■□■□■『卑弥呼と日本書紀』第四版 第九章(オロモルフ)■□■□■


『卑弥呼と日本書紀404』

 このあと、〈倭迹迹日百襲姫命〉と〈卑彌呼〉の関係について、また《大和》と《邪馬台国》の関係について、文献と考古学の両面から検討する。
 この第九章では、文献について論ずる。
 またその次ぎの第十章では地理や考古学的観点で論ずる。


■□■□■ 第九章 〈倭迹迹日百襲姫命〉と《籠神社》の秘密――文献史料でみる《邪馬台国》大和説――■□■□■


朝日さす みもすそ川の 春の空 のどかなるべき 世のけしきかな
〔後鳥羽天皇御製〕
「(みもすそ川/御裳濯川とは、五十鈴川の上流で《伊勢神宮》内宮境内を流れる部分をいう。初代斎王〈倭姫命〉が裳を清めた伝承から名づけられた)」

巻向(纏向)の 檜原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ来めやも
〔柿本人麻呂歌集(万葉集1813)〕
「纏向の檜原にたちこめる春霞のようにぼんやりとあなたを思うだけなのなら、どうしてこんなに苦しみながら来ることだろうか」

味酒 三輪の社の 山照らす 秋の黄葉の 散らまく惜しも
〔長屋王(万葉集1517)〕
「三輪山の大神神社の山を照らしている秋の紅葉の散ってしまうのは惜しいことだ。(味酒は三輪の枕詞)」


『卑弥呼と日本書紀405』

■■■■■ 九・一 絢爛たる〈倭迹迹日百襲姫命〉の親族 ■■■■■


◆◆◆ 古代天皇紀の三つの高峰 ◆◆◆

 この節では、問題の神子〈倭迹迹日百襲姫命〉の親戚関係についてざっと調べることにするが、その前に図9・1をごらんいただきたい。

図9・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H91-94.htm

 この図は、『日本書紀』における初代神武天皇から第十八代反正天皇(五世紀前半の天皇)までの記述の長さがどのように変化しているかを、岩波版の行数によって表示したグラフである。
 ただちにわかるのは、三つのきわだった山が存在することである。

 第一の山は神武天皇で、これは初代の天皇の神秘的な事績をのべているので、当然の山である。
 うしろにある第三の山は、〈神功皇后〉〜應神天皇〜仁徳天皇という三韓征伐や世界一の巨大古墳で有名な天皇の事績なので、これもまた当然といえるであろう。
 しかしその間にある第二の山――崇神・垂仁・景行という三天皇の山――は、神話と史話が混在している時代の記述なので、とくべつな吟味が必要である。
 しかも、それまでの八代の天皇紀がごくわずかしか記されていないのに、崇神天皇からとつぜん詳細な記述になっている。
 さらに同じ神話的な部分であっても、神代紀とはちがってとても具体的なのだ。

 したがって、この第二の山――とくに第九代開化天皇にくらべていきなり増大する第十代崇神天皇紀の記述――は、たとえ神話的な部分であっても、なにか強烈な史実を反映しているように感じられる。
 もしそうでなく後世の想像だったのだとすれば、それまでの八代の天皇紀から漸増させればよいであろう。時代が下がるとともに記述量がすこしずつ増えるのが自然だからだ。
 しかし、『記紀』はそうなっていない。
 いや『記紀』だけではなく、古い神社にも、崇神天皇の時代に祀られた――という伝承がとても多いのだ。


『卑弥呼と日本書紀406』

 もうひとつ注目されるのは、この三つの山の天皇の御追号(謚号)に、いずれも「神」という文字が使用されていることである。

第一の山・・・神武天皇
第二の山・・・崇神天皇
第三の山・・・應神天皇(および神功皇后)

 図9・1にある漢風謚号は、いずれも奈良時代に淡海三船らによって考案されたものであるが、そこに「神」の文字を用いたのは、その御追号を定めた人たちが、この三天皇を「とくべつな天皇」として記憶していたことのなによりの証拠である。
 そして、この三天皇と〈神功皇后〉以外に、「神」のつく天皇や皇后は、存在しないのだ。

 というわけで、前章で述べた、神話的な時代と歴史記述の時代とのはざまにある崇神天皇こそ、大和朝廷成立の鍵をにぎっていると考えられる。
 したがって、その崇神天皇の時代に活躍して、天皇に数々の助言をなしたと伝えられ、現実的な記述と神話的な記述との双方に彩られている〈倭迹迹日百襲姫命〉もまた、大和朝廷成立の秘密にふかくかかわっていると考えられるのである。


『卑弥呼と日本書紀407』

◆◆◆ 頭に「倭」という文字のつく女性 ◆◆◆

 くりかえすことになるが、大きな秘密をもっているらしい〈倭迹迹日百襲姫命〉が、崇神天皇の時代にいかに重要な地位にいたかについて、記しておこう。
 はじめは、頭に「倭」という文字のつく女性の一覧を、第二章から再掲する。

(1)〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉・・・・本人。
   (『古事記』では〈夜麻登々母々曽毘賣命〉)
(2)〈倭迹速神淺茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらめまぐわしひめ)〉・・本人の別名。
(3)〈倭迹迹姫(やまとととひめ)命〉・・・・崇神天皇紀七年にある本人の略名。
(4)〈倭國香媛(やまとくにかひめ)〉・・・・・本人の母で第七代孝靈天皇の妃で安寧天皇の曾孫。
   (『古事記』では〈意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おほやまとくにあれひめ)命〉)
   (『日本書紀』風に書けば〈大倭國在(生)姫〉)
(5)〈倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)命〉・・本人の妹。
(6)〈倭迹迹姫(やまとととひめ)命〉・・・・第八代孝元天皇の娘で本人の姪または本人の略名。
(7)〈倭國豐秋狹太媛(やまとくにとよあきさだひめ)〉・・本人の曾祖父にあたる第五代孝昭天皇の皇后の母、
    つまり曾祖母の母。
(8)〈倭姫(やまとひめ)命〉・・・・・・第十一代垂仁天皇の娘で《伊勢神宮》の初代斎王(御杖代)。
    本人の甥の曾孫にあたる。
**********
(9)〈倭媛(やまとひめ)〉・・・・・・第二十六代繼體天皇の妃。(六世紀)
(10)〈倭姫王(やまとひめのおおきみ)〉・・・・第三十八代天智天皇(中大兄皇子)の皇后。(七世紀)

『日本書紀』において頭に「倭」という「日本」または「大和」を意味する重要な文字のつく女性は、ぜんぶで十名しかいないのだが、そのうちのずっとのちの時代――崇神天皇時代より何百年ものち――の二人を除けば、すべてが本人または本人の血縁であり、さらになかの三人はとくに近い親族なのである。
 また後の時代の二名にしても、時代の変革期における著名な天皇のお妃や皇后である。
 さいごの倭姫王は、天智天皇崩御後に実質上天皇の位についたとの説もあるほどの重要な女性である。

 もうお一人、国風謚号の頭ではない場所に「倭」のつく特筆すべき女帝がおられる。
 それは七世紀末の第四十一代持統天皇である。
 持統天皇の御名は〈大倭根子天之廣野日女(おおやまとねこあめのひろのひめ)尊〉で、ここでは「倭」の上にさらに「大」がつき、その次の「根子(ねこ)」も基礎をつくったという尊称であり、それ以下も別格の尊称である。
『魏志倭人伝』にある「爾支(にき?)」はこの「根子」だろうとされている。
 持統天皇は天智天皇の皇女で天武天皇の皇后でかつ夫をついで次代の天皇になり、さらに次の文武天皇を補佐する太上天皇ともなり、そしてわが国初の本格都市《藤原京》の造営に力を尽くし、律令国家の建設に功績をあげた女傑中の女傑として知られる。

 こういう後の世の超別格の女性天皇につけられた国風謚号に準ずる尊称が、古代においては、〈倭迹迹日百襲姫命〉とその係累だけにずらりとつけられているのだ。
 これだけでも古代史における〈百襲姫命〉の地位の特異性がわかるが、それは特異なだけではなく、おどろくほど高い地位でもあるのだ。


『卑弥呼と日本書紀408』

◆◆◆〈倭迹迹日百襲姫命〉の絢爛たる血族 ◆◆◆

 つぎに、何代か前から後にかけての著名な親族を並べてみよう。

〈1〉初代神武天皇
    本人の直系の曾祖父の曾祖父の父(七代前)
〈2〉第二代綏靖天皇(神武天皇の皇子)
    本人の直系の曾祖父の曾祖父(六代前)
〈3〉第三代安寧天皇(綏靖天皇の皇子)
    本人の直系の曾祖父の祖父(五代前)
〈4〉第四代懿徳天皇(安寧天皇の皇子)
    本人の直系の曾祖父の父(四代前)
〈5〉第五代孝昭天皇(懿徳天皇の皇子)
    本人の直系の曾祖父
〈6〉第六代孝安天皇(孝昭天皇の皇子)
    本人の直系の祖父
〈7〉第七代孝靈天皇(孝安天皇の皇子)
    本人の実父
〈8〉倭國香媛または意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(安寧天皇の曾孫)
    本人の実母
〈9〉第八代孝元天皇(孝靈天皇の皇子)
    本人の母違いの兄
〈10〉吉備津彦命(西道に派遣された四道将軍の一人)
    本人と父母が同じ実弟/別名彦五十狭芹彦命
〈11〉倭迹迹稚屋姫命
    本人と父母が同じ実妹
〈12〉稚武彦命(吉備津彦の協力者)
    本人の従兄弟
〈13〉第九代開化天皇(孝元天皇の皇子)
    本人の甥
〈14〉大彦命(北陸に派遣された四道将軍の一人)
    本人の甥
〈15〉倭迹迹姫命(孝元天皇の皇女)
    本人の姪(本人そのものとの説もある)
〈16〉武埴安彦命(謀反して百襲姫命に見破られた)
    本人の甥
〈17〉第十代崇神天皇(開化天皇の皇子)
    本人の甥の実子(本人の甥との説あり)
〈18〉御間城姫(崇神天皇の皇后)
    本人の甥の大彦命の娘
〈19〉武渟川別命(東海に派遣された四道将軍の一人)
    本人の甥の大彦命の子
〈20〉武内宿禰(歴代天皇の重臣)
    本人の甥の子または孫
〈21〉第十一代垂仁天皇(崇神天皇の皇子)
    本人の甥の孫
〈22〉丹波道主命(丹波に派遣された四道将軍の一人)
    本人の甥の孫
〈23〉豐鍬入姫命(天照大神の初代祭祀責任者)
    本人の甥の孫/宗女〈臺與〉の有力候補
〈24〉渟名城入姫命(倭大國魂神の初代祭祀責任者)
    本人の甥の孫
〈25〉豐城入彦命(東国(上毛野下毛野)の経営責任者)
    本人の甥の孫
〈26〉第十二代景行天皇(垂仁天皇の皇子)
    本人の甥の曾孫
〈27〉倭姫命(伊勢神宮の初代祭祀責任者/斎王)
    本人の甥の曾孫/〈臺與〉の二番目の候補
〈28〉播磨稻日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ/景行天皇の皇后)
    本人の従兄弟の娘
〈29〉日本武尊(東西平定で有名な英雄)
    本人の甥の玄孫であり同時に従兄弟の孫


『卑弥呼と日本書紀409』

(もし樋口清之の説のように孝元天皇が非実在か、あるいは本居宣長がいうように倭迹迹姫命が本人そのものだったとすると、甥→兄弟、曾孫→孫というように一代ずつ関係が近くなり、崇神天皇との関係も大叔母ではなく叔母となる。前章に記したように『日本書紀』の本文でも〈倭迹迹日百襲姫命〉のことを崇神天皇の姑と記しており、この説を肯定する人も多い。もしこれが正しいとすると、〈倭迹迹日百襲姫命〉の朝廷での比重はさらに高まる。さらに、前に少し触れたが、義理の親戚まで考えると、もっと崇神天皇に近いかもしれないのだが、これについては後に述べる)

 以上二十九人を見返していただきたい。
 まことにもって絢爛豪華、綺羅星のごとき著名な親族群である。
 本人が天皇の実の娘なので、親族に要人がいるのはあたりまえの話ではあるが、それにしても豪華である。
「倭」の文字のつく親族群とともに、この系図は圧巻である。
 さらに、実父孝靈天皇までの歴代の天皇の皇后は、みな三輪や磯城の一族であることも、注意を要する。
 つまり〈倭迹迹日百襲姫命〉には、大和朝廷一族の血とともに、《三輪山》周辺の豪族の血が濃厚に入っているのだ。
 その豪族のなかには物部の祖とされる〈饒速日命〉の系列も含まれていたであろうし、出雲系もあったかもしれない。
 だから〈百襲姫命〉は、崇神天皇の大叔母(または叔母)という大和朝廷の有力メンバーであるとともに〈饒速日命〉の血統でもあり、かつ、《三輪山》を囲んで〈大物主神〉を祭る一族の代表でもあった可能性が高い。

 もうひとつ注目すべきは、〈天照大神〉をはじめて神社に奉斎した神子で、名の類似から『魏志倭人伝』にある〈臺與〉ではないかと言われている〈豐鍬入姫命〉が、本人の甥の孫――または兄の孫――という近い血縁にあることである。
『魏志倭人伝』では〈臺與〉は〈卑彌呼〉の宗女つまり世継とされているが、〈豐鍬入姫命〉は〈倭迹迹日百襲姫命〉の近い血縁なので、神子としてだけではなく血のつながりからみても「世継=宗女」であり、とうてい無視できない対応関係があるのだ!

 こういう濃厚な血縁関係の要人群のなかで、超常的な能力をもつ神子(巫女)として崇神天皇に重要視され、《三輪山》の神〈大物主神〉の神託を告げ、数々の予言や忠告をなし、死後は『記紀』の記述のなかで初の、そして別格の、陵墓造営譚が記された・・・それが〈倭迹迹日百襲姫命〉なのである。
 したがって、

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――が出るのはとうぜんのことである。

**********

 ではつぎに、この説を初期に本格的に唱えた学者たちの論文を解説してみよう。


『卑弥呼と日本書紀410』

■■■■■ 九・二 〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説を初めてとなえた笠井新也 ■■■■■


 本節と次節では、

「《邪馬台国》大和説」
 かつ、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――をとなえた学者の代表的存在である、笠井新也と肥後和男の論述をおさらいしてみよう。

 笠井新也は明治十七年に四国徳島で生まれた古代史家で、一般的な意味では著名な学者というわけではないが、現代の評価にも耐えうる近代的な「大和説」と「〈百襲姫命〉説」をはじめて発表した先駆者として知られている。
 専門は中学教師で出発点はアマチュアだが、おなじ徳島出身の人類学者・考古学者として有名な東京帝大教授鳥居龍藏の講義を聴講して勉強し、大正から昭和初期にわたって学術雑誌にいくつもの論文を発表した学究である。
 ここでは、考古學雑誌に掲載された二篇の論文の概要を記そう。


◆◆◆『邪馬臺國は大和である』(大正十一年)◆◆◆

〈一〉緒言

 多くの学者は「九州説」を唱えている(当時)が、内藤湖南先生と高橋健自先生が「畿内説」を唱えられたので、それに元気づけられて、かねがね考えていた「大和説」を発表したい。

〈二〉邪馬台国推定の標準

 考えるべきは、つぎの三点である。

1 地名の一致
2 遺跡の一致
3 行路・行程の一致

「大和説」は1と2は満足している。問題は3である。


『卑弥呼と日本書紀411』

〈三〉邪馬台国の比定

ア 不弥(ふみ)国の位置
 従来の諸先生の説とは異なり、「津屋崎」と推定する。その理由は方角の問題とともに、水路の出発点だからである。またすぐそばに福間(ふくま)があり、発音が不弥(ふみ)に似ている。
(津屋崎は福岡市から二十キロほど北の海岸で、図3・1の奴国を示す楕円の上部にある小円。かつて北前船の寄港で賑わった港町)

図3・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm

イ 方角が九十度ちがっている
 末廬→伊都→奴国の向きはじっさいは北東なのに、『魏志倭人伝』では南東としており、九十度ちがっている。
 朝鮮半島から末廬までは南なので、そのあとも南と思ったのだろう。そうすると奴国の東方と書かれている不弥は北方とすべきであり、津屋崎と考えられる。

ウ 投馬(ずま)について
 不弥から南へ行くと投馬があるとされるが、九十度変えれば東なので、それは中国地方にあることになる。ただし多くの意見のように瀬戸内側ではなく、山陰地方の出雲か但馬であろう。つまり津屋崎から日本海側の沿岸を航海したのであろう。

エ 邪馬台国への上陸地点
 敦賀(つるが/昔の名は角鹿つぬが)に上陸し、越前・近江・山城(および伊勢)を経て大和に入ったのであろう。

オ 山陰行路
 神功皇后、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと/任那からの帰化人)など、関門〜出雲〜敦賀〜大和という行路をたどった話は『記紀』に記されている。また朝鮮から畿内への経路は敦賀港経由が有力だった。これに対して瀬戸内は賊がたくさんいて危険だったことは、四道将軍や日本武尊の伝承で知られる。

カ 投馬は但馬か出雲か
 出雲は古くからの中心地だし、不弥から二十日、敦賀まで十日もよくあう。名前もトウマとは読まずズマと読めば、イヅモ→ヅモ→ヅマ(投馬)として一致する。
 さらに垂仁天皇紀の都怒我阿羅斯等が関門から敦賀に向かう途中で出雲に寄泊したのは明か。
(著者注――『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》の北側の二十一ヶ国は、使者は通過しなかったが一応大和朝廷に服していた《大和》周辺の主要集落だとすれば、理解できる。名前だけを日本人から聞いた可能性が高い)

キ 卑奴母離(ひなもり)と夷守(ひなもり))
 卑奴母離という役職が九州の対馬国、一支国、奴国、不弥国にいることになっているが、これは日本書紀にある夷守と一致しており、都から遠方の鄙(ひな)を監督する役人である。


