■□■□■ 《伊勢神宮》と式年遷宮(オロモルフ) ■□■□■


■■■■■ 1.まえがき ■■■■■

 柄ではありませんが、《伊勢神宮》と式年遷宮の入門篇を記してみます。

 天照す神の御馬のいななける 清き夜明けの杉木立かな
                   (與謝野晶子)

 これは、皇室や神宮への崇敬心厚かった與謝野晶子の有名な歌です。
 ここで「神の御馬」とは、内宮外宮にそれぞれ二頭ずつ飼われている神馬のことで、代々皇室から牽進されるならわしです。
 そして名前は、毎年正月に皇居で催される御歌会初の御題からつけられています。

 みなさんにお世話になりました『卑彌呼と日本書紀』や『「三種の神器」の心』に抜かしていたこととしまして、《伊勢神宮》の式年遷宮の話がありました。
 そこでここでは、《伊勢神宮》とその式年遷宮について、ごく雑ぱくではありますが、まとめてみたいと思います。
《伊勢神宮》が今の地に鎮座するまでの話は『卑彌呼と日本書紀』に書きましたので、読んでいただいている事を前提にいたします。
 当然のことながら素人の勉強結果ですので、その点ご容赦を・・・。


■■■■■ 2.内宮・外宮の御正殿 ■■■■■

《伊勢神宮》は伊勢市にあり、伊勢市駅や宇治山田駅からすぐです。
 御正殿の周囲の神域の略図を外宮と内宮について示します。
(図面は略しますので、地図や後で示す参考書などで見てください)

 外宮は〈豊受大神宮〉、内宮は〈天照皇大神宮〉が正式の名で、あわせて単に「神宮」がさらなる正式名です。
《伊勢神宮》は通称です。
 つぎに、外宮と内宮の御垣内平面図を示します(略)。
 通常の神社では、もっとも丁寧な場合でも垣は三重であり、内側から瑞垣・玉垣・板垣といいます。しかし三重は珍しく、板垣を省いた二重が多いようです。なかにはまったく無い神社もあります。
 ところが《伊勢神宮》では、瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣と四重であり、独特です。

 垣の中には御正殿および西宝殿と東宝殿があります。
 御正殿は唯一神明造りと呼ばれていて、数多い神社建築のなかでも、もっとも古い形式であり、弥生時代の稲の倉庫の面影を宿していると言われています。
 稲などの農作物は古代ではそれ自体が神であり、したがって倉庫が神殿の原形になったのは不思議ではありません。
 古代の貴人の住居もまた、このような高床式のものだったことが、わかっています。

 御正殿の両側に宝殿を伴う形式も、遺跡から出る古代の倉庫または宮殿に酷似していると言われます。

 御祭神はもちろん内宮が〈天照大神〉、外宮が〈豊受大神〉ですが、そのほかに相殿神(御配神)がおられます。

 内宮には、
 東に有名な天手力男神。
 西に萬幡豐秋津姫命(この神は〈天照大神〉の御子のお嫁さんです)。

 外宮には、御伴神として、
 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命という宗像大社関係の三神が祀られています。
(この三神は〈天照大神〉と〈素戔嗚尊〉の御子で〈豊受大神〉とともに丹後から遷られたとされています)

 御正殿の隣の東宝殿には御幣の類が祀られ、西宝殿には御正殿でのお役目を果たしたのちの御装束・神宝類が祀られます。


■■■■■ 3.宮域 ■■■■■

 内宮の宮域は、大きく、
@神域:93ヘクタール
A宮域林:5400ヘクタール
A−1 第一宮域林:1000ヘクタール
A−2 第二宮域林:4400ヘクタール
 ――のように分かれています。

 神域は御正殿を中心にした境内で、2000年間斧を入れない自然林の中に、古式ゆかしい神殿が建てられております。
 第一宮域林はその外側(南)で、天然林であり、原則として伐採いたしません。
 第二宮域林はさらのその外側(南)の神路山と呼ばれる一帯で、五十鈴川の水源確保および造営用材の備林として、檜が計画的に植林されています。
 これらの宮域は、合計すると、東京山手線の内側に匹敵するほどの広さをもっています。

 外宮の神域は、内宮よりやや小さい程度です。
 造営用材林は、昔は内宮が神路山、外宮が宮川という川の上流の阿曾山という山のあたりだったようですが、今は多くが岐阜県木曽の国有檜林になっています。
 ただし神路山の檜は今でも多少は使われています。
 式年遷宮に使われる檜の本数はほぼ一万本ですから、大変なことで、戦後は祭政分離による危機もありましたが、国の理解のもとに植林がなされています。


■■■■■ 4.別宮・摂末社など ■■■■■

《伊勢神宮》は合計して125のお社からなっています。ご同座神を入れると141座になります。
 さらに神田や塩田や土器製造所など数多くの施設がありますので、面積はさらに膨大なものとなります。
(祭祀用の土器は土師器の系統の古式ゆかしい質素な素焼きであり、再使用はしませんので、通常年でも年間6万個もつくるそうです。遷宮の年にはこの二倍にもなるとされます)

 以下とくに重要な別宮のみ神社名をしるし、他は数のみ記します。
 別宮14所は、内宮外宮と同様に式年遷宮がおこなわれるからです。


◆◆◆ 4.1 内宮の別宮(十所) ◆◆◆

 荒祭宮(天照座皇大神荒御魂)
 月読宮(月読尊)
 月読荒御魂宮(月読尊荒御魂)
 伊佐奈岐宮(伊弉諾尊)
 伊佐奈弥宮(伊弉冉尊)
 滝原宮(皇大御神御魂)
 滝原竝宮(皇大御神御魂)
 伊雑宮(皇大御神御魂)
風日祈宮(級長津彦命・級長戸辺命)
 倭姫宮(倭姫命)


◆◆◆ 4.2 外宮の別宮(四所) ◆◆◆

 多賀宮(豊受大神荒御魂)
 土宮(大土御祖神)
 月夜見宮(月夜見尊・月夜見尊荒御魂)
 風宮(級長津彦命・級長戸辺命)


◆◆◆ 4.3 摂末社など ◆◆◆

 内宮の摂社 27社 33座
 外宮の摂社 16社 17座
 内宮の末社 16社 16座
 外宮の末社  8社  8座
 内宮所管社 30社 30座
 外宮所管社  4社  4座
 別宮所管社  8社  8座

 この他前記の神田、塩田などや、博物館・美術館などもありまして、その面積は膨大です。


■■■■■ 5.式年遷宮の意義と歴史 ■■■■■

 神風の伊勢の宮居のみや柱 たてあらためむ年は来にけり
             (明治天皇御製/明治42年)


◆◆◆ 5.1 式年遷宮の意義 ◆◆◆

 式年遷宮とは、20年に一度、社殿・鳥居・橋・その他の建築物、および御装束・神宝類を、なるべくそれまでと同じ形に、同じ作り方で、作り直して新しくするお祭りです。
《伊勢神宮》では、毎年神嘗祭にご神体周辺の御装束や祭器具神宝を新たにしますが、これを超大規模にしたのが、式年遷宮です。

