■□■□■ 女性天皇の歴史(オロモルフ)■□■□■


■■■■ まえがき ■■■■


 本稿は、推古天皇にはじまる女性天皇の歴史のまとめです。
 敬宮愛子様のご誕生に関連しまして、女性天皇についての意見がよく聞かれるようになりましたが、その大部分は、皇室への敬愛心に乏しい浅薄なものと感じます。
 また、皇族の方々の御立場というものを、まったく考慮していない意見も多いようです。

 女性天皇の問題を論じるためには、まず第一に、その歴史を勉強してみる必要があると思います。
 そして、史料に基づいて意見を述べるべきだと思います。
 著者は、皇統の問題を心配する一国民としまして、自分なりに「女性天皇の歴史」を勉強し、まとめてみました。
 そしてその結果、歴代の女性天皇のファンになってしまいました。
 じつに穏やかで優しく、国のために一身を捧げた女性天皇が多いのです。

(なお本稿は昨年出版しました『女性天皇の歴史』の第二刷の第一章を修正したものです。この本は過日フジテレビで紹介されておりました)

(天皇の御名や人名はなるべく昔からの漢字を用いておりますが、インターネットでは出にくい文字も有りますので、不完全です。例えば稱徳天皇など・・・)


■■■■ 目次 ■■■■


 一  十代御八方の女性天皇
 二  第三十三代 推古天皇
 三  第三十五代 皇極天皇・第三十七代 齊明天皇
 四  第四十一代 持統天皇
 五  第四十三代 元明天皇
 六  第四十四代 元正天皇
 七  第四十六代 孝謙天皇・第四十八代 稱徳天皇
 八  第百九代 明正天皇
 九  第百十七代 後櫻町天皇
 十  歴代女性天皇のおかれた環境
 十一 女性天皇の歴史のまとめ
 十二 現在の皇族の方々
 十三 いくつかのご意見と文献


■■■■ 一 十代御八方の女性天皇 ■■■■


 さいきんでは「女性天皇」という言い方がはやっているようですが、本来は「女帝」だと思います。
「女帝」というのは「女性の天子様」という意味ですから、使用しておかしくない言葉です。
 しかし、「目白の女帝」といった使い方もされているので誤解される恐れもあり、本書では「女性天皇」といたします。

 日本の歴史をひもときますと、正史で天皇と認められている女性天皇は、つぎの十天皇です。
 ただし齊明・稱徳両天皇は重祚なので、実質は御八方です。
〔 〕内の上は降誕崩御の西暦年、下は在位期間の西暦年です。

 第三十三代 推古天皇〔554-628/592-628〕     ↓飛鳥時代
 第三十五代 皇極天皇〔594-661/642-645〕
 第三十七代 齊明天皇(=皇極)〔594-661/655-661〕
 第四十一代 持統天皇〔645-702/686-697〕 注 正式即位は690
 第四十三代 元明天皇〔661-721/707-715〕     ↓奈良時代
 第四十四代 元正天皇〔680-748/715-724〕
 第四十六代 孝謙天皇〔718-770/749-758〕
 第四十八代 稱徳天皇(=孝謙)〔718-770/764-770〕
 第百九代  明正天皇〔1623-1696/1629-1643〕   ↓江戸時代
 第百十七代 後櫻町天皇〔1740-1813/1762-1770〕

 これ以外に、古代において事実上の女性天皇だったのではないかと思われる皇族が何方かおられます。
 たとえば――

 第九代と第十代の間? 倭迹迹日百襲姫命(孝靈天皇の皇女)
 第十四代と第十五代の間 神功皇后(仲哀天皇の皇后)
 第二十二代と第二十三代の間 忍海飯豊青尊(顯宗天皇の姉君)
 第三十八代と第三十九代の間 倭姫王(天智天皇の皇后)

 ――が考えられます。

 著者は、これらの皇族は今からでも天皇の位を追贈するべきだと考えておりますが、それはまた別の問題です。

(明治になって新たに謚号を贈られ歴代に加えられた第三十九代弘文天皇、昭和に入って確定した第九十八代長慶天皇のような御方もおられるのですから、あながち不可能なことではないと思っています)

 以下、正史における女性天皇の系図、即位の理由、お人柄などを解説いたします。


■■■■ 二 第三十三代 推古天皇 ■■■■


◆◆◆ 推古天皇を囲む系図 ◆◆◆

 推古天皇は第二十九代欽明天皇と堅塩媛(蘇我稻目の娘)の間に生まれた皇女で、名を額田部皇女/豊御食炊屋姫といいます。
 まず、頭を整理するために、その系図を、簡略化して示しておきます。

(以下の系図のIは婚姻関係を示します。書き方が難しいので、長幼の順になっているとは限りません)

          廣姫(敏達前皇后)
           I               |――茅渟王(皇極、孝徳天皇の父)
  石姫      I―――彦人大兄皇子―|
   I        I               |――舒明天皇(34代)
   I――――敏達天皇(30代)
   I          I
 欽明天皇(29代)  I―――二男五女
  I I          I
  I I――[推古天皇](33代/敏達皇后/女性天皇)
  I I
  I I―――用明天皇(31代)――聖徳太子
  I I
  I 堅塩媛(蘇我稻目の娘)
  I
  I―――――崇峻天皇(32代)
  I
  小姉君


◆◆◆ 推古天皇を囲む系図の概説 ◆◆◆

 異母兄の第三十代敏達天皇の皇后ははじめ廣姫でしたが、皇后になってすぐに崩御されたため、額田部皇女=推古天皇がつぎの皇后となりました。
 つまり異母兄の後添えとなったわけですが、古代ではこのような異母兄妹婚は珍しくはなく、度重なる近親婚が天才を生んだと言われています。

 額田部皇女の立后時の年齢は二十二歳くらいだったようです。
 そして敏達天皇が崩御されるまでの十年ほどの間に、皇后として二男五女をもうけられました。
 ほとんど毎年出産なさっていたことになりますが、それでも宝算七十四という長命だったので、芯の強い体質だったのでしょう。
 先般崩御された香淳皇后もまったく同じ男女御子数で、しかもさらに長命であられました。多産の方は長寿が多いようです。

 敏達天皇のあとの第三十一代は推古天皇の同母兄の用明天皇、第三十二代は異母弟(異母兄との説もある)の崇峻天皇でしたが、用明天皇の在位は短く、また崇峻天皇は蘇我馬子の陰謀によって即位後まもなく殺害されてしまいました。

 額田部皇女は、この重大事件のあとを受けて、たぶんに政治的な理由があって、第三十三代の天皇として即位し、正史上は史上初の女性天皇・推古天皇になりました。
 即位時の御年齢は三十八歳といわれていますから、三十一歳くらいで皇太后になってほぼ七年して天皇に即位したことになります。
 そして七十四歳で崩御されるまで在位されました。

 実質の祭政は実の甥にあたる聖徳太子が摂政としておこなったと言われています。ただし太子は推古天皇崩御のすこし前に薨去されています。
 注意すべきは、推古天皇の二男五女は天皇になる前の敏達皇后時代の皇子皇女だという事で――夫の敏達天皇が先に崩御しているので当然ではありますが――天皇に即位してからの御子はおられませんし、夫もおられません。

 これは現在の女性天皇問題を考えるときに重要なことですので、記憶しておいてください。
 また、その二男五女の誰も、のちの天皇にはなっていません。
 ただし皇女たちは、聖徳太子、彦人大兄皇子、舒明天皇・・・に嫁するなど、天皇の立場を支えています。

 ごちゃごちゃしますので、略年譜を記します。
 ただし古い時代のことですから、年代年齢はおおまかな数値と考えてください。


◆◆◆ 推古天皇の略年譜 ◆◆◆

◇降誕
(西暦五五四年と推定。欽明天皇と堅塩媛の間に額田部皇女として生まれる。以下御年齢はこの年を基準にする)
◇二十一歳
 この年、敏達天皇の皇后・廣姫が立ったが、その年に崩御。
◇二十二歳
 そこで額田部皇女があとをついで皇后になる。敏達天皇との間に二男五女をもうけられる。
◇三十一歳
 夫の敏達天皇崩御し、皇太后となる。同母兄の用明天皇が即位。
◇三十三歳
 用明天皇崩御し、異母弟の崇峻天皇が即位。
◇三十八歳
 崇峻天皇が殺害される。そのあとを継いで、日本初の女性天皇として即位し、推古天皇となる。同時に実の甥の聖徳太子を皇太子とする。そして以後、聖徳太子を補佐(摂政)として祭政を行う。
◇六十八歳
 聖徳太子薨去。
◇七十四歳
 崩御。この時代としてはまれにみる御長命で、天寿を全うされた。六世紀から七世紀にかけての時代に、これだけの長命はめったに見られないであろう。


