■□■□■『卑弥呼と日本書紀』第四版 第七章(オロモルフ)■□■□■


『卑弥呼と日本書紀195』

■□■□■ 第七章 〈神功皇后〉説の検討 ■□■□■


帯姫(たらしひめ) 神の命の 魚釣らすと 御立たしせりし 石を誰見き
〔山上憶良(万葉集869)〕
「神功皇后さまが魚釣りのためにお立ちになった石を誰が見たのだろうか」

乙女らが 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは
〔柿本人麻呂(万葉集501)〕
「乙女たちが袖を振るのではないが、布留の石上神宮の瑞垣のように、長年思い続けていました。(石上神宮に歌碑が立つ著名歌)」

かくてなほ かはらずまもれ よゝをへて このみちてらす 住吉の神
〔後鳥羽上皇御製〕
「(神功皇后を助けた住吉大神が祀られている住吉大社に後鳥羽上皇が参詣されたときの御製。住吉大社は神功皇后が感謝して住吉大神三柱を祀り、のちに神功皇后自身も祀られた神社)」


『卑弥呼と日本書紀196』

■■■■■ 七・一 第十四代 仲哀天皇の悲劇 ■■■■■


◆◆◆ 〈神功皇后〉の不思議と干支による紀年推定 ◆◆◆

 この章では、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――を検討するが、これはとても面白い説である。
 なにが面白いかというと、この説を最初に主張したのが『日本書紀』の編纂者そのもの――あるいは少しあとで注釈を加えた人たち――だからである。
 つまり千何百年も前からある、じつに古い説なのだ。

 以下に『日本書紀』の神功皇后紀(紀は『日本書紀』に書かれていることを示す)の概要を記すが、その内容はじつに興味ぶかいものがある。

 一般に皇后についての記述は各天皇紀の一部としてあるだけで、一行か二行ですませている場合が多い。
 しかし〈神功皇后〉にかぎっては、皇后だけで大きな一つの章となっており、しかもその長さが皇后のご主人にあたる仲哀天皇紀の三・七倍、また皇后の皇子の應神天皇紀の一・六倍もあり、その長さだけでも異常なのだ。
 女性の天皇について多くの事柄を書いてある章は、のちの推古天皇などにも有るが、「皇后のみ」についてこんなにも多くの頁を費やしている例は、他には見られない。

 それから、神という文字が謚号の頭についている点も興味ぶかい。
 漢風謚号は『記紀』が編纂された直後につけられたと考えられるので、そのころの人々の考え方がその名前によって分かるのだが、天皇の謚号ですら神がついているのは神武・崇神・應神の三天皇のみなのに、皇后をたたえてこんな名前で尊称しているのだ。

 しかも「頭」につけられている。
 天皇でも「神」が「頭」についているのは神武天皇のみなのに――である。

 また『魏志倭人伝』や『百済記』の引用を再三おこなっている点も、興味津々である。
(『日本書紀』の中に「倭の女王」などという言葉が出てくるので驚くのである)


『卑弥呼と日本書紀197』

 そういう神功皇后紀であるが、前後の仲哀天皇紀や應神天皇紀とのつながりについて多くの議論がなされているので、この三つを、『日本書紀』をもとに、おおまかに記してみよう

 なお、紀年について注記しておく。
 本章では推定紀年を各所に記すが、その一つは「一二〇年加算」で、これは『日本書紀』などの日本の史書に記された紀年を、干支二回り違えてあるとして一二〇年加えると実際と一致するという考えである。
 干支による表現は六〇年で一巡――つまり還暦――するが、これを二巡した一二〇年だけ、実際の紀年と違えて古く見せているので、それを補正しようということである。

 この方法は、どの時代でも通用するわけではなく、古い時代はもっと違っているだろうし、新しい時代になると『日本書紀』の紀年と実際とが一致してくるので零年加算となる。
 しかし〈神功皇后〉から應神天皇にかけての時代では、一二〇年を加算すると近隣国の史料と矛盾しないことが多いので、かなりの信憑性があるようである。

 もう一つの推定法は、伝えられている崩年干支からその実紀年を推定する「崩年干支推定」である。
 たとえば、應神天皇の崩御年の干支は甲午(きのえうま)で、これは西暦にすると二七四年、三三四年、三九四年、四五四年・・・などだが、各種の史料や考古学的知識などから、もし干支が正しいとすると、西暦三九四年の可能性が高い――と推定するのである。

 もちろん「一二〇年加算」も「崩年干支推定」もごくごく大まかな話なので、これらを元に数年単位のこまかな議論をすることは避けねばならない。
 第五十四代天皇までの、崩御の実質紀年の推定数字は、のちに付録に記す。

**********

 西暦年と干支の対応の一覧表は、下記にある。

↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kanshi.htm


『卑弥呼と日本書紀198』

◆◆◆ 第十四代 仲哀天皇の物語 ◆◆◆

 国風謚号 足仲彦天皇(たらしなかつひこ)
 漢風謚号 仲哀天皇
〔在位・西暦一九二年〜二〇〇年〕+
〔降誕・西暦一〇九年/崩御・西暦二〇〇年〕+*
〔皇宮・穴門豊浦宮(あなととゆらのみや/山口県突端の関門海峡近く)
    橿日宮(かしひのみや/九州の福岡市)〕
〔御陵・長野陵(大阪府南河内郡)〕
    +皇紀は西暦に六六〇を加えればよい。
    *崩年干支推定は西暦三六二年

 第十四代の仲哀天皇は、その前の成務天皇とともに、わずかな記述しかない天皇である。むしろ〈神功皇后〉の夫として知られるといったほうがよい。

 第十代  崇神天皇
 第十一代 垂仁天皇
 第十二代 景行天皇

 ――この三代の天皇紀は記述も豊富だし考古学的にもいろいろと話題がある。
 しかし第十三代成務天皇になると、国・県・郡・邑などの境界をきちんとしてその長となる者を定めて諸国を安定させた――という功績が無造作に書かれているていどである。
 おそらく、前三代によって大和朝廷の権威が確立し、制度を充実させる時期に入ったからであろう。

 成務天皇は景行天皇の皇子で、同じ皇子の日本武尊とは異母兄弟にあたる。
 日本武尊は景行天皇より先に薨去したので、別の皇子が即位したのだ。
 日本武尊は実質的には天皇だったのではないか――との推理もあり、『風土記』には倭武天皇または倭健天皇として記されてもいる。

 つぎの第十四代には、本来なら成務天皇の皇子が即位するのだろうが、男子がいなかったので、甥にあたる日本武尊の第二子が即位したとされている。
 不運の英雄だった日本武尊の御子の顔を立てたらしいのだが、これが仲哀天皇である。
 母親は第十一代垂仁天皇の姫で兩道入姫命(ふたじのいりびめ)である。
 以下編年的に主要な事項を記す。


『卑弥呼と日本書紀199』

(以下の各紀年は、上が皇紀を西暦になおした数字であり、下がそれに一二〇年加算した数字である。この数字は単なる加算であって、それが実紀年だと主張するものではない。ただ、実紀年推定の手がかりにはなると考えている)


▽仲哀天皇元年(西暦一九二年/三一二年)
〔白鳥も焼けば黒鳥!〕

 先代の成務天皇崩御の翌年に即位。
 この年の冬、白鳥になって虚空に消えた父の日本武尊を偲んで、人々に白鳥を献上させたが、北陸道(図4・1参照)の人が献上するつもりで持ってきた白鳥を、異母弟にあたる蒲見別王(かまみわけのみこ)が、「白鳥も焼けば黒鳥だ」と凄いことをいって奪ったので、怒った仲哀天皇は兵をやってこの異母弟を誅殺する。

 皇位をめぐって異母兄弟どうしの軋轢があったことをうかがわせるが、『日本書紀』にはこういった皇室の汚点ともなるような事件が、じつに率直に書かれている。


▽仲哀天皇二年(西暦一九三年/三一三年)
〔〈神功皇后〉の奇跡が始まる〕

 正月――
 第九代開化天皇の玄孫にあたる氣長足姫尊(おきながたらしひめ)を娶って皇后とする。
 これがすなわち後の〈神功皇后〉である。皇后の母親は新羅の王子の子孫ともいわれている。
 なおその前にお妃が産んだ皇子が何人かいて、そのうちの二人が、仲哀天皇の死後に皇后に背いて事件を起こす。

 二月――
 福井県若狭湾岸の敦賀に行幸して仮宮を建てて滞在する。
 敦賀から丹後半島にかけては、日本海を渡って朝鮮と交通するときの要地で、大和朝廷としてはぜひ支配しておきたい土地であった(*)。

 それまでは先代の成務天皇の皇宮のあった滋賀県大津市に宮をかまえていたのだが、朝鮮半島と連絡しやすい場所に遷ったことになる。
 なお成務天皇より前の都はほとんどが《大和》の地である。

(* 前に記したことがあるが、この敦賀から丹後半島にかけての若狭湾一帯の地域から奈良県の《大和》まで――遺跡発掘時の新聞報道だが――烽火通信の施設が古墳時代にすでに出来ていたという話もある。いずれにせよこの仮宮は大和朝廷にとっての重要拠点に建てられたのだから、その行幸は決して不思議なことではない。
 これより前、崇神天皇の時代に、「三種の神器」の「八咫鏡(天照大神の御霊)」を《大和》の地から丹後の天橋立にお遷ししたのも、これと似た理由があったと想像される。
 日本海への玄関口を抑えていた丹後の豪族海部氏らを配下に置くためである。
 ここの海洋豪族は、のちに、〈神功皇后〉に従って新羅遠征に従軍し、軍功をあげて恩賞を与えられている。現在の元伊勢《籠神社》の宮司・海部氏の先祖は、この時に〈神功皇后〉から海部直(あまべのあたい)なる姓(かばね)を恩賞として与えられたのである。
 さらに第二十一代雄略天皇の御代に、丹後の地の大氏神である〈豊受大神〉を伊勢の外宮にお祀りしたことも、朝廷にとっていかに若狭湾周辺とその地の海洋豪族が重要だったかを表しているのであろう。**)

(** 上の注で述べたことは、「《邪馬台国》大和説」においての九州から《邪馬台国》への経路が、瀬戸内海ではなく、日本海の沿岸を通って若狭湾に上陸して《大和》に向かうものだった――という笠井新也らの説を補強しているが、この問題はまた後に詳述する)


『卑弥呼と日本書紀200』

 三月――
 南海道(図4・1参照)を巡幸したとき、九州の熊襲が背いて朝貢しなかったので、征伐するために九州方面に居を移すことにし、皇后と穴門(あなと)で落ち合うことにした。穴門とは山口県の下関市のあたりである。

 六月――
 皇后が敦賀を出発して船上で食事をしていたとき、鯛がたくさん集まってきたので、その上にお酒を注ぐと、鯛が酔って浮かび上がり、漁師が大喜びした。
〈神功皇后〉の奇跡譚の始まりである。

 九月――
 落ち合った天皇と皇后は、宮殿を穴門に建てた。これが仲哀天皇の第一の皇宮、穴門豊浦宮(とゆらのみや)である。


▽仲哀天皇八年(西暦一九九年/三一九年)
〔皇后による神託と熊襲征伐の失敗〕

 正月――
 いよいよ九州北部、いまの福岡県に移動する。
 ここで、北九州市の西方の岡県主(おかのあがたぬし)の祖の熊鰐(わに)や、伊都(いと)――すなわち『魏志倭人伝』の伊都国――の県主の祖の五十迹手(いとて)の迎えを受けたりして、儺県(なのあがた)――すなわち博多湾岸で『魏志倭人伝』にある奴国(なこく)――の橿日宮(かしひのみや)に落ち着く。
 これが仲哀天皇の第二の皇宮で、いまの福岡市東区にあったらしい。


