■□■□■『卑弥呼と日本書紀』第四版 第八章(オロモルフ)■□■□■


『卑弥呼と日本書紀308』

 これから第八章に入る。。
 これまで『魏志倭人伝』の概要や論争の歴史について記し、そして、「《邪馬台国》大和説」における〈卑彌呼〉の主要な候補として、
〈天照大神〉説
〈神功皇后〉説
 ――について記してきた。
 本連載は冒頭に目次を記したように、第十章までだが、あとの章が長いので、ここまでで約半分となる。
 つまりこれから後半に入るが、後半のほとんどは、第三の説である〈倭迹迹日百襲姫命〉説に関連している。
 わたしは、「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」に傾いているが、それは、平成に入ってからの考古学の発展が、それを支持しているように思うからである。
 九州説か大和説かについての議論は長く続いてきたが、現在、専門の考古学者のなかに九州説はほとんどいなくなったと言われている。
 しかし、断言してしまうのは非科学的であろう。
 現時点で知られている文献史料と考古学史料を総動員しても、言えるのはせいぜい「可能性が高い」というところまでだと思う。


■□■□■ 第八章 〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉が活躍する崇神天皇(すじんてんのう)の時代 ■□■□■


味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈 い積るまでに・・・
〔額田王/天智天皇(万葉集17)〕
「奈良の山の端に隠れてしまうまで、道の曲がり角が重なるまで、三輪山を見ていたいのに・・・。(味酒は三輪にかかる枕詞)」

三輪山の 山辺真麻木綿(やまべまそゆふ) 短木綿(みじかゆふ) かくのみゆゑに 長しと思ひき
〔高市皇子尊(万葉集157)〕
「三輪山の山辺にかけた麻や木綿、その短い神事の幣帛のように、かくも短い命であったのに、私は長いものだと思っていたことだ。(大友皇子の妃十市皇女を想っての歌ともいわれる)」

いにしへに ありけむ人も わが如か 三輪の檜原に 挿頭(かざし)折りけむ
〔柿本人麻呂歌集(万葉集1118)〕
「むかしの人たちも、いまのわれわれがしているように、三輪の檜原で檜の枝葉を髪にかざしていただろうか」


『卑弥呼と日本書紀309』

■■■■■ 八・一 大和朝廷の実質的な創始者? 第十代 崇神天皇の即位 ■■■■■

◆◆◆ 三輪山麓に進出した大和朝廷 ◆◆◆

 第十代の崇神天皇は、大和朝廷の歴代天皇のなかで、もっとも興味ぶかい存在である。
 天皇家が崇敬した日本最古の神社は、《大和》の代表的な聖山《三輪山》そのものを祀る《大神(おおみわ)神社》であるとされ、また〈天照大神〉を祀った最古の神社は三輪山麓の《檜原神社》だとされているが、その重要な《三輪山》の麓に初めて皇宮をかまえたのが、この崇神天皇だからである。

 歴代天皇の皇宮は、奈良時代までその多くが、奈良盆地南東地域の《大和》にあったが、第九代までは一定せず、神武天皇の橿原以後、川沿いだったり山際だったり、金剛山地の山麓だったり、点々としていた。
 その理由としては、皇后の出身豪族の本拠地を皇宮としたためだ――一種の婿入り婚――という説明がよくなされている。

 その真偽はともかくとして、それまで代ごとに遷っていた皇宮を三輪山麓の狭い意味での《大和》に落ち着かせたのが、第十代崇神天皇であり、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇と、三代にわたってそれはつづく。

 第十三代以降は、成務・仲哀という地味な天皇が大津とか朝鮮半島遠征に便利な土地などに宮をかまえ、そして半島遠征に成功した〈神功皇后〉にいたって《大和》へ凱旋して、《三輪山》や橿原に近い場所に宮をかまえたことは、前章で述べたとおりである。

 このような皇宮の変遷からみても、《三輪山》に皇宮を持った三代の天皇の事績を振り返ることは――大和朝廷の歴史を探る上で――きわめて重要である。
 奈良に落ち着くまでの《大和》の歴代天皇の皇宮のおおまかな位置を、図8・1に示した。

図8・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm


『卑弥呼と日本書紀310』

 図5・3にある大和湖をとりまく形で歴代の皇宮が存在していたことがわかる。
 この地図からも、三輪山麓にはじめて進出した崇神天皇の重要性が読みとれるであろう。

図5・3
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

 しかも、その皇宮の近くには、

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――の根拠のひとつとされる《箸墓(はしはか)》が存在し、かつ、纒向(まきむく)遺跡と呼ばれる〈卑彌呼〉の時代の広大な遺跡が存在しているのだ。


◆◆◆ 第十代 崇神天皇の物語(1)――重要な尊称「御肇國」―― ◆◆◆

 国風謚号 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)
     (尊称 御肇國天皇/はつくにしらすすめらみこと)
 漢風謚号 崇神天皇(すじんてんのう)
〔在位・西暦前九七年〜前三〇年〕
〔降誕・西暦前一四八年/崩御・西暦前三〇年〕*
〔皇宮・磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)(奈良県桜井市金屋――三輪山麓南西部)〕
〔御陵・山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)(奈良県天理市柳本町――三輪山麓北部)〕
 *崩年干支推定は西暦二五八年/二七一年

 尊称の「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」は、読みも意味も神武天皇の尊称である「始馭天下之天皇」とほとんど同じで、はじめて国を治められた天皇――ということである。
 このような特別な尊称で讃えられている天皇は、長い日本の歴史のなかでも、初代の神武天皇と第十代のこの崇神天皇と、二代だけである。もしいまこういう尊称を考えるとすれば、これに明治天皇が加わるだろうといわれている。

 このことからもその存在の大きさがわかるが、さらに漢風謚号に「神」という文字がついていることも注目される。
 これは多くの神々をはじめて祀ったという事績からきているとされ、日本の神社の祖ともいわれているが、こういう別格の文字がつく謚号は、神武と應神とこの崇神および〈神功皇后〉の三天皇一皇后のみである。


『卑弥呼と日本書紀311』

 また應神天皇紀や神功皇后紀と同じく、その前の天皇紀が短いのに、とつぜん長く詳しくなっている。
 仮に岩波の日本古典文學大系の『日本書紀』でみると、初代神武天皇とこの崇神天皇の間にある八代の天皇紀が平均二頁しかないのに、崇神天皇になるととつぜん十八頁にもなり、さらに次の垂仁・景行と増え、そのあと成務・仲哀でふたたび激減し、そして先に述べた神功・應神・仁徳の話題性豊かな長尺ものとなる。
 こういう『記紀』の記述だけから見ても、この第十代崇神天皇の物語はきわめて重要で、なにか重大な謎が隠されているように思えるのだ。

 崇神天皇は先代の開化天皇の第二子にあたり、母親は孝元天皇のお妃でもあった開化皇后で御名を伊香色謎(いかがしこめ)命ともうされ、〈饒速日(にぎはやひ)命〉の五代目の子孫――すなわち物部氏の先祖――である大綜麻杵(おおへそき)の娘とされている。
 ちなみに、この皇后がお妃の時代に生んだのが、武内宿禰(たけうちのすくね)の祖父だと伝えられている。
 この婚姻譚は、〈饒速日命〉系の豪族から皇后や妃を得て政権を安定させようとする大和朝廷の政策を物語っていて、興味ぶかい。

 このような出自をもつ崇神天皇は、十九歳で皇太子になったが、若くして気宇壮大で、神々を崇め、天下を治めようとしておられた――と記されている。
 こういう誉め言葉も第三代から第九代まではでてきていない。
『日本書紀』としても久しぶりの持ち上げぶりなのである。
 なお崇神天皇在位期間の実紀年であるが、これは三世紀前半(または半ば)から後半にかけて――つまり〈卑彌呼〉の晩年や若い〈臺與〉と重なる――だと推理されており、その根拠については、第八〜十章、とくに第十章においてくわしく述べる予定である。


『卑弥呼と日本書紀312』

▽崇神天皇元年(西暦前九七年)
 〔天皇と同名皇后の謎〕

 正月――
 開化天皇が春日率川宮(かすがいざかわのみや/現奈良市内)で崩御された翌年の一月十三日に、天皇の位につかれた。

 二月――
 十六日に、御間城姫(みまきひめ)をたてて皇后とされた。
 この皇后は御名が天皇の実名・御間城入彦(みまきいりひこ)とほとんど同じである。
 皇后の名につく「姫」は高貴な女性(日女)という意味であるが、「入彦」とは、女性の家に入り婿をした高貴な男性といった意味ともされる。
「彦」はそれ自体で高貴な男性(日子)という意味をもっている。
 このことから、女性の家に婿に入る形をとった当時の婿入り婚姻形態と、夫婦一対となって政治を司る「彦姫制」が想像できる。
 そしてこれは、『魏志倭人伝』にある女王〈卑彌呼〉とそれを補佐する男弟王との関係をも暗示している。
 古代の日本において、そのような社会風習があったのであろう。

 天皇の名「御間城入彦」の意味については、御孫からきたという説が昔からある。
 しかし他にも有力な意見がいくつかあり、とくに「三輪山麓にはじめて入った高貴な男性」という意味だろうという説が魅力的である。
 これについては後述する。

 皇后・御間城姫は次代の垂仁紀によると大彦(おおひこ)命の娘であるが、この命は第八代孝元天皇の皇后が生んだ長男なので、磯城(しき)地方の豪族と〈饒速日(にぎはやひ)命〉すなわち物部系と両方の血をひいており、弟に開化天皇、妹に第二章に記した〈倭迹迹姫(やまととひめ)命〉がいる。
 この姫命は問題の〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉と同一人物、またはその姪とされている謎の女性である。
 また大彦命の母親、すなわち孝元皇后の鬱色謎(うつしこめ)命は〈饒速日命〉の子孫とされており、やはり物部系の一人である。
〈饒速日命〉の子孫の物部一族がいかに深く大和朝廷に入り込んでいたかがわかる。

 さてこの皇后・御間城姫は皇后になる前にすでに六人の皇子皇女を生んでおられ、その筆頭がつぎの代の垂仁天皇である。
 また紀伊国から来た妃の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)は二人の御子を生んだが、その一人が後に重要な仕事をして、『魏志倭人伝』の〈臺與(とよ)〉ではないかとされる〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉である。
 つぎの妃の尾張大海姫(おわりのおおあまひめ)は、三人の御子を生んだが、そのうちの一人が、やはり重要な仕事をする渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命である。
(大海姫の謎については第九章に記す)

 すでにこのあたりで、崇神天皇の周辺には、〈倭迹迹日百襲姫命〉にごく近い血縁がずらりと並ぶ。
 そして崇神天皇ご自身、この〈倭迹迹日百襲姫命〉を大叔母または叔母と仰ぐ血縁なのである。


『卑弥呼と日本書紀313』

■■■■■ 八・二 崇神天皇の《三輪山》進出と苦難のはじまり ■■■■■


◆◆◆ 第十代 崇神天皇の物語(2)――大国難と神社の創建―― ◆◆◆

▽崇神天皇三年(西暦前九五年)
 〔いよいよ三輪山麓に進出〕

 九月――
 この年の秋、九月に、皇宮を磯城(しき)と呼ばれる《三輪山》の南西山麓の一隅――現在の桜井市金屋のあたり――に遷した。これを磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)という。
 先代の開化天皇はなぜか一時《大和》の地をはなれて現在の奈良市内に皇宮をもっていたのだが、崇神天皇になって《大和》に戻り、かつそれまで大和朝廷の皇宮のなかった三輪山麓に進出したのだ。
 図5・2、5・3、7・7、8・1などを参照していただきたいのだが、このあたりは古くから《三輪山》を崇拝してきた三輪一族がいると同時に、大和朝廷一族やそれに従う大伴一族の勢力圏であり、さらに物部一族の圏内でもあった。

 第六章で述べたように、元来物部の先祖〈饒速日(にぎはやひ)命〉の方が先に《大和》に来て多くの土地を制圧していたのだから、とうぜん物部の勢力圏でもあったことが推理されるのだ。
 そしてこの磯城はまた、第二代の綏靖(すいぜい)天皇から第七代の孝靈(こうれい)天皇まで六代の天皇の皇妃を連続して出した場所でもあった。
 また初代神武天皇と第十代崇神天皇の皇后も磯城――の北部の――出身ということができる。
 すなわち婚姻を通じて大和朝廷になりきってしまったといっていいほど、関係が深い場所だったのだ。
 婚姻によって土地の有力者や他の豪族を次々に身内にしてゆく大和朝廷の政策がよくわかる。


『卑弥呼と日本書紀314』

 この磯城(しき*)の行政上の首長である磯城県主(しきのあがたぬし)は、第六章に記したように磯城の南の磐余(いわれ)の元首領の弟磯城(おとしき)で、神武天皇の東征に協力したので論功行賞にあずかった人物である。
 したがってとうぜん、旧支配者の〈饒速日命〉=物部一族とも関係が深かったであろう。
 もう一つ面白いのは、崇神天皇の皇宮があったとされる磯城の一角に古くから伝わる地名の金屋(かなや)で、鍛冶神が金屋子神といわれるように、この金屋は金物すなわち鉄器を製造する人たちが多くいた場所ではないかと想像されていることである。
 事実、この地からは古代の鉄屑が大量に発掘されている。
 良質な鉄製の武器や農具を持つことは、この時代の権力者の必須の条件であった。

 後述するようにこのあたりからは砂鉄や鉄鉱石が産出するが、そのほかに宝玉の産地でもあったらしい。
 また、図8・1の南東端の宇陀(うだ)山地からは、朱の原料となる硫化水銀鉱石が採れた。
 朱は古代においてもっとも貴いとされ、珍重された色で、奈良盆地の前期古墳からは、数多くの朱で塗られた遺物が出土している。

図8・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

 つまり古代天皇家にとってきわめて重要な産物を多く出す土地に、崇神天皇は皇宮をかまえられたのである。

(*磯城とは、丈夫な石の城といった意味らしい)


『卑弥呼と日本書紀315』

▽崇神天皇四年(西暦前九四年)
 〔日本初の施政方針演説〕

 十月二十三日――
 この日、即位の詔勅、すなわち施政方針演説をおこなう。
 おおまかに記すと、

「わが皇祖たちが政治をおこなってきたのは、
 一身のためではなく、人と神を治め天下を
 治めるためであり、徳を天下に広めてこら
 れた。
 いま自分がその皇位を継承して、国民を恵
 み養うことになった。いかにして皇祖の志
 を継ぎ、永遠の皇統を保てばよいだろうか。
 群臣よ、天下を平安にするために忠誠をつ
 くし、協力してほしい」

 ――といったような意味で、このような大所高所に立った演説は、『記紀』としても珍しい。
 わが国最初の本格的施政方針演説である。
「人と神を治め」の原文は「司牧人神」で、人と神が並記されている。注目すべき点である。

▽崇神天皇五年(西暦前九三年)
 〔襲いかかる疫病の大苦難〕

 施政方針は良かったのだが、現実はきびしく、この年に疫病が大流行して、国民の半分以上が死亡してしまった。
 とてつもない大苦難が襲ったのだ。
 この疫病流行は、人口が一箇所に集まりはじめたために、病気が伝染しやすくなったり、汚物の堆積によって衛生状態が悪くなったりしたことと関係しているのであろう。
 悪性の伝染病だったと推理される。


<余談――
 崇神天皇の話をえんえんとしておりますが、従来の歴史書では、崇神天皇の説明はあまり多くはありません。
 戦前の教科書やその系統の書物(小学国史、高等小学国史、白鳥庫吉先生の昭和天皇へのご進講(日本史)、平泉澄先生の少年日本史などなど・・・)には、四道将軍や元伊勢の話など、多少は出ていますが、大きな章にはなっていません。
 戦後になりますと、昭和21年に文部省が出した「日本の歴史」をはじめとして、ほとんど無視です。大和朝廷を意図的に無視したからです。現在では、扶桑社教科書にも崇神天皇の名は見あたらず、明成社の高校用教科書にわずかに出ている程度です。
 戦後の歴史家の書いた啓蒙書で、崇神天皇に力点を置いているのは、肥後和男先生(肥後先生は皇族への国史の御進講をなさった碩学です)の諸作が代表的ですが、主流ではありません。
 しかし、次第に崇神天皇の御代に興味を持つ人が増えているように思えます。その最大の理由は、ここ数十年の考古学の大きな進展です。とくに纒向遺跡の発掘調査の進展や遺跡の年代を調べる「年輪年代法」の確立が大きいと思います。大和朝廷=日本という国家の成立の根源が、崇神天皇の眠る纒向遺跡に隠されているように思えてなりません。わたしのそのような感覚が、現在のこの連載で崇神天皇紀を強調している理由です>


『卑弥呼と日本書紀316』

▽崇神天皇六年(西暦前九二年)1
 〔〈天照大神〉を初めて神社に祀る〕

 この年も苦難はつづき、国民は流離し、なかには朝廷に背くものも出てきた。
 天皇は早朝から深夜まで政務にはげみ、天地の神々に祈ったが、効果がなかった。
 そこで、それまで皇宮の中に奉祀していた〈天照大神〉と〈倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ)〉の二神を――天皇と同所では畏れおおいとして――別に神域をもうけて祀ることにした。
〈天照大神〉はもちろん天上界におられる大和朝廷の最高の先祖神だし、〈倭大國魂神〉は《大和》の土地を鎮護する神でかつ〈大國主神〉の荒魂でもあるとされる。
 つまり、天津神と國津神(後述)の代表神を、皇宮とは別の神聖な斎場に奉祀することにしたのだ。
 そして、その奉祀の責任者として、〈天照大神〉には皇女の〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉を、〈倭大國魂神〉にはやはり皇女の渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命を定めた。
 このとき、〈豐鍬入姫命〉は使命を果たしたが、渟名城入姫命は髪が落ち身体がやせ細ってうまく祀ることができなかった。
 なお、豐鍬入姫命は紀伊国出身の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)がお生みになった皇女、渟名城入姫命は尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)がお生みになった皇女である。
 二人とも、大和朝廷の周辺を支配していた古代の代表的な豪族の娘と天皇との間に生まれた貴人である。

 使命を果たしたほうの〈豐鍬入姫命〉が奉祀したのが、わが国最高の神社、伊勢神宮の内宮――皇大神宮――のはじまりである。
 ご神体は、〈天照大神〉が「自分と思え」として皇孫に授けられた「八咫鏡」と「草薙剣」であるが、これら神器については後述する。
 場所は最初は伊勢ではなく、《大和》の笠縫邑(かさぬいのむら)とされ、現存する《檜原(ひばら)神社》の境内だったと考えられている。
 そしてその後《大和》内やその周辺を点々とし、奉祀の役も他の皇女に代わり、次代垂仁天皇の御代に最終的に伊勢に落ち着いたのだが、落ち着く前に点々としていた多くの神社を「元伊勢」と呼んでいる。


『卑弥呼と日本書紀317』

 つまり《檜原神社》は最初の「元伊勢」という栄誉を担っているのだ。
 さて、その場所だが、それは《三輪山》の西側山麓で、地名も檜原(ひばら)と呼ばれている。
 昔は檜原を含めて北西山麓一帯を笠縫邑(かさぬいのむら)と称していたらしい。
 広壮な拝殿周辺の写真を図8・2に示した。
 また大体の位置は、図8・5の左側や図8・13の中央部に示してある。

図8・2
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

図8・5
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H84-85.htm

図8・13
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm

 この《檜原神社》は正一位官幣大社《大神神社》の摂社の形をとっているが、数多い摂末社のなかでも別格で、本殿をつくらず《三輪山》を背にした拝殿があり、三ツ鳥居という通常の鳥居を三つ重ねた独特の鳥居をもち、さらに柱の間に注連縄をはって鳥居の役をする注連柱をもっている。
 これは日本最古の神社とされる本社の《大神神社》とまったく同じ古式であり、いかに重要視されてきたかがわかる。

 現在の社殿類は近年再建されたものだが、古い伝承にしたがって造られていて雰囲気は荘重である。また広い境内には、末社のひとつとして、はじめて奉祀の役を果たした〈豐鍬入姫命(とよすきいりひめ)〉をまつる豐鍬入姫宮もつくられている。

 またこの姫命の御墓は、やはり三輪山麓のホケノ山古墳(図8・13)だ――という伝承が昔からある。
《箸墓》のすぐそばである。


『卑弥呼と日本書紀318』

 真偽のほどはわからないが、〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉は、『魏志倭人伝』において〈卑彌呼〉のあとを継ぐ〈臺與(とよ)〉かもしれない――といわれている皇女なので、その御墓も重要である。

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――と、年齢的にも役柄的にも矛盾が無いのだ。

《伊勢神宮》はとくべつな神宮であるが、長年、皇室から未婚の皇女が派遣されて、神事の役につく習慣があった。
 この役のことを、伊勢の斎王(いつきのみこ)または斎宮(いつきのみや)、または御杖代(みつえしろ)という。
 伊勢に落ち着いてからの初代斎王は次代垂仁天皇の皇女〈倭姫(やまとひめ)命〉であるが、真の初代はこの〈豐鍬入姫命〉だったとされている。
《檜原神社》のことは後に再度記す。

▽崇神天皇六年(西暦前九二年)2
 〔〈倭大國魂神〉を《大和神社》に祀る〕

 他方、渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)が〈倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ)〉を祀った神域は、いまでは官幣大社《大和(おおやまと)神社》と呼ばれており、図8・13にあるように《三輪山》からはすこし離れた天理市にある。
 しかし創建のころはもっと《三輪山》に近かったらしい。
 大市の里と呼ばれた《箸墓(はしはか))》の近くだったとされている。
 つまり《大和》そのものといえる場所の神社である。
 拝殿の写真を図8・3に示したが、ここもまた広い境内をもち、拝殿は勇壮な雰囲気をもっている。

図8・3
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

 藤原氏が権力をにぎるまでは、《伊勢神宮》とならぶ広大な社領だったらしい。


『卑弥呼と日本書紀319』

 この神は《大和》の土地の神として、大和朝廷が進出する前から土地の人々の信仰を集めてきたのではないかと考えられているが、〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉はうまくいったが、こちらを奉祀する筈の渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命が病気で――たぶん多くの国民がかかったのと同じ疫病で――うまくいかなかったという伝承は、土地の神と朝廷の先祖神との相克を暗示しているようでもあって興味ぶかい。