◆◆◆ 推古天皇のお人柄 ◆◆◆

 推古天皇は、圧倒的な天才だった聖徳太子に助けられたとはいえ、初の女性天皇にふさわしい怜悧な女性だったと考えられます。
 蘇我馬子と聖徳太子という天才どうしの意見の対立を調整したと言われています。

 推古天皇の御人柄を示す遺詔(遺言としての詔勅)が『日本書紀』に記されていますので、ご紹介しておきます。

     *

 比年、五穀登らず。百姓大きに飢う。其れ、朕が為に陵を興てて厚く葬ること勿れ。便ち竹田皇子の陵に葬るべし。
(この何年か、不作が続いていて国民が飢えている。だから私のための墓に労力をかけないでほしい。竹田皇子の墓に一緒に埋葬してくれればよい)

     *

 この心優しい御遺言が実行されたことは、最近の発掘によって証明されていますが、外国には例の少ない善政を心がけた女性天皇でした。
 日本初の女性天皇として、のちの女性天皇の模範像をつくったと言ってよいでしょう。


■■■■ 三 第三十五代 皇極天皇/第三十七代 齊明天皇 ■■■■


◆◆◆ 皇極・齊明天皇を囲む系図 ◆◆◆

 先の系図でわかりますように、推古天皇の義理の息子にあたる彦人大兄皇子の皇子が第三十四代の舒明天皇ですが、その皇后に立った寶皇女がのちの女性天皇皇極・齊明天皇です。
 では寶皇女の御両親はどなたかといいますと、

 父親 前掲系図にある、舒明天皇と兄弟の茅渟王(つまり欽明天皇の曾孫)。
 母親 欽明天皇の皇子の一人櫻井皇子の娘である吉備姫王(つまり欽明天皇の孫)。

 ――です。

 要するに、推古天皇や聖徳太子ともつながる欽明天皇の血縁どうしが結婚してお生まれになった皇女で、生まれながらにして天皇・皇后になる運命だったとも言えます。
 皇后に立ったのちに二度も天皇の位についたのですから、それだけでも波乱の時代を感じます。

 まずは系図を記してみます。

       高向王(欽明天皇の曾孫)
         I
         I―――――漢皇子
         I
         I 舒明天皇(34代/欽明天皇の曾孫/前系図参照)
         I  I
         I  I               |――弘文天皇(39代)
         I  I               |
         I  I――天智天皇(38代)―|―[持統天皇](41代/女性天皇)
         I  I               |
         I  I               |―[元明天皇](43代/女性天皇)
         I  I
         I  I――孝徳天皇の皇后
         I  I
 茅 渟 王  I  I――天武天皇(40代/孫に元正、文武両天皇)
   I     I  I
   I――[皇極・齊明天皇](35・37代/舒明皇后/女性天皇)
   I
   I―――孝徳天皇(36代)
   I
 吉備姫王


◆◆◆ 皇極・齊明天皇の略年譜 ◆◆◆

 皇后のほかに二度も天皇になった女傑ですので、簡単に解説するのは困難です。
 その複雑なご生涯は、年齢順に記すのがもっとも整理されるようです。
 ただし昔のことですので御年齢はおおまかな推定です。
 一応満年齢ですが、多少の狂いはやむを得ないと思ってください。

◇降誕
(西暦五九四年/寶皇女と呼ばれた)
◇二十歳頃
 欽明天皇の曾孫で用明天皇の孫にあたり、また聖徳太子の甥にもあたる高向王の妃となり、韓皇子と呼ばれている御子を生んだと伝えられる。
 その後まもなくして夫を亡くしたらしい。
 この高向王も皇族の中の重要な地位(次代の天皇の候補)にあったわけで、寶皇女が生まれながらにして高い地位にあったことがわかる。
 なお高向王や漢王子のその後については、詳細は不明。
◇三十一歳
 田村皇子(舒明天皇)の妃となり、のちの天智天皇、孝徳皇后、天武天皇をつぎつぎにお産みになった。当時としてはかなりの高齢出産である。
 田村皇子は寶皇女にとっては実の叔父である。
 寶皇女の両親も近親結婚なので、ここでもまた何代も続く近親結婚がみられ、その結果として天智天皇(中大兄皇子)や天武天皇のような天才が出現している。
 田村皇子としては、即位を目前にして、皇后にふさわしい有力な皇女だった寶皇女を、高齢を無視してあえて妃に選んだらしい。
 なお田村皇子と寶皇女はほとんど同年齢である。
◇三十六歳
 田村皇子が舒明天皇として即位した二年に皇后となる。
◇四十八歳
 舒明天皇が崩御したため、夫を継いで天皇に即位して皇極天皇となる。
 この即位は、皇子の天智天皇(中大兄皇子)の成長を待つ意味と複雑な政治情勢によるらしい。
◇五十一歳
 蘇我氏滅亡と同時に退位し、同母弟の孝徳天皇に譲位。これは史上初の生前譲位とされる。
◇六十一歳
 孝徳天皇の崩御によって再び即位し、齊明天皇となる。
◇六十七歳
 崩御。百済問題で兵とともに九州に行幸中に急逝された。
 七世紀における七十歳に近い女性の大和から九州への軍事遠征は、想像を絶する重労働だったであろう。


◆◆◆ 皇極・齊明天皇の波乱の御生涯 ◆◆◆

 六十一歳で再び即位されたとき、すでに実子の中大兄皇子は二十九歳になっていましたが、この有名な皇子は、藤原鎌足とコンビを組んで大化改新などの革命に邁進しており、舒明、皇極、齊明と三代の天皇の時代に実質上は日本の指導者として活躍していました。
 すなわち聖徳太子のような摂政に近い存在で、あえて天皇には即位しなかったようです。

 皇極天皇としての位を、史上初とされる生前譲位なさったのは、蘇我氏滅亡が原因とされていますから、それだけでもこの女性天皇の御生涯は波瀾万丈です。

 気宇壮大な女性だったらしく、晩年の齊明天皇の時代には、飛鳥の地に豪華な庭園をつくるために大動員をかけて「狂心の渠」と批判されるなどしたことが知られています。
 その遺跡の一部が亀の形の石の庭園として発掘され、有名になっています。

 また百済が危機に瀕するなど外交問題でも困難な時代を送り、百済を助けて新羅・唐連合軍を討つために自らも兵とともに九州に遠征して、そこで崩御されました。
 実質は中大兄皇子らの働きだったかも知れませんが、それにしても七世紀という昔に、六十代後半というご高齢で九州に遠征するのは、よほど剛毅な女性でなければ不可能なことです。

 崩御してしばらくしてから、長く皇子のままで政治を主導した中大兄皇子が、母親である齊明天皇をついで天智天皇となりました。

 この女性天皇の人生は、推古天皇以上に起伏が激しく、大化改新前後を生き抜いた女傑でした。

 御製を一首、記しておきます。

     *

 飛鳥川漲らひつつ行く水の 間も無くも思ほゆるかも

     *

 これは、皇孫の建王が八歳で薨じたことを嘆いた御製です。
 剛毅なだけではなかったこの女性天皇の一面を表しています。

 皇極・齊明天皇は天才的政治家として著名な天智、天武両天皇をお産みになり、また孝徳天皇の皇后もお産みになっていますが、それはすべて皇后に立たれる前のことでした。
 したがって、天皇に即位してから御子を生むことなど、考えられない御生涯でした。
 むろん在位期間中には夫もおられませんでした。