『卑弥呼と日本書紀201』

 九月――
 熊襲を討とうと群臣に相談するが、神が皇后に乗り移って、

「不毛の地の熊襲など討ってもしかたがない。それより宝がたくさんある新羅国に向かうべきだ。私を祀れば戦わずして帰服するだろう。そうすれば熊襲も自然になびく」

 ――と神託を述べる。
 この時点ですでに〈神功皇后〉が物語の主人公になっているのだが、仲哀天皇は山に登って遠くを見て、

「海が見えるだけでそんな国は見えない。それに、先祖の天皇たちは多くの神々を祀ってきたのに、さらに別の神がいるのはおかしい」

 ――といって神託を信じようとしない。
 皇后はまた神憑りになって、

「神を信じないのであればお前は国を保つことはできない。しかし皇后はいま身ごもっているので、その御子がその国を得るだろう」

 ――と神託を告げる。
 仲哀天皇はそれでも信ぜず、熊襲を討ちに行くが、失敗してしまう。

 ここで〈神功皇后〉の神託にあった「宝」とは何か、であるが、玉や鏡の類ではなく、日本ではなかなか採取できない「鉄」であったろうという説が有力である。

 じじつ〈神功皇后〉五十二年――一二〇年加算で西暦三七二年――に、百済王が大和朝廷に朝鮮の鉄の献上を誓う話がある。
 また前にも述べたが、『三国志・東夷伝』にも、倭人が鉄を求めて朝鮮半島に来ている――という記述がある。


『卑弥呼と日本書紀202』

▽仲哀天皇九年0(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔天皇の不審な急死〕

 二月――
 この月の五日に、仲哀天皇は突然身体が弱り、翌日崩御されてしまった。また、熊襲の矢に当たったのが原因だという別説が併記されている。

 ただし『古事記』には、もっと不思議な話が記されている。
 皇后と重臣武内宿禰(たけうちのすくね)の二人の立ち会いで天皇が神託を得るための琴を暗がりで弾くと、皇后に憑依した神が西へ行け――と託宣する。
 しかし天皇は西は海ばかりだ、として熊襲征伐にこだわる。
 神は怒って、

「この国はお前が統治すべきではない。お前は黄泉の国へ行け」

 ――と述べたので、武内宿禰は再度琴を弾くように天皇にすすめ、天皇はしぶしぶ燈火を消して琴を弾いたが、しばらくして音が聞こえなくなった。
 心配して明かりをつけると、天皇はその場で崩御されていた・・・という話である。

 武内宿禰とは、第八代孝元天皇の孫または曾孫にあたるので先祖は〈神功皇后〉と同じであり、第十二代景行天皇の時代から活躍を開始し、第十三代成務天皇と同じ日に生まれたため同天皇に寵愛されて大臣(おおおみ)になり、仲哀天皇の時代になってからもそれ以後も、百年以上にもわたって歴代天皇の大臣として朝廷で権力を振るった謎の重臣である。

 厳密にいうと、景行・成務・仲哀・神功・應神・仁徳と六代にもわたって天皇の寵臣であり続けた。
『記紀』の年代のままだと二百年も働き続けたことになるが、崩年干支を元に実働を推定すると七十年ほどになるので、ありえない話ではない。
 もちろん政治上手な一族が単一名で記されている可能性もある。
 葛城・巨勢(こせ)・平群(へぐり)・蘇我などの豪族たち(図7・7参照)が、武内宿禰の子孫を名乗っている。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm


『卑弥呼と日本書紀203』

 この異様な急死事件については、武内宿禰が天皇を暗殺したのではないか――という説が古くから唱えられている。
 明治天皇の先代の孝明天皇がヒ素中毒に似た症状で不審な急死をとげた事件が、明治の重臣岩倉具視の謀略による暗殺と推理されているのと似た、奇怪な事件なのである(*)。
 緊急事態を処理するため〈神功皇后〉と武内宿禰は相談して、武内がご遺体を船で穴門豊浦宮に運び、燈火も用いずに極秘裏に仮葬し、人民には喪を秘した。

 また万一の事態に備えて、中臣・大三輪・物部・大伴という《大和》の豪族の首領である四重臣に命じて宮中の警備を厳重にした。
 物部・大伴は神武以来の重臣だし、中臣は藤原鎌足ら藤原一族の祖でもあり、大三輪は日本最古の神社とされ卑彌呼に関係するとも想像される《三輪山》に関係する一族である。
 つまり朝廷に協力する古代《大和》の代表的豪族が九州に集まっていたことになる。

 これで仲哀天皇紀は終わりだが、仲哀天皇が〈神功皇后〉を介しての神託に背いて死んでしまうくだりが印象的である。
 完全な女性上位なのだ。
 また皇后がこの段階ではやくも再三にわたって霊感を発揮していることも印象に残る。
 さらには、皇后と武内宿禰の仲が、天皇との仲よりも親密であることも、何やら暗示的である。

(* もしどちらも暗殺だったとすれば、対外政策についての意見が政界の実力者と異なる天皇が排除された事件であり、排除の理由も似通っている)

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 仲哀天皇が崩御されたこの年は、一二〇年加算では三二〇年になるが、崩年干支である壬戌(ジンジュツ)をとると、前記のように三六二年になる。
 かなりの開きがあるが、この時代ではまだ加算は一二〇年より大きいとも考えられるし、また崩年干支推定に無理があるとも考えられる。
 しかし、前後の関係から、南原次男は実際の崩年は干支推定三六二年に近いのではないかと、推理している。
 たしかに、三二〇年崩御では、〈神功皇后〉の治世が長すぎるように思われる。

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 このあと、『日本書紀』の記述は、〈神功皇后〉による疾風怒濤の三韓征伐となる。


『卑弥呼と日本書紀204』

■■■■■ 七・二 朝鮮の史書『三国史記』と『好太王碑』にのこる〈神功皇后〉の事績 ■■■■■


◆◆◆ 百年の空白と朝鮮史書の中の日本 ◆◆◆

〈卑彌呼〉の後継者〈臺與〉が使者をシナ王朝に派遣した西暦二六〇年代から、三六〇年代の〈神功皇后〉による百済との交渉や派兵まで、ほぼ百年のあいだ、筋のとおった大陸・半島との交渉記録は、内外のどの史書にも記されていない。
 あるのは伝説的なものだけである。

 しかしこの百年――垂仁・景行・成務各天皇の御代――の大和朝廷は、シナ王朝の権威を借りずに日本列島の九州から東北までの地方豪族を帰順させることに腐心しており、また制度・境界・神社などによる列島統一の安定化に懸命になっていた時代なので、列島外との交渉が途切れていたのは、無理もないことである。

 じつは朝鮮半島でも同じ時期に内部での再編が進み、楽浪郡・帯方郡などシナ王朝の植民都市が亡び、三韓も姿を変えて、半島を牛耳るのは北の高句麗、南東の新羅、南西の百済、および日本人が多くいた任那の四つの強国になっていった。
 大陸でも三国時代の魏・蜀・呉がつぎつぎに滅びて西晋・東晋などが興っては消えた混乱期であった。
(大和朝廷としても、大陸のどの王朝と外交してよいのか分からない状態だったかもしれない)

 したがって、空白の百年の終わりに近い西暦三五〇年ごろには、日本列島を統一した大和朝廷と、朝鮮半島を分割支配した高句麗・新羅・百済三国とが、半島南端部の任那を間にして複雑な利害関係を持ち、あるいは激突する要因ができあがっていた――ということになる。


『卑弥呼と日本書紀205』

 さて、話を〈神功皇后〉にもどそう。

『日本書紀』における〈神功皇后〉とその皇子・應神天皇や孫の仁徳天皇についての記述の多くは、朝鮮との軋轢や出兵に費やされている。
 その信憑性については、昔からいろいろな議論があるが、それを考えるには、朝鮮三国の正史である『三国史記』や、高句麗の王・好太王の事績を刻んだ『好太王碑(こうたいおうひ)』の碑文との比較が重要となる。
 そこで『日本書紀』の本文に入る前に、この二つの史料で日本に触れている箇所を、抜粋しておこう。

『三国史記』は十二世紀に編纂された、高句麗・新羅・百済三国の史書である。

『好太王碑』とは、西暦四〇〇年前後に活躍した高句麗の王の業績を巨大な石に刻んだ碑文のことで、明治時代に日本人が発見して、古代史界に衝撃をあたえた超A級の史料である。

『三国史記』は十二世紀の編纂で『記紀』よりずっと遅いから疑問も多いし、また『好太王碑』は死の直後の顕彰のための碑文だから、美化もされているし、文章も短い。
 しかしそれでも、『日本書紀』の記述の信憑性を判断するうえで、重要な史料となっている。
 とくに、実紀年推理には欠かせない。

 以下の抜粋の紀年はすべて西暦である。


『卑弥呼と日本書紀206』

◆◆◆ 新羅本紀(新羅の編年史) ◆◆◆

 前五〇年 倭人が辺境を侵したが、すぐ帰った。
  一四年 倭の兵船百余隻が海辺に来たが防いだ。
  五七年 日本の丹後地方から渡ってきたらしい日本人が第四代の王・脱解尼師今(トヘニサコム)になった。
 一二二年 暴風のとき倭人が攻めてきたとの噂。
 一二三年 三月に倭国と講和した。
 一五八年 倭人が贈り物を持って修好を求めてきた。
 一七三年 倭の女王〈卑彌乎〉が修好を求めてきた。
(このあたりの紀年には疑問もあるが注目すべき記述である。
 若いころの〈卑彌呼〉だったとしても矛盾はないからである)
 二〇八年 倭人が侵入したので防いだ。
 二三二年 倭人が城を包囲したが将軍の于老(うろう)がうち破った。
 二三三年 倭人が東辺を侵した。また于老が倭人の船に火をつけて破った。
 二四九年 倭人が反撃にきて于老を殺した。
 二八七年 倭人が一千名の百姓を捕虜にした。
 二九二年 倭人が城を奪ったが、取り戻した。
 二九四年 倭人が城を攻め、新羅は勝てなかった。
 二九五年 百済とともに倭国を攻めようとしたが、海戦に不慣れで実現しなかった。
 三〇〇年 倭国と使者を派遣しあって修好した。
 三一二年 倭国の王から、皇子の妃を求めてきたので、急利という人物の娘を倭に送った。
 三四四年 倭国がまた妃を求めてきたが、断った。
 三四五年 倭国の王が国交断絶を宣言してきた。
 三四六年 倭人が城を包囲したが、食糧が尽きて退くのを待って追撃した。


『卑弥呼と日本書紀207』

 三六四年 倭人が大挙して攻撃してきたので、草人形数千をつくって騙し、伏兵が待ち伏せして皆殺しにした。
 三九三年 倭人が城を包囲したが、堅守し、追撃した。
 四〇二年 倭国と修好し王子の未斯欣(みしきん)を人質として倭国に出した。
 四〇五年 倭人が攻めてきたが、王が破った。
 四〇七年 倭人が東辺と南辺を侵した。
 四〇八年 倭人の基地のある対馬を攻撃しようと計画したが、海を渡るのは無理で挫折した。
 四一八年 人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
 四三一年 倭人が東辺の城を包囲したが退いた。
 四四〇年 倭人が東辺と南辺に侵入した。
 四四四年 倭人が城を包囲して食糧が尽きて退いたとき、王が追撃したが逆襲され、山に逃げて濃霧で助かった。
 四五九年 倭人が兵船百余隻で東辺に来たが破った。
 四六二年 倭人が城を破り、一千余名が捕虜になった。
 四六三年 倭人が侵入したが退いた。
 四七六年 倭人が東辺を侵したが破った。
 四七七年 倭人が侵入したが破った。
 五〇〇年 倭人が城を攻め落とした。
 六七〇年 倭国が国名を日本と改めた。日の出る所に近いからだ――と自ら述べた。
(新羅本紀には弥生時代から天智天皇のころまでの
 対日関係が継続的に記されているので興味ぶかい。
 人質の名前なども『日本書紀』と共通している)