 ちなみに、有名な戦艦大和の艦内にあった大和神社は、この《大和神社》の御分霊である。

 なお主神の〈倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ)〉のほかに八千戈(やちほこ)神と御年(みとし)神が祭神となっていて、このうち八千戈神は〈大國主神〉の分神である。
 もともと〈倭大國魂神〉は〈大國主神〉の荒魂という伝承があるのだが、この八千戈神からも、《大和》の土地の神が出雲の神の影を映していることがわかる。

 一般に神々を祀る祭祀をおこなった記録は、神武天皇のころにもあるが、それらは斎場を半永久的に固定したり祭りの日を定めたりしたものではなかった。
 神域を定めて本殿や拝殿で祈る神社形式での奉斎の記録は、この崇神天皇紀が最初であり、したがって《檜原神社》と《大和神社》は、記録にのこる日本最古の神社ということができる。

 ただし《三輪山》それ自体の山腹にあった斎場は、他の場所へ移るものではなかったから、それを一種の神社とすれば、《大神神社》は崇神天皇のはるか前から――すくなくとも弥生時代から――あったといえる。
 前にも記したが、一般に日本の古い神社の大元は縄文時代からと考えられる。祈りに使ったらしい縄文土器が発掘されるからである。


『卑弥呼と日本書紀320』

■■■■■ 八・三 崇神天皇を教え導いた〈倭迹迹日百襲姫命〉の神託 ■■■■■


◆◆◆ 第十代 崇神天皇の物語(3)――《大神神社》創建説話―― ◆◆◆

▽崇神天皇七年(西暦前九一年)1
 〔〈倭迹迹日百襲姫命〉による神託〕

 二月十五日――
〈天照大神〉や〈倭大國魂神〉を皇宮外に祀ったけれども、この年になっても疫病はやまず混乱はいっこうに収まらない。
 そこで崇神天皇は、

「自分の代になって災害がおこるのは、神々のお咎めであろう。それがなぜなのかを、占いたい」

 ――との詔勅を出して、神浅茅原(かむあさじはら)に神々を集めて占った。
 この原は《三輪山》の西側山麓一帯で、図8・13でいうと《檜原(ひばら)神社》と《大神(おおみわ)神社》の間にあたる場所とされている。現在も茅原という地名で呼ばれている。
 こうして占っていると〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉に神が憑依して、

「もし私を祭るならば必ず天下は平穏になるだろう」

 ――と告げる。
 いずれの神でしょうか、と天皇が問うと、

「倭国の内にいる神、名を〈大物主(おおものぬし)神〉という」

 ――と答えた。

<このあと、『魏志倭人伝』に対応可能な重要な記述がつぎつぎにあらわれる>


『卑弥呼と日本書紀321』

 いよいよここで、〈卑彌呼〉の有力候補〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉が出現する。
 しかも天皇への神託を述べる神子(巫女)としての登場である。
 この神託の場面の『日本書紀』の記事を、図8・4の(a)に示した。

図8・4
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H84-85.htm

 崇神天皇はさっそく祭祀をおこなったが、効果がないので、さらに斎戒沐浴して祈ると、夢に〈大物主(おおものぬし)神〉があらわれて、

「わが子の大田田根子(おおたたねこ)に私を祀らせれば、世は平穏になるだろうし、海外の国もなびくだろう」

 ――といわれた。
〈大物主神〉が何かについてはあとでくわしく述べるが、とにかく〈倭迹迹日百襲姫命〉の背後にこの神がついているのだ。

▽崇神天皇七年(西暦前九一年)2
 〔大田田根子の出現〕

八月七日――
 倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかむあさじはらまぐわしひめ)・大水口宿禰(おおみなくちのすくね)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人が同じ夢をみて、天皇に、

「昨夜の夢に貴人があらわれて、大田田根子に〈大物主神〉を祀らせ、市磯長尾市(いちしのながおち)に〈倭大國魂(おおくにたま)神〉を祀らせれば、かならず天下は太平に なるだろう――と告げられました」

 ――と奏上した。
 この三人の筆頭の目妙姫(まぐわしひめ)とは、〈倭迹迹日百襲姫命〉その人である。
 神浅茅原で神託を告げたのでこの名で呼ばれたらしい。


『卑弥呼と日本書紀322』

 天皇はただちに大田田根子(おおたたねこ)を探したところ、すぐに見つかった。
 たずねると、

「父は〈大物主(おおものぬし)神〉、母は活玉依媛(いくたまよりひめ)です」

 ――と答えた。
 父が〈大物主神〉というのは、要するにこの神に関係の深い有力者ということである。
 母親は、一説では《三輪山》の祭祀土器を製作する一族、または三輪産の酒を入れる陶器の産地の一族だという。

 活玉依媛という母の名は神霊が憑く媛という意味で、神につかえる巫女をあらわしている。同じ名が神代紀の豐玉媛の妹にもあり、巫女を示す普通名詞でもある。
 大田田根子という名の末尾の「根子」は、第七代孝靈・第八代孝元・第九代開化の三代の古代天皇、また後の天皇の国風謚号にもついている尊称の一種で、「その地域の基礎をつくった人」という意味があるらしい。
 天皇以外の地方の豪族の名につくこともある。
『魏志倭人伝』にある伊都(いと)国の官名の爾支(にき)はこの根子(ねこ)のことだといわれている。

 つぎに「大田田(おおたた)」だが、一説によると田田は祟りのタタで、神の出現を意味するのだという。
 また別説では、呉国から渡来した一族の子孫が大田の地に住み、太陽神を信仰したとされる。
 しかし、大田田はもともと奈良盆地の《三輪山》からすこし離れたところの地名で、そこを治める首長が尊称の根子をつけて大田田根子と呼ばれたのだろう――という説が、なっとくしやすい。
 大田+田+根子 という解釈も可能だと思うが、素人考えにすぎない。
 いずれにせよ、稲作を連想させる名である。


『卑弥呼と日本書紀323』

▽崇神天皇七年(西暦前九一年)3
 〔日本中に神社を創建〕

 この大田田根子(おおたたねこ)の出現を喜ばれた天皇は、物部一族の祖のひとり伊香色雄(いかがしこお/崇神天皇の母伊香色謎(いかがしこめ)命の弟)に祭具をつくるよう命じ、奉斎の準備を進めた。
 一方《大和神社》の宮司となる長尾市(ながおいち)は倭直(やまとのあたい)の祖といわれ、さらにその遠祖は神武天皇を瀬戸内海で案内した椎根津彦(しいねつひこ)といわれている。
 東征の功労者の子孫を名乗る人たちを要職につけたことがわかる。
 朝廷に協力した有力者たちの顔をまんべんなく立てているのだ。

 十一月十三日――
 こうした準備ののち、祭具を調達して、大田田根子に〈大物主(おおものぬし)神〉を奉祀させ、長尾市に――病気の渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命のかわりに――〈倭大國魂(やまとのおおくにたま)神〉を奉祀させ、さらに多くの神々を祀った(*)ところ、ようやく疫病は途絶え、国は平穏となり、五穀豊穣となった。
(*この話に関連するが、「崇神天皇の御代に創建」とされる神社が日本中にたくさんある。著者が住むある市の近くにも二つもある)

▽崇神天皇八年(西暦前九〇年/三一年)
 〔《大神神社》での神事〕

 四月十六日――
 高橋邑(たかはしのむら)といういまの天理市にあった場所に住む活日(いくひ)を選んで、〈大物主神〉に御神酒を捧げる職とした。
 これが、日本酒の造り酒屋で古くから活躍する杜氏(とうじ)の祖神伝説である。
 三輪山麓が酒の生産地でもあったことと関連しているらしい。


『卑弥呼と日本書紀324』

 十二月二十日――
 天皇が大田田根子(おおたたねこ)に命じて〈大物主(おおものぬし)神〉の祭祀をおこなった。
 そして《大神(おおみわ)神社》の社殿で神事の酒盛りをし、活日(いくひ)らが歌を詠みかわした。
 活日が天皇に神酒を献上したときに詠んだ歌は、酒造関係では有名で、

「この神酒(みき)は わが神酒ならず 大和なす
 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久」

 ――といったものであった。
 天皇もお喜びになり、徹夜で酒盛りをした。

 この神酒の話のなかで、三輪の社殿とか三輪君といった言葉がはじめて出てきて、〈大物主神〉が《三輪山》の神であり、社殿がその山麓にある《大神神社》の拝殿であり、そして大田田根子が三輪一族であることが記されている。
 三輪一族は、実際には弥生時代から《三輪山》の山麓に住んでいたと思われるが、こういった神事をきっかけにして大和朝廷との関係を深めたのであろう。

《三輪山》=〈大物主神〉を朝廷が丁重に祀ったのは、三輪一族を味方につける方策であったろう――という推理は、多くの学者が述べている。
 三輪氏は長く天皇の側近として仕え、〈神功皇后〉の三韓征伐や白村江の大会戦に従軍したり、壬申の乱で天武天皇の側で活躍したりした豪族で、後々まで《三輪山》周辺を本拠としていたとされている。

▽崇神天皇九年(西暦前八九年)1
 〔武具奉納のはじまり〕

 三月十五日――
 天皇の夢に神人があらわれて、二柱の神に武具を奉って祀りなさいといわれた。
 四月十六日――
 この教えどおりに、指定された場所(大和の周辺)に神を祀り、武具を奉納して、国の安全を祈った。
 これは、武具によって神を祀り、武運を祈る日本で最初の神事とされている。


『卑弥呼と日本書紀325』

 ところで『日本書紀』には、〈大物主(おおものぬし)神〉が《三輪山》の神であり《大神(おおみわ)神社》がそれを祈る拝殿であることの記述が、わずかしかないが、それは『記紀』編纂時の日本人にとっては、説明するまでもない当たり前のことだったからであろう。
 いまのわれわれが明治天皇と明治神宮の関係をいちいち説明しないのと同じことである。

▽崇神天皇九年(西暦前八九年)2
 〔『古事記』にある《三輪山》伝説〕

『古事記』においては、〈大物主神〉と大田田根子(おおたたねこ)について、すこし違った記述があるので、簡単に記しておく。
 まず最初に大田田根子が〈大物主神〉を祀る場面だが、

「大田田根子を祭主として《三輪山》で〈大物主神〉を拝み祀った」

 ――とされている。
 つぎに大田田根子(おおたたねこ)自身だが、意富多々泥古(読みは同じ)と書かれており、

「〈大物主神〉と活玉依媛(いくたまよりひめ)の直接の子ではなく子孫」

 ――ということになっている。

 さらにこの媛が〈大物主神〉の子どもを宿したときの物語がある。
 媛のところに立派な男性が夜毎通ってきて、媛は身籠もった。両親が不思議に思って麻糸に針をつけて男の着物の裾に刺しなさい――と命じる。
 そのようにすると、糸は鍵穴から出ており、糸巻には三巻しか残っていなかった。
 その糸をたどってゆくと、《三輪山》について、社で終わっていた。そこで宿したのが神の子だと知った。そして三巻(みまき/みわ)残っていたことからその地を名づけて三輪(みわ)といった。


『卑弥呼と日本書紀326』

 この三巻(みまき)は、崇神天皇と皇后の国風謚号(たぶん実名)の御間城(みまき)を連想させる。
 ――とすれば、御間城入彦(みまきいりひこ)は、まさに、「《三輪山》の山麓にはじめて入って皇宮をかまえた貴人」という意味になる。

 このように『古事記』では〈大物主神〉が《大神神社》の祭神であることが最初から明示されており、かつ《三輪山》の名の由来譚がある。
《大神神社》の大神は「オオミワ」と読むが、これは、とくべつな神である大神は《三輪山》の神にきまっているので、『記紀』の時代からそういっていたらしい。
 つまり〈大物主神〉と《三輪山》と《大神神社》の三者は一体であり、そして古代の大和朝廷にとってきわめて重要な特別な神であり神社だったのだ。
 また『古事記』では、〈大物主神〉が朱塗りの矢に化身して便所で乙女の陰部を突いて家に入り込んで結婚し、出来た娘が神武天皇の皇后になった――という有名な話がある。

 狭井川(さいがわ)のほとりに住んでいて神武天皇の皇后になった媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命(第六章参照)が、三輪一族の女性だったことを示す伝承である。
 この三輪一族が古くから崇敬していたらしい聖山《三輪山》の神〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉の由来については、いくつかの説があるが、それは次節以降の《大神神社》の所で解説する。
 なお「物」は古代では「精霊」ということなので、「大物主」は「偉大なる精霊の主」といった意味になるが、この意味だけからでは由来を推量することはできない。


『卑弥呼と日本書紀327』

◆◆◆ 三柱の神の奉祀とその責任者 ◆◆◆

 長くなってしまったが、これで結局、

甲――
 大和朝廷の先祖神の〈天照大神〉およびその神霊が宿る「八咫鏡(やたのかがみ)」と「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」(三種の神器のうちの二つ)

乙――
 大和の国土の神として古くから信仰され〈大國主神(おおくにぬしのかみ)〉とも関係があるらしい〈倭大國魂神(やまとのおおくにたまのかみ)〉

丙――
〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)〉が神託を告げた《三輪山(みわやま》の神〈大物主神(おおものぬしのかみ)〉

 ――という、合わせて三柱の神を皇宮の外に奉斎したことになる。
(このうち甲は朝廷の先祖神なので別格)

 はじめの二柱はそれまで皇宮内に鎮座していたのを三輪山の麓に祀ることにしたのであり、あとの一柱はもともと《三輪山》と一体だったのを、大和朝廷として正式に祀ることにしたのである。
 これらの神を奉斎する神社名/神事を司る役は、

甲――
 《檜原(ひばら)神社》/〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉(のちに《伊勢神宮》/〈倭姫(やまとひめ)命〉)

乙――
 《大和(おおやまと)神社》/渟名城入姫(ぬなきのいりひめ)命→長尾市(ながおいち))

丙――
 《大神(おおみわ)神社》/〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉と大田田根子(おおたたねこ)や神酒係の活日(いくひ))


『卑弥呼と日本書紀328』

 なおこのとき、「三種の神器」以外の神話の剣などが《石上神宮》に同時に奉斎されたことは、第七章で述べたとおりである。

 この物語のなかで、〈大物主神〉を《大神神社》すなわち《三輪山》に奉斎した大田田根子と、〈大物主神〉の神託を告げる神子としての〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉との関係がちょっとわかりにくいが、多くの学者は、〈百襲姫命〉が政治・行政までを左右した強力な神子であり、大田田根子はいわば事務担当であって、『日本書紀』編纂時に子孫の三輪一族の主張を入れて採録したのだろう――と考えているようである。

 なお、『日本書紀』ではこの時点ではまだ〈倭迹迹日百襲姫命〉は存命中だが、じっさいにはすでに没しており、〈百襲姫命〉に代わって――山中での祭祀を神社社殿での祭祀に移行させつつ――祭司役になったのが大田田根子だった、という説もある。

 この二つの説は違っているように見えるが、〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉が存在感で他を圧倒していると考える点では共通した見解である。

**********

 崇神天皇紀はまだ続くが、いったん中休みして、大和朝廷の成立に深くかかわっているらしい問題の《大神神社》について、四つの節をもうけて詳述することにしよう。

[次ぎは「第八・四節 《三輪山》と《大神神社》1 ――その格式と山の辺の道――」]

<余談:この崇神天皇紀は、日本の古典のなかで神々を組織的に祭った記録の最初ですが、天皇にとって神々とは人とともに治め養う対象とされている点が注目されます。つまり天皇は神々より上位の存在なのです。施政方針演説でも「人と神を治め養う」となっていますし、疫病退散のために「神浅茅原に八十万の神々を集めた」とされています。天皇は神々を治め養ったり集めたりするのです。少し後になると天皇が神々に正n位勲m等などの位を授けてもいます。この位は神社や宮司に対するものではなく神そのものに対するもので、名称も価値も人間に対するものと同じです。ただし先祖神の〈天照大神〉だけは別格で、位を贈るような事はありません。〈天照大神〉を別格とする経緯は崇神天皇紀や次の垂仁天皇紀全体から読みとれます。もう少し先になると判断できると思いますが、神武東征の前から《三輪山》や《大和》におられた神々に対して〈天照大神〉を別格・至上とする過程で、それを認めまいとする土地の豪族との間で相当な確執があったらしく思われます。〈臺與(とよ)〉に比定される〈豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉や〈倭姫(やまとひめ)命〉を御杖代としてこの確執を乗り切った時点で、大和朝廷はその地位を確立したといえそうですが、この争いを別の視点から観察したのが『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉や〈臺與〉についての記述であるという仮説が成り立つかもしれません。以上はあくまでも余談です・・・>


『卑弥呼と日本書紀329』

■■■■■ 八・四 《三輪山》と《大神神社》1 ――その格式と山の辺の道―― ■■■■■


◆◆◆ 古代には《伊勢神宮》に並んだ《大神神社》◆◆◆

《三輪山》は大和朝廷の発祥の謎を秘めた聖山である。
 既述したように、山そのものが〈大物主(おおものぬし)神〉という神であり、その神は〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉に憑依して崇神天皇に神託を告げた。
 崇神天皇はそのお告げにしたがって《三輪山》=《大神神社》を重んじ、山麓の社殿で祭祀をおこなった。

『日本書紀』のその条を読むと、大和朝廷の先祖神かつ太陽神である〈天照大神〉や、《大和》の土地(国土)の神である〈倭大國魂(やまとのおおくにたま)神〉を神社に奉斎しただけでは国の混乱や疫病はおさまらず、〈大物主神〉を祀る《三輪山》=《大神神社》の社殿で――大和朝廷として正式の――祭祀を丁重におこなってはじめて、国々が平穏になった、と記されている。

 ということは、《三輪山》にある《大神神社》は、《伊勢神宮》や《大和神社》とならぶ――あるいはそれ以上に――重要な神社だったということになる。
 つまり、《大神神社》を大切にしないと、三輪氏など三輪山麓の人々(元から《大和》にいた人々)を治めることができなかったのだ。

 じじつ、古い時代においては、

《伊勢神宮》
《大和神社》
《石上神宮》
《大神神社》

 ――の四つの神社が、圧倒的に広大な境内を有していたらしい。


『卑弥呼と日本書紀330』

 このうち《大和神社》と《石上(いそのかみ)神宮》は、長い年月と検地などよって境内が失われたが、《伊勢神宮》と《大神神社》の二社だけは、二十一世紀の現在でもなお、広壮な境内をもち、古代から変わらぬ儀式がなされ、多くの信者を集めている。
 日本人にとっていかに大切な神社であるかがわかる。

 そこで、本節および続く三つの節で、《三輪山》と《大神神社》について――樋口清之や中山和敬の文献を参照しながら――すこし詳しく解説してみることにしよう。


◆◆◆《伊勢神宮》に匹敵する格式の高さ ◆◆◆

 この《大神神社》の格式は――

(一) 一定の斎場での祭祀という点では日本最古級
(二) 日本の別名でもある《大和》の一の宮
(三) 神位・正一位
(四) 社格・官幣大社
(五) 祭は古く国家としての神事
(六) 皇室の崇敬
(七) 万葉集ほか多くの歌集に無数の歌がある
(八) 海外の研究者たちも注目
(九) 文学者や多くの学者が注目
(十) 信長・秀吉・家康も手出しできなかった広大な社領
(十一)いまも祭日には特別列車が出るほどの人出
(十二)いまも日本中に三輪山製杉玉が普及

 ――といった別格なものである。


『卑弥呼と日本書紀331』

(一)の一定の場所とは《三輪山》であるが、山の中腹や山頂付近には無数の磐座(いわくら)と呼ばれる磐を使った祭祀跡があり、大和朝廷としての祭は崇神天皇時代からであっても、祭祀そのものは弥生時代から――あるいは縄文時代から――山中の巨岩を利用しておこなわれていたことは確実である。

(二)の一の宮とは、昔の地方行政単位である国の最高位の神社ということで、たとえば相模国(神奈川県)は寒川神社、武蔵国(東京近辺)は氷川神社、安芸国(広島県)は厳島神社・・・といったように決まっていたが、日本の代名詞でもある大和国(奈良県)のそれが《大神神社》だったのだ。つまり各地の一の宮のなかでも日本を代表する別格の一の宮として存在したのだ。

(三)の正一位は、神にも人間と同じく位階をつけたもので、最高の位である。

(四)の社格は明治に定められたもので、官幣大社は最高の格をあらわす。

(五)の祭のなかでもとくに六月(旧四月)に摂社でなされる三枝祭は、藤原不比等たちによる大宝律令によってすでに国家神事として定められていた。

(六)については、崇神天皇・神功皇后・雄略天皇・・・などの古代のみならず奈良時代以後も歴代皇室の崇敬をあつめ、今上天皇皇后両陛下もご即位前に御参拝しておられる。また昭和天皇も昭和五十九年に御親拝になっておられる。

(七)の歌は数え切れない。万葉集だけではなく江戸時代の俳句にもあるし、謡曲の「三輪」の題材にもなっている。


『卑弥呼と日本書紀332』

(八)は後述するが、外国の学者や宗教家が多く訪れている。

(九)の代表は三島由紀夫とされる。

(十)は、史上有名な検地による社領没収が免れたことで、《石上神宮》のところで述べたように他のほとんどの神社は没収や略奪の憂き目にあったが、《大神神社》と《伊勢神宮》だけは免れただけでなく、逆に与えられたりもした。大和全体が秀吉政権の直轄地になったときも、《三輪山》には手を出さなかったのだ。

(十一)は普段の日でも感じられる。著者が参拝したときも、行楽季節を外れたウイークデイで悪天候だったにもかかわらず、参詣者がひきもきらない有様であった。とくに若い男女の参拝姿が印象的だった。

(十二)の杉玉は、縁起ものの一種のくす玉で、三輪の神木でつくられた大きな神玉が、全国の造り酒屋に飾られている。『日本書紀』にある御神酒造りの元祖・活日(いくひ)の伝承が今に生きているのだ。

 このように、『日本書紀』に由来が明記された最古の神社である《大神神社》は、歴代の朝廷・政府から重要視されてきただけではなく、全国の一般庶民による崇敬も古代から現在までつづいている。
 だから、日本国家の成立史を語る上でぜったいに逸することのできない神社なのだ。
 しかも、《邪馬台国》や〈卑彌呼〉に密接に関係しているらしい。