 これも、推古天皇と同じく、現在の女性天皇問題を考える場合に重要な史実です。


■■■■ 四 第四十一代 持統天皇 ■■■■


◆◆◆ 持統天皇を囲む系図 ◆◆◆

 持統天皇は、「長い日本の歴史における最高の女性」という人もいるくらいの、能力抜群の女性天皇だったと言われています。
 日本初の計画大都市・藤原京を造営しただけでも、大変な業績です。
 のちの人がつけた国風謚号は、「大倭根子天之廣野日女尊(高天原廣野姫天皇)」といい、偉大な日本の基礎を築いた尊敬すべき女性天皇――といった意味で、別格の尊称となっています。
 英傑できこえた天智天皇の皇女ですから、当然ながら、何代にもわたる近親婚が生んだ大天才でした。
 以下にその系図を示します。

 蘇我遠智娘
  I
  I―――大田皇女(天武妃)
  I
  I――[持統天皇](41代/天武皇后/女性天皇)
  I    I
  I    I――――――草壁皇子
  I    I             I
  I   天武天皇(40代)    I――[元正天皇](44代/女性天皇)
  I                 I
  I 倭 姫 王(天智皇后)  I―――文武天皇(42代)
  I  I              I
 天智天皇(38代)        I―――吉備内親王(長屋王の妃)
  I  I              I
  I  I――――――――[元明天皇](43代/女性天皇)
  I  I
  I 姪娘(遠智娘の妹)
  I
  I―――弘文天皇(39代/大伴皇子)
  I
 伊賀采女宅子娘

 ここで、前系図のように天武天皇は天智天皇の同母弟です。
 天智天皇は十四人の皇子皇女があったと言われ、天武天皇には十人の皇子と七人の皇女(計十七人)があったと言われています。
 つまりこの系図には、これら御子のうち天皇や特別重要な皇族のみを記しています。

 すぐに分かりますように、持統天皇は叔父と結婚していますし、その御子の草壁皇子は叔母と結婚していることになります。


◆◆◆ 持統天皇の略年譜 ◆◆◆

 前と同様に、持統天皇の波乱の御生涯を年譜で記します。

◇降誕
(西暦六四五年/*野讃良と呼ばれる。母は右大臣・蘇我石川麻呂の娘の蘇我遠智娘。この年蘇我一族の総帥蘇我入鹿誅殺)
 *≒廬+鳥
◇十三歳
 姉の大田皇女とともに、叔父である大海人皇子(天武天皇)の妃となる。
◇十七歳
 唯一の皇子・草壁皇子誕生。
◇十八歳
 日本軍が白村江の戦いに破れて友邦国百済が滅亡。
◇二十二歳
 天智天皇らがこの敗北の善後策として飛鳥から大津へ遷都を強行。
◇二十六歳
 天智天皇崩御。夫の天武天皇が即位するまでの一年弱の間、天智皇后の倭姫王や大友皇子が一時的に天皇だったとも伝えられる。このため大友皇子は明治になって第三十九代弘文天皇を追贈された。同時に倭姫王も天皇とすべきとの意見が出たが実現はしなかった。
(壬申の乱で大津京が焼亡。都は飛鳥に戻る)
◇二十七歳
 壬申の乱を制した夫が天武天皇として即位する。
◇二十八歳
 皇后に立つ。以後十四年間皇后として辣腕をふるう。
◇三十六歳
 草壁皇子が待望の立太子。
◇四十一歳
 夫の天武天皇崩御、大津皇子の死にともなって天皇として治世。
 以後十一年間治世が続く。
◇四十四歳
 最愛の草壁皇子二十八歳で薨去。
◇四十五歳
 正式に即位。同時に日本初の壮大な計画都市・藤原京の造営開始。
◇四十九歳
 藤原京完成にともない飛鳥から藤原へ遷都。
◇五十二歳
 皇統の難題を処置して、十五歳だった孫の文武天皇に譲位(史上二度目の生前譲位)するが、史上初の太上天皇として政治に関与。
◇五十七歳
 崩御。藤原不比等らによる大宝律令が日本全土に周知された直後だった。五十歳代とはいえ、当時としては相当な御長命だった。


◆◆◆ 持統天皇の御生涯とお人柄 ◆◆◆

 この持統天皇もまた、御子はお妃の時代にお産みになっただけであり、天皇になってからは夫も御子もおられません。皇后時代にも御子はおられません。
 また、ここまでの四代お三方の女性天皇は、いずれも皇后になられてから、夫である天皇の崩御などの事態を収拾するためにあとを継いで即位されていることも、注意すべきです。

 年譜について補足しますと、四十一歳で夫の天武天皇を継いだ時には、大津皇子――天武天皇と大田皇女の間の皇子で実子の草壁皇子とは異母兄弟――の謀反と死という有名な事件がおこっています。

 強調しますが、百済滅亡・壬申の乱・大津皇子の事件などの国難の続く時代に生きて藤原京を造り上げた持統天皇は、日本の歴史始まっていらい最高の女性だったと言っても過言ではありません。
 比較できるとすれば、わずかに古代の卑弥呼または倭迹迹日百襲姫命くらいでしょうか。
 謚号は百襲姫命など古代の有名皇女を上回る「大倭」がつき、さらに古代の天皇の尊称と同じ「根子」もつけられております。別の御名には「高天原」がつけられてもいます。
 持統天皇の偉大さを皆が認めていたのです。

 その治世は退位後も続きますが、即位される前の天武天皇の皇后であった時代においても、夫の善政をよく助けたと言われています。
 たとえば、天武紀の二年五月に次のみことのりがあります。

     *

 婦女は、夫有ると夫無き、及長幼を問ふこと無く、進仕へむと慾ふ者は、聴せ。其の考選せむことは官人の例を准へ。
(女性であっても、役所に就職したいものは許可する。夫の有無や年齢は問わない。その勤務成績の考課は、男性の役人と同様にせよ)

 また天武紀十一年四月のみことのりには、

 今より以後、男女、悉に髪結げよ。

 ――とあり、地の文で、

 婦女の馬に乗ること男夫の如きは、其れ是の日に起れり。

 ――とあります。

 つまり、女性も男性と同じような活動的な姿をし、男性と同じ姿勢で馬にまたがって乗ることを、許したのです。

     *

 これらは、男女平等の考え方が詔勅で明示されたもっとも初期の記録とされてい
ますが、このような詔勅の背後には、天武天皇に忠告した皇后(後の持統天皇)の意見があったのではないか――と推理できます。

 また天武天皇が病気になられたときは、その快癒を願って善政を重ねたといわれております。

 崩御される直前、

 おおげさな事をするな。文官武官は平常どおりにせよ。葬儀は節約を旨とせよ。

 と、推古天皇を見習ったような遺詔をのこされました。

 そして、愛する夫の天武天皇の大内山陵に合葬されました。
 最後の最後まで、民を思い続け、夫に協力し続けた偉大な女性天皇でした。

 おわりに、持統天皇の有名な御製を書いておきます。

     *

 春すぎて夏きにけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山
    (小倉百人一首にあるもの(元は万葉集)です)

 北山にたなびく雲の青雲の 星さかり行き月をさかりて
      (夫である天武天皇崩御のときの嘆きの御製)


■■■■ 五 第四十三代 元明天皇 ■■■■


◆◆◆ 元明天皇を囲む系図 ◆◆◆

 元明天皇の系図は、さほど輻輳しておらず、前節の持統天皇を囲む皇族方の系図によって分かります。
 すなわち、天智天皇の皇女であり持統天皇の異母妹にあたります。
 母親も持統天皇の母の妹であり、蘇我の系列です。
 大和朝廷の血と豪族蘇我一族の血を併せ持った、絢爛たる血統の女性皇族です。
 そして甥にあたり次期天皇の有力候補だった草壁皇子の妃となり、二人の天皇と著名な内親王を生み、そののち自らも天皇になった数奇な運命の皇女です。


