皇族を御辞退なさる道を暗に示しています。
 これについで、

『皇族言論の限界』(『国体文化』昭和三十三年四月)
『三笠宮の紀元節反対理由を読む――文藝春秋一月号「紀元節についての私の信念」に対する批評――』(『国体文化』昭和三十四年二月)

 ――においても、厳しい「諫言」を公表しました。

 これらに書かれていることは、いちいちもっともであり、一般人どうしの論争ならば、里見岸雄の完勝ですが、なにしろ対宮様ですので、そうはいきません。
 どうやらこの時代の三笠宮殿下は、左翼学者におだてられて、「裸の王様」になってしまっていたようです。
 そこで里見岸雄は、ついに爆発してしまいます。
 それが次の公開意見です。

『三笠宮に皇籍離脱を勧告す』(『国体文化特集「三笠宮勧告号」』昭和三十四年五月)
 A はしがき
 B 男らしい責任
 C 皇族軍人としての無責任と見当違いの弾圧感
 D 評者の場合
 E 皇族の特権享受は満点だが
 F 皇族の義務は?
 G 皇族の本文をどう考へるか
 H 宮は先ず自ら憲法を守らねばならぬ
 I 宮の常識は健在か
 J 宮は国民統合の準象徴とならず紀元節反対の一部国民統合の象徴と化しつつある
 K 懇願と勧告

 もはや挑戦状に近い激烈な書き方になっております。
 中には、宮内庁長官への公開質問もあります。
 それは、
「三笠宮の紀元節反対が書かれている著作にある住所が、自邸ではなく宮内庁内となっているが、これは不偏不党でなければならない皇族の本分に反するのではないか」
 ――というものです。
 憲法違反ではないか――との糾弾もあります。

 そして最後のKのところで、
「三笠宮に、速やかに皇籍を離脱し、一平民となられるべきであると勧告申しあげる」
 ――と述べております。
 里見岸雄はかなりの有名人でしたから、この書状を送りつけられた宮内庁の困惑が目に浮かびます。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4218『紀元節復活と田中卓博士の献身4』◆◆◆

◎紀元節問題での田中卓博士の尽力 一

 田中卓博士は、日本の古代史を専門とされる碩学で、元皇學館大学学長、現同大学名誉教授です。
 戦後の左翼史観と闘ってこられたことで有名な学者ですが、その田中博士が、「紀元節」をめぐる左翼学者との論争を、つぎのエッセイで回顧しています。

『祖国再建20』(『諸君!』平成十七年八月号)
 目次は――
 1「建国記念の日」国会で成立の経緯
 2 熾烈を極めた左派歴史家の反対運動
 3 新聞にスクープされた三笠宮殿下の御発言
 4 賛成派による『神武天皇紀元論』の刊行
 5 三笠宮殿下の東大「史学会」退会宣言
 6 反対声明を報告する「史学会」を糺す
 7 建国記念の日「二月十一日」説の根拠
 8「審議会」と、その後のことども

 このエッセイには、田中博士が情熱を注いで左翼学者と闘い、論破し、「建国記念の日」の理論的根拠を示した経緯が述べられているのですが、そのなかに、三笠宮殿下問題が記されております。
 できれば原文を見ていただきたいのですが、ここでは、三笠宮殿下に関する事項を中心に、かいつまんでご紹介いたします。

 エッセイの冒頭で田中博士は、つぎのように述べています。
「人生、誰しも幾たびかの正念場を迎えるものですが、私にとっての最大の正念場は、「建国記念の日」二月十一日の是非をめぐる論争でありました。・・・(もし別の日になれば)それは耐えがたい恥辱であり・・・大学における歴史の教壇を去る覚悟でありました」

 田中博士によると、「紀元節」復活問題についての当時の意見は、つぎの三つに分類されます。
(一)先祖伝来の歴史と伝統を尊重する立場
(二)戦前の日本を否定し、戦後に新しい国家が成立したと見る立場
(三)現在はまだ天皇制とアメリカ帝国主義が支配する時代であって、真の建国は人民が将来に戦い取るべきものとする立場
 このうち、(一)が従来の紀元節を尊重する立場であることは当然ですが、(二)については、公明党による四月二十八日説、社会党による五月三日説などがあったそうです。(三)は共産党の立場です。


