■□■□■ 北関大捷碑(解法者)■□■□■


 平成17年になってとつぜん、「北関大捷碑」の返還問題がおこり、新聞やテレビで報道されました。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵のおりの出来事を刻んだ半島北方の碑が靖国神社に保管されており、それを韓国を介して北朝鮮に返却するという話でした。
 このときメディアでは、返還するかしないか、などが話題になっただけで、その碑文の内容については、まったく報道しませんでした。
 実物が日本にあり、秘密でも何でもなかったのに、マスコミではまったく調査しなかったようです。
 そこで、朝鮮問題に強い解法者さまが立ち上がり、徹底した調査研究をされ、それを纏めてくださいました。
 どうやら、この碑についてこれまで言及したり調査したりしたのは日本の学者だけであり、肝心のあちらの人たちは資料を残していなかったらしい。
(韓国北朝鮮の人たちは、学者であっても、碑文にある漢字は読めないのではないか――と不安になります)
 いずれにせよ、本資料は、じつに貴重な文献です。
 みなさん、ぜひお読みください。
(オロモルフ)


◆◆◆北関大捷碑(1)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 4日(水)21時29分43秒
>北関大捷碑についての概説<◆◆◆

1.この碑は靖国神社に保管されていたが、平成17年(2005年)9月12日に、靖国神社より韓国政府を通じて北朝鮮政府に返還され、20日、韓国に到着し、28日に新装なった国立博物館で陳列・公開された。いずれは北朝鮮に返還されるようである。
 北関大捷碑は、文禄の役(朝鮮では「壬辰倭亂〔イムジンウェラン〕)の時に、朝鮮軍が朝鮮咸鏡道〔咸鏡北道〕吉州付近の戦闘で加藤清正軍に勝利したことを記念して建設されたものである。またの名を「咸鏡道義兵大捷碑」という。
 しかし、この戦闘がいつ、どこでのものかは明確ではない。当時の文献でもはっきりしてない(これについては後述する)。
 この北関大捷碑については、その全文が明らかになっているものは、朝鮮ではなく、日本でも、「北關大捷碑に就いて」(古谷 清『學鐙』第12年2号 29頁 丸善 1908年〔明治41年〕2月18日発行)、「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」(崔書勉『韓』74号〔7巻3号〕68頁 東京 韓国研究院、「壬辰倭乱の義 兵顕彰碑と日本帝国主義」(北島万次『歴史学研究』639号62頁 青木書店 1992年〔昭和59年〕11月30日発行)の3点に過ぎない。靖国神社でも全文(拓本)を記したものは存在しない。拓本は「安福 庸」(福岡市在住)が所持しているものの他はないのではなかろうか。


◆◆◆北関大捷碑(2)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 4日(水)21時27分56秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(1)<◆◆◆

1.天正18年(1590年)中冬
 豊臣秀吉 朝鮮からの通信使(正使 黄 允吉 副使 金 誠一)の朝鮮国王宣祖からの国書に対する答書を認める。
「明国に入る(攻略する)。朝鮮はその先駆けを為せ」
 ※ 「続善隣國寶記」
2.天正19年(1591年)正月20日
 豊臣秀吉 大船建造命令
 ※ 「改定史籍集覽本太閤記」
3.天正19年(1591年)正月28日
 朝鮮からの通信使(正使 黄 允吉 副使 金 誠一)釜山到着
 正使「黄 允吉」 国王に、秀吉 朝鮮を侵略すると上啓
 ※ 「宣祖〔記−1〕實録 巻二十五宣〔記−1〕二十四年正月庚戌」
4.天正19年(1591年)3月
 正使「黄 允吉」 国王に、秀吉 朝鮮を侵略すると上啓
 副使「金 誠一」 国王に、秀吉 朝鮮を侵略せずと上啓
 ※ 「朝野検〔記−2〕載巻二十七 宣祖〔記−1〕朝辛卯二十四年三月」
   「懲必〔記−3〕 巻一」(柳 成龍)
   「隠峰野史別録」
5.天正19年(1591年)3月15日
 豊臣秀吉 朝鮮軍役の定
 1.四国・九州は、石高1萬石につき、600人
 2.中国・紀州辺は、石高1萬石につき、500人
 3.5畿内は、石高1萬石につき、400人
 4.江衆・尾張・濃美・伊勢は、石高1萬石につき、350人
 5.遠州・三河・駿河・伊豆辺より東は、石高1萬石につき、200人
 6.若州より能州は、石高1萬石につき、300人
 7.越後・出羽は、石高1萬石につき、200人
 ※ 「改定史籍集覽本太閤記」

 ★ 〔記−1〕 祖−旧漢字
〔記−2〕 検−左側の木偏〔木〕を取ったもの 読み方はケン
〔記−3〕 必−上に草冠〔艸〕が付く 読み方はビ


◆◆◆北関大捷碑(3)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 4日(水)21時24分43秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(2)<◆◆◆

6.天正19年(1591年)8月23日
 豊臣秀吉 明国への出兵を下知−征明の意思を表明
 ※ 「石田正澄の相良長毎」への書状
   「朝鮮征伐記」(堀田 正意)
7.天正19年(1591年)8月23日
 豊臣秀吉 肥前名護屋城築城命令
 ※ 「石田正澄の相良長毎」への書状
   「加藤清正の肥後留守居役加藤喜左衛門」への書状
8.天正19年(1591年)10月10日
 肥前名護屋城築城
 ※ 「石田正澄の相良長毎」への書状
   「加藤清正の肥後留守居役加藤喜左衛門」への書状
9.文禄元年(1592年)正月5日
 豊臣秀吉 朝鮮出陣命令 各大名に下知
 ※ 「毛利文書」、「小早川什書」など
10.文禄元年(1592年)正月5日
 第1次出陣 陣立確定
 ? 総 員                106,700人
 ? 第1軍(小西行長・宗義智・松浦鎮信)  13,700人
 ? 第2軍(加藤清正・鍋島直茂)      22,800人
 ※ 「黒田文書」 ただし、第8軍(番)まで
 ※ 「武家事紀」では次のようになっている。ただし、第16軍(番)まで、船方衆も含む
 ? 総 員                281,840人
 ? 第1軍(小西行長・宗義智・松浦鎮信)  18,700人
 ? 第2軍(加藤清正・鍋島直茂)      22,800人


◆◆◆北関大捷碑(4)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 4日(水)21時21分54秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(3)<◆◆◆

11.文禄元年(1592年)3月13日
 第1次出陣命令
 ? 総 員                150,870人
 ? 第1軍(小西行長・宗義智・松浦鎮信)  18,700人
 ? 第2軍(加藤清正・鍋島直茂)      22,800人
 ※ 「武家事紀」、「浅野家」、「毛利家文書」など
12.文禄元年(1592年)3月26日
 豊臣秀吉 京都より名護屋に向かう。
13.文禄元年(1592年)4月12日
 第1軍 釜山浦に侵攻
 ※ 「西征日紀」(僧 天荊−「宗 義智」に随行)
   「毛利家文書」
   「懲必〔記−3〕録 巻一」釜山陥落の條」(柳 成龍)
14.文禄元年(1592年)4月13日
 釜山鎮城 陥落
 ※ 「西征日紀」(僧 天荊)
   「懲必〔記−3〕録 巻一 釜山陥落の條」
16. 文禄元年(1592年)4月17日
 第2軍 釜山鎮に入城
17.文禄元年(1592年)4月25日
 豊臣秀吉 名護屋城に到着

 ★ 〔記−3〕 必−上に草冠〔艸〕が付く


◆◆◆北関大捷碑(5)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 4日(水)21時19分15秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(4)<◆◆◆

18.文禄元年(1592年)4月27日
 第1軍 忠州 陥落
 ※ 「西征日紀」(僧 天荊)
 ※ 「懲必〔記−3〕録 巻一 忠州敗戰の條」(柳 成龍)
19.文禄元年(1592年)4月28日
 第2軍 忠州に到着 第1軍と合流
20.文禄元年(1592年)4月29日
 第1軍、東路を進み漢城(ソウル)へ向かう。
 第2軍、西路を進み漢城(ソウル)へ向かう。
 ※ 「懲必〔記−3〕録 巻一」
21.文禄元年(1592年)4月30日
 朝鮮宣祖〔記−1〕 北方(平壌方面)に逃れる
 5月1日  開城到着
 5月7日  平壌到着
 ※ 「懲必〔記−3〕録 巻一」
22.文禄元年(1592年)5月3日
 第1軍、第2軍 同時に漢城(ソウル)に侵攻 漢城陥落
 ※ 「吉野日紀」、「征倭雑志〔本國被兵始末志〕(申 欽)
   「懲必〔記−3〕録 巻一」
23.文禄元年(1592年)5月8、9日
 豊臣秀吉 朝鮮八道の分担決定  加藤清正 黒国(咸鏡道)分担
24.文禄元年(1592年)5月27日
 開城〔京畿道開城府[北朝鮮の開城市−38度線から北へ10`高麗時代の都〕 陥落

★ 〔記−1〕 祖−旧漢字
〔記−3〕 必−上に草冠〔艸〕が付く


◆◆◆北関大捷碑(6)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 5日(木)03時58分15秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(5)<◆◆◆

25.文禄元年(1592年)6月1日
 加藤清正 開城を出発
26. 文禄元年(1592年)6月10日
 加藤清正 第2軍を率いて、開城の南約20`の金郊(北朝鮮 黄海南道金川郡金川邑付近)より元山方向(日本海方向)へ向かう。
 朝鮮宣祖 平壌を捨て「寧邊〔平安北道寧邊郡〕−平壌より200`北」へ向かう。
 6月13日  寧邊を経由して「博川〔平安北道博川郡〕−寧邊より25`南西」到着
 6月22日  博川から、定州、宣川を経由して「義州〔平安北道義州郡義州邑〕−平壌より330`北−鴨緑江の辺〔中国との境〕」到着
 ※ 「懲必〔記−3〕録 巻二」
27. 文禄元年(1592年)6月16日
 第1軍 平壌陥落さす。
 ※ 「懲必〔記−3〕録 巻二」
28. 文禄元年(1592年)6月17日
 加藤清正 安邊(北朝鮮 江原道〔旧 咸鏡南道〕)に到着
 ※ 「加藤清正の書状〔6月24日付〕」(韓陣文書に書収)
 加藤清正 ここで、王子「臨海君」(咸鏡道へ募兵のための使者)、「順和君」(江原道へ募兵のための使者−清正軍が江原道占領のため、臨海君と合流し咸鏡道へ向かう)が、咸鏡道へ向かっているとの情報に接し、これを捕らえに咸鏡道へ向う。
 ※ 「懲必〔記−3〕録 巻二」
   「加藤清正の長束正家宛書状〔7月23日付〕」(韓陣文書に書収)

  ★ 〔記−3〕 必−上に草冠〔艸〕が付く


◆◆◆北関大捷碑(7)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 5日(木)03時55分51秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(6)<◆◆◆