『卑弥呼と日本書紀208』

◆◆◆ 百済本紀(百済の編年史) ◆◆◆

 三九二年 高句麗の好太王に攻められて多くの城が落城した。
 三九七年 阿花(あか)王が倭国と修好し、太子の直支(とき)を人質に出した。
 四〇三年 倭国の使者が来たので厚遇した。
 四〇五年 阿花王が死んだので直支は帰国を希望し、倭国は兵士百名で護送してくれた。
 四一八年 使者を倭国に派遣して朝献した。
 四二八年 倭国から随行五十人もの使者が来た。
 六〇八年 倭国へ行く隋の使者が百済を通過した。
 六五三年 倭国と修好した。
 六六二年 唐・新羅連合軍と戦うため倭国と高句麗に援軍を請うた。
 六六三年 滅亡した。
(百済本紀には古い記録は無いが『日本書紀』や『好太王碑』との対応は良好である)


◆◆◆ 列伝(人物伝) ◆◆◆

 二五三年 新羅の于老(うろう)は第十代の王の王子だが、倭の使者の接待役になったとき、「倭の王を奴隷にし王妃を炊事婦にする」といったので倭の王(大和朝廷軍?)が怒って攻めてきて、于老は殺された。

 その後第十三代の王(西暦二六二〜二八四年)のときに、于老の妻が倭の使者を酒に酔わせて焼き殺した。怒った倭人が攻めてきたが、勝てずに引き返した。
(新羅史の二三三、二四九年に対応している)

 四一二年 人質の未斯欣(みしきん)を取り戻すために倭に使者を送り、倭人を騙して帰国させたが、使者は追ってきた倭兵に捕まって処刑された。
 このとき次の話を新羅は知った。

 百済の使者が倭に来て「新羅と高句麗が共謀して倭国を侵そうとしている」と述べたので、倭は兵を出して新羅の国境外に巡回させたが、これを高句麗の軍勢が捕らえて殺した。

(新羅本紀の四一八年に対応するとともに、『好太王碑』とも『日本書紀』とも対応している)


『卑弥呼と日本書紀209』

◆◆◆ 『好太王碑』(高句麗の好太王の事績*) ◆◆◆

 高句麗本紀には、シナ王朝や北方の国々、および百済や新羅との抗争の記録はあるが倭国や倭人は――たぶん――出てこない。
 好太王の治世の西暦三九二〜四一三年にも、百済を攻めた話はあり、その百済は日本との連合軍だった可能性が高いが、倭人の明確な記録はない。

 そこで、好太王(こうたいおう)碑文の記録を元に大体の様子を記す。

 三九一年 倭が海を渡って、高句麗に朝献していた百済や新羅を破って配下にした。
 三九六年 好太王が倭とむすんだ百済を討った。
 三九九年 倭人が新羅の国境に満ち、城と池を破壊したので新羅が助けを求めてきた。
 四〇〇年 高句麗軍が新羅の城に至ると、倭兵がその中に満ちていた。一度は退けたがまた占領されたので再度追い払った。
 四〇四年 倭が高句麗支配下の帯方にまで侵入したが好太王自ら倭兵を壊滅させた。
 四〇七年 高句麗軍が倭軍を破って戦果をあげた。

(これも『日本書紀』とよく暗合している。すくなくとも大きな矛盾はない)

**********

 以上の各紀年のうち、『好太王碑』のものはきわめて正確だとされている。また『三国史記』もシナ正史をひとつの基準にしていて、事件の内容はともかくとして、時代は比較的正確らしい。とくに四世紀以降は信憑性が高い。

 ざっと見て、新羅は日本や高句麗・百済とのいざこざが絶えず、百済はつねに新羅と高句麗に攻められるので日本を頼って味方につけようとし、また高句麗は日本の配下になった百済や配下になりそうな新羅を攻めて日本軍を追い返しながら領土拡張をはかり、日本は半島南端の任那を死守し拡大しようとはかる――といった複雑な国際情勢がわかってくる。

(* 『好太王碑』の原史料については、東京国立博物館が一九九六年に出した『高句麗 広開土王碑拓本』が有益である。明治時代の碑の写真や明治初期から昭和初期にかけてとられた拓本四種類の大型の写真(80センチ×60センチ)があり、事実のみを淡々と記した簡潔な解説がある)


『卑弥呼と日本書紀210』

 またもうひとつ注目されるのは、新羅本紀にある西暦二〇〇年前後の記述で、若いころの〈卑彌呼〉の時代にすでに日本人の集団や日本からの使者が新羅(辰韓)のあたりにまで進出していたことがわかる。
〈卑彌呼〉の使者が来たという記述も注目される。

 九州の国々(豪族たち)が《邪馬台国》の支配下にあったという『魏志倭人伝』の記録と照らし合わせると、この時代の使者や軍勢は〈卑彌呼/邪馬台国〉が諸国に命じて派遣した可能性がじゅうぶんにある。

 また于老なる将軍が登場する事変は、〈卑彌呼〉没年前後――西暦二五〇年前後――に起こっているが、話がとても具体的で迫真力があって興味ぶかい。

 二五〇年から三〇〇年にかけての記述も、崇神・垂仁・景行三天皇の時代に照応しているようである。

 一方〈卑彌呼〉よりずっと古い時代の倭人の記録は、倭奴国が後漢から金印をもらったり、倭王帥升が後漢に使者を派遣したりしたころのものなので、九州の奴国や伊都国、あるいは出雲・但馬・大和などの勢力が独自に進出していた史実の反映だろうと推測できる。

 大和朝廷の指示による正規の出兵がどのていどだったかは別にして、海を渡った日本人の勢力が朝鮮半島南部で――〈卑彌呼〉の時代よりずっと古くから任那周辺で――活躍していたことを十分にうかがわせる新羅本紀である。

 なお、新羅第四代の王が日本人だという件については、下記を参照されたい。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tabana=tango.htm

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 こういった『三国史記』や『好太王碑』を参考にしつつ、『日本書紀』の〈神功皇后〉の物語に入ることにしよう。


『卑弥呼と日本書紀211』

■■■■■ 七・三 男装の〈神功皇后〉疾風怒濤の海外遠征 ■■■■■


〈神功皇后〉は應神天皇の摂政だが、実質的には天皇と考えられるので、ここでは仮に「第十四・五代」と記すことにする。
 以下、その〈神功皇后〉の物語である。


◆◆◆ 第十四・五代〈神功皇后〉の物語(1) ◆◆◆
   ――三韓征伐の成功
      應神天皇の誕生――

 国風謚号 氣長足姫尊(おきながたらしひめ/諱でもある)
 漢風謚号 神功皇后
〔摂政在位・西暦二〇一年〜二六九年〕
〔降誕・西暦一七〇年/崩御・西暦二六九年〕*
〔皇宮・磐余若桜宮他(いわれわかさくらのみや/奈良県桜井市池之内・他)〕
〔御陵・狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ/奈良市山陵町)〕
  *崩年干支は不明だが推定西暦三七五年前後

〈神功皇后〉の父親は、第九代開化天皇の曾孫にあたる氣長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)で、母親は葛城高{桑頁}媛(かつらぎのたかぬか)である。
 父親の名の氣長は近江地方の地名で、開化記によれば開化天皇の玄孫だが、たいした違いではない。
 第二章でも述べたが、氣長は息長とも書き、息が長い――つまり海に長くもぐっていられるという意味だと考えられており、海洋に関係のふかい一族を暗示している。

 母親の名の{桑頁}は額に似た意味の漢字で、葛城も高{桑頁}も地名である。図5・2でいうと左方の山地に沿った部分である。
 注目すべきはこの母親で、『古事記』では垂仁天皇の御代に朝鮮から渡来した新羅王子・天日槍(あめのひほこ)の五代めの子孫とされている。むろん、そうだとしても代々の妃は日本人だろうから、新羅の遺伝子はごく僅かでしかない。
 このような高貴でかつ数奇な生まれの〈神功皇后〉は、幼児から美貌で利発で父親が怪しんだほどだったと記されている。


『卑弥呼と日本書紀212』

▽仲哀天皇九年1(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔神託を告げた神々が明らかになる〕

 二月――
 前々節の繰り返しになるが、この月に天皇が崩御した原因は神託に従わなかったためだとして、群臣に命じて過ちを改めさせ、福岡県宗像の近辺に斎宮(いつきのみや)を造営した。
 斎宮とは、身を清め神に仕えて神託を受けるための御殿で、一般には任意の場所に設けるが、これを特定の場所に常設したはじまりは、天皇家の皇女が派遣される伊勢神宮の斎宮である。

 三月一日――
〈神功皇后〉は、斎宮に入って自ら神主となり、大臣・武内宿禰(たけうちのすくね)に琴を弾じさせ、審神者(さにわ)――神託をわかりやすく解く人――も決めて、

「先に天皇に新羅征伐を命じた神の名をお教え下さい」

 ――と懇請すると、七日七夜たって、

「伊勢国の五十鈴宮にいます神・・・・・・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまざかるむかつひめ)」

 ――という答が得られる。

 この神は〈天照大神〉の荒魂(あらみたま)である。
 荒御魂とは、荒く猛々しい神霊で、柔和な徳を備えた神霊の和魂(にぎみたま)と対をなしている。
 神々の霊はこの二つからなるというのが、古代の信仰らしい。


『卑弥呼と日本書紀213』

 またその他にも神があるのかと問い、〈天照大神〉の妹または姫の稚日女尊(わかひるめ)や、〈大國主神〉の子どもの事代主神(ことしろぬし)など、いろいろ答があったのち最後に、日向の国の水底にいる、

「表筒男(うわつつのお)、中筒男(なかつつのお)、底筒男(そこつつのお)」

 ――の名がでて終わる。

 この三柱の神は住吉三神といわれ、航海の安全を守る神であり、住吉神社に〈神功皇后〉とともに祀られている。
 住吉神社は大阪など各地にあるが、福岡市住吉にある住吉神社が大元で、この三神は伊弉諾尊(いざなぎ)がそこに来たときに産んだ神である。
 章のトビラ裏の後鳥羽上皇の御製は、もっとも大規模な大阪の住吉大社に御拝されたときのものである。

 ・・・というわけで皇后は、神託に出た神々を鄭重に祀り、そののち熊襲を討ちに行くと、熊襲は自然に服従してしまった。

 三月十七〜二十日――
 身体に翼が生えていて空を飛ぶ羽白熊鷲(はしろくまわし)という賊が悪さをするので、橿日宮から出てこれを滅ぼした。
(飛行機人間?)