◆◆◆ 元明天皇の略年譜 ◆◆◆

 年譜を記します。

◇降誕
(西暦六六一年)
◇十九歳
 ほぼ同年齢の草壁皇子の妃となり、この年のちの元正天皇を御出産。
◇二十歳
 夫の草壁皇子、皇太子となる。
◇二十二歳
 のちの文武天皇を御出産。さらにその後吉備内親王を御出産。
 この吉備内親王は長屋王の妃となり、のちに聖武天皇の御代に長屋王が自殺させられたとき、あとを追って殉死した悲劇の姫君である。
◇二十八歳
 夫の草壁皇子、薨去。
◇三十六歳
 皇子の文武、十四歳で天皇に即位したが、病弱だった。
◇四十歳
 文武天皇の皇子として、のちの聖武天皇がご降誕。
◇四十六歳
 文武天皇が若くして崩御されたが、その皇子(つまり御孫)の聖武天皇はまだ六歳という幼少だったため、四十六歳で藤原宮で即位して女性天皇となった。すなわちわが子の跡を継いで孫のかわりに天皇となった。
 病弱の文武天皇は生前から母への譲位を希望しておられたらしい。
◇四十七歳
 有名な和同開珎を鋳造。
◇四十九歳
 藤原京から平城京に遷都した。
 これは息子の文武天皇の時代から考えられていたことだが、一世一代の大事業であり、藤原不比等らが活躍した。
◇五十一歳
 古事記成立。
◇五十二歳
 風土記撰進の詔勅を出す。
◇五十四歳
 実の娘である元正天皇に譲位し、太上天皇となる。
◇六十歳
 崩御。やはり当時としては御長命であられた。


◆◆◆ 元明天皇のお人柄 ◆◆◆

 この女性天皇もまた、天皇に即位されてからは夫も御子もなく、皇后を約束されていた若い時期に三人の有力な皇子皇女を出産しておられます。

 そして夫が早世したために皇后にはなりませんでしたが、それを約束されていた立場にあり、夫と子供の死後に、御孫が幼少だったために女性天皇となりました。
 これにはいろいろと派閥閨閥の問題があったようですが、男性の天皇が立つまでの中継ぎ的な立場の女性天皇です。

 しかし、たいへん立派な女性天皇だったと思います。

 御製を例示しておきます。

     *

 ますらをの鞆の音すなり物部の おおまえつぎみ(大臣) 楯立つらしも
                          (万葉集より)
     *

 崩御の直前には、「葬儀も謚号も地味にせよ」と、推古天皇以来の伝統を守るつつましい遺詔をのこされました。


■■■■ 六 第四十四代 元正天皇 ■■■■


◆◆◆ 元正天皇を囲む系図 ◆◆◆

 前節にありますように、元正天皇は、元明天皇の皇女であり、また文武天皇の姉にあたります。
 そして、皇后や皇后に準じる立場になく、かつ御子もおられなくて女性天皇になった初めての皇族です。
 系図は簡単ですが、持統天皇の系図の一部を再掲し、その後をすこし追加します。

  草壁皇子
   I
   I――[元正天皇](44代/女性天皇)
   I
   I―――文武天皇(42代)
   I      I
   I      I―――――聖武天皇(45代)
   I      I         I
   I   藤原宮 子 娘    I――[孝謙・稱徳天皇](46・48代/女性天皇)
   I   (不比等の長女)   I
   I               I―――皇子(夭折)
   I               I
   I   藤原不比等――光明皇后(不比等の三女)
   I
   I―――吉備内親王(長屋王の妃)
   I
 [元明天皇](43代/女性天皇)


◆◆◆ 元正天皇の略年譜 ◆◆◆

 年譜を記します。

◇降誕
(西暦六八〇年/草壁皇子と元明天皇の間のたぶん長女として降誕。文武天皇や長屋王妃の姉にあたる)
◇三十五歳
 母親にあたる元明天皇の譲位によって即位し元正天皇となる。
 母親は太上天皇となる。
◇三十八歳
 養老律令編纂開始。
◇四十歳
 日本書紀完成。
◇四十四歳
 退位して甥の聖武天皇に譲位(聖武天皇は即位時二十三歳)。
◇四十九歳
 妹にあたる吉備内親王が長屋王の死に際して殉死。
◇六十八歳
 崩御。やはり御長命で、天寿を全うされた。


◆◆◆ 元正天皇のお人柄 ◆◆◆

 この女性天皇は血統はじつに絢爛たるものですが、そのご性格は、これまでの女性天皇のなかではもっとも地味な感じがいたします。
 それは以下のような理由によります。

 第一に、生涯独身であられたと伝えられていること。
 第二に、当然ながら皇子皇女はおられないこと。
 第三に、自分が天皇になるとは全く考えておられなかったと想像されること。

 仮に野心があったとしても、弟に文武天皇がおられ、またその皇子に聖武天皇がおられたわけですから、ふつうなら、即位などとうてい考えられないのです。

 この女性天皇が三十五歳で即位した西暦七一五年には、甥にあたる聖武天皇はすでに十四歳になっていました。
 弟の文武天皇が即位したのがやはり十四歳のときですから、元明天皇から直接聖武天皇になっても少しもおかしくはありませんし、また十四歳では頼りないというのなら、元明天皇がもう少し在位されればよかったわけです。
 というわけで、いろいろな説があるようですが、やはり聖武天皇が成人するまで元明、元正二代の母娘天皇が間をつないで頑張った――という事なのでしょう。
 たしかに言えることは、生涯夫も御子もおられない初めての女性天皇で、しかもご本人の野心とはまったく無関係に即位された女性天皇だということです。
 そしてこのような即位は、江戸時代になって再び見られるようになります。

 女性の職業に関しては、『続日本紀』に、西暦七二二年に「始置女醫博士」との記録があります。
 大宝律令に従って女性の産科医や看護婦を教える先生を初めて置いたという記録なのでしょう。

 御製を一首記しておきます。

     *

 そらみつ大和の国は神柄し 尊くあるらしこの舞みれば

     *


■■■■ 七 第四十六代 孝謙天皇/第四十八代 稱徳天皇 ■■■■


◆◆◆ 孝謙・稱徳天皇の時代背景 ◆◆◆

 この女性天皇は、東大寺建立で有名な聖武天皇と、貧しい国民を救った善政伝説を持つ光明皇后の間の皇女として降誕されました。

 この時代――八世紀――になりますと、藤原家の権勢がますます盛んになっており、元正天皇が譲位した甥の聖武天皇の皇后は、藤原不比等の第三女であった有名な光明皇后でした。
 光明皇后は西暦七一六年に十六歳で皇太子時代の聖武天皇の妃殿下となり、七一八年に後の孝謙・稱徳天皇である阿倍内親王をお産みになり、聖武天皇が即位してから三年後の七二七年に皇子をもうけられました。
 ながく皇子に恵まれなかったので、聖武天皇は大変な喜びようだったと言われますが、残念ながらこの皇子はわずか一年で病没してしまいました。

 光明皇后は西暦七二九年の長屋王事件のすぐあとで皇后に立ちましたが、これは内親王以外が皇后になるという異例の立后だったようです。

 この時代だけ皇后の御子が皇嗣――天皇を継ぐ第一順位――という原則ができていたらしく、夭折した皇子にかわって女性ながら阿倍内親王が皇太子になりました。
 これは、皇女が立太子した最初の例だと言われています。

 それがすなわち孝謙・稱徳天皇で、波瀾万丈な御生涯をおくられ、史上有名な事件が記録されている女性天皇です。
 系図は前節をご覧ください。


◆◆◆ 孝謙・稱徳天皇の略年譜 ◆◆◆

 年譜を簡単に記します。

◇降誕
(西暦七一八年/父聖武天皇、母光明皇后の長女阿倍内親王として降誕)
◇六歳
 父親の聖武天皇即位。
◇九歳
 弟の皇子誕生。
◇十歳
 弟が夭折。
◇二十歳
 女性として史上初の皇太子になる。
◇三十一歳
 父親の聖武天皇が退位し、そのあとをうけて即位して孝謙天皇となる。
 退位された聖武天皇は太上天皇となる。
 政治の実際は藤原一族の考えのもとに光明皇后が取り仕切っていたとされる。
 聖武天皇が生前に皇女に譲位した理由は様々言われているが、病気がちなことと政治より仏教に興味が移ったためらしい。
◇三十四歳
 孝謙天皇は父のために大仏殿建立を急ぎ、聖武、光明、孝謙お三方によって東大寺大仏殿開眼供養会がひらかれた。
◇三十八歳
 父の聖武天皇崩御。
◇三十九歳
 それまで皇太子だった道祖王を廃して天武天皇の皇子の舎人親王の子である大炊王を皇太子にした。
 これは藤原仲麻呂の策とされる。
◇四十歳
 大炊王に譲位し、太上天皇になる。この譲位はご自身の意志ではなかったとされている。
 大炊王が第四十七代淳仁天皇として即位。
◇四十二歳
 母の光明皇后崩御。
◇四十四歳
 このころから、怪僧とも言われた野心家の道鏡を寵愛しはじめ、その影響で藤原仲麻呂や淳仁天皇と不仲になる。
◇四十六歳
 藤原仲麻呂+淳仁天皇の軍と軍事対決となり、仲麻呂は殺害され、孝謙上皇は、淳仁天皇に廃帝を宣告して淡路島に幽閉した。
 そして自身が稱徳天皇として重祚した。
◇四十七歳
 幽閉された淳仁天皇は耐えられず逃亡をはかるが捕らえられて崩御。
◇五十一歳
 宇佐八幡宮から、道鏡を皇位につけよ――との託宣が奏上される。
 しかし稱徳天皇は疑問に思い、和気清麻呂を八幡宮に派遣して再度託宣を求めた。
 道鏡は清麻呂に「自分に都合の良い神託」をうけるよう唆したが、清麻呂は「君臣の分は定まっている」という神託をうけた旨奏上する。道鏡は怒って清麻呂を流罪にした。
(このため、清麻呂は道鏡の野望を挫いた忠臣として知られ、神社に祭られている)
◇五十二歳
 崩御。少し前からご病気で、そのことがさらに道鏡を増長させたのかもしれない。