29. 文禄元年(1592年)6月18日
 鍋島直茂 安邊に到着
 ※ 「普聞集」(是琢−「鍋島直茂」の従軍僧)
30. 文禄元年(1592年)6月21日
 鍋島直茂 長橋〔咸興(北朝鮮 咸興市[旧 咸鏡南道]〕に到着
 ※ 「普聞集」
31. 文禄元年(1592年)6月24日
 加藤清正 永興(北朝鮮 咸鏡南道)に到着
 ※ 「加藤清正の書状〔6月24日付〕」(韓陣文書に書収)
32. 文禄元年(1592年)6月24日
 加藤清正 永興(北朝鮮 咸鏡南道)に到着
 ※ 「加藤清正の書状〔6月24日付〕」(韓陣文書に書収)
33. 文禄元年(1592年)7月17日
 加藤清正 海汀倉(北朝鮮 咸鏡北道金策市〔旧 咸鏡北道城津市−咸鏡 南道との境〕)で、朝鮮軍(咸鏡北道兵使「韓 克誠」)と戦闘し、撃破
 ※ 「加藤清正の九鬼四郎兵衛・粟生一郎右衛門宛の書状〔7月18日付〕」
   (九鬼文書に書収)
   「懲必〔記−3〕録 巻二」
34. 文禄元年(1592年)7月
 加藤清正 端川〔咸鏡南道−咸鏡北道との境〕を占領
 銀山を開発 銀を鋳造  税を徴収し、民政を開始
 ※ 「九鬼文書」
   「加藤清正の書状〔7月18日付〕」(韓陣文書に書収)
   「加藤清正の九鬼四郎兵衛・粟生一郎右衛門宛の書状〔7月23日付〕」(九鬼文書に書収)

  ★ 〔記−3〕 必−上に草冠〔艸〕が付く


◆◆◆北関大捷碑(8)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 5日(木)03時52分52秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(7)<◆◆◆

35. 文禄元年(1592年)7月23日
 加藤清正 会寧(北朝鮮 咸鏡北道会寧市−中国との国境)を攻略 「鞠 景仁(会寧 府使)」降伏 「臨海君」、「順和君」を清正に差し出す。清正 「鞠 景仁」を始めとする降将を厚遇したため、朝鮮軍および民衆が帰順
 ※ 「加藤清正の高麗陣覚書」(民衆が国王に反感を持っていたことを記述)「加藤   清正の長束正家宛の書状〔7月23日付〕」(韓陣文書に書収)「加藤清正の九鬼廣隆宛の書状〔7月25日付〕」(九鬼文書に書収)「倡義起兵、入守鏡城後、撃斬倭賊状」(鄭 文孚『農圃集』に書収)
   「懲必〔記−3〕録 巻二」
   「李朝宣祖〔記−1〕修正實録 宣祖〔記−1〕二十五年九月條」
   「壬辰録 壬辰九月」(丹室居士〔閔 順之〕)
36. 文禄元年(1592年)7月27日頃〜8月22日頃
 加藤清正 豆満江(中国との国境)を越えて、女眞族支配地域(間島−現在の中国延邊朝鮮族自治州)に侵攻
 兀良哈〔オランカイ−人名ではなく、女眞族のこと〕と戦う。
 酋長「卜占台」の軍勢を破り、都「南京−現在の中国延邊朝鮮族自治州「延吉」付近」を陥落さす。
 兀良哈征伐の目的は、明国への侵攻について、この地方の動向を探るためであった。
 女眞族の侵略に悩まされていた民衆の支持が増す。
 ※ 「加藤清正の長束正家・増田長盛宛の書状」〔7月23日付〕(韓陣文書に書収)
   「加藤清正の浅野長政宛の書状」(浅野家文書に書収)
   「加藤清正の九鬼廣隆宛の書状〔7月27日付〕」(九鬼文書に書収)「加藤清正の木下半介吉隆宛の書状〔9月20日付〕」(古蹟文徴に書収)
   「北關誌 鏡城府雑記」

  ★ 〔記−1〕 祖−旧漢字
    〔記−3〕 必−上に草冠〔艸〕が付


◆◆◆北関大捷碑(9)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 5日(木)03時49分5秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(8)<◆◆◆

37. 文禄元年(1592年)8月
 加藤清正 鏡城(北朝鮮 咸鏡北道鏡城市〔清津の南約20`〕)に駐留
 間島から鏡城への帰陣の間に、兵馬節度使「韓 克誠」を捕捉
 ※ 「北關誌 鏡城府雑記」
38. 文禄元年(1592年)8月下旬
 加藤清正 咸鏡北道は、寒冷で穀物も少なく占領する価値なしと判断し、本隊を安邊(江原道〔旧 咸鏡南道〕)に撤収することを決意
 海汀倉(咸鏡北道金策市)〜洪原(咸鏡南道)に兵500人〜1500人を、咸興(咸 鏡南道)〜徳源(咸鏡南道)に兵1200人を、安邊に3000人を、それぞれ配置
 ※ 「清正高麗陣覺書」
39. 文禄元年(1592年)9月7日
 加藤清正 長橋〔咸興(北朝鮮 咸興市[旧 咸鏡南道]〕に到着
 ※ 「加藤清正の九鬼廣隆宛の書状〔9月7日付〕」(九鬼文書に書収)
40. 文禄元年(1592年)9月20日
 加藤清正 安邊に到着
 ※ 資料は、「北関大捷碑の戦闘の検証 1.戦闘の概要 ? 朝鮮側の資料」を参照
41. 文禄元年(1592年)9月15日
 鄭 文孚〔咸鏡北道評事〕 加藤清正の本隊撤収に乗じ、義兵を集め鏡城に入る。
 その後、「鞠 景仁」を会寧でを殺害 さらに、明川(北朝鮮 咸鏡北道明川市〔鏡城の南60`〕)に入り、加藤清正に帰順した鄭末秀を殺害
 こうした戦勝によって、義兵数千人に達する
 ※ 「加藤清正の九鬼廣隆宛の書状〔9月20日付〕」(九鬼文書に書収)


◆◆◆北関大捷碑(10)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 5日(木)03時44分57秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(9)<

42. 文禄元年(1592年)11月15日
 日本軍  約千余人 吉州城を出て、海汀加坡里(加坡)へ進撃し、鄭文孚指揮下の義兵と「長坪石見〔記−4〕」で戦闘 このときの戦闘が『北関大捷碑』の碑文と思われるが、なお明確ではない。
 ★ 6.北関大捷碑の戦闘の検証 参照
43. 文禄元年(1592年)11月22日
 加藤清正 端川の守将に端川城を死守することを命令
 「斎田 傳右衛門」、「山内 次兵衛」を吉州に派遣
 ※ 「九鬼文書」
   「普聞集」
44. 文禄元年(1592年)12月
 明軍「李 如松」軍務提督、4万3千の軍勢を率いて、鴨緑江を渡河し、朝鮮に入国
 ★ 明軍が朝鮮に入国して救援したのは7月(「遼東副総兵使「祖 承訓」が兵5千を率いて来援)と「懲必〔記−3〕録巻二」の記述がある。
 ★ 明軍が朝鮮に入国しようと考えていたのは、それより前の5月末から6月始めにかけてのことである(〔遼東鎮撫使「林 世録」が平壌に派遣された(「宣祖〔記−1〕實録」宣祖〔記−1〕二五年五月戊子、「懲必〔記−3〕録
巻二」)の記述がある。
  ※ 「宣祖〔記−1〕修正實録」宣祖〔記−1〕25年〔1592年〕
    12月
    「亂中雑録」壬辰〔1592年〕11月
45. 文禄二年(1593年)1月
 漢城〔ソウル〕の奉行衆よりの清正への安邊も含む咸鏡道からの撤退要請
 文禄元年(1592年)12月20日 鍋島直茂 家臣「下村生運」を漢城の奉行「石田三成」に派遣 奉行 加藤清正に安邊も含む咸鏡道からの撤退を命令
 ※ 「増田長盛・大谷吉継の鍋島直茂宛書状〔正月13日付〕」(鍋島直茂譜考録に書収)


◆◆◆北関大捷碑(11)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 7日(土)23時34分13秒
>文禄の役(壬辰倭亂)における加藤清正軍の動向(10)<◆◆◆

46. 文禄二年(1593年)1月11日
 加藤清正 漢城〔ソウル〕の奉行衆よりの清正への安邊も含む咸鏡道からの撤退要請を受けて、端川に駐留していた「九鬼広隆」に、吉州も含めて咸鏡道撤退を命令
 ※ 「加藤清正の九鬼廣隆宛の書状〔正月11日付〕」(九鬼文書に書収)
  「征韓録 巻二」(島津久通)
「加藤清正の長束正家・木下吉隆宛の書状〔正月11日付〕」(韓陣文書に書収)
「征韓録 巻二」(島津久通)
47. 文禄二年(1593年)1月28日
吉州城より撤退
※ 「與倭賊大軍戰白塔郊及び倭賊退走状啓」(鄭 文孚)
「鍋島直茂譜考録 巻八」
「壬辰録 癸已正月癸未」
48. 文禄二年(1593年)2月7日頃
加藤清正 北青(咸鏡南道北青郡〔咸興より北へ165`〕)へ撤退の兵を支援するため出陣
※ 「清正高麗陣覺書」
49. 文禄二年(1593年)2月11日
咸興より撤退
50. 文禄二年(1593年)2月15日
加藤清正 安邊にて、明国の「馮 仲纓」と講和の会談
※ 「宣祖〔記−1〕實録 巻三六 三月丁巳(2日)の條」
51. 文禄二年(1593年)2月21日
加藤清正 安邊から撤退
※ 「宣祖〔記−1〕實録 巻三六 「金 貴榮」の状啓」
52. 文禄二年(1593年)2月29日
加藤清正 「漢城−ソウル」へ帰陣
※ 「吉見家朝鮮陣日記」

 ▲ 出典があきらかでないものは、「文禄・慶長の役 本編第一」(池内 宏 南満州鉄道 大正3年8月10日発行)および「文禄・慶長の役 別編第一」(池内 宏 東洋文庫 昭和11年12月25日発行)に依った。

 ★ 〔記−1〕 祖−旧漢字


◆◆◆北関大捷碑の投稿について  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)06時12分52秒
 碑文の全文を明らかにしました。
 この碑文については、研究者によって異なるところがあり、それについては(注)で解説しました。

 これから、(21)までは、その解説をし、その後、碑文の私なりの訳文をあげます。
 さらに、その碑文の信憑性について論じます。


◆◆◆北関大捷碑(12)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)06時04分22秒
>北関大捷碑文(1)<◆◆◆

表 面
北関大捷碑

有明朝鮮國咸鏡道壬辰義兵大捷碑
 中訓大夫守掌樂院正知製教兼〔記−5〕世子侍講院補徳
崔 昌大 撰
通政大夫吏曹参議知製教 尹 徳駿 篆
朝散大夫前行李陵参奉 李 明弼 書

在昔壬辰之難、其力戰破賊、雄鳴一世、水戰則有李忠武之閉山焉、陸戰則有權元帥之
幸州焉、有李月川之延安焉、史氏記之、游談者誦之不倦、雖然、此猶有位地資於乗、
賦什伍之出記也、若起單徴〔微−注1〕奮逃竄徒、以忠義相感激、卒能用鳥合取全勝、
克復一方者、關北之兵爲最(最〔記−6〕−注2)、始萬歴中、倭酋秀吉、怙強傲
〔記−7〕逆規犯、中國、怒我不與假道、遂大入寇、 長驅至都、宣廟既西幸、而列郡
瓦解、賊已陥京畿、其驍將二人、分兵首兩路、行長躡 行朝西、清正主北攻、其秋清正
入北道、兵鋭甚、鐡嶺以北無城守焉、於是鞠敬仁等叛、應賊、敬仁者會寧府吏也、
素志(悪−注3)不卒(率−注4)、及賊到富寧、隙危扇亂、執兩王子及宰臣、□
(奔−注5)播者、並(并−注6)傳(縛−注7)諸長吏、與賊效欸、鏡城吏鞠世必
其叔父也、叛(及−注8)明川民末守・木男連謀相黨、並(并−注9)受賊、所署官
各據州城、聲張勢立殺脅、惟所指、骰(數−注10)州崩駭、人莫自保、鏡城李鵬壽爲
氣士也、奮日縦國家創攘至此、兇徒敢爾耶及潜、與崔配天、池達源、姜文佑等、謀起
義兵、諸〔人地−注11)〕相夷、莫適爲將、評事鄭文孚、有文武之才、無兵可戰、脱身
匿山谷間、聞義兵起、欣然從之、遂推鄭公爲主將、