 以下、いくつかの側面から光をあてて、全体像を浮かび上がらせることにしよう。


『卑弥呼と日本書紀333』

◆◆◆ 鳥瞰図による説明――山の辺の道 ◆◆◆

〔一〕《大神神社》の地理的条件

《大和》の地形については、すでに記したが、図5・1、5・2、5・3、図7・7、図8・1によって把握できるように工夫してあるので、ざっと見直しておいていただきたい。
 図8・1の歴代皇宮位置の図において、《三輪山》の麓に10、11、12とみえるのが、崇神、垂仁、景行の三代の天皇の皇宮で、この三代は大和朝廷の基礎を築いたとされ、三輪王朝とも呼ばれている。

図8・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm


《大神神社》は三輪山のほぼ西南西にあり、10で示された崇神天皇の皇宮のすぐ北側にある。図8・13にその位置を示してある。

図8・13
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm


 三輪山の南部から流れ出る初瀬川(大和川)と北部から流れ出る巻向(まきむく)川に挟まれた三角地帯はとくに神聖な場所とされており、《大神神社》はその中心である。
 この三角地帯は、神聖な川に囲まれているので、昔の地名を水垣郷といったらしい。
 そしてこの三角の北側には広大な纒向(まきむく)遺跡があり、前記三代にわたる大和朝廷の都、《纒向京》(仮名)だったとされている(*)。

 土地勘を養ったところで、図8・5を見ていただきたい。西南西の側から《三輪山》を眺めた鳥瞰図で、右がほぼ南、左が北、視線の向きがほぼ東である。

図8・5
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H84-85.htm


 この鳥瞰図に沿って広大な《大神神社》の境内を概説してゆこう。

(*:纒向とは『日本書紀』にも記されている古代からの地名で、かつ現存もしている)

(注意:図8・5も、《大神神社》社務所様のご了解、および作図された方のご遺族のお許しを得たうえで掲載している)


『卑弥呼と日本書紀334』

〔二〕神社の南は史跡の宝庫

 図の下方にはJRの桜井線が左右にはしり、中央に三輪駅があり、右の桜井駅で近鉄線にも連絡している。

 その上に、注連(〆)柱(しめばしら)のすぐ前を通って、うねうねとした道が左右にとおっている。
 これが有名な「山の辺の道」で、日本で最古の国道とされている。
 この道は数多くの万葉歌の題材となっており、いまでも万葉の里を訊ねる人の行き来が絶えない。
 古代から同じ道だったかどうかについては、異論があり、もっと平地に近い直線状の道があったらしいが、山塊に沿っていたことは確かである。
 この道を右から左へとたどり、ついで参道を下から上へとたどってみることにしよう。

 山の辺の道のはじまりはほぼこの図の右上であり、初瀬川に沿ったあたりとされる。
 古代の地名は磯城(しき)であり、このあたりには第十代崇神天皇の皇宮だけでなく、第二十一代雄略天皇や第二十五代武烈天皇の皇宮跡がある。さらに初瀬川をまたいだ近くには第二十九代欽明天皇の皇宮・磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)跡がある。

 著名天皇の皇宮跡がずらりと並んでいるわけで、重要な場所だったことが分かる。
 また川に近い道沿いには有名な海石榴市(つばきいち)がある。図ではつば市と書かれている。
 海石榴は椿の意味であるが、この市場は古来交通の要衝でもあり、歌垣もなされ、とてもにぎやかな場所だったらしい。

 万葉集からもこの市のにぎわいが想像されるが、前述したように遣隋使の小野妹子が隋の斐世清(はいせいせい)をともなって帰国して上陸したのもこの場所である。
 大阪湾から大和川を遡って船でここまで往来できたのだ。
 この場所を紙面右上(東)に向かうと伊勢に達する。
 したがってここは西日本の人々の伊勢参詣の通路でもあった。

 更級日記にも、
「初瀬川などうちすぎて・・・」
 ――とあり、多くの人が通過する道だったことがわかる。
 図の右外は方角では南であり、地名としては磯城に続いてさらに南に神武天皇で有名な磐余(いわれ)がある。

 海石榴市の左に金屋石仏や崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)跡が見えるが、このあたりは、磯城のなかでも金屋(かなや)といわれた土地である。
 金屋は前述のように鉄製品の製造がなされたためにつけられた地名であろうが、皇宮がその場所に位置していたことは印象的である。
 崇神天皇の皇宮のさらに具体的な推定地は、現在の天理教会と三輪小学校の間くらいではないか――とされており、建築工事のさいに鉄製品など多くの出土品が見られたそうである。
 磯城瑞籬宮という崇神天皇の皇宮名は、磯城地域の川に挟まれた神聖な水垣郷にある――というところから来たらしい。
 金屋は水垣郷のさらに中の地名である。


『卑弥呼と日本書紀335』

〔三〕神社の北にあった柿本人麻呂の別荘

 金屋から左へ移動すると、《大神神社》摂末社としてのたくさんの神社のほかにいくつかの寺や寺跡が見られるが、これらは神仏混淆時代の名残である。
 崇神天皇を祭る天皇社をすぎると、拝殿のすぐ前を通過し、神社の建物の間を縫って狭井(さい)川をまたぐ。
 この狭井川も日本古代史上きわめて有名である。
 第六章に記したように、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命の住まいがこの川のほとりにあり、惚れ込んだ神武天皇がこの媛命の家にお泊まりになって――つまり一種の通い婚をなさって――皇后にされたという伝承があるからだ。
 また、神武天皇崩御ののちの混乱を詠んだ「狭井川よ・・・」という媛蹈鞴五十鈴媛命の御歌が神武紀に記されている。
 川のそばに神武天皇聖跡碑があるのはそのためだが、その上の出雲屋敷が、この媛命の住まいのあった場所と伝えられている。

 山の辺の道をさらに左に行くと、右手の静謐な森のなかに、《三輪山》を背景にした《檜原(ひばら)神社》がある。
 先に説明した最初の元伊勢である。
 規模こそ《大神神社》の本社に及ばないが、つくりはほとんど同じである。
 便宜上《大神神社》の摂社になっているが、それは近年のことで、〈大物主神〉とは対照的な〈天照大神〉をかつて祭った神社なので、別格の扱いがなされている。

 この《檜原神社》を過ぎると、巻向(まきむく)川がある。《三輪山》と巻向山の間から流れてくるのでこういうが、巻向山は別名穴師(あなし)山でもあるので、川名は穴師川ともいう。
 この川は国鉄を越えてすこし行ったところで初瀬川に合流するが、初瀬とならんで万葉集に頻出する著名な川である。
 柿本人麻呂歌集にこのあたりを詠んだものが多くあるが、それは、人麻呂の別荘がこの巻向川のほとりに有ったからだ――といわれている。
(ただし川の流れや名はいまとは違っており、人麻呂時代の巻向川はもう少し北を流れていたらしい)


『卑弥呼と日本書紀336』

〔四〕皇宮跡と日本を代表する巨大前方後円墳の群

 巻向(まきむく)川をすぎると、そこはすでに広大な纒向(まきむく)遺跡の東端であり、野見宿彌(のみのすくね)らの伝承による相撲神社がある。
 そしてその相撲神社のあたりが、第十一代垂仁天皇および第十二代景行天皇の皇宮があったとされる場所である。
 有名な日本武尊もここで生まれたのだ。
 この由緒ある皇宮跡をすぎてしばらく北へ行くと、そこに景行天皇陵や崇神天皇陵があり、超巨大な前方後円墳が偉容を誇っている。

 さらにそれらを過ぎると、山の辺の道は天理市に入り、先に述べた《石上(いそのかみ)神宮》の境内を通って北上し、最後は奈良市東部の春日山あたりに到達する。
 この「山の辺の道」とその両側の地名――初瀬・三輪・巻向・大神・海石榴市など――は、万葉集に頻出するので、万葉の里とも呼ばれ、行楽期には古代を想って訪れる人たちで賑わっている。

 一方JRの下を――つまり山麓から少し離れた平地を左に行くと、有名な《箸墓(はしはか)》または《箸墓(はしのみはか)》がある。
〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉の御墓といわれている最古の超巨大前方後円墳だが、これについては後に詳述する。
 この《箸墓》を含んでさらに左やその下部が、広大な纒向遺跡である。巻向川と初瀬川もこの遺跡のなかを流れて、やがては大和川本流に合流している。

 ということは、大阪湾から大和川を遡航して海石榴市に達する途中に、船便がこの纒向遺跡を通ったということで、これはすなわち、この遺跡が、瀬戸内海や大阪湾を介して西日本や海外と水利の便をもっていたことを意味している。
 九州・四国・山陽はもちろん、シナや朝鮮からでさえ、船便のみでここ《大和》の地まで来ることができたのだ。

**********

 この遺跡については別の章で述べるが、崇神〜垂仁〜景行三代の皇宮が周辺または内部にあることから、そこがこの三代の天皇の都であったことは確実であり、本書では《纒向京》と呼ぶことにしている。


『卑弥呼と日本書紀337』

■■■■■ 八・五 《三輪山》と《大神神社》2 ――千古の謎を秘めた三ツ鳥居の奥―― ■■■■■


◆◆◆ 鳥瞰図による説明――参道から《三輪山》へ ◆◆◆

〈一〉大鳥居から注連柱まで

 図8・5の鳥瞰図の続きである。

図8・5
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H84-85.htm

 中央の参道を見ていただきたい。
 図の左下に大鳥居がある。その高さは靖国神社の大鳥居を上回り、日本最大であるが、これは近年の建造である。
 昔からの鳥居は一の鳥居と二の鳥居で、一の鳥居からはじまるのが旧参道、大鳥居からが新参道となっている。参道の長さはほぼ一キロで、とてつもなく長い。
 一の鳥居のそばにある綱越(つなこし)神社は、祓戸(はらえど)大神を祭る神社で、《大神神社》全体のお祓いを司っている。
 二の鳥居の左にある若宮は有名。神仏混淆時代には大御輪寺といわれたところで、大田田根子(おおたたねこ)を祀った神社である。
 かつて国宝の十一面観音像があった社で、神殿自体も重要文化財となっている。
 二の鳥居を過ぎると、やがて三の鳥居のかわりに注連柱(しめばしら)が見えてくる。
 これは二本の柱の間に注連縄(しめなわ)をはった古式ゆかしい一種の鳥居である。


『卑弥呼と日本書紀338』

〈二〉拝殿から三ツ鳥居まで

 この注連柱の間から拝殿を拝んだ写真を図8・6(a)に示した。

図8・6
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H86-88.htm

 写真では背後の神山や拝殿の雰囲気が伝わりにくいが、注連柱(しめばしら)をすぎると、雄大かつ荘重な神域が眼前に広がるのである。
 拝殿もふつうの神社とはまったくスケールが違い、じつに豪壮である。
 写真の(b)は、右側からこの拝殿前を写したもので、やはり注連柱がある。
 この(b)の左奥に見えているのが、有名な神木で、神聖な蛇が棲む杉の老木である。この杉自体も信仰の対象になっているが、それは〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉が蛇の形をした〈大物主神〉と結婚したという伝説からきている。
 図8・5では「巳の神杉」と書かれている。いまも実際に蛇が棲んでいるとされ、卵を供えて拝む人が絶えない。
 荘厳な拝殿は国の重要文化財だが、その背後には直接山が迫っていて、本殿はない。

 一般の神社では、拝殿の後ろには本殿があり――あるいは拝殿と本殿が一体となっていて――その本殿の中央に神座があり、そこにご神体が奉安されている。
 神鏡、神剣、神玉、御幣などである。
 しかしこの《大神神社》においては、背後の《三輪山》そのものが本殿でありかつ〈大物主神〉が宿るご神体でもあるので、建造物としての本殿はない。
 いや本殿どころか社宝を安置する宝庫すら置かれなかったのだ。
 そのかわり――というわけではないが、拝殿と御山との間に「三ツ鳥居」と呼ばれる独特な鳥居がある。
 これもまた重要文化財で、日本に数多い神社のなかでも他では見られない特殊な鳥居である。

 注連柱を三の鳥居とすれば、これは四の鳥居ということになるが、その形は、ふつうの鳥居を三つ重ねたよう(*)であり、拝殿に隠れて見えないので図8・6には写っていないが、図8・2の《檜原神社》の写真に同種の鳥居が見えている。
《檜原神社》は本社と同じ形式を小型化した神社だからである。

 なぜ三つの鳥居を組み合わせたのかは分からないが、《三輪山》の三という数に関係するのであろう。
 結局、参詣者は、拝殿からこの三ツ鳥居を介して《三輪山》――すなわち〈大物主神〉――を拝むのである。
 なお社務所でとくべつに許可を貰えば、お祓いをうけてから拝殿背後の三ツ鳥居を直接拝むこともできる。

(*:《大神神社》の解説書はいろいろとあるが、大抵の解説書に三ツ鳥居の写真が掲載されているので、写真を介して拝むことができる)


『卑弥呼と日本書紀339』

〈三〉古代祭祀の跡――磐座(いわくら)

 三ツ鳥居の背後の山腹は、絶対に人の入れない禁足地であり、厳重に管理されている。弥生時代においてはここの巨石群――磐座――を用いて祭祀がなされ、祭具が奉納されたらしい。
 山頂には高宮(こうのみや)神社があるが、ここは〈大物主(おおものぬし)神〉の御子が祭られていて、昔は雨乞いなどがなされた。
 またその周囲には古代に〈大物主神〉を祭祀した巨石群がある。
 この山頂に登ることは一般には禁じられているが、本社の左にある狭井(さい)神社で住所氏名を明記して申請して許可が出れば、お祓いをうけ特別な襷をして、登ることができる。
 ただしその場合も、定められた一本道以外に足を踏み入れることは許されない。
 それ以外でこの御山に登ることのできるのは、下草苅りなどの不可欠な作業をするときの神社職員と氏子信者のみである。

〈四〉奇跡の継続性

《三輪山》はそれ自体がご神体であるため、何千年もの間、厳重に守られてきた。
 もちろん考古学的な発掘などは絶対に許されないし、開発など論外である。植林もなされないから、樹相は太古のままである。
 崇神天皇のはるか前から連綿として守り続けられてきたこの《三輪山》の継続性は、驚くべきことである。
 なにしろ、何千年も前の弥生時代の人々――ひょっとしたら縄文時代の人たち――が祈り、推定二千年近くも前の崇神(すじん)天皇や〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉や大田田根子(おおたたねこ)たちが祈ったその同じご神体を、その百代以上も後の天皇・皇族方や国民が同じ方法で祈っているのだ。
 これは渡部昇一の主張にあるように「継続」という日本文化の一大特色であり、他国では絶対に見られない奇跡的な伝統なのである。


『卑弥呼と日本書紀340』

◆◆◆ 《三輪山》の話 ◆◆◆

〔一〕《三輪山》の地質と山容

 つぎに、ご神体そのものである《三輪山》のデータを少し並べておく。
 まず地質であるが、このあたりの山のほとんどが花崗岩でできているのに対し、三輪山は斑糲岩(はんれいがん)が主体である。
 斑糲岩は鉄を含むことで知られており、そのためかこの山から流れ出る川からは砂鉄が採れた。山麓の金屋の製鉄所との関連が注目される。
 また斑糲岩の山は硬質であるため風雨による侵食が少なく、円錐形になりやすい。
 じじつ《三輪山》はじつになだらかな円錐形をなしている。
 その山容の写真を図8・7に示す。

図8・7
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H86-88.htm

 写真の(a)は西方からの遠景で、大鳥居の向こうになだらかな円錐のスロープが見える。(b)は大鳥居のそばからの写真で、人家の向こうに参道が続いている。(c)は北にある景行天皇陵からの遠景である。
 どの向きから眺めても、ゆったりとした穏やかな円錐状の山容が印象的で、大和朝廷の故郷といわれる日向高千穂の峰に似た面もある。古代の人たちが神山として崇めた気持ちがわかる。

 円錐形の山を尊び、それへの眺望に適した土地に集落をつくる風習は、古く縄文時代から日本全国にあったという研究が、縄文遺跡の研究者らから出されているが、《三輪山》の山容はその代表であり、じっさい奈良盆地で最大の弥生遺跡である「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡*」からも、この《三輪山》を遠望できるのだ。
 つまりこの周辺は、まさに、「神聖な山への入り口」→「山門」→「大和」と呼ぶにふさわしい土地なのである。

(*:この遺跡については後に述べるが、大和朝廷が確立される直前の都だったといわれる巨大な環濠集落跡である。計り方にもよるが、有名な北九州の吉野ヶ里遺跡を上回ると言われる)


『卑弥呼と日本書紀341』

〔二〕《三輪山》の数値と遺跡

 この神山の高さであるが、標高は四六七メートル、そばを流れる初瀬川の川底からの高さはほぼ四百メートルである。《大和》地方を囲む山並みのなかでも、そう高い方ではない。
 周囲は、凹凸をいれるとほぼ十六キロ、面積はほぼ三百五十ヘクタールである。ほぼ――というのは、立ち入り禁止なので、正確な測量は許されていないからだ。
 土地にかんする法令をも超越した存在なのだ。
 山としては面積的にも大きい部類ではないが、この山全体が境内でありご神体だと考えると、とてつもなく広い。
 現在の東京の皇居の四倍に近い。

 山腹から山頂にかけては、神域のため当然ながら発掘調査が禁じられているが、周辺からは、多くの出土があり遺構が発見されている。
 それらから、この山の周辺には、数万年前の旧石器時代から人々が生活していたことがわかっている。旧石器から縄文、弥生時代にかけての石器・土器などが多く出土しているのだ。
 もちろん古墳時代の遺跡は無数にある。
 また特徴的なのは、その遺跡が、古い時代のものほど山に近く、古墳時代に近づくと平地に広がってきていることである。
 これはどうやら、大和湖と仮称される湖(または水郷地帯)が縄文時代まではかなり拡がっており、それが時代が下がるとともに干上がって平地への居住が可能になってきたことと関係しているらしい(*)。

(*:次回にその証拠の一つを示す)


『卑弥呼と日本書紀342』

〔三〕大和湖を囲む皇宮と祭祀遺物

 その一つの証拠が、図8・1の皇宮跡の配置である。

図8・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

 図の上半分の中央部分が空白になっており、それを囲む形で歴代の天皇の皇宮があったのだ。
 空白部分はいまでは肥沃で穏やかな土地なのだが、ここに皇宮跡がまったくなく、さらに他の遺跡も少ないのは、大和湖が干上がってまもなかったため、湿地帯で居住に適さなかったからではないか――と考えられているのだ。
 比較的古い天皇宮ほど山に近く、また標高七十メートル以上の土地にしか古い出土品が無いことも、この説を補強している。
 大和湖の位置については、図8・1と図5・3を比べて、推理してみたいただきたい。
 いずれにせよ《三輪山》は、ひじょうに古く旧石器・縄文時代からその山麓に人々が棲み、見上げながら暮らしていた山だったのだ。

 考古学的な発掘調査は、前述のように許されていないが、偶然の結果としてごく一部が発掘されたことはある。
 たとえば、山裾の一部が、かつて農地として開墾されかかったことがあり、そこから数多くの出土品があった。ほとんどは失われたが、一部が保存され、古代の祭祀用の品々であることが分かっている。
 また三ツ鳥居の防火工事や補修工事がなされたとき、やむをえず掘った地面から、やはり祭祀用の土器や子持ち勾玉という独特の勾玉が出土している。

 子持ち勾玉は、江戸時代にも出土したという記録があり、これまでに合計十五箇の出土が確認されている。
 この勾玉は《石上神宮》の禁足地から出土したものと同種らしい。勾玉の中央部に内向きに突起のある独特の形状である。
 こういう偶然の発掘から、この《三輪山》への祭祀が、すくなくとも弥生時代からなされていたことが知られるのである。
 崇神天皇と〈倭迹迹日百襲姫命〉の伝承は、だから、大昔からこの土地の人たちがおこなってきた祭祀を、この地に進出した大和朝廷としても本格的におこなって、人心を掌握しようとした経緯を、物語っているのであろう。


『卑弥呼と日本書紀343』

〔四〕神の宿る山名の由来

《三輪山》という山名の由来であるが、これは糸が三巻(三輪)残ったといった前記の伝承などのほかに、美和からきたなど、いろいろな説があって定かではない。
『記紀』でも万葉集でも、いろいろな呼び方がされていて、「神奈備(かんなび)の三諸山(みもろやま)」とも「御諸山(みもろやま)」ともいわれる。
 神奈備(神名備)とは神が鎮座する山や森という意味で、主に円錐形の山につかわれ、神が鎮座する場所という意味の御室にも通じる。
 御室はまた三室とも書かれ、転じて御諸、三諸になったとされる。

「神奈備の三諸山」とは、だから、貴い神の宿る山――といった意味だが、《三輪山》は最古の神奈備であり三諸なので、この言葉が《三輪山》を指すようにもなった。
 だから三輪は、三室や三諸に関係して書かれるようになった文字なのかもしれない。輪は大和や倭にも通じている。
 一方神酒や神酒を入れる甕も「みわ」と読むが、《三輪山》は御神酒の本家でもある。

 山腹には、禁足地を中心にして数多くの巨石があり、そこで弥生〜古墳時代に祭祀がなされた痕跡がある。つまり多数の巨石を次々に斎場としていたのだ。
 これは神武天皇紀に記されているのと同様な山腹での古代祭祀の遺跡と考えられているが、神社ではそれを神座の具体的な形として三つに分けている。
 山裾の辺津磐座(へついわくら)、中腹の中津磐座(なかついわくら)、山頂の奥津磐座(おきついわくら)の三座である。これらについてはまた後述する。


『卑弥呼と日本書紀344』

〔五〕他の聖山との類似性

《三輪山》のような円錐形の山容が縄文以来の古代人に崇敬されてきたことは前記したが、その好例として、神奈川県の大山をあげることができる。
 この山の山頂および山腹には、《三輪山》と同じく山そのものをご神体とする大山阿夫利(あふり)神社があって、古くから関東一円の信仰を集めてきた。
 相模国(神奈川県)の一ノ宮は寒川神社、二ノ宮は川勾神社でともに祭りで有名だが、阿夫利神社はそういった神社系列には属さない独自性をもっていて、関東総鎮守ともされ、規模も参拝者数も一ノ宮を凌駕している。

 江戸時代の「大山講」をつくっての「大山詣」は、「お伊勢参り」につぐ江戸庶民の楽しみで、多くの記録が残されている。
 この大山が大和朝廷に正式に認められたのはやはり崇神天皇の御代らしく、祭神は瓊瓊杵尊の妻になった木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)の父親である大山祇神(おおやまつみのかみ/伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子)とされているが、山そのものへの信仰は崇神朝よりずっと古いことがわかっている。
 江戸時代の調査で山頂に祭祀用の磐座が発見され、さらに戦後の発掘調査によって縄文土器が見つかり、その磐座での祭祀が遠く縄文後期にまでさかのぼることがわかったのだ!