『卑弥呼と日本書紀412』

◆◆◆『卑彌呼即ち倭迹迹日百襲姫命』(大正十三年)◆◆◆

(笠井新也の第二論文)

〔一〕緒言

 邪馬台国が大和だとすると、卑彌呼は大和朝廷に関係する女性でなければならない。昔からの神功皇后説は明治になって年代の研究がすすんでから否定された。
 内藤湖南は倭姫命説を唱えたが、自分は違うと思う。
 卑彌呼は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命である。

〔二〕魏志倭人伝にあらわれている卑彌呼

 日本の古代の祭政一致時代の宗教的女王であって、祭祀を事とし神意を奉じて民衆を信服させていたのであろう。

〔三〕国史における卑彌呼の年代

 魏志倭人伝にある卑彌呼の年代は、国史における崇神天皇の御代と確信する。記紀にある年代は信じられない。菅政友や那珂通世などの研究によって成務天皇以下歴代の崩御紀年があきらかになったので、それから崇神天皇の崩御年を推理できる。
 成務天皇の崩御年は乙卯の年で西暦三五五年であり、崇神天皇の崩年干支は戊寅で西暦一九八年または二五八年または三一八年である。崇神崩御から成務崩御までは垂仁・景行・成務三代の御代があるが、崇神崩御を二五八年とすれば、この三代の合計が九七年となり、妥当な長さとなる。この数字は那珂道世も白鳥庫吉も認めている。
 したがって崇神崩御は西暦二五八年と考えられ、これは倭人伝にある卑彌呼の死のほぼ十年のちである。
 したがって倭人伝の卑彌呼の時代は、国史における崇神天皇の御代である。

(著者注――『日本書紀』の崩年である西暦前三〇年を五巡――六〇×五――ずらして西暦二七一年とする説がこれとは別にある。この干支は辛卯にあたる。これは次節の肥後和男の説でもある)


『卑弥呼と日本書紀413』

〔四〕日本書紀に現れている倭迹迹日百襲姫命

ア 確信
 日本書紀を読むたびに、卑彌呼は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命であると感じる。

イ 陵墓(ミササギ)
 陵墓から見ても天皇を上回り、卑彌呼と考えられる。

ウ 孝元天皇の皇女
 記紀では孝靈天皇の皇女となっているが、ほんとうは次の孝元天皇の皇女であろう。孝元天皇の皇女の倭迹迹姫命がそれである。崇神天皇紀においても、倭迹迹日百襲姫命のことを倭迹迹姫命と記している箇所がある。またその方が年齢的にも合う。つまり開化天皇の同母妹であり崇神天皇にとっては叔母である。逆に百襲姫命にとって崇神天皇は甥である。
(著者注――最近では孝元天皇が後で挿入されたという説が有力らしい)

〔五〕人物・事績の一致
  (『魏志倭人伝』と『日本書紀』の関連)

ア 卑彌呼という名
 卑彌呼は倭迹迹日百襲姫命の末尾の「姫命(ひめみこと)」である。

イ「鬼道につかえ能く衆を惑わす」
 宗教的奇跡をおこない民衆を畏服させたことは日本書紀にも明かである。

ウ「年すでに長大なるも夫婿なく」
 百襲姫命も未婚で、結婚や子孫についての記述はない。神人婚の説話は巫女という意味である。


『卑弥呼と日本書紀414』

エ「男弟ありたすけて国を治む」
 弟とは崇神天皇のこと。甥と弟の違いのみだが、じっさいに弟だった可能性もある。なぜなら崇神天皇までの歴代天皇はシナ式の親→子継承となっているが、史実が明確になってからは兄→弟継承が一般である。兄弟継承を親子として記述してしまった可能性がある。
 祭政一致の古代にあっては、百襲姫命と崇神は一体であり、畏敬されていた百襲姫命が主として考えられていたことはとうぜんであり、墓からもわかる。

オ「王となりしより以来見る者少なく」
 日本書紀に直接の話はないが、神女として力をもっていればとうぜんのこと。

カ「婢千人を以て・・・兵を持して守衛す」
 日本書紀に直接の話はないが、墓を見ても天皇を凌ぐのだから、その宮殿もとうぜん大規模だっただろう。

**********

 このほかにも笠井新也は、
『卑彌呼の冢墓と箸墓』(昭和十七年)
 ――において、箸墓の寸法が倭人伝の冢墓の記述と一致することを述べている。
 すなわち――
 卑彌呼の墓は径百余歩とあるが、とうじの魏の定義では一歩は六尺、一尺は二四・一二センチだったので、百余歩はほぼ百五十メートルになる。
 これは箸墓の後円部の直径にほぼ一致する。
 したがって卑彌呼の墓は箸墓であり、箸墓に埋葬された倭迹迹日百襲姫命こそ卑彌呼である。

**********

 以上が笠井新也説の概要である。
 この説は、発表された当時はむしろ異端に近かったらしいが、いまになって考えてみると、とても合理的であり、別の説を唱えていた博士号をもつ碩学たちの意見よりもむしろ納得しやすいものがある。
 ただし、やはり笠井説にも限界がある。
 それは、『魏志倭人伝』の記述を、方角以外は絶対的に正しいと信じて国史や地理との対応を論じている点である。


『卑弥呼と日本書紀415』

■■■■■ 九・三 笠井新也説を学問的に深めた肥後和男 ■■■■■


 学生時代に前節の笠井新也の説を知って刺激をうけ、「大和説」を学問的に深めて展開したのが、肥後和男である。
 肥後は明治三十二年生まれの古代史家で、京都帝国大学の史学科を卒業して文学博士となり、東京教育大学教授などをつとめた碩学で、日本古代史についての多くの著述をもつ。
 戦後GHQやコミンテルンに影響された左傾史観が全盛になったときも自分の信念を貫き、時流におもねないことで知られた学者である。
 常陸宮妃殿下に四年間にわたる日本史のご進講をされたことでも知られる。
 肥後の「大和説」は、笠井説を基礎としながらも、はるかに洗練され、学問的に高度なものとなっている。
 したがってその全貌を記すのは困難だが、つぎの著作によって略記してみよう。


◆◆◆『崇神天皇と卑彌呼』弘文堂(昭和二十九年)◆◆◆

〈一〉序

 戦後になっていっさいの古伝を否定する風潮となったが、それは科学的ではない。いまは九州説が大勢だが、自分の大和説に耳を傾ける人も多少はいるだろう。地理の問題では室賀信夫氏の助言を得た。

〈二〉開かれた歴史のとびら

 卑彌呼の研究にさいして、崇神天皇を無視すべきではない。

〈三〉これまでの研究

ア 江戸時代まで
 議論されたのは神代の話のみ。

イ 明治期以後
 那珂通世や津田左右吉が神代以後について批判的研究をした。

ウ 疑古派と釋古派
 自分は釋古派である。すなわち古典の記述がそのまま史実ではないとしても、いかなる理由と事情があってそのような記述になったのかを研究すべきだと思う。


『卑弥呼と日本書紀416』

エ 魏志倭人伝について
 ながく卑彌呼=神功皇后だったのに対して本居宣長が九州の女酋としたのは画期的だった。白鳥庫吉が本居説を発展させた。橋本増吉も九州説で多くの論文を書いた。一方内藤湖南が明治四十三年に邪馬台国は大和であり卑彌呼は倭姫命であるとした。三宅米吉も大和説だった。大正になって笠井新也が『卑彌呼即ち倭迹迹日百襲姫命』を発表した。

〈四〉どんな史料があるか

ア 記紀の前
 古代は系図がものをいう時代だったので、各氏族に伝えられていただろう。また應神天皇の御代に史部をつくったらしいし、聖徳太子が天皇記をつくったとされる。したがって多少の史料はあっただろう。

イ 魏志倭人伝と記紀
 那珂通世の研究では崇神天皇時代は卑彌呼の時代。戦後になって記紀を否定し魏志倭人伝を中心としているのはおかしい。両者を照合して上代史を再編成すべきである。

〈五〉崇神天皇はいつ頃の人か

ア 朝鮮の史書から
 朝鮮の史書との照合で、應神・仁徳の御代が西暦四〇〇年前後なので、逆算すると崇神天皇の時代は西暦二〇〇年前後になる。

イ 崇神天皇崩御の干支
 古事記の最古の写本眞福寺本や住吉神社神代記に戊寅とあり、これは西暦二五八年である。両史料とも奈良時代のもの。海外との交流によって、崇神天皇の時代から干支が記憶されたのだろう。
 日本書紀の崩年は西暦前三〇年で、これは干支で辛卯であり、三世紀でおなじ干支を探すと、二七一年となる。
 自分としては三世紀前半が活躍期と考える。一方九州説ではこういった検討が無い。

ウ 九州説を批判する理由
 九州説には、つぎの二つの論拠がある。

1 方位が南なので九州内である。
2 三世紀の大和には女王国の歴史がない。

 この二つともに批判する。


『卑弥呼と日本書紀417』

 このうち1について、室賀信夫氏の見解を求めたところ、氏は精密な論証によって、シナの地図は日本の行基図を九十度回転して当てはめているため、日本が南北になっていることが明らかになった。この地理的知識は魏の時代にまでさかのぼれる。不弥から邪馬台国までの水行三十日は、三宅米吉の指摘で延喜式に大和〜太宰府が海路三十日とあるのに相当している。上陸してからの一月は一日の間違いであろう。
(著者注――倭人伝の九十度違いの指摘は笠井新也が有名だが、古代地図を詳しく研究して方角の違いを指摘したのは室賀信夫が最初であり、その室賀に研究を依頼したのが、肥後和男である)
 2については、記紀の編者が神功皇后を卑彌呼に擬してしまったため、女王についての伝承が記紀から消えてしまったのだろう。

〈六〉崇神天皇の家族関係

 崇神天皇の母親は物部系。武内宿禰の祖でもある。
 和風謚号のミマキイリヒコのミマは御孫という説が古くからある。また任那を連想させる。当時の任那は弁韓のなかの加羅の別名で、魏志倭人伝で倭の一部ととれる半島南部の狗邪韓国がそれらしい。魏志倭人伝の官職名としては、伊支馬、弥馬升や弥馬獲支がミマキを連想させる。

〈七〉神々を祭った話

 大和朝廷の勢力が大きくなって三輪山の祭祀権を奪取して三輪山麓に王朝を築いた。そのとき媒介となったのが倭迹迹日百襲姫命である。
 二世紀の半ばに日本が乱れて女王が立ったのだろう。その乱れは武埴安彦の乱、四道将軍の派遣、出雲振根の事件などで日本書紀にある。
 大物主神のモノとは威力ある精霊の意味で、物の怪のモノである。沖縄ではこのことをムヌーといっている。
 三輪の大物主神の巫女である百襲姫命を崇神天皇が助ける時代から、崇神天皇の全盛期に移った時点で、大物主神は大和一族の先祖神である天照大神に主人公の座を譲り、その巫女は豐鍬入姫命となった。これが倭人伝の臺與であろう。
 崇神天皇が八十万の神々を集め、祭ったのは、周辺の豪族たちを組織したことを意味し、それを可能にしたのが倭迹迹日百襲姫命という偉大な巫女の出現だったのだろう。


『卑弥呼と日本書紀418』

〈八〉倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇

 女王は日本ではオオキミで、天皇とは限定されない。沖縄のキコエオオキミも、国王の姉妹で最高の司祭であり、結婚せず神の妻として神託で国王を助けたとされている。
 三輪山は大和の山門(やまと)であり、この三輪山を祭る巫女は国家最高の女性である。
 鬼道は侮蔑語でじっさいは神道である。
 時代が大きく変化するとき、古代においては宗教的な女性が出現している。神功皇后、推古天皇など。
 男弟は崇神天皇のことで、倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇の関係は、推古天皇と聖徳太子、齊明天皇と中大兄皇子、飯豐青皇女(いいどよのあおのひめみこ)と弘計王(おけのみこ/顯宗天皇)、キコエオオキミと琉球国王・・・とのペアと類似している。

〈九〉国内統一の進展

 記紀では、四道将軍の話はあるが、北九州がいつ大和に関係づけられたかの記述がない。風土記などから、崇神天皇の御代にはすでに大和の勢力に入っていたのだろう。だから特別な記述はないので、九州説の主張はおかしい。
 豪族たちが協力して洛陽や楽浪郡に行ったのだろう。使者が自ら大夫と称していたのは、シナの制度に通じていた証拠である。
 崇神天皇のハツクニシラスとされる具体的内容は、

1 神社制度の確立
2 四道将軍の派遣
3 出雲問題の処理
4 財政機構の確立

 ――であった。

〈十〉出雲との関係

 日本を最初に統一したのは出雲ではなく、大和朝廷であり、併合された諸国の表徴が大國主神だったのだろう。
 出雲神話も大和において農耕神話として構想されたのではないか。
 垂仁天皇紀に物部氏が出雲に行くのは、物部勢力がすでに出雲を圧していたことを示す。出雲を通りこした石見に物部神社がある。

〈十一〉筑紫と毛野

 北九州の筑紫を征服した話がないのは、記憶に無い時代から大和と一体だったためだろう。大和は北九州の植民地として発展したのかもしれない。
 魏志倭人伝を読むと、北九州と大和が一体だったことは明かである。倭人伝の邪馬台国以北(以西)の斯馬、伊邪、弥奴、為吾は、それぞれ、志摩、伊勢、美濃、伊賀であろう。また邪馬台国と争っていた狗奴(くな)は、関東の毛野(けの)だろう。崇神天皇紀に上毛野と下毛野を支配下においた話がある。


『卑弥呼と日本書紀419』

〈十二〉海外との関係

ア 朝鮮半島の日本人
 日本書紀からも倭人伝からも、狗邪韓国(くやかんこく)――つまり加羅または任那――のあたりに日本人がたくさん住んでいた可能性がある。対馬、壱岐、北九州の日本人が渡っていたであろう。大和の勢力は北九州まで及んでいただろうし、また九州を経ないで任那へ行くことも簡単だった。

イ 崇神天皇と任那(みまな)
 名前の類似からいっても、崇神天皇の時代に任那との関係が築かれたという伝承は肯定できる。任那は鉄源の確保からいっても重要だった。
 倭人伝の末廬は北九州の唐津付近でありそれは加羅の津という意味であるので、ここと朝鮮南端の加羅(任那=狗邪韓国)とで往来していたのだろう。

ウ 卑彌呼の位
 魏からみて、卑彌呼は親魏倭王であり、これは博多湾で発見された金印の漢委奴國王より上位である。魏の使者は伊都国でとどまり、大和からの返事を待って帰国したのだろう。都まで来たにしては邪馬台国の記述が簡単すぎる。

エ 崇神天皇は行政家
 崇神天皇は、大物主神の巫女である倭迹迹日百襲姫命=卑彌呼から、天照大神の巫女である豐鍬入姫命=臺與に主役が交替する前後に生きて、神託を巧みに実行した優れた行政家だったのだろう。

〈十三〉経済の発達

 崇神天皇が晩年に池をつくった伝承は、畿内の新田開発を意味しているし、税制を整備したのは、産業が発達したからだろう。箸墓の規模からみても、技術・産業の発展がわかる。

〈十四〉結び

 邪馬台国は大和であり、卑彌呼は倭迹迹日百襲姫命であり、時代は第一次大和統一期である。

 以上の肥後説は、弘文堂の本によっているが、つぎの本によって少しだけ補っておく。


『卑弥呼と日本書紀420』

◆◆◆『崇神天皇』秋田書店(昭和四十九年)◆◆◆

(1)自分は九州をはじめあらゆる場所を見てまわったが、大和がもっとも適切である。
(2)九州には箸墓のような巨大な墓はない。
(3)西暦五七年に奴国が漢に行っていることから考えて、卑彌呼のいた三世紀に瀬戸内海を通って大和と九州を往復するのはとても簡単なことであり、大和は辺地ではない。四道将軍が吉備までしか行っていないことが大和説への反論となっているがそれは成り立たない。
(4)神(かみ)と上(かみ)は発音が違うが元は同じだろう。
(5)大物主神に対する大和(おおやまと)神社の倭大國魂(やまとのおおくにたま)神は、総合的地靈である。
(6)自分の説は少数派だが、発言する権利はある。

 以上が肥後和男の説の概要である。

 本人は「自分は少数派ではあるが自説を述べる」――と記しているが、さいきんの考古学的知見をもとに判断すると、きわめて納得しやすい論であり、笠井説を大きく発展させている。
 この十年、賛同者が急速に増えている。


『卑弥呼と日本書紀421』

◆◆◆ 樋口清之による大和有利説 ◆◆◆

 つぎに、樋口清之の議論を記しておく。
 弥生時代に稲作があったことを例証するなど著名な考古学者であり、多くの歴史書・啓蒙書を書き、また國學院短大学長や博物館学会会長などを務めた樋口清之は、大和の出身で大和の遺跡にきわめてくわしい。
 はじめは九州有利と考えていたが、のちに考古学的な考究から、邪馬台国=大和である可能性が大であるという見解を発表するようになった。
 いくつかの著作から、要点を抜粋してみる。


 奈良盆地の中央には大和湖があったらしく、縄文時代の遺跡は標高六十メートルまででそれ以下にはない。弥生時代の遺跡は五十メートルまでである。
『記紀』の神武天皇に関係する数十の地名はすべて標高六十メートル以上のところにある。神武即位の橿原の遺跡も発見されている。


 稲作は斜面の方がやりやすい。平地だと水面の設計が難しい。
 その点で《三輪山》の周辺は稲作に絶好の土地である。
 また《三輪山》は斑糲岩であり、その周辺には砂鉄があり、製鉄遺跡が多い。玉の原料も出る。


 九州に文化圏があって、それが東に伝播して中国地方の文化圏や大和の文化圏ができ、しだいに地の利の良い大和に統一されたのだろう。中国の出雲や吉備にも政権があり、それが大和に吸収されたのだろう。