◆◆◆ 孝謙・稱徳天皇の御生涯 ◆◆◆

 略年譜で分かりますように、まことにもって大変なご生涯で、とくに妖僧道鏡の件は、皇統にとっては武烈天皇以来の危機でした。

 このあとは天智天皇の皇孫にあたる第四十九代光仁天皇が即位され、皇統は久しぶりに天武系から天智系に移りましたが、その血統には親王が多くおられたので、女性天皇の必要が無くなりました。

 さて、この孝謙・稱徳天皇も、夫がおられず、したがって御子もおられません。
 当時孝謙天皇以外に嫡流が無くなっていたため女性として初の皇太子になったわけですから、夫を持つことは考えられなかったのでしょう。

 道鏡とこの女性天皇の間は、単なる上下関係を超えるものがあったとされています。
 そしてその道鏡が次の天皇の座を狙ったのですから、じつに大変な時代でした。
(なお道鏡は光仁天皇らに追放されて三年後に死去)

 余談かも知れませんが、この天皇の時代に藤原一族が、非礼な新羅を討伐するための軍勢を集め、さらに新羅占領を円滑にするための通訳の養成までしていたそうです。
 しかし道鏡の事件によって挫折してしまいました。
 この中止が良かったか悪かったかは、歴史のIFとして架空史小説のテーマになりそうです。



 この天皇のあと、西暦一六二九年の明正天皇のご即位まで、約八百六十年のあいだ、女性天皇は存在しておりません。


■■■■ 八 第百九代 明正天皇 ■■■■


◆◆◆ 徳川時代の最初の女性天皇 ◆◆◆

 八百六十年とんで、江戸時代になります。
 皇統をめぐっては、古代から豪族間の軋轢が多くありましたが、江戸時代にはそれは、徳川幕府と朝廷との確執にかわりました。
 そしてこの明正天皇は、朝廷と徳川家との間に生まれた女性天皇であり、確執を緩和するのに役立っています。
 古代から女性天皇は、確執の解消という役割を担うことが多いようです。

『魏志倭人伝』によりますと、邪馬台国の卑弥呼やその後継者の台与の登場も、確執解消のためだったようです。
 これは日本の伝統なのかも知れません。


◆◆◆ 明正天皇を囲む系図 ◆◆◆

 まず系図を示します。

  徳川秀忠(二代将軍)
    I
    I―――――――徳川和子
    I             I
  崇源院(淀君の妹)    I
                  I――[明正天皇](109代/女性天皇)
                  I
 後陽成天皇(107代)――後水尾天皇(108代)
                  I
                  I―――後光明天皇(110代)
                  I
               藤原光子

                  I―――後西天皇(111代)
                  I
               藤原隆子

                  I―――靈元天皇(112代)
                  I
               藤原國子

 藤原系が圧倒していた歴代中宮・女御に、ついに徳川家が入り込んだことが、この系図によってわかります。
 そしてその徳川家期待の徳川和子の娘として生まれたのが、久しぶりの女性天皇・明正天皇でした。


◆◆◆ 明正天皇の略年譜 ◆◆◆

 略年譜を記します。

◇降誕
(西暦一六二三年/厳密には徳川和子の第二皇女だが実質は第一皇女だった。和子が入内して三年後に降誕し、興子内親王と呼ばれた)
◇一歳
 母親の徳川和子が中宮になった。すなわち事実上の皇后になった。
◇三歳
 弟君にあたる皇子が誕生した。
◇五歳
 次の天皇を期待されていた皇子が夭折し、徳川家は落胆。
◇六歳
 父親である後水尾天皇が退位され、興子内親王があとを継いで即位され、明正天皇となられた。
 父親・後水尾天皇がご退位になった理由は、病気のほかに幕府との軋轢に憤慨したためらしい。
 もちろんわずか六歳で実働のできる筈はなく、形式的な天皇であった。
◇十歳
 異母弟の後光明天皇降誕。
◇十四歳
 異母弟の後西天皇降誕。
◇二十歳
 異母弟にあたる後光明天皇に譲位し、太上天皇となった。
◇三十一歳
 異母弟の靈元天皇降誕/異母弟の後光明天皇崩御/異母弟の後西天皇即位。
◇四十歳
 異母弟の後西天皇退位/異母弟の靈元天皇即位。
◇五十五歳
 母親の徳川和子崩御。
◇五十七歳
 父親の後水尾天皇崩御。
◇六十二歳
 異母弟の後西天皇崩御。
◇六十四歳
 異母弟の靈元天皇退位/靈元天皇の皇子・東山天皇即位。
◇七十三歳
 崩御。江戸時代としても相当な御長命だった。


◆◆◆ 明正天皇の御生涯 ◆◆◆

 在位が六歳から二十歳までの女性天皇に自発的な何かができる筈はなく、事実上は後水尾上皇の院政と徳川幕府(三代将軍家光の寛永年間)の政策でした。
 このような運命に従った天皇なので、夫を得ることもなく生涯独身であり、御子はありません。
 母親の中宮・徳川和子はよくできた人だったらしく、母と娘で朝廷と幕府の間を保つのに役立ったようです。
 すなわち、実子明正天皇だけでなく、系図にある藤原系の三天皇など義理の子供たちの面倒をよく見て、幕府と朝廷の融和に貢献したと言われています。
 なお明正という謚号は、かつての女性天皇、元明と元正の文字をつないだものです。

 明正天皇は手芸がお好きで、作品が現存しているそうです。


■■■■ 九 第百十七代 後櫻町天皇 ■■■■


◆◆◆ 後櫻町天皇を囲む系図 ◆◆◆

 この女性天皇の即位は、前節の明正天皇の中継ぎ即位にならったものだとされています。
 まず系図を示します。前節の系図とのつながりも描いておきました。

 靈元天皇(112代)――東山天皇(113代)――中御門天皇(114代)――
                                           |
   ――――――――――――――――――――――――――――
  |
  |   藤原舎子
  |    I
  |    I――[後櫻町天皇](117代/女性天皇)
  |    I
   ―――櫻町天皇(115代)
       I
       I―――桃園天皇(116代)――後桃園天皇(118代)
       I
      藤原定子


◆◆◆ 後櫻町天皇即位の御事情 ◆◆◆

 後櫻町天皇は櫻町天皇の第二皇女として降誕されました。
 御母君は関白二條吉忠の娘で女御の藤原舎子です。
 女性天皇の母親になった舎子は、のちに皇太后と称せられています。

 父親の櫻町天皇はやはり藤原系を母親にもち、十五歳で即位し、大嘗祭の復活、著名神社への奉幣使復活・・・など伝統的な朝儀振興につとめましたが、それが幕府の不興をかい、二十七歳で譲位させられてしまいました。

 そのあと、藤原定子との間の皇子である桃園天皇が、わずか六歳で即位しました。そして、一七六二年、二十一歳で脚気で崩御されるまで、幕府との軋轢に苦労されました。
 神道や日本書紀の進講が危険視されて事件が起こるなど、大変だったようです。
 この時代は、『日本書紀』の勉強を徳川幕府が禁じたのです。
 桃園天皇は若くして崩御されましたが、きわめて英邁で、若いといっても人形的な存在ではなかったようです。