 どんなに頑丈にできた建築物でも、年月とともに痛んでゆき、何千年も保たせることはできません。
 鉄であろうと石であろうと、いつかは風化し崩壊してしまいます。
 つまり、ハードを永遠に残すことは不可能なのです。

 しかし、その作り方――すなわちソフト――を継承しながら、それがあまり痛んでいないうちにまったく同じものを作りなおしてゆけば、腐りやすい木材でできた建造物でも、建て直す人々がそこにいるかぎり、永遠に残ります。
 これが式年遷宮の、世界に類例のない特色です。

 このような方法で古代の建造物を残すには、それを崇敬する人たちの子孫が、伝統を保ったまま滅びずにずっとその場所に残っていなければなりませんが、日本ではそれが奇跡的に成就されているのです。
 ギリシアの神殿とか、エジプトのピラミッドとか、古代の偉大な建造物が世界には残っていますが、それを拝んだ人たちの子孫は、はるか昔に途絶えてしまって、現在では観光客が崩れかかった建造物を眺めて写真にとったり発掘したりしているだけです。

 しかし日本の神社や御陵は違うのです。
 大昔にそれを拝んだ人々の子孫である我々日本人が、古代とほとんど同じ礼儀作法で崇敬しているのです。
 しかも《伊勢神宮》においては、その木製の建造物が、千数百年もの間、ほとんど形を変えずに、式年遷宮によって保たれているのです。
 この事実は、トインビー博士など欧米の著名な歴史家に大変な衝撃を与えています。

 前記のような、一千年から二千年も続く「継続性」こそが、日本の伝統文化の真骨頂なのですが、これを確実なものにする式年遷宮の周期を、20年ときめたのも、昔の人の偉大な智恵でした。
 理論的には、昔の暦で11月1日と冬至の日が20年に一度重なるということが一つの理由のようですが、それ以外に、木造建築の痛み方や、職人さんの技術の継承が大きな理由です。
 人間の一生を仮に60年としますと、たいていの人が、三度の式年遷宮を経験することができます。
 このことによって、伝統が廃れずにすむのです。

 御正殿の建築に従事する宮大工さんにせよ、御神宝をつくる職人さんにせよ、

@20歳で熟達した先輩を見習って腕を磨く。
A40歳で仕事の中心となって働く。
B60歳で全体の監督をして技術を指導する。

 ――のように、次々に技術を伝承してゆくことができるのです。
 いまは人生80年以上の時代ですから、合計して四回できることになり、この伝承はますます確かなものになるでしょう。

 興味ぶかい例があります。
 何年か前に奈良の法隆寺近くの藤ノ木古墳が発掘され、そこから古代の太刀が出土しました。
 その太刀を研究したところ、《伊勢神宮》で20年ごとに作り替えられている御神宝の「玉纏御太刀」という太刀にきわめて似ていることが分かったのです。
 つまり、式年遷宮による作り直しが、伝統を厳格に守ってなされていた事が分かったのです。
 それ以来、式年遷宮が考古学者の興味の対象となり、『新品の正倉院』とまで呼ばれるようになったそうです。


◆◆◆ 5.2 式年遷宮の歴史 ◆◆◆

 御正殿の立て替えや修復は、とうぜんですが、《伊勢神宮》が創建されたころから、適宜おこなわれておりました。
 しかしこれを定期的に徹底的にしようという式年遷宮の制度が決められたのは、持統天皇の二年(688年)だとされています。
《藤原京》をつくった偉大な女帝の時代です。

 そして、
◎内宮の第1回遷宮が西暦690年
◎外宮の第1回遷宮が西暦692年
 ――になされました。

 つまり今から1300年以上も前に、すでにこの制度ができ、それを平成の今日まで、忠実に守っているのです。

 持統天皇以後、おおよそ20年ごとに遷宮がなされてきましたが、室町時代の後半になりますと、日本中が乱れに乱れ、応仁の乱なども起こり、《伊勢神宮》もその影響をうけ、衰退してしまいました。

 記録によれば、
◎内宮は1462年から1585年まで
◎外宮は1434年から1563年まで
 ――が抜けてしまったのです。

 この間、内宮4回、外宮6回ほどの仮殿造営はありましたが、ほとんどあばら屋の状態になってしまったと言います。
 これを救ったのが、のちに慶光院といわれた神宮近くの尼寺の尼僧たちでした。

 初代の守悦上人、三代目の清順上人、四代目の周養上人が、献身的な努力をして全国を巡って浄財を集め、宇治橋、外宮、内宮仮殿・・・と造営を続け、そして1585年になってついに内宮と外宮同時の第41回式年遷宮を成し遂げました。
 内外宮の同時遷宮の伝統はこの時にできたそうです。
 この遷宮には、戦国の終末を飾った天才武将である織田信長と豊臣秀吉が莫大な寄付をしたといわれています。
 またその後の徳川歴代将軍も、《伊勢神宮》の維持に尽力し、のちには山田奉行という神宮一帯の警護を職務とする奉行制度までつくりました。
 三方一両損などの大岡裁きで有名な大岡越前も、この山田奉行をつとめています。

 明治維新では、荒木田・度會などの世襲神職や御師(お伊勢参りの人たちを導きもてなす一種の神職)の仕事の廃止などの激動がありましたが、それを乗り切ってからは、神宮はさらに発展し、昭和を迎えます。


◆◆◆ 5.3 戦後の式年遷宮の危機 ◆◆◆

 そして、終戦による大危機が襲います。
 第59回の式年遷宮は昭和24年の筈でしたが、戦後の混乱、GHQの神道指令による国の援助の中断などのために、この年に出来たのは宇治橋の架け替えだけでした。

 しかし有志の人たちの涙ぐましい努力によりまして、昭和28年にぎりぎり節約した遷宮が、第59回としてなされました。
 予算は約5億円でしたが、650万人もの人が協賛しまして、最終的には10億円近くが集まったそうです。また参拝者は500万人に達しました。
 そして――これはあまり知られていないのですが――昭和30年代には、修学旅行に伊勢参拝を選ぶ小中学の数が史上最高になりました。

 さらに、吉田茂元総理の熱意によって、昭和37年には《伊勢神宮》に隣接する皇學館大學も復興されました。戦後の占領軍によって抑圧されていた大学です。
 たしか初代の総長は吉田茂ご自身だったと思います。

 第60回は昭和48年におこなわれ、御用材採取は国の配慮によって木曽の国有林が可能となり、民間への募金活動も成功しまして、ほぼ90億円が集まり、成功裏に完了したそうです。また遷宮の日時は天皇陛下が定める伝統ですし勅使も必要なのですが、政教分離の憲法のもとでなしうる最大限の解釈によって、かろうじて伝統が守られました。

 第61回は平成5年であり、このときの募金は日本の景気が絶頂期だったためか(八年前から募金活動を開始しますので、バブルがはじける前にお浄財が集まったのです)、370億円もの経費をかけた式年遷宮がおこなわれました。
 このときもっとも大変だったのは、「須賀利御太刀」という御神宝*を作るのに朱鷺の尾羽が二本必要なことでした。
 絶滅同然の朱鷺の羽を新しく得ることはできず、能登の篤志家が、保存していた古い尾羽を寄贈して、ようやく完成したそうです。

 この朱鷺の羽を平成25年の第62回式年遷宮ではどうするのか心配です。
 なにしろ「須賀利御太刀」に朱鷺の羽を使用することは、平安中期の延喜式に記されている伝統ですので、そう簡単に中止することは出来ないのです。
 しかもこの「須賀利御太刀」は、前記の「玉纏御太刀」と並んで内宮の御正殿に奉安される最重要な御神宝なのです。
 さいきんでは朱鷺の飼育がうまくいっていますので、何とかなると思いますが・・・。
(須賀利は縋るで宝玉が縋りついているの意味らしく、玉纏は宝玉を纏っているという意味らしいです)

 平成25年予定の第62回式年遷宮の募金奉賛活動は平成17年ごろに発足する筈ですが、経済状態が悪いので平成5年のようなわけにはいかないと思います。
 みなさん、今から貯金しておいてください!