 三月二十五日――
 つづいて山門(やまと)――福岡県山門郡で《邪馬台国》の候補地のひとつ――に進み、土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を討伐した。
 土蜘蛛とは大和朝廷に服従しない土着の住民のことであるが、首領が女性であることが面白い。
 東大の前身の教授で史学会会長をつとめた明治の歴史家・星野恒(ひさし)は、この田油津媛の先代が〈卑彌呼〉であろうと推理している。


『卑弥呼と日本書紀214』

▽仲哀天皇九年2(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔神意をはかる皇后の奇跡〕

 四月三日――
 周辺の安定が得られたので、つぎに『魏志倭人伝』の末廬国(まつろこく)に相当する松浦県(まつらのあがた)に進み、ここで朝鮮に遠征すべきかどうか、神意をうかがうために、縫い針で釣り針を作り飯粒を餌にして川中の岩に登って、

「事が成就するなら川の魚よ、釣り針を呑め」

 ――と仰せて竿を投げると、たちまち鮎が釣れた。
 これがこの地方で女たちだけが釣り針で鮎をとる習慣のはじまりで、この事績を踏まえたのが、第四章や本章のトビラ裏の歌など『万葉集』のいくつかの歌である。

 なお、この鮎を見たとき皇后は「メズラシキ物」と仰せられたが、そこから「メズラの国」と呼ばれるようになり、それが訛ったのが松浦(まつら)の語源だと記されている。
 このような一種の語呂合わせ的な地名語源説は『日本書紀』の随所にあるが、本書では割愛している。

 つぎに〈神功皇后〉は、遠征を神に助けてもらうための神の田を儺県(なのあがた/『魏志倭人伝』の奴国(なこく))につくるが、岩で塞がれて儺河(いまの那珂川)からの水路が作れない。
 そこで武内宿禰に命じて神々に祈ると、落雷があってその岩が裂けて水が通るという奇跡がおこった。

 ますます自信をつけた皇后は、橿日宮にもどり、海辺に出て髪を解き、

「わたしは神祇の教えをうけ、先祖の霊を頼って、海を渡って遠征しようと思う。もし霊験があるなら髪よ、分かれて二つになれ」

 ――と仰せて髪を海中に入れると、髪は自然に二つに分かれた。
 この奇跡を皆に見せた皇后は、髪をまとめて、群臣に向かって、

「自分は女であるが男子の姿となって雄大な計画をたてよう。神々の霊力と群臣の助けによって海を渡り、財宝の国を求めよう。もし成就したらそれは群臣の功績であり、成就しなかったら私一人の罪である」

 ――と告げた。
 これに元気づけられた部下たちはみな協力を誓った。


『卑弥呼と日本書紀215』

▽仲哀天皇九年3(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔遠征準備ととのう〕

 九月――
 九月になると船や兵を集めるが、最初は兵がなかなか集まらなかったので、大三輪社を建てて刀や矛を奉納すると、自然に集まるようになった。
 これは《大和》の三輪山麓にある《大神(おおみわ)神社》の分祀ともされており、福岡県朝倉郡三輪町の大己貴神社がそれといわれている。
 古くから《大神神社》に祀られているのは〈大物主神〉だが、これは〈大己貴神(おおなむち)〉や〈大國主神〉と密接に関係した神である。

 それから皇后は偵察隊を派遣するが、最初はその国を発見できず、二度目に行った人物が「西北に国があるらしい」と復命する。
 そこで〈神功皇后〉は、出兵にあたっての大演説をおこなう。
 その大意は、

「軍規を乱してはいけない。財物をむさぼり私心をいだくと敵に捕らえられるだろう。敵が少数でもあなどるな。敵が強力でもひるむな。婦女を暴行するな。降伏する者を殺すな。戦勝を得たら褒賞がある。逃亡すれば罪になる」

 ――といった残虐を戒めた内容で、古代の演説とは思えないほど理性的である。

 ここでまた航海神である住吉三神の次の神託がある。

「和魂(にぎみたま)は皇后につきそって命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒となって軍船を導くだろう」

 そこで皇后は拝礼し、神主を定め、荒魂を招請して軍の先鋒とし、和魂を招請して旗艦の鎮守とされた。
 このとき、〈神功皇后〉は臨月になっていたが、石を取って腰にはさんで抑え、

「事を成就して帰還したらこの地で生ませてください」

 ――と祈った。
 そのときの石はいま、伊都県(いとのあがた)の道のほとりにある――と記されている。
 この県は『魏志倭人伝』の伊都国(いとこく)であり、このときお腹にいたのが、巨大な前方後円墳で知られる、次代の應神天皇である。


『卑弥呼と日本書紀216』

▽仲哀天皇九年4(西暦二〇〇年/三二〇年)
〔いよいよ出発!〕

 図7・1に、〈神功皇后〉の実紀年あるいはその少し後の朝鮮半島のおおまかな勢力分布を示す。

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 図のなかでも新羅はのちに半島南部を統一する国で、したがって国力も強く、古代の日本にとってもっとも厄介な存在だったらしいことが、『記紀』の記述から知られるが、〈神功皇后〉が向かう主な相手が新羅であることも、『記紀』に記されている。

〈神功皇后〉の遠征は三韓征伐という言葉でも知られるが、三韓とは図3・2に描いた馬韓・辰韓・弁韓の三地域のことである。
〈神功皇后〉のころには各地域内の統一が進んで、馬韓は百済になり辰韓は新羅になっていた。
 さらに三韓のはるか北方から、騎馬民族国家とされる高句麗が南下してきていた。
 三韓の残る一つは南部の弁韓だが、この一部は任那といわれる日本領として〈卑彌呼〉の時代から続いていたらしい。
 三韓征伐の実態は、弁韓を狙う新羅を押し返して任那を弁韓全体に広げ、さらに拡大することにあったらしい。
(三韓の消長については第三章にくわしく記してある)

 図7・1は、〈神功皇后〉から應神天皇の御代にかけてその領域を拡大した任那を描いている。

 十月――
 冬十月に対馬を出発して(*)朝鮮半島の新羅に向かうと、天佑神助によって風は順風となり魚は浮かび上がって軍船を助け、櫂を使わなくとも船は進んだ。そして船に沿った波が新羅の陸上にまで達した。

(* このような『日本書紀』の記述からも、対馬が古代から日本領だったことが知られる。もしそうでなければ、対馬で戦いがなされたであろう。昨今の近隣反日国の意見はまったくおかしい)


『卑弥呼と日本書紀217』

 新羅王は国が海になってしまうのかと怖れていると、軍船が海に満ち、軍旗が日に輝いているのが見えた。
 新羅王は、

「東方の神の国である日本の天皇の神兵なのだろう。防ぐことなどできない」

 ――といって、白い絹の旗を掲げ自分を後ろ手に縛って皇后の御船に降伏した。
 そして、毎年日本に朝貢することを堅く誓った。
〈神功皇后〉は新羅王を許して配下にし、その国の宝庫を封じ、地図・戸籍・文書を収めた。そして矛を新羅王の門に立てて証拠とした。

(降伏のしるしの白旗はこの時代から有ったらしいが、旗についての日本最古の文書は、この〈神功皇后〉の話と景行天皇の九州討伐の話で、いずれも降伏・帰順の白旗である。古代においても白旗が降伏を意味していたようである)

 新羅王は微叱己(みしこ/『三国史記』の新羅史の未斯欣(みしきん)に対応*)を人質ときめ、八十艘の船に日本に贈る財宝を積んで、皇后の軍船にしたがわせた。これ以後、つねに新羅から八十艘の朝献がくるようになった。

 この八十艘の朝献というのは、後の天皇の記録にも見え、〈神功皇后〉の遠征がその由縁らしいが、しかし新羅が大和朝廷にとってじつに厄介な国であったことも、『記紀』の随所にあらわれている。

 新羅が降伏したので、半島のあと二つの大国、高句麗と百済も、とてもかなわないと見て、

「今後は自分たちを西蕃(西の未開の国)と謙遜の言葉で自称して朝貢を絶やしません」

 ――と約束する。

(* 『三国史記』のこの話はもっと後の時代となっているが、〈神功皇后〉の遠征譚にあるエピソードは、『魏志倭人伝』から應神天皇にかけての物語を含んでいるらしい)


『卑弥呼と日本書紀218』

 こうして神の助けで功なった〈神功皇后〉は、宝物や人質などとともに凱旋する。
『日本書紀』には別説が二つほど記されていて、もっと生々しい戦いの話もあるが、最終的には相手に頭を下げさせただけで、どこかの国のように王一族を皆殺しにして征服するといった残虐なことはしていない。

 十二月――
 そして帰国してすぐの十二月に、石で抑えていたお腹の子ども、つまり應神天皇を――伊都県または儺県で――出産する。
 またそのすぐあとで住吉三神が皇后に教えて、わが荒魂を穴門の山田邑に祭るようにといわれたので、皇后は神主を決めてその地に神社を建立した。
 いまの下関市内である。

 これが有名な男装の女帝〈神功皇后〉による三韓征伐と應神天皇誕生の伝説である。

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 この物語は、日本にとってとても都合よくできている。
 だから戦後の史学界には、単なる空想譚だとする意見もある。

 しかし最近のさまざまな研究によって、四世紀から五世紀にかけて、日本による朝鮮出兵と任那拡大があったことはどうやら確からしいので、その初期の出兵の記憶を美化して描いたのが〈神功皇后〉の三韓征伐なのであろう。
 具体的な話の多くは、今は失われている百済の古代史書を参考にしているらしい。

 年代的には、『記紀』では単なる一二〇年加算で西暦三二〇年ということになるが、その内容は、内外の史料によってほぼ確実とされる西暦三七〇年前後や四〇〇年前後の大規模な出兵とよく似ている。

 しかし南原次男の戦史学的な研究では、大規模出兵には前哨戦があった筈で、それが〈神功皇后〉の遠征だった可能性が高いという。
 もしそうだとすると、『三国史記』とも一致する、仲哀天皇の崩年干支である三六二年の直後の可能性が高いと考えられる。


『卑弥呼と日本書紀219』

 新羅本紀でお気づきかもしれないが、西暦三六四年に日本軍が大挙して攻めてきたという記述がある。
 これが三六二年の直後の〈神功皇后〉の遠征に該当しているのかもしれない。
 日本軍が騙されて破れたことになっているが、新羅側を美化しているので、個々の勝敗の記録はあまり問題ではない。
 その後任那が確立したことは史実なので、大枠として日本の権益が拡がったのは確かであろう。

 なお南原は、たくさんの魚が軍船を助けたという神話について、

「実際にも、魚群が漁船に群がる習性が、漁師によって確認されている」

 ――と述べている。
 とうじの人たちもそのような現象を知っており、それを神話化して記述したのであろう。

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〈神功皇后〉の物語はまだまだ続くが、小休止して、その事績の史実性を確認するために、『好太王碑』について調べておくことにする。


『卑弥呼と日本書紀220』

■■■■■ 七・四 『好太王碑』碑文による三韓征伐の確認 ■■■■■


 大和朝廷による朝鮮南部の権益拡大が史実であることは、『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』『住吉大社神代記』『勘注系図(かんちゅうけいず)』といった日本の古典によっても充分に説明できるが、さらに決定的ともいえる史料がある。
 それは、図7・2に示した『好太王碑(こうたいおうひ)』(廣開土王碑)の碑文である。

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 好太王とは高句麗の第十九代の国王で、在位西暦三九二〜四一三とされているから、〈神功皇后〉の三韓征伐の想定紀年とは違っており、おそらく次代の應神天皇紀の後半に記されている事変に対応しているのだろうが、四世紀から五世紀にかけての大和朝廷の半島進出が事実であることの証拠となっているので、ここですこし詳しく記しておく。

『好太王碑』はこの好太王の業績を石に刻んだもので、王の死の二年後に建てられ、鴨緑江の北側の高句麗王の城跡(図7・1上部)で発見された。
 高さが七メートルに近く、太さが二メートルに近いという巨大な石碑で、その四面に碑文がある。
 図7・2にその全景を示した。
 これは明治の初めに日本陸軍の将校が見出し、ついで学者の知るところとなり、ほぼ解読がなされたが、そこに、日本の朝鮮進出を証明する驚くべき文章が刻まれていたのだ。
 倭国について記されたいくつかの箇所を、以下に記しておく。


『卑弥呼と日本書紀221』

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 百残新羅舊是属民由来朝貢
 而倭以辛卯年(三九一年)来渡海破百残□□新羅以為臣民
 六年丙申(三九六年)王躬率水軍討滅残國軍□□首攻取
 己亥(三九九年)百残違誓與倭和
 新羅遣使白王云倭人満其国境潰破城池
 庚子(四〇〇年)教遣歩騎五萬往救新羅従男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退・・・来背急追至任那加羅・・・安羅人戌兵抜新羅城□城倭満倭潰城
 甲辰(四〇四年)倭不軌侵入帯方界太王率兵自・・・平壌・・・倭寇潰敗斬殺無数
 丁未(四〇七年)教遣歩騎五萬・・・蕩盡所稚鎧・一萬餘領軍資器械不可稱數・・・

 その意味を著者なりにごくおおまかに記すと、

 西暦三九一年に日本人が海を渡って半島に来て本来高句麗の属国である筈の百済や新羅を破って配下にした。
 西暦三九六年に高句麗の好太王は日本と結んだ百済を破って降伏させた。
 西暦三九九年に百済は高句麗との約束を破って日本と修好して日本の助けを求めた。好太王は平壌(いまの北朝鮮の首都)に進出してこれに備えた。新羅の使者が高句麗に来て、日本軍が国境に満ちて城の堀を壊しているので助けてほしいと述べた。
 西暦四〇〇年に五万もの兵で新羅を救いに行くと、男居城から新羅城にいたるまで日本兵が満ちていた。(おそらくは作戦として)日本兵はいったん退いた。任那地方の加羅まで追ったが、日本軍は任那の安羅国と協力し、また戻ってきて城を潰した。高句麗軍は再度日本軍を追い、九割を殺した。
 西暦四〇四年には高句麗の勢力下の百済北方の帯方地域にまで日本兵が来たので、好太王自ら戦って海陸両面から挟み撃ちにして、平壌のあたりまで進出していた日本軍を破り、無数の日本兵を殺した。
 西暦四〇七年にも五万の大軍で百済駐留の日本軍を(平壌の近くで)撃破し、鎧兜一万余などを奪うという大きな戦果をあげた。