 このように、緑豊かで秀麗な山容そのものを「神」として崇める日本の習俗は、古く縄文時代からつづいている神社(神道)の源流なのである。
 だから《三輪山》の場合も、もし発掘調査をすれば、その信仰の発祥が縄文にあるとわかる可能性がつよい。
 崇神天皇七年の記述は、あくまでも、大和朝廷としての祭祀であり、社殿の建築様式の確立であったと考えられる。

 なお大山も《三輪山》と同じく山頂での雨乞いが古くからなされている。
 麓に豊富な水を恵んでくれる山への感謝の気持が、円錐形の山容への崇敬理由だったのであろう。
 阿夫利神社の阿夫利とは雨降りのことだと言われている。


『卑弥呼と日本書紀345』

〔六〕終戦時にあった《三輪山》最大の危機

 以上述べてきたように、《三輪山》はそのすべてが立ち入りを許さない絶対的な聖域であり、それは古来厳重に守られてきたが、もちろん危機もあった。
 日本の神社史や寺院史で有名な危機は、信長〜秀吉〜家康にいたる略奪と検地である。
 略奪はとくに信長において顕著で、《石上神宮》がその被害にあって、古代史の謎を解くであろう神宝を多く失ったことは第七章に記したが、多くの社寺が同様な被害にあった。

 朝廷の宝物を保存した正倉院なども、信長らによって過半が失われ、現在残されいるのはかつての三分の一にすぎないともいわれている。
 信長が光秀に討たれたのは危機感をつのらせた寺社関係者たちによる計画だったとの説もある。
 秀吉の代になってからは、有名な検地がなされ、社寺も例外ではなく、多くの社領が失われた。この検地は徳川になっても続けられ、《石上神宮》の社領のほとんどが失われた話はすでに述べた。

 しかし幸いなことに、この《大神神社》には、さすがの信長も秀吉も家康も手出しができず、被害はほとんど無かった。
 他の神社のような宝庫がなく物としての宝物がなかったことも幸いしたのかもしれない。
 豐臣の検地帳にも徳川の検地帳にも、「除地三輪明神山」と記録されているそうである。
 秀吉などは逆に、神社を維持するための所領を寄贈したほどである。
 このような、検地における例外的な処置は、《伊勢神宮》も同じであった。つまり《大神神社》は、《伊勢神宮》と同格の扱いを受けていたことになる。

 その次ぎの危機は明治四年の上地令だったが、嘆願につとめた結果、除地となって助かっている。
 ただし神職の長である大宮司などは明治政府の命令で国から派遣されたため伝統がくずれたし、また社寺分離の嵐で、国宝級の社殿が崩壊したりはした。国宝十一面観音像の移動などもこのときに起きた。


『卑弥呼と日本書紀346』

 最後の危機は、大東亜戦争の終結時に来た。歴代の危機のうちで、これがもっとも深刻だったといわれている。
 なにしろ相手は、神道の意味が理解できないキリスト教国の軍隊で、日本人が勇敢なのは神社のためだと思っていたのだ。
 進駐軍の方針で、神社の力を弱めるための方策がつぎつぎに打ち出され、《三輪山》全体が国有地になってしまった。
 またこの時代には、付近の貴重な古墳が進駐軍のブルドーザーで壊されて倉庫やトイレなどに改造され、出てきた土器や鏡の類がゴミとして捨てられるという事態も頻出した。
 しかしこのときも《三輪山》は、神社関係者の命を賭した運動によって、結局は神社に戻り、かろうじてことなきをえた。

 終戦時には、たとえば熱田神宮などでも、門外不出の「草薙剣」――「三種の神器」の一つ――をあえて極秘の場所(岐阜県)に遷すなど、必死の努力がなされている。

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 こういう危機の記録を読んでいると、ずいぶんおかしくされたとはいえ、占領軍がアメリカだったからまだ良かった――という気持ちにもなる。
 もし大陸・半島などほかの近隣国に占領されていたとしたら、とてもこんな事ではすまず、日本の文化遺産は根こそぎ壊されていたであろう。
 自国であっても前の時代の王の遺物を徹底的に壊す国――シナ王朝など前王の墳墓まであばいて捨てるという話がある――が多かったのだから・・・。

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 話は横道にそれるが、靖国神社についての議論をテレビなどで見ていると、神社や神道への崇敬の念がおそろしいまでに欠落したコメンテイターやキャスターがほとんどであることがわかる。
 日本の神社(神道)はあらあゆる宗教を超越して縄文弥生時代から連綿としてつづく日本人の習俗であり文化的伝統であって、憲法二十条などとは本来無縁のものである。
 二万年の歴史をもつ日本独自の心とあやしげな新宗教とを同じ法律で扱っていったいどうしようというのだろう・・・。

 終戦時につぐ神社の危機――つまりは日本の伝統文化の危機――が、いままさに迫っているのかもしれない。
 文化国家の名が泣いている。


『卑弥呼と日本書紀347』

■■■■■ 八・六 《三輪山》と《大神神社》3 ――『記紀』にみる三輪一族の人々―― ■■■■■


◆◆◆ 三輪山麓の人々 ◆◆◆

 三輪山麓に住み着いて《三輪山》を守り、《大神(おおみわ)神社》を祭祀してきた人たちの多くは、『古事記』や『日本書紀』で三輪を名乗っており、三輪一族と呼ばれている。
《三輪山》は古代の地名では磯城(しき)地方の一角をなしているので、磯城の豪族の一つでもある。
 かれらの先祖は、どこからか移ってきたのではなく、おそらくは縄文から弥生にかけて、この山麓に棲んでいた一群ではないか――といわれている。
 この土地の人々である三輪一族に、さらに、神武天皇より前に高天原から天降ったとされる――たぶん九州から東征したと想像される――〈饒速日(にぎはやひ)命〉の子孫や出雲一族が加わって《三輪山》の信仰を形成していた可能性もあるが、詳細はわからない。

 三輪一族の由来については、多くの伝承があり、今となっては何が本当かの詮索は困難であろう。
 しかし、生物学的な血統よりも大切なことがある。
 それは、当時の三輪の人たちが何を誇りにしていたか――である。
 これについては、古代史料にかなり記されている。

 桓武天皇〜嵯峨天皇のご意向で編纂されたと言われる『新撰姓氏録』では「三輪」には「神(みわ)」の字が当てられているが、その解説によると、三輪一族は出雲神族で、大國主神の五世孫の大田田根子を祖とするとされる。
 出雲の国譲りののち、その子孫の中でもっとも栄えた一族として知られた。
《三輪山》の〈大物主神〉を信仰するが、〈大物主神〉は大國主神の和魂ともされるので矛盾は無い。
 のち、朝廷に仕えた功績で大三輪と呼ばれるようになり、奈良時代になると《大神神社》と同じ大神という表記になったらしい。
 読みは同じである。

〈饒速日命〉の子孫と信じる物部一族は《石上神宮》という豪壮な総氏神を、朝廷の許可のもとに、近くに持つにいたったし、現出雲の地の出雲一族は先祖神である〈大己貴神〉――すなわち〈大國主神〉――を奉祀する巨大な出雲大社を出雲の地に建立してもらったし、奈良盆地の先住者たちは土地の神を祀る《大和神社》を得た。

 だから、それでも不満で《三輪山》の神〈大物主神〉の奉斎を主張した崇神天皇時代の三輪一族の中心は、やはり〈饒速日命〉以前から《三輪山》山麓に住み《三輪山》を敬っていた人たちであったのだろう。
 この三輪一族と出雲との関係については、学者の間でも多くの意見がある。
 これらは第八・七節でまとめてみる。

 神武天皇の子孫で大和朝廷の実質的な創始者とされる崇神天皇がこの山麓に進出して都をきずいたとき、天皇が信仰する〈天照大神〉に対して、彼ら三輪一族が《三輪山》の信仰によって対抗し、それに対する融和政策が、『日本書紀』に記されている、〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉の神託による〈大物主(おおものぬし)神〉祭祀の朝廷による実現だったのかもしれない。

 この《三輪山》の神の名である〈大物主神〉は、縄文弥生時代からのものではなく、〈倭迹迹日百襲姫命〉が名づけたのだという説もある。
 たしかに『日本書紀』の記述はそのようにも読める。


『卑弥呼と日本書紀348』

 前にもすこし触れたが、この《三輪山》周辺の人たちとの融和策は、崇神天皇の前から見られる。
 すなわち初代の神武天皇の皇后も三輪山麓の狭井(さい)川で生まれた姫だし、以後第二代から第七代まで、いずれも磯城(しき)地方の姫を皇后にしている。
 八代・九代は〈饒速日(にぎはやひ)命〉の子孫を皇后にしたが、第十代の崇神天皇になってまた磯城の系列の姫を皇后にしている。
 崇神天皇の皇后は孝元天皇の孫にあたるので、〈饒速日命〉の子孫の物部系の血をひくと同時に《三輪山》を中心とする磯城地方の豪族の血をもひいている。
 これは大和朝廷が、〈饒速日命〉一族と三輪一族の両方を自分たちの血縁に入れ込んで融和し、《大和》の盟主としての座を安泰にしようとした婚姻政策の明瞭なあらわれである。

 問題の〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉も、こういう婚姻政策のなかから誕生した貴人であり、したがって大和朝廷や饒速日系の一員であると同時に、三輪一族の血縁でもあったのだ。
 一方出雲一族については、こういう種類の婚姻政策はとれず、その本拠である出雲地方とのいざこざが続いて苦労したらしいが、出雲に巨大神社を建立する以外にも、《三輪山》の神が出雲と関係しているという神話をつくりだしたり、《大和神社》の神を出雲の神の荒魂としたりして、融和をはかった形跡が明白である。
 これについては後述する。

 三輪周辺の皇宮は、どこまでを三輪周辺とするかによって数が違ってくるが、歩いてすぐの場所のみをとっても、第十〜十二代の崇神・垂仁・景行をはじめとして、十二もある。
 図8・1を参照して、10、11、12、17、21、22、25、26、29、31、32および第十四代皇后〈神功皇后〉である。

図8・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

 第十五代應神天皇の初期もたぶん〈神功皇后〉と同じであった。
 これら以外でも、たとえば初代の神武天皇の橿原の宮などもハイキング・コース程度の距離であり、周辺といえなくもない。

 つぎに、大和朝廷に仕えて功績をあげた三輪一族の著名人を、『日本書紀』に従ってあげておこう。
 ただし、以下の人々が太古から《三輪山》の山麓に住んでいた人々とどのような関係にあったかは分からない。
 とりあえず三輪と呼ばれた要人たちをピックアップしたものである。


『卑弥呼と日本書紀349』

◆◆◆ 崇神天皇から雄略天皇まで ◆◆◆

▽第十代崇神天皇の御代
 大和朝廷の意向をうけての初代《大神神社》宮司である大田田根子は、三輪君の祖であると記されている。

▽第十一代垂仁天皇の御代
 新羅の王子である天日槍(あめのひほこ)が帰化したとき、三輪君の先祖の一人である大伴主(おおともぬし)が天皇の使いとして話し合いを持ったとされる。
『先代旧事本紀』によると大伴主は素戔嗚(すさのお)尊の第十一世の孫で、崇神天皇から大神(おおみわ)君という名を賜ったとある。

▽第十四代仲哀天皇(神功皇后)の御代
 仲哀天皇崩御のとき、〈神功皇后〉の命令をうけて大三輪大伴主君が四大重臣の一人として宮中を守った。
 他の重臣は中臣(なかとみ)、物部(もののべ)、大伴(おおとも)だから、三輪は大伴や物部と同列の重臣として〈神功皇后〉に従っていたことになる。

▽第二十一代雄略天皇の御代
 即位前紀に、御馬皇子(みまのみこ)が三輪君身狹(みむさ)と親しかったので相談しようと出かけたが途中で伏兵にあい、《三輪山》の近くで処刑されたとある。
 雄略天皇七年に、
「《三輪山》の神の姿を見たい、捕らえてまいれ」
 ――と力自慢の使者を派遣した。
 使者は大蛇をとらえて来たが、その大蛇は雷鳴をとどろかせ、目を爛々と輝かせたので、天皇は怖れて、その大蛇を逃がし、名を雷とした、とある。
 勇猛をもって知られる雄略天皇でさえ、《三輪山》の信仰には勝てなかったことを暗示する伝説であるが、同時に、天皇が「神を捕らえよ」という命令を出していることも興味深い。崇神天皇の施政方針でわかるように、天皇は人と神の両方を治めていたのだ(*)。
 そのような経緯があったためか、十四年には、呉の国から到来した衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)が《大神神社》に奉られたとある。
 高度な技術を持った帰化人が三輪一族に与えられた――と考えられる。

(*:神に対する古代日本人の姿勢を示す面白い話が『常陸国風土記』にある。夜刀という神と住人との軋轢の物語である)


『卑弥呼と日本書紀350』

◆◆◆ 敏達天皇から持統天皇まで ◆◆◆

▽第三十代敏達天皇の御代
 敏達天皇や蘇我系の炊屋姫(かしきやひめ)皇后(のちの推古天皇)の寵臣として大三輪逆君(さかうのきみ)が活躍した。

▽第三十一代用明天皇の御代
 敏達天皇が崩御されて次ぎの用明天皇が即位された直後、敏達天皇の皇后だった炊屋姫を穴穗部(あなほべ)皇子がおかそうとしたが、敏達天皇の寵臣だった大三輪逆君が守った。
 逆君はその後皇子と物部守屋らに追われて《三輪山》に一度は隠れたが、戻って殺された。この事件によって推古天皇は物部守屋(もりや)を恨むようになったとされる。
 聖徳太子の時代の直前の混乱期におこった有名な事件である。

▽第三十五代皇極天皇の御代
 蘇我入鹿が斑鳩(いかるが)の山背大兄王(やましろのおおえのみこ/聖徳太子の御子)を不意打ちしたとき、三輪文屋君(ふみやのきみ)は大兄王にしたがって奮闘し、東国を拠点にして再起する作戦を授けたが、大兄王はきかずに斑鳩寺に戻って自決した。
 文屋君は自決にあたっての大兄王の言葉を、囲む武将たちに告げた。
 この天皇の御代に、百済の人質の余豐(よほう)が《三輪山》でミツバチを飼おうとしたが成功しなかった――とある。
(余豐は、第七章の文末で言及した百済の王族である)
 また《三輪山》で猿が昼寝をしているのを見つけた人が腕を掴まえると、その猿が眠ったままで歌を詠んだという話が記されている。
《三輪山》の存在感が大きかったとこがわかる。

▽第三十六代孝徳天皇の御代
 孝徳天皇が百済の使者に述べた言葉として、かつて、任那を百済の属領として与えたのち、三輪栗隈君東人(みわのくるくまのきみあずまひと)が任那国の境界を視察した――とある。時代は不明。
 三輪君甕穗(みかほ)が改元の儀式に輿を持つ役目についた――とある。
 三輪君色夫(しこぶ)が新羅に派遣され、その折衝の結果として新羅王は人質を寄こしたとされる。有能な外交官だったことがわかる。またこの色夫は、法頭という仏教を統制する役職にもついている。


『卑弥呼と日本書紀351』

▽第三十八代天智天皇の御代
 三輪君根麻呂(ねまろ)は白村江の戦いの直前、二万七千の大軍を率いて半島に渡り新羅を討ったとされる。
 二万七千とは大変な大部隊であり、輸送だけで膨大な費用がかかるし、普段からこれだけの大軍を養っていなければならない。したがってこの時代の三輪も大豪族だったことがわかる。

▽第四十代天武天皇の御代
 三輪君高市麻呂(たけちまろ)は壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)のもとで武将として活躍し、《三輪山》の麓の《箸墓》のあたりで近江軍と戦ってこれを撃破した。
 この功績で重臣として朝廷に仕え、理官という内務省的な要職についている。
 また高市麻呂は、次ぎの持統天皇の御代に、天皇が農繁期に伊勢行幸を計画するのを、農民を苦しめるからと諫めたが、天皇は聞かなかった――と伝えられている。
 おなじく壬申の乱のとき、三輪君子首(こびと)も大海人皇子にしたがって奮戦したが、天武天皇五年に病没した。
 天皇は悲しんで、内小紫位(従三位相当)を追贈し、また謚号として大三輪眞上田迎君(まかみたのむかえのきみ)という名を贈った。迎君とは壬申の乱で天皇を鈴鹿に迎えたことからきている。

 天武天皇の十三年に、三輪引田君難波麻呂(ひけたのきみなにわまろ)が大使として高句麗に派遣された。
 この時期、新羅は高句麗の併合を図っており、帰国したのは併合された後だったとされている。白村江の事件のあとの複雑な国際問題で揺れる朝鮮半島に派遣されたのは、きわめて有能な外交手腕をもっていたからであろう。
 同じ十三年に、姓(かばね)の制度が改革され、「朝臣(あそみ)」という姓が新設された。そして五十二の氏族が朝臣となったが、三輪一族もその一つだった。したがって三輪氏を呼ぶとき、名に朝臣をつけることが多い。
 また先の謚号・大三輪眞上田迎君で分かるように、この時代に三輪は大三輪(おおみわ)と改められたらしい。
 したがってこの少しあとで出来た『日本書紀』では、古い時代の三輪一族でも大三輪と表記されることが多い。


『卑弥呼と日本書紀352』

▽第四十一代持統天皇の御代
 大三輪朝臣安麻呂(やすまろ)なる人物が、持統天皇三年に九人の判事のなかの一人に登用されている。
 判事とは現在のそれと似ており、訴訟の審理などにあたる役職で、浄御原(きよみはら)令制によるものだろうといわれている。
 またこの天皇の時代に、諸氏族に命じて先祖の墓記を出させた――との記述があり、その氏族のなかに大三輪も入っている。墓記とは先祖の業績をまとめたものであろう。
 これが『記紀』編纂の基礎資料になったことは十分に考えられる。

▽やがて奈良時代へ
 このあと、藤原一族の勢力が強まるが、そうなってからは、物部や蘇我と同じように三輪一族も国の中枢から次第に遠ざかったらしい。
『続日本紀』を見ても、国政を左右するような重要な役職にはついていない。
 また『新撰姓氏録』では「三輪」ではなく「神」が使われ、大神朝臣とされている。『続日本紀』でも同様である。

▽ユニークな存在
 以上のほか、三輪一族らしいといわれる特別ユニークな人物に、役小角(えんのおずぬ)がいる。
 七世紀前半に《大和》に生まれ、生駒、熊野、葛城などの山に籠もって修業し、孔雀明王の神呪を唱えて奇跡を現出したといわれる伝説的な人物であるが、実在したことは確かであり、八世紀初頭に没したらしい。
 足跡は日本全国に至り、冨士山に初めて登ったのもこの役小角だとされている。
 坪内逍遙作「役の行者」でも知られている。

▽著名人の参拝
 関連事項としてであるが、歴代の朝廷はじめ著名人の信仰は数え切れず、昭和天皇や今上天皇皇后も御拝しておられることはすでに述べたが、戦後の著名人としては、三島由紀夫が「豊饒の海」第二部執筆にあたって三日三晩の参籠をしている。
 海外からも、ローマ法王代理のマレラ枢機卿、ジュネーブ大学のエルベール教授、エール大学のダッドナフ教授、フランス文化使節のマルセル博士など多くの学者や宗教家が訪れている。


『卑弥呼と日本書紀353』

■■■■■ 八・七 《三輪山》と《大神神社》4 ――磐座と祭神の謎―― ■■■■■


◆◆◆ 神社の原型としての磐座 ◆◆◆

〈一〉国津神と磐座

 神社に祭られる神々には、大別して天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)がある。
 天津神とは高天原の神々や高天原に生まれてこの国に降り立たれた神々のことである。
 国津神とは地上で生まれた神々や天孫降臨の前から地上におられた神々のことである。
(國學院大學『神道事典』より)
 一般に天津神を祀るには、古代から神鏡や神玉などの御霊代を斎場におくのがしきたりであり、このしきたりは神社本殿を斎場としていまに続いている。
 一方国津神の祀り方は、縄文弥生以来――第八・五節で詳述したように――山中の磐座(いわくら)に神が宿るとするのがしきたりであった。
 磐座とは本来的には「神が鎮座する堅固な場所」であるが、多くの場合それは山にある「巨岩」であった。
 この伝統は今も続いている。

 どちらもはじめは場所は一定せず、のちに神社の社殿として固定されるようになった。
《大神神社》の祭神は国津神であり、したがって原初にあっては《三輪山》山頂や山腹の巨岩がその斎場であったと考えられている。
 そして、国津神であっても多くの神社がしだいに本殿をつくって神鏡を持つようになったのに対し、《大神神社》においては伝統を守り、いまもなお本殿をもうけず、《三輪山》自体に神が宿るとして、拝殿と三ツ鳥居を介して山容を拝んでいることは、先に述べたとおりである。

(注:ある祭神が天津神と国津神のどちらに属すかについては、古来かなりの混乱があり、研究対象でもあるらしいが、ここでは深入りしない)