 さて、その桃園天皇が病没されたとき、その皇子の後桃園天皇はまだ四歳であられたため、いろいろと議論がなされ、成長なさるまでの中継ぎとして、桃園天皇異母姉にあたり、後桃園の伯母にあたる後櫻町天皇が即位されたのです。

 ですから、最初から中継ぎである事が明白な女性天皇でした。
 二十二歳のときでした。
 そして八年間在位され、後桃園天皇が十二歳になられた三十歳のときに譲位されました。
 徳川で言えば、第十代家治に重用されて賄賂を横行させた田沼意次の時代です。

 そのあと、七十三歳で崩御されるまで、祈り・歌道・書道・著述にいそしまれるなど、静かな生活を送られました。
 当然ながら生涯独身で御子はありません。


◆◆◆ 後櫻町天皇の略年譜 ◆◆◆

 以下、略年譜を記します。

◇降誕
(西暦一七四〇年/櫻町天皇と女御藤原舎子の間に第二皇女としてお生まれになる。御名智子)
◇一歳
 異母弟の桃園天皇降誕。
◇七歳
 父親の櫻町天皇が二十七歳で退位させられて上皇となる。
 桃園天皇、六歳で即位。
◇十歳
 父親の櫻町上皇崩御。
◇十八歳
 甥にあたる後桃園天皇降誕。
◇二十二歳
 桃園天皇二十一歳で崩御。
 その皇子の後桃園天皇はまだ四歳だったため、中継ぎとして即位され、後櫻町天皇となる。
◇二十八歳
 甥の後桃園天皇を皇太子に立てる。
◇三十歳
 十二歳になった後桃園天皇に譲位。以後四十年以上にわたって静かな生活をお送りになられた。
◇三十九歳
 後桃園天皇崩御。第百十九代 光格天皇即位。
◇七十三歳
 崩御。明正天皇と同じ御寿命で、天寿を全うされた。


◆◆◆ 後櫻町天皇のお人柄 ◆◆◆

 後櫻町天皇はこのように、幕府との難しい関係に悩まれた父の櫻町天皇が不本意な退位をし、そのあと弟君がわずか六歳で即位し、その弟君も二十一歳で崩御する――という厳しい環境のなかでお育ちになりました。

 そして甥の後桃園天皇が十二歳になられるまで女性天皇として無事間をつなぎ、退位後も独身を守って静かな生活を送られました。
 地味ではありますが、皇統を乱さないために生涯を捧げ、伝統を守るために貢献した女性天皇でした。

 文学的な素養もおありで、日記や歌集をのこしておられますが、その御製からお人柄が浮かびます。
 例をあげておきます。

     *

 おろかなる心ながらに國民の なほやすかれとおもふあけくれ

 豊年と民やうれしきいく千町 ほなみをわたる小田のあきかぜ

 まもれなほ伊勢の内外の宮ばしら 天つ日つぎの末ながき世を

 国と民を思う熱情にあふれた御製は多くありますが、これほど謙虚で心優しい御製はめったにありません。

     *

 余談ながら、後櫻町天皇は著者のもっとも好きな女性天皇です。
 戦前に文部省から出た『國體の本義』の解説叢書に『御歴代の聖コに就いて』という本がありますが、その中に唯一記されている女性天皇が、この後櫻町天皇です。
 そこには例として、御退位後の後櫻町上皇が光格天皇にお与えになった教訓への、光格天皇のご返事があります。
 内容は道徳の教科書と思われるほどのもので、後櫻町天皇の薫陶をお受けになった光格天皇の御聖徳もまた偲ばれます。
(光格天皇は、後桃園天皇に後嗣が無かったために閑院宮家から天皇になられた御方ですので、心配して教訓をお与えになったのかもしれません)



 この後櫻町天皇の百年のち、清朝では残虐をもって知られる権力者西太后が誕生しました。
 気に入らない人間を平気で殺害したと言われます。同じ女性君主でも大変な違いです。

 後櫻町天皇のあと、平成の今日まで、皇位についた女性皇族はおられません。


■■■■ 十 歴代女性天皇のおかれた環境 ■■■■


 以上、かなり整理して書いたつもりではありますが、なかなか頭に入りにくいかも知れません。
 そこで、皇子や皇女がおられたかどうか、皇后であったかどうか、など、現代の女性天皇問題を論ずるときに必要な項目を、まとめてみます。
〔 〕内の上は降誕崩御の西暦年、下は在位期間の西暦年です。


◆◆◆ 第三十三代 推古天皇〔554-628/592-628〕 ◆◆◆

▽在位期間
 三十八歳〜七十四歳(政治の実質は聖徳太子)。
▽夫の有無
 敏達天皇の皇后。
▽皇子皇女
 皇后の時代に二男五女。ただし中にのちの天皇はおられない。
▽即位理由
 夫や兄弟がつぎつぎに病没と殺害という非常事態および豪族間の争いの中で、政治的理由で甥の聖徳太子を摂政役にして即位された。なおこの即位は外国には隠したとも言われる。


◆◆◆ 第三十五代 皇極/第三十七代 齊明天皇〔594-661/642-645・655-661〕◆◆◆

▽在位期間
 四十八歳〜五十一歳/六十一歳〜六十七歳。
▽夫の有無
 舒明天皇の妃・皇后。
▽皇子皇女
 妃の時代に、のちの天智天皇、天武天皇という史上有名な強力な天皇をお産みになった。また孝徳天皇の皇后となった皇女もお産みになった。
▽即位理由
 夫の舒明天皇の崩御のあと、中大兄皇子(天智天皇)の成長を待つ意味もあったが、それよりも複雑な政治情勢によるらしい。政治は中大兄皇子が強力にすすめていた。
 二度目の即位は、譲位した同母弟の孝徳天皇の崩御によるが、やはり政治的事情が加味されていたらしい。


◆◆◆ 第四十一代 持統天皇〔645-702/686-697〕 注 正式即位は690 ◆◆◆

▽在位期間
 四十一歳〜五十二歳(正式即位は四十五歳)。
▽夫の有無
 天武天皇の妃・皇后。
▽皇子皇女
 妃の時代に、次期天皇の候補だったが早世した草壁皇子をお産みになった。
 この皇子の御子に元正天皇、文武天皇がおられる。
▽即位理由
 夫の天武天皇が崩御されたあと、皇子で皇太子の草壁皇子が没したため、御孫の文武天皇が成人するまでかわりをつとめた。
 ただし、皇后時代から政治行政に辣腕をふるったと言われ、女性天皇になってからも、史上初の本格首都藤原京の造営に力を尽くし、譲位のあとも史上初の太上天皇として政治を主導した。
 したがって実力で天皇に即位したとも解釈できる史上最高の女帝。


◆◆◆ 第四十三代 元明天皇〔661-721/707-715〕◆◆◆

▽在位期間
 四十六歳〜五十四歳。
▽夫の有無
 持統天皇の一粒種であった草壁皇子の妃になり、のちの皇后を約束されていたが、草壁皇子が早世したため、複雑な人生となった。
▽皇子皇女
 妃の時代に文武天皇、元正天皇、吉備内親王などをお産みになり、二代にわたる天皇の母となった。
▽即位理由
 皇太子だった夫の草壁皇子が早世したので息子の文武天皇が持統天皇のあとをついだが、その文武天皇も早世し、孫の聖武天皇も幼年だったため、中継ぎ的な意味で即位したが、平城京への遷都、古事記成立、和同開珎鋳造など、不比等らが助けたとはいえ政治的にも有能だったらしい。

     *

(注意)ここまでの四女性天皇は、いずれも皇后または皇后候補であり、天皇に即位される前に皇子皇女をお産みになっておられる。
 しかしこれ以後の四女性天皇は、いずれも生涯独身であり、当然皇后ではなく、御子もおられない。


◆◆◆ 第四十四代 元正天皇〔680-748/715-724〕◆◆◆

▽在位期間
 三十五歳〜四十四歳。
▽夫の有無
 生涯独身。
▽皇子皇女
 無し。
▽即位理由
 聖武天皇が成人になるまでの中継ぎとして母親の元明天皇が即位されたが、その中継ぎの後半をこの元正天皇が受け持ったといえる。