『魏志倭人伝』は伝聞を元にした三級史料である。


〈卑彌呼〉は〈姫巫女〉であろう。とうじはどの集落にも神託を伝える巫女がいて力をもっていた。その最高位が〈卑彌呼〉だったのだろう。
 年が長大といっても昔は三十歳すぎると老女だった。
 卑彌呼に仕える男とはたぶん夫で、臺與は娘だろう。


『卑弥呼と日本書紀422』


 昔は巫女が神託を間違えると死を迎えた。
 下腹部に多くの矢を射込まれた老女が出土(*)しており、卑彌呼の死を連想する。
(著者注:*は下腹部を箸でついて死んだとされる〈倭迹迹日百襲姫命〉を連想する)


「《邪馬台国》大和説」
 ――が有力なのは、鏡の出土状況による。
 景初四年の鏡は日本製であろうし、日本人はすでに漢字がわかっていた。


 孝元天皇は架空だろう。
 したがって孝靈天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の大叔母ではなく叔母になる。

**********

 以上、三人の代表的な、
「《邪馬台国》大和説」
 の学者の説を略述した。
 とくに前の二人は、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」
 でもあり、参考になる。

 ごく最近まで、笠井説や肥後説は軽視されていたが、この数年の考古学の進展によって、見直されてきた。
 ここで記したのは大和説の代表的論文であるが、どれも考古学的な知見が論文の背後にあるように思われる。
《邪馬台国》問題を『魏志倭人伝』の解釈のみによって論じると、その議論は主観的なものになりがちなので、考古学の成果を加味する必要がある。

《邪馬台国》問題における考古学の重要性は大正時代から指摘されるようになったが、その口火を切ったのは考古学者の高橋健自と言われている(第一・二節の一覧表参照)。
 これに対して史学者の橋本増吉が異議を唱えた(同前一覧参照)が、平成に入ってからの考古学の成果は、高橋健自〜笠井新也〜肥後和男らの説をますます補強していると考えられる。

 ただし現在の史料ではまだ断言はできない。
 さまざまな説を唱えて断言するアマチュア史家が多いが、現時点での断言は非科学的ではないだろうか。
 ただ、可能性としては大和説が高まっていることは間違いない。

 くわしくはまた後に述べる。
 次節では〈倭迹迹日百襲姫命〉の名前の問題を記してみる。


『卑弥呼と日本書紀423』

■■■■■ 九・四 〈倭迹迹日百襲姫命〉という奇妙な名の意味と別名 ■■■■■


『記紀』はじめ古代の伝承における人物(神)の名は、人々がその人物(神)についてどのように考えていたかをあらわしているので、それ自体が史料として重要である。
 そこで、問題の人〈倭迹迹日百襲姫命〉の名前の由来や別名について、知るかぎりのことを記しておこう。

〔一〕主要名〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉および〈夜麻登登母母曽毘賣(やまととももそひめ)命〉

 前者は『日本書紀』における主要な表記であり、後者は『古事記』における表記である。
 この二つは読みが微妙に違い、トとヒが少なくなっていたり、古代の発音で百は甲類なのに母母は乙類だという違いがあるなどしているが、両親も同じであり、明かに同一人物である。
 ただし『古事記』においては、『日本書紀』のようなこの姫命の活躍は記されていない。
『古事記』は皇室と男性天皇中心の色彩の強い短い物語なので、略されたのであろう。
 現在では『古事記』のほうが普及しているようだが、ごくさいきんまでは『日本書紀』が古代史書の中心だった。
 たとえば、大正時代の『古事記』の解説書に、『日本書紀』ばかりを重要視することへの批判が記されていたりする。
 そして昭和初期の『古事記』中心の時代を経て、さいきんになってふたたび『日本書紀』を重視する意見が多く見られるようになったのは興味ぶかい。

 最初にこの主要名を分解しておく。
「倭迹迹日百襲姫命」
 =「倭」+「迹迹日百襲」+「姫」+「命」
 =「倭」+「迹迹」+「日」+「百」+「襲」+「姫」+「命」

 問題は「迹迹日百襲」の解釈である。

〔二〕小学館『日本書紀』にある注

 さて、この〈ヤマトトトヒモモソヒメミコト〉という奇妙な名前の意味についてだが、本書が主に参考にしている小学館の『日本書紀』の訳注においては、
「迹迹日は十十靈で、十×十=百となる霊的な――といった意味で、百襲姫にかかる枕詞的なものであろう。また百襲は数多く神異がその姫を襲うという意味かもしれない」
 ――としている。


『卑弥呼と日本書紀424』

〔三〕岩波書店『日本書紀』にある注

 一方岩波の『日本書紀』の訳注においては、
「トトヒ(迹迹日)は鳥飛び、モモ(百)は百、ソ(襲)は十の意であろうか。トトヒは魂の飛ぶことの比喩となることがある」
 ――としている。
 これは飛鳥を連想させる見解である。
 飛鳥と書いて「アスカ」と読ませるのは明日香地方にかかる枕詞を飛鳥(とぶとり)といっていたためらしい。それが明日香の代わりをするようになったのだ。
 ――ということは、《大和》は飛鳥を愛でる地でもあったということになり、その《大和》の神子である〈倭迹迹日百襲姫命〉に飛鳥を意味する迹迹日がつくのは不思議ではない。

〔四〕「倭」「姫」「命」

 この三つの尊称については、すでに何カ所かで述べているが、再記すると――
 頭につく「倭(やまと)」は、もちろん大和朝廷の重要人物であることを意味している。
 うしろにつく「姫(ひめ)」は太陽の妻(日女/ひめ)から来たとされ、高貴な女性=巫女的な女性への敬称である。
 巫女は御子・神子・皇子・皇女などと同じ読みであるだけではなく、語源も同じである。ミコのミは海神(わだつみ)のミと同じで、神霊の意味である。
 最後の「命(みこと)」はもちろん高貴な人物への尊称で、語源的には御事(みこと)だとされる。このミも神霊につうじるのであろう。

 小学館も岩波も高名な学者が『日本書紀』を編纂しているが、それでも同じ名について解釈がまったく違うのは、専門家のあいだでも決定打がでていないことを意味している。
 したがって、つぎのように、多くの人が様々な意見を発表している。

〔五〕原田大六の意見

 たとえば、《邪馬台国》の議論で有名で考古学の実践家でもある原田大六は、つぎのように述べている。
「迹迹日は飛速から出た言葉で、天に飛び国に飛び帰るの意味であろう。また百襲は百衣で多くの衣裳という意味だろう。すなわち〈倭迹迹日百襲姫命〉とは、日本の都である倭国の天界と地界を結ぶ有翼の、たくさんの衣裳をもつ姫ということである」
 この解釈は、〈百襲姫命〉の別名に〈倭迹速・・・〉とあることや、妹の〈倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)命〉が『古事記』では〈倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)〉とされていることからも、導かれている。
 なお原田は、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」
 ――をとっている。
 そして、〈百襲姫命〉が持っていた日神祭祀の主導権を、『記紀』の編者が無視したのだと主張している。


『卑弥呼と日本書紀425』

〔六〕苅谷俊介の意見

 俳優で《大和》の発掘にも携わってきた苅谷俊介も、つぎのユニークな意見をだしている。
「迹迹日の迹迹(トト)は鳥のこと。いまでも幼児言葉で鳥や鶏をトトと呼ぶ。日は霊力・太陽だろう。百襲は百十で、これは『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼〉の墓が「径百余歩」とあることを連想させる」

 これもまた、いわれてみるともっともに思う意見である。
 鳥は接頭語にしたとき「と」とも読む。鳥座(とぐら)、鳥屋(とや)などがある。
 したがって「迹迹」は「鳥」だろうという意見は、苅谷だけでなく多くの人が唱えているらしい。
 もっとも鳥は当然空を飛ぶので、「鳥」も「飛」も同じことかもしれない。
 このほか「とと→ちち→千々→縮み→縮織の布→立派な衣服」という説もあるらしいが、著者には読みとれない。
 ちなみに、「襲」は「押す」と「覆う」の複合語で「そ」とも言うが、衣をつくる繊維を「麻(そ)」といい、「衣」も「そ」というので、覆い被さるという漢字の意味だけではなく衣という意味にもなる。

 著者も、自分なりに解釈してみた。
「美しい大和(倭)において、飛ぶ鳥(迹迹)のごとくに、霊力(日)が、数多く(百)、覆いかぶさってきている(襲)、太陽の妻(姫)であるところの、高貴な人(命)」
(これは著者の想像であって学問的な見解ではない)

 どの意見が正しいにしても、大きな力を連想させる特異な名であることにかわりはない。
 つぎに別名を検討してみよう。


『卑弥呼と日本書紀426』

〔七〕別名〈倭迹迹姫(やまとととひめ)命〉

 これはあまり問題はないであろう。
 崇神天皇紀には〈倭迹迹日百襲姫命〉の略称として記され、孝元天皇紀には〈百襲姫命〉の姪として出てくる。この姪は『古事記』には出てこないし、孝元天皇の実在性には疑わしい点が多いので、同一人物を姪として記してしまったのだろうとの説があることは、前述のとおりである。

〔八〕別名〈倭迹速神淺茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらまぐわしひめ)〉

 この名は崇神天皇紀にあるが、天皇が神淺茅原(かむあさじはら)で占ったときに神が〈百襲姫命〉に憑依して語ったことからつけられた名称とされている。
 その前の迹速については、小学館の『日本書紀』では速を迹の誤りとするか、または音速で神の声(音)を速く聞く――の意味か、としている。
 迹速と迹迹の関係については、逆に迹迹が迹速の写し間違いではないか、という意見もある。
 尾部の目妙は見て美しいといった敬称である。

 以上が『記紀』における〈百襲姫命〉の本名と別名であり、いずれも特異な形で別格の意味をもっている。
 なお『勘注系図』には〈倭迹迹日百襲姫命〉のさらに重要な別名が記されており、『先代旧事本紀』にも似た表現があるが、それは後に述べる。

〔九〕母親の尊称〈倭國香媛(やまとくにかひめ)〉および〈意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)命〉

 本人の名や別名のほかに、母親の名前も重要である。
〈百襲姫命〉の母親は孝靈天皇の妃で、その名は、『日本書紀』では前者、『古事記』では後者となっている。
『日本書紀』の名も国を香らせたという高貴な意味を感じさせるが、『古事記』の名はさらに意味深長である。
 それは『日本書紀』的に書き直せば、〈大倭國在(生)姫命〉となる。
 偉大なる大和の国に霊性をもって生まれ出た――という解釈が一般らしいが、偉大な《大和》の国を生んだ姫命、あるいは《大和》の建国を念じた姫命という意味にもとれる。
 いずれにせよ、おどろくほど別格の尊称である。


『卑弥呼と日本書紀427』

〔十〕「クニアレヒメ」の謎

 この時代の天皇である崇神天皇の国風謚号(または実名)の御間城入彦(みまきいりひこ)が、
「三輪(三巻)の地域に入った高貴な男性」
 ――という意味を持つ可能性があることは前に述べたが、これは〈倭迹迹日百襲姫命〉が神子(巫女)をつとめる《三輪山》の神の地に崇神天皇が入って国を創ったということであり、したがって建国を意味する〈百襲姫命〉の母の名とむすびついている。
 さらに崇神天皇の尊称が初代の神武天皇とおなじ御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)――すなわち「はじめて国を創った天皇」――とされている事ともむすびついている。

 これは不思議な結びつきである。
 名目的な建国を果たしたのが初代の神武天皇で、実質的な建国を成功させたのが第十代の崇神天皇であるという説は一般的なものとなっているが、もしそうなら、神武天皇や崇神天皇の母親にこそ「オオヤマト・クニアレヒメ」という名を奉るべきであろう。
 しかしそうではなく、天皇の助言者として登場する〈倭迹迹日百襲姫命〉の母親のほうを、「オオヤマト・クニアレヒメ」と尊称しているのである。
「國在(生)」も意味深長だが「大倭」だけでも別格の尊称である。
 前にも記したが、古代において頭に「倭」がつく女性は〈倭迹迹日百襲姫命〉を含めて六人だが、その上にさらに「大」がつく女性はこの母親のみなのである。
 この奇妙なくいちがいが発生したのは、大和朝廷の確立に関して〈倭迹迹日百襲姫命〉の存在が重大な意味をもっていることを、『記紀』の編者たちがよく知っていたからではないだろうか。

**********

『記紀』の記述は、この謎の〈倭迹迹日百襲姫命〉を天皇の助言者の地位につけているが、それは、古代の正史は男性の天皇を中心にしなければならなかったことと、《三輪山》の〈大物主神〉より先祖神の〈天照大神〉を物語の中心に据えなければならなかったことによるのであろう。
 ――というのが、ひとつの推理である。

(なお第九・一節に記したように、百襲姫命の母親は安寧天皇の曾孫だが、もう一つの別名に、『古事記』では蠅伊呂泥(はえいろね)、『日本書紀』では?(糸ヘンに亘)某姉(はえいろね)がある。これはたぶん幼名または実名であろう)


『卑弥呼と日本書紀428』

■■■■■ 九・五 『倭姫命世記』に記された《伊勢神宮》への遷宮経路 ■■■■■


 ここまでの〈倭迹迹日百襲姫命〉の本名や別の尊称は、頭に「倭」の文字がつく重要な名前だった。
 これだけでもこの「姫命」の存在の大きさが想像できるのだが、じつは、『記紀』とは別の、ほぼ同時代の古典のなかに、「倭」はつかないが、もっと意味深長な別名が記されているのだ。

 そのことを述べる前提として、崇神天皇の御代に皇宮に祀られていた〈天照大神〉のご神体、

   「八咫鏡」
   「天叢雲剣(草薙剣)」

 ――を外部の神社に移してから、げんざいの伊勢の皇大神宮に落ち着くまでの経路を、記しておこう。
 このことと〈倭迹迹日百襲姫命〉の別称とが密接に関係するからである。
 典拠は《伊勢神宮》などに古くから伝わる神道古典のひとつ『倭姫命世記』である。

 御杖代(みつえしろ)、すなわち祭祀責任者である斎王(いつきのみこ)は、最初は『魏志倭人伝』にある〈臺與(とよ)〉の有力候補とされる崇神天皇の皇女の〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉だったが、途中で〈倭姫(やまとひめ)命〉に交替した。
〈倭姫命〉は崇神のつぎの垂仁天皇の皇女だが、かつては〈卑彌呼〉の有力候補だった。内藤湖南の説は有名である。


『卑弥呼と日本書紀429』

◆◆◆〈倭姫命〉のご巡幸 ◆◆◆

 以下、遷宮の地を時間の順に個条書きにしてゆく。

皇宮に奉斎(瓊瓊杵尊から崇神天皇六年まで数百年間)
  〔崇神天皇六年に崇神皇女の豐鍬入姫命を御杖代
  (祭祀責任者)として皇宮の外に祀ることにした〕

倭国の笠縫邑・三輪山麓の檜原神社(三十三年間)
但波国の吉佐宮・丹後半島のつけね(四年間)
倭国の伊豆加志本宮・檜原神社の近く(八年間)
木乃国の奈久佐浜宮・和歌山市(三年間)
吉備国の名方浜宮・岡山市の近傍(四年間)
倭国の弥和乃御室嶺上宮・(二年間)
〔この終わりに豐鍬入姫命は、すでに奉斎の日数を重ねたとして、姪にあたる垂仁天皇の皇女・倭姫命に御杖代を委任された〕

倭国の宇太乃秋宮・奈良県宇陀郡(次と合わせて四年間)
倭国の佐佐波多宮・奈良県宇陀郡
伊賀国の隠市守宮・三重県名張市近傍(二年間)
伊賀国の穴穂宮・名張市の近傍(四年間)
伊賀国の敢都美恵宮・三重県上野市近傍(二年間)
淡海国の甲可日雲宮・滋賀県甲賀郡(四年間)
淡海国の坂田宮・滋賀県坂田郡(二年間)
美濃国の伊久良河宮・岐阜県本巣郡(四年間)
尾張国の中島宮・愛知県西部(前者に含まれる)
伊勢国の桑名野代宮・三重県桑名市付近(四年間)
伊勢国の奈具波志忍山宮・三重県鈴鹿市付近(前者に含まれる)
伊勢国の阿佐加藤方片樋宮・三重県松阪市付近(四年間)
伊勢国の飯野高宮・三重県松阪市付近(四年間)
伊勢国の佐々牟江宮・三重県伊勢市付近(一時的)
伊勢国の伊蘓宮・三重県伊勢市磯町(一時的)
伊勢国の瀧原宮・三重県度会郡大宮町滝原(一時的)
伊勢国の矢田宮・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の家田田上宮・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の奈尾之根宮・伊勢市五十鈴川近辺(一時的)
伊勢国の宇遅五十鈴河上・三重県伊勢市の五十鈴川のほとりの皇大神宮、すなわち《伊勢神宮》の内宮
(垂仁天皇二十六年十月に鎮座し平成の現在まで継続。実紀年で推定一千七百年以上続いている)

 以上、〈天照大神〉のご神体が崇神天皇の皇宮から現在地に遷されるまでに計二十五の宮をへたことになるが、これが倭姫命御巡幸といわれる昔からの物語である。
 この二十五の宮の信憑性については、なんともいえず、実際はもっと少なかっただろうともいわれているが、どの土地にも現在まで神社が残されている。
 おそらく、重要な史実を投影した物語なのであろう。


『卑弥呼と日本書紀430』

◆◆◆ ご巡幸の深い意味 ◆◆◆

 時代的には、第十代崇神天皇の六年に皇宮を出発して次の第十一代垂仁天皇の二十六年に落ち着いたのだが、その実紀年は三世紀と四世紀の境くらいだろうと推定されている。
『日本書紀』の垂仁紀や『倭姫命世記』の干支で求めると西暦二九七年になるが、この年は『魏志倭人伝』における〈臺與(とよ)〉の時代のすぐ後であり、これもまた興味ぶかい。