■■■■■ 6.造り替えられるものとは? ■■■■■

 式年遷宮時に造り替えられるものは、大きくわけて、

甲:御正殿をはじめとする建造物
乙:御装束・神宝
 ――の二種類になります。

 以下簡単に説明します。


◆◆◆ 6.1 建造物 ◆◆◆

 もっとも重要なのは、内宮と外宮の御正殿およびその東西の宝殿です。
 また四重の垣やその他の付属の建造物もあります。
 また鳥居や橋もあります。
 さらに、前記した合計14所の別宮もすべて同様に遷宮されます。
 これらはすべて上質の檜です。
 したがって檜の御用材だけで10000本もの膨大な数になるのです。

 ちょっと余談になりますが、《伊勢神宮》の鳥居は、数多い鳥居の中でも、もっとも簡素な形をしており、神明鳥居のなかの伊勢鳥居と呼ぶようです。
 それを下図に示します。
(うまく出ないかもしれません)

 すべて塗料を塗らない白木の檜で、横の棒(笠木)は角棒で縦の柱は丸棒です。
(同型で笠木を丸棒にしたのが御陵や靖國の鳥居ですが、材料は自由なようです)

┌────────────────┐
└──┬┬────────┬┬──┘
   │├──────―─┤│
   │├──────―─┤│
   ││ 全て白木の檜 ││
   ││   縦:丸  ││
   ││   横:角  ││
   ││        ││
   └┘        └┘

 この神明式の伊勢鳥居にくらべまして、たとえばよく見られる稲荷神社の鳥居などは、ずっと賑やかです。
 おおざっぱに描いてみます。

黒┌──────────────────┐
 └┬────────────────┬┘
 朱└──┬┬───┬┬───┬┬──┘
    ┌┤├─―─┴┴―──┤├┐
    └┤├──────―─┤├┘
     ││        ││
     ││   朱    ││
     ││        ││
     ││        ││
    ├―┼   黒    ├─┼
    └─┘        └─┘

 形が賑やかだけでなく、色も賑やかで、全体が朱色に塗られ、てっぺんは黒で横から見ると白で塗られています。また黒い台座のようなものもあります。
 比較しまして、《伊勢神宮》の鳥居がいかに簡素なものかが分かります。

 閑話休題・・・。


◆◆◆ 6.2 御装束・神宝 ◆◆◆

 これは、主として内宮・外宮の御正殿や別宮の御本殿に奉安される織物の類や御飾りの類です。
 おおまかに記すと、次のようなものです。

◎御装束 A:殿舎奉装用
     B:祭神奉飾用
     C:遷御奉仕用

◎神宝  A:織機
     B:武具
     C:楽器
     D:馬具(別宮のみ)
     E:文具(別宮のみ)

 その数は、700種以上、1600点あまりとなっていますが、これは大きくまとめて数えた場合で、実際に作る職人さんたちの立場から数えますと、二万から三万点にも達するそうです。

 太刀を例にとります。
 太刀全体を一つと数えたときの数は、内宮御正殿用が先に名を記した二柄、外宮御正殿用が二柄、別宮用が56柄で、合計して60柄です。
 しかし、その一つ一つが、膨大な数の美術品の集まりなのです。
 刀身や鞘や柄が別のものであることはもちろんですが、多数の飾りがついており、「玉纏御太刀」の場合、鈴が10、吹玉が300、玉石が144、さらに組み紐、台座などが組み合わされており、それらがみな別の職人さんによって作られるわけです。
 こうして数えてゆきますと、二万から三万点にもなってしまうのです。
 これらを手配し総括する神宮の担当者の仕事は、気が遠くなるほどの量になるそうです。


◆◆◆ 6.3 旧殿のその後は? ◆◆◆

 新しい社殿や御装束・神宝の遷宮が完了したあと、古いそれらをどのようにするかは、きちんと決められています。

 まず旧殿その他の建築物ですが、しばらくそのままにして拝観できるようにしたあと、分解されて全国の著名な神社に分け与えられ、本殿や垣などに用いられます。
 釘は一本も使われていませんから、再使用は容易なのです。

 中でも唯一神明造りの特長である棟持柱は、宇治橋の前後の大鳥居の縦の柱に用いられます。
 外側の鳥居には外宮の棟持柱、内側の鳥居には内宮の棟持柱が使用されます。
 さらに20年を経て次の遷宮時には、この鳥居の柱がまた別の場所の鳥居に使われます。
 つまり棟持柱は合計して60年またはそれ以上の奉仕をされるわけです。

 なお昭和28年の遷宮時には、旧御正殿の御用材によって、戦災焼失した熱田神宮が再建されました。

 新しい御用材から新殿を造営するさいに、切り屑などかなりの残材がでますが、これらは、家庭用の神棚などさまざまな用途に用いられています。
 オロモルフがふだん使用している文鎮は、この残材でつくられたものです。

(20年ごとの式年遷宮は資源の無駄だ――という左翼人種がときどきいますが、じつに不勉強です)


◆◆◆ 6.4 旧御装束・旧神宝のその後は? ◆◆◆

 つぎに御装束・神宝類ですが、これはほとんどが新しい西宝殿に移され、さらに20年を経た次の式年遷宮時に撤下され、神宮徴古館などの博物館で保存展示されます。また著名神社の神宝になることもあるようです。
 木造の社殿内に40年間も保存されるわけですが、取り出してみると新品同様の綺麗さだそうです。

 東宝殿には天皇陛下からの御幣などが納められます。
 弥生時代の形式の檜材による高床式唯一神明造りの建築物は、温度湿度汚染などの環境がひじょうに良好であることがわかりますが、さらに、森の中にもかかわらず、虫や小動物による被害もまったく無いそうです。

 その他重要な品々については、それぞれ決められた方法によって措置されるようです。
 たとえばご神体を直接奉安する入れ物の御樋代を納める御船代という船型の木製品の旧と仮は、少し離れた場所にある御船倉という建物に保管されます。
 御正殿真下にあって「八咫鏡」と同じくらい重要とされる「心の御柱」のその後については、のちに記します。


■■■■■ 7 御遷宮祭の順序 ■■■■■

 秋さりてそのふの夜のしづけきに 伊勢の大神をはるかをろがむ
                (昭和天皇御製/昭和48年)