★ 〔記−5〕 兼−旧漢字
〔記−6〕 最−上に宀冠〔宀〕が付く−驕る〔おごる〕の意
〔記−7〕 傲−人偏〔人〕を取って下に馬−驕る〔おごる〕の意
読み方はゴウ


◆◆◆北関大捷碑(13)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)06時00分35秒
>北関大捷碑文(2)<◆◆◆

鍾(鏡−注12)城府使鄭見龍、慶源府使呉應臺爲次將、軟(歃−注13)血誓義、募兵得
百餘人、時北虜又侵北邊、諸公使人誘世必、並(并−注14)力禦北虜、世必許之、
内義兵州城、明朝鄭公旗鼓、上南城樓、誘世必、上謁時、其入目文佑、禽之斬以殉、
赦其脅徒、即引兵南、趣明川又捕末守等斬之、會寧人亦討  敬仁誅之、以應義兵、
軍勢稍壯、來附者益衆、吉州人許珍、全國信、許大成 亦衆兵爲聲援、當是時清正命
偏將、領精兵數千據吉州、身卒(率−注15)大軍、屯南關以護之、十一月遇賊于加坡
將戰、鄭公部署諸將、見龍爲中衛將屯白塔、應臺及元忠恕爲伏將分屯石城□、
(毛−注16)會、韓仁齊(濟−注17)爲左衛將屯木棚、柳敬〔記−8〕天爲右衛將屯
涅河、金國信、許珍爲左右斥候將

★ 〔記−8〕 敬−下に手が付く−捧げるの意 読み方はケイ


◆◆◆北関大捷碑(14)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)05時57分52秒
>北関大捷碑文(3)<◆◆◆

裏 面

分屯臨溟、方峙、賊狃勝不甚備、〔諸軍−注18〕並(并−注19)起覆〔記−9〕撃、
乘鋭蹙之士、〔無−注20〕不疾呼先登者、賊敗走、縦兵追之、殺其將五人、斬獲無數、
蓋集其馬畜兵機□(於−注21)□(是−注22)、□(無し−注23)遠近響震、將吏亡
伏者、爭起應之、衆至七千餘人、賊収入吉州城、窘不敢動、列伏于旁、陜〔記−10〕
激其□(出−注24)、輯剿之、已而城津賊大掠于臨溟率輕騎龍會〔無し−注25〕□
(之−注26)、草山設伏、伺其還夾撃、大破之、又斬數百人、遂剖其腹膓、暴之大路、
於是兵聲大振、賊益畏之、十二月又戰雙捕、戰方合、偏將引鐡騎横衝□(之−注27)、
迅如風雨、兩〔無し−注28〕賊失勢不及交鋒、皆散走、乗勝又破之、明年正月、又戰于
端川、三戰三勝、還屯吉州休士、既而知清正軍不利、遣大兵、迎還吉州賊、我軍尾撃
至白塔、大戰又敗之、是役也、李鵬壽、許大成、李希唐戰死、然遂退、敢北當此時、
皇明將李如雲亦破行長於平壌、鄭公及使崔配天間行奏捷 行在、 上引見流悌 贈鵬壽
司憲府監察、贈配天秩朝散、時觀察使、怒文孚不稟節度而疾、義兵功聲、出已聞奏、
卒(率−注29)以誣覆〔記−9〕、以故賞不行久之 顯宗時觀察使閔鼎重、北評事
李端夏、聴於父老以實聞、於是加 贈文孚賛成、鵬壽持平、餘人贈官 差、又祠鏡城
之)郎里、祀同事諸人 贈額日彰烈、今 上庚辰昌大爲北評事、既與(興−注30
義旅之子孫訪問前故、得事蹟爲詳、慨然想諸公之風、又甞(嘗−注31)路、所謂臨時溟
雙浦者、觀其營壁、戰陣之所、徘徊指領(顧−注32)爲之咨嗟、而不能去、

★ 〔記−9〕 覆−土偏〔土〕の右に上に合、下に廾が付く−覆うの意読み方はエン
※ 最初の〔記−9〕は、後の撃と合わせて隠れて襲撃する意)
次の〔記−9〕は、前の誣と合わせて虚偽の報告をする意
〔記−10〕 陜−左の夾に箱構〔匚〕が付く−挟むの意 読み方はキョウ


◆◆◆北関大捷碑(15)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)05時53分52秒
>北関大捷碑文(4)<◆◆◆

聞(問−注33)語其長老曰、鳥(島−注34)夷之禍烈矣、三京覆面八路壤(壊−注35)
諸公出萬死一生、提孤軍推(摧−注36)□(勁−注37)冠、使我国家興、王舊地、卒免
於左壬〔記−11〕、面邊塞之人、興於聴聞、勸於忠義者、又 誰之力也、 幸州、
延安倶有碑碣、載事垂烈、東西者瞻式、以關北之功之盛、而獨闕焉、庸非諸君之恥歟、
咸應曰、然惟鄙人志、矧公命之、遂代石鳩村(材−注38)以人來請文、辭非其人、
又來曰、斯役也公實首議、不得命將輟、余乃叙其事、系之銘曰、 有盗自南讐我、
大邦、我王子(于−注39)藩以國受鋒吃(乢〔記−12〕−注40)〔々−注41〕、北原
狼蝮〔記−13〕穴庸〔記−14〕、有蠢者、民(民〔記−15〕−注42)不抗而從、血口
胥呑、濟毒以兇、士也曷〔記−16〕〔々−注43〕、 俊羣修〔記−17〕同、兵義莫利
不屑才弓、既殲叛徒、寇莫我衝、武夫皷(鼓−注44)呼、山摧海悩(淘−注45)師征
孔赫、厥醜崩悩(恟−注46)協底 帝罰、匪私我忠、北上既平、爾蠢我農、 大君曰
咨、孰尚女功、贈官命祠、光惠始終、士風其烈、民可即戎、臨溟之崖(崖〔記−18〕−
注47)有名石従〔記−19〕従〔記−19〕、刻之誦祠眠(視〔記−20〕−注48)無窮
崇禎〔記−21〕甲申後六十五年十月 日立

★ 〔記−11〕 任−左に示が付く−前の左と合わせて野蛮な国の意 読み方はジン
〔記−12〕 乢−山偏〔山〕の右に乙が付く−山の窪みの意 読み方はアツ
〔記−13〕 陜−左に人にょう〔兀〕、右に虫が付く−、蝮〔まむし〕の意 読み方はキ
〔記−14〕 庸−左に土が付く−城壁の意 読み方はヨウ
〔記−15〕 民−左に亡が付く−愚かな民衆の意 読み方はミン
〔記−16〕 曷−左の去が付く−次の々と合わせて意気軒昂の意 読み方はカツ
〔記−17〕 修−右の彡がない−修めるの意 読み方はシュウ
〔記−18〕 崖−山がない−崖の意 読み方はガイ
〔記−19〕 従−山がない−次の従と合わせてそそり立つの意 読み方はジュウ
   〔記−20〕 視−左に目、右に氏−見る〔顕彰〕の意 読み方はシ
   〔記−21〕 禎−旧漢字


◆◆◆北関大捷碑(16)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)13時54分59秒
>北関大捷碑文(5)<◆◆◆

 ※ 碑文は、「北關大捷碑」(古谷 清 『學鐙』第12年2号 29頁
   丸善 1908年〔明治41年〕2月18日発行)によった。
  ただし、注とあるは、「壬辰倭乱の義兵顕彰碑と日本帝国主義」(北島万次『歴史学研究』639号62頁 青木書店 1992年〔昭和59年〕11月30日発行)による。古谷清のものと北島万次のもの(「安福 庸」(福岡市在住)が所持拓本) とでは、後述のようにかなり異なる(ただし、北島万次のものは新漢字で旧漢字を使用している「北關大捷碑文」とは異なる)。どちらが正しいは、碑文にあたっていないのでわからないが、文意から検証してみた。
   なお、碑文には句読点がないが、読みやすくするために、句読点を入れた。

注1 古谷清−徴  北島万次−微 となっているが、「徴」では意味が通じない
  (後記の訳文を参照)ので、「微」の方が正しいと考えられる。
注2 古谷清−最  北島万次−〔記−6〕となっているが、「〔記−6〕」は「最」
   の異体語である。おそらく版元が「〔記−6〕」を印字できなかったので、「最」
   を使用したと思われ、したがって、「〔記−6〕」の方が正しいと考えられる。
注3 古谷清−志  北島万次−悪 となっているが、「志」では意味が通じない
  (後記の訳文を参照)ので、「悪」の方が正しいと考えられる。

★ 〔記−6〕 最−上に宀冠〔宀〕が付く−驕る〔おごる〕の意


◆◆◆北関大捷碑(17)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)13時52分13秒
>北関大捷碑文(6)<◆◆◆

注4 古谷清−卒  北島万次−率 となっているが、意味は全く同じである。
どちらが正しいは、碑文にあたっていないのでわからない。
注5 古谷清−不明  北島万次−奔 としているが、どちらが正しいは、碑文に
あたっていないのでわからない。
注6 古谷清−並  北島万次−并 としているが、意味は全く同じである。
おそらく版元が「并」を見いだせなかったので、「並」を使用したと思われ、
したがって、「并」の方が正しいと考えられる。
注7 古谷清−傳  北島万次−縛 となっているが、「傳」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「縛」の方が正しいと考えられる。
注8 古谷清−叛  北島万次−及 となっているが、「鞠世必」、「民末守・木男」
とも逆賊なので、「及」の方が正しいと考えられる。
なお、「民末守」は、「民木男」とも呼ばれていた。
注9 古谷清−並  北島万次−并 としているが、意味は全く同じである。
おそらく古谷清は「并」を印字できなかったので、「並」を使用したと思われ、
したがって、「并」の方が正しいと考えられる。
注10 古谷清−骰  北島万次−數 となっているが、「骰」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「數」の方が正しいと考えられる。
注11 古谷清−諸相の後に夷と続くが、北島万次−その間に「人地」という文字がある
ことを指摘している。どちらが正しいかは、碑文にあたっていないのでわからない。
注12 古谷清−鍾  北島万次−鏡 となっているが、この場所は「鏡城」である
から、「鏡」の方が正しいと考えられる。なお、当時も「鏡城」であり、「鐘城」
ではなかったことは、『北關誌』の「鏡城府雑記の条」にもあるとおり、「鏡城」
と表記されていることから明白である。


◆◆◆北関大捷碑(18)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)13時48分10秒
>北関大捷碑文(7)<◆◆◆