◆◆◆ 第四十六代 孝謙天皇/第四十八代 稱徳天皇〔718-770/749-758・764-770〕◆◆◆

▽在位期間
 三十一歳〜四十歳/四十六歳〜五十二歳。
▽夫の有無
 生涯独身。
▽皇子皇女
 無し。
▽即位理由
 父聖武天皇の治世に、史上初の女性皇太子になったことで分かるように、この時代だけ皇統について『男女を問わず皇后所生の直系を立てる』という原則ができたらしい。またそれは実力者だった母親光明皇后のご意思でもあったらしい。
 孝謙天皇は独身で皇子はなく、近縁にも天皇候補がなかったため、同じ天武系でもすこし離れた道祖王を皇太子にしたがやがて仲違いし、道祖王の従兄弟にあたる淳仁天皇に譲位し、ご自分は太上天皇になった。
 しかし、やがて淳仁天皇とも仲違いして幽閉し、その死去にともなって再度即位して稱徳天皇となった。
 そして妖僧道鏡の専横を許して批判された。
 崩御のあとは四代前の血縁である天智系の光仁天皇が即位したが、その血統には親王が多くおられ、女性天皇の必要は消えた。
 この女性天皇はかなり我が儘で周囲を混乱させたらしい。


◆◆◆ 第百九代 明正天皇〔1623-1696/1629-1643〕◆◆◆

▽在位期間
 六歳〜二十歳。
▽夫の有無
 生涯独身。
▽皇子皇女
 無し。
▽即位理由
 父の後水尾天皇が幕府との軋轢で退位したが、皇子がいなかったためにわずか六歳で即位。
 男性の皇嗣が生まれるまでの中継ぎであることが明か。
 即位後に降誕された弟の後光明天皇が十歳になったのを期に譲位。


◆◆◆ 第百十七代 後櫻町天皇〔1740-1813/1762-1770〕◆◆◆

▽在位期間
 二十二歳〜三十歳。
▽夫の有無
 生涯独身。
▽皇子皇女
 無し。
▽即位理由
 弟の桃園天皇が即位していたが、二十一歳で病で崩御され、その皇子の後桃園天皇(つまり後櫻町天皇の甥)が四歳という幼年だったために、成人するまでの中継ぎとして即位。
 そして、後桃園天皇が十二歳になったのを期に譲位。

     *

 つぎに、十代御八方の女性天皇の歴史を短くまとめてみます。


■■■■ 十一 女性天皇の歴史のまとめ ■■■■


 以上、箇条書き的に記しましたように、前半四女性天皇は、皇后や皇后予定者で、夫である天皇の死と政治情勢などの理由での即位です。
 そして皇子皇女はすべて天皇になる前の御出産です。

 後半の四女性天皇はすべて独身で、孝謙・稱徳天皇以外は非常事態を救うための中継ぎ的な即位です。
 孝謙・稱徳天皇は例外的で、中継ぎというよりも、男性の直系皇族がいなくなったために女性でありながら皇太子になり天皇になった女性です。
 しかし結果としては女性の直系も無くなってしまって、次は別の系統の男性天皇に移りましたから、後半の四女性天皇もすべて男性天皇の中継ぎということができます。

 注意すべきは、御八方の女性天皇はすべて、男系の女子であり、またその御子たちも男系であり、同時に天皇の位についた状態で夫を持つ事も無かったし、したがって即位後に御子をもうけられることも無かった――ということです。
 いわゆるお年頃を天皇として過ごされた後櫻町天皇も、天皇の身で夫を迎えるなどという事態は考えられなかったと思います。
 年頃の女性天皇とは、ご家庭という面では、出家と同じだったと思います。

 仮に、夫を得た女性天皇がおられたとしても、天皇の役目を果たしながら妊娠・出産・育児をおこなうなど人間業ではなく、そんな過酷なことは不可能です。
 ですから摂政を立てるほかありませんが、摂政にふさわしい男性皇族がおられたら、その方が即位すればよいわけです。
 だとしますと、女性天皇の摂政もまた女性になる可能性が高いわけで、その人選はきわめて困難だと思われます。

 女性天皇の夫はこれまでの日本の歴史において例がなく、したがってその地位や名称もわかりません。
 したがいまして、今後女性天皇を論ずる場合には、

「在位中の女性天皇の夫の問題」
「天皇としての激務と妊娠・出産・育児とは両立しにくい問題」
「したがって皇嗣がますます得られにくくなる問題」
「摂政も女性になる可能性が高い問題」

 といういくつかの難問題を考慮して発言するべきでしょう。

 さらに付け加えますと、現代の天皇に即位するためには、幼少時からのそれに向けての修練(帝王学の修得)が不可欠であるため、

「天皇に即位するためには長い準備期間が必要である問題」

 ――が浮上いたします。

 これらを十二分に検討しなければ、
『皇族の女性の人権無視』
 になると思います。

 ただ単に男女の区別なく順に天皇になる――という安易な考え方ですと、男系という伝統が崩れるだけでなく、とんでもない人権無視がおこるおそれがあるのです。

 天皇の主要なお仕事は「祈り」と「内外との親睦」であり、それだけでも休むまもない激務です。
 歴史に詳しい保守系の人たちが発言に慎重なのは、以上のような困難なデータを分かっているからだと思います。
 テレビによく出てくるような浅薄な意見は的を射ておりません。


■■■■ 十二 現在の皇族の方々 ■■■■


◆◆◆ 現在の皇族の方々の系図 ◆◆◆

 過去のデータは一応記しましたので、つぎに現在の皇族の方々について、宮内庁の資料に基づいて記します。
 半角数字はご誕生年の西暦年表示です。
 御名のうしろの・は崩御、薨去された方、*は天皇陛下および内廷にある皇族方をあらわします。

|―昭和天皇・
|  I―――――|――天皇陛下*  |――皇太子殿下*
| 香淳皇后・  |     I―――――|       I―――――敬宮殿下01*
|          |  皇后陛下*   |  皇太子妃殿下*
|          |            |
|―秩父宮・   |            |
|  I       |             |――秋篠宮殿下 |―眞子内親王殿下91
| 秩父宮妃・  |――常陸宮殿下  |       I―――|
|                 I       |  秋篠宮妃殿下|―佳子内親王殿下94
|              常陸宮妃殿下 |
|―高松宮・                 |
|  I                     |――紀宮殿下*
| 高松宮妃・
|          (三笠宮)
|           |――寛仁親王殿下 |――彬子女王殿下81(ご成人皇族)
|―三笠宮殿下  |     I―――――|
    I―――――|   寛仁親王妃殿下|――瑶子女王殿下83(ご成人皇族)
  三笠宮妃殿下 |
            |――桂宮殿下
            |
            |――高円宮殿下・  |――承子女王殿下86
                   I―――――|
                高円宮妃殿下  |――典子女王殿下88
                           |
                           |――絢子女王殿下90

〔皇位継承の順位 1皇太子殿下/2秋篠宮殿下/3常陸宮殿下/4三笠宮殿下/
 5寛仁親王殿下/6桂宮殿下〕


◆◆◆ ご結婚によって皇族外に移られた方々 ◆◆◆

 戦後にご結婚によって皇族外に移られてご存命の方々を記します。

 池田厚子(昭和天皇第四皇女子)・・・現在《伊勢神宮》祭主

 島津貴子(昭和天皇第五皇女子)―――禎久(長男)

 近衛ィ子(三笠宮第一女子) ――――忠大(長男)

 千 容子(三笠宮第二女子) ―|――明史(長男)
                     |
                     |――万紀子(長女)
                     |
                     |――敬史(二男)


◆◆◆ 皇室の系図で気づくこと ◆◆◆

 昭和天皇の御孫や曾孫は、ここに記した以外にも男子六名女子三名がおられますが、すべて皇族を離れていますから、皇位継承の順には入りません。
 三笠宮様は三男二女に恵まれておられまして、御孫も九人おられるのですが、男子の御孫は皇族から離れた第一第二女子にしかおられません。
(しかもそこには三人も男子がおられるのは皮肉です)

 この系図を見ますと、皇族の範囲を少しだけ拡げて旧宮家を復活すれば、男系の皇位継承皇族が多く出そうな気がしますが、前述のように皇位を継ぐためには長い期間の教育と修練が必要であり、長期的に計画的にしなければ、悲惨な人権無視が待っているだけです。
 民間に慣れた人がとつぜん皇位につくことは、女性でなくとも無理だろうと思います。