 このご巡幸には、大和朝廷の勢力を周辺に定着させ、同時に鉄や玉や稲の産地を確保し、そして東海方面への出口にあたる伊勢に新しい根拠地をもうける・・・といったさまざまな意図があったと推理されている。
《大和》の地の背後(東側)は今の三重県であるが、そこを《大和》の勢力圏にすることに成功したとしても、その地域をさらに北や東から囲う形の滋賀・岐阜・愛知・静岡県の豪族たちを抑える必要がある。
 岐阜や愛知や静岡は、さいきんの考古学の知見では、《大和》とはかなり違った文化圏であり、同時に《大和》と交流した形跡があり、したがって『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》に反抗した狗奴国かもしれない――とされている。

 したがって、陸を介して岐阜を抑え、海を渡って愛知や静岡へ進出できる伊勢の地は、当時の大和朝廷にとってきわめて重要な土地であったといえる。
 落ち着くまでの経路を見ても、わざわざ滋賀や岐阜を通っているのだ。
 だから、皇女が神子(巫女)となっての御巡幸ではあるが、その実体は多くの武人をしたがえ、各地方の豪族たちを威圧する堂々たる大和朝廷軍の行軍だったろうと考えられている。
 だからこそ日本武尊が東国に遠征したとき、最初にこの《伊勢神宮》に寄って、「天叢雲剣(草薙剣)」を〈倭姫命〉から借り受けたのであろう。
 つまり権威を借り、武具を調達したのである。
(この剣が伊勢へは戻らず熱田神宮に奉斎されたことは既述のとおりである)


『卑弥呼と日本書紀431』

 もちろん、伊勢に落ち着いた意味は、そのような――いまの考えでの――現実的なものだけではなく、海に近い五十鈴川のほとりが、神の座にふさわしい神秘的な景観にあったことも大きいであろう。
 また、地図を見ればすぐに分かるとおり、伊勢は《大和》の地の真東にあたっており、古代大和朝廷にとっては太陽の昇る方角である。
 そのような方角の清涼な地に太陽の化身である〈天照大神〉を祀るのは、とうぜんのことかもしれない。

 参考までに、〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉と〈倭姫(やまとひめ)命〉の推定ご巡幸経路を、図9・2に示しておく。

図9・2
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H91-94.htm

 日本海へ出る地点と、問題の多かったらしい岐阜県と、伊勢湾や三河湾を横断して東国へ進出する地点とに向かって、試行錯誤しながら巡幸したことが読みとれる。
 最終的に落ち着いた《伊勢神宮》の内宮の写真を図9・3に掲載する。

「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を日本武(やまとたける)尊に授けてからは、〈天照大神〉の最高のご神体「八咫鏡」を奉斎して、今日に至っている。
 そして現在も、日本の神社の最高峰として、二十年に一度の式年遷宮が国民的な行事としてなされている。

 江戸時代には「お伊勢参り」が国民的行事であり、日本全体の七割の家庭にこの《伊勢神宮》の御神札(神宮大麻)が祀られていた。
 現在でも、毎年一千万に近い御神札が全国の家庭の神棚に祀られているし、毎年正月には総理以下閣僚が参拝している。


『卑弥呼と日本書紀432』

《伊勢神宮》を詠んだ歌のいくつかは第二、六、九章のトビラに記しておいたが、ここで三首ほど追加しておこう。

とこしへに 民安かれと 祈るなる
わがよを守れ 伊勢のおほかみ
(明治天皇御製/明治二十四年)

天照す 神の御馬の いななける
清き夜明けの 杉木立かな
(與謝野晶子/大正四年)

ここはこころの ふるさとか
そぞろまいれば 旅ごころ
うたたわらべに かへるかな
(吉川英治/昭和二十五年)

 文豪・吉川英治の歌は、「伊勢神宮は心の故郷」という言葉の始まりとも言われ、昭和二十五年十二月に参拝したおりの即興だが、この時代は占領軍の抑圧によって、境内は閑散としていたとされる。

 なお《伊勢神宮》は通称であって、本来は単に神宮または皇大神宮(あるいは天照皇大神宮)という。また伊勢の内宮ともいう。
 このほかに〈豐受大神〉を祀った外宮――豐受大神宮――があり、内宮と外宮を合わせた通称が《伊勢神宮》である。

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 さて、この〈倭姫命〉の御巡幸をここに特に記したのは、前述のように、

「この御巡幸と〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名とが深く関係している」

 ――からである。
 次節でそのことを記そう。


『卑弥呼と日本書紀433』

■■■■■ 九・六 《大和》を離れた最初の元伊勢《籠神社》に伝わる奇跡の神宝 ■■■■■


◆◆◆ 最初の大和外元伊勢《籠神社》◆◆◆

〈天照大神〉のご神体が皇宮を離れて三輪山麓笠縫(かさぬい)の《檜原(ひばら)神社》に遷ったその次の巡幸先は、前節に記したように但波(たには)の吉佐宮(よさのにわ)である。
 このときの御杖代はまだ〈倭姫命〉になっておらず、『魏志倭人伝』にある〈臺與(とよ)〉の候補の〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉である。
 吉佐宮は《大和》から地方に遷った最初の神宮とされているので、その史実性は別問題として、大和朝廷にとってきわめて重要な地域にあったことはまちがいない。
 注目されるのは、第九代開化天皇の妃や第十一代垂仁天皇の皇后と妃が、丹波の出身だったことで、成立期の大和朝廷が丹波地方と密接な婚姻関係をむすんでいたことがわかる。
 但波とはのちの丹波・丹後・但馬をあわせた国名で、いまの京都府と兵庫県北部である(図4・2参照)。

図4・2
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

 吉佐宮の現在の姿は、日本海に突き出た丹後半島に鎮座する《籠(この)神社》である。
 そしてそこに、日本最古の系図が神宝として秘蔵されており、その系図に〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉とその驚くべき別名が記されているのだ。
 以下、多くの歴史家に衝撃を与えた《籠神社》の神宝について、金久与市の『古代海部氏(あまべのうじ)の系図』にしたがって概説する。


『卑弥呼と日本書紀434』

◆◆◆《籠神社》の場所 ◆◆◆

 場所は、京都府の北端・日本海側の宮津市で、日本海に突き出た丹後半島の若狭湾寄り――東側――の付け根にある。

図9・4
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H91-94.htm

 図9・4を参照していただきたいが、日本三景として有名な天橋立のすぐそばといえばわかりやすいかもしれない。
 じつは天橋立とは、《籠神社》の元々の参道なのだ。
 有名な雪舟の名画に国宝「天橋立図」があるが、これにも《籠神社》の鳥居のすぐそばから天橋立が海上に延びている有様がはっきりと描かれている。
 昔から面白い話が伝わっていて、天の伊弉諾尊が地の伊弉冉尊を訪ねるときに天から地へ渡した梯子(SFでいう軌道エレベータの元祖である!)を使っていたが、その梯子が倒れてできたのが天橋立だという。
 この二柱の神も《籠神社》に配祀神として祀られている。

 若狭湾は紀元前の弥生時代から、日本海をわたって九州・朝鮮半島・大陸などと往来する玄関口のひとつであり、日本海へ出る経路を確保したい大和朝廷がこの地を勢力下におこうとしたのはとうぜんのことである。
 崇神天皇の御代に四道将軍の一人で〈倭迹迹日百襲姫命〉の親戚にあたる人物がこの地に派遣されて丹波道主(たにはのみちぬし)命と呼ばれていたこと(第九・一節)でも、それはわかる。


『卑弥呼と日本書紀435』

 丹後半島とその周辺一帯が丹後国であり、その西が但馬国、南にひろがるのが丹波国だが、これら三つはもとすべて丹波国(または但波国)だった。つまり但馬も丹後ももとは丹波だったので、古代史の文献を読むときには注意を要する。
 なお丹波はいまはタンバと読むが、かつてはタニハまたはタニワであり、但波とおなじである。
 この国は、いま伊勢の外宮に祀られている〈豐受大神〉が田畑をつくり農業を起こした国とされ、丹波の語源は田庭だとされている。
 庭はまたバとも読むので、田庭をタバと読めばそのまま丹波(たんば)につながる。
 とても広い地域なので西暦六八四年に但馬国が独立、ついで七一三年に丹後国が独立した。
 そして《籠神社》は丹後で最高の位をもつ著名社である。

 丹後や但馬の地は縄文・弥生・古墳各時代の遺跡が豊富にあり、貴重な品が数多く出土している。
 さいきん、丹後半島の赤坂今井墳丘墓から、三世紀前半――つまり〈卑彌呼〉の時代――の豪華な頭飾が出土して人々を驚かせた。
 また『魏志倭人伝』にある正始元年に魏でつくられたらしい鏡などが発掘されているし、《大和》と共通する出土品も多い。
 したがって同じ日本海側の出雲よりもむしろ大和朝廷との交流が盛んだったと推理されている。

 また、伝承や遺跡から、日本海で活躍した海洋氏族の拠点だったとも推定されている。
 但馬の丹後寄りにある、古墳時代前期の袴狭(はかざ)遺跡からは、十五隻の船団を描いた二メートルもの長さの板が発見されて評判となった。
 このあたりは、新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)が渡来して朝廷に神宝を献上したという伝説がのこっている地点だし、また加羅国(任那)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が半島から長門や出雲を経て漂着した地点・敦賀(つるが/つぬが)のすぐ近くでもある。


『卑弥呼と日本書紀436』

◆◆◆《籠神社》の祭神 ◆◆◆

〈一〉本宮の祭神〈饒速日命〉

《籠神社》は本宮と二つの奥宮とに分かれている。
 本宮の主祭神は彦火明(ひこほあかり)命で、これは天火明(あまのほあかり)命と同神で著名な〈饒速日(にぎはやひ)命〉の別名であることが、のちに記す系図に明記されている。
 つまり物部・尾張・海部(本神社宮司家)などの一族の先祖神である〈饒速日命〉を祀る神社なのだ。
 そして古代から高い地位を得ており、十世紀はじめの延喜式に記載された式内社であり、丹後の一の宮(最高位の神社)であり、また官幣中社であった。

 第六章にも記したが、『記紀』および物部系の史書とされる『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると、天火明命こと〈饒速日命〉は瓊瓊杵(ににぎ)尊と兄弟であり、瓊瓊杵尊が日向に天降ったときに同時に河内に降臨し、そこから天磐船(あまのいわふね)で《大和》に入り、義兄の長髄彦(ながすねひこ)と神武天皇が戦ったときに御子の可美眞手(うましまで)命とともに神武天皇に帰順し、降臨時に天津神――〈天照大神〉など高天原の神々――から授かった神宝も献上して隠棲した。
 これは有名な話だが、その〈饒速日命〉その人が、この本宮の主祭神なのである。
 大和朝廷と争った大豪族〈饒速日命〉一族の先祖を祀る神社が、〈天照大神〉の《大和》以外での最初の鎮座地に選ばれたのは、意味深長である。

〈二〉奥宮の祭神1〈天照大神〉

 さて、本宮からすこし離れたところに二つの奥宮があり、そこにいまも〈天照大神〉と〈豐受大神(とようけおおかみ)〉の御分霊が祀られている。
 この奥宮は別名眞名井(まない)神社というが、そのうちの一つこそ、かつては吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた神社――つまり〈天照大神〉が《大和》をはなれて最初に祀られた神社――なのである。
〈豐受大神〉は昔から祀られていたらしいので、〈天照大神〉は第十代崇神天皇の御代に、〈豐受大神〉と〈饒速日命〉の鎮座するこの神社に《大和》から遷られ、四年間を過ごされたことになる。
 そのため、この奥宮は「元伊勢」と呼ばれている。
 伊勢に落ち着かれるまでの鎮座地にのこる神社はすべて元伊勢だが、ここは《大和》の《檜原(ひばら)神社》とならんでその筆頭なのだ。


『卑弥呼と日本書紀437』

〈三〉奥宮の祭神2〈豐受大神〉

 奥宮のもうひとつに奉斎されている〈豐受大神(とようけおおかみ)〉は、元来がこの丹後――もと丹波――の地を五穀豊饒にした農業の神で、きわめて古くから祀られ、信仰されてきたらしい。
 系図的には伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊の孫娘であり、したがって〈天照大神〉の姪にあたる女神である。
〈天照大神〉は四年で別の宮に遷られたが、〈豐受大神〉はそのまましばらく鎮座されて、第二十一代雄略天皇の御代になって、《伊勢神宮》の外宮に遷られた。
 内宮の正式名が皇大神宮であるのに対し、こちらの正式名は豐受大神宮である。
 この遷宮は〈天照大神〉のご意向によるとされているが、おそらくそれは、豪族への支配と融和政策の一環だったのであろう。
 この雄略朝以後、〈天照大神〉の祀られている内宮と〈豐受大神〉の外宮を併せて、《伊勢神宮》と通称するようになって現在に至っている。
 このような経緯から、いまでも《籠神社》には、本宮の〈饒速日命〉のほかに、二つの奥宮に、〈天照大神〉と〈豐受大神〉の二女神の御分霊が祀られているのだ。

〈四〉〈天照大神〉と〈豐受大神〉の関係

 こういった祭神関係を見てみると、日神である〈天照大神〉が、その姪で大地の農業神である〈豐受大神〉の神社に巡幸するのは、祭祀のバランスをとる上でとうぜんと思えるし、またそこが〈饒速日(にぎはやひ)命〉一族の重要拠点だったことを考えると、大和朝廷が競争相手だった〈饒速日命〉を先祖神とする豪族を支配下において海への窓口を確保するための、とうぜんの戦略だったともいえるだろう。

 のちの〈豐受大神〉の伊勢への遷宮であるが、裏の意味は前記のような豪族への融和・帰順策であったとしても、神事としては、天の最高神である〈天照大神〉に大地の農業の神〈豐受大神〉が五穀を献上するという役割を果たすためであった。
 そのため伊勢の外宮では、朝夕天神への食事をつくる儀式を遷宮以来毎日続けており、じつに千五百年ものあいだ一日として絶やしたことがない。
 これは高野山の仏前の火を千二百年間絶やしていない行事を上まわる、世界に類例のない歴史の「継続性」である。

 内宮と外宮の関係については、星座による面白い説明もある。
 十月十七日は神嘗祭で、天皇がその年の新穀を《伊勢神宮》に捧げる日であるが、この日の星座をみると、内宮をあらわす北極星に、外宮をあらわす北斗七星が、柄杓で新穀を献上しているように見える、というのである。
 内宮の二十年ごとの式年遷宮は有名で、神殿だけでなく鳥居や神宝まで作り替えられるのだが、それは外宮も同じである。

 なお《籠(この)神社》という名称は、七世紀の大化改新時に吉佐宮(よさのみや)を変更してつけたもので、その際社殿をいまの奥宮の地から現在の本宮に移し、それまでの社殿を奥宮として残して元伊勢の眞名井(まない)神社と呼ぶようになったらしい。


『卑弥呼と日本書紀438』

◆◆◆《籠神社》の神宝 ◆◆◆

 以上のように、驚くほど古い伝承をもつ神社であり、戦乱や空襲にも遭わず宮司も世襲で続いたので、多くの神宝が秘蔵されている。
 代表的なものに、

(一)「辺津鏡」と「息津鏡」(図9・5参照)
(二)『籠名神社祝部氏系図』(国宝/略称『海部氏系図』)
(三)『籠名神社祝部丹波国造海部直氏之本記』(国宝/略称『勘注系図』)
(四)『丹後国一宮深秘』
(五)『倭姫命世記』(最古の写本といわれる)
(六)『御正体等経塚遺物』(重要文化財)
(七)『藤原佐理卿筆神額』(重要文化財)
(八)『経筒一対』(重要文化財)
(九)神前狛犬二基(重要文化財)

 ――などがある。
 以下に説明を加えよう。

(一)「辺津鏡」と「息津鏡」

図9・5
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H95+97.htm


 まず二つの鏡だが、この名称は九州北端(福岡県)の有名な古社・宗像大社の辺津宮と沖津宮(沖ノ島)と同じであり、名前そのものも海に関係がふかく、海洋民を連想させる。
 考古学的には「辺津鏡」は「連孤文昭明鏡」と呼ばれる前漢鏡(西紀前/日本の弥生中期)で、北九州からは出土例があるが、畿内や但波では出土したことのない貴重な逸品である。
 また「息津鏡」は「内行花文鏡」と呼ばれる後漢鏡(西暦一〜二世紀/日本の弥生後期)で、畿内では《箸墓》のすぐそばの、〈卑彌呼〉生存中の造営とされる大塚古墳から一面、ホケノ山古墳から二面出土している。うち一面は平成十二年というごく最近の出土である。

 考古学上での分類では、この二面の鏡は同じ系統に属しており、時代も西暦紀元をはさんで前漢・後漢と連続している。
 神話との関連では、『先代旧事本紀』にある「十種の神宝」の筆頭の二面の神鏡(瀛都鏡、邊都鏡)と同名である。したがって通常の〈饒速日命〉伝承とよく照応している。
 また『日本書紀』に「三種の神器」としての「八咫鏡」のことを「経津鏡」と記しているので、類似名である。
 大きさや形式では、後漢鏡の「息津鏡」のほうが「三種の神器」に似ているだろうといわれている。
 そしてこの二鏡とも、天の祖神(天津神)から下されたものと伝えられている。
 つまり「三種の神器」に匹敵し、「十種の神宝」そのものともいえる神宝なのだ。
 くわしい由来は後述するが、こういう、
「二千年以上も前の鏡が、遺跡からの出土ではなく、神社の本殿に伝世され、かつその由来を記した古文書が同時に神社に存在し、さらにその古文書の内容が『先代旧事本紀』の神話と多くの共通点をもつ」
 ――というのは、まったく稀有なことである。
 遺跡の土中に埋もれていたわけではないので、図9・5でわかるように、じつに綺麗で模様も鮮明である。
 公開は昭和六十二年で、それまで二千年間も秘されていたので、公開時には大きな反響をよんだ。