『卑弥呼と日本書紀354』

〈二〉三柱の神と磐座

 さて、《大神(おおみわ)神社》の祭神の主神は当然〈大物主(おおものぬし)神〉であるが、その他に二柱の神――〈大己貴(おおなむち)神〉と少彦名(すくなひこな)神――が祭神になっており、合わせて三柱の神が祀られている。これは《三輪山》の三という数に合わせたものかもしれない。
 社伝によれば、〈大物主神〉は神代から奉祀されており、〈大己貴神〉は第五代孝昭天皇の勅によって祀られ、少彦名神は第二十二代清寧天皇が神のお告げによって祀ったと記されている。
 前後関係や国津神の定義など、ここまでの説明と矛盾する面もあるが、〈大物主神〉以外は後の世の政策や権威付けではないかと思われる。
〈大己貴神〉はこれまで何度も出てきており〈大國主神〉の別名といってもよい神である。
 少彦名神ははじめてだが、この神は、『日本書紀』では高皇産靈(たかみむすひ)神の指の間からこぼれ落ちた小さな神で、海上から現れ、〈大己貴神〉に協力して農耕や医療を始めたとされる。
 したがって出雲系の〈大己貴神〉を〈大物主神〉に関係づけるとすれば、とうぜんこの神も関係することになる。

 この三柱の神の山中の斎場である磐座だが、昔はつぎのように分けられていたらしい。

  大物主神・・・奥津磐座(おきついわくら/山頂)
  大己貴神・・・中津磐座(なかついわくら/中腹)
  少彦名神・・・辺津磐座(へついわくら/山麓)

 禁足地は中腹から山麓にかけてだが、無数の磐座があるとともに、〈大物主神〉への祭具を奉納した場所でもあるらしい。
 もし仮に発掘したとしたら、無数の古代祭具が発見されるであろう。


『卑弥呼と日本書紀355』

◆◆◆ 〈大物主神〉の謎 ◆◆◆

〔一〕〈大物主神〉と〈大國主神〉

 さて次ぎに、主神である〈大物主神〉について、その由来を整理しておこう。
 前述のように大物主の物とは「モノノケ」の「モノ」であり、直訳すれば「偉大なる土地の精霊の王」といったことになる。
『記紀』におけるこの神は、〈大國主神〉すなわち〈大己貴神〉と関係が深いので、まずこの出雲の両神についておさらいしておく。

〈大己貴神〉は『日本書紀』本文では素戔嗚尊の御子で他では子孫とされており、地上を治めていたが、高天原からたびたび下された使者との厳しい折衝によってついに地上の権利を高天原の神々に譲り、そのかわり出雲に巨大な宮殿(出雲大社)を建ててもらう。
 この神社を奉祀する責任者の出雲国造の先祖は〈大己貴神〉説得に高天原から初期に下されたが〈大己貴神〉の側についてしまったとされる天穗日(あめのほひ)命である。
〈大國主神〉は素戔嗚尊の子孫で、『古事記』にしか出てこないのだが、その物語が寓話としてとても面白いので、著名な神である。
 少彦名神と協力して国土を経営し、大和朝廷の祖に国を譲ってからは幽界に隠れ、出雲大社の祭神になった。すなわち〈大己貴神〉と重複する神であり、同一神と考えられている。
 のちには大黒様として庶民の人気者にもなった。

 この〈大國主神〉または〈大己貴神〉は、神話は別にして、推定される史実としては、大和朝廷の先祖とは別に日本列島の主要部――とくに畿内から日本海沿岸にかけて――を支配していた豪族であり、朝廷の祖との争いに破れて《大和》やその近隣の支配権を大和朝廷に譲り、《大和》から遠い出雲地方に居着いたのだろうという説がある。
 大和朝廷としては、この出雲一族に叛乱されないようあれこれ気を使って、一族の顔を立てる措置をいろいろと講じてきた様子が『記紀』からうかがえる。
《三輪山》の〈大物主神〉との関係もその一つで、つぎのような物語が記されている。


『卑弥呼と日本書紀356』

〔二〕『日本書紀』

〈大己貴(おおなむち)神〉が国土を開発しつつ出雲に到着して、

「この国を平定したのは自分一人だろう」

 ――といったところ、あやしい光で海を照らして到来する者があり、

「私がいたから平定できたのだ」

 ――と語った。

 これはおそらく蜃気楼現象を神話化したのだろうが、〈大己貴神〉が質問すると、
「私はあなたの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)で、大和の三諸山に住みたい」
 ――と答える。

 幸魂とは狩猟漁猟の幸をもたらす魂で、奇魂とは健康をもたらす魂だとされ、また人の穏やかな魂である和魂の二つの機能のことだという本居宣長らの説もある。

 自分の魂と会話する話も神話として興味ぶかいが、この答をきいて〈大己貴神〉は自分の和魂を祀る宮殿を三諸山につくった。
 これが《三輪山》の神の〈大物主神〉で、この話が《大神神社》の源であるとされる(*)。

 神社は一般に祭神を崇敬する人たちが創建するのだが、この伝承では祭神そのもが神社をつくる。
 神が神社をつくるのはきわめて珍しく、これが唯一の例だとされている。
 そしてこの神の子が神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命であり、子孫が大三輪君らの一族である。
 なお《大和神社》の祭神とされる〈大己貴神〉の荒魂は、和魂と対になる概念で、神霊は和魂と荒魂とよりなるとされる。

(*:大己貴神の子ともされる事代主(ことしろぬし)神とともに帰順して天に昇った〈大物主神〉に対して高皇産靈(たかみむすび)尊が勅して「吾が女(むすめ)三穂津姫(みほつひめ)を以ちて汝に配せ妻とせむ。八十万神を領(ひき)いて、永に皇孫の為に護り奉るべし」として地上に降らせた――とされる。大和朝廷の守護役としての役割を与えて味方につけた伝承である)


『卑弥呼と日本書紀357』

〔三〕『日本書紀』の一書

〈大己貴神〉の御子の事代主(ことしろぬし)神の姫が神武天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命であるとする。

〔四〕『古事記』

〈大國主神〉は大穴牟遅神とも呼ばれていて、度重なる危機を切り抜けて国土を造り、多くの神を生んだ。
 また出雲に流れ着いた少彦名神と協力して国造りに励んだ。
 のちに少彦名神は常世国に渡った――つまり没した――ので、〈大國主神〉は嘆いて、

「自分一人でこの国をうまく造ることはできない。どの神が一緒にやってくれるだろうか」

 ――といったところ、海面を光らせながら近づいてくる神があった。
 その神は、

「自分をよく祭るなら協力してあげよう」

 ――と述べる。
 その祭り方を〈大國主神〉が質問すると、答えて、
「大和の青々と垣のようにめぐる東の山の上に祭るように」

 ――と述べた。
 この神が御諸山の神――つまり《三輪山》の神――である。
(この『古事記』の神話には幸魂・奇魂の話はない)


『卑弥呼と日本書紀358』

◆◆◆ 〈大物主神〉の由来のまとめ ◆◆◆

〈大物主神〉について正史に書かれていることは以上のとおりなのだが、その由来については、いくつもの説が解説書に記されている。よく言われる説を列挙してみよう。

A――
《三輪山》への素朴な信仰は縄文・弥生時代からあったが、弥生中期と想定される神武東征の前に出雲一族が大和東部まで支配するようになり、そのころに〈大己貴神〉の魂が《三輪山》に宿っているという信仰ができた。その後に出雲一族は大和朝廷に国を譲った。大和朝廷は彼らの誇りを守るために出雲の地に巨大な社を立てることを許した。
 このとき《三輪山》に残ったのが〈大己貴神〉の和魂でそれが〈大物主神〉となり、出雲に遷ったのが荒魂でそれが〈大國主神〉になった――ともいわれる。

B――
 出雲一族はもともと大和の地の豪族で《三輪山》を〈大己貴神〉の霊として信仰しており、後に大和朝廷にゆずって出雲に移ったが、信仰は残り、新たに〈大物主神〉という神名ができた。
 出雲の巨大な社や和魂荒魂の件についてはAと同じ。

C――
《三輪山》の祭神〈大物主神〉(山そのもの)は、古く縄文時代から山麓に住んでいた人たちの信仰の対象だったが、その山麓に進出した大和朝廷の首脳たちは、地元住民との融和をはかりつつ祭祀権を得て《大和》全体を支配するために、朝廷として公式に〈大物主神〉を祀ることにした。
 さらに《大和》周辺を領有して抗争相手だった出雲一族との融和もはかるために、〈大物主神〉が、出雲一族の祖神である〈大己貴神〉や〈大國主神〉と関係する――という神話をつくった。
 ただし〈大物主神〉という名称そのものは、崇神天皇の時代に〈倭迹迹日百襲姫命〉が神託によってつくったものかも知れない。

D――
 出雲一族とは別に、神武東征より前に東征して《大和》を支配していた〈饒速日命〉の一族も《三輪山》の神を崇拝していた。
 だから〈大物主神〉は〈饒速日命〉かもしれない。
 しかし物部として朝廷に仕えるようになり総氏神の《石上神宮》もでき、また〈饒速日命〉を祀る神社も数多く出来たので、〈饒速日命〉は《大神神社》の表面からは姿を消した。


『卑弥呼と日本書紀359』

E――
 古代史家として著名な田中卓は次ぎのような仮説を述べている。
〈大己貴神〉の本拠は(現在の出雲ではなく)元来が《大和の三輪山》で、元々三輪一族の神だった。そして(別の一族だった)出雲一族が三輪一族と婚姻関係に入って〈大己貴神〉を奉じるようになったが、やがて朝廷に追われて出雲に移ったのであろう。
(これはAやBに近い推理である)

F――
 出雲一族ははじめから海に近い中国地方――とくに日本海がわ――が本拠で、九州から畿内への道を塞いでおり、さらに《大和》周辺にも勢力を伸ばしていた。
 したがって瀬戸内海航路や日本海沿岸航路を確保して《大和》に王権を築きたい大和一族との間ではげしい軋轢があり、大和一族としては武力だけでは抑えきれないので、融和策として出雲に巨大な神殿をつくる一方、出雲一族の先祖神と〈天照大神〉や〈大物主神〉が関係するという神話をつくりだした。
 一方大和朝廷と兄弟関係の〈饒速日命〉/物部一族は、大和朝廷より先に《大和》に進出して出雲一族を圧しており、神武東征時の奈良盆地での覇権争いは大和朝廷と〈饒速日命〉系の間のみとなっていた。

**********

 いずれの説であっても、三輪山麓に都を築いた初期大和朝廷が、祖神である〈天照大神〉を祀ると同時に《三輪山》の神である〈大物主神〉、および土地の神である〈倭大國魂神〉を奉斎して信仰の面で地元民と融和し、同時に対抗豪族である物部一族や出雲一族が親戚筋であるという伝承を持つ巨大な神社をつくって反抗を抑え、さらに各方面の豪族の娘を妃に娶って実際上も血縁化する――という政策によって《大和》の地に地歩をきずいたと考える点では、同じである。

 だから大和朝廷発展時の構成員は、天津神の子孫を自認する人たちであるとともに、もとから《大和》にいた人たちの子孫であることを誇りにする人たちでもあったのだ。

 これらの由来譚とはべつに、本地垂迹説の影響をうけた三輪流神道においては、三輪の神〈大物主神〉と〈天照大神〉を同一視する考え方がある。
 しかしこれは鎌倉時代にできた一種の新宗教であるらしい。


『卑弥呼と日本書紀360』

◆◆◆ 数多い摂末社と社宝 ◆◆◆

《大神神社》の摂社は、奈良市内のものも含めて十二社ある。また末社は二十九社ある。合計四十一社だが、神木や祠の類を入れればはるかに多いであろう。
 また全国にある御分霊と考えられる関係社は数百社を数える。
〈神功皇后〉が招聘した社などもその一つである。
 現在名と所が明確な関連神社は十八社である。
 以下、大和にある主要な摂末社を、本社を含めて列記しておく。
(フリガナは部分にとどめる)

ア 本社・大神神社
   大物主神(主神)
   大己貴神
   少彦名神

イ 摂社・高宮神社
   日向御子神(大物主神の御子)
   山頂にある特別な神社であり、雨乞いでも有名。

ウ 摂社・活日神社
   高橋活日命(日本初の御神酒職で杜氏の先祖神)

エ 摂社・狭井神社
   大神荒魂神(大物主神の荒魂)
   大物主神(記で神武皇后の父)
   媛蹈鞴五十鈴媛命(神武皇后)
   勢夜多々良姫命(記で神武皇后の母/紀で神武皇后の祖母)
   事代主神(紀で神武皇后の父)
  第十一代垂仁天皇の御代に勅命で創建。御山に登る信者のための入口。

オ 摂社・檜原神社
   天照大神の若御魂の神
   伊弉諾尊
   伊弉冉尊
  参道から鳥居から拝殿まで本社《大神神社》とそっくりな形式をもつ。最初の元伊勢  として著名。

カ 摂社・神御前(かみのごぜん)神社
   倭迹迹日百襲姫命(卑彌呼の有力候補)
  茅原の南入口付近で三輪山の正面を背景にしている。


『卑弥呼と日本書紀361』

キ 摂社・大直禰(おおたたねこ)神社(若宮)
   大直禰命(大田田根子)
   少彦名神
   活玉依姫命(記で大田田根子の祖/紀で大田田根子の母)
  第十三代成務天皇が靈夢によって創祀されたと伝えられる。本殿は国の重要文化財。
  国宝乾漆十一面観音立像は神仏混淆の時代にこの社に奉安され明治になって聖林寺に  遷された。

ク 摂社・率川(いざがわ)神社
   媛蹈鞴五十鈴媛命(神武皇后)
   事代主神(紀で神武皇后の父)
   玉櫛媛命(紀で神武皇后の母)
  第三十三代推古天皇の御代に三輪一族が勅命によって創建した。

ケ 末社・豐鍬入姫(とよすきいりひめ)宮
   豐鍬入姫命(はじめて天照大神を祀った斎宮。臺與の有力候補)

コ 末社・冨士社
   木花咲耶姫(このはなさくやひめ)命(天孫降臨した瓊瓊杵尊の妃)

サ 末社・天皇社
   御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)

シ 摂社・磐座神社
   少彦名神

ス 摂社・綱越神社
   祓戸(はらえど)大神(お祓いを司る神)
  三輪山全体のお祓いをおこなう神。延喜式にもある。一の鳥居のそば。

セ 末社・八阪社
   素戔嗚尊


『卑弥呼と日本書紀362』

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 神話で馴染みの神々が祀られた神社はまだまだあるが割愛し、社宝について記しておく。
《大神神社》は《石上神宮》と違って、古代においては物としての宝を保持する宝庫を持たず、したがって『記紀』に伝承されているような神宝はない。
《三輪山》自体が神宝なのだ。
 しかしそれでも、かなり古い史料類はいくつかある。

  境内全体(国史跡指定)
  拝殿(国の重要文化財)
  三ツ鳥居(国の重要文化財)
  大直禰神社の本殿(国の重要文化財)
  乾漆十一面観音立像(国宝/現在は聖林寺に)
  周書断簡一巻(国宝/大直禰神社で発見された唐時代の文書)
  木楯(国の重要文化財)
  高坏(奈良県重要文化財)
  湖州鏡(奈良県重要文化財)
  近代になって発掘された土器・玉・勾玉など
  樋口清之が奉納した、付近のホケノ山古墳から出土した鏡など

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 かなり長くなったが、以上が《三輪山》すなわち《大神神社》の概要である。
 日本の古代史を語るうえでいかに重要な神社か、またいかに古い信仰形態を持続している神社か、理解していただけたと思う。

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 次節は、《大神神社》はじめ諸神社を奉斎して禍を切り抜けた崇神天皇が、どのような国土経営に乗り出したか、また〈倭迹迹日百襲姫命〉がどのような運命をたどったか――を物語る、崇神天皇紀の続きである。


『卑弥呼と日本書紀363』

■■■■■ 八・八 〈倭迹迹日百襲姫命〉の未来予知と奇怪な急死、そして四道将軍の派遣 ■■■■■


◆◆◆ 第十代 崇神天皇の物語(4) ――〈百襲姫命〉の活躍と急死―― ◆◆◆
   (第八・三節の続き)

▽崇神天皇十年(西暦前八八年)1
 〔大和朝廷の発展と四道将軍の派遣〕

 七月二十四日――
 周囲が安定したので自信をもった崇神天皇は、この年、野心的な詔勅を発した。
 それは、

「神々を敬ったので災害は除かれた。しかし遠方にはまだまだ教化の及ばない人たちがいる。そこで重臣たちを四方に派遣して私の教えを知らせたい」

 ――というものであった。

 神社や婚姻によって諸豪族と融和し《大和》を平定した大和朝廷が、いよいよ周辺(奈良県の外れや外部)の平定に向かおうという、有名な宣言である。

 九月九日――
 吉備津彦(きびつひこ)を西道(山陽)に、丹波道主(たにはのみちぬし)命を丹波(京都北部から山陰)に、大彦(おおひこ)命を北陸に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に、それぞれ派遣する。
 これが有名な四道将軍である。
 四人の将軍が四つの道に進んだので、四道将軍と呼んだのだ。


『卑弥呼と日本書紀364』

 この四つの方角は、もちろん《大和》から見たもので、図4・1に矢印によって示しておいた。

図4・1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

 左から時計回りに、西道・丹波・北陸・東海である。
 四人の将軍はいずれも崇神天皇を囲む有力者で、

 吉備津彦・・・第七代孝靈天皇の皇子で
       〈倭迹迹日百襲姫命〉の弟。
 丹波道主・・・第九代開化天皇の曾孫で
        第十一代垂仁天皇の皇后の父。
       〈倭迹迹日百襲姫命〉の甥の孫。
 大彦命・・・・第八代孝元天皇の長子で
        開化天皇の兄でしかも
        崇神天皇の皇后御間城姫の父親。
       〈倭迹迹日百襲姫命〉の甥。
 武渟川別・・・その大彦命の子、つまり皇后の兄弟。
       〈倭迹迹日百襲姫命〉の甥の子。

 ――とされている。
 すべて〈倭迹迹日百襲姫命〉の近い血縁であることを覚えておいていただきたい。また、百襲姫命の男弟の吉備津彦が有力者であった事も注目される。
(『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼〉の男弟?に対応可能だからである)


『卑弥呼と日本書紀365』

▽崇神天皇十年(西暦前八八年)2
 〔〈倭迹迹日百襲姫命〉の未来予知〕

 さてここでまたも〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉が活躍する。
 甥の大彦命が出発して今の天理市のあたりを通ったとき、童女が、天皇が殺される――という奇妙な歌を歌っているのを聞いて、驚いて天皇に知らせる。
 すると〈倭迹迹日百襲姫命〉が霊力を使って禍を予見し、

「それは武埴安彦(たけはにやすひこ/先々代の孝元天皇の皇子の一人)が謀反を起こす兆しである。武埴安彦の妻が密かにこの近くに来て神聖な香具山の土を盗り呪い言をして『これ大和の国の物実』と言って帰った。早く備えなければいけない」

 ――と忠告するのだ。
 香具山の土は神武天皇のころから神々を祭るのに使っているので、その土を盗むというのは、大和政権を奪うことを意味している。
 この描写のところで『日本書紀』は〈倭迹迹日百襲姫命〉のことを、

「於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命聡明叡智、能識未然。」
(〈倭迹迹日百襲姫命〉は崇神天皇の伯母できわめて聡明で未来のことを予知する能力があった)

 ――と重要な記述をしている。
 この予言を聞いた崇神天皇は将軍たちと相談して、出発予定の四人の将軍を留めてこれに備え、激戦のすえ武埴安彦夫婦を討ち取り、政権の維持に成功する。


『卑弥呼と日本書紀366』

▽崇神天皇十年(西暦前八八年)3
 〔〈倭迹迹日百襲姫命〉の神人婚と怪死〕

 この戦いの模様はいかにも古代らしい面白いものなのだが、その後、とつぜん、奇妙な説話が語られる。
〈倭迹迹日百襲姫命〉が《三輪山》の神の〈大物主神〉と結婚してしまうのだ。
 しかし〈大物主神〉は夜しか姿を見せないのでお顔をはっきりと見ることができない。
 そこで、

「もうすこし留まってください。朝になればお顔が見えるでしょう」

 ――と懇願する。
〈大物主神〉は、
「それもそうだ。では朝になったら櫛箱に入っていよう。だが私の姿を見て驚かないように」

 ――と述べる。
〈百襲姫命〉は変に思ったが、朝になって櫛箱をあけてみると、そこにはとても綺麗な小さな蛇が入っていた。
〈百襲姫命〉は驚いて思わず叫んでしまう。すると蛇は人の形になって、

「お前は私に恥をかかせた。今度はお前に恥をかかせてやる」

 ――といって、空を飛んで《三輪山》に去る。
〈倭迹迹日百襲姫命〉は後悔して急に座り込むが、その弾みに箸で陰部を突いて死んでしまうのである。


『卑弥呼と日本書紀367』

《大神神社》で蛇が尊重されるのはこのためだが、《三輪山》には白い蛇が多くいたので「〈大物主神〉=白蛇」という伝説ができたのだろう。
 この説話は、〈倭迹迹日百襲姫命〉の話と大田田根子の母親の伝承とが混乱した結果だとの説もある。
 しかし大田田根子の母の方は死んではいないから、〈百襲姫命〉の唐突の死は独特であり、重大な事件である。

〈大物主神〉との結婚自体は、元来が神につかえる神子(巫女)とは神と結婚した女性なのだという思想があるので、不思議ではない。
〈百襲姫命〉が〈大物主神〉の神託を告げる《三輪山》の神子――もちろん神秘的な霊力をもった高度な巫女――であったことをあらわしているにすぎないであろう。
 だが、箸で下腹部をつかれて死ぬ伝承はいささか異常である。
 崇神天皇を指導するほど身分と学識の高い皇女にしては、奇妙な死に方である。

 推測を重ね過ぎてもいけないが、『魏志倭人伝』における〈卑彌呼〉の唐突な死は自殺または他殺ではないのか――という松本清張たちの説を連想する。
 またそれが〈天照大神〉の岩屋隠れと暗合するという井沢元彦の説を連想する。
 さらに、古墳の中で下腹部だけを矢で突かれて死んでいる老女が発掘されているという樋口清之の話や、素戔嗚尊の乱暴で梭で陰部をついて死んだ姫の話も想起される。
〈卑彌呼〉の唐突な死とこの〈倭迹迹日百襲姫命〉の突然の死とのあいだに、奇妙な暗合があるのだ。