 女性天皇の場合にはもっと過酷なことになります。そして、ますます直系の継承皇族が減るでしょう。
 女性天皇の立場と母親の立場とはとうてい両立しないと考えられますし、他の皇族も女性のみになっているからです。

 こういうことをあれこれ考えた上で、各自が名案を絞り出すべきです。
 したがいまして、真に皇統を憂慮している保守派の人たちや物事をわきまえた与党政治家たちの発言が慎重なのは当然です。


◆◆◆ 著者の頭に浮かぶこと ◆◆◆

 著者は一市井人にすぎませんが、皇統の問題はとても心配ですので、頭に浮かぶことをいくつか記しておきます。

(一)戦後、占領軍の指示によって皇族の範囲が大幅に縮小(十一家五十五人が皇族外へ)されてしまったと言われますが、それを元に戻すことは、皇族としての教育問題や覚悟の問題がありますから、極めて困難です。

(二)より本質的な問題として、少子化現象があります。いくら皇族の範囲を拡げても、日本全体で考えて一組のご夫婦が産み育てる子供が平均して二人かそれ以下であれば、日本民族は必ず滅亡してしまいます。健康の問題などで結婚できない人や、お子さんが生まれない夫婦が一定割合でいるからです。
 現在の皇族方で三十〜七十歳で数えますと、ご夫婦一組平均で御子の数は二名よりはるかに少ない――という現実があります。
 仮に女性皇族が結婚しても皇族を離れず、女系を認めて相手の男性も皇族に加える――とすれば数は増えますが、しかし日本全体の人口が減れば、やがては衰亡します。
 つまり、抜本的な難問題は、女性天皇云々よりもむしろ、日本全体の少子化傾向であって、本当は皇族方はその傾向に歯止めをかける模範を示していただきたいのですが、実態はそうはなっていないのです。

(三)このことと関連しまして、最新あるいは近未来の医学技術の進歩によって、第三者からの卵子提供を含めた不妊治療や代理出産問題はもちろんのこと、男女生み分け技術や人工子宮技術が出てくると思いますが、そういう近未来の技術を皇室典範にどう組み入れるかについての議論があまり無いように思います。
 医学的な方法によって皇室の遺伝子をもつ御子を民間人が産むケースなどは、もはや喫緊の課題だろうと思います。現実に世界各国で――日本でも――そういうお子さんがすでに多く生まれているのですから・・・。
 こういう問題については、保守派を中心に慎重な意見が多いと思いますが、著者は、皇統を絶やさないという絶対的な大目的のためには、現民法を超越した大胆な解釈が必要だろうと考えています。
 近未来的な方法は、昔風の庶系に比べれば、はるかに合理的、道徳的、かつ確実だと思われるからです(ある言い方をすれば、「医学的な側室」です)。
(SF的だとして笑われるかもしれませんが、野心家が天皇のクローンを誕生させたりしたら大変なことになりますから、こういう問題についての配慮も必要です)


■■■■ 十三 いくつかのご意見と文献 ■■■■


 第一章の終わりに、現在入手可能な、女性天皇問題の意見を述べた代表的な資料を示しておきます。

◎所功『近現代の「女性天皇」論』展転社(平成十三年)
 所功先生は日本法制史を専門とする法学博士で、京都産業大学の日本文化研究所の所長をつとめ、皇室を敬愛する学者として、また啓蒙家として知られています。
 この本は明治から戦後にかけての女性天皇論をわかりやすくまとめてあります。じつに様々な議論があることが分かります。
 また同時に、女性天皇問題がいかに難しいかが分かります。
 どんなに有能な女性であっても、いきなり天皇になることなど不可能であり、長期にわたり帝王教育をうけねばなりませんし、出産育児も犠牲にしなければなりませんが、現在の安易な女性天皇論者は、それをどう考えているのでしょうか?

◎高森明勅『この国の生いたち』PHP研究所(平成十一年)
 高森先生は國學院大學の講師をつとめる神道学者で、古代史の研究者としても啓蒙家としても知られています。「新しい歴史教科書をつくる会」の理事でもあります。
 この本の第四章に、女性天皇問題と皇室典範の改正問題が、歴史的経緯とともに記されており、その論旨はじつに明晰です。
 一般には口にしにくい庶系問題も誠実に記しています。
 明治天皇も大正天皇も庶系であり、万一皇后陛下がご病気や事故などで出産不可能なお身体になられた時にどうするか――を庶系問題まで含めて考えることは、皇室を敬愛する誠実な人間なら当然と思います。

◎小堀桂一郎『内親王様のご誕生を祝い奉る』日本の息吹(平成十四年一月号)
◎小堀桂一郎『高円宮様一年祭に思う皇室の藩屏』産経新聞
(平成十五年十一月二十一日)
 小堀先生は東京大学名誉教授で、思想史・比較文化論研究者(文学博士)であるとともに、靖国神社問題・皇室問題などで正論を展開している学者です。非自虐高校用歴史教科書の編纂と検定問題でも知られています。
 右は新宮様ご誕生のお祝いとして、左は高円宮様一年祭に思うとして書かれたものですが、そこに皇統問題への鋭い指摘があります。
 小堀先生の御提案は、傾聴に値すると思います。

◎八木秀次『「女性天皇容認論」を排す』Voice(平成十六年九月号)
 おおまかには前記の方々と同様ですが、性染色体による考察を加味している点が大きな特色で、議論を呼んでいる論考です。

     *

 正直に言いまして、これらの本や論文の内容は著者には難しすぎるのですが、それだけに勉強になります。

 強調したいのは、所功先生のご本は、これまでの長年の研究や主張をまとめたものであり、愛子様のご誕生以後に思いつきで書かれたものではないということです。
 高森明勅先生の著作は、出版それ自体が愛子様ご誕生の前ですし、小堀桂一郎先生のエッセイは、これまで何年もの間、さまざまな媒体に発表してきた持論を改めておまとめになったものです。八木秀次先生も、これまで多くの発言をしてこられました。
 つまり以上は、保守系の人たちが深く研究し考究した上でこれまでに発表してきた資料の例なのです。

 皇室を敬愛する精神が無いのに女性天皇問題で安易な発言をする人たちは、これら正論派(健全保守派)が書く本や記事を、まったく読んでいないようです。

     *

 女性天皇を認めることは時代の趨勢かもしれませんが、男系皇統の問題、人権問題、ご家庭(出産育児)の問題について、十二分の配慮が必要だと考えます。

(世の中には、皇室を尊敬しているにもかかわらず、オカルト的だったりして奇妙な本もたくさんありますので要注意です。正気を保って見破らねばなりません)


■■■■ むすび ■■■■


 では具体的にどうしたらよいか――という問題についての著者の考えは、確定しているわけではありませんが、小堀先生方のご意見が妥当だと思っております。

 いかに少子化問題が皇統にとって深刻であるかは、オロモルフの保存頁の、

■■■ 男系継続の確率計算――皇統問題の基礎――(オロモルフ) ■■■

 に記しておきました。

 著者としましては、君民の別が厳然としてある以上「民が多数決によって君主の生き方を強制的に変えてしまう」現在の皇室典範改正議論に、理不尽なものを感じております。
 今の皇室典範は明治の皇室典範とまったく違うからですが、戦後にそうなってしまったので、今さら仕方ありません。
 もし民が多数決で皇室典範を改正するとすれば、それは過去の歴史にある「天皇や皇族への諫言」を可能とした(今そこにおられる天皇よりも上位の)価値判断基準によるべきであろう――と考えました。
(仮に「三種の神器」の心と呼んでおります)

 そこで、

■■■ 皇統断絶の危機に思う――皇室への諌言の歴史と危機の打開策―― ■■■
(1)皇室への「諫言」の歴史
(2)君臣の別を守った猛将たち
(3)「三種の神器」の心
(4)『神皇正統記』に見る「万世一系」の思想
(5)『帝国憲法義解』と『皇室典範義解』に見る伊藤博文(井上毅)の思想
(6)現皇室の危機と打開策
(7)皇室と国民の間にある宮内庁の問題
 ――を、日記に連載中です。
 いつ終わるか分かりませんが・・・。


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