注13 古谷清−軟  北島万次−歃 となっているが、「歃」は「軟」の異体語と
思われ、したがって、「歃」の方が正しいと考えられる。
注14 古谷清−並  北島万次−并 としているが、意味は全く同じである。
おそらく版元が「并」を見いだせなかったので、「並」を使用したと思われ、
したがって、「并」の方が正しいと考えられる。注6参照
注15 古谷清−卒  北島万次−率 としているが、意味は全く同じである。
どちらが正しいかは、碑文にあたっていないのでわからない。
注16 古谷清−不明  北島万次−毛 としているが、どちらが正しいかは、
  碑文にあたっていないのでわからない。
 注17 古谷清−齊  北島万次−濟 としているが、どちらが正しいかは、碑文に
   あたっていないのでわからない。
 注18 古谷清−「備」の後に「起」と続くが、北島万次−その間に「諸軍」という
   文字があることを指摘している。どちらが正しいは、碑文にあたっていないので
   わからない。
 注19 注14と同じ。
 注20 古谷清−「士」の後に「不」に起と続くが、北島万次−その間に 「無」と
   いう文字があることを指摘している。どちらが正しいは、碑文にあたっていない
   のでわからない。
 注21 古谷清−不明  北島万次−於 としているが、どちらが正しいは、碑文に
   あたっていないのでわからない。
 注22 古谷清−不明  北島万次−是 としているが、どちらが正しいは、碑文に
   あたっていないのでわからない。
 注23 古谷清−不明としているが、 北島万次は、そこには文字がなく、すぐ後
   の「遠」に続くとしている。どちらが正しいは、碑文にあたっていないので
   わからない。


◆◆◆北関大捷碑(19)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)13時44分36秒
>北関大捷碑文(8)<◆◆◆

注24 古谷清−不明  北島万次−出 としているが、どちらが正しいは、碑文に
あたっていないのでわからない。
注25 古谷清−會としているが、 北島万次は、そこには文字がなく、すぐ後の
「之」(古谷清は不明とする)に続くとしている。どちらが正しいは、碑文に
あたっていないのでわからない。
注26 古谷清−不明  北島万次−之 としているが、どちらが正しいは、碑文に
あたっていないのでわからない。
注27 古谷清−不明  北島万次−之 としているが、どちらが正しいは、碑文に
あたっていないのでわからない。
注28 古谷清−兩としているが、 北島万次は、そこには文字がなく、すぐ後の
「賊」に続くとしている。どちらが正しいは、碑文にあたっていないのでわから
ない。
注29 古谷清−卒  北島万次−率 となっているが、意味は全く同じである。
  どちらが正しいは、碑文にあたっていないのでわからない。
 注30 古谷清−與  北島万次−興 となっているが、「興」では意味が通じない
  (後記の訳文を参照)ので、「與」の方が正しいと考えられる。
 注31 古谷清−甞  北島万次−嘗 となっているが、「甞」は「嘗」の異体語で
   ある。おそらく北島万次は「甞」を現在使用されている「嘗」を使用したと
   思われ、したがって、「甞」の方が正しいと考えられる。
 注32 古谷清−領  北島万次−顧 となっているが、「領」では意味が通じない
   (後記の訳文を参照)ので、「顧」の方が正しいと考えられる。
 注33 古谷清−聞  北島万次−問 となっているが、「問」では意味が通じない
   (後記の訳文を参照)ので、「聞」の方が正しいと考えられる。


◆◆◆北関大捷碑(20)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)13時40分10秒
>北関大捷碑文(9)<◆◆◆

注34 古谷清−鳥  北島万次−島 となっているが、「鳥」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「島」の方が正しいと考えられる。
注35 古谷清−壤  北島万次−壊 となっているが、「壤」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「壊」の方が正しいと考えられる。
注36 古谷清−推  北島万次−摧 となっているが、「推」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「摧」の方が正しいと考えられる。
注37 古谷清−不明  北島万次−勁 としているが、どちらが正しいは、碑文に
あたっていないのでわからない。
注38 古谷清−村  北島万次−材 となっているが、「村」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「材」の方が正しいと考えられる。
注39  古谷清−子  北島万次−于 となっているが、「子」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「于」の方が正しいと考えれる。
注40 古谷清−吃  北島万次−〔記−12〕となっているが、「吃」では意味が通じ
ない(後記の訳文を参照)ので、「〔記−12〕」の方が正しいと考えられる。
注41 古谷清は「子」の後に「北」と続くとしているが、北島万次は、その間には
「々」の文字があるとしている。どちらが正しいは、碑文にあたっていないので
わからない。
注42 古谷清−民  北島万次−〔記−15〕となっているが、版元が「〔記−15〕」の
文字を見いだせなかったので、「民」で代用したものと考えられる。
「〔記−15〕」が正しいと考えられる。

 ★ 〔記−12〕 乢−山偏〔山〕の右に乙が付く−山の窪みの意 読み方はアツ
〔記−15〕 民−左に亡が付く−愚かな民衆の意 読み方はミン


◆◆◆北関大捷碑(21)  投稿者: 解法者  投稿日: 1月 8日(日)13時35分49秒
>北関大捷碑文(10)<◆◆◆

注43 古谷清は「〔記−16〕」の後に「俊」と続くとしているが、北島万次は、
その間には「々」の文字があるとしている。どちらが正しいは、碑文に
あたっていないのでわからない。
注44 古谷清−皷  北島万次−鼓 としているが、意味は全く同じである。どちらが
正しいは、碑文にあたっていないのでわからない。
注45 古谷清−悩  北島万次−淘 となっているが、「悩」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「淘」の方が正しいと考えられる。
注46 古谷清−悩  北島万次−淘 となっているが、「悩」では意味が通じない
(後記の訳文を参照)ので、「淘」の方が正しいと考えられる。しいと考えられる。
注47 古谷清−〔記−18〕 北島万次−崖 としているが、意味は全く同じである。
どちらが正しいは、碑文にあたっていないのでわからないが、おそらく版元
が「〔記−18〕」の文字を見いだせなかったので、「崖」を当てたものと思わ
れる。
注48 古谷清−眠  北島万次−〔記−20〕 となっているが、「眠」では意味が
通じない(後記の訳文を参照)ので、「〔記−20〕」の方が正しいと考えられる。
  ★ 〔記−17〕  曷−左の去が付く−次の々と合わせて意気軒昂の意
読み方はカツ
〔記−18〕 崖−山がない−崖の意
読み方はガイ
〔記−20〕 視−左に目、右に氏−見る〔顕彰〕の意
読み方はシ

 ※ なお碑文は、「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」
(崔 書勉  『韓』74号〔7巻3号〕68頁(東京 韓国研究院1978年
〔昭和53 年〕3月25日発行)にもあり、また、『農圃集(のうほしゅう)』
鄭文孚 1672年発行、にもある。しかし、古谷清および北島万次の前掲書でも
碑文の内容が異なるように、ここでも異なる。



◆◆◆北関大捷碑(22) 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)23時09分1秒
>北関大捷碑文の訳文(1)<◆◆◆

表 面

 昔、壬辰の災いがあった。力を尽くして戦い、賊(日本軍)を破り、一世を風靡した
者として、海戦においては「李忠武(李 舜臣〔イ スンシン〕)」の閉山
(慶尚南道閉山島)、陸戦では「權元帥(權 慄〔コン リョル〕」の幸州(
京畿道高陽市−ソウルの郊外)、「李月川〔リ ウォルチョン〕」の延安
(黄海北道延白郡)の勝利の碑があり、歴史がこれを記録し、人々〔游談者〕も
これを讃えて止まない。
 しかし、これはその者たちに地位〔位地〕があり、軍馬と賦役と軍勢〔資於乗、賦什〕
を集めることができたからである。一人でいて力がなく弱きところ〔單微−たんび〕
より立ち上がり、逃げ隠れ〔逃竄−とうざん〕していた者たちを奮い起こし、忠義を
以て励まし合い、ついに烏合の衆を使って勝利に導き、国土の一部を取り戻した者
としては、関北(咸鏡北道の摩天嶺以北〔咸鏡南道の境より北部〕)の兵士が
その最たる者である。
 万歴(中国の年号−当時の朝鮮は中国に支配されていたので、中国の年号を使用
していた)のころ、倭〔日本〕の酋長、豊臣秀吉が強大〔強〔記−7〕−きょうげき−
強くて驕る〕の軍勢を背景に中国に侵攻しようと考え、わが国がその侵攻のための道
〔假道〕を貸さないと怒り、遂にはわが国に侵攻し、都〔漢城−ソウル〕にまで
攻め上ったため、宣祖は西〔平壌〕に逃れ、わが国は蹂躪された。賊〔日本軍〕は
京畿道〔ソウル北部−北朝鮮の開城付近〕を陥れ、猛将〔驍將〕二人〔小西行長・
加藤清正〕は軍隊を二つに分け、行長は王の後〔行朝−王の仮の御所〕を追って
西〔平壌〕に、清正は主に北方を攻めることになった。

★ 〔記−7〕 傲−人偏〔人〕を取って下に馬−驕る〔おごる〕の意 読み方はゴウ


◆◆◆北関大捷碑(23) 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)23時06分48秒
>北関大捷碑文の訳文(2)<◆◆◆

その秋(1592年)、清正は北道(咸鏡南道・咸鏡北道)を攻め入ったが、軍勢の力
が強く鉄嶺〔摩天嶺〕以北〕の城はその攻略に屈した。「鞠 景仁〔グッ キョンイン〕」(碑文には敬仁とあるが、景仁が正しい−朝鮮語の発音は同じ)は謀叛を起こし賊
〔日本軍〕に内応してしまった。景仁は会寧府(咸鏡北道の中国との国境に位置)の
官吏だったが、素より〔元来〕性格が悪く国に従〔率〕わず、賊〔日本軍〕が富寧
(咸鏡北道会寧に隣接する南側)に達すると、危機に乗じ反乱を起こし、ここに
逃げて来た王子〔臨海君・順和君〕および大臣を賊〔日本軍〕に代わって捕らえ
〔執−とらえ〕、その他の随行員〔軍人・官吏〕を縛り上げて、賊〔日本軍〕に
渡して恭順の意を示した〔效欸−こうかん−誼「よしみ]を通じる〕。鏡城
〔清津の南20`〕の官吏であった「鞠 世弼〔グッ セピル〕」は、彼〔鞠 景仁〕
の伯父であったが、明川(咸鏡北道)の人である「鄭 末守〔「末守 木男」または
「末水 木男」ともいう−碑文では「末秀」および「木男」と読めるが同一人物〕」
と共に徒党を組み、賊〔日本軍〕の出した官職を受け、各地方に拠って勢力を保ち、
殺戮・威嚇を行ったので、ここの〔惟所指−ただ指すところ〕多くの地方が王の支配
から脱して崩壊し、国は民衆を保護することができなかった〔人莫自保−人自ら保つ
こと莫し〕。


◆◆◆北関大捷碑(24) 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)23時04分49秒
>北関大捷碑文の訳文(3)<◆◆◆

 鏡城の「李 鵬壽〔リ ブンス〕」勇気〔氣士〕があって憤慨し、国家が傷つき乱れて
いる〔創攘−そうじょう〕といえども、凶徒〔日本軍〕があのように振る舞えるものかと
慨嘆し、「崔 配天」、「池 達源」、「姜 文佑」らと共に義兵を起こすことを企てたが、その地位〔諸位人地〕が等しい〔夷−たいら−同じ〕ので指導者と仰ぐ適当な者が
いなかった。評事〔兵馬評事−軍事管理官−正六品〔下級官吏)〕の「鄭 文孚〔チョン ムンブ〕」は文武の才能はあったが、軍兵がなく戦うことができずに山間に身を隠して
いたが、義兵が起ったという報を聞きこれに馳せ参じたところ、推されて主将の座に就いた。そして、鏡城府使の「鄭 見龍」、慶源(咸鏡北道)府使の「呉應臺」を次將にして、血を歃って〔すすって〕義兵を募り百余名を得た。
 このとき、北方の女眞族〔北虜−オランケ−満州地域〕がまたわが国の北方に侵攻して
きたので、人を使いに出して「世必〔世弼の誤りと考える−朝鮮語の発音は同じ〕」を
誘い、共に女眞族に当たろうと説得したところ「世弼」がこれに同調し、義兵を城
(鏡城城と思われる)に入れた。翌朝、「鄭 文孚」は旗を上げ、太鼓を打ち、
「世弼」に南門に上げるように誘い、彼が遙拝するときにこれを捕らえ、首を斬って
広く民衆に見せた。また、彼の脅かしに従ったものはこれを赦免した(1592年9月と
されている)。