 ――といったことになる。

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『卑弥呼と日本書紀222』

 要するに半島の奥地を抑えていた高句麗の軍勢が、任那を支配し百済を味方につけた日本の軍と、新羅方面や百済方面や高句麗領土内で激しく戦った様子の記述である。
 なにしろこれは、好太王の死後わずか二年という、生々しい記憶が多くの人に残っている時に建造された記念碑なので、その信憑性はきわめて高い。
 もちろん好太王を顕彰する碑文なので、王を徹底して美化している。

 たとえば、任那がこのあと亡びるどころか拡大されたままでずっと残っていたことは、好太王の戦いが碑文どおりの戦勝ではなかったことを示している。
 ただ、朝鮮半島の奥地――平壌は大陸に近い半島深部である――で日本軍が戦ったという日本の史書の記述が史実であったと明確にわかること、および、日本の史料では不明確なその紀年がはっきり記されていること、がじつに貴重なのである。

 これは、『日本書紀』の記録と符合するほか、三韓の歴史を記した『三国史記』にも、これに関係する記述が多くみられることは、第七・二節の新羅史などにあるとおりである。
 また『日本書紀』にある《任那》という朝鮮南部の日本領土名が、高句麗王の碑文に明記されていることも、興味ぶかい。

 一部の学者による任那虚構説を、朝鮮半島の考古学的史料が打破してくれているのだ。
 この時代の日本と朝鮮の関係についての優れた概説があるので引用しておく。
 出典は、田中卓『教養日本史』である。

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 ・・・三世紀後半から急速な発展をみた大和朝廷は、四世紀なかばには少なくとも近畿地方以西の主要な地域の統一を完成していたと思われる。そのころ、朝鮮半島においては、百済が新羅・高句麗の圧迫を受けて、わが国に援助を求めてきた。わが国は西暦三六九年半島に兵を進めて弁韓の地を占領し、新羅を破って百済・新羅を朝貢させて、南朝鮮に有力な地歩を築いた。この弁韓の地におかれたのが任那の日本府である。その後、四世紀末から五世紀の初めにかけて、日本軍は高句麗と半島の各地で激しく戦った・・・
(三六九年のことは後で記す)

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『卑弥呼と日本書紀223』

 この四世紀なかばから五世紀にかけての半島の事変を投影しているのが『日本書紀』にある〈神功皇后〉と應神天皇、さらには仁徳天皇の物語なのだが、日本が新羅と百済と任那を支配下においた後の高句麗と日本軍の戦いは、南下する高句麗が日本の勢力圏になった新羅や百済を攻めたために起こった。

 神功皇后紀の後の項にも出てくるが、西暦三七〇年前後に百済日本連合軍と百済領土内で、また四〇〇年ごろに新羅領土内や高句麗百済国境付近で、さらにその後高句麗が支配していた百済北方の帯方郡あたりで、激しい争いがなされたのだ。

 日本の史料も朝鮮の史料も自国を美化しているが、つき合わせることによって、三韓征伐やその後の朝鮮出兵が史実であることが判明する。
 したがって前述したように、〈神功皇后〉の三韓征伐の伝承は、『好太王碑』に記された西暦四〇〇年前後の事変やその前段階(三七〇ごろ)の事変の前哨戦だったと想像できる。
 年代的には、前記のように、三六〇年ごろだったのであろう。
(三二〇年という数値は一二〇年加算から来ているが、この時代にはより多くの加算が必要なのであろう)

『好太王碑』の碑文の四〇〇年前後の事変は、天皇の崩年干支から推定すると、應神天皇の晩年、あるいは仁徳天皇治世の初期らしいのだが、最終的には――つまり仁徳天皇以後になると――任那地方は日本の所領として確定し、百済は修好して朝献国となり、新羅は朝貢しては反発を繰り返し、高句麗とはほとんど外交しないまま――という状態に落ち着いたようである。

 そして、仁徳天皇は、三代にわたる朝鮮出兵による国民の疲弊と経済の衰退に対処するために、大幅減税を断行し、皇宮が破損しても税による修理をせず、これが善政として史書に伝えられて、「仁徳」という特別な天皇号を追号されることになったのだ。

(仁徳天皇の御代の疲弊の理由について先生に質問された少年時代の昭和天皇が、御学友が答えられないなか、ただお一人正解を述べられたというエピソードがある)


『卑弥呼と日本書紀224』

■■■■■ 七・五 謎の多い〈神功皇后〉東征伝説と『魏志倭人伝』からの引用 ■■■■■


『好太王碑』による、三韓征伐の史実性を確認したので、〈神功皇后〉の物語(摂政紀)にもどることにしよう。
 じつに興味ぶかい記述が多く記されている。


◆◆◆ 第十四・五代〈神功皇后〉の物語(2) ◆◆◆
   ――謎の東征伝承と
    『魏志倭人伝』の引用――


△神功皇后摂政元年(西暦二〇一年/三二一年)
〔異母皇子の謀反と討伐〕

 二月――
 三韓征伐の翌年の二月、摂政としての本格的な活動をはじめた〈神功皇后〉は、穴門豊浦宮に移り、そこに仮葬してあった仲哀天皇の亡骸を持ち、誕生した皇子――のちの應神天皇――を連れ、群臣を従えて瀬戸内海を通って《大和》に向かった。

 そのとき、皇子の異母兄にあたる仲哀天皇の妃の子どものうちの二人――カゴ坂王(かごさかのみこ/カゴは難しい文字なので仮名にした)と忍熊王(おしくまのみこ)――が、〈神功皇后〉に皇子が生まれたのを知り、天皇になるのは自分たちだから産まれた皇子を殺そうと決めて、明石に仲哀天皇の偽りの御陵をつくった。
 そして東国の兵を集めて皇后一行を待ち伏せした。

 このとき――たぶん大阪か神戸のあたりで――吉凶を占うための狩りをしたところ、赤い猪がカゴ坂王を食い殺してしまった。
 そこで弟の忍熊王は後退していまの大阪住吉区のあたりに陣地をかまえた。
〈神功皇后〉はこのことを知り、武内宿禰に皇子を預けて南回りをさせ、和歌山市の紀ノ川河口に停泊させた。
 そして皇后一行はまっすぐに難波――いまの大阪湾の奥――に向かった。


『卑弥呼と日本書紀225』

 ところがそのとき、皇后の船が旋回するばかりで前進しなくなってしまった。
 そこで尼崎まで戻って神意をうかがい、教えをうけた結果、

〈天照大神〉の荒御魂を広田国(西宮市大社町)、
 その妹の稚日女尊を生田長峡国(神戸市中央区)、
 事代主神を長田国(神戸市長田区)、
 住吉三神の和御魂を大津(大阪市の住吉大社)

 ――にそれぞれ祀ったところ、船は無事に進みだした。
 大和朝廷に関係の深い神々を祀ることによって、自分の実子が正統な後継者であることを主張していると解釈できるエピソードである。

 忍熊王はこれを知って京都の宇治市まで退いて陣地を立て直した。
〈神功皇后〉は一直線に進んだのではうまくいかないと判断し、南に廻って和歌山市のあたりで皇子と合流してさらに南下し、そこで上陸して北へ向かい、いまの和歌山県那賀町のあたりに軍をかまえた。
 このあたりの話や経路は「神武天皇の東征伝説」と酷似していて興味ぶかいのだが、さらに次に〈天照大神〉の「天の岩屋」に似た不思議な現象が起こる。

 すなわち、世界が夜のように暗くなって、それが何日もつづいたのだ。
 しかもこのときの表現として、「天の岩屋」事件と似た言葉が使われているのだ。
 これは不吉だというのでその原因を調べると、二人の人間を一つの場所に葬ったためだと分かり、それを分けて葬り直すと、太陽が輝いて昼と夜の区別ができるようになった。
 解釈としては、天に二つの太陽はなく、忍熊王より皇后の皇子が正統だという主張を暗示しているとされているが、いずれにせよこれは、

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」

 ――のところで述べた西暦二四八年の皆既日蝕に影響された説話とも考えられる有名な記述である。
 また、〈神功皇后〉の想定される実紀年に近い皆既日蝕は、西暦三二八年と三八四年に起こっているので、そのような日蝕が、この説話を生んだのかもしれない。


『卑弥呼と日本書紀226』

 三月――
 皇后は武内宿禰らに討伐を命じた。
 軍勢は紀伊半島を北上して忍熊王の陣地のある宇治川まで進んだ。
 そしてそこで武内宿禰は謀略を用い、相手を油断させてうち破った。
 この対戦の最中、忍熊王と武内宿禰の間で、幾度となく歌のやりとりがあった。

 十月――
 忍熊王を破って無事《大和》に帰着したので、十月に群臣は〈神功皇后〉を尊敬して皇太后と呼ぶことにし、この年を〈神功皇后〉の摂政元年とした。
(まぎらわしいので以下皇太后とは呼ばず皇后とする)


△神功皇后摂政二年(西暦二〇二年/三二二年)
〔仲哀天皇の埋葬〕

 そしてようやく翌年のこの年、仲哀天皇の亡骸を河内の国の長野陵(大阪府南河内郡の長野西陵)に葬り祀った。


△神功皇后摂政三年(西暦二〇三年/三二三年)
〔皇宮の建設〕

 この年の一月、皇后の皇子・譽田別皇子(ほむたわけのみこ/のちの應神天皇)を皇太子にする立太子の行事をおこない、神武天皇以来の由緒のある《大和》の磐余(いわれ)に皇宮をつくり、これを若桜宮と名づけた。
 場所はいまの桜井駅付近(図5・2、5・3および図8・1参照)である。
 これによって無事、正妻の長男が第十五代天皇と決まったことになるが、古代の天皇の後継決定にはいつも確執がみられる。
 現在の総理大臣以上の存在を決めるのだから、確執があるのは当然である。


『卑弥呼と日本書紀227』

△神功皇后摂政五年(西暦二〇五年/三二五年)
〔新羅の謀略と皇后の怒り〕

 三月――
 この年の三月、皇后との約束どおり、新羅王が朝献してくるが、人質の微叱己を取り返そうと「本土で妻子を官の奴隷にしているというので確かめたい」と人質に嘘をいわせる。
 それを真に受けた〈神功皇后〉は、勇武できこえた葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を責任者として随伴させて人質を帰そうとするが、対馬のあたりで嘘がわかり、怒った襲津彦が新羅の使いを焼き殺し、いまの釜山のあたりの城を攻め落とした。

 このとき捕虜となって日本に来た人たちが、大和西方の山地近くの四つの村の祖であると書かれているが、これは史実に近いらしい。

『三国史記』では、新羅史の四一八年、列伝の四一二年の事項に対応している。
『日本書紀』では、一二〇年加算しても合わないが、何十年か後の事件をここに当てはめたように見える。

 さて、これ以後は〈神功皇后〉は名前が出るていどで事績の記述はほとんど無くなり、三韓との厄介なやりとりの説明が何回も続く。
 これらは、朝鮮半島との外交の困難性をあらわす切実な物語である。

 朝鮮半島との折衝の難しさは、現代にはじまったものでもなく、明治や大正にはじまったものでもなく、秀吉の時代にはじまったものでもなく、さらには元寇の時代にはじまったものでもない。
 じつに古代/神話の時代から続いているのである!