『卑弥呼と日本書紀439』

(二)国宝『海部氏系図』

 つぎの国宝の『海部氏系図』は、滋賀県三井寺に伝えられた和気氏系図(国宝)とともに、紙に記された日本最古の系図とされ、伝承によれば平安前期の貞観年中(西暦八五九〜八七六年)に、その前からあった史料を参照して書かれたのだという。
 系図のわかる最古の家系はもちろん天皇家である。
 天皇家の系図自体は『日本書紀』編纂時に同時に編纂されたものの今では消失しているが、その内容は『記紀』本文の記述でわかっている。
『海部氏系図』は、この『記紀』によって構成される天皇家系図を別にすれば、日本最古なのである。
 平安時代には古い神社などの宮司家の系図を定期的に提出させており、これはそのために書かれたものの副本で、役所で確認したという意味の「丹後國印」が押印されている。したがってきわめて信憑性が高い。
 これは昭和五十一年に国宝に指定され、翌年に公開され、平成四年に神道大系ではじめて活字化され、評判となった。

(三)国宝『勘注系図』

 つぎの『勘注系図』は、《籠神社》の神宝のなかでもっとも重要で、秘宝中の秘宝とされ、長く秘匿されてきたが戦後にやっと公開され、厳格な審査によってその信憑性が認められて、やはり昭和五十一年に国宝に指定された。
 そして、平成四年に神道大系によってついに全文が公開され、古代史の研究者たちに大きな衝撃を与えた。
 その由来や内容については次節に記す。

(四)『丹後国一宮深秘』

 これは、〈天照大神〉のご神体が《大和》の笠縫からこの地にご巡幸されたことを記した文書で、十四世紀の書写である。

(五)『倭姫命世記』

《伊勢神宮》などに伝わる写本より古い、日本最古の写本ではないかといわれている。

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 次節で、もっとも重要な秘宝『勘注系図』について詳しく記すことにする。


『卑弥呼と日本書紀440』

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《籠神社》関連の解説は、前述しましたように、金久与市『古代海部氏の系図』を参考にしていますが、金久先生は昨年亡くなられました。
 衷心よりお悔やみ申し上げます。
 金久先生には、この問題につきまして、大変親切にいろいろと教えていただき、また《籠神社》第八十二代宮司・海部光彦様を紹介していただきました。
 生前のご厚誼に深く感謝いたします。
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■■■■■ 九・七 《籠神社》が千年以上秘匿した秘宝『勘注系図』の謎 ■■■■■


◆◆◆『勘注系図』の由来 ◆◆◆

《籠神社》の神宝のなかでもっとも重要な『勘注系図』の由来は、以下のとおりである。

 七世紀の初め、推古天皇の御代に、聖徳太子や蘇我馬子らが国史の編纂を企画して、諸国の豪族から家伝の歴史を集めたことがあった。
 その貴重な史書類は大化改新における蘇我家滅亡のおりに焼失してしまったのだが、この推古天皇の国史蒐集時に〈饒速日命〉の子孫で丹波国の豪族かつ国造(くにのみやつこ)だった海部(あまべ)家の海部直止羅宿禰(あまべのあたいとらのすくね)が『丹波国造本記(たにはのくにのみやつこほんき)』なる一族の史書を編纂して朝廷に献上し、それとは別に似た内容の自家用をつくって保存した。
 奈良時代初期の『記紀』の完成より百年も前のことである。
 なお国造とは朝廷の許可を得てその地方を統治する古代の世襲の地方官で、もともとその地を支配していた豪族がなっていた。

 止羅宿禰の三代あとの養老五年(西暦七二一年)になって、これを数人で修選して『籠名神社祝部氏之本記(このなじんじゃはふりべうじのほんき)』とした。
 養老五年といえば、『古事記』が完成した和銅五年(西暦七一二年)のわずか九年後、『日本書紀』が編纂された翌年である。
 これは、皇室の求めに応じて『記紀』編纂用の史料を再提出した機会に、自分たち一族の史書を整備する意図だったのかもしれないし、また『記紀』の内容に異論があって、編纂したのかもしれない。
 おそらくこういう史料編纂は、多くの豪族が皇室の求めに応じてなしたり、また『記紀』に不満をもって独自になしたりしたであろう。
 有名なものに物部系の『先代旧事本紀』や齋部廣成(いんべのひろなり)の『古語拾遺』があるが、《籠神社》ほどの古さは珍しい。

 それから平安前期、西暦八五九〜八七六年の貞観年中になって、第三十二世の海部直田雄祝(あまべのあたいたおのはふり)が勅命をうけ、過去の史料をもとに朝廷に差し出すための自家の系図を作成し、『籠名神社祝部氏(このなじんじゃはふりべうじ)系図』と名づけて丹後の役所に提出、同時に同じ内容の副本をつくってこれにも役所の丹後國印をうけて神社に保存した。
 これが、現在まで伝世されて『海部氏系図(あまべのうじけいず)』と呼ばれている国宝である。
 しかしこの系図は各代に一人ずつの代表者だけを縦に並べた縦系図で、詳細はわからない。
 しかも、ある意図があったらしく、第四世から第十七世までが抜けている。


『卑弥呼と日本書紀441』

 この第四世から第十七世にかけての時代は、大和朝廷でいえば〈倭迹迹日百襲姫命〉や崇神天皇の時代前後に相当しているし、『魏志倭人伝』でいえば〈卑彌呼〉の時代とその前後に相当している。

 つまり、
「大和朝廷の確立期と考えられる〈卑彌呼〉や〈倭迹迹日百襲姫命〉の時代の前後数代だけが抜けている」
 ――のだ。

(これらの系図では、「X世孫」という記法が用いられている。初代の子を兒、その子を孫、曾孫を三世孫、その子を四世孫・・・という表現法である。これは昔からの一般的な用法だが本書ではいちいち孫をつけるのはわずらわしいので「第X世」とする)

 そこで第三十三世の海部直稻雄という人物が、仁和年中(西暦八八五〜八九年)に、それまでの史料をもとにして『丹波国造海部直等氏之本記(たにはのくにのみやつこあまべのあたいたちうじのほんき)』なる詳しい説明つきの系図をつくった。
 正確にはこの前に『籠名神宮祝部(このなじんぐうはふりべ)』がつく。

 これが略称『勘注系図(かんちゅうけいず)』で、そこには縦系図で抜けていた大和朝廷成立期の海部氏の先祖のこともくわしく記されている。
 また天孫降臨についても独特の物語がある。
 その内容は、『古事記』『日本書紀』などとはかなり違っていて、どちらかというと、海部氏と遠い親戚の物部一族が編纂したとされる『先代旧事本紀』に似ている。
 大和朝廷の神武天皇と張り合った〈饒速日命〉を重要視しているのだ。
 つまりこの『勘注系図』の内容は、朝廷の正史に抵触するおそれがあったため、朝廷から危険視されることを避けるために、
「秘記として他見を許さず。海神の胎内に鎮め」
 ――と子孫に命じ、神社の奥に秘匿したのである。

 この指示はじつに厳密に守られてきたらしく、著名な古文書学者もその内容を知らないできた。
 たとえば、水戸黄門で知られる徳川光圀が有名な『大日本史』の編纂を計画したとき、この『勘注系図』の存在を知って見たいと申し入れたが、《籠神社》では丁重に断ったといわれている。
 とうじの日本では将軍につぐ権力者だった光圀の依頼を断るほど、厳重に秘密を守ったのである。

 これは代々書写されて保存され、現在国宝になっているものは、江戸時代初期の写本である。この写本の残りかたや古さも、『記紀』に匹敵している。
『記紀』の写本も、現存する完全なものはやはり江戸初期に写されている。


『卑弥呼と日本書紀442』

◆◆◆『勘注系図』の内容 ◆◆◆

 以下、この注目すべき史書『勘注系図』の内容について、略述する。

〔一〕主祭神の系図

《籠神社》の主祭神で始祖の彦火明(ひこほあかり)命は、またの名を天火明(あまのほあかり)命、さらにまたの名をお馴染みの〈饒速日(にぎはやひ)命〉といい、その家系はつぎのとおりである。

    (あまのおしほみみ)
 天照大神―天押穗耳命――長男・瓊瓊杵(ににぎ)尊(*1)
           ――二男・杵火火(きほほ)置瀬命
           ――三男・彦火明(ひこほあかり)命(*2)
           ――四男・彦火耳(ひこほみみ)命(*3)
(*1)『記紀』では日向に天孫降臨し、神武天皇の曾祖父になった神。
   『日本書紀』ではこの兄弟の長男ではなく父としている。
(*2)『古事記』と『日本書紀』の一書では長男になっている。
   『古事記』では天火明命、『日本書紀』では火明命と記述。
    別名は〈饒速日命〉で物部氏や海部氏の祖神とされ、この別名のほうが有名。
(*3)『日本書紀』では彦火火出見(ひこほほでみ)尊と記述。

 この系図は、『古事記』や『日本書紀』や『日本書紀』の一書や『先代旧事本紀』と大まかには一致し、こまかな点では違っている。

〔二〕〈饒速日命〉の天孫降臨

 さて、ここから興味深い神話が展開される。
 瓊瓊杵尊が「三種の神器」を〈天照大神〉から授けられて日向の高千穂に降臨したとき、同じ天孫の〈饒速日命〉はやはり天祖神から息津(おきつ)鏡・辺津(へつ)鏡に弓矢を添えた神器を授かって丹波国――のちに丹後国になった地域――に降臨し、農業の神で〈天照大神〉の姪にあたる〈豐受大神(とようけおおかみ)〉を祀った。
 降臨した地点――瓊瓊杵尊の高千穂峰に相当する地点――は、《籠神社》から二十キロほど先にある息津島で、いまの名は冠(かんむり)島と沓(くつ)島である。
 この二島は有名な雪舟の国宝「天橋立図」の手前部分に描かれている。実際には遠方なのだが、位置を大きくずらして描いているのだ。重要な伝説の島であることを知っていたからであろう。
 またこのとき授かった神器の鏡が、本殿に伝世された図9・5の二面の「神鏡」である。

図9・5
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H95+97.htm


『卑弥呼と日本書紀443』

 そのあと〈饒速日命〉は天磐船(あまのいわふね)にのって天空をかけて河内国に降り、さらに生駒山地を磐船で越えて《大和》の鳥見白辻山に移り、そこで可美眞手(うましまで)命を生んだ。
(この部分は、丹波降臨を除けば『先代旧事本紀』とほとんど同じである。先代旧事では〈饒速日命〉は最初河内に天下り、そのあと《大和》に入る。また子ども可美眞手の名は『記紀』とも同じである。この部分はどの史書も物部系の伝承を元にしていることがわかる)
 そののち〈饒速日命〉は《大和》を神武天皇にゆずって丹後にもどり、《籠神社》の祭神となった。
《大和》を去った後の〈饒速日命〉の行方については、『記紀』など他の史書ではあいまいにされており、理屈にあう説明のあるのは、この『勘注系図』くらいであろう。

〔三〕神器の献上

 そのあと第三世つまり〈饒速日命〉の曾孫である倭宿禰(やまとのすくね)命の代になって、《大和》に進出した神武天皇に大切な神器である息津鏡・辺津鏡を献上して恭順し、重んじられた。
『記紀』や『先代旧事本紀』とよく対応し、かつ微妙に違う物語だが、代数的にはこちらのほうが合理的だといえる。
 すなわち倭宿禰命は〈天照大神〉から数えると第五世ということになるが、神武天皇もまた〈天照大神〉の五世の孫であり、同じ代の血縁なのである。
 何代も代が違う〈饒速日命〉と神武天皇とが直接交渉したように読める『記紀』よりも得心がゆく。
 この倭宿禰命は神武天皇その人と一致させる伝承もあるのだが、丹後から《大和》への道筋にはこの命に関係の深い神社がたくさんあり、古代においては、大きな存在感の一族だったことがわかる。


『卑弥呼と日本書紀444』

〔四〕朝廷提出系図では隠されていた部分

 このあといよいよ、縦系図の『海部氏系図(あまべのうじけいず)』には隠されていた、崇神天皇前後のことが記される。
 とりあえず〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉以外の件について記すと、第八世の日本得魂(やまとえたま)命のときに、〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉が〈天照大神〉を奉じて、〈豐受大神(とようけおおかみ)〉のおられる吉佐(よさ)宮に遷ってこられた。
(これは朝廷側の記録とおなじである)
 このあと記述は次第に具体的になり、第十四世は丹波国の大県主(おおあがたぬし)になり、第十六世のときに丹波国の国造(くにのみやつこ)に任じられた。広い丹波全体の統治者として、大和朝廷に認められたのだ。
 天皇の代でいうと、国々を整備されたとされる第十三代成務天皇の御代である。

 その孫が第十八世の建振熊宿禰(たけふるくまのすくね)だが、ここからは縦系図の『海部氏系図』でも隠してはおらず、各代一人ずつ正確に記入されている。
 つまり、第四世(笠水彦(かさみずひこ)命)から第十七世(明國彦(あきくにひこ)命)までが、朝廷に提出した『海部氏系図』では省略されており、それが、朝廷には見せずに「厳秘」「門外不出」とされた『勘注系図(かんちゅうけいず)』には記されているのである。
 天皇の代でいうと、推定だが、神武天皇の直後から仲哀天皇または〈神功皇后〉の時代まで――つまり大和朝廷確立期――である。

〔五〕〈神功皇后〉の遠征に従軍

 第十八世の建振熊宿禰が注目されるのは、その時代がちょうど〈神功皇后〉の新羅遠征時にあたっていて、勅命を奉じて丹波・但馬・若狭の海人三百人をひきいて従軍し、功績をあげたと記されていることである。
 有力な海洋族であったことを明白に示す記事だといえるし、〈神功皇后〉の実在性についての強力な証拠にもなりうるであろう。
 もし〈神功皇后〉が架空の存在で大和朝廷が無理に正史に記入したものだとすると、この『勘注系図』のような、朝廷に抵抗して秘匿した史書にまで記されるはずはない。
 この建振熊宿禰は『古事記』にも出ており、〈神功皇后〉が忍熊王(おしくまみこ)と戦ったとき、皇后側の武将として知略を用いて功績をあげたことが記されている。すなわち実在性はきわめてたかいといえる。
 そしてこれらの功績への褒賞として、〈神功皇后〉から「海部直(あまべのあたい)」なる姓を賜ったとされている。
 つまり、いまの県知事に相当する国造の姓(かばね)の直(あたい)は〈神功皇后〉を助けた恩賞であると、誇らしげに書かれているのだ。
 そしてつぎの應神天皇のときに「丹波直(たにはのあたい)」や「但馬直(たじまのあたい)」にもなったと記されている。


『卑弥呼と日本書紀445』

〔六〕大化改新と初代国司

 第二十四世になったとき、大化改新によって世襲の国造制度が廃止され、各国の統治者は朝廷が任命して派遣する「国司(くにのつかさ)」という地方官になった。
 そしてそれまで首長だった「国造(くにのみやつこ)」の一族は、主として、その地方の中心的な神社の宮司として祭祀をつかさどるようになった。
 祭政が分離されて、各地方の行政官は中央が任命するようになり、世襲の豪族は祭りのみを役職とするようになったのだ。
 ただし海部氏のような力のある豪族は、祭祀とともにそのまま国司にも任命されて、政治行政もまかされた。

 海部一族は祭祀者としての祝(はふり)が名前につけられ、大化四年(西暦六四八年)に〈豐受大神(とようけおおかみ)〉を祭る神社が、眞名井原(まないはら)に籠宮(このみや)としてできた。
 朝廷に正式に認められた《籠神社》の原型の誕生である。
 和銅六年(西暦七一三年)に丹後国が分離独立したが、このとき第二十五世が丹後国の初代国司となった。政治力が認められたのであろう。

〔七〕《籠神社》の正式の創建

 ついで第二十六世の海部直千嶋祝(あまべのあたいちしまのはふり)は養老三年(西暦七一九年)から三十一年間宮司の職にあったが、このとき《籠神社》に始祖神の〈饒速日(にぎはやひ)命〉を祀るようになったとされている。
〈豐受大神〉も〈饒速日命〉もずっと前から奉斎されていたのだが、この時期に神社の制度が朝廷によって明確なものとなったので、これをもって《籠神社》の正式の発足としているのである。

〔八〕『勘注系図』の編纂

 第三十三世の海部直稻雄はこの『勘注系図(かんちゅうけいず)』の編纂者であるが、系図は第三十四世にあたる子の諸茂で終わっている。
 海部家はそのあとも《籠神社》の宮司として延々とつづき、現在は第八十二世の海部光彦氏がつとめておられる。
 これは驚異的な長寿家系で、一代の平均が天皇家より長いので、今上天皇の第百二十五代にはおよばないが、古さは同じであり、天皇家以外でこの代数にくらべられるのは出雲大社宮司の千家(せんげ)氏の第八十三代くらいなものである。


『卑弥呼と日本書紀446』

〔九〕姻戚関係

 海部家はとうぜんながら古代からの諸豪族と関係が深く、天皇家に嫁いだ姫もいるし、江戸時代には徳川家に嫁いだ姫もいる。
 系図上でつながっている天皇家や物部氏以外の古代豪族としては、尾張(おわり)・安曇(あずみ)・伊福部(いほきべ)・和珥(わに)・葛城(かつらぎ)氏などがある。
 安曇氏は同一祖先を主張する海洋系豪族だし、和珥氏は前述の建振熊宿禰を祖とすると伝えられる。
『先代旧事本紀』の天孫本紀の系譜によると、〈饒速日命〉の子孫は大きく「物部氏系」と「海部+尾張+その他系」に分けられており、後者がさらに分かれて尾張氏系や海部氏系が生まれている。

 物部氏系は天皇家とさかんに婚姻関係をむすんでいてほとんど一体化しているが、分かれる前の海部氏+尾張氏系も何人かの皇后やお妃を出している。
 第五代幸昭天皇の皇后で奥津余曽の妹の世襲足媛(よそたらしひめ)命や、第十代崇神天皇の妃となって渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命を生んだ大海姫(おおあまひめ)命(別名葛木高名姫命)などがそれである。
『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』『勘注系図』を比較すると、同一名が代のちがう所にいたり、別の人物に同じ名がついていたりして整理しにくいが、何百年間もの口伝を別個の豪族たちがそれぞれ主張し記録しているのだから、あまり神経質になるのも意味がないであろう。