◆◆◆北関大捷碑(25) 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)23時02分58秒
>北関大捷碑文の訳文(4)<◆◆◆

 その後、直ちに兵を南に向け、明川〔鏡城の南80`〕に攻め入り、「鄭 末守」等
を斬り捨てた。会寧の人も「鞠 景仁」を殺して義兵に呼応してきたので、軍勢が
ますます盛んとなり、吉州〔明川の南10`〕の「許 珍」、「金 國信」、
「許 大成」らも義兵を募り応援した。このとき、清正は副將に精兵数千名を与え
吉州に駐留させ、自らは「南関〔咸鏡南道以南〕」を守っていた(清正は安邊
〔咸鏡南道の一番南部−元山から南20`−鏡城から1280`、吉州から1190`南西〕に駐留していた)。
 「鄭 文孚」は、11月、加坡〔海汀加坡里−吉州南部の海岸線−現在の北朝鮮
咸鏡北道花台郡泗浦里−吉州の南30`〕で清正軍の分隊と遭遇し、これを討つべく、
多くの将兵を配置した。「鄭 見龍」は中衛將とし「白塔〔吉州の付近と思われるが、
場所不明〕」に、「呉 應台」、「元 忠恕」は、伏兵將として「石城〔吉州の
南10`〕」、「毛会〔吉州の付近と思われるが、場所不明〕」に、「韓 仁齊」
左衛將とし「木棚〔吉州の付近と思われるが、場所不明〕」に、「柳 〔記−8〕天」
は右衛將として「涅河〔吉州の付近と思われるが、場所不明〕」、「金國信」、
「許 珍」は左右斥候將として

 ★ 〔記−8〕 敬−下に手が付く−捧げるの意 読み方はケイ


◆◆◆>北関大捷碑文の訳文(5)< 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)22時59分44秒
>北関大捷碑文の訳文(5)<◆◆◆

裏 面

 「臨溟〔咸鏡北道鶴城郡鶴中面臨溟里[現在の北朝鮮金策市臨溟里]−吉州の
南35`〕」に、それぞれ配置して敵を待っていたが、賊〔日本軍〕は戦勝に慣れ
〔狃−じゅう〕備えをおろそかにしていた。わが軍は一斉にこれに襲いかかり
〔〔記−9〕撃−えんげき〕、鋭い斧〔鋭蹙−えいしゅく〕を執って怒濤のごとく
攻め立てたので、賊〔日本軍〕は敗走した。敵の將軍を五人殺し多くの兵の首を斬り、
馬と武器を捕獲した。このことが遠近に激震のように伝わり、これまで逃げ隠れして
いた将兵が争って加わり、七千人にも達した。賊〔日本軍〕は吉州城に立て籠もった
まま出てこなかった。道に伏兵を置き、敵が出てくるやこれを打ち破った。
 「城津〔咸鏡北道城津郡城津面−現在の金策市−臨溟の北5`〕」の賊〔日本軍〕が
「臨溟」に攻めてきたので、軽装備の騎兵でこれを襲い草むら山間に隠れ、帰るのを
待って双方から挟撃し数百人を斬った。彼らの腸をえぐりだし道端に巻散らかしたので、
わが軍の士気は上がり、賊〔日本軍〕はますます恐れおののいた。
 十二月、また「雙浦〔臨溟の南7`の海岸−「捕」とあるが「浦」の誤り〕」で
戦った(日本軍の主将は「加藤右馬允」)。戦い半ばに副將が鉄甲冑で覆った騎馬兵を
率い、風雨のごとくすばやく欲しいまま〔横−ほしいまま〕に攻めかかったので、
賊〔日本軍〕は逃げまどい散り散りになって敗走した。わが軍はこれに乗じて追撃し
さらに破った。

★ 〔記−9〕 覆−土偏〔土〕の右に上に合、下に廾が付く−覆うの意読み方はエン  後の撃と合わせて隠れて襲撃する意


◆◆◆北関大捷碑(27) 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)22時57分12秒
>北関大捷碑文の訳文(6)<◆◆◆

明年〔1593年〕正月、「端川〔咸鏡南道端川郡端川面−北朝鮮の咸鏡南道端川市−
咸鏡北道との境−城津より南西45`−鏡城より南西170`〕」で戦い(日本軍の
主将は「九鬼広隆」)、三戦三勝して、吉州〔端川より北へ80`〕に還って、兵を
休ませた。
 清正は戦況が不利なことを悟り、大部隊を送り吉州を攻めようとしたので、わが軍は
その後を追い白塔で大合戦(1593年1月末)を繰り広げこれを破った。この戦いで
「李 鵬壽」、「許 大成」、「李希唐」が戦死したが、賊〔日本軍〕は退き、二度と
北方に来ることがなかった。
 このとき、明の將軍「李 如松(雲とあるが松の誤り)」も小西行長を平壌で破って
おり(1593年1月)、「鄭 文孚」は、「崔 配天」を間道を通じて王の行在地
〔仮の御所〕に勝利を報告したところ、王は彼を呼び寄せ涙を流し〔流悌〕ながら、
「李 鵬壽」には、司監討観察〔官吏監督官−正六品−下級文官〕の職を贈り、
「崔 配天」には朝散太夫〔従六品−下級文官〕の階級を授けた。
 このとき観察使〔地方行政長官(咸鏡道)従二品−上級文官〕「尹 卓然」は、
「鄭 文孚」が命令(勝利をまず自分に報告すること)を上申〔稟−う〕しなかった
ことを妬み、王には軽率にも〔率−軽々しく〕功績を欺き隠し〔誣〔記−9〕−
ふえん〕たため、「鄭 文孚」には長い間、褒賞が行われなかった。

★ 〔記−9〕 覆−土偏〔土〕の右に上に合、下に廾が付く−覆うの意
         読み方はエン 前の誣と合わせて虚偽の報告をする意


◆◆◆北関大捷碑(28) 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)22時53分25秒
>北関大捷碑文の訳文(7)<◆◆◆

 顯宗(在位−1660年〜1675年)のときになって、咸鏡道觀察使「閔 鼎重」
と咸鏡北道評事「李 端夏」が長老たちより聞き、史実を調べて、「鄭文孚」には
「賛成〔議政府の左右議政の補佐官−従一品−高級文官〕」、「李鵬壽」には「持平
〔〔議政府の一職−正五品−下級文官〕」を贈った。残りの義兵にも差をつけて官職
を贈った。また、鏡城の漁郎里〔鏡城の南10`−日本海に面している〕に祠堂を築り
同志たちを祀り彰烈と名付けた額を贈った。
 今上庚辰〔顯宗26年庚辰−1700年〕に「崔 昌大(北関大捷碑の撰文者)」が
咸鏡北道評事なり、義兵の子孫と共に〔與〕古の戦場を訪ね、史実を詳しく調べ、彼ら
の功績を思い浮かべ、また「臨溟」、「雙浦」を訪ねて〔甞〕、砦〔營壁〕・戦陣を
訪ね歩き、ため息をついて嘆き〔咨嗟−しさ〕去りがたい気持ちを表した。


◆◆◆北関大捷碑(29) 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)22時51分45秒
>北関大捷碑文の訳文(8)<◆◆◆

 地域の長老たちに対して「日本軍〔鳥夷〕」の戦禍が激しく、三京〔漢城−ソウル、
開城、平壌〕が侵略され、八道〔京畿、忠清、慶尚、全羅、黄海、江原、平安、咸鏡の
八道〕が破壊されたが、義兵たちが命を堵して難敵を倒し、王の旧地を回復し、野蛮な
国〔左〔記−11〕[さじん]−日本〕の支配下になることを防ぎ、辺境の人〔咸鏡人〕
もこの知らせを聞き、忠義に励んだのは誰の力であったのか、幸州、延安には顕彰碑が
あり、史蹟を書いて功績を表しているので、行き来する人がこれを崇め頭を下げている
〔瞻式−せんしき−見上げ敬う〕のに、関北〔咸鏡道〕の尊い功績があるにもかかわらず
顕彰碑がないのは全く諸君の恥ではないか」と言ったところ、皆〔咸〕が口を揃えて
「そのとおりです。それは我々の願いででもあり、まして〔矧−いわんや〕「崔 昌大〔公〕」の命令があるのに」と言い、遂に石を用意し、財を集め〔鳩−あつ〕、人を
遣わして私〔「崔 昌大」〕に文を頼んできたが、私はその任にあらずと辞退した。
しかし、再び訪ねて来て、民衆で公明正大に〔公実〕に議論したところ、「崔昌大」
が文を書かなければ、碑を建てるということは止めたい〔輟−やめる〕」と言うので、
意を決してその功績を叙述し、また祠を加えた。

 ★ 〔記−11〕 任−左に示が付く−前の左と合わせて野蛮な国の意 読み方はジン


◆◆◆北関大捷碑(30) 投稿者:解法者 投稿日: 1月14日(土)22時49分33秒
>北関大捷碑文の訳文(9)<◆◆◆

 南方より盗〔日本軍〕がわが国にやって来て、わが王藩〔明〕を撃とうとし、わが国は
災い〔鋒−ほう〕を受けた。
 山間〔記−12〕−あつ〕の北原〔咸鏡道〕に狼と蝮(〔記−13〕−き−合わせて日本軍
のこと〕)が城壁〔記−14〕−よう〕に穴を開け、攻略した。愚かな民〔記−15〕−みん〕は抵抗することなく従った。
 我々は血に染まった口より毒を吐き、意気軒昂〔記−16〕−けつけつ〕である。
 優れた兵〔俊群−しゅんぐん〕は、利益に捕らわれず義を重んじ、戈〔か−槍〕と弓を
潔く〔屑−いさぎよし〕持って、叛徒〔日本軍〕を殲すれば、わが軍に抵抗できる〔衝−
あたる〕者はない。
 義兵が鼓を打てば、山は崩れ〔摧−くだけ〕、海は沸き〔淘−とう〕、義兵〔師征−
しせい〕は、どんどんと〔孔−はなはだ〕勢いが増し〔赫−かく〕、勝利にのぼせ
上がった〔厥−けつ〕日本軍〔醜−しゅう〕は敗退し、わが軍を恐れた〔恟−おそる〕。
 わが軍と共に〔協−ともに〕明の軍隊が日本軍を破り〔帝罰〕、わが軍がその忠義を
独占するものではない〔匪−あらず〕。
 北国〔咸鏡道〕は既に平定され、蚕は育ち、我々は農地を耕している。
 国王は「あなた方〔女−なんじ〕の功績より優れた〔尚−しょう〕ものはない
〔孰−じゅく〕」と言い、官職を賜り、祠〔し−うた〕を作ることを命じ、功績を讃えた。
 義兵は意気高く、民衆もまた強い〔戎−じゅう〕。
 臨溟の崖〔記−18〕に石がそそり立って〔記−19〕−じゅうじゅう〕いるが、これに
功績を刻み、永遠〔無窮−むきゅう〕に顕彰する〔記−20〕。