「尖ったもので下腹部を突かれて突然死する」

 ――という、古代の重大事件である。


『卑弥呼と日本書紀368』

▽崇神天皇十年(西暦前八八年)4
 〔〈倭迹迹日百襲姫命〉の《箸墓》造営譚〕

 さて、本文に戻って、没した〈倭迹迹日百襲姫命〉は大市の里に埋葬され、その墓は《箸墓(はしのみはか)》または《箸墓(はしはか)》と名づけられた――とある。
 現在でもそのように呼ばれており、図8・1、8・5などにその位置がある。

図8・1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

図8・5
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H84-85.htm

『日本書紀』ではその次に、

「是墓者日也人作、夜也神作。故運大坂山石而造。則自山至于墓、人民相踵以手逓伝而運焉。」
(この御墓は、昼は人がつくり夜は神がつくった。使用した石は、大坂山から御墓まで人民が並んで手渡しして運んだ)

 ――と記し、その様子を歌った歌までが書かれている。

  大坂ニ繼ギ登レル
  石群(いしむら)ヲ
  手遞傳(たごし)ニ越サバ
  越シカテムカモ

――という歌である。

 大坂山とは大和と河内の間にある山で、現在二上山と呼ばれているあたり(図5・2または8・1の左端中央)らしい。この山の石を大勢で手渡ししつつ運んでいる有様を歌っているのだ。


『卑弥呼と日本書紀369』

 これが、古墳時代の到来を告げる御墓として有名な、日本で最初の超巨大前方後円墳《箸墓》である。
 墳丘長だけで二百八十メートルもある。
 現在は埋められているが、発掘調査の結果周濠跡が発見されており、それまで入れるとはるかに大きい。
 それまでのすべての天皇陵をはるかに上回っている(直前の開化天皇陵や父君である孝靈天皇陵の十倍に近い!)ばかりではなく、直後の著名な崇神天皇や垂仁天皇の御陵をも上回っているのである。

 また、このように墳墓がつくられたときの様子や歌までが書かれているのは、『記紀』としては異例中の異例で、最初で最後といってよい。
 古代の天皇紀では、天皇の墓でも御陵名が一行で書かれているだけ(崇神天皇についても同様)がふつうだし、場所すら書かれていない天皇もあるくらいなのに、ここでは天皇ではない一皇族なのに異常なまでに詳細なのだ。
 しかも女性である。

 一人の皇女にすぎないにもかかわらず、その前後の天皇陵より巨大な御陵ができ、『日本書紀』の編纂者が天皇以上の詳細な造営譚の記述をあえて行ったのには、そこになにか特別な事情があった――と考えざるをえない。
 三輪一族の主張があったとしても、ここまで詳細に書くのは不思議だし、事実その御陵は天皇陵を上回る規模なのである。

 図8・8に、『日本書紀』における〈倭迹迹日百襲姫命〉の死から御墓築造までの部分を示した。

図8・8
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H86-88.htm

 また図8・9に、北西の池の側からみた雄大な《箸墓》を示した。写真の右が前方部、左が後円部である。

図8・9
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H89-812.htm


『卑弥呼と日本書紀370』

 図8・10は、古代の巨大墳墓の工事の想像図である。
 よほど高度な土木技術を駆使しなければ、このような巨大な墳墓を構築することはできない。
 崇神天皇時代の大和朝廷が、きわめて高度な技術と大きな動員力を有していたことをあらわしている。

図8・10
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『日本書紀』中の〈倭迹迹日百襲姫命〉は「崇神天皇を指導する女性」として記述されているが、この時代の女性の地位は一般家庭でもかなり高かったらしい。
 稲を植える田植という重要な仕事は女性が独占していた。
 近世〜近代の日本女性の地位の高さは、幕末から明治初期に来日した欧米人が近隣国と比較して驚いているが、〈倭迹迹日百襲姫命〉の時代や推古天皇を生んだ飛鳥時代にあっては、とくに高かったらしい。
 だから最高の神社の祭神が女神の〈天照大神〉であっても、最初の超巨大な前方後円墳の主が女性であっても、そのこと自体は不思議ではない。

 不思議なのは、天皇とされていないのに当時の歴代天皇よりはるかに詳しく、その死や墳墓造営の話が書かれていることである。
 いや、死や墳墓だけでなくその業績についても、初代神武天皇と第十代崇神天皇の間のどの天皇よりも詳しく記されているのだ。
 しかもその御陵は、それまでのどの天皇陵よりも遙かに大きい。
 隔絶した巨大さである。
〈倭迹迹日百襲姫命〉が崇神天皇の直前に事実上の天皇――しかも最初に大和を平定した天皇――だったという仮説が唱えられる所以である。


『卑弥呼と日本書紀371』

▽崇神天皇十年(西暦前八八年)5
 〔四道将軍の出発〕

 十月一日――
 混乱がようやくおさまると、崇神天皇はあらためて詔勅を発して、

「いまや反逆者はすべて伏して畿内は平穏になった。しかし畿外にはまだ騒動があるので、四道将軍はただちに出発せよ」

 ――と命じ、二十二日に改めて四人の将軍は《大和》を出て、それぞれの目的地に向かった。

 この年の『日本書紀』の紀年は西暦前八八年であるが、考古学を加味した実紀年研究では、三世紀半ばから後半にかけてだろうと推理されている。
 すなわち〈卑彌呼〉が没したすぐあとである。

▽崇神天皇十一年(西暦前八七年年)
 〔四道将軍の凱旋〕

 四月――
 翌年のこの月、四道将軍が凱旋して、四方を平定したことを天皇に報告する。
 そして異俗の人が多く《大和》にやってきて、朝廷に帰順し、国内が安泰になった――と記されている。
 ここの異俗とは大陸の外国人のことではなく、日本国内の遠方の各地方の人たちが天皇を慕ってやってきた――という意味であるらしい。


『卑弥呼と日本書紀372』

**********

 この前後の崇神天皇の周辺平定の苦心譚を読むと、『魏志倭人伝』における〈卑彌呼〉の死後のつぎの記述(第三・八節)が頭に浮かぶ。

「・・・更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千人余を殺す。またまた卑彌呼の宗女臺與十三なるを立てて王となし国中遂に定まる・・・」

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――においては、男王に服せず、という箇所が、崇神天皇の苦労に暗合すると考え、〈臺與(とよ)〉を後継者とした記述が、〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉が〈天照大神〉を祀る役を担ったことに暗合すると考えることが多い。

 年代の順がすこし混乱するが、なにしろ各豪族の古い伝承をまとめているので、前後するのはやむをえない。
 前記したが、〈倭迹迹日百襲姫命〉の死がもうすこし前か、または〈豐鍬入姫命〉の祭祀担当がやや後だとすれば、年代の矛盾はなくなり、『魏志倭人伝』と『日本書紀』の一致度はきわめて高くなる。

 そしてこの説では、
〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉
 から
〈臺與〉=〈豐鍬入姫命〉
 ――への移行は、大和朝廷や豪族たちの祭祀の中心が《三輪山》の〈大物主神〉から先祖神の〈天照大神〉に移ったか、もしくは大和朝廷が土地の豪族たちに〈天照大神〉を認めさせることに成功した――と解釈し、さらに、男王=崇神天皇の事績が『魏志倭人伝』では過小評価されている――と解釈するのである。

(この説において、〈卑彌呼〉を補佐した「男弟」なる存在もまた若いころの崇神天皇である可能性が高いと考えるのは当然である。すなわち男弟=男王の可能性があるとするのだ。本当の弟だったらしい吉備津彦なのかも知れないが、のちに記すように、崇神天皇も義理の弟――またはそれに近い立場――だった可能性があるのである)


『卑弥呼と日本書紀373』

■■■■■ 八・九 稲荷山刀銘による四道将軍派遣の史実性の検討、ならびに出雲・任那との関係 ■■■■■


◆◆◆ 四道将軍を証明する奇跡の稲荷山刀銘 ◆◆◆

 さて、〈卑彌呼〉の死の直後らしい時代に大和朝廷の力を畿外にまで広めた四道将軍の実在性であるが、それは考古学上の発見によって見事に実証されている。
 すなわち、昭和五十三年九月に、埼玉県行田市の稲荷山古墳から、一一五文字の銘文が刻まれた刀が発掘され、その銘文によって、四道将軍の派遣が史実であることがわかったのだ。
 もちろん古代の神話的な事件を推理するのだから、一部に異論もあるのだが、他の考古学的知見と合わせて、さいきんでは四道将軍が実在したとの見解がきわめて有力となってきている。

 図8・11にこの稲荷山刀銘を示した。

図8・11
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 文字は《石上神宮》の「七支刀」と同じ手法で、彫った線に金を埋め込んだ金象嵌である。
 読み方にはいくつかの説があるが、ここでは田中卓のものを記しておく。多くの学者がほぼ同じ読み方をしている。

「辛亥の年の七月中、記す。ヲワケの臣の上祖、名はオホヒコ、其の児、タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカハシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、其の児、名はカサハヤ、其の児、名はヲワケの臣、世々、杖刀人の首として、奉事し来たりて今に至る。ワカタケル大王の寺、シキの宮に在り。時に、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」


『卑弥呼と日本書紀374』

 衝撃的な銘文だが、とくに注目すべきが、これを作ったヲワケの臣(おみ)なる人物の先祖が、オホヒコだと記していることと、ワカタケル大王(おおきみ)がシキの宮にいたときに仕えたと記していることである。
 オホヒコとは北陸に派遣された四道将軍の一人である大彦(おおひこ)命と考えられ、この命を先祖とする人物が自分の家系と自分の働きを記した記念の刀を作ったというのだ。
 出土は埼玉だが刀の製造場所は《大和》だっただろうとされている。
 またワカタケル大王とは、初瀬川岸つまり磯城(しき)に皇宮をつくった第二十一代雄略天皇に違いない。

 シキの宮という場所(図8・1の21)も一致しているし、ワカタケルは『日本書紀』にある雄略天皇の国風謚号の大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)とピタリと一致している。
 このワカタケルという呼び名は、熊本県から出土した同時代の江田船山大刀の銘文にも見られる。
 辛亥(かのとゐ)は西暦四七一年を示す干支だが、雄略天皇の崩年干支による推定崩年は四七九年または四八九年とされるので、四七一年は在位中であり、年代的にも矛盾がない。

 この銘文の前半は家系だが、後半の解釈は田中卓によれば次ぎのごとくである。

「その児のヲワケの臣にいたるまで、世々、杖刀人(刀を帯びた警護の人)の首長としてお仕えして今に至りました。幼武大王(わかたけるのおおきみ/雄略天皇)の皇宮は磯城(しき)にありますが、この時私は、大王が天下を統治されるのをお助けし、この練りに練り鍛えた鋭利な刀を作らせまして、その刀に自分の先祖以来、お仕えしてまいりました根源を書き記しておくものであります」


『考古学の衝撃』

『卑弥呼と日本書紀』の連載は、このあと考古学的な話が多くなり、いよいよ邪馬台国の核心に迫ります。
 痛感するのですが、平成に入ってからの考古学の進展は驚異です。
 歴史というのは、私の専門である工学とは違って、学説の真偽を実験で確認することが困難です。
 まあ多少はそういう面もありますが、ごく一部に過ぎません。
 歴史――とくに古代史において、工学の実験に相当するのは、なんといっても考古学の進展でしょう。
 高名な学者の何十年にもわたる文献を中心とした古代史研究の成果が、考古学の新しい知見によって一夜にして覆る――という光景を、平成になってから何回も見てきました。
 邪馬台国問題におきましても、平成になってからの考古学の成果はじつに強力で、昭和期の学者の無数の研究が覆され、大正時代の無名の研究家の意見が復活する、という現象も見られます。
 この十年、大和説が優勢になってきた理由も、考古学の進展にあります。

 今の連載は、もう六割に達しており、あと四割で終わります。
 それでも、これまでの連載で一番長くなるかもしれません。
 この前に(別の掲示板で)やっていた『発明特許の日本史』が573回でしたから、それより長くなりそうです。
(『発明特許の日本史』は、今推敲を重ねて改訂版をつくっておりまして、それがすめばまた新規に連載するかもしれません。『国際通信の日本史』の連載も193回、さらに靖国神社一問一答、卑弥呼一問一答、皇統の危機に思う、などいろんな連載をやってきましたので、合計するともう2000回に近いのかもしれません。我慢強い方でないと読み続けることは出来ないと思います。ありがとうございます(平伏))


『卑弥呼と日本書紀375』

 つぎに、この刀銘の系譜における系図と歴代天皇との照合をしてみる。
 一代をほぼ三十年とし、天皇の紀年を崩年干支で推定して、田中卓は次ぎの対比を有力としている。

  オホヒコ       崇神天皇
   ↓          ↓
  タカリのスクネ    垂仁天皇
   ↓          ↓
             景行天皇・日本武尊
  テヨカリワケ      ↓
   ↓         成務天皇
  タカハシワケ      ↓
   ↓         仲哀天皇・神功皇后
              ↓
  タサキワケ      應神天皇
   ↓          ↓
  ハテヒ        仁徳天皇
   ↓          ↓
  カサハヤ       履中・反正・允恭天皇
   ↓          ↓
  ヲワケの臣      安康・雄略天皇

 はじめの崇神天皇の在位がほぼ三世紀半ば、さいごの雄略天皇の在位が五世紀半ばなので、古代の二百年の系譜が記されていることになる。
 天皇は政治的理由によって交替が早いことがあるが、一般豪族ではそういうことは少ないので、右の表では天皇のほうが代数が多くなっている。

 このような系譜の照合からも、オホヒコが崇神天皇の御代の大彦命である可能性がきわめて高いと推理されるのである。
 この銘文は、紙に書かれたものとしては日本最古とされる海部氏の系図よりもはるかに古い。
 そして四道将軍の名前までが記されており、これによって『日本書紀』の記述の信憑性が、部分的ではあるが、第十代の崇神天皇にまで遡って確認することができるのだ。
 だから、同じ崇神天皇紀に記された〈倭迹迹日百襲姫命〉の活躍や《三輪山》の祭祀の問題も、単なる伝説とは考えられないのである。
 このような系図が出土したことは、戦後の考古学の大きな成果である。

 この奇跡の刀銘系図によって『日本書紀』の記述の信憑性を確認したところで、崇神天皇紀にもどろう。


『卑弥呼と日本書紀376』

◆◆◆ 第十代 崇神天皇の物語(5)――出雲との確執と崩御―― ◆◆◆
   (前節の続き)

▽崇神天皇十二年(西暦前八六年)
 〔『日本書紀』編纂者による最大限の賛辞〕

 月十一日――
 この日に詔勅を出して、これまでの苦労を偲び、今後の戸籍調査と課税についての方針を述べた。
 そのおおまかな意味は、

「皇位を継承してから苦難が多く、昼夜は混乱し、天候不順となり、疫病は蔓延し、百姓(おおみたから/宝のように大切な国民という意味)は災害をうけた。しかし過ちを改めて神々を敬い、乱暴者を教え諭し、帰服しない者は討伐した。こうして国の秩序が良くなり、国民は生活を楽しむようになった。異俗の人たちも訪れ、海外の人たちも帰属している。この時にあたって国民の戸籍を調べ、長幼や課役の順を知らしめよう」

 ――といったことだった。

 これまた従来の天皇紀にはない、自信にあふれた施政方針演説である。
 ここで面白いのは、「昼夜は混乱し(原文は陰陽謬錯)」で、西暦二四八年の日蝕(〈卑彌呼〉の死の原因になったという説がある)の生起と推理できないでもない。

 九月十六日――
 前記施政方針にもとづいて、史上はじめて戸籍を調べ課役を科した。男は狩猟、女は織物である。
 これによって神々は穏和になり、天候も良くなり、百穀豊饒となり、家々は豊かになり、人々は満足し、天下は平穏となった。
 そこで人々はこの天皇を讃えて、
  御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
 ――と申し上げた。

 御は治という意味を持っており、初めての国を治めた、または初めて国を治めた――といった意味である。
 この特別な尊称が、百二十五代にわたる全天皇のなかでも、初代の神武天皇とこの第十代の崇神天皇の二天皇にしかつけられていないことに注意されたい。
 この特別な称号といい、〈天照大神〉ほかの神々の奉斎といい、《箸墓》の特別な説明といい、『日本書紀』編纂者たちが、この時代をどのように考えていたか、この時代についてどのような元史料を見ていたかが推理できてじつに興味ぶかい。


『卑弥呼と日本書紀377』

▽崇神天皇十七年(西暦前八一年)
 〔はじめての計画造船〕

 七月一日――
「船は国にとって重要なものであるが、海辺の民は船がなくて困っている。そこで諸国に命じて造船させよ」
 との詔勅を出された。

 十月――
 この詔勅によって、はじめて船を建造した。
 これは、大和朝廷が計画的な造船をはじめたことを示すとともに、出雲族、海部族など海に強い豪族を配下においたことを示す記述である。

▽崇神天皇四十八年(西暦前五〇年)
 〔夢による皇太子の決定〕

 一月十日――
 いきなり三十年も飛んでしまうが、これは実紀年を延長して天皇をきわめて長寿として記述していることによるやむをえない飛躍である。
 天皇はこの年、二人の皇子に夢を見るように命じた。
 すると兄の豐城(とよき)命は《三輪山》に登って東方に向かって槍を突き出し刀を振るった夢をみた。
 また弟の活目(いくめ)尊はやはり《三輪山》に登って縄を四方に張って粟をたべる雀を追い払った夢をみた。

 四月十九日――
 天皇はその夢を根拠にして、弟の活目尊は四方に気を配っているので皇太子に定め、兄の豐城命は東方を向いているので東国の支配者に命じた。
 この東国を治めた豐城命が上毛野(かみつけの/群馬県)と下毛野(しもつけの/栃木県)の始祖になった。
 東国とは関東周辺のことだと分かるし、また『魏志倭人伝』の狗奴(くな)国の有力候補である毛野(けの)国が平定された説話として読むこともできる。


『卑弥呼と日本書紀378』

▽崇神天皇六十年(西暦前三八年)
 〔大和朝廷と出雲一族との確執〕

 七月十四日――
 この年、出雲と大和の間で激しい確執が有ったらしい記述がなされている。
 有名な話だが簡単に述べる。
 崇神天皇が、

「出雲大神の宮(出雲大社)に収めてある、出雲臣の祖神武日照(たけひなてり)命が天から持ってきた神宝を見たいものだ」

 ――と希望して使者を派遣する。
 当時の天皇が「見たい」と仰せになるのは「献上せよ」に等しい一種の命令であり、地方の豪族を帰順させるための方策だったから、事は重大だった。
 武日照命とは、出雲大社を管理している出雲国造(くにのみやつこ)または出雲臣(いずものおみ)の先祖の一人で、国譲折衝のために高天原から下されたが〈大己貴(おおなむち)神〉ら出雲の神の味方になってしまった天穗日(あまのほひ)命の子とされている。第六章の国譲りの箇所を参照されたい。

 ところがちょうどそのとき神宝の管理責任者出雲振根(いずものふるね)が九州の筑紫に行っていたため、弟の飯入根(いいいりね)がその神宝を天皇の使者に渡す。
 管理責任をおう出雲振根は帰ってからそのことを知って怒り、何年か恨みが続いてついに弟を斬り殺してしまう。
 その話を聞いた崇神天皇は怒って、〈倭迹迹日百襲姫命〉の弟の吉備津彦(きびつひこ)と、大彦命の子の武渟河別(たけぬなかわわけ)に命じて出雲振根を征伐させる。
 いずれもかつての四道将軍である。


『卑弥呼と日本書紀379』

 これが原因で出雲臣たちはしばらく出雲大社の祭祀をしなかった。
 出雲大社の神は〈大己貴神〉または〈大國主神〉であり、これを祀るのが出雲臣一族であることは神代からの決まりなので、これは大きな事件である。
 しかし今の兵庫県に住むある人が、

「子どもが出雲の鏡を祭るべきだという意味の不思議な歌を歌っている。神が憑依しての言葉でしょう」

 ――と述べ、これを活目尊が天皇に告げたため、天皇もその鏡を祭らせたということである。
 ここで天皇が欲した神宝が鏡であることがわかるが、この話は、取り上げた宝物を返却したことの表現かもしれない――といわれている。
 子どもや一般の人が不思議な歌を歌い、それによって天皇が動く話は、『記紀』に何カ所もでてくるが、一般国民の気持を政策に反映していた伝承なのであろう。

 いずれにせよこの事件は、出雲と大和の軋轢がずっと続いていたことを意味している。
 これに関係する話は後の天皇紀にも出てくるが、物部一族・三輪一族や大和の土地の豪族たちが、それぞれ豪壮な神社を持たせられたり婚姻したりして大和朝廷の一員となったのに対し、遠方の出雲の地に神社を得た出雲一族だけは、なかなか承伏せず、朝廷を悩ませたことを物語っているようにも思われる。


『卑弥呼と日本書紀380』

▽崇神天皇六十二年(西暦前三六年)
 〔潅漑用の池をつくる〕

 七月二日――
 天皇は農業は国の基だとして、河内の田には水が少ないのでそこで池をつくるべきだ――と述べて、潅漑用の池や溝を掘ることを命じた。

 十月――
 一つの池をつくった。

 十一月――
 二つの池をつくった。
(大規模な潅漑用の池を朝廷主導のもとにつくる制度と技術が確立してきたことをあらわしている)

▽崇神天皇六十五年(西暦前三三年)
 〔朝鮮任那からの使者〕

 七月――
 朝鮮半島の任那(みまな)の使者蘇那曷知(そなかしち)が朝貢に来たとの記述がある。
 これは、対外折衝を具体的に述べた『日本書紀』の最初の記録とされている。
 こういう記録からも、崇神天皇の御代が、事実上の日本国のはじまりであることが推理できる。
 ここで任那は筑紫の国から二千里余で、北の海をへだてて新羅の西南にある――と記されており、地理は正確である。
 任那は後に日本府がおかれる土地だが、このころの任那は弁韓の加羅国または『魏志倭人伝』の狗邪韓国であったのだろう。
 すでに任那という日本式の名で呼んでいたのかもしれないが・・・。

 この時代に朝鮮との使者の行き来がどの程度あったのか、よくはわからないが、交通手段的には、すでに朝鮮半島やそこを経由して大陸との往来が可能だったことは間違いない。
 そしてそれが水路のみで可能だったことも、すでに述べたとおりである。
 天候さえ船便に都合よければ、《大和》から朝鮮南端まで十日もかからずに行けたであろう。
 崇神天皇の御代と『魏志倭人伝』の時代とはほぼ一致するとされているので、《邪馬台国》が魏の国に使者を送ったとすれば、《大和》と魏も往来できたことは当然である。
《邪馬台国》が《大和》でなかったとしても、《大和》と《邪馬台国》との往来はもちろん出来たからである。


『卑弥呼と日本書紀381』

▽崇神天皇六十八年(西暦前三〇年)
 〔崇神天皇崩御と前方後円墳の築造〕

 十二月五日――
 崇神天皇が崩御された。
 御年百二十歳と記されている。一年合わないようにも思うが、たいした問題ではない。
 翌年、山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に埋葬された。
 これは現在の天理市の桜井市に近い場所だが、やはり《三輪山》の近くでもある。
 図8・1や8.13を参照されたい。

図8・1
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm


図8・13
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm


 写真を図8・12に示した。墳丘長だけで二百四十メートルを超え、周濠をふくめると三百メートルと想定され、《箸墓》に匹敵する巨大な前方後円墳である。

図8・12
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H89-812.htm


 この時代の大和朝廷の勢力の強さがわかる。
〈倭迹迹日百襲姫命〉の眠る《箸墓》の巨大さは崇神天皇の力をあらわしているし、崇神天皇の御陵の巨大さは次ぎの垂仁天皇の力をあらわしているのだ。

(ただし、前述したように、有名な崇神天皇の崩御とはいえ、その記述は簡明で一行か二行であり、〈倭迹迹日百襲姫命〉のような詳細な記述はない。この事からも百襲姫命の容易ならざる存在感が浮かび上がってくる。天皇に仕えた皇女の没時の記述の方が、天皇よりずっと詳細で、しかも御陵はより巨大なのである!)