『卑弥呼と日本書紀447』

〔十〕海外との関係

 本書でしばしば引用した朝鮮最古の史書『三国史記』に、丹後と新羅の関係についておもしろいエピソードがあるので、記しておく。

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『三国史記』の新羅本紀に、第四代の王について、つぎのように書かれている。

「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」

「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」

「脱解尼師今が即位した〈吐解ともいう〉。王はこの時(A・D五七)、年が六十二歳で姓は昔氏、妃は阿孝夫人である。脱解王はもと多婆那国の出身で、その国は倭国の東北一千里のところにある。・・・(金思Y訳)」

(このあと、朝鮮によくある伝説として、多婆那国の王の妃が卵を産んで海に流されて生まれ、海岸に漂着した――という話がある。脱解尼師今は「とへにさこむ」で、尼師今(にさこむ)は首長といった意味。箱(船)を解いて脱出してきたので脱解という名がついたという話も書かれている。多婆那国は「たばな国」と読める)

 一方《籠神社》には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった――という伝説が残されているらしい。
 そこで、丹後と多婆那国の関係について、少し考察してみる。

 まず地理についてだが、『三国史記』には「倭国の東北千里」とある。
 倭国とは日本のことだが、弥生時代においては、北九州の国々を主として倭国(一部朝鮮半島南端部を含む)と呼んでいたようである。
 それは、『三国志』の東夷伝を読めばわかる。
 だとすると、北九州を起点にして「東北へ千里」の場所で脱解尼師今は生まれたことになる。


『卑弥呼と日本書紀448』

 北九州から見た東北の方角で、王様のいそうな場所というと、日本列島の日本海側だけである。
 で、千里とはどのくらいかというと、仮に昔のシナの里を使っていたとすると、魏の時代の里は、
「一里=435メートル」
 ――なので、
「千里=435キロメートル」
 ――となる。
 これを地図上で計ると、「鳥取から丹後のあたり」になる。
 もちろん、単に遠方という意味で千里といった可能性もあるが、概略の距離を示しているとすれば、こうなる。

 そういうわけで、丹後半島付け根の《籠神社》の伝説と合わせて、《多婆那国》=《丹後国》が暗示されて興味深い。
 もともと丹後地方は、海洋族の勢力圏で、朝鮮半島との交流があったと考えられているので、丹後の王権の王子の誰か(またはその一族)が新羅に渡った可能性は大きい。
 渡っていないほうがむしろ不思議なくらいである。

 さてつぎに、「多婆那国とは現在の丹後ではないか」という推理の根拠を、読みで示すが、その前に丹後と丹波の関係を記しておく。

 前にも記したが、現在の丹後は、かつての《丹後国》で、さらに昔は《丹波国》の一部であった。
 西暦713年に《丹波国》の(都から見て)後ろの方が独立して《丹後国》になったので、新羅云々の時代には《丹波国》と呼ばれていた。
 つまり、《籠神社》の一帯は、古代においては《丹波国》であった。

 現丹後の《丹波国》は、《伊勢神宮》の外宮の神〈豊受大神〉で知られるように、田畑に恵まれて食べ物の生産に適した地方だった。
 で、《丹波》の語源だが、もともとは田畑の豊富な場所という意味の《田庭》だったらしいと言われている。
 これも既述したことだが、以下にもう少し詳しく記す。


『卑弥呼と日本書紀449』

 国語辞書に書かれている事だが、昔の「庭」の発音は(には)で、それが省略されて「場(ば)」という言葉が出来た。
 日本語における「には」や「ば」は、仕事をする場所や家の近くの場所を意味するが、漢字の「庭」の元々の意味は祭祀の場所である。
 日本においても、神聖な場所、汚してはいけない場所をも意味していたらしい。家の近くは汚してはいけないし、仕事場は神聖だから、当然である。
 だから、こういう漢字を当てはめたのであろう。

 ところで、「には」から「ば」が出来てから、「庭」という漢字は「ば」とも読むようになった。
「大庭」「古庭」といった苗字があるが、これは「おおば」「こば」と読むことが多い。
 だから、田の庭(田庭)の意味の「たには」が省略されて「たば」になり、それが「たんば」と読まれて《丹波》という漢字で書かれるようになったといわれる。
 つまり、現《丹後国》の弥生時代の呼び名は、《田庭(たば)国》であった可能性が高いのである。

(以上は語呂合わせ的に考えた話ではない。国語の専門家によって編纂された多くの辞書類に記されていることである。この先はすこし著者の推理が入る)

 以上から、現在の丹後地方は、もと《丹波(たんば)国》であり、それはさらに前には《田庭(たば)国》と呼ばれていた――ということになる。
 さて、日本語では、多くの場合、《出雲国》は「いずもの国」、《尾張国》は「おわりの国」・・・というように、国の前に「の」をつけて発音するのが普通である。
 だから発音をきちんと書けば、《田庭国》は、「たにはの国」から庭(には)→場(ば)の変形がなされて「たばの国」(田畑のある場所)と呼ばれるようになり、さらにそれが「たんばの国」になって《丹波国》と書かれるようになったと推理できる。


『卑弥呼と日本書紀450』

 したがって、現在の《丹後地方》は、弥生時代には「たばの国」と呼ばれていた可能性が高く、それをローマ字で書くと、
『TABANO国』
 ――となる。

 ところで『三国史記』の《多婆那国》は、音で読んで「タバナ国」、ローマ字にすると、
『TABANA国』
 ――である。
 つまり、ほとんど同じ発音なのだ。

 だから、古代の新羅の人たちが、現丹後地方に対する日本人の呼び方をそのまま音写して、《多婆那国》と記した可能性はきわめて高いと思われる。

 以上のことから、新羅の第四代の王・脱解尼師今が現丹後地方出身の日本人だった可能性が考えられるのである。

(あまり言いたくはないのですが、僞史をふりまわして古代日本が半島の属国だったように言う韓国人はたくさんいるようですが、上のような史料性の高い逆の話をする日本人は見かけません)

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 本節では〈倭迹迹日百襲姫命〉について記してある箇所は後回しにしたが、次節ではいよいよその部分について解説しよう。


『卑弥呼と日本書紀451』

■■■■■ 九・八 『勘注系図』にある驚くべき〈倭迹迹日百襲姫命〉の尊称 ■■■■■


◆◆◆ 朝廷に秘匿した『勘注系図』の部分 ◆◆◆

 朝廷(丹後国の役所)に提出された『海部氏(あまべのうじ)系図』には、大和朝廷確立期にあたる崇神天皇前後からしばらくの家系が抜けており、第三世からいきなり第十八世にとんでいることはすでに述べた。
 そして興味ぶかいことに、この提出用系図に記されなかった第四世から第十七世にいたる部分が『勘注系図』には詳しく記されており、そこに〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉がいくつかの重要な別名とともに記載されているのである。

 この年代は『記紀』でいえば初代神武天皇のすぐあとから第十四代の仲哀天皇あたりまでとなるなので、そのころの天皇名がいくつも記されている。
 初代神武天皇、第二代綏靖天皇、第七代孝霊天皇(〈百襲姫命〉の父)、第十代崇神天皇、〈神功皇后〉、第十二代景行天皇、その兄で物部一族の神社《石上神宮》の初代責任者だった五十瓊敷(いにしき)命・・・などが、国風謚号(しごう)または諱(いみな)によって記されているのだ。
 海部一族は、大和朝廷と遠祖神を同一とし、かつ〈饒速日(にぎはやひ)命〉系として仕えて婚姻関係もあるので、成立期の天皇名が系図上に記されるのは自然なことである。

 さて『勘注系図』は、一代一人の提出用『海部氏系図』とはちがって、ある代に何人もの人名がならび、それに注や解説がこまかく付属していて輻輳しており、読みとるのが困難なのだが、しばらく睨んでいるとおおまかなことは分かってくる。
〈倭迹迹日百襲姫命〉に関連する重要な部分を図9・6に示しておいたので眺めていただきたい。

図9・6
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H96.htm

 まず最初に、第二十世までの歴代海部氏と、同時代と推理される大和朝廷の各代の名を、ならべて書き出してみる。
 上が『勘注系図』にある中心的人物であり、下がその時代の『記紀』による大和朝廷の代表名――主に天皇名――である。
 朝廷提出用の『海部氏系図』のほうで隠されていた代を太字で表示してある。
 なおこの一覧にいたるまでの神代系図は両者同じである。また読みの一部に著者の推定がある。


『卑弥呼と日本書紀452』

(以下のリストでは読みがなは略します。見にくくなりますので)

 始祖   彦火明命(饒速日命)   −03瓊瓊杵尊
 兒    天香語山命       −02彦火火出見尊
 孫    天村雲命        −01鵜草葺不合尊
 第三世  倭宿禰命(神宝を献上)   01神武天皇
 第四世  笠水彦命         02綏靖天皇
 第五世  笠津彦命
 第六世  建田勢命         03安寧天皇
                   04懿徳天皇
                   05孝昭天皇
                   06孝安天皇
 第七世  建諸隅命         07孝靈天皇
                   08孝元天皇
 第八世  日本得魂命(天照を奉斎)  09開化天皇
 第九世  意富那比命(姉が百襲姫命) 10崇神天皇
 第十世  乎縫命(妹が豐鍬入姫命?)
 第十一世 小登與命(御間木入彦)   11垂仁天皇
 第十二世 建稻種命         12景行天皇
 第十三世 志理都彦命
 第十四世 川上眞稚命(大縣主)    13成務天皇
 第十五世 丹波大矢田彦命
 第十六世 丹波國造大倉岐命
 第十七世 丹波國造明國彦命     14仲哀天皇
 第十八世 丹波國造建振熊宿禰    15神功皇后
 第十九世 丹波國造海部直都比    16應神天皇
 第二十世 丹波國造海部直縣     17仁徳天皇

 この対応はおおまかなものにすぎず、とくに『勘注系図』においては、同じ名が数カ所にあるなど多少混乱するが、何代も違っていることはないであろう。

 さて、『海部氏系図』で隠されていた第四世〜第十七世のなかでとくに興味ぶかいのが、第九世、第十世、第十一世の三代なので、ここにどのような人物が記されているかを書き出してみよう。


『卑弥呼と日本書紀453』

◆◆◆ 第九世意富那比命の代にいる〈倭迹迹日百襲姫命〉◆◆◆

 第九世の箇所にはつぎの兄弟姉妹がならんでいる。

  乙彦命(おとひこ/長男/亦名彦國玖琉命で孝元天皇と同名)
  日女命(ひめ/長女)
  玉勝山背根子命(たまかつやませねこ/二男)
  若津保命(わかつほ/三男)
  置津世襲命(おきつよそ/四男/尾張の祖とされる孝昭天皇皇后世襲足媛の兄と同名)
  意富那比命(おおなひこ/五男/第九世/古事記で尾張の祖)
  葛木高千名姫命(かつらぎたかちなひめ/二女/亦名大海姫/古事記で孝元天皇皇子の妃)
  (括弧のなかは系図の右ほど年長と仮定)

 この兄弟姉妹の名は聞き慣れないようだが、『日本書紀』と比較すると、似た名が似た年代にいくつも見つかる。
 これらの御子たちにはほかにも別名があるが、とくに驚くのは長女・日女命の別名である。
 一云、亦名といった書き方で記されている名前を列挙してみると、

〈倭迹迹日百襲姫命〉
〈日女命〉(これを主要名としている)
〈日神〉
〈神大市姫命〉
〈中津姫命〉
〈千々速日女命〉

 ――の六つである。
 興味津々たる名前がならんでいるので、この各別名について『記紀』との関係を調べてみよう。

(一)〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉

 いうまでもなく、第八〜十章で話題にしている、崇神天皇を助けた神子(みこ/巫女)で、〈卑彌呼(ひみこ)〉の有力候補である。世代的にも崇神天皇紀と矛盾していない。
 また長男・乙彦(おとひこ)命の別名が孝元天皇と同じなので、これを孝元天皇とすると、日本書紀の孝靈天皇の御子たちの記録と同じになる。


『卑弥呼と日本書紀454』

(二)〈日女(ひめ)命〉

 この『勘注系図』で主要名として記されているが、もちろんこれは姫(ひめ)命という神子(みこ)的な敬称をより高貴な――太陽の妻の意味をもつ――文字であらわしたものであり、本来は〈XXX日女命〉と書くべき尊称である。
 それがたんに〈日女命〉となっているのは、この女性が尊称だけで誰にでもわかるほど著名だったということを意味している。
 いま天皇といえば今上天皇をあらわしているのと同じである。

(三)〈日神(ひのかみ)〉

 これは〈日女命〉にもまして容易ならぬ別名である。
 とうぜんながら日神祭祀・太陽祭祀を連想する名で、「太陽神」という意味である。
 すでに記したが、歴代天皇名ですら、「神」なる文字が使用されているのは神武天皇、崇神天皇、應神天皇の三天皇のみであり、また皇后では〈神功皇后〉のみである。
 それが、天皇でも皇后でもない女性に対して、太陽の神という〈天照大神〉なみの別格の尊称を与えているのだ。

(四)〈神大市姫(かみおおいちひめ)命〉

〈倭迹迹日百襲姫命〉の《箸墓》の場所の古代の名が大市(おおいち)であることが『日本書紀』に記されており、宮内庁の正式の名も《大市墓》なので、この名は謚号として理解できる別名だが、頭に「神」がつけられている点が印象的である。
 神代を除くと、こういう種類の名はほとんど見られない。神代では素戔嗚尊が出雲で娶った姫の名として神大市比賣がでてくるが、これは神の娘である。つまりこの〈神大市姫命〉も、じつに神代的な名なのである。

(五)〈中津姫(なかつひめ)命〉

 この名は『記紀』には探せなかったが、水流や港を連想させる名で、水郷だったと想像されている《大和》の貴人にふさわしい。


『卑弥呼と日本書紀455』

(六)〈千々速日女(ちちはやひめ)命〉

 この名も高貴な印象を与えるが、『古事記』において、孝靈天皇の皇女で〈倭迹迹日百襲姫命〉とは母違いの姉妹として出てくる千々速比賣命と同名である。
 だから錯覚があったのかもしれないが、逆に『古事記』のほうが違っていて〈倭迹迹日百襲姫命〉と同一人物なのかもしれない。
 文字で注意をひくのは、姫や比賣ではなく日女という特別な文字をあてていることである。
 また、「千々速」が〈百襲姫命〉の『日本書紀』の別名にある「迹速」を連想させることも注意をひく。

 いずれにせよ、『日本書紀』とこの『勘注系図』を合わせた〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名は、
「一皇女にしては、偉大すぎる」
 ――のである。

(七)他の兄弟姉妹

『勘注系図』にある〈百襲姫命〉の妹は葛木高千名姫(かつらぎたかちなひめ)であるが、これは『日本書紀』にある妹の倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)命や『古事記』にある妹の倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)とはかなり違っているので、別の伝承なのであろう。
 男の兄弟も『記紀』と一致していないことから、〈倭迹迹日百襲姫命〉の兄弟姉妹について、『記紀』とはかなり違った饒速日系独自の伝承があったことが推定できる。
 ところで葛木高千名姫という名は『古事記』の第八代孝元天皇のところに出ている。すなわち孝元天皇の皇子のひとりの比古布都押之信(ひこふつおしのまこと)命が尾張連(おわりのむらじ))の祖の意富那毘(おおなひ)の妹の葛城之高千那毘賣(かつらぎのたかちなひめ)を娶った――とあるのだ。
 これが同一女性とすると、〈倭迹迹日百襲姫命〉の妹が天皇の皇子と結婚したことになる。
 また『勘注系図』でも『先代旧事本紀』でもこの姫の別名は大海姫(おおあまひめ)とされ、だとすると前出の崇神天皇の妃で、日本大国魂神の祭祀を命じられた渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命を生んだ尾張大海姫ということになる。
(『先代旧事本紀』での名は葛木高名姫命)
 もしそうだとすると、崇神天皇は〈倭迹迹日百襲姫命〉の義理の弟ということになる。
 ズバリ『魏志倭人伝』の「男弟」そのものになるのだ!


『卑弥呼と日本書紀456』

◆◆◆ 第十世乎縫(おぬい)命の代にいる〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉◆◆◆

 ここには次の兄弟姉妹がならんでいる。

 安波夜別命(長男)
 伊岐志饒穗命(二男)
 宇麻志饒田命(三男)
 小止與命(四男)
 大原足尼(五男)
 乎縫命(六男/第十世)
 大倭姫命(長女)

 ここで注目すべきは大倭姫命で、別名としては〈倭迹迹日百襲姫命〉の姪として何度か記した孝元天皇の皇女〈倭迹迹姫命〉があげられている。
 このほか崇神天皇の皇女の〈豐鍬入姫命〉も別名として記されている。
 そしてすこし前の部分に、この大倭姫が崇神天皇の御代に〈天照大神〉の祭祀を司り、亦名倭迹迹日女命千々姫、亦云豐鍬入姫である――と記されている。
 皇女名の混乱があるのかもしれないが、これが『記紀』の〈豐鍬入姫命〉を示している可能性はきわめて高く、だとすれば〈百襲姫命〉の姪ということになる。
 まさに『魏志倭人伝』の「宗女臺與(とよ)」そのものである!