◆◆◆ 7.1 御遷宮の祭一覧 ◆◆◆

 平成五年の第61回式年遷宮の例を記します。

1.昭和60年05月 山口祭*
2.昭和60年05月 木本祭(心の御柱の祭)*
3.昭和60年06月 御杣始祭
4.昭和60年06月 御樋代木奉曳式
5.昭和60年09月 御船代祭*
6.昭和61年04月 御木曳初式
7.昭和61年04月 木造始祭*
8.昭和61年04月 御木曳行事(第一次)
9.昭和61年07月 仮御樋代木伐採式
10.昭和62年05月 御木曳行事(第二次)
11.昭和63年04月 鎮地祭*
12.平成元年11月 宇治橋渡始式
13.平成04年03月 立柱祭*
14.平成04年03月 御形祭
15.平成04年03月 上棟祭*
16.平成04年05月 檐付祭
17.平成04年07月 甍祭
18.平成05年08月 お白石持行事
19.平成05年09月 御戸祭
20.平成05年09月 御船代奉納式
21.平成05年09月 洗清
22.平成05年09月 「心の御柱」奉建
23.平成05年09月 杵築祭*
24.平成05年10月 後鎮祭*
25.平成05年10月 御装束神宝読合
26.平成05年10月 川原大祓
27.平成05年10月 御飾
28.平成05年10月 遷御 2日内宮/5日外宮*
29.平成05年10月 大御饌
30.平成05年10月 奉幣 3日内宮/6日外宮*
31.平成05年10月 古物渡
32.平成05年10月 御神楽御饌
33.平成05年10月 御神楽3日内宮/6日外宮*
34.平成05年10月 荒祭宮・多賀宮の御遷宮
35.平成06年   その他の12の別宮の御遷宮

 一覧のなかで*を付したのは、天皇陛下に日時を決めていただく祭です。

 以下いくつかコメントしておきます。
 山口祭は、御用材の伐採と搬出の安全を祈る祭です。
 木本祭は、御正殿の御床下に奉建する「心の御柱」の用材を伐採するにあたってその木の神を祭るものです。

 お祭りの一覧に「御樋代」と「御船代」という言葉が出てきますが、これは、もっとも重要なご神体である「神鏡」を奉斎する入れ物のことです。

「御樋代」は、
 深さ約40センチ(内寸約25センチ)
 直径約60センチ(内径約50センチ)
 ――ほどの大きさで、「神鏡」はこの中に、御寝具にくるまれた形で奉安されます。
 また「御船代」はこの「御樋代」を安置する船型のことです。すべて檜です。
 なにしろご神体をお奉納するのですから、とくべつ重要視されているのです。

 この二つは、新規のものを造るだけではなく、旧殿から新殿に遷宮される途中のわずかな経路の間だけに使われる「仮御樋代」と「仮御船代」も造られます(前記一覧の9など)。
 ご神体の遷宮時には、「仮御船代」をさらに長方形の大きな覆いで覆って、絶対に直視することのできないようにして、旧殿から新殿に運ばれます。
 これが前記28.の遷御で、「心の御柱」奉建と並んで、遷宮における最重要な行事です。

 内宮のご神体が、『記紀』に出てくる「八咫鏡」であることはよく知られており、さらにその寸法形状の推理については、『卑彌呼と日本書紀』や『「三種の神器」の心』に記しました。

 一方外宮のご神体ですが、これも「八咫鏡」と同じく天孫降臨のときに〈豊受大神〉のご神体として天津神から授けられた「神鏡」で、真経津鏡(「八咫鏡」と同名)であるとされています。
『卑彌呼と日本書紀』に記しましたように〈天照大神〉のご神体は大和から各地をご巡幸になって最後に伊勢に落ち着かれたわけですが、そのとき、大和外の最初の巡幸地である丹後の《籠神社》の地までは〈豊受大神〉のご神体もご一緒であり、そこで〈豊受大神〉は留まり、〈天照大神〉のみが伊勢へ向かわれました。
 したがって〈豊受大神〉のご神体の真経津鏡は《籠神社》のあたりに鎮座しており、その後五世紀の雄略天皇の時代に、伊勢に遷宮されて、外宮に奉斎されたことになります。
 その丹後の《籠神社》には、紀元前後の鏡が今も伝世されていますから、それに似た古代の鏡が、〈豊受大神〉のご神体であろうと思われます。
(この問題については、少し違う考え方もあるようで、のちにもう少し詳しく記します)


◆◆◆ 7.2 御正殿を拝むには ◆◆◆

 御垣内の御正殿と御宝殿は四重の垣に囲まれています。
 一般の参拝者は、このうちの一番外側の板垣をすぎて外玉垣御門の拝殿で拝むのですが、その向こうにさらに三重もの垣がありますので、御正殿はほとんど拝観できません。
 では、御正殿を間近に拝むには、どういう方法があるのでしょうか?

 神宮の最高位の御神職が務めとして近寄る場合を除きますと、御正殿のすぐそばまで進んで拝むことのできるのは、天皇陛下のみです。
 皇后陛下や皇太子殿下はそのすこし後ろ、さらに別の皇族方はもう少し後ろですが、それでもとにかく一般よりはずっと近くです。
 ですから、皇族方のお嫁さんになれば、かなり近くで拝むことができますが、一般の人には難しいことです。

 次は総理大臣や大臣ですが、これも皇族に準じた扱いで、天皇陛下よりもかなり後ろです。
 総理大臣のみは、たしか、皇后陛下と同じだったと思います(旧社会党の村山元総理もそういう位置で拝みました。たしか天皇制反対だったと思うのですが!)が、一般の大臣はもっと後ろです。
 しかしとにかく、大臣になれば、かなり近くで拝むことができます。
 みなさんも頑張って大臣になってほしいと思います。

 大臣になることはちょっと難しいという方の場合は、次の四つの方法があります。
 A.式年遷宮のために高額の寄進をする。
 B.伊勢神宮崇敬会に入会する。
 C.お白石持行事に参加する。
 D.秋の遷宮から翌年前半までの半年ほどは、旧殿はそのままで拝観を許されるので、その時期に参拝して旧殿を間近に拝む。

 伊勢神宮崇敬会の会費は数千円で、誰でも入会できます。
 お白石行事とは、直径7センチ強の白色の石を、御正殿の周囲に敷き詰めるお勤めを、一般の崇敬者が、一人一個ずつ石を持って奉仕するもので、民衆が新しい御正殿をもっとも近くで――天皇陛下と同じ場所まで行って!――拝むことのできるお祭りです。平成五年には、10万人もの人がこれに参加したそうです。
 崇敬会に入会すれば、この行事への参加もしやすいと思います。
 おそらく、民衆の気持ちと要望を汲んでできた大衆的なお祭りだと思います。
(オロモルフはB.に入っておりますので、今後足の具合が良くなれば、希望してみたいと思っております。前に参拝したときは垣外からだけでしたから・・・)

 白石を踏み進みゆく我が前に 光に映えて新宮は立つ
           (今上天皇御製/平成六年)


■■■■■ 8 通常年のお祭り ■■■■■

 伊勢神宮の毎年の祭典や恒例式は数多くあります。
 代表的なものの数だけで、50に達します。
 その中で、もっとも回数が多いのが、
「日別朝夕大御饌祭」
 ――です。