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4219『紀元節復活と田中卓博士の献身5』◆◆◆

◎紀元節問題での田中卓博士の尽力 二

 こういう問題が議論されますと、世論調査がよくなされますが、それは昭和二十年代から一貫して「紀元節」賛成が多数派だったそうです。
 しかし、いわゆる戦後の進歩的文化人(反対派には、著名な歴史学者がずらりと並んでおります)の多くは「紀元節」反対を唱え、署名と声明、国会陳情などがなされ、さらに「紀元節」を批判するいくつもの著作が出されたそうです。
 たとえば、昭和三十二年から三十三年にかけて、
『日本の建国』日本史研究会(編)
『神武天皇』門脇禎二
『紀元節』歴教協(編)
 ――といった本が出されたそうです。

 しばらくの間は、反対派の運動が目立っていたのですが、昭和三十二年十一月に、前述しました三島一還暦祝賀会での三笠宮殿下のご発言がスクープされるに及んで、憂国の史家が立ち上がるようになりました。
 そして、昭和三十三年四月に、

『神武天皇紀元論――紀元節の正しい見方――』(日本文化研究会編/立花書房)

 ――が刊行されました。
 この本は、大阪の住吉大社の高松忠清宮司が熱烈にプロモートし、編集・刊行を若き日の田中卓博士が遂行されたそうです。

 企画から出版までわずか一ヶ月半というスピードで、当時の憂国の史家がいかに危機感を抱いていたかがわかります。
「紀元節」賛成の論文集であり、執筆者は、平泉澄・肥後和男・樋口清之・葦津珍彦・小野祖教・田中卓・・・など、ベテランから若手まで二十五名の学者でした。
 田中博士は、この書が完成するとすぐに、三笠宮家に献上したそうです。
 殿下とは正反対の意見を集めた論集を献上するのですから、これも「諫言」の一種でありましょう。

(この論文集のなかで、葦津珍彦氏が、
「・・・マス・コミの製作者たちが、このやうな偏見にとらはれてゐる限り、その報道の公正を期待し得ないのは当然である。紀元節復活を望む十数万の大衆が、全国的に大集会を開き決議をしても黙殺する。そして僅かに三十人か五十人の片々たるインテリ評論家が、小さな集会を開いて反対の決議をすると、三段四段の大きな見出しで報道する。国会に十数万通(一通に百余名の連署したものもある)の請願書が山積してゐても見向きもしない・・・」
 と記しているのが印象的です。マスコミの偏向体質は昭和三十年代からだったと分かります)


◆◆◆ オロモルフ号の航宙日誌4220『紀元節復活と田中卓博士の献身6』◆◆◆

◎紀元節問題での田中卓博士の尽力 三

 このような田中博士らの苦心にもかかわらず、三笠宮殿下の「紀元節」反対のお気持ちは改まらず、著名な左翼系の学者に直接電話をかけたり自筆書簡を郵送したりなさったほどの熱意だったそうです。
 そして、昭和三十三年十一月、「史学会」の大会総会において、「反対決議をせよ」と強く主張し、理事長の坂本太郎博士が「政治的」だとして拒否すると、脱会を宣言して退場なさいました。
 さらにこのあと昭和三十四年に、ご自身が編纂者となって『日本のあけぼの』(光文社)を刊行されました。田中博士らの『神武天皇紀元論』への対抗だったのでしょう。
 また、この年に出た有名な和歌森他編の『日本の歴史』(読売新聞社)の第一巻「日本のはじまり」にも、「紀元節」批判が書かれています。

 昭和四十一年になって「日付は審議会で決める」という条件付きで「建国記念の日」が国会を通ったことは前記しましたが、その「審議会」におきまして、田中博士は学問に立脚した熱弁をふるわれたそうです。
 こうした十年にわたる「民族派や歴史・伝統派」と「左派の歴史家・日教組など」とのしのぎを削る抗争が決着し、「紀元節」の復活といってよい二月十一日の「建国記念の日」が成立しました。
 そして、三笠宮殿下のハッスルぶりも空中分解してしまいました。

 ただし田中卓博士は、里見岸雄博士にくらべてはるかに冷静であり、古代エジプトに関する三笠宮殿下のご研究には、敬意を表しておられます。
 田中博士の古代史における業績は、『田中卓著作集全十二冊』(国書刊行会)、『田中卓評論集』(青々企画)などで学ぶことができます。

 上から順に、
里見岸雄『天皇及三笠宮問題』
田中卓編『神武天皇紀元論――紀元節の正しい見方――』
田中卓『祖国再建上下』



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