『卑弥呼と日本書紀457』

◆◆◆ 第十一世小登與(おとよ)命の代にいる〈倭姫命〉◆◆◆

 この代には、第九世についで注目される名がある。

 阿多根命(長男)
 建稻種命(二男)
 小登與命(三男/第十一世)
 日女命(長女)

 このなかで建稻種命は第十二世の名であるが、これは意見が複数あって混乱したのかもしれないし、じっさいに兄弟が後継者になったのかもしれない。兄弟の継承は古代の天皇家でもありふれたことであった。
 第十一世となった小登與命もほとんど同じ名が第十世の兄弟にあるが、この小登與命は、「草薙剣」を祀って熱田神宮を創建した尾張一族の第十一世の当主・乎止與命または小豊命(おとよのみこと)と同一と考えられる。
『先代旧事本紀』にも第十一世として記されている。
 つまり尾張一族と海部一族とが同一の系譜上にあることになる。
 熱田神宮の伝承では、この乎止與命の子の建稻種命(たけいなだねのみこと)が日本武尊を助けて奮戦したとある。

 小登與命は第十一世であるが、その別名に御間木入彦(みまきいりひこ)とあるのが注目される。
 これは崇神天皇の国風謚号――または諱/実名――である〈御間城入彦〉と同一である。
 したがってこの小登與命が崇神天皇その人である可能性も無いではないが、不明確である。
 第八章に記したように、《三輪山》の語源譚に糸巻に三巻残ったので三輪と名づけたという話があるので、三輪はミマキとも発音したと想像でき、したがって「ミマキイリヒコ」とは、入り婿婚を示す以外に、《三輪山》の麓に入ってきた高貴な男性をあらわすとも解釈できる。

 そして海部氏の第十一世にもこの名がつけられているということは、「ミマキイリヒコ」が普通名詞に近い使われ方をしていて、外部から《三輪山》近くにやってきた何人もの貴人がそう名乗っていた可能性を示している。
 そう仮定すると、『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》の副官・彌馬升(みましょう)や彌馬獲支(みまかくき)(第三章参照)の「ミマ」が「ミマキイリヒコ」に近い名前だった可能性が強まる。
 外部から三輪山麓に来た要人たちのおおくが「ミマキイリヒコ」を名乗り、そのあとにつく言葉で区別したのかもしれない。
 崇神天皇の場合は「ミマキイリヒコ」の次に五十瓊殖天皇(いにえのすめらみこと)という典雅な尊称をつけて、天皇であることを明確にしている。


『卑弥呼と日本書紀458』

 さて、最後にならんでいるのが、問題の日女命である。
 きわめて高貴な女性であることは間違いないのだが、『日本書紀』で誰に相当するのだろうか?
 第九世の日女命は〈倭迹迹日百襲姫命〉であることが明瞭に記されていて『日本書紀』との対応がとれるのだが、ここの日女命はどうなのだろう。
 この命には、数多くの別名が注記されていて、やっかいなのだが、わかりやすい名のみを書き出してみよう。

〈日女命〉(これが主要名)
〈稚日女命〉
〈小豐姫命〉
〈豐受姫命〉
〈倭姫命〉

 このうち〈稚日女(わかひめ)命〉は、〈倭迹迹日百襲姫命〉である〈日女命〉の後継者であることが、かなり明確な名である。そして、たんに若い日女命で通じたということは、別格の著名人であったことを意味している。
 つぎの〈小豐姫(ことよひめ)命〉と〈豐受姫(とようけひめ)命〉は、『魏志倭人伝』における〈臺與(とよ)〉を連想させる名である。
 またさいごの〈倭姫(やまとひめ)命〉は、〈天照大神〉を《伊勢神宮》に祀った初代斎王の名そのものであり、『記紀』と比較して世代的にも矛盾はない。
 このいくつかの別名でおもしろいのは、第九世の〈日女命〉の後継者である〈稚日女命〉が「トヨ」という別名をもち、そして『記紀』における名が〈倭姫命〉だということである。
 つまり、〈天照大神〉の祭祀を途中で降板した〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉と同じように、〈倭姫命〉も「トヨ」とも呼ばれていた可能性がある――ということである。
(ちなみに〈稚日女命〉は〈天照大神〉の娘または妹とされる〈稚日女尊〉と同名である)


『卑弥呼と日本書紀459』

 だから、〈豐鍬入姫命〉と〈倭姫命〉の両者が『魏志倭人伝』の〈臺與〉の候補になりうることになる。
 ただし年代的には〈豐鍬入姫命〉のほうが矛盾がすくないように思える。
 もちろん『勘注系図』の記法にはあいまいなところがあるので、これ以上議論をすすめるのは危険である。

**********

 前節の〔九〕に記したように海部+尾張氏の系統は〈饒速日命〉系といっても物部氏とは別であるし、大和朝廷を別の角度から見たものでもない。
 したがって系図をまともに解釈すれば、『勘注系図』の〈倭迹迹日百襲姫命〉や〈豐鍬入姫命〉や〈倭姫命〉は『日本書紀』のそれとは別の人物である。

 しかし崇神天皇の前後に偉大な女性が存在したという記憶が天皇家と海部氏の双方にあり、それが同一人物なのに天皇家では神託を述べる直系の皇女とし、海部一族では日神と尊称すべき自分たちの先祖であると信じていたことは十分にありうる。

 海部+尾張氏系も大和朝廷と婚姻関係を結んでいるので、〈倭迹迹日百襲姫命〉が双方の血縁であっても、すこしも不思議ではない。
 しかし、『日本書紀』と『勘注系図』とでは違いも多いので、もし正否を争ったら海部氏は朝廷に滅ぼされるかもしれない。
 だから海部氏の先祖は『勘注系図』を秘匿したのだろう――とも考えられるのである。

 次節のいくつかの推理は、この両方の〈倭迹迹日百襲姫命〉が同一の女性であると仮定したうえでのものである。


『卑弥呼と日本書紀460』

■■■■■ 九・九 『勘注系図』と〈卑彌呼〉についての二、三の推理 ■■■■■


 本節では、ここまでの数節で述べた《籠神社》や『勘注系図』をもとにして何が考えられるかを、とりあえずまとめてみたいが、その前に『先代旧事本紀』において〈倭迹迹日百襲姫命〉の時代に何が記されているかについて触れておく。
 そこにもまた、じつに興味ぶかい系図があるのだ。


◆◆◆『先代旧事本紀』に記された〈倭迹迹日百襲姫命〉◆◆◆

『先代旧事本紀』は『記紀』よりすこしあとの時代に海部氏とおなじく〈饒速日命〉を祖とする物部系の人たちが、大和朝廷の正史『記紀』に不満をもって編纂したと伝えられている。
 この史書には『勘注系図』によく似た場面が多いのだが、最初から公開を目的として書かれているため、崇神天皇の時代の話は『勘注系図』ほど露骨ではない。
 しかしじつは、同じ〈日女命〉がちゃんと記されているのだ。図9・7にその部分を掲載した。

図9・7
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H95+97.htm

 これは、『先代旧事本紀』の古い研究書『國造本紀考』の尾張氏系図の部分で、〈饒速日命〉から数えて十三世くらいまでは『勘注系図』とよく対応しており、海部氏は物部とは遠い親戚、尾張とは近い親戚であることがわかる。〈日女命〉の部分もそうで、

 弟彦命     → 乙彦命
 日女命     → 日女命
 玉勝山代根古命 → 玉勝山背根子命
 若都保命    → 若津保命
 置部與曽命   → 置津世襲命?
 彦與曽命    → 意富那比命?
 否井命     → ?

 ――のように対応している。


『卑弥呼と日本書紀461』

〈日女命〉の別名については、『勘注系図』のようなくわしい説明がないが、それは朝廷にも見せる史料だったからであろう。
 とにかく、「ヒメミコト」のみで通じる偉大な女性が崇神天皇の時代前後に活躍していたという記憶が、『勘注系図』の編者だけではなく、『先代旧事本紀』の編纂者にもあったことは間違いない。
 そしてその〈日女命〉が〈倭迹迹日百襲姫命〉である可能性はきわめて高く、さらに当時のシナの使者によって〈卑彌呼〉と記録された可能性もまたきわめて高い。
『勘注系図』も『先代旧事本紀』も〈饒速日命〉を祖と考える人たちが編纂したことから、〈倭迹迹日百襲姫命〉への崇拝は〈饒速日命〉と関係しており、その系列の氏族に伝承されていたと推理できる。

 さて本題にはいって、『勘注系図』と『記紀』を比較したときすぐに脳裏にうかぶいくつかのことを、記してみよう。


◆◆◆『勘注系図』と『記紀』の比較から推理できること ◆◆◆

〈一〉〈天照大神〉の尊称との類似

『勘注系図』にある〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名を見たとき、最初に頭に浮かぶのは、もちろん、〈天照大神〉である。
〈天照大神〉は『古事記』では〈天照大御神〉または〈天照大神〉として出てくるが、『日本書紀』の神代紀では、

「(伊弉諾尊・伊弉冉尊が)是に共に日神を生む。大日靈女貴(おおひるめのむち)と号す。一書に天照大神という」

 ――とある。
 つまり伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊が生んだのが日神で、その正式名が大日靈女貴、別名が〈天照大神〉だというわけである。
 一般名を除いて、〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名と対照してならべると、

〈大日靈女貴〉→〈日女命〉
〈日神〉   →〈日神〉
〈日女命〉  →〈日女命〉

 ――となる。


『卑弥呼と日本書紀462』

 つまり、〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名は、〈天照大神〉の別名とそっくりなのである。
〈天照大神〉が日神祭祀の対象であり、日神すなわち太陽神そのものだったことは明かだが、それと同じ名をつけられた〈倭迹迹日百襲姫命〉も、『勘注系図』の編者にとっては、太陽の妻(日女命)であるとともに、日神であり、したがって太陽神でもあり、たぶん日神祭祀を司った貴人として記憶されていたのであろう。
 これは重要な対照関係である。

〈二〉史実の推理

〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉は《三輪山》の〈大物主(おおものぬし)神〉の神託をのべただけではなく、日神祭祀もつかさどって大和朝廷を指導し、〈日神〉〈日女命〉〈神大市姫命〉などと尊称されていたが、崇神天皇の力が強まってからは、大和朝廷の祖神で太陽神の〈天照大神〉を、〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉に奉斎させ、日神祭祀の中心を《三輪山》の〈大物主神〉から神殿の〈天照大神〉に移した。
『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼〉の死後の混乱や〈臺與(とよ)〉の後継による終息は、そのときの、

「《三輪山》〈大物主神〉派」
   対
「朝廷祖神〈天照大神〉派」

 ――の軋轢と解決を物語っている。
 そしてこの軋轢は、大和朝廷と〈饒速日(にぎはやひ)命〉系との勢力争いでもあった。
〈臺與〉という後継者名は、〈豐鍬入姫命〉の略である。
 シナ史書では、日本名が極端に縮めて記載されることは、倭の五王の所でも記したとおりである。

 もうひとつ面白い対応がある。
 それは、『魏志倭人伝』の卑彌呼には夫がいないが、『記紀』や『勘注系図』の〈倭迹迹日百襲姫命〉にも夫がいない事である。


『卑弥呼と日本書紀463』

〈三〉『記紀』編者の立場

『記紀』の編者は崇神天皇の業績と〈豐鍬入姫命〉による〈天照大神〉奉斎を物語の中心にすえる必要上、〈倭迹迹日百襲姫命〉についての〈日神〉などの尊称を記さず、日神祭祀を連想させない別名のみを記し、予言や神託は記しても、日神祭祀に関することは記さなかった。
(これは有名な原田大六の考え方に近い)

〈四〉『勘注系図』の編者の立場

〈倭迹迹日百襲姫命〉を崇敬する〈饒速日命〉系の海部氏は、この『記紀』の内容に不満をもって『勘注系図』を編纂し、〈日神〉〈日女命〉〈神大市姫命〉といった別格の尊称を明記した。
 しかし大和朝廷に提出する『海部氏系図』ではその時代の前後を隠して記さず、かつ、明記した『勘注系図』は秘匿するよう子孫に厳命した。
 似た立場の物部氏も『記紀』に不満をもって『先代旧事本紀』を編纂してそれを記したが、公開の書だったために、〈倭迹迹日百襲姫命〉の箇所に単に〈日女命〉とのみ記し、あいまいな形にした。

〈五〉〈天照大神〉との関係

 人々が〈倭迹迹日百襲姫命〉を〈日神〉と尊称したのだとしたら、それは〈天照大神〉とおなじくらい偉大だと考えていたからだと推理できる。
 これとは逆に、〈天照大神〉を〈日神〉としたのは、〈倭迹迹日百襲姫命〉への崇敬を大和朝廷の先祖神に移行させる意図によるものかもしれない。
 この考え方からすると、西暦二四七年や二四八年に日本列島上で生起した日蝕による騒乱が、〈倭迹迹日百襲姫命〉=〈卑彌呼〉の死をもたらし、そのことが神代における〈天照大神〉の岩屋隠れの伝説を生んだとも推理できないことはない。


『卑弥呼と日本書紀464』

〈六〉〈卑彌呼〉なる名の由来

〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめみこと)〉がたんに〈日女命(ひめみこと)〉と呼ばれていたとすれば、それは末尾の尊称だけで話が通じるほど偉大で人々の記憶にのこる別格の存在だったからである。
 そして、〈日女命〉は〈卑彌呼〉(ひみこ、または、ひめこ)とほとんど同じ発音であり、『魏志倭人伝』の記述は、当時の《大和》の人たちの言葉をほとんどそのまま音写していたことになる。

〈七〉『勘注系図』の信憑性

 神社にのこされた古文書には偽書も多いといわれる。
 しかし前述のように『勘注系図』は、科学的鑑定法が高度化した戦後の専門家によって厳格な審査をうけ、その結果が認められて国宝に認定された文書である。
 したがってその信憑性はきわめて高い。
 また、〈卑彌呼〉とは誰なのか、《邪馬台国》とはどこなのか――といった議論は明治中期以降に盛んになったものだから、この『勘注系図』の編者や書写の主はそのような議論が後世になされるだろうなどとはまったく考えておらず、したがって特定の意図をもって〈日女命〉や〈日神〉を創作したとは、とうてい考えられない。
 だからこれは、『記紀』より古くから饒速日(にぎはやひ)系の氏族に伝えられ、信じられてきた史話そのものなのであろう。

**********

 おおまかにいって、『勘注系図』について以上のようなことが考えられるが、これらはあくまでも一つの「推理」であり、そういう可能性もあるだろう――ということである。

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 については、このあとさらに第十章でその傍証を記すことにしたい。


『卑弥呼と日本書紀465』

■■■■■ 九・十 「三種の神器」の謎について ■■■■■


 これまで数回にわたって「三種の神器」の話がでてきた。
 これは名前はとても有名だが、その歴史や意味については、あまり知られていない。戦後の歴史教育が軽視したからである。
 そこで、いくつかの資料をもとに、
「「三種の神器」とは何か」
「その歴史はどうなのか」
「それは現在どうなっているのか」
 ――について、簡単にまとめてみたい。

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(以下の解説は簡略化してあるので、より厳密で詳しいことは、拙著『皇統の危機に思う(栄光出版社)1600円』を参照されたい)
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「三種の神器」とは、つぎの三種の神宝である。

「三種の神器」(またはミクサノカンダカラ)
 「神鏡」=「八咫鏡(やたのかがみ)」
 「神剣」=「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」
 (はじめは「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」といわれた)
 「神璽」=「八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
 (「八坂瓊の五百箇御統(いおつみすまる)」ともいわれる)

 鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、とくに天皇家に永く継承されている「三種の神器」は、太陽神で日本全体の祖神というべき〈天照大神〉の時代に端を発し、それが現在まで――精神としても物としても――伝えられているものであって、日本の歴史において特別重要な意味をもっている。


『卑弥呼と日本書紀466』

◆◆◆「三種の神器」の由緒 ◆◆◆

 第六章に記したが、高天原において、素戔嗚(すさのお)尊の乱暴に悩んだ〈天照大神〉が天の岩屋にお隠れになったとき、困った神々が岩屋の前に天香具山の聖木・榊を立てて、上部に「神璽」をかけ、中ほどに「神鏡」をかけたのが、この二つが歴史に出てくる最初である。

「神鏡」である「八咫鏡」の咫は手指をひろげた長さとされるが、ここでの意味は大きな立派な神鏡ということであり、伊斯許理度賣(いしこりどめ)命がつくったとされる。鏡をつくる職人集団・鏡作部の祖神である。

「神璽」と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,のような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖(たまのおや)命と呼ばれる職人集団の祖神である。
 家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々が立てた、鏡と勾玉をかけた神木を模したものである。

「神剣」は、やはり第六章で述べたとおり、高天原から追放された素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、その尾のなかから出てきた霊剣で、それを和解した〈天照大神〉に献上したものである。
 これについては、出雲の豪族が帰順のしるしに大和朝廷に献上したのだという解釈もある。
 神棚の向かって左の眞榊にこの「神剣」を模した剣がかけられている。

〈天照大神〉は、天孫の瓊瓊杵(ににぎ)尊が高天原から日向の地に降臨するにさいしてこの「三種の神器」を授け、とくに「神鏡」については、

「これを自分(御霊代/みたましろ)だと思って祀るように」

 ――と教えた。
 このため「三種の神器」のなかでも「八咫鏡」は別格の存在として扱われてきている。


『卑弥呼と日本書紀467』

◆◆◆「三種の神器」の神社への奉斎 ◆◆◆

「三種の神器」は瓊瓊杵尊から神武天皇まで引き継がれ、神武天皇が即位してからは、ずっと皇宮に祀られてきた。
 しかし第八章に記したように、第十代崇神天皇の御代に、大和朝廷に大きな変化がおこり、「神鏡」と「神剣」を〈豐鍬入姫命〉が斎王としてあずかって、皇宮外の神社に奉斎することになった。
 この神社は〈豐鍬入姫命〉から〈倭姫命〉にかけて何カ所も遷ったが、第十一代垂仁天皇の御代に《伊勢神宮》の内宮――皇大神宮――におちついた。

 このうち「神剣」は、つぎの第十二代景行天皇の御代になって皇子の日本武尊が東国遠征の途についたとき、〈倭姫命〉から授けられ、火攻めにあったときに草を薙いで一行を助けたため、「草薙剣」と命名された。
 日本武尊は《大和》に帰ることができずに悲運の死をとげるが、そのとき剣がおかれていた近くに熱田神宮ができ、剣はそこに祀られた。
 熱田神宮の場所は、昔尾張国だった名古屋市内であるが、そういう関係でこの「神剣」の管理は尾張一族がおこなうことになった。
 尾張氏は〈饒速日命〉の子孫だが、天皇の先祖と争った一族の子孫が責任者になったのはおもしろい。