 これは、外宮が遷宮されたころからおこなわれてきた、〈豊受大神〉が〈天照大神〉にお食事を差し上げるという設定の儀式で、〈豊受大神〉が外宮に鎮座された西暦478年ごろからしばらくは、神職が調理したお食事を、外宮から内宮まで毎日運んでいたそうです。
 それが729年に、外宮のみにある御饌殿において、〈天照大神〉だけではなく、〈豊受大神〉もご相伴になり、さらに相殿神や別宮の神々もご相伴になって――宴会のように!――召し上がっていただく儀式になりました。

 このお食事は、前記しましたように、古式ゆかしい方法でつくられ、材料の稲や塩や野菜や魚類なども、古式ゆかしい方法で神宮独自につくられています。
 調理に使用する火も、木の摩擦によって起こしますし、お皿の類も、素焼きの土器です。

 この毎日二回のお祭りは、外宮が丹後から遷宮されて以来ですから、ざっと計算して110万回以上にもなります。
 現在の形式になった729年からとしても、93万回以上になります。
 その間一度も中断しなかったとすれば、その継続性には驚きます。
 有名な高野山や比叡山の「火」の継続性をはるかに上回っております。

 日本の伝統文化の一大特色は、「継続性」にあるのです。
 神社を崇敬する人々も古代から現代まで継続、信仰の在り方も継続、皇室も継続、しかもそれが神々の時代から続いていて、神と人の間にも断絶は無いのです。


■■■■■ 9 文献 ■■■■■

《伊勢神宮》は明治神宮のように大都会の真ん中にあるわけではなく、交通も不便です。
 しかしそれでも、式年遷宮の年の参拝者は800万人を越えており、普段の年でも600万人だそうです。
 遷宮直後の平成6年のお正月は、七日間で120万人もが初詣に訪れました。
 江戸時代でも、毎年50万人がお参りし、とくに「おかげ参り」のときは数ヶ月で500万人にも達したそうです。
 16世紀に日本に来た有名なフロイスは、自国への手紙の中で、「信じられないほど多い」と記しています。
 本年(平成16年)の初詣の数は60万人だったそうです。

 神宮大麻と呼ばれる御神札の全国配布数は、江戸時代には家庭の九割に行き渡ったそうですが、現在でも900万以上です。
 また式年遷宮の寄進者数は1000万人に達しております。
 新宗教的な神道宗派を信じる必要はないと思いますが、日本の輝かしい伝統文化は、守っていかねばならないと思っております。

《伊勢神宮》についての文献は無数にありますが、現在入手可能で手軽に読めて写真の綺麗な入門書を一冊あげておきます。

【【【 三好和義・岡野弘彦ほか『日本の古社 伊勢神宮』淡交社(平成15年/2800円):書店で注文できます。】】】

 ムック形式の本ですが、写真も解説も本格的です。
 石原慎太郎や歌手のイルカが優れたエッセイを寄せています。

 つぎに、摂社まで含めた解説と御正殿の配置図などもある入門書としまして、

【【【 神宮司廳(編・監)『お伊勢まいり』伊勢神宮崇敬会(平成13年改訂五版/700円) 】】】

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 ――をおすすめします。
 安価で便利な新書版です。

 つぎに、式年遷宮についての本格的な解説書をご紹介しておきます。
 著者は、元皇學館大學学長で、正統古代史観を貫いた孤高の学者(文学博士)です。

◎田中卓『神宮の創祀と發展(神宮教養叢書第五集)』神宮司廳教導部(昭和三十四年)

◎田中卓『古代の神宮(神宮教養叢書第五集)』神宮文庫(昭和三十四年/平成二年)

◎田中卓『伊勢神宮と式年遷宮』皇學館大學出版部(昭和六十二年)

◎田中卓『田中卓著作集4 伊勢神宮の創祀と発展』国書刊行会(昭和六十年)

[田中卓先生は、昭和四十八年の神宮第六十回御遷宮に奉仕されるなど、神宮の発展に尽くし、皇學館大學の学長を務められた、日本古代史学界の高峰です。
 ここに挙げた三冊の著書と、国書刊行会から出されている田中卓著作集の第四巻によって、伊勢神宮関連の田中先生の論文の概要を知ることができますが、その中でも着目するのは、式年遷宮の起源論争です。
 戦後の古代史学界は、井上光貞や直木孝次郎で代表されるような、反日左翼傾向のきわめて強い学者によって占拠されてしまった感があるが、その中にあって、肥後和男先生や田中卓先生は、正統古代史の孤塁を守ってこられた碩学です。
 昭和三十年ごろ、神宮の式年遷宮の起源は、戦前に言われていたよりも、ずっと新しいという説が出され、第六十回は第五十五回にしなければならない――という危機が伊勢神宮を見舞いました。
 これに対して田中先生は、良心的な学問的態度を貫きながら、精緻をきわめた考証による反論を発表し、論争をされました。
 その結果として、世間は田中先生に軍配をあげ、神宮の第六十回の御遷宮は、無事に執り行われました。
 そしてそれ以後も、回数を減らすような奇妙な事は起こりませんでした。
 これは、神宮の方々の信念とともに、田中先生の学問的な論証も大いに力あっての事だったと思います。
 はじめの二冊は、第二が改版で、内容は同一です。その第四章に、式年遷宮論争の論文が記されています。昭和三十一年に『神道史研究』に発表された論文とのことです。
 三番目の本は、一般向けの講座を一冊の本にしたもので、わかりやすく、かつ学術的でもあります。
 最後は全集です。やや高額ですが、これがいちばん入手しやすいと思います]

 みもすその岸の岩根によをこめて 固めてたつる宮柱かな
                 (西行法師/12世紀)
(「みもすそ」は五十鈴川のこと)
 
 もの言わば神路の山の神杉に 過ぎし神代のことぞ問はまし
                 (本居宣長/18世紀)


■■■■■ 付録1.《伊勢神宮》外宮のご神体について ■■■■■


◆◆◆ 付録1.1 疑問に思っていたこと ◆◆◆

 ずっと疑問に思っていたことがあります。
 それは、《伊勢神宮》の外宮のご神体が何か――ということです。
 内宮のご神体は、〈瓊瓊杵尊〉が降臨されたときに〈天照大神〉から授かった「八咫鏡」であることは、誰もが知っています。
(もっとも最近は知らない人も多いらしい!)