 崇〔記−21〕甲申後六十五年〔1709年〕十月 日に建建てる。
 ★ 〔記−11〕 任−左に示が付く−前の左と合わせて野蛮な国の意
         読み方はジン
   〔記−12〕 乢−山偏〔山〕の右に乙が付く−山の窪みの意
         読み方はアツ
   〔記−13〕 陜−左に人にょう〔兀〕、右に虫が付く−、蝮〔まむし〕の意
         読み方はキ
   〔記−14〕 庸−左に土が付く−城壁の意
         読み方はヨウ
   〔記−15〕 民−左に亡が付く−愚かな民衆の意
         読み方はミン
   〔記−16〕 曷−左の去が付く−次の々と合わせて意気軒昂の意
         読み方はカツ
   〔記−18〕 崖−山がない−崖の意
         読み方はガイ
   〔記−19〕 従−山がない−次の従と合わせてそそり立つの意
         読み方はジュウ
   〔記−20〕 視−左に目、右に氏−見る〔顕彰〕の意
         読み方はシ
   〔記−21〕 禎−旧漢字


◆◆◆北関大捷碑(31) 投稿者:解法者 投稿日: 1月22日(日)16時37分34秒
>北関大捷碑の日本での存在の来歴(1)<◆◆◆

1.碑の所在地
@ 北関大捷碑では、所在地は明確ではない。ただ、「臨溟」の崖の石に刻んだとあるだけである。
A 「文禄・慶長の役 別冊第一」(池内 宏 東洋文庫 昭和11年12月25日発行)の第5章 加藤清正等の咸鏡道經路、第7節 咸鏡道に於ける鮮人の蜂起、二.北道の騒亂〔325頁〕では、吉州の臨溟の「臨溟書院」の南1鮮里〔400m−朝鮮は1里が400m〕にあるとしている。

 朝鮮側の資料でも「全鮮名勝故蹟 咸鏡北道吉州明月駅」でも同様なことが記述されている(「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」(崔書勉『韓』74号〔7巻3号〕82頁 東京 韓国研究院 1978年〔昭和53年〕3月25日発行)から、ここであろうことは間違いないと考えてよい。


◆◆◆北関大捷碑(32) 投稿者:解法者 投稿日: 1月22日(日)16時34分0秒
>北関大捷碑の日本での存在の来歴(2)<◆◆◆

2.日本への来歴
 この碑は、「加藤清正撃退の碑」(中村久四郎 『歴史地理』第8巻1号 95頁 明治39年1月1日発行)によると、「三好成行」中将〔第2師団長〕麾下の第17旅団長「池田正介」少将が、日露戦争〔明治38年〜39年〕の折、この碑を訪れ、ここの住民の主だったもの数十名を招き、「我日本帝国は朝鮮國保護の為めに二十七八年の戰役〔日清戰争〕と云ひ今回の日露戰争と云ひ前後二回までも一國を堵して振古未曾有の大戰争を為せしが日本帝国大元帥のご威稜に依り今や幸いに交戰の目的を達し芽出度日露の平和も克復して今後益々韓國帝室の萬々歳を期待し得るに至りしは一に是れ皆日本帝国皇帝陛下が東洋永遠の平和を望ませ給ふの結果に外ならざれば今後は日韓の間柄益々親密和塾を期待せざるべからず、然るに彼の加藤清正撃退の紀念碑を永在するが如きは兩國間の感情を害すべき因たるに過ぎざるに付出来得べくんば該石碑を撤去せられん事を切望す云々」との趣旨を諄々説いたところ、彼等も大に少将の至誠に感じ、遂に之れを撤去して少将に譲与した。同将軍は彼らに深く感謝して、三好師団長の凱旋の折に同師団長に託して東京まで持ちかえったものであるとしている。
 これについて、「崔 書勉」は前掲書で、日露戦争のときには戦利品らしきものがなかったので、北関大捷碑は恰好の戦利だったのではなかったかと思われるとしている。そして、当時の意気高い戦勝国の軍人として、日本軍がここにおいて負けたという記録が、いかに彼らをして不愉快にし、また信じたくなかったことであることは想像にかたくないとしている。つまり、これがこの碑を日本に持ちかえった原因であると考えているようである。
 「北島万次」は、前掲書で、加藤清正が鄭文孚に敗北した(日本が朝鮮に負けた)という史実を朝鮮民族から隔離することを意図したものといえよう。としている。さらに、帝国主義は、史実の確定を基礎とする歴史学の方法に関係なく、幼稚な「歴史学」を動員してまで、自己に都合の悪い史実を抹殺・隠蔽し、歴史の歪曲にかったものである、と考えている。


◆◆◆北関大捷碑(33) 投稿者:解法者 投稿日: 1月22日(日)16時29分58秒
>北関大捷碑の日本での存在の来歴(3)<◆◆◆

 これらの見解には賛同できない。
 北関大捷碑は、確かに加藤清正が鄭文孚に敗北した(日本が朝鮮に負けた)という史実を表したものである。そして、日露戦争に従軍した池田正介少将が、これを見て不愉快になったことは想像にかたくない。しかし、これと日本への運搬を結び付けることは早急である。自己に都合の悪い史実を抹殺・隠蔽し、歴史の歪曲にかったものである、とするならば、そこで破壊してもよく、住民の前で破壊することが憚れるならば、運送の途中で破壊してもよかったはずである。しかも、この類の戦勝碑は朝鮮各地に多く存在する。これを日本人が破壊したという記録はない。
 中村久四郎の前掲書には「この碑は、征韓の歴史上にも参考に供すべき好紀念物なればとて同将軍(三好師団長)より帝室に献上したるやにて畏き邊りの思召を以て遠からず振天府に御陳列相成べしと・・・」と記されているように、征韓(文禄の役)の歴史上の参考になる記念物として日本に持ちかえったものと考えるのが正しい。
 「崔 書勉」および「北島万次」の見解は、何ら資料に基づかない想像に過ぎない。
 なお、この碑の譲与・運搬について、池田正介少将が当地の住民の主だったもの数十名と話し合った上での合意があったとの中村久四郎の前掲書に記載があるが、当時の住民は200年も前の戦闘などには興味がなく、この碑は打ち捨てられていたのではなかろうか。したがって、池田正介少将の申出に簡単に応じたことは想像にかたくない。


◆◆◆北関大捷碑(34) 投稿者:解法者 投稿日: 1月22日(日)21時33分35秒
>北関大捷碑の戦闘の検証(1)<◆◆◆

1.戦闘の概要
 ? 日本側の資料  「清正記」
   加藤清正は、吉州城に「加藤清兵衛」、「片岡右馬允」、「加藤傳藏」など
  7将に兵1500を与えて守らせ、端川には「加藤重次」、「九鬼廣隆」など
  を将として守らせた。
  このとき、「鄭 文孚」、「李 鵬壽」などが兵を募って女眞族と合せて
  2、3万人の軍勢を以て吉州城を襲った。
  清正は、安邊にいたが、この報を聞いて、永興へ着陣し、さらに捕らえていた
  王子を「鍋島直茂」に預け、吉州城に入った。そして、「大将の備えを見定め、
  鉄砲を打ち、槍で突撃せよ」と命令した。
   吉州城の戦いにおいては、攻めかかってくる敵に鉄砲を打ち、敵が退くや
  城門を開けて一気に突いて出て、城内外で首3200人討ち取った。
  「山口與三右衛門」が敗軍の敵を深追いして、彼ともども37人討死にした。
  この戦いで、侍75人、雑兵211人討死にした。
   清正の鎧に矢が3本当たったが、傷は軽微であった。清正自身は兵を吉州城
  に残し、途中「鍋島直茂」のもとに寄って、王子を受取り、都〔漢城−ソウル〕
  に上った。

   ★ この吉州城の戦いがいつのものかは記述がないが、清正が一度、
    吉州城方面より、安邊に引き上げた後のことであったので、文禄元年
    (1592年)9月7日以降、都に上った翌年2月29日までの間と
    思われる。
     ただ、北関大捷碑にある戦闘であるは定かでない。しかも、負け戦
    ではない。
   ※ この資料は、「中村久四郎」の「加藤清正撃退の碑」(『歴史地理』
    第8巻1号 95頁 明治39年1月1日発行)より引用

   ★ 「文禄・慶長の役 別編第一」(池内 宏 東洋文庫 昭和11年
    12月25日発行)の第5章 加藤清正等の咸鏡道經路、第7節
    咸鏡道に於ける鮮人の蜂起、二.北道の騒亂〔317頁以下〕)にも、
    『北道の動亂に關する文獻は甚だ乏しく、之れに反して朝鮮側には頗る
    多し』(329頁)とある。
     そして、北関大捷碑の戦闘についての日本側の資料は提示されてない。
    つまり、「清正記」での戦闘記録にもないと考えていると思われる。


◆◆◆北関大捷碑(35) 投稿者:解法者 投稿日: 1月22日(日)21時28分36秒
>北関大捷碑の戦闘の検証(2)<◆◆◆

? 朝鮮側の資料  「農圃集」(鄭 文孚)、「吉州長坪破倭状啓(鄭 文孚)−
 『農圃集』に書収」、「壬辰挙義事(李 植)−『農圃集』に書収入」、「義旅録」
 (朴 興宗)−『農圃集』に書収」、「鄭文孚神道碑」(黄 景源 撰)、
 「北關誌−鏡城府雑記・明川雑記」(李 瑞夏)、「元白山黒水文庫本野史初本
 巻15」(李 植)、「壬辰録」(文 徳教)、「姜文佑墓碑銘−『龜嚴集』
 (李 元培)に書収」、「李 麒寿墓碑銘−『龜嚴集』(李 元培)に書収」など
 文禄元年(1592年)10月30日早朝、日本軍約千名が吉州城門を出て
 海汀加坡里方面に進軍した。特派隊長「元 忠恕」は日本軍の帰路を遮断しよう
 とし、これを急襲し追撃したところ、「長坪石嶺」で吉州城に帰る日本軍の大軍
 と遭遇した。一方、「古驂〔明川郡阿間面古站洞−伝令・飛脚の 中継地〕」
 に潜伏していた「元 忠恕」が「長坪石嶺」で日本軍の大軍と遭遇したという
 報を聞き、「韓 仁濟」は将兵300余人を引き連れて救援に駆けつけ、これに
 合流した。そして、午後4時ころ、左右から挟撃した。日本軍は急襲に驚いたが、
 酒に酔い、持っていた兵器も使えずに次々に討たれ、800人が斬殺され、
 次の戦利品を得た。軍旗 20旒、鎧 26着、太刀 数百振 兜 8個、槍
 16柄、銃筒 26挺、銃弾 646包、薬筒
 15個、軍馬 118頭。斬殺した兵から左耳825個を切り取って王の行在地
 〔仮の御所〕に送った。 戦勝の報を聞いた鏡城府使「鄭 見龍」は、「韓 仁濟」
 の軍勢を明川から 古驂まで出迎えて、共に勝利の喜びを分かち合った。

  ★ 戦闘の様子は、「壬辰戦亂史 中巻」(李 炯錫 東洋出版社 昭和52年
   (1977年)5月10日発行)の83頁に詳しいが、原典は前記の朝鮮側の
   資料に依っている。
    ただ、北関大捷碑にある戦闘は11月となっており、合致しない。戦闘の
   場所も異なる(次項を参照)。