 なお崩御の実紀年については、『古事記』に記された干支である戊寅(つちのえとら)から推定すると、西暦二五八年となる。
 また『日本書紀』の崩年を干支に換算すると辛卯(かのとう)であるが、これから推定される崩年は西暦二七一年になる。
 これらの推定崩年は、こまかな数字は別として、考古学的知見と矛盾しないので、さいきんでは多くの学者が支持しているようである。

 じっさいの宝算(御寿命)を百二十年の半分の六十年としても、その御生涯は二世紀末または三世紀初頭から三世紀後半ということになり、『魏志倭人伝』の時代とほぼ一致している。
 つまり、崇神天皇の御代とは、『魏志倭人伝』における〈卑彌呼〉の時代の後半と〈臺與〉の時代の前半とにまたがっていると想定できるのだ。
 また、〈卑彌呼〉と〈臺與〉に照応できる高貴な女性も存在していて、じつに興味ぶかい天皇紀である。

(崇神天皇陵からは驚くべき出土品が発見されているので、次回にそれを記す)


『卑弥呼と日本書紀382』

**********

 崇神天皇陵について、興味深い考古学的史料があるので、記しておく。
『日本古代遺跡事典(吉川弘文館)』の崇神天皇陵の項目に、つぎのように出土品が記されている。
「このほか渋谷出土(崇神陵?)と伝える石枕や長方形銅板の拓本が知られている」
(渋谷とは景行天皇陵)
 この長方形銅板について、《大和》の遺跡調査で知られる樋口清之が、井沢元彦との対談でつぎのように述べている(『神道からみたこの国の心(徳間書店)』より)。

「(樋口)崇神陵については興味深い話がありましてね。戸田大和守という人が幕末の文久三年に、あのあたりの陵墓を修築するんです。戸田大和守はいまの栃木県の宇都宮の殿様の弟で、陵墓監に任命されて大和守を名乗ったことになります。幕府に命じられて天皇の陵墓を修繕するのですが、堀を作るのに土が足りないものだから、古墳を削ってしまってそれに当てたわけです。ひどいもんですね。
 その時に、厚さが〇・七ミリぐらい、大きさが襖一枚ぐらいの青銅の板が出てきた。ちょっとカーブしていて、ちょうど盾のように構えるために使ったものだと思います。それが出た時、近くの農家の井戸端で洗ったらしいのですが、その際にどこかにぶつけて縁を割ったのです。青銅板は行方不明ですが、割られた縁だけがまだ残っています。その裏表を拓本にとって、考古学雑誌に発表したんですけどね。崇神天皇陵と言われているものから、銅鐸につながるような青銅板を作る技術を示す鋳造品が出てきたことは、非常に興味深い、と。そんな例は他にないです」

「(井沢)そんな大きな青銅板が出土していたというのは私も初めて聞きました。すごいものですね。模様はどのようなものなのですか」

「(樋口)直弧絞曲行紋を描いてあったり、円や線、装飾古墳にあるような模様で、壁画みたいな凹凸があります。私はやはり盾の一種だと思いますね。角のところに蝶番のようなものを彫った跡があって、あれが蝶番だったら、木製板をとりつけて開け閉めの調節ができる。よく考えて作られたものであることも確かです。
 もしあの青銅板の本体の行方が分かったら、大発見だし、日本の青銅器文化の系譜が変わると思いますよ。五世紀以前に、あんなに厚くて大きい青銅板を鋳造できたということは、銅鐸を作るのとは桁違いの技術ですからね」

 この青銅板が見つかったのは幕末なので、そんなに古いことではない。どこかに秘匿されている可能性もある。だとしたら、発見が待たれる。
 それにしても、残された断片からだけでも、驚くべき技術がすでに崇神天皇の時代に有ったことがわかる。
 ひょっとしたら、本体から文字が見つかるかもしれない。
 なお、図8・12の(b)を見ていただくと分かるが、崇神天皇陵は形が歪んでいる。これは、樋口博士の言葉にあるように、幕末の修繕時に一部を削ってしまったからなのだろうか・・・(*)。

 いずれにせよ、〈卑彌呼〉の時代と重なるとされる崇神天皇の時代に、巨大な天皇陵やこのような青銅器があった事は、当時の大和朝廷のレベルの高さをうかがわせるに充分である。

(*:削られた面積が大きかったとすると、崇神天皇陵は〈倭迹迹日百襲姫命〉の御陵とほぼ同じ大きさという事になるだろう)

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 これで重要な第十代崇神天皇紀の概要はおわりであるが、これに続く第十一代垂仁天皇紀と第十二代景行天皇紀もかなり重要なので、次節以降で要点のみ記しておくことにしよう。


『卑弥呼と日本書紀383』

■■■■■ 八・十 「非時香菓」を求めた第十一代 垂仁天皇の物語 ■■■■■


 本節と次節は、崇神天皇紀の参考なので、記述は簡単にする。詳細は『日本書紀』の翻訳・解説書で見ていただきたい。
 土地勘をやしなうために、図8・1、図8・13などをざっと見ておいていただきたい。


◆◆◆ 第十一代 垂仁天皇の物語 ◆◆◆

 国風謚号 活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)
 漢風謚号 垂仁天皇
〔在位・西暦前二九年〜後七〇年〕
〔降誕・西暦前六九年/崩御・西暦後七〇年〕*
〔皇宮・纏向珠城宮(まきむくたまきのみや/奈良県桜井市三輪山麓北西部)〕
〔御陵・菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ/奈良市西部の尼辻西町)〕
  *崩年干支推定は西暦三一一年

 垂仁天皇は、崇神天皇の御代に夢を元に皇太子に推された弟の方の活目(いくめ)尊が即位された天皇であり、崇神天皇のめがねにかなっただけあって、きわめて英明な指導者だったと考えられる。
 母親は崇神皇后の御間城姫(みまきひめ)で、前節の稲荷山刀銘にあった四道将軍のひとり大彦命の娘である。
 崇神天皇二十九歳のとき、皇宮磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)で降誕された。
 生まれつきぬきんでており、成人してはすぐれた才能や度量が備わり、父の崇神天皇に愛され、夢のお告げによって皇太子となられた。
 この天皇も先代と同じで、国風謚号に「入彦五十」がついている。
 やはり婿入り婚や彦姫制を連想させるが、その実態は男性側の垂仁天皇のほうがはるかに強力だったと考えられる。


『卑弥呼と日本書紀384』

△垂仁天皇元年(西暦前二九年)

 崇神天皇崩御の翌年正月に即位。十月に崇神天皇を御陵に葬った。

△垂仁天皇二年(西暦前二八年)

 二月、第九代開化天皇の孫にあたる狹穗姫(さほひめ)を皇后とした。
 そして十月に纏向(まきむく)に皇宮をつくった。これを珠城宮(たまきのみや)という。場所は図8・1の11をごらんいただきたい。

 この年、任那と新羅と日本との間で複雑な関係ができたことが記されている。
 すなわち、崇神天皇の御代に日本に来た蘇那曷知(そなかしち)が帰国するというので土産を与えたところ、任那に帰る途中でそれを新羅が奪ってしまった。
 これが任那と新羅の抗争のはじまりである――と記されている。

 また別の一説が書かれている。
 加羅(から)の王子で額に角の生えた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が崇神天皇を慕って日本に来たが、崩御されたので仕えることができなかった。
 角というのは朝鮮南部で大臣のことを角干と記すことからきた錯覚らしいのだが、この王子が垂仁天皇の御代になって帰国することになったとき、天皇は、

「先代の御間城(みまき)天皇にあやかって国名を変えたらどうか」

 ――と提案し、それで加羅を「ミマキ」に似た任那(みまな)という名で呼ぶようになった。

 加羅が弁韓(べんかん)のなかの一国で任那地方の主たる旧名であることは確かだが、これは『記紀』に数多くある語源譚のひとつである。
 またこの王子が漂着した敦賀(つるが)の地名は、王子の名の「ツヌガ」からつけられたという語源譚もある。
 この一説でも、帰国途中で新羅が土産を奪ったので、任那と新羅の憎しみ合いが始まった――とある。

 さらにもう一説として、前記の人物が日本に来たのは、乙女の姿をした神を追って東の方に進んだからだ――という話が伝えられている。この神を祀った神社は今も大阪市にある。
 朝鮮半島に高句麗、新羅、百済、任那という四つの国が明確な国名のもとに並立するようになるのは四世紀の〈神功皇后〉以後と考えられるので、崇神〜垂仁の時代の呼称は公孫氏、帯方郡、辰韓、馬韓、弁韓、加羅といったものだったろうが、『記紀』では多くの場合、五世紀以降の呼称で記しているようである。


『卑弥呼と日本書紀385』

△垂仁天皇三年(西暦前二七年)

 この年の三月に新羅の王子の天日槍(あめのひほこ)が帰化し、そのときの天皇への献上品を但馬国に納めて神宝とした。
 天日槍は諸国をめぐったのち但馬に落ち着いて日本の娘を娶ったが、その子孫の一人が、のちに「非時の香菓」を探して大陸に渡った田道間守(たじまもり)である。
『魏志倭人伝』にある難升米(なしめ)と同系説のある人物である。
 また五代目の女性が〈神功皇后〉の母親だとされている。
 帰化の際の話し合いには、三輪氏の祖の一人の大伴主(おおともぬし)と倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおいち)という崇神天皇紀で述べた人物が代表になっている。
 これも史実に近いらしく、いまの兵庫県日本海側にあたる但馬地方からは、朝鮮半島との交流を偲ばせる古代遺跡――船団の絵など――が多く発掘されている。

△垂仁天皇四年(西暦前二六年)

 ここから激しい権力闘争の様子が語られる。
 九月に皇后狹穗姫(さほひめ)の同母兄の狹穗彦(さほひこ)が、懐剣を皇后に渡して、これで天皇を殺せ――と強要するのだ。
 皇后は困ってそれを衣のなかに入れておいた。

△垂仁天皇五年(西暦前二五年)

 十月に垂仁天皇がいまの橿原市に行幸されたとき、皇后の膝を枕にして昼寝をしていると、皇后は兄の謀反を思って涙を流した。その涙が天皇の顔にかかったとき、天皇は、蛇が首に巻きつき大雨が降る夢を見た。
 その夢の話を聞いた皇后は、兄の謀反のことを告白した。
 怒った天皇は、皇后の罪ではないと、狹穗彦を征伐しようとしたが、強固な城に籠もってなかなか落ちない。
 皇后は、自分が皇子とともに城に入れば兄が許されるかもしれないと考えて、城に入ったが、結局皇子だけを城の外に出し、自分は兄とともに死んでしまった。
 死ぬとき皇后は、自分の後継者には丹波(たには)の国の優れた婦人がよい――と遺言した。
 悲痛な物語である。


『卑弥呼と日本書紀386』

△垂仁天皇七年(西暦前二三年)

 七月に、大和の当麻蹶速(たぎまのくえはや)と出雲の野見宿禰(のみのすくね)が力比べをし、野見宿禰が圧勝し、朝廷に仕えるようになった。
 相撲の起源譚である。
 これを記念して相撲神社がつくられている(図8・13)。

△垂仁天皇十五年(西暦前一五年)

 二月に前皇后の遺言にあった丹波の国の五人の乙女を召して、そのうちの日葉酢媛(ひばすひめ)命を、八月に皇后に立てた。
 この皇后は三男二女をもうけられたが、そのなかには著名な貴人がおおい。
 第二子の大足彦命(おおたらしひこ)はのちの景行天皇だし、第四子の倭姫(やまとひめ)命は〈天照大神〉を伊勢の地に祀った斎王(いつきのみこ)である。

△垂仁天皇二十三年(西暦前七年)

 事件の衝撃によって三十歳になっても言葉を話さなかった前皇后の皇子の誉津別(ほむつわけ)王が口をきくようになる話がある。
 大変なトラウマだったのであろう。

△垂仁天皇二十五年(西暦前五年)

 この年の二月に天皇は、阿倍(あへ)・和珥(わに)・中臣(なかとみ)・物部(もののべ)・大伴(おおとも)のそれぞれ先祖にあたる重臣を集めて、

「先帝は聡明で謙虚で神々を祀り、人民は富み天下は太平だった。私も神々の祭祀を怠ることはできない」

 ――と言われた。

 そして三月になって、〈天照大神〉を祀る役を、それまでの先代皇女の〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉から、新たに自分の皇女の〈倭姫(やまとひめ)命〉に託された。
 これは権力の移行というよりも年齢によるもので、〈豐鍬入姫命〉の希望でもあったと伝えられている。


『卑弥呼と日本書紀387』

 命を奉じた〈倭姫(やまとひめ)命〉は、大和国、近江国、美濃国など二十ちかい場所をめぐった末、伊勢国に達し、ここで永遠に〈天照大神〉を奉斎することにした。
 これが伊勢神宮(皇大神宮)の起源であるが、この伝承にしたがって伊勢では代々未婚の皇女が祭祀の最高位につく伝統ができ、その皇女が斎王(いつきのみこ)と呼ばれることになった。
 つまり〈倭姫命〉は伊勢における最初の斎王となられたわけである。

 このときの〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉の退陣も暗示的で重要である。
 なぜなら『魏志倭人伝』の〈臺與(とよ)〉がこの〈豐鍬入姫命〉だろうという説が有力なので、垂仁天皇二十五年が三世紀末に近いという年代の推理ができるからである。

△垂仁天皇二十六年(西暦前四年)

 崇神天皇の御代にも出雲の宝物を調査する話があったが、垂仁天皇もしばしば出雲に使者を出して神宝を調べさせた。
 しかし出雲一族はなかなか正直にいわない。
 そこで物部一族の重臣に命じて、徹底した調査をさせたところ、今度はすべて分かった。
 そこで天皇は、物部にその神宝を管理させた。
《石上神宮》に納めたのかもしれない。
 物部氏の勢力の強さが分かるとともに、この時代になっても出雲一族を帰服させることに苦労していたことがうかがえる。
 出雲と物部の対立関係も興味深い。
 豪族物部が出雲の制圧に成功したと読める伝承だが、出雲の領土内に物部系の神社が出来ている。

△垂仁天皇二十七年(西暦前三年)

 占いの結果によって、弓矢や刀を神々に奉納した。
 また神社を維持するための田や家を定めた。
 これによって広大な社領をもつ神社ができるようになった。
 またこの年、倉庫をつくった。


『卑弥呼と日本書紀388』

△垂仁天皇二十八年(西暦前二年)

 十月に天皇の同母弟の倭彦(やまとひこ)命が没し、翌月御墓をつくったのだが、側近を殉死させたために悲惨な状態になった。そこで天皇は、殉死をやめさせるよう議論せよと命じた。

△垂仁天皇三十年(西暦元年)

 日葉酢媛(ひばすひめ)命皇后が生んだ有力な兄弟の五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)命と大足彦(おおたらしひこ)命に希望を訊ねたところ、前者は弓矢をほしいと述べ、後者は皇位がほしいと述べた。そこで天皇は弟の大足彦命を次の天皇に定めた。
 これが、日本武尊の父親として知られる景行天皇である。

△垂仁天皇三十二年(西暦三年)

 七月に皇后の日葉酢媛命が亡くなられた。
 このとき天皇が殉死の習慣を無くすためにはどうしたら良いかと諮問した。
 野見宿禰(のみのすくね)が考えて、出雲から祭祀に使う土器を作る職人である土部(はにべ))を集めて土で人や馬などを作らせ、それで殉死の代わりをなすようにと、お答えした。
 これが埴輪の起源であるが、天皇は喜ばれて、今後はすべてそうするように――と仰せられ、野見宿禰の姓を土部臣とし、天皇の喪の係にした。

 これも有名な話であるが、考古学的な研究からは、殉死の証拠の骨は発掘されておらず、ほんとうに垂仁以前に殉死があったのかどうか、疑問とされている。
『魏志倭人伝』を『記紀』編纂者がすでに読んでいたことは明かなので、そこにある〈卑彌呼〉の墓の殉死の話(*)との整合性をとるために、こういうエピソードを考えたのかもしれない。

(*:古代中国には悪霊を除くための人の生贄や要人の死にあたっての殉死の習慣があったので、それが『魏志倭人伝』の記述になったのであろう。これは、現代中国の反日プロパガンダに似ている。彼らの残酷な習慣を日本人に当てはめて宣伝している。それはタウンゼントの『暗黒大陸中国』を読むとよくわかる)


『卑弥呼と日本書紀389』

△垂仁天皇三十四年(西暦五年)

 皇后没後に二人の妃を召された。

△垂仁天皇三十五年(西暦六年)

 河内国や大和国に池をつくり、諸国に八百もの農業用の水路をつくった。これらによって百姓は富み、天下は太平になった。

△垂仁天皇三十七年(西暦八年)

 大足彦(おおたらしひこ)命を正式に皇太子にされた。

△垂仁天皇三十九年(西暦一〇年)

 皇太子の兄の五十瓊敷(いにしき)命が剣一千振を作り、《石上(いそのかみ)神宮》に納められた。そこで五十瓊敷命は《石上神宮》の神宝を司る役目を命じられた。

△垂仁天皇八十七年(西暦五八年)

 半世紀近くとんでしまうが、《石上神宮》の神庫管理の話が記されている(第七章参照)。
 五十瓊敷命は年老いたのでもはや《石上神宮》の神宝を司ることがむずかしくなり、妹の大中姫(おおなかつひめ)に依頼した。
 姫は女の身で高い神庫に登ることは出来ない――と断ったので、兄は梯子を作るといったが、やはり駄目で、結局、垂仁天皇の重臣の物部十千根大連(とおちねのおおむらじ)に神庫の管理をさせることになった。
《石上神宮》が物部一族の総氏神になった因縁譚である。
 またある人の犬がムジナの腹から八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)を取り出したので、これを《石上神宮》に納めた。


『卑弥呼と日本書紀390』

△垂仁天皇八十八年(西暦五九年)

 天皇は新羅王子の天日槍(あめのひほこ)の宝物が但馬国の神宝になっているが、見たいものだ――といわれた。
 見たいというのは献上せよ――と同義なので、天日槍の曾孫の清彦が献上に来た。
 玉や鏡、小刀などであるが、清彦は小刀だけは渡したくないと思って衣に隠していた。
 しかし酒席で見つかってしまったので、他の神宝とともに《石上神宮》の神庫に奉納した。
 ところがしばらくしてその小刀が消えてしまい、夜にになって自然に清彦のところに戻り、またさらに朝には姿を消してしまった。

 天皇は畏れて、それ以上小刀を求めようとはされなかった。
 のちにその小刀は淡路島に自然に到着し、島の人が神として祀った。その場所は前に天日槍に与えた土地だったらしい。
 この伝承の解釈はいろいろとできるが、明治になって《石上神宮》の禁足地から出土して重要文化財になっている玉類のなかに、この新羅王子の神宝が含まれている可能性がある。
 残念ながら判別は不可能だが・・・。

△垂仁天皇九十年(西暦六一年)

 天皇は天日槍の子孫で清彦の兄ともいわれる田道間守(たじまもり)に常世の国に行って「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めて帰れ――と命じられた。
 この人物は名前の読みで分かるように、新羅王子の子孫であることを誇りにする但馬地方の豪族であり、主として大陸や半島との外交を専門とした一族だったのだろうと考えられている。
 また一説によれば、『魏志倭人伝』にある難升米(なしめ)と同一族でもある。
(第三章に記したように、田道間→但馬と難升米は、ローマ字で書けばよく似ている)

 常世の国とは不老長寿の国のことで、具体的にはシナの神仙境である。
 また求めた非時香菓とは、常に輝いている香の良い果実という意味で、橘または橙のことだとされている。
 昔は不老長寿の妙薬とされたのである。


『卑弥呼と日本書紀391』

△垂仁天皇九十九年(西暦七〇年)

 この年の七月、垂仁天皇は纏向(まきむく)宮で崩御された。御年百四十歳であった。
 崩年干支による崩御実紀年の推定は、西暦三一一年とされている。
 崩年干支推定がほぼ正しいとすると、在位期間は五三年ということになり、現実的な数字となる。
 また、『魏志倭人伝』にある〈臺與(とよ)〉の時代の後半だと仮定しても矛盾はない。
 そして十二月に菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬り祀った。