 またこのあとの神功皇后紀には『魏志倭人伝』や『百済記』などの歴史書が再三引用されているが、『百済記』は『日本書紀』の引用でのみ断片が知られる幻の史書であって、本国の朝鮮半島にはまったく残っていない。

 朝鮮本国に残る最古の史書は、これまで何度か言及した『三国史記』だが、これが編纂されたのは『記紀』の四百年以上のちである。

 このあとの事件はごく簡単に記すが、『魏志倭人伝』の引用は重要なので、全文を記す。


『卑弥呼と日本書紀228』

△神功皇后摂政十三年(西暦二一三年/三三三年)
〔皇后と武内宿禰のかけあい〕

 八年とんでこの年、皇后の意向で武内宿禰は皇太子を連れて敦賀(つるが/ツヌガ)の気比(けひ)神宮に参拝し、そのあと皇太子のための大宴会を催し、そこで〈神功皇后〉と皇太子の代理の武内宿禰が歌のやりとりをした。
 この二人はまるで夫婦のように仲が良いのだ!


△神功皇后摂政三十九年(西暦二三九年/三五九年)
〔『魏志倭人伝』の引用1〕

 二十六年もとんでこの年、次の重要な記述がある。

「魏志ニ云ハク、『明帝ノ景初ノ三年ノ六月、倭ノ女王、大夫難斗米等ヲ遣シ、郡ニ詣リテ、天子ニ詣リ朝獻セムコトヲ求ム。太守劉夏、吏ヲ遣ワシテ将テ送リテ、京都ニ詣ラシム』トイフ」

 これは第三章に記した『魏志倭人伝』の記述そのものである。この年の皇紀は西暦に換算すると二三九年になるので、それも一致している。
 ただし現存する『魏志倭人伝』では景初二年になっている。また斗は升になっているし、劉の字もすこし違っている。写本を繰り返すうちにどこかで違ったのであろう。どれが正しいかは不明だが、紀年については、大陸の政治情勢からこちらの景初三年の方が正しいとされている。

 いずれにせよ『記紀』編纂の時代にすでに日本の歴史家が『魏志倭人伝』を読んでいたことがわかるし、そのなかの女王〈卑彌呼〉を〈神功皇后〉のことだとしていたらしいことも分かって興味ぶかい。
 図7・3に『日本書紀』のこの部分を示した。

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『卑弥呼と日本書紀229』

△神功皇后摂政四十年(西暦二四〇年/三六〇年)
〔『魏志倭人伝』の引用2〕

 この年にも『魏志倭人伝』からの引用がある。

「魏志ニ云ハク『正始ノ元年ニ、建忠校尉梯携等ヲ遣シ、詔書印綬ヲ奉リテ、倭国ニ詣ラシム』トイフ」

 これも第三章の『魏志倭人伝』の記述そのものである。
 ただし銅鏡百枚はじめ宝物を贈ったという個所は引用されておらず、『記紀』編纂時代の考え方が知られる。


△神功皇后摂政四十三年(西暦二四三年/三六三年)
〔『魏志倭人伝』の引用3〕

 三度目の『魏志倭人伝』の引用がある。

「魏志ニ云ハク『正始ノ四年、倭王、復使ノ大夫伊聲者、掖耶約等八人ヲ遣シテ上獻ス』トイフ」

 これも『魏志倭人伝』の記述そのものである。
 ただし前と同様、人名については大夫伊聲耆の耆が者となっていて少し違っている。きわめて似た文字だからどこかで間違えたのであろう。

**********

『日本書紀』の編纂者たちまたは少し後の注釈者たちが、〈神功皇后〉を〈卑彌呼〉に照応しようとしていたことが明白にわかる、驚くべき引用である。

(当時の歴史家たちが「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」にたっていたとすると、『三国史記』の新羅本紀にある〈卑彌呼〉の時代の于老との戦いなどの記述が『記紀』に記されていないのは、それを〈神功皇后〉の事績として三韓征伐の物語に混ぜてしまったからだ――という推理も成り立つであろう。あくまでも推理であるが・・・)


『卑弥呼と日本書紀230』

■■■■■ 七・六 任那日本府の設置と新羅との軋轢 ■■■■■


 このあとも外交交渉の記録を中心に、簡単化して記すが、とくに重要なのが、一二〇年加算で三六九年になる摂政四十九年の、任那日本府の設置である。


◆◆◆ 第十四・五代〈神功皇后〉の物語(3) ◆◆◆
   ――任那日本府の設置
     『百済記』の引用――


△神功皇后摂政四十六年(西暦二四六年/三六六年)
〔百済国との国交樹立の記録〕

 三月――
〈神功皇后〉が、任那の新羅寄りの中央部にある卓淳国(とくじゅのくに)に使者を送ったとき、その国の王が、

「百済の国王が修好の使者を日本に送ろうとしたが道に迷ってこの国に来てしまった」

 ――と話した。
 そこで日本の使者が従者を百済に派遣したところ、百済王はとても喜んで、宝物を日本に献上したいと述べた。

 この摂政四十六年の記録は、百済との修好の始まりを語る伝承だが、その紀年は、一二〇年加算を当てはめると、百済王の使者が迷ったのが西暦三六四年、日本が使者を送ったのが西暦三六六年となる。
(三韓征伐実紀年の数年後と想像される)

『三国史記』では近肖古王の時代で、大陸の晋や新羅と修好した記録があるので、善隣外交を展開していたのであろう。
 卓淳国とは図7・1の任那の東部にあり、後に新羅に編入されたが、新羅と百済を隔てる攻防の要衝である。
 スポーツ大会で話題になるいまの大邱市のあたりである。
 この地がいかに重要であったかは、後にエピソードとともに記す。


『卑弥呼と日本書紀231』

△神功皇后摂政四十七年(西暦二四七年/三六七年)
〔新羅が百済の貢ぎ物を奪う〕

 四月――
 約束どおり百済の使者が朝貢に来、同時に新羅の使者も来朝した。
 ところが百済の貢ぎ物がとても貧弱だったので質問すると、

「途中で新羅に捕らえられて交換させられた」

 ――と答えた。
 そこで、誰を百済に派遣して真偽を調べたらいいかと〈天照大神〉にたずねると、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者とすればよい――との神託があった。
 そこで千熊を新羅に派遣して、朝貢物のすり替えを責めた。

 千熊はこの時代の「天才的な外交官」であり、この天才の力によって日本は朝鮮南部の権益を確保したといっても過言ではない。
 この千熊派遣は、百済とはうまくいっているが新羅とは軋轢がつづいていることを示す伝承だが、この事件のあった年は一二〇年加算で西暦三六七年である。

 ここで百済の幻の史書『百済記』の引用がはじめて出てくる。
 この部分では、千熊長彦が『百済記』でどう書かれているかが述べられている。それによると職麻那那加比跪(ちくまななかひく)と記されていたらしい。
 日本の「彦(ひこ)」が、『魏志倭人伝』では「卑狗(ひく)」、『百済記』では「比跪(ひく)」となっているのはおもしろい。

『百済記』と現在まで伝わる『三国史記』とでは編纂紀年に数百年以上の違いがあるので、これが『三国史記』の百済本紀にどう影響しているかは不明である。
『百済記』はこのあとも再三引用されている。


『卑弥呼と日本書紀232』

△神功皇后摂政四十九年(西暦二四九年/三六九年)
〔新羅派兵と任那平定〕

 三月――
 この年の春、任じられた二人の将軍や千熊長彦ら関係者たちが海を渡って、攻防の要衝卓淳国に集結(*)し、卓淳や百済と協力して新羅をうち破った。
 それから七つの国を平定した。
 これは任那七国と呼ばれ、大ざっぱにいって図3・2の弁韓、図7・1の任那とされているあたりの主要な国々である。
 国名を記すと、

 火自{火本}(ひしほ)
 南加羅(ありひしのから)
 トク国(とくのくに/トクは録を口偏にした文字)
 安羅(あら)
 多羅(たら)
 卓淳(とくじゅ)
 加羅(から)

 ――の七国である。
『好太王碑』や『魏志倭人伝』の解釈でお馴染みの名がならんでいる。
 いずれも、現在の韓国の慶尚南北道の一部にある国で、一国あたりにすれば、いまの日本の郡以下ていどの規模である。
 この時代の任那地方(弁韓)が、集落が点在するといったていどの地域であり、独立した大きな国に日本が攻め入ったわけではないことがわかる。
 さらに、この七つの国のほかに、忱弥多礼(とむたれ)を支配下において、百済に譲った。
 これは現在の済州島(**)である。

 これによって大和朝廷は任那に任那日本府を置くことができ、半島南部の国々を統治する基礎をつくったことになる。
 朝鮮半島における日本の権益を確立したのだ。
 日本に新羅を抑えてもらった百済王は喜んで、

「今後は常に自分を卑下して西蕃と称し、春秋に日本に朝貢します」

 ――と誓った。
 これは、日本列島内の統一過程で力をつけた将軍たちの成果であるとともに、「外交の天才・千熊長彦」の努力の成果でもあった。


『卑弥呼と日本書紀233』

 この事変は、一二〇年を加算すると、前掲田中卓の文章のとおり、西暦三六九年のことになる。
 だから、『日本書紀』の記述をそのまま受け入れて一二〇年加算すれば、〈神功皇后〉は西暦三二〇年と三六九年の二回にわたって南朝鮮に派兵したことになるが、皇后紀は引き延ばされているため、三六〇年代に二度の遠征があったのだろうと推理できる。


△神功皇后摂政五十年(西暦二五〇年/三七〇年)
〔百済から感謝の使者が来る〕

 二月――
 新羅征伐に派遣されていた将軍が帰国。

 五月――
 千熊長彦らも帰国したが、このとき百済の使いも一緒だったので、〈神功皇后〉がその理由を質問すると、日本への感謝のために来たのだという。
〈神功皇后〉は喜んで、任那地方にある河口の城を贈り、百済と日本を往復するときの宿駅とさせた。


△神功皇后摂政五十一年(西暦二五一年/三七一年)
〔百済の朝貢と日本の返礼〕

 三月――
 百済からまた使者がきて朝貢した。
〈神功皇后〉は皇太子や武内宿禰と相談して、千熊長彦を返礼の使者として百済に派遣した。
 百済の王は平伏して感謝した。
(すでに皇太子つまり應神天皇が事実上のリーダーだったことがうかがえる)

 このあたり、全体として、新羅に手こずり、南下する高句麗にも危機感を抱き、利害の一致する百済と組んで朝鮮半島での権益を守ろうとする大和朝廷の外交戦略が読みとれる。


『卑弥呼と日本書紀234』

(注* 西暦三六九年のこの事変(232回)のとき、日本軍は攻防の要衝である卓淳(今の大邱市のあたり)に集結した事が『日本書紀』に記されているのだが、この集結地について、左翼史家の井上光貞が、
「日本軍が釜山に集結したのなら分かるが、卓淳のような奥地に集まるのは不自然であり、『日本書紀』のこの記述は虚構であろう」
 ――と語ったそうである(原文献は未見だが南原次男の著作による)。
 しかし軍事の専門家でもある南原はこれに強く反発して、つぎのような意見を述べている。

 卓淳は現在でも戦略的要衝であり、また交通の要衝でもある。
 したがって日本軍が卓淳に集結したのは軍事の常識である。
 またこの事は、当時の日本軍がすでに半島内部の重要地点を知っていたことを意味しており、したがって西暦三六九年の前にすでに半島で戦った経験があった事を推理させる。
 ・・・つまり〈神功皇后〉の半島遠征が史実である可能性が高い。
 ――と述べている。

 あらためて韓国の地図を眺めてみると、南原のこの指摘がよく分かる。
 新羅軍が百済を攻めようとすると、どうしても卓淳を通って白山越えをしなければならず、したがって卓淳を抑えることが百済を守ることになるのである。
 もし日本軍が井上の言うように釜山に集結していたら、新羅軍はやすやすとすりぬけて百済に侵攻し、日本軍は何の役にも立たなかったであろう。東京を守るために瀬戸内海に集結するようなものである。