《伊勢神宮》は二十年ごとにすべてを作り直す式年遷宮――前回は平成五年でつぎが平成二十五年――がなされるが、そのときは、本殿だけではなく鳥居や橋や古代から伝わる神宝類や装束類も、同じ形のものをつくりなおす。その数は数万点にもおよぶと言われる。
 このときにトキの羽が必要なのでトキの絶滅が大問題になっているのだ。
 ただし「八咫鏡」だけは――当然のことではあるが――絶対に直視することなく、新しく造られた御樋代に奉安され、それがさらに御船代と呼ばれる容器に奉安されて、厳粛な儀式によって新殿に遷される。

 熱田神宮の話をくわしくするゆとりはないが、境内二十万平米、摂末社四十四、年間一千万の参拝者で賑わう巨大な神社で、「神剣」のほかにも数々の神宝をもち、国宝二十七、重要文化財七十六、県指定文化財五十三を数えるという、文化財の宝庫でもある。
 図9・8に、熱田神宮の写真を示した。

図9・8
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H98-102.htm


『卑弥呼と日本書紀468』

 さて、崇神天皇の御代に「神鏡」と「神剣」が神社に遷されたわけだが、このとき、似た鏡と剣をつくって御霊代とし、それを皇宮に置くことになった。
 したがってそれ以後、皇宮には、新たにつくられた「神鏡」と「神剣」と、そして元来の「神璽」とが、奉安されることになった。
 これもやはり「三種の神器」と呼ばれており、天皇の代がかわるときに引き継がれるのは、こちらのほうの神器である。
 以後、説明の便宜上、皇宮に残された「三種の神器」を「神鏡」「神剣」「神璽」と記し、伊勢神宮と熱田神宮に奉斎されたほうを「八咫鏡」「草薙剣」と呼ぶことにする。


◆◆◆「三種の神器」の皇居における奉安の場所 ◆◆◆

「神鏡」は新造とはいってもやはり別格であるため、平安時代からは温明殿などの別殿を造営して奉安し、みだりには動かさないことになった。これは内侍(女官)がつかさどるので内侍所と呼ばれた。明治以後は賢所と呼ばれるようになった。
 この「神鏡」を祀る賢所と、神々を祀る神殿と、歴代天皇の霊を祀る皇霊殿が、いわゆる宮中三殿であり、天皇皇后両陛下はこの三殿への拝礼を毎日欠かさない。

 一方「神剣」と「神璽」は、はじめは「神鏡」のそばにあったが、近世以降は天皇皇后が日常お暮らしになる場所のそばに「剣璽の間」をもうけて、そこに奉安しお守りなさることになり、それは今に続いている。
 そして、つねに天皇とともにある――という大原則によって、行幸のさいには、「剣璽」も同行(ご動座)されるのがきまりになっている。
 ただし賢所の「神鏡」は別格なので不動である。


『卑弥呼と日本書紀469』

◆◆◆ 剣璽等承継の儀 ◆◆◆

 皇居内の「三種の神器」は、天皇の代がかわれば、とうぜん新しい天皇がそれをひきつぐ。皇位の継承にともなって神器も相承されるのだ。
 ただ、その方法は時代によって変化してきた。
 豪族が割拠していた大化改新の前までは、践祚時に有力氏族の代表が「神鏡」と「神剣」をいったん預かって、あらためて新天皇に献上する儀式があった。
 これは、新天皇を豪族たちが認めたことを証明する重要な儀式だった。
 ただし「神璽」は内侍が皇居内に奉斎したままだったらしい。
「神鏡」→「神剣」→「神璽」の順に格付けされていたことがわかる。

 大化改新以後は、祭祀職の忌部(齋部)氏が鏡剣献上を役職としておこなうようになった。忌部氏はのちに、同じ祭祀職の中臣氏に圧せられたことを無念に思って、有名な『古語拾遺』を編纂したといわれる一族である。

 この鏡剣献上の行事は平安時代になって、践祚時ではなく大嘗祭(ダイジョウサイ)――新天皇の最初の新嘗祭――における行事にかわったが、平安初期に踐祚と即位が分離してからは「剣璽渡御の儀」が成立する。
 これは践祚にさいして、「神鏡」は別扱いにして「神剣」と「神璽」を新天皇が承継する儀式で、ここではすでに豪族による献上の儀式は影がなくなっている。
 そして、もっとも重要な「神鏡」は、温明殿などの別殿に奉安したままで動かさないことになった。

 この「神剣」「神璽」継承の儀式は、いまでは「剣璽等承継の儀」とされ、今上天皇が即位されたときも、憲法に定める国事行為としておこなわれた。
 このとき今上天皇が承継されたのは、「神剣」「神璽」のほかに天皇の印章である「御璽」と日本国の印章である「国璽」であった。
 そして同時に今上天皇は、「神鏡」が奉安されている賢所へ、このことを奉告する儀式をなされた。
〈天照大神〉の御霊である「神鏡」は、まったくの別格扱いなのである。

 以上が、古代から連綿として実質二千年もつづく「三種の神器」の継承である。
 もちろんこの長さは、世界に類例がない。
 あるイギリスの貴族が、かつてこの連綿たる長さを知って感激して、百二十四代すべての天皇名を暗記して朗詠したというエピソードがある。


『卑弥呼と日本書紀470』

◆◆◆ 神宮における「八咫鏡」と「草薙剣」の危機 ◆◆◆

 祭政一致の古代においては、神器は政争の的でもあって、その継続には困難があったが、神社に奉斎されてからのそれは、昔の木造建築なので火事は当然あったけれども、人為的な問題では、皇居内の神器ほどの苦難には遭っていない。
 しかしそれでも、危機は何度かあった。
 とくに熱田神宮の「草薙剣」は、つぎのようなきわどい被害にあっている。

〔一〕
 天智天皇七年(西暦六六八年)、日本に来ていた新羅の沙門道行が、「草薙剣」を神宮から盗んで帰ろうとした。しかし海が荒れて帰れず、大阪湾で降参した。このとき道行が盗んで通った清雪門という神社内の門は、不吉だというのでずっと開かずの門とされている。

〔二〕
 この事件は朝廷でも問題となり、事故再発を防ぐために皇居に置くことになった。しかし天武天皇のご病気の原因がこのことだとの説が出て、さらに神宮側の懇望もあって、天武十三年(西暦六八六年)に返却がきまり、その年の十二月に熱田神宮に戻った。

〔三〕
 神宮の火事は何度もあったらしいが、鎌倉時代の西暦一二九〇年に社殿が焼けたとき、火のなかから「草薙剣」を助け出す様子を、ここで奉仕していた貴人の娘が日記に書き残している。
 それによると、幅一尺長さ四尺の漆の箱のなかに、赤地の錦の袋があり、「神剣」そのものは見えなかったが、その袋の中にあったという。
 見ることは絶対に許されない神器なので、これはじつに貴重な記録である。

〔四〕
 江戸も幕末になった西暦一八三九年に、賊が神社に入って「草薙剣」を奪って逃げた。賊は即日捕らえられ、剣は無事だったが、これに懲りて神殿を改造した。


『卑弥呼と日本書紀471』

〔五〕
 大東亜戦争の末期になった昭和二十年の三月と五月、東京大空襲と同じ時期に、焼夷弾で神宮に大被害が出、本殿の主部だけかろうじて残った。
 このころから神社をねらい打ちに爆撃するという蛮行がなされだしたので、本殿を解体して隠した。
 それから岐阜県の神社の境内に地下の熱田神宮をつくるという計画ができたが、これは実行しないうちに終戦となった。
 米軍の進駐にさいしては、万一を考えて、「草薙剣」を飛騨の水無神社に隠し、のちに仮殿をたてて奉斎した。

〔六〕
 昭和三十年になって、信者の寄付と《伊勢神宮》の古殿の用材によって、本殿の再建がなり、正式に遷宮して、現在にいたった。

 戦後の混乱期には、米軍の神社への無理解によって、ほとんどの神社の鎮守の森が失われ、パリなど欧米の大都市に劣らなかった東京など大都市の緑地比率が、大幅に縮小してしまった。
 もともと神道は諸宗教を超越した日本独自の習俗なので、神社の境内は、信教とは無関係に誰でも入れる場所であり、公園と同じ役目を果たしていたのだが、それが米軍によって潰されたのだ。

 一方《伊勢神宮》のほうは、さいわい熱田神宮ほどの混乱はなかったようだが、それでも皇室の力が弱まった時期には、遷宮もままならず、正殿も古びてしまって危機に瀕した時期もあったらしい。むろん火災もあった。
 またもちろん、終戦前後には、一宗教法人になってしまったために、やはり遷宮もままならない時代があり、熱心な人たちの協力で、やっと今日の姿に復旧した。
(なお例外的な事件として、雄略天皇の御代に、皇女で斎王の稚足姫が男関係を讒言されて悲嘆し、「八咫鏡」を地面に埋めて自害した。これは『日本書紀』にも記されている重大事件だったが、幸いにもまもなく発見されている)


『卑弥呼と日本書紀472』

◆◆◆「八咫鏡」と「草薙剣」の実体 ◆◆◆

 つぎに「八咫鏡」と「草薙剣」の実体であるが、これは眼で見てはいけないことになっているので、公式的には分からない。
 しかし、いろいろなことから、おおまかな推定はついている。
 伊勢内宮の「八咫鏡」は、厳重な器に入れられて、内宮本殿の中に、人間が夜寝るのに近い形で奉安されている。
 この器を御樋代といい、さらにそれは御船代という器に奉安されている。

 式年遷宮の際にその器を交換する儀式があるのだが、江戸時代のある神職が、その儀式のとき、眼をつぶったままで入念に触り、それを記録に書き残した。
 それによると、直径が二十センチほどの凸面鏡で、中心に紐を通す輪がついており、裏には同心状の唐草模様のような模様があったらしい。
 この大きさは、《籠神社》に伝世されている息津鏡の大きさに似ている。

「草薙剣」についても、江戸時代にひそかに見てしまった人の記録があり、それによると鉾のような形(諸刃の直刀)だとされている。
 大きさや昔の容器は、先に述べた鎌倉時代の女性の貴重な日記で判断できるが、さらに終戦時に岐阜県に疎開したときに神職が袋の上から捧げ持った感触では、長さ六十センチほどの諸刃の銅剣らしいという。

 もちろん「三種の神器」の科学的な意味での本当のことはわからないが、弥生〜古墳時代の遺跡から多数出土する鏡、剣、勾玉を代表する宝であることはまちがいない。


『卑弥呼と日本書紀473』

◆◆◆ 皇居内の「三種の神器」の苦難 ◆◆◆

 一方皇居内の神器は、政争や戦乱にも巻き込まれて、神宮の神器にくらべて、はるかに大きな苦難の連続だった。
 ざっと列記してみよう。

〈一〉
 「神鏡」は、村上天皇の西暦九五七年や一條天皇の西暦一〇〇五年など平安中期から何度となく火災にあって、そのつど修復したが、灰燼とはならず、かろうじて形を保った。

〈二〉
 安徳天皇の西暦一一八五年、長門壇ノ浦の源平合戦に巻き込まれた形で、わずか七歳の安徳天皇が海に沈んだが、このとき「三種の神器」も動座して船上にあった。
 幼年の安徳天皇を抱いて身を投げたのは、平清盛の妻で天皇の祖母にあたる二位尼だが、そのとき彼女は「神剣」を腰につけ「神璽」の御箱をかかえていた。
「神璽」は軽くて箱に入っていたので入水ののち浮き上がり、源氏によって拾われたが、「神剣」は重くしかも腰につけていたため浮かばず、のちに源氏兵士が必死に捜索したが見つからず、行方不明のままとなった。
 一方「神鏡」は御乳母の大納言佐殿が櫃ごとかかえて海に入ろうとしたが、源氏の矢で衣が船に縫いつけられて果たさず船上に残った。
 源義経はこれを丁重に扱って、後に「神璽」とともに宮中に戻した。
 このとき、「神璽」の箱を見た女官がおり、それによると二段の箱に八つの宝玉が見えたという。
 これは今も宮中に奉安されている。


『卑弥呼と日本書紀474』

〈三〉
 この事件で「神剣」が失われてしまったので、仮の宝刀で一時をしのぎ、しばらくして《伊勢神宮》が新たに剣をつくって朝廷に献上した。
 朝廷ではこれを新たな「神剣」とした。これが現在の皇居に奉安されている「神剣」である。
 したがって皇居内に現存する「三種の神器」のうち「神剣」がいちばん製作の年代が新しいのだ。
 なお、熱田神宮の「草薙剣」の大きさは前述したが、皇居にある「神剣」も、これとほぼ同じ大きさらしい。
 今上天皇即位のおりの「剣璽等承継の儀」のお写真にある、捧げ持たれた「神剣」の袋の大きさから、そのように推量されるのである。

〈四〉
 南北朝時代には北朝が偽神器をつくったと伝えられるなど、いろいろと危機がつづいたが、結局は北朝が受け継いで危機を脱した。

〈五〉
 南北朝が合一してから三代目にあたる北朝系の後花園天皇の西暦一四四三年に、南朝の後裔たちが京都の御所に乱入し、宮殿を焼いて「神剣」「神璽」を奪って延暦寺に立てこもったことがあった。
 しかしすぐに一党は討伐されて、神器はぶじ皇居に戻った。

〈六〉
 それ以後も危機はしばしばあったが、なんとかもちこたえ、大東亜戦争末期の空爆にも耐え、終戦のおりの危機も忠臣たちの涙ぐましい努力によってくい止めた。
 そして神器も皇統も主要な神社も絶えることなく、平成の御代につづいている。
 いまも今上天皇・皇后両陛下は、「三種の神器」への祈りを欠かさない。
 また神々や皇霊への祈りも欠かさない。
 さらには主要な神社や御陵への御拝もなされておられる。
 政府の信じがたい無情な判断によって靖国神社への御拝が中断しているだけである。

**********

 以上概説した「三種の神器」は、もちろん考古学的な研究対象ではないので、注意していただきたい。
 そうではなくて、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などを共有するわれわれ日本民族の心の歴史なのである。


『卑弥呼と日本書紀475』

◆◆◆「三種の神器」の精神的な意味 ◆◆◆

 さいごに、国史家・田中卓や哲学者・長谷川三千子の論説をもとにして、「三種の神器」の精神的な意味に触れておく。

 南北朝時代の南朝の支柱となった忠臣・北畠親房は『神皇正統記』を著したが、そのなかで、『記紀』の記述をもとにして、

  「神鏡」・・・正直の本源(日の體)
  「神璽」・・・慈悲の本源(月の精)
  「神剣」・・・智慧の本源(星の氣)

 ――としている。
 つまり天皇は「三種の神器」によって、正直と慈悲と智慧の心を承継するのである。

 江戸時代になると、水戸学の泰斗である藤田東湖は、やはり『記紀』の記述をもとに、天皇の役割を、

  「蒼生安寧」

 ――としている。
 蒼生とは四書五経にある言葉で、人民とか百 姓とかいった意味である。
 人民も百姓も『記紀』に出てくる言葉で、今でいえば国民であるが、『記紀』ではこれを「オオミタカラ」つまり「大御宝」と称し、宝物であると認識していた。

 つまり、

「天皇とは「三種の神器」を先祖から受け継ぐことによって、宝物である国民の安寧を成就するように正直と慈悲と智慧をもって政治(祭祀や行政)を行うことを義務とする存在」

 ――なのである。

 権力者が自分の支配下の人々を「至高の宝」としてその安寧を願うというこの考えは、世界の古代史においてきわめて珍しい。
 日本の大和朝廷独自の平和思想である。
 近世以降は祭政がほぼ分離したので、天皇皇后両陛下の主要な役割は行政から離れて「祈り」となった。
 ふだんほとんど報道されないが、今上天皇皇后も連日祈っておられ、また全国の神社や陵墓をめぐって祈りを捧げつづけておられる。


『卑弥呼と日本書紀476』

 元東大教授兼白山神社宮司で『少年日本史』で知られる碩学平泉澄の名とともによく語られる「皇国史観」という言葉がある。
 これは、

「日本とは「三種の神器」を継承した万世一系の天皇を中心とする「神々の国」である」

 ――という考え方で、その内容は、前述のように、正直・慈悲・智慧の象徴である「三種の神器」を守って、蒼生(国民)の安寧を祈り続ける天皇を中心(象徴)として、先祖や自然や芸術(これらのすべてが神々)を大切にする国だ――という史観のことである。

「皇国史観」という言葉そのものは、戦前や戦中にはほとんど使われなかった。
 平泉澄にしても、「皇国史観」という言葉を使った論文を書いたことは一度もない。あたりまえの考え方だからである。
 これは戦後に左翼組織が天皇への不当な指弾のためにプロパガンダ用語として使ったために、有名になると同時に誤解が拡がってしまった。
 しかしその実質は以上のようなことであって、本来的に悪い意味はまったくないのである。

 なお「天皇制」という言葉も、ソ連共産党が指導するコミンテルンが創作し、大正十二年に日本に輸出してきたプロパガンダ用語である。
 目的はもちろん日本崩壊で、日露戦争に破れて日本・朝鮮・滿洲などを植民地にできなかったことへの報復であった。
 だから戦前にはほとんど使用されず、戦後になって左翼勢力がさかんに悪用したのである。

(この節の頭にも記したが、以上の「三種の神器」の話はかなりはしょっているので、できれば拙著『皇統の危機に思う(栄光出版社)』を参照されたい)

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 以上、この第九章で述べたのは、主として文献史料による、

「《邪馬台国》大和説」
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――の検討だった。
 つぎの章では、地形や考古学的な立場から、これらの説の信憑性について検討してみよう。


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