◆◆◆北関大捷碑(36) 投稿者:解法者 投稿日: 1月22日(日)21時24分57秒
>北関大捷碑の戦闘の検証(3)<◆◆◆

2.戦闘の場所・日時
? 戦闘の場所についてであるが、北関大捷碑文では「加坡」となっているが、
  碑文では「遇賊于加坡將戰」とあり「ここ〔于−う〕加坡で賊〔日本軍〕と
  遭遇し、まさに〔將〕戰かわんとす」とあって、「加坡」で戦闘したとは
  記されてない。「北關誌−吉州の章 雑記」には「加富」、「壬辰録」には
 「明川海邊即加坡地」とあり、「加富」と「加坡地」とは同じであるが、
  ここでは戦闘が行われたと記載がなく、両方とも戦闘は「石嶺」で行われたと
 ある。
  また、「義旅録」では交戦地が、「吉州長坪石乙古介」となっており、
 「北路紀略 巻3 壬辰倭寇の條」には「吉州長坪石〓」、「鄭文孚神道碑」
 でも「石硯」となっている。
  「石乙古介」と「石嶺」および「石〔記−4〕」は同じ意味であり(古介は
 〔記−4〕、嶺の意味)、「石〔記−4〕」は吉州から東南10`の吉州郡と
  明川郡の境の峠であり、ここで戦闘が行われたとするのが、正しいのでは
  なかろうか。
   なお、「加坡」はそこからさらに東南10`の明川郡〔現在の北朝鮮の花臺郡〕
  の日本海に面した「泗浦里」である。
? 戦闘の日については、「義旅録」(朴 興宗)では、11月15日となって
  おり、「吉州長坪破倭状啓(鄭 文孚)」では、10月30日となっている。
   しかし、日本側の将軍「九鬼廣隆」の『九鬼文書』によれば、長坪の戦いに
  報に接した清正が戦闘に関する方針を示している(書状−11月21日付)
  ことから、11月15日が正しいと思われる。

★ 〔記−4〕 見−左に山偏〔山〕が付く−山が小さく険しいの意
読み方はケン


◆◆◆北関大捷碑(37) 投稿者:解法者 投稿日: 1月22日(日)21時19分18秒
>北関大捷碑の戦闘の検証(4)<◆◆◆

3.戦闘の存否
 北関大捷碑文に記載されている戦闘が存在したかどうかはなお定かではないが、加藤清正麾下の軍勢が、朝鮮の義兵に苦戦を強いられていたことは間違いない。
 加藤清正と第2軍を構成していた「鍋島直茂」の『鍋島直茂譜考補』にも、「清正の領内の吉州城を守っていた「加藤清兵衛」、「片岡右馬尤」、「加藤傳蔵」「原田五郎右衛門」、「長野三郎左衛門」、「山口与右衛門」、「天野与左衛門」の7人、金山〔端川〕の城を守っていた「加藤与左衛門」らは朝鮮の数万騎に囲まれ、数十日間防戦するも衆かなわず勝利を得ない。遂に力尽きて清正に加勢を頼み、清正も直接赴いて加勢しようとしたが、諸城に兵を割いていたので、兵が足りず断念した」とある。
 清正の金山〔端川〕の城の主将「九鬼広隆」らに宛てた書状〔11月21日〕(『九鬼文書』書収)にも、吉州城を守っていた者たち(前記の7人)が敗北したことを厳しく咎めている(どこの戦闘かは明らかではない)。


◆◆◆北関大捷碑(38) 投稿者:解法者 投稿日: 1月23日(月)01時01分13秒
>北関大捷碑の価値(1)<◆◆◆

1.文禄の役〔朝鮮では、壬辰倭亂〕(1592年〜1595年)・慶長の役
 〔朝鮮では、丁酉再乱〕(1597年〜1598年)[合わせて、文禄の役
 〔壬辰倭亂〕とも呼ばれる]の碑は下記のとおり多くある。しかし、朝鮮に
 おいて研究書でこれに言及したものは少ない。もちろん、日本でも少ないが、
 何よりも朝鮮において文禄の役(壬辰倭亂)の研究が少ないということである。
 つまり、関心がないということである。韓国では10年ほど前からこの碑の
 返還を求めていたが、その間にも一向に文禄の役(壬辰倭亂)の研究が
 広がらなかった。したがって、韓国・北朝鮮がこの度、この碑の返還を求めた
 のも愛国・反日運動の一貫であると考えられよう。
@ 望日思恩碑(韓国 忠清南道公州郡州外面錦城里に存在)
 朝鮮 宣祖32年(1599年)己亥 建立
A 幸州戦勝碑(韓国 京畿道高陽郡知道面幸州外里に存在)
 朝鮮 宣祖35年(1602年)壬寅 建立
B 延城大捷碑(北朝鮮 黄海南道延白郡延安面模井里に存在)
 朝鮮 宣祖41年(1608年)戊申 建立
C 金時敏全城郤敵碑(韓国 慶尚南道晋州市に存在)
 朝鮮 光海君11年(1619年)己末 建立
D 李舜臣左水營大捷碑(韓国 全羅南道麗水郡麗水面西町に存在)
 朝鮮 光海君12年(1620年)庚申 建立
E 孟孝男紀功碑(北朝鮮 咸鏡北道鏡城邑に存在)
 朝鮮 光海君14年(1622年)壬戌 建立


◆◆◆北関大捷碑(39) 投稿者:解法者 投稿日: 1月23日(月)00時58分31秒
>北関大捷碑の価値(2)<◆◆◆

F 李元翼神道碑(韓国 京畿道始興郡西面所下里に存在)
 朝鮮 仁祖12年(1634年)甲戌 建立
G 金悌甲忠烈碑(韓国 江原道原州郡原州面下洞里に存在)
 朝鮮 顕宗11年(1670年)庚戌 建立
H 李舜臣忠烈廟碑(韓国 全羅南道統營郡閉山面頭億里に存在)
  同      (韓国 全羅南道海南郡古県面車面里に存在)
 朝鮮 粛宗7年(1682年)辛酉 建立
I 李舜臣鳴梁大捷碑(韓国 全羅南道海南郡門内面車外里に存在)
 朝鮮 粛宗14年(1689年)戊辰 建立
J 滄州書院碑(韓国 忠清北道沃川郡伊内面伊院里に存在)
 朝鮮 粛宗23年(1697年)丁丑 建立
K 趙憲戦場紀蹟碑(韓国 忠清北道清州郡清州面相生町に存在)
 朝鮮 粛宗36年(1701年)庚寅 建立
L 金礦機戦勝碑(北朝鮮 平安北道鐡山郡鐡山面東川洞に存在)
 朝鮮 粛宗39年(1704年)癸巳 建立
M 蚊龍山城重修碑(韓国 全羅北道南原郡王峙面谷里に存在)
 朝鮮 粛宗39年(1704年)癸巳 建立
N 義烈祠碑(韓国 忠清南道扶餘郡扶餘面龍井里に存在)
 朝鮮 景宗3年(1723年)癸卯 建立
O 壬辰戦亡遺骸塚碑(韓国 慶尚南道東莱郡一面余古里に存在)
 朝鮮 英宗7年(1731年)辛亥 建立


◆◆◆北関大捷碑(40) 投稿者:解法者 投稿日: 1月23日(月)00時54分47秒
>北関大捷碑の価値(3)<◆◆◆

P 來州築城碑(韓国 慶尚南道東莱郡校洞に存在)
 朝鮮 英宗11年(1735年)乙卯 建立
Q 鄭撥戦亡址碑(韓国 慶尚南道釜山府佐川洞に存在)
 朝鮮 英宗37年(1761年)辛巳 建立
R 李之蘭神道碑(北朝鮮 咸鏡南道北青群良家面上里に存在)
 朝鮮 英宗50年(1774年)甲午 建立
S 貞忠祠碑(韓国 全羅北道南原郡南原面東忠里に存在)
 朝鮮 正祖5年(1781年)辛丑 建立
21 忠臣義士壇碑(韓国 慶尚北道尚州郡尚州面武陽里に存在)
 朝鮮 正祖17年(1793年)癸丑 建立
22 李舜臣神道碑(韓国 慶尚北道尚州郡尚州面武陽里に存在)
 朝鮮 正祖17年(1793年)癸丑 建立
23 兩聖紀蹟碑(北朝鮮 平安北道定州郡一面城内里に存在)
 朝鮮 正祖19年(1795年)乙卯 建立
24 酬忠祠碑(北朝鮮 平安北道寧邊郡北薪〓面下杏洞 普賢寺に存在)
 朝鮮 正祖20年(1796年)丙辰 建立
25 乾鳳寺泗溟大師紀蹟碑(北朝鮮 江原郡杆城郡梧垈面冷泉里 乾鳳寺に存在)
 朝鮮 正祖24年(1800年)庚申 建立
26 戦勝紀蹟碑(韓国 平安南道安州郡安州面龍〓里に存在)
 朝鮮 純祖22年(1822年)壬午 建立
27 顕忠祠碑(北朝鮮 咸鏡北道會寧郡會寧面一洞に存在)
 朝鮮 純祖33年(1833年)癸己 建立
28 武烈重修碑(北朝鮮 平壌府下水口里に存在)
 朝鮮 哲宗14年(1871年)癸亥 建立
29 両王子紀功蹟碑(北朝鮮 咸鏡北道鏡城郡龍城面龍郷洞に存在)
 朝鮮 李太王2年(−−−−年)乙丑 建立

 ※ この資料は、「朝鮮金石総覧 下」(朝鮮総督府 大正8年3月20日発行)
より引用


◆◆◆北関大捷碑(41) 投稿者:解法者 投稿日: 1月23日(月)00時52分0秒
>北関大捷碑の価値(4)<◆◆◆

2.北関大捷碑の価値は、人によって異なりこれを一概に言うのは、難しい。
 しかし、これが咸鏡道という辺境の地にあることはそれなりの価値はあると考えられよう。
 日本人の立場からすれば、この地まで日本軍が侵攻したということ。また、朝鮮人の立場からすると、日本軍相手によく戦ったということであろう。
 この碑文にある戦いは、なお定かではないが、ここに記されていると同じような戦いがあったことは、日本側の資料からも裏付けられる。日本軍は寒冷と義兵の蜂起に悩まされたことがよくわかる。
 ただ、朝鮮人は義兵は朝鮮人のみによって構成されてかのように言うが、朝鮮人ばかりではなく女眞族も含まれていたことは、日本側の資料(『普聞集』、 『清正高麗陣覺書』)にも明らかである。『清正高麗陣覺書』の「吉州より到來有之ニ付て、あんへん〔安邊〕より北青と申所迄七日路、清正被戻侯事」と題する章に「地下人〔義兵〕起り・・・きっちゅう〔吉州〕の城を取まき、・・・おらんかい人〔兀良哈−女眞族〕猛勢ニて取巻、城を責め申侯より注進申ニ付 ・・・」、『普聞集』にも「加藤清正カ家士橘州〔吉州〕在城ノ輩、朝鮮兀良哈ノ賊數万の為ニ圍マレ、數十月(日?)ノ防戦ニ屈メ、スクヒヲ清正に乞」と あり、女眞族が義兵と一緒になって吉州城を攻略したことが記されている。
 清正は朝鮮人と女眞族とを明確に認識していた(「加藤清正の木下半介吉隆宛の書状〔9月20日付〕」(古蹟文徴に書収)」。
 このことは朝鮮人にとってはなはだ面白くないことと思われ、北関大捷碑にも朝鮮人の研究書にも言及がない。日本侵略を強調する「北島万次」の書籍も同じである。故意に隠蔽したものと考えらる。