 この卓淳の重要性は、昭和二十年代の朝鮮戦争でも明かで、南下する北鮮軍を迎え撃った韓国軍は、多大な犠牲を払いながらも最後まで卓淳を死守した。
 じつにきわどい防衛戦で、あやうく背後に回られかけたそうだが、とにかくここを死守したために韓国は壊滅しないで済んだ。
 もし卓淳を破られていたら、あとは一気呵成に半島南端の平地を席巻されて、海に飛び込むしかなくなっていたであろう。
 左翼古代史家は、朝鮮戦争から何も学んでいないらしい。

 そもそも古代史を真に理解するためには、
(1)文献史学
(2)考古学
(3)戦史学
 少なくともこの三つの知識を有機的に関連づけねばならない。

 ・・・というのが、陸軍士官学校卒で防衛庁に幕僚として勤務した経験もある異色の古代史家・南原次男の意見である。)

(注** 済州島はもともと一種の独立国だったらしいが、百済の係属になったのち、百済の滅亡に際して、日本の援助を得て独立を保とうとしたらしい。しかし結局は新羅に併呑され、現在は韓国の領土になっている。伝説では、済州島に生まれた三柱の男神と日本から来た三柱の女神が結婚して、子孫が繁栄したとされている。おそらく、百済・任那と同じで、人種や文化や言語は日本に近かったのであろう。もし〈神功皇后〉が割譲しなかったら、あるいは、天智天皇時代の日本にゆとりがあって援助していたら、済州島は現在どうなっていたであろうか。領土問題は千年後二千年後まで影響する)


『卑弥呼と日本書紀235』

■■■■■ 七・七 七枝刀の献上と〈臺與〉の時代の使者派遣 ■■■■■


 前節の続きであるが、ここには百済から「七枝刀」が献上されたという重要な記事があり、また〈卑彌呼〉の後継者の〈臺與(とよ)〉ではないかと想定される晋への使者派遣の記録が記されている。


◆◆◆ 第十四・五代〈神功皇后〉の物語(4) ◆◆◆
   ――注目すべき七枝刀と
      『起居注』の引用――


△神功皇后摂政五十二年(西暦二五二年/三七二年)
〔百済が七枝刀を朝献〕

 九月――
 この年は一二〇年加算で西暦三七二年にあたるが、秋九月に、きわめて重要な貢ぎ物が百済王からもたらされた。
 すなわち、千熊長彦が九月に帰国するが、常に往復していた百済の使者が一緒に来朝して、七枝刀(ななさやのたち)・七子鏡(ななこのかがみ)などの貴重な宝物を朝廷に朝貢したのだ。
 そして、日本に対して最大限の賛辞を述べ、山でとれる鉄も献上すると約束した。
 太刀と鏡の名にある七という数字は、じっさいに七つの部分から出来ているから付けられたものである。

 日本と百済が前述の任那(弁韓)七国を平定し領土を拡大した記念に、七つの部分から出来ている特殊な宝刀や宝鏡を献上しにきたのだ。
 そしてこれ以後百済は、毎年かかさず朝貢に来た――と記されている。


『卑弥呼と日本書紀236』

 この記述もまた、〈神功皇后〉と應神天皇および千熊らの外交戦略がうまくいっていることを示している。
 事実日本と百済の友好関係は、白村江の戦いで日本が唐と新羅に破れて百済が滅亡するまで三百年もつづくことになる。

 さてここで、とくに重要なのは、「七枝刀」という献上品である。
 これはじつは奇跡的に現在にまで残り、奈良県天理市――つまり古代《大和》のやや北部――にある《石上神宮》の社宝として厳重に保管されている。
 もちろん厳しい鑑定に耐えた国宝である。

 しかもこの宝刀には銘文が刻まれており、そこに年号もあるので、〈神功皇后〉時代の実際の紀年を定める重要な証拠品となっているのだ。
 この件については、あとの節で詳しく解説する。


△神功皇后摂政五十五年(西暦二五五年/三七五年)
〔百済の肖古王の死去〕

 百済の肖古王が崩じたとの記述のみ。
 この年は一二〇年加算で西暦三七五年になるが、『三国史記』の百済本紀にある近肖古王の死も西暦換算でまったく同一となるので、このあたりの一二〇年加算はかなりの根拠がある。


△神功皇后摂政五十六年(西暦二五六年/三七六年)
〔百済の次の王について〕

 百済の肖古王の王子の貴須(くいす)が次の王となったとの記述がある。
 貴須は『三国史記』では近仇首王のこと。仇首と貴須で読みが一致する。


『卑弥呼と日本書紀237』

△神功皇后摂政六十二年(西暦二六二年/三八二年)
〔またも新羅征伐〕

 この年は一二〇年加算で西暦三八二年だが、新羅が朝貢しなかったので、懲罰すべく、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を将軍として派遣した。
 襲津彦とは、摂政五年に新羅の人質が逃走したとき、追って新羅まで進軍した人物で、のちに娘の磐之媛命(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后となり、また本人は武内宿禰の子ともいわれ、なにかと話題の多い重臣である。
 相当な暴れ者だったらしいが、軍事作戦では失敗も多かったようである。

 この記事はここで唐突に終わり、あとは『百済記』からの引用文が長々と続く。
 それによると、襲津彦――『百済記』では沙至比跪(さちひく)と書かれている――は新羅の美女によって籠絡され、逆に任那北方にある加羅国を討ったので、加羅の人たちは百済に逃げた。加羅王の妹が《大和》に来てそれを報告したので、天皇(應神天皇?)は怒って別の将軍を派遣して加羅国を回復させた。襲津彦は密かに帰国したがやがて岩穴で死んだ――ということである。

 かなり情けない日本の将軍の後日譚が記されているのだが、日本側の記録では襲津彦はもっとあとまで活躍しているので、『百済記』のこの記述は、真実味があるとしてももうすこし後――應神天皇紀十四年――のことなのかもしれない。


△神功皇后摂政六十四年(西暦二六四年/三八四年)
〔百済王の交替〕

 百済の貴須王が没し、王子の枕流王(とむる)が立ったとある。
 この王は『三国史記』でも同漢字である。


△神功皇后摂政六十五年(西暦二六五年/三八五年)
〔百済王の後継争い〕

 百済の枕流王が没し、王子が若かったので叔父の辰斯(しんし)が王位を奪った――とある。
 この記述も『三国史記』とほぼ同一である。


『卑弥呼と日本書紀238』

△神功皇后摂政六十六年(西暦二六六年/三八六年)
〔重要な『起居注』引用〕

 この年の皇紀をそのまま西暦に換算すると二六六年――すなわち〈卑彌呼〉が死んだあとの〈臺與〉の時代――に相当しているが、ここに、『魏志倭人伝』に関係する重要な引用文がある。
 すなわち、晋の『起居注(ききょちゅう)』を引いて、

「是年、晋ノ武帝ノ泰初ノ二年ナリ。晋ノ起居注ニ云ハク、『武帝ノ泰初ノ二年十月ニ、倭ノ女王、訳ヲ重ネテ貢獻セシム』トイフ。」

 ――と記しているのだ。
 訳を重ねて、というのは通訳を重ねることで転じて遠方の外国人が来ることを意味する。
 この出典の『起居注』というのは、シナの皇帝の日記体の記録集で、現存するいくつかの文献にこれに似た記述が見られるそうである。
 ただし「女王」というのはこの『日本書紀』の記述のみらしい。

 この『起居注』の引用は明らかに、『魏志倭人伝』の最後の部分にある〈臺與〉がシナ王朝に使節を送ったという記事に対応させたもので、『魏志倭人伝』の〈臺與〉の貢献には年号の記録がないから、『日本書紀』の編者たちはシナの史書を探して、晋の史書『起居注』のこの記事が該当している――と判断したのであろう。

『魏志倭人伝』にある〈臺與〉による使者派遣が西暦二六六年という推理は、ここから来ているのだが、この推理は賛同する学者が多い。

 それから、これを「女王」とし、かつ、〈神功皇后〉の崩御の直前の記録にしたのは、『日本書紀』の編者たちが〈卑彌呼〉と〈臺與〉を同一の女王でともに〈神功皇后〉だとしていたことを意味している。
 そうでなければ、まったく別の場所に記すか、または記さなかったであろう。

 もちろんこれは推理であるが、この推理をさらに進めると、『記紀』が編纂された七〜八世紀の日本の学者たちの記憶のなかには、〈卑彌呼〉に相当する女帝は有ったが、その後継者としての〈臺與〉に相当する女帝は無かったし、その時参考にしたであろうさらに古い史書にも〈臺與〉に相当する存在は無かった――ということになる。
 これはとても重要な事である。


『卑弥呼と日本書紀239』

△神功皇后摂政六十九年(西暦二六九年/三八九年)
〔〈神功皇后〉崩御〕

〈神功皇后〉がこの年の四月に稚桜宮(わかさくらのみや)で崩御された。
 ときに数えで一百歳であった。
 そして十月に狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬られた。
 これは今の奈良市山陵町で、奈良駅の北西四キロほどのところに墳丘長二八〇メートルに達する巨大な前方後円墳が残されている。
 図7・4(a)に航空写真を示した。

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 すぐそばに一代前の成務天皇の御陵があるが、夫の仲哀天皇の御陵とは無関係な場所である。
 この崩御年は西暦二六九年であり、一二〇年加算では、西暦三八九年である。
 むろん、一二〇年加算が史実と合うのは三七〇年前後の事件であって、その前は大幅に引き延ばされ、その後もかなり延長されていると考えるべきであろう。
 想像しかできないが、後半部分の多くは、次の應神天皇が実権を握ってからの事項だろうという説が有力である。

 いっぱんに各天皇の年齢はもうすこし後の代まで、かなり引き延ばされているが、とくに〈神功皇后〉の崩御をこの年まで引き延ばしたのは、先の『起居注』の事績を〈神功皇后〉のものとするための苦肉の策だろうともいわれている。
 これもまた興味ぶかいことである。


『卑弥呼と日本書紀240』

◆◆◆ 〈神功皇后〉天皇説 ◆◆◆

 これで神功皇后紀は終わるが、じつに面白い史料である。
 朝鮮進出や新羅との軋轢は外国の史書とも対応していて、年代を変えて美化してはいるものの、それ以外の分野では、ふしぎなほど『魏志倭人伝』に対応しているのだ。
 また神武東征や〈天照大神〉の伝承ともよく似たところがある。

 この記録が『魏志倭人伝』と大きく異なるのは、〈卑彌呼〉が魏に助けを求めたり朝鮮を魏の一部のように見ているのに対し、〈神功皇后〉は逆に朝鮮を攻めて朝献を要求し成功していることである。

〈神功皇后〉が事実上の天皇だったことは、『日本書紀』における特別な扱いからも明かだが、じっさいに『記紀』に匹敵するほど古い史料に「天皇号」をつけて尊称している例がたくさんある。
 田中卓の資料などによれば、

 摂津国風土記
 常陸国風土記
 播磨国風土記
 住吉大社神代記
 琴歌譜
 扶桑略記
 宋史日本伝

 ――などが、氣長足姫天皇あるいは神功天皇といった尊称を使っている。
 さいごの宋史日本伝は、シナの歴史家が十四世紀に、日本の使者から聞いた日本の歴史や地理を記した書であり、そこに神功天皇と書かれていることは、平安から鎌倉にかけての日本の役人が〈神功皇后〉を「天皇」として尊称していたことを意味している。


『卑弥呼と日本書紀241』

『記紀』の編纂者たちは、シナ王朝が伝統的に女帝を軽視しているのを知っていたので、大陸への宣伝効果を考慮して、女性天皇はなるべく秘匿しようとしたらしい。
 そこで、六〜七世紀の推古天皇から女性天皇がはじまったとし、それまで天皇(大王)として記憶されてきた何人かの女帝を、皇后のままで摂政にするとか、皇女という肩書きのままにするとかしたらしい。