 これは崇神天皇陵とはちょっと離れていて、現在の奈良市尼辻西町にある。
 奈良市の西部で、近鉄京都線の尼ケ辻駅のすぐそばである。また唐招提寺の北西すぐ近くでもある。
 やはり巨大な前方後円墳で、墳丘長だけで二百三十メートルある。周濠まで含めるとおそらく三百メートルに達するであろう。
 御陵の写真を図8・14にしめした。

図8・14
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm

 崇神天皇陵のところでも述べたように、雄大な御陵の造営は次の天皇の力をあらわしている。
 崇神天皇は在位中に《箸墓》を造営したが、垂仁天皇も崇神天皇の巨大御陵をつくった。
 そして垂仁天皇自身のこの奈良市の巨大御陵は、つぎの有名な景行天皇の事績である。

 垂仁天皇崩御の翌年に、田道間守は無事、「非時香菓」を得て帰国した。しかしすでに垂仁天皇は崩御しておられ、田道間守は墓前で嘆き悲しんで死んだ。
 人々はみな涙を流した。
 この田道間守はのちの三宅連の始祖とされている。
 図8・14に見える、周濠のなかの丸い小島は、田道間守の霊を慰めるために後の人が濠の中につくった墓である。

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 垂仁天皇紀はざっとこんなところであるが、崇神天皇紀と合わせて『魏志倭人伝』との関係がいくらでも推理できる内容となっている。
 検討は別の章でなすことにして、次代の景行天皇紀についても、ざっとおさらいしておくことにしよう。


『卑弥呼と日本書紀392』

■■■■■ 八・十一 悲劇の王 日本武尊が活躍する第十二代 景行天皇紀 ■■■■■


 景行天皇と『魏志倭人伝』との関係は、それほどつよくはないので、ごくおおまかな記述にとどめることにする。
 この天皇の物語は、天皇自身よりも日本武(やまとたける)尊の活躍で有名であるが、それはじつに多くの解説書や文学やドラマで語られているので、日本武尊その人に興味のある読者は、それらを見ていただきたい。
 ここでは、『魏志倭人伝』の記述と『記紀』を関連づける参考のために、要点を記述することにする。
 地図については、垂仁天皇紀と同様、図8・1や8・13を見ておいていただきたい。

図8・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm

図8・13
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm


◆◆◆ 第十二代 景行天皇の物語 ◆◆◆

 国風謚号 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
 漢風謚号 景行天皇
〔在位・西暦七一年〜一三〇年〕
〔降誕・西暦前一三年/崩御・西暦後一三〇年〕*
〔皇宮・纏向日代宮(まきむくひしろのみや)他(桜井市三輪山麓北西部)〕
〔御陵・山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ/奈良県天理市渋谷町――三輪山麓北部)〕
  *崩年干支は不明だが前後関係から西暦三三〇年代か
  (崩御時数えで百四十三歳/本文では百六歳)


『卑弥呼と日本書紀393』

 垂仁天皇の御代に本人の希望によって二十一歳で皇太子になった三男の大足彦(おおたらしひこ)命が、即位して景行天皇となった。
 景行天皇は、崇神天皇時代の四道将軍派遣よりもさらに遠方まで軍勢を派遣して、大和朝廷の勢力範囲を九州や東国にまで拡大したことで知られるし、またその勢力拡大に尽力した日本武尊の父親としても知られる。
 名前の「足(たらし)」は、満ち足りたという意味で、つぎの成務から神功まで三代の天皇・皇后にもついている名前である。
「忍代(おしろ)」は圧し領治するという意味らしい。
「別(わけ)」は五世紀中葉以前の貴族・豪族が用いた称号で、高貴な血統から分かれ出た――との意味である。
 第八・九節の稲荷山刀銘の系図でも、景行天皇の時代以後に連続して「ワケ」のつく人物名が出てきている。
 景行天皇以後に使われた名だと『日本書紀』に記述されているが、それと考古学的発見とが一致しているのだ。

▽景行天皇二年(西暦七二年)
 〔日本武尊と武内宿禰の誕生譚〕

 播磨稻日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて皇后とされた。
 この皇后は双子をお生みになった。第一子を大碓皇子(おおうすのみこ)、第二子を小碓尊(おうすのみこと)といった。
 この小碓尊はまたの名を日本武尊といい、雄々しい気性で身の丈一丈もあった。一丈は三メートルだが、ここでは大男という意味である。
 皇子と尊の使い分けは、尊のほうが皇位継承予定者であることを示している。
 翌年の項で、武内宿禰(たけのうちのすくね)の誕生譚が語られている。


『卑弥呼と日本書紀394』

▽景行天皇四年(西暦七四年)
 〔成務天皇の誕生と《纒向京》の建設〕

 崇神天皇の孫にあたり、かつ〈倭大國魂(やまとおおくにたま)神〉を《大和(おおやまと)神社》に祀った渟名城入姫(ぬなきいりひめ)命の姪にもあたる、美濃国の八坂入媛(やさかのいりひめ)を妃とされ、七男六女が生まれたが、その長男稚足彦(わかたらしひこ)尊がのちの成務天皇である。
 景行天皇にはこの他にも多くの妃がおられ、皇子・皇女の数は八十人に達した。
 このうち、日本武尊、稚足彦尊、五百城入彦(いおきいりひこ)皇子の三人を除いては、諸国に向かわせられた。
 これらが別王(わけのみこ)で、諸国にいて「別(わけ)」という名のつく首長たちはこれらの皇子・皇女の子孫である――と記されている。
 ワケの語源譚である。

《大和》に残った三人のうち、日本武尊は悲運の最期を遂げるが、稚足彦尊は次代の成務天皇になり、五百城入彦皇子は應神天皇妃の祖父となった。
 またこの年、美濃国の美人姉妹の容姿を大碓皇子に確かめに行かせたところ、この皇子は姉妹と密通してしまい、復命しなかった。

 さらにこの年、纏向(まきむく)に都を造り、同時に皇宮の日代宮(ひしろのみや)を造営された。この日代とは、檜を植林した場所という意味で、《檜原神社》の檜原に隣接している。先代の垂仁天皇の皇宮とも隣接した場所である。
 図8・1の12である。
 纏向の都とは、やはり図8・1で《纒向京》と記してある部分で、崇神天皇の時代からあった都を、点線の方形面積にまで拡大したものと想像される。

図8・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm


『卑弥呼と日本書紀395』

▽景行天皇十二年(西暦八二年)
 〔熊襲の叛乱と出征〕

 この年の七月、九州の熊襲が背いて朝献がなかったので、八月に熊襲討伐に出発する。
 九州北部から山陰・山陽までは崇神・垂仁両天皇の御代になんとか平定できたが、その先の九州南部はなかなか大和朝廷に服さなかったことがわかる。
 景行天皇の九州遠征の経路は図8・15に示してある。

図8・15
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H813-818.htm

 九月には神夏磯媛(かむなつそひめ)という祭祀を司る巫女の知らせで四人の賊を討つ。

 この媛は大きな鏡を吊り、白い旗をかかげて帰順の意を示して天皇を出迎えたとされる。
 九州に〈卑彌呼〉的な強力な女性がいたことを示すエピソードの一つである。
 またこのときの白旗が、日本の文献に「旗」が記された最初である。降伏の白旗が最初というのも面白い。
 どうよう形状の旗だったのだろうか。

 さらに十月には速津媛(はやつひめ)という土地の首長の知らせで五人の賊を討った。
 この媛の存在も、女性が一族の長となる例があったことを示しており、興味ぶかい。やはり巫女的な女性だったのであろう。

 十一月には日向に仮の皇宮である高屋宮(たかやのみや/図8・15)を造営し、そこで熊襲征伐の作戦を練り、二人の熊襲首長を、その娘を利用して策略で討伐する。
 大和朝廷はつねに策をもって反抗者を処罰し、帰順すれば厚遇し、真正面からはあまり戦わずに成果を挙げていたことがわかってこれも興味ぶかい。


『卑弥呼と日本書紀396』

▽景行天皇十三年〜二十年(西暦八三年〜九〇年)
 〔九州を巡って熊襲らを討伐〕

 十三年には熊襲の襲の国の平定に成功し、以後六年間は高屋宮を拠点として九州平定に力を入れ、またそこで一人の妃を得て皇子が生まれる。
 十七年に、《大和》を偲んで、

  やまとは 国のまほらま たたなづく
  青垣 山こもれる やまとし 麗し

 ――という有名な歌を詠まれる。
『古事記』ではほぼ同じ歌が日本武尊の作といわれており、第一章のトビラ裏に載せてある。
 十八年に、九州の各地の平定のほか兄夷守(えひなもり)と弟夷守(おとひなもり)を派遣して視察させた話がある。
 これは鄙(ひな/辺境)を守る役人といった意味で『魏志倭人伝』にある九州の奴国や不弥国の卑奴母離(ひなもり)という役職名と同じだと考えられている。

 また、いまの筑後市や八女市周辺とされる八女県(やめのあがた)で、八女津媛(やめつひめ)という女神が山に棲んでいることを見つける。
 これも勢力のある巫女の一種と考えられるが、岩倉使節団の記録「米欧回覧実記」の執筆で有名な古文書学の創始者・久米邦武は、この八女津媛こそ〈卑彌呼〉ではないか――と推理している。

 こうして九州の平定に一応の区切りをつけた景行天皇は、十九年に《大和》に帰還された。
 足かけ八年におよぶ大遠征であった。
 帰還の翌年、娘の五百野皇女(いほのひめみこ)に〈天照大神〉の祭祀を命じられた。
〈倭姫命〉が没したとはされていないので、老齢になった〈倭姫命〉の補佐をしたのかもしれない。


『卑弥呼と日本書紀397』

▽景行天皇二十五年〜二十七年(西暦九五年〜九七年)
 〔武内宿禰の活躍のはじまり〕

 二十五年に、武内宿禰(たけうちのすくね)が活躍をはじめる。
 すなわち北陸や東国の巡視に出発し、二年後の二十七年に戻ってきて、地理や人民の様子を報告するが、その内容は、東北地方に蝦夷(えみし)という人たちがいて乱暴なので討つべきだ――というものだった。
 武内宿禰はこれまで何度か出てきたが、景行天皇から成務天皇・仲哀天皇・神功皇后をへて應神天皇まで、五代の天皇・皇后に仕えた大重臣である。
『記紀』紀年のままだと二百年も仕えたことになるが、推定実紀年でも五十年以上にわたって重臣であり続けたことになる。

▽景行天皇二十七年〜二十八年(西暦九七年〜九八年)
 〔日本武尊の九州遠征〕

 二十七年、景行天皇の遠征で平定したはずの九州南部がふたたび不穏となり、熊襲(くまそ)が天皇の土地を侵すという事件が起こった。
 そこで天皇は日本武(やまとたける)尊を九州に派遣した。
 日本武尊はこのときまだ十六歳だったが、すでに強力な武将であり、部下をつれて九州に渡る。
 そして熊襲の首長の川上梟帥(かわかみたける)の宴席にまぎれこみ、梟帥を討つ。死ぬ間際に梟帥は皇子を讃えて、日本武皇子と呼ぶべきだと述べる。
 これが日本武尊という尊称の語源だという。敵に尊称を与えられたのだ。
 日本武尊はそのご熊襲の残党を討ち、また瀬戸内海を通っての帰路に吉備や難波の賊を平らげて帰還する。


『卑弥呼と日本書紀398』

▽景行天皇四十年〜四十三年1(西暦一一〇年〜一一三年)
 〔日本武尊の東国大遠征〕

 いよいよ有名な日本武尊の東国大遠征がはじまる。
 東方の辺境が叛乱し、とくに武内宿禰が警告していた蝦夷(えみし)が謀反をおこしたとの知らせが《大和》に届いた。
 日本武尊は先に九州に遠征しているので、今度は双子の兄の大碓皇子(おおうすのみこ)の番であるが、この皇子は怖れて、草むらのなかに逃げてしまった。
 そこで大碓皇子は《大和》から追放されて美濃国(岐阜県)を治めることになり、困難な東国遠征は日本武尊がつとめることになった。
 天皇は、

「そなたは形はわが子だが実体は神人である。この天下はそなたの天下である」

 ――と述べて励まし、送り出した。
 この遠征の想像される経路を、図8・16に示した。これは著者の習った昔の教科書にあったものである。

図8・16
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 日本武尊は東国に向かう前に《伊勢神宮》に立ち寄って参拝し、叔母にあたる斎王(いつきのみこ)の〈倭姫(やまとひめ)命〉に挨拶した。
〈倭姫命〉は日本武尊に神宝の「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」を授けて励ました。
 これは「三種の神器」の一つで、ながく皇宮に安置されていたのだが、崇神天皇の御代に〈天照大神〉を皇宮から神社に遷し祀って以来、神鏡「八咫鏡」とともに神宮のご神体として奉安されていたのだ。


『卑弥呼と日本書紀399』

 日本武尊の最初の苦難は駿河国(静岡県)の野原で賊に火をつけられたときだが、「天叢雲剣」で草を薙いで助かった。このことから、この剣を「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と尊称するようになった。
 このときの有様を描いた昔の教科書の図を図8・17に示した。歴史画の定番である。

図8・17
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 つぎの苦難は、船で相模(さがみ/神奈川県)から上総(かずさ/千葉県)に向かう途中の嵐だった。
 この嵐で船が沈みそうになったとき、従ってきた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、駿河で火のなかから「草薙剣」で助けてくれた日本武尊の優しさにむくいるために命を捧げる決意をし、祈りながら船から身を投げた。
 媛の祈りは通じて、嵐はたちまち静まった。
 妃の純情をあらわす古来有名なエピソードで、多くの名画の画題にもなっている。

 弟橘媛に助けられた日本武尊は無事に東北地方にまで遠征し、そこの蝦夷などの賊をことごとく平らげた。
 このとき関東の御獄神社やその他の地で武運を祈ったり、危機から救われたりしたので、御獄神社など多くの関東の神社が日本武尊を祀るようになった。
 それから信濃国(長野県)に行ったが、その途中の峠で東南の地を望み、死んだ弟橘媛を偲んで嘆息して、

「吾嬬(あづま)はや(わたしの妻よ)」

 ――といわれた。
 それ以来「東」のことをアヅマというようになった。
 これもまた有名な語源譚である。
 この語源譚は語呂合わせ的なものではなく、真実に近いのではないかとされている。
「東」の訓読みは「ヒムガシ」と「アヅマ」と二つあるが、前者は日向(太陽を向く方角)が語源だとなっとくできるのに対し、後者については、この弟橘姫の伝承以外に理屈がつかないのだ。


『卑弥呼と日本書紀400』

▽景行天皇四十年〜四十三年2(西暦一一〇年〜一一三年)
 〔日本武尊の無念の死と白鳥への変身〕

 信濃国を平定してから、尾張一族が支配する尾張国(愛知県西部)まで戻り、なぜかそこにしばらく滞在した。
 それから近江(滋賀県)の一部にいる賊を討つために「草薙剣」を置いたまま出かけたところ、身体が弱ってしまった。
 そして能褒野(のぼの/三重県亀山市のあたり)に着いたとき、病が篤くなった。
 そこで日本武尊は捕虜にした蝦夷たちを《伊勢神宮》に献上し、景行天皇に使者を派遣して遺言を述べた。
 そしてついに能褒野で崩御された。御年三十歳であった。
 足が三重に折れるほど疲れきって崩御されたので、その地に三重という名がつけられた。いまの三重県である。

 景行天皇は悲しんで能褒野に御陵をつくって葬った。
 ところが日本武尊の遺体は白鳥となって、故郷の《大和》へと飛んだ。
 そして琴弾原(ことひきはら/奈良県御所市)に留まったので、そこに改めて御陵をつくったが、白鳥はまた飛んで、河内の古市邑(ふるいちむら/大阪府羽曳野市)に舞い降りた。そこでまた、その土地に御陵をつくった。
 しかしその御陵からも白鳥は舞い上がり、ついに天に向かって消えてしまった。
 景行天皇四十三年のことであった。

 残された「草薙剣」は、日本武尊の御妃となっていた尾張国造の娘・宮簀媛(みやずひめ)命の家に安置されていたが、尾張一族によって、置かれた場所の近くの熱田神宮(名古屋市)に大切に祀られた。
 その熱田神宮のすぐそばに、白鳥が最終的に落ち着いたとされる白鳥陵がある。ただしこれは少し後の顕彰の意味の造営らしい。
 羽曳野市には、日本武尊の御陵とされ、白鳥陵と名づけられた、墳丘長百九十メートルに達する巨大な前方後円墳がある。
 その前の墓所である御所市にも日本武尊陵とされる九十メートルの前方後円墳が残されているし、最初の亀山市にも全長九十メートルのノボノ古墳がある。
 さらに熱田の白鳥陵も約七十五メートルの前方後円墳であり、古墳時代の造営であることがわかっている。
 四つもの巨大な前方後円墳が残されている英雄は、長い日本の歴史のなかでも、日本武尊のみである。


『卑弥呼と日本書紀401』

 これが悲劇の英雄として小説や劇や絵画になっている日本武尊の物語であるが、この皇子の実体は、すでに天皇に即位していたが、政争に破れて《大和》に帰郷できなくなっていたのではないか――という説がある。
 亡くなったとき『日本書紀』では「崩」という文字が使用されているが、天皇以外でこの文字が使われるのは〈神功皇后〉と日本武尊のみなのである。
 また妻に「后」、御墓に「陵」という、天皇のための文字が使われている。

 さらに常陸風土記では、倭武(やまとたける)天皇と記され、その皇后として、弟橘媛に似た名が記されている。『風土記』で天皇とされているのも、〈神功皇后〉と同じである。
 もし『魏志倭人伝』の〈臺與(とよ)〉が〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉であるとすれば、その後継者の〈倭姫命〉に剣を貰った日本武尊は、〈卑彌呼〉没後の混乱とも関係の深い英雄ということになる。
 伊勢神宮にかわって「草薙剣」を祀った尾張一族は〈饒速日命〉の子孫とされているが、同じ子孫の物部とは違って皇室との関係は微妙であり、そういう尾張を頼っていた日本武尊の行動はなにやら暗示的である。

 もともと伊勢神宮に祀られていた「草薙剣」が伊勢に返されず、地方の豪族によって熱田神宮に祀られたという歴史も、大和朝廷と尾張一族・日本武尊の確執を物語っているようである。

▽景行天皇五十一年(西暦一二一年)
 〔日本武尊没後の話〕

 日本武尊が没し、その双子の兄も《大和》を離れてしまっていたので、異母弟で第四子にあたる稚足彦(わかたらしひこ)尊を皇太子にたてた。
 これが次代の成務天皇だが、この天皇は知名度は低いものの、景行天皇が拡大した勢力圏を整備し、行政的手腕をふるって国々を安定させた。
 地味ではあるが凡庸ではなかったらしい。
 武内宿禰(たけうちのすくね)はこのころから目立つ活躍をはじめるが、とくに誕生日が同じだというので成務天皇に可愛がられて要職についた。

 日本武尊が捕虜にして《伊勢神宮》に預けた蝦夷(えみし)たちは、騒いで困ったので《大和》に移され、一時は《三輪山》の麓に置いた。しかし山の神木を伐ったり人々を脅かしたりしたので、遠方の国々に分散させた。
 東国の蝦夷対策がとても大変だったことを窺わせるエピソードである。

 日本武尊の子孫であるが、遠征の前に前代の垂仁天皇の皇女である兩道入姫(ふたじいりひめ)皇女をめとっており、その第二子足仲彦(たらしなかつひこ)尊が成務天皇の次の仲哀天皇――つまり〈神功皇后〉の夫――である。
 成務天皇の皇子ではなく日本武尊の御子が成務天皇を継いだことは、日本武尊が実質的な天皇であったことの傍証でもある。
 また尊のために入水した弟橘媛(おとたちばなひめ)も死の前に稚武彦(わかたけひこ)王を生んでいる。


『卑弥呼と日本書紀402』

▽景行天皇五十三年〜五十四年(西暦一二三年〜一二四年)
 〔日本武尊を偲ぶ御巡幸〕

 景行天皇は日本武尊を偲んで尊が平定した国々を巡幸なさることとし、伊勢を通って東海に入り、上総国から東国をまわって戻り、翌年に伊勢から大和へ戻った。
 晩年の巡幸は、各地がかなり平穏になっていたことを物語っているが、蝦夷(えみし)だけは一筋縄ではいかなかったらしい。

▽景行天皇六十年(西暦一三〇年)
 〔蝦夷の再叛乱と崩御〕

 五十五年以後、東国の蝦夷がまた騒動を起こした話がある。
 また五十七年には池を造ったり直轄領の屯倉(みやけ)をもうけたりした。
 そして五十八年に纏向(まきむく)の宮から近江の高穴穂宮(たかあなほのみや/滋賀県大津)に三年ほど滞在され、六十年の十一月に崩御された。宝算百六であった。
 崩年干支は不明だが、前後関係から、崩御の実紀年は四世紀前半と推定される。

 御陵である山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)は次代の成務天皇の二年に完成した。場所は崇神天皇陵のすぐそばであり、より《三輪山》に近い。
 図8・13でわかるように、むしろ《纒向京》の北端に入っているといってもよい。
 御陵の写真を図8・18に示した。

図8・13、18

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『卑弥呼と日本書紀403』

 現在は周濠の形も墳丘の形もかなりゆがんでしまっているように見えるが、現状でも墳丘長は三百十メートルもあり、崇神・垂仁・神功各御陵より大きく、前期古墳では最大である。
 造営当時の周濠まで含めると、おそらく、四百メートルに達するであろう。

 成務天皇は景行天皇が崩御された滋賀県大津の高穴穂宮を皇宮とされたので、《三輪山》北西山麓の《纒向京》の朝廷は崇神・垂仁・景行の三代で終わることになる。
 景行天皇陵は、その纏向三代の天皇の掉尾を飾る雄大な御陵なのである。
 またこのことは、それを造営した次の成務天皇も、地味ではあってもきわめて強力な天皇であったことを物語っている。
 崇神〜景行三代で国内の平定がすすみ、それを成務天皇が仕上げたのであろう。

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 以上で、〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉が活躍する崇神天皇紀と《三輪山》の謎、またそのあと二代の興味ぶかい天皇の物語は終わって、ついで、〈卑彌呼〉と〈倭迹迹日百襲姫命〉の関係についての考察にはいることにしよう。

 つぎの章では、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」
 ――に関連するいくつかの文献史料を検討する。


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