 しかし、〈豊受大神〉を祀った外宮のご神体が何かについては、大部分の人が知らず、しかもほとんどの本に書いてありません。

 そこで、インターネットの神社関係の掲示板で質問したり、《伊勢神宮》の司廳に直接質問したりしたのですが、曖昧模糊とした反応しかありませんでした。

(インターネットの掲示板はたくさんありますが、オロモルフが何か質問してもごまかされることが大部分です。ただ、分かることはきちんと教えてくれて、分からないことは正直に「分からない」と言ってくれる掲示板はあります。その中のひとつが「拳拳服膺」さんです)

 電話口に出る《伊勢神宮》の人は、秘儀には参加しないレベルの人らしく、ご本人も詳しくないうえ、上司から「答えないように」と言われているような雰囲気でした。

 そこで、一年がかりであれこれ調べてみまして、なんとか、答らしきところに到達いたしました。
 それを以下に記します。


◆◆◆ 付録1.2 神道五部書 ◆◆◆

『神道五部書』とは、外宮を中心とした度会神道系の人たちによって鎌倉時代に成立したとされる宗派的な神道の聖典です。
 それは、つぎの五部よりなっています。

『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』
『伊勢二所皇太神宮御鎮座傳記』
『豊受皇太神宮御鎮座本紀』
『造伊勢二所太神宮寶基本記』
『倭姫命世記』

 このなかの、主に第二部に、外宮のご神体のことが記されています。
『神道五部書』というのは、とても読みにくい文章で記されており、とくに前三部は、昔は、六十歳未満の者は読んではいけない――といった厳重な制約があったそうです。

 なんとか、外宮のご神体についての部分を、現代語にしてみます。
 もちろん超訳です。


◆◆◆ 付録1.3 神道五部書における外宮のご神体の説明 ◆◆◆

***** 以下翻訳文 *****

『日本書紀』の神代紀にあります天鏡尊が、三面の神鏡をお造りになりました。
 そのうちの一つの天津水鏡神(白銅鏡マスミノカガミの一つ)が、〈豊受大神〉のご神体です。
 崇神天皇の御代に、〈豐鍬入姫命〉が〈天照大神〉のご神体を奉じて諸国を巡ったとき、大和を離れた最初の地が丹後の吉佐宮(現在の《籠神社》で天橋立は神社の参道)で、ここに四年間滞在されました。
 そのとき、高天原から〈豊受大神〉が御神鏡の天津水鏡とともに天下って、〈天照大神〉と並んで座したのです。
 そののち、〈天照大神〉は大和と周辺の宮を行き来し、垂仁天皇の御代になって御杖代が倭姫命にかわって、最終的に伊勢神宮の内宮にお遷りになっておちつかれました。
 しばらくして、〈豊受大神〉は高天原にお帰りになりましたので、《籠神社》ではお鏡をご神体として奉斎しておりました。
 それから時代が移って、雄略天皇の御代に、〈天照大神〉のご希望で、〈豊受大神〉が呼び寄せられて、お食事をつくる役目を担うことになりました。このときに、ご神体のお鏡が伊勢の外宮に遷宮なさったのです。
(ご神体に〈豊受大神〉の霊が宿っているので、ご神体すなわち〈豊受大神〉で、矛盾は無いわけです)

***** 以上翻訳文(小野祖教先生の訳を参考にしました) *****

 もともと度会神道や『神道五部書』ができたのは、鎌倉時代と言われますし、内宮に対抗してできたような経緯もあるらしいので、文献学的には『記紀』のような重みはなく、どちらかというと信仰の書(『記紀』の記述を元にして敷衍したらしい)ですので問題はあるのですが、完全な創作とも言い切れないものがあると思います。


◆◆◆ 付録1.4 『古事記』や『日本書紀』との関係 ◆◆◆

◎『古事記』との関係・・・

 天孫降臨の箇所に、いわゆる「三種の神器」だけでなく、〈豊受大神〉のご神体もともに天下ったようにも読める記述がありますから、これを基礎にして解釈したのが、オロモルフが前に読んだ昭和三年の『神宮要綱』の記事――

「ずっと皇居にあり、「八咫鏡」とともに吉佐宮(籠神社)に遷り、しばらくはそのまま留まって、雄略の御代に伊勢に遷ったという説」

 ――だと思います。

◎『日本書紀』との関係・・・
 神代の異説(一書の2)に、国常立尊が天鏡尊を生み、その曾孫が伊弉諾尊である――とありますが、これを後世になって発展させて物語をつくったのが、『神道五部書』の話らしいということです。


◆◆◆ 付録1.5 考古学的な推理 ◆◆◆

《伊勢神宮》のご神体は、内宮であろうと外宮であろうと、誰も見ることは許されません。
 内宮のご神体については、『卑彌呼と日本書紀』や『「三種の神器」の心』に記しましたように、「八咫鏡」を奉安する寝具を新しくする行事(おそらくは神嘗祭)のときに神職が眼をつぶって触ってみた感触の記録があります。

 それによりますと、
「直径が二十センチほどの凸面鏡で、中心に紐を通す輪がついており、裏には同心状の唐草模様のような模様があった」
 ――となっています。

 この、寝具にくるまれた「八咫鏡」を奉安する容器のことは、前記のように「御樋代」といって、
 深さ・・外寸40センチ/内寸25センチ
 直径・・外径60センチ/内径50センチ
 ほどの大きさです。
 つまり寸法はほぼ合っております。

 さて、これは内宮のものですが、じつは、外宮においても、式年遷宮のときに、まったく同じ形の同じ寸法のものが造られるのです。
 このことから、外宮のご神体も、内宮のご神体「八咫鏡」と、大略同じ寸法形状のお鏡ではないか――と想像されるわけです。
 すくなくとも、寝具にくるんだ状態で「御樋代」に十分に入る寸法にちがいない、というわけです。
 ですから、たぶん、内宮のお鏡に似た大きさと形状の紀元前後の鏡なのでしょう。

〈豊受大神〉が雄略朝まで鎮座していた丹後からは、ひじょうに古い遺跡がたくさん発見されて、もちろん鏡も発掘されていますし、《籠神社》には、紀元前の鏡まで伝世されていますから、崇神天皇の時代には鏡の製造も輸入も盛んになされていたと思います。
 そういう鏡が、〈豊受大神〉のご神体として祭られていたのだろうと、推理できます。
 ひょっとしたら、大和朝廷の先祖から贈られたのかもしれませんが・・・。


◆◆◆ 付録1.6 史実の推理 ◆◆◆

 丹後の《籠神社》のあたりは、日本海に出る要衝で、大和朝廷としてはどうしても確保したい良港ですから、そこの人たちが古くから信仰されてきた田畑の神〈豊受大神〉を、〈天照大神〉の親戚(姪)という事にして、『日本書紀』などの神話に記し、《伊勢神宮》にも祀って、大切にしたのでしょう。
 朝鮮の史書『三国史記』に、丹後から来た人が新羅の王になったという伝説が記されていますし、似た話が《籠神社》にも伝えられているそうです。
 それから、《籠神社》の一族(海部氏)は、かつて大和朝廷に敵対していた、〈饒速日命〉の系列(尾張一族と同系で、物部とは少し別系統)らしいですから、慰撫する目的もあったのだろうと思います。

 以上で、なんとか、《伊勢神宮》の外宮のご神体についての推理ができました。
 こういう推理ができますと、《伊勢神宮》への崇敬心がますます高まってまいります。


■■■■■ 付録2. 「心の御柱」のこと ■■■■■


◆◆◆ 付録2.1 「心の御柱」の問題とは? ◆◆◆

《伊勢神宮》の式年遷宮におきましては、ご正殿の中央真下に奉斎されている「心の御柱」の奉建が、もっとも重要な秘儀とされています。
 ひじょうに詳しい式年遷宮の解説書にも、この「心の御柱」の奉建については、ほとんど記述がありません。
 とくに、古い方の御柱をどのように扱うかについては、記述がありません。