◆◆◆北関大捷碑(42) 投稿者:解法者 投稿日: 1月23日(月)00時46分28秒
>北関大捷碑の価値(5)<◆◆◆

 また、日本軍が苦戦したのは、義兵によるものではなく、明国の参戦である。
 北関大捷碑文にもそのことが、記述されている。
 ● 『皇明將李如雲亦破行長於平壌』
「皇軍の明の將軍「李 如松(雲とあるは松の誤り)」は、平壌において小西行長を破り」
 『協底 帝罰、匪私我忠』
「わが軍と共に〔協−ともに〕明の軍隊が日本軍を破り〔帝罰〕、わが軍がその忠義を独占するものではない〔匪−あらず〕」
  当時、朝鮮は明国の属国であり、皇帝という言葉は明国の王にのみ許され、
 朝鮮の王には許されなかった。したがって、皇軍とは明国の軍隊をいうものと
 されていた。
  朝鮮戦争も北朝鮮人のみで戦ったのではなく、中国共産党の義勇軍と称する
 中国軍そのもの(現に毛沢東の長男も戦死している)が、参戦したことが勝利
 (38度線まで国連軍を押し戻した)を決定づけたのである。白村江の戦いでも、
 新羅軍ではなく唐軍が日本軍〔倭軍〕を壊滅したのである。朝鮮という小国のみが
 独り日本に対抗できるものでないことは歴史が証明している。
  北関大捷碑にもあるとおり義兵は7千人余りだったのだから、朝鮮女眞族
 (合わせての意味と考える)が数万だったことから考えると、主力は女眞族だった
 ことがわかる。


◆◆◆北関大捷碑(43) 投稿者:解法者 投稿日: 1月23日(月)00時42分42秒
>北関大捷碑の価値(6)<◆◆◆

  朝鮮の民衆を苦しめたのは「日本軍」だけではなかった。救援に朝鮮に入国した
 明軍は食糧調達、軍馬の飼料を朝鮮に迫り、ただでさえ「日本軍」の侵攻によって
 食糧が枯渇していた朝鮮をさらに追い詰めることとなった(「懲〔記−3〕録巻二」)。
  なお、残虐であったのは、日本軍だけではない。北関大捷碑にも『「城津
 〔咸鏡北道城津郡城津面−現在の金策市−臨溟の北5`〕」の賊〔日本軍〕が
 「臨溟」に攻めてきたので、軽装備の騎兵でこれを襲い草むら山間に隠れ、
 帰るのを待って双方から挟撃し数百人を斬った。彼らの腸をえぐりだし道端に
 巻散らかしたので、わが軍の士気は上がり、賊〔日本軍〕はますます恐れ
 おののいた』という記述があり、「耳塚」にしても北関大捷碑で「加坡」と
 される戦闘においても『斬殺した兵から左耳825個を切り取って王の行在地
 〔仮の御所〕に送った』という記述がある(「壬辰戦亂史 中巻」(李 炯錫
 東洋出版社昭和52年(1977年)5月10日発行)の87頁)。
  戦闘には残虐がつきものである。ことさら日本軍の残虐さを強調する朝鮮人
 研究家のみならず、日本人研究家(北島万次、上垣内憲一)には違和感を覚える
 (著作については次項を参照)。特に日本に現存する「耳塚」については、
 そのことを強調しておきたい。

★ 〔記−3〕 必−上に草冠〔艸〕が付く 読み方はビ


◆◆◆北関大捷碑(44) 投稿者:解法者 投稿日: 1月25日(水)17時29分17秒
>壬辰倭亂の研究書の評価(1)<◆◆◆

 壬辰倭亂の研究書は、主なものとしては次のものがあるが、それについて内容を検討してみたい。

1.「加藤清正撃退の碑」(中村久四郎 『歴史地理』第8巻1号 95頁明治39年1月1日発行)
 北関大捷碑の来歴を明らかにしている点で評価される。ただ、内容はそれに止まっている。

2.「北關大捷碑に就いて」(古谷 清 『學鐙』第12年2号 29頁 丸善1908年
  〔明治41年〕2月18日発行)
   北關大捷碑の全文を初めて明らかにした点で価値がある。ただ、当時は止むを
  得ないことであったと思うが、日本側の資料を基に碑文の内容を検討し、朝鮮側
  の資料に当たっていない点から、北關大捷碑文の検討が十分ではないことが
  惜しまれる。しかし、日本側の資料はよく検討しており、その点は評価できる。
   後記の北島万次は後掲書で古谷清を非難しているが、当時の研究環境を考えて
  ないことから、謂われなき非難であろう。

3.(1) 「文禄・慶長の役 本編第一」(池内 宏 南満州鉄道 大正3年8月10日
    発行)
  (2) 「文禄・慶長の役 別編第一」(池内 宏 東洋文庫 昭和11年12月25日
    発行)
  (3) 「文禄・慶長の役 付録・解説」(池内 宏 吉川弘文館 昭和62年1月
    20日発行)
    北關大捷碑の全文は掲載されてないが、壬辰倭亂について、日本側・朝鮮側
   の資料を詳細に挙げ、検討を加えている本格的な研究書である。
    資料的価値は極めて高く、今度これ以上の研究書は出版されないと考えられる。
   壬辰倭亂を研究する者としては欠かせない書籍である。


◆◆◆北関大捷碑(45) 投稿者:解法者 投稿日: 1月25日(水)17時26分17秒
>壬辰倭亂の研究書の評価(2)<◆◆◆

4.「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」(崔書勉 『韓』74号
 〔7巻3号〕68頁 東京 韓国研究院 1978年〔昭和53年〕3月25日発行
 在日朝鮮人のようであるが、朝鮮人としては初めて北關大捷碑の全文を初めて
 明らかにしたもののようである。北關大捷碑文に当たっては朝鮮側の資料にも一部
 ではあるが触れれてており、その点で参考になる。靖国神社における北關大捷碑の
 存在をあきらかしている点で参考になる。ただ、朝鮮人特有の民族主義史観が強く、
 来歴の理由にもそれが見られる。

5.(1) 「壬辰戦亂史 中巻」(李 炯錫 東洋出版社 昭和52年〔1977年〕
    3月15日発行)
  (2) 「壬辰戦亂史 中巻」(李 炯錫 東洋出版社 昭和52年〔1977年〕
    5月10日発行)
  (3) 「壬辰戦亂史 中巻」(李 炯錫 東洋出版社 昭和52年〔1977年〕
    5月10日発行)
    北關大捷碑の全文は掲載されてないが、壬辰倭亂について、日本側・朝鮮側
   の資料を詳細に挙げ、検討を加えている本格的な研究書である。
    ただ、朝鮮人特有の民族主義史観が強く、朝鮮人が奮闘した戦闘は詳しいが
  (北關大捷碑に関連する戦闘は詳しく記述されている)、いわゆる負け戦は省略
   してあり、壬辰倭亂の全貌はつかめない。


◆◆◆北関大捷碑(46) 投稿者:解法者 投稿日: 1月25日(水)17時23分33秒
>壬辰倭亂の研究書の評価(3)<◆◆◆

6.「壬辰倭乱の義兵顕彰碑と日本帝国主義」(北島万次 『歴史学研究』639号
  62頁 青木書店 1992年〔昭和59年〕11月30日発行)
  北關大捷碑の全文を明らかにした点で価値がある。ただ、あまりにもこの題にも
  あるように日本帝国主義批判色が強く、歴史を公平・冷静に見てない点で問題が
  ある。
  彼は壬辰倭亂の数少ない研究者であるが、書籍は全てこういう史観に立って記述
  されている。

7.「豊臣秀吉の朝鮮侵略」(北島万次 吉川弘文館 平成8年4月10日発行)
  壬辰倭亂の通史である。北關大捷碑の全文は掲載されてない。
  内容は、題名から理解できると考える。

8.「朝鮮日々記・高麗日記−秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発」(北島万次
  そしえて 1982年〔昭和57年〕年4月25日発行)
  壬辰倭亂の通史である。北關大捷碑の全文は掲載されてない。
  内容は、題名から理解できると考える。

9.「豊臣秀吉の対外認識と朝鮮侵略」(北島万次 校倉書房 歴史科学叢書
  1990年〔平成2年〕年9月15日発行)
  壬辰倭亂の豊臣秀吉の朝鮮出兵の意図、朝鮮での軍政が記載されている。
  特徴的なのは、壬辰倭亂の批判も試みでいることにある。家永三郎の教科書裁判
  にも及んでいるが、日本帝国主義批判色が基調となっている。
  北關大捷碑の全文は掲載されてない。

10.「文禄・慶長の役−空虚なる御陣」(上垣内 憲一 講談社 講談学術文庫
  2002年〔平成14年〕年4月10日発行)
  壬辰倭亂の通史である。北關大捷碑の全文は掲載されてない。
  内容は簡略すぎて、勧められない。
  内容は、題名から理解できると考える。


◆◆◆北関大捷碑(47) 投稿者:解法者 投稿日: 1月25日(水)17時20分29秒
>壬辰倭亂の研究書の評価(4)<◆◆◆

11.「日本の戦史 朝鮮の役」(旧参謀本部 徳間書店 徳間文庫 1995年
 〔平成7年〕年2月15日発行)
  壬辰倭亂の通史である。北關大捷碑の全文は掲載されてない。
  内容は充実している。ただ、資料との関連が記述されてないのが惜しまれる。

12.「文禄・慶長の役」(崔 官 講談社 講談社メチェ 徳間文庫 1994年
 〔平成6年〕年7月10日発行)
  壬辰倭亂の通史である。北關大捷碑の全文は掲載されてない。
  朝鮮人特有の民族主義史観が強く、朝鮮民族の英雄の記述が中心となっている。

13.(1) 「倭乱 上」(辛 奉承 講談社 昭和62年〔1987年〕年10月12日
  発行)
   (2) 「倭乱 上」(辛 奉承 講談社 昭和62年〔1987年〕年10月12日
  発行)
  壬辰倭亂の通史(物語)である。北關大捷碑の全文は掲載されてない。
  朝鮮人特有の民族主義史観が強く、朝鮮民族の英雄の記述が中心となっている。

14.(1) 「秀吉 朝鮮の乱 上」(金 聲翰 光文社 1994年〔平成6年〕年5月
   31日発行)
   (2) 「秀吉 朝鮮の乱 下」(金 聲翰 光文社 1994年〔平成6年〕年5月
   31日発行)
    壬辰倭亂の通史(物語)である。北關大捷碑の全文は掲載されてない。
    朝鮮人特有の民族主義史観が強く、朝鮮民族の英雄の記述が中心となっている。


◆◆◆北関大捷碑(48) 投稿者:解法者 投稿日: 1月25日(水)17時16分26秒
>壬辰倭亂の研究書の評価(5)<◆◆◆

15.「壬辰倭乱(文禄・慶長) 三国志」(洪 相圭 新東洋出版社 1992年
 〔平成4年〕9月30日発行)
  壬辰倭亂の通史(物語)である。北關大捷碑の全文は掲載されてない。
  朝鮮人特有の民族主義史観が強く、朝鮮民族の英雄の記述が中心となっている。

16.「秀吉と文禄の役−フロイスの「日本史」より」(松田毅一・川崎桃太
 中央公論社 中公新書 昭和49年〔1974年〕年1月25日発行)
  フロイスの「日本史」より壬辰倭亂を見たもので、壬辰倭亂の断片史である。
 北關大捷碑の全文は掲載されてない。

★ 壬辰倭亂を理解するなら、「日本の戦史 朝鮮の役」(旧参謀本部
 徳間書店徳間文庫)を勧める。
  詳しく勉強されたいのであれば、次の書籍である。
 (1) 「文禄・慶長の役 本編第一」(池内 宏 南満州鉄道 大正3年8月10日
  発行)
 (2) 「文禄・慶長の役 別編第一」(池内 宏 東洋文庫 昭和11年12月25日
  発行)
 (3) 「文禄・慶長の役 付録・解説」(池内 宏 吉川弘文館 昭和62年
  1月20日発行)
   朝鮮人の書籍は勧められない。
  北島万次の書籍も同じである。
                        (完了)


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