 前記の淡交社の本の写真に、古殿地の御正殿真下にあたる場所に、「心の御柱覆屋」が写っているのが見えます。
 この地点に「心の御柱」があった(ある)わけですが、問題はそれが式年遷宮ののちにどうなるのか――という事なのです。
 新しい「心の御柱」を奉建する儀式はいろいろと書かれておりますが、古いものをどうするのかについては、記述がほとんど無いのです。

 この問題も、《伊勢神宮》や神社関係の掲示板などに質問しましたが、前記の外宮のご神体のときと同じ曖昧模糊とした反応でした。
 大部分の掲示板では、質問それ自体が理解できない様子でした。

 ということで、これは懸案になっていたのですが、外宮のご神体を調べている過程で、どのような本があるかについては、すこし判明しましたので、ここに記しておきます。
 なお、この問題につきましては、久留賢治さんから、有益なご教示をいただきました。


◆◆◆ 付録2.2 「心の御柱」についての文献 ◆◆◆

(1)度會行忠撰『心御柱秘記』(正安元年/1299年より少し前の著)

[神道五部書の秘記の一つとされる。
 著者は神道五部書の成立に貢献した学者。
(以下國學院大學『神道事典』より)
 伊勢内外宮正殿の床下に立つ「心の御柱」に関する秘儀を記した書。一巻。『古老口實傳』に書名がみえることから、正安元年(1299年)以前に、神宮禰宜度會行忠が、勤仕する神官たちのために記したものと思われる。「心の御柱」の寸法形状、五色の紙と八枚の榊葉による荘厳法、新旧の柱の建て替えの要領から、古い柱の処分法までの実際を記す。その内容は両部神道説や陰陽五行説の影響がうかがわれる。中世の「心の御柱」祭祀の実態を知る貴重な資料。
 度會行忠(一二三六年〜一三〇五年)は外宮禰宜の学者で、伊勢神道の基礎となる著述を多くのこしている。
(以下臨川書店復刊『神道大辭典』よりの補足)
『古老口實傳』も同じ著者の本で、正安元年ごろに成立したことがわかっている。このなかに神宮五部の秘記の一つとして挙げられていることから、正安元年以前と推理されている。神宮文庫所蔵]

(2)檜垣常昌著『「大神宮両宮之御事」に付属する口伝聞書の一つ』(1340年前後?)

[この本は、後醍醐天皇の中宮廉子の命によって外宮禰宜の檜垣が作成したもの。そこに、次のような記述があるそうです。
「心ノ御柱ノ事。替マイラスル時ハ物忌ノ一臈是立。物忌外不相倚。(二十年マシマシテ)奉祀已後。此御柱荒祭御前ナル谷ニ葬送ノ儀式ニテ送マイラスル目出御神事ナリ。此谷地極谷云ナリ。此事人不知。秘事云々」
 ここの書き方は、地獄谷ではなく地極谷となっています。斎戒の一神官のみが関与するらしい記述と、荒祭宮(〈天照大神〉の荒御魂を祭る宮で、内宮御正殿のすぐ後部にある)の前の谷に、葬送の儀式で埋葬するらしいことが記されています。じつに興味深い記述です]

(3)良遍講義録『神代巻私見聞』(応永三十一年/1424年の講義録)

[良遍は、中世日本紀や両部神道の流伝者だった学者だそうです。
 この本は『神道大系論説編3天台神道(上)』で見ることが出来ます。
 そこに記されている「心の御柱」の処分法とは、
「心柱遷宮後古柱軈不捨納先カリヤ作置後地獄谷云所埋納也(心の柱は、遷宮の後、古き柱をはやがて捨てず納む。先つ仮屋を作り置きて、後には地獄谷と云ふ所に埋納するなり)」
 ――というものです。
 仮屋とは、今でも古殿地中央に建てられている「心の御柱覆屋」かもしれません。次が重要で、地獄谷に埋葬するとあります。この地獄谷とはどこかについては、下記の山本ひろ子の連載にありました]

(4)大宮司大中臣爲長朝臣著『心御柱記』(大永二年/1522年の著)

[神道十二部書の一つとされる本。
(『古老口實傳』など七部を五部に加えて十二部書といわれる)
 この本は、『神道大系首編一 神道集成』で見ることができます。そこに、
「古御柱、宮地内、人拝見様、清所、奉安置也」
 ――とあります。
 たぶんこれは、古殿地の中央の「心御柱覆屋」に納めるという意味かもしれませんが、その後の事についての記述はありません]

(5)山本ひろ子『心の御柱と中世的世界(1)御柱・齒木・地獄谷――密教との交渉』
  (雑誌『春秋』(昭和六十三年十月))

[雑誌連載の第一回に、文献(2)や(3)を引用しつつ、中世の思想を述べていますが、その中に、地獄谷について、大要次のように記しています。
「地獄谷というのは、内宮と外宮の中間点にある小さな山の坂になっているところ。両宮の境界にあたる「間の山」とも呼ばれた所の「尾上坂」という所にあった。江戸時代の文献によると、昔は墓地で、かつ、処刑場でもあったらしい。江戸時代にはすでにふつうの場所になっていたらしい(したがって現在ではその面影はまったく無い)」
 ここで解説されている場所は、荒祭宮とは遠く離れているので、時代によって移動しているのかもしれません。山本氏のこの場所の出典は、江戸時代の文献のように思われます。なお著者の山本ひろ子は、和光大学の教授です]

(6)山本ひろ子『心の御柱考(その宗教的位相をめぐって)』
  (雑誌『自然と文化』第33号(1991年夏季号/特集柱のダイナミズム))

[このエッセイの中で、文献(1)および、江戸時代の文献『心の御柱秘記』(度會貞副・石部清房)に基づいて解説しています。しかし遷宮後の処分法についての話はありません]

(7)黒田日出男著『龍の棲む日本』(岩波新書/平成十五年三月)
[前記文献(3)が引用されている本です。ただし、(3)に記した文章が出ているだけで、場所の推定とか秘儀の内容などはありません。シンボリズムについての興味で記されています]

*****************

 以上、久留賢治氏の資料調査(および同氏が指摘された山本氏の資料)を主な参考としまして、判明した文献を列記しました。
 閲覧困難な本が多く、オロモルフは半分しか読んでいないのですが、遷宮後の古い「心の御柱」は、きわめて一部の選ばれた神官が秘儀として丁重に扱い、仮屋に安置したのち、葬送の儀式と同様にして、地獄谷/地極谷といわれる場所に埋葬した――というのが、中世以来の伝統のようです。

 そしてその地獄谷と呼ばれる場所は、内宮神域内の荒祭宮のそば、あるいは内宮外宮の中間点の谷など、時代によって変化したらしいです。

 ざんねんながら現在の秘儀の内容は不明ですが、伝統を重んじる神宮ですから、たぶん中世と似た儀式がなされているのではないか――と思います。

 注:なお、源頼朝は第27回の内宮の式年遷宮(1190年)に大きな貢献をしましたが、その事を記した『吾妻鏡』に、五年後に古い「心の御柱」を使って仏像を彫って東国の守りにしたという話があり、『吾妻鏡』の著者は神仏合体として評価しています。


■■■■■ 付録3. 参拝者数などの変遷 ■■■■■


◆◆◆ 付録3.1《伊勢神宮》の参拝者数の変遷 ◆◆◆

《伊勢神宮》を参拝する人の数が、明治以来どのように変遷してきたかを、簡略化したグラフにしてみます。
(明治以前は正確な記録は無いようですが、有名なおかげ参りの年などは最大で200万人という推定があるようです)
 数値の出典は「伊勢神宮崇敬会講演録9(井面護)」です。

 I ひとつを20万人として棒グラフをつくります。


『グラフ1 内宮の参拝者数の変遷』

1900:IIII(70万)←明治33年
1905:III(60万)
1910:IIII(75万)
1915:IIII(70万)
1920:IIIIII(110万)←大正9年
1925:IIIIII(125万)
1930:IIIIIIII(150万)
1935:IIIIIIIII(180万)
1940:IIIIIIIIIIIIIIIIII(360万)←昭和15年
1945:IIII(75万)←昭和20年/終戦
1950:IIII(80万)
1955:IIIIIIIIIII(210万)
1960:IIIIIIIIIIII(230万)
1965:IIIIIIIIIIIIIII(300万)
1970:IIIIIIIIIIIIIIIIII(350万)
1975:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(410万)←昭和50年
1980:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(425万)
1985:IIIIIIIIIIIIIIIIIIII(400万)
1990:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(420万)←平成2年
1995:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(450万)
2000:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(410万)←平成12年


『グラフ2 内宮の式年遷宮の年またはその翌年の参拝者数の変遷』

 式年遷宮の時期には参拝客が増加するので、そのグラフを示します。

1909:IIII(75万)←明治42年
1929:IIIIIIIII(175万)←昭和4年
1953:IIIIIIIIIIII(240万)←昭和28年
1973:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(500万)←昭和48年
1994:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(570万)←平成6年


『グラフ3 外宮の参拝者数の変遷』

 グラフは略します。
 明治から昭和10年代までは、外宮の方が少し多い。
 昭和40年代以後は、内宮の方がはるかに多い。
 これは主として交通事情によるようです。
《伊勢神宮》の参拝順序の基本は、外宮が先で内宮が後です。
 しかし、昭和40年代以後においては、内宮参拝の交通手段が大幅に改善されたため、内宮参拝客が増加し、内宮のみの参拝で終え、あとは門前町で遊んで帰る人が増えたらしいのです。
 その結果として、内宮と外宮の合計は、戦後から昭和50年くらいまでは増えたが、それ以後は内宮は増えても外宮が大きく減ったために、漸減傾向にあります。


◆◆◆ 付録3.2 神宮大麻の頒布数の変遷 ◆◆◆

《伊勢神宮》のお札である神宮大麻の頒布数は、1000万を目標にしていたという事ですが、いまでは飽和状態にあるようです。
 こういうものにも、昭和40年代以降の日教組教育の悪影響が見られます。

 以下に神道事典のデータを簡易グラフにして示します。

1930:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(600万)
1942:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(1250万)
1947:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(540万)←終戦直後
1955:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(680万)←昭和30年
1960:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(700万)
1965:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(690万)
1970:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(720万)
1975:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(790万)
1985:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(890万)
1990:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(940万)←平成2年

 江戸時代においては、日本中のほとんどの家庭に神宮大麻が祀られていたと言われますが、とくに戦後は大幅に減りました。
 これもまた日教組教育の悪影響だと思います。


◆◆◆ 付録3.3《伊勢神宮》への修学旅行数の変遷 ◆◆◆


『内外宮に修学旅行した学校の数』

1945:ほとんどゼロと推定
1960:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(7500校)←昭和35年
2001:III(469校)←平成13年


『内外宮に修学旅行した生徒の数』

1945:ほとんどゼロと推定
1960:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(120万人)←昭和35年
2001:I(4.5万人)←平成13年

 この激減は、当然ながら日教組教育の悪影響です。


『付録の付録 国旗掲揚率』

 戦後の国旗掲揚率(掲揚する家庭が全家庭の何パーセントかという数字)を簡易グラフにします。
 このグラフは、前記の《伊勢神宮》への修学旅行のグラフと酷似しております。

1945:ゼロ
1950:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(58%)←昭和25年
1964:IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII(56%)←昭和39年
2000:ほとんどゼロ

 戦後はGHQの命令で、国旗掲揚が禁じられていましたが、昭和24年のマッカーサーの元旦メッセージにおいて、許可がおりました。
 そのとき朝日新聞の「天声人語」ではこれを大歓迎し、貧しくて国旗が買えない家庭には国が配給するべきだ――という、今の朝日新聞からは想像も出来ないような主張をしていました。
 そしてその結果、昭和25年の朝日新聞調査では、前記のように日本中の家庭の約六割が国旗を掲揚するようになりました。
 また内閣の調査では、昭和39年の東京オリンピックの年には、日本人の国家意識が高揚して、やはり六割近くの家庭が国旗を掲揚しておりました。
 オロモルフは当時東京の原宿に住んでおりましたが、通りに国旗が林立していた記憶があります。
 しかし昭和40年代から苛烈になった反日プロパガンダ――なかでも日教組教育――によって、現在ではほとんどゼロとなりました。

《伊勢神宮》の問題も、他の多くの問題と連動していることが分かります。


■■■■■ 付録4. 第六十二回式年遷宮(平成二十五年) ■■■■■

 伊勢神宮の次の式年遷宮は第六十二回(平成二十五年)。
 平成十六年四月五日、その準備に入るに当たっての記者会見が都内で開かれた。
 会見には、北白川道久神宮大宮司をはじめ、谷田部正巳次期式年遷宮広報準備委員会委員長ら関係者が出席した。
 神宮の祭祀の主宰者は天皇陛下。
 陛下の式年遷宮遂行の思し召しを体し、神宮大宮司の責任において進められる。
 会見で、北白川宮司は、
「本日、天皇陛下から御聴許を賜り、次期式年遷宮のご準備を神宮大宮司において取り進めることになりました」
 とご報告、また、
「聖旨を拝し、恐懼の念に耐えず、悠久の歴史の一歩を刻む任の重さに、身の引き締まる思いがいたします」
 と心境を吐露された。
(以上および以下の資料:『日本の息吹』平成十六年五月号より)

 戦後は国家の重要儀式ではなくなってしまったので、国民の寄付によって行われてきました。
 前回の第六十一回(平成五年)はたしか三百七十億円ほどの寄付が集まり、史上空前と言われたのですが、次の六十二回は、五百五十億円と試算されているそうです。
 不景気ですから、これは相当に苦しい計画でしょう。
 このほかにも、難しい問題がたくさんあります。
 たとえば、神宝などの製作を担当する特殊技能者の生活を支えることがとても難しくなっていること、膨大な量の檜材の供給が難しくなっていること・・・などです。
 これまではすべてに檜を使っていましたが、第六十二回においては、社殿以外の一部には、ヒノキアスナロを用いることにしたそうです。
 この用材のことは知りませんが、やむをえないことなのでしょう。

 なにはともあれ、持統天皇の御代からえんえん千三百年も続いてきた二十年ごとの式年遷宮です。
 これこそまさに、世界に類例のない歴史の長期継続性であり、日本民族の栄光です。
 なんとしてでも成功させたいものです。
(みなさん、お金を貯めて寄付しましょう!)


【「《伊勢神宮》と式年遷宮」完】


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