『日本書紀』を読むと、その事績の記述から、〈神功皇后〉のほかにすくなくとも二名の事実上天皇だったと思われる女帝が見つかる。
 第七代孝霊天皇皇女で、第十代崇神天皇の前に女帝だったと考えられる〈倭迹迹日百襲姫命〉と、第二十二代清寧天皇の没後しばらく後継者が決まらなかったとき、実質天皇の位についた、第十七代履中天皇の孫にあたる飯豐青尊(いいどよのあお)である。
 これに加えて、天智天皇の皇后だった倭姫王(やまとひめのおおきみ)も、短期間ではあったが、天皇の立場だったという説もある。

**********

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――の妥当性の分析はあとにして、つぎに應神天皇紀をまとめてみよう。


『卑弥呼と日本書紀242』

■■■■■ 七・八 八幡宮の祭神になられた第十五代 應神天皇 ■■■■■


◆◆◆ 八幡宮の祭神として祀られた天皇 ◆◆◆

 八幡宮という神社がある。古くはヤハタノミヤともいわれたし、ハチマン様という愛称もある。

 日本は「神々の国」だから神社は無数にあるが、そのなかでも稲荷神社に次いで多いのがこの八幡宮である。
 いまでも日本全国いたるところにあり、その数は神道辞典によれば二万五千である。また四万という資料もある。
 全国の郵便局の数がほぼ二万五千だから、これに等しいか上まわる数である。

(ちなみに稲荷神社は三万二千、伊勢神宮の御分社は一万八千、天満宮は一万一千といわれる)

 神社の数は摂末社や屋敷内社の数え方によって違ってくるが、八幡宮の数は実際にはもっと多く、稲荷神社を上回るという話もある。
 神社本庁に属している宗教法人としての神社総数が約八万だから、八幡宮の数がいかに多いかがわかる。
 一説によると末社まで加えた全神社の半数に達するのだという。とにかくとてつもない数である。

 この膨大な数の八幡宮の代表格が、

    宇佐八幡宮(九州大分県)
    石清水八幡宮(京都)
    鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉)

 ――で、知名度では後二社であり、由緒としてははじめの宇佐(総本宮)である。


『卑弥呼と日本書紀243』

 では、このとてつもない数の八幡宮にはどういう神が祀られているかというと、それがこの節の主人公の應神天皇なのである。
 どの八幡宮も主祭神は應神天皇で、同時に〈神功皇后〉が祀られる場合が多い。
 八幡宮は奈良時代からあるが、とくに平安後期になって源氏一族に崇拝されて盛んになった。
 武士として拝むべき神とされたのだ。

〈神功皇后〉に続いて應神天皇もしばしば軍隊を海峡を越えて朝鮮半島に送って激戦しているので、軍事の神として、また海にかんする神として崇拝されたらしい。
 源氏の武将の旗には「八幡大菩薩」といった文字が書かれることが多かったし、源氏の勇将として有名な源義家が八幡太郎義家と称したのもその信仰のためである。

「八幡」という独特の神社名の由来だが、應神天皇の御降誕にさいして天から多くの幡が降った瑞祥によるという伝説がある。
 また、幡は畑に通じる名だという説もあるし、宇佐神宮の場所の昔の地名だという説もある。
 さらに、八幡のハタはワタと同じで、海を意味するワタツミから来ているという説もある。
 以下、この膨大な数の神社の祭神となっている應神天皇の物語を記すことにする。


『卑弥呼と日本書紀244』

◆◆◆ 第十五代 應神天皇の物語(1) ◆◆◆
   ――つづく朝鮮三国との確執――

 国風謚号 譽田天皇(ほむたのすめらみこと)
 漢風謚号 應神天皇
〔在位・西暦二七〇年〜三一〇年〕
〔降誕・西暦二〇〇年/崩御・西暦三一〇年〕*
〔皇宮・磐余若桜宮(奈良県桜井市池之内)
    軽島豊明宮(かるしまとよあきらのみや/奈良県橿原市大軽町)〕
〔御陵・惠我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ/大阪府羽曳野市誉田)〕
    *崩年干支推定は西暦三九四年

 第十五代の應神天皇は、前記したとおり〈神功皇后〉の三韓征伐の直後に、神の加護があったり、石で出産を抑えて戦ったりしたという神秘的な経過で、生まれた。

 應神天皇はのちの追号だが、母親の〈神功皇后〉と二代続いて「神」が名前につけられている事も注目される。
 他に「神」がつく天皇は、初代の神武天皇と第十代の崇神天皇だけなのだから・・・。

 幼児から聡く凛々しく、弓を射るときに左腕にあてる鞆(ほむた)のような逞しい肉が生まれた時からあり、それが母親の〈神功皇后〉が男装して鞆をつけた姿に似ていたので、譽田別皇子(ほむたわけのみこ/諱)と呼ばれており、そこから誉田天皇という国風の謚号ができた。

 應神天皇の出生譚はこのように神秘的だが、天皇になってからの記述はとても現実的で、絶大な権力をもって日本国を発展させた強力な指導者だったとして、その業績が記されている。

〈神功皇后〉在世中の対外折衝も、後半は事実上この應神天皇が取り仕切っていたと考えられるのだが、即位後の記述も、まことにダイナミックなのだ。

 なお一二〇年加算はしだいにずれてきていると思われるが、参考のために書いておく。
 以下、應神天皇の事績を簡略化して記す。


『卑弥呼と日本書紀245』

▽應神天皇元年(西暦二七〇年/三九〇年)
〔《大和》で即位〕

 正月一日――
〈神功皇后〉崩御の翌年の正月に、第十五代天皇として即位した。
 一二〇年加算では西暦三九〇年のことである。
 皇宮は最初は〈神功皇后〉のいた稚桜宮(桜井市)のはずだが、皇后を定めたときに豊明宮(橿原市)に遷ったのかもしれない。
 いずれにせよ古くから大和朝廷が本拠とした《大和》の地で、神武天皇はじめそれまでの多くの天皇の宮と同一地域である。


▽應神天皇二年(西暦二七一年/三九一年)
〔皇后の決定〕

 三月――
 この月、仲姫(なかつひめ)を皇后に定めた。
 この姫の祖父は、第十二代景行天皇の皇子として有名な日本武尊や第十三代成務天皇の弟にあたる五百城入彦皇子(いほきいりびこ)である。
 つまり九州や東国までを支配下においた景行天皇の曾孫にあたり、大和朝廷の実質的な確立者とされる第十代崇神天皇の直系の子孫である。
 仲姫には姉と妹がいたが、この二人も妃として仕え、結局三姉妹が應神天皇の皇子を生むことになった。

 應神天皇の出生については、父とされる仲哀天皇の影が薄いため、左翼史家が多くの異説を述べているが、いずれも根拠薄弱であり、年代の問題を除けば、正史に素直に従うべきであろう。
 いずれにせよ、皇后として由緒正しい大和一族の姫をたてたことによって、大和朝廷の正統の後継者となったわけである。
 仲姫は次の仁徳天皇を生み、また多くの妃に合計して二十人(『古事記』では二十七人)の皇子皇女が生まれた。


『卑弥呼と日本書紀246』

▽應神天皇三年(西暦二七二年/三九二年)
〔百済懲罰と蝦夷朝献〕

 即位まもなく、対外的難問題がおこる。
 この年、幼い王子を押しのけて不当に王位についたとされる百済の辰斯王(しんしおう)が失礼な行為をしたので、武内宿禰の四人の息子(いずれも武将)を百済に送って厳しく抗議した。
 百済では辰斯王を殺して陳謝し、遠征した日本の将軍たちは、正式の王子であるは阿花(あか)をたてて王とした。

 この紀年は一二〇年加算では西暦三九二年になるが、『三国史記』における辰斯王の死と阿花の即位もまったく同じ年になっている。
 ただし『三国史記』での辰斯王は、高句麗からの攻撃で多くの領地を失い、それでも遊びほうけて狩りに行って奇妙な死を迎えたとされ、阿花王も高句麗との戦いに苦労している。

 このころから『好太王碑』にある高句麗対日本の大激戦がはじまったらしく、『日本書紀』にも『三国史記』にも、暗示的な記述が多くみられる。

 十月――
 東国の蝦夷がこぞって朝献してきた。そしてこの蝦夷に道路工事をさせた。

 十一月――
 各地の海人が騒いだので、統率者をきめて騒ぎを鎮めた。
(このあたり、強力な王権によって九州から東北まで海陸ともに大和朝廷に帰順させていたことをうかがわせる記述である)


『卑弥呼と日本書紀247』

▽應神天皇五年(西暦二七四年/三九四年)
〔大規模な造船〕

 八月――
 海人部(あまべ)と山守部(やまもりべ)を定めた。
 海産物を扱う部(べ)/部民(べのたみ/べみん)や山林を守る部/部民を定めたのである。

 十月――
 伊豆の国に命じて長さ十丈(約三十メートル)の巨船をつくった。
 船名を「枯野(からの)」という。
 朝鮮半島への大規模出兵を想像させる記述である。


▽應神天皇六年(西暦二七五年/三九五年)
〔近江へ行幸〕

 二月――
 琵琶湖周辺の近江の国へ行幸して歌をつくった。
 日本では、どんな無骨な天皇でも和歌をお詠みになられる。戦争や苦難のさなかでもお詠みになる。
 この伝統はいまに続いている。


『卑弥呼と日本書紀248』

▽應神天皇七年(西暦二七六年/三九六年)
〔渡来人が池をつくる〕

 九月――
 高句麗、百済、新羅、任那の人たちが来朝したので、池をつくらせた。
 高句麗人の帰化は珍しいが、『古事記』には記されていない。
 この應神天皇紀から土木工事についての記録が多くなる。本格的な土木工事が可能になったことがうかがわれる。
 御陵もどんどん巨大になり、應神天皇陵や次の仁徳天皇陵にいたって世界一の巨大さを誇るようになる。

 なお、一二〇年加算では、この年がすでに西暦三九六年になるが、一方天皇崩御の干支が記録されていてそれを西暦に直した崩御年推定は西暦三九四年である。
 すなわち崩年干支推定ではこの年にはすでに應神天皇は崩御され、仁徳天皇の御代になっていたことになる。

 崩御干支による推定自体が誤差を含んでいるし、干支二回りの他にてきとうな短縮伸長がなされているので、こういう矛盾はやむをえない。
 ただ外交問題については、『百済記』という実際の紀年がかなり正確だったらしい史書を参考にしているので、一二〇年加算でほぼ合うらしい。
 すでに仁徳天皇の御代になっていたかどうかは別にして・・・・・。


『卑弥呼と日本書紀249』

▽應神天皇八年(西暦二七七年/三九七年)
〔百済の阿花王との確執〕

 三月――
 この年は一二〇年加算では西暦三九七年になるが、三月に百済人が来朝した――とある。
 一方『百済記』の引用があり、そこには、阿花王(あか)が日本への礼を欠いて日本に攻められ土地をとられたので、使者を送って友好を復した――と記されている。
『三国史記』の阿花王の記録には、次の三項の日本との関係が記されている。

 西暦三九七年 倭国に人質として皇太子直支(とき)を出す。
 西暦四〇二年 倭国に使者を送って大きな珠を得た。
 西暦四〇三年 倭国の使者が来たので厚遇した。

 このあたりの何年かの朝鮮との外交・軍事問題は『三国史記』のほかに『好太王碑』碑文の年代ともおおむね一致しており、史実である可能性がきわめて高い。
 應神天皇(および次代の仁徳天皇)が国内だけでなく朝鮮半島に対しても強力な外交と軍事力を発揮していたことがわかる。

▽應神天皇九年(西暦二七八年/三九八年)
〔武内宿禰の危機〕

 四月――
 武内宿禰(たけうちのすくね)が九州に派遣されたとき、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に讒言したため兄弟の争いになるが、いろいろあった末、最後は兄が勝つ。

 何代もの天皇に仕えた武内宿禰の遣り手ぶりがうかがえるエピソードだが、武内の九州派遣は、新羅の勢力が九州まで浸透するのを防ぐ目的があったと思われる。
 弟の讒言は、兄が三韓と結託して九州に新しい王朝をつくろうとしている――という内容だったらしい。

 こういう讒言を天皇が無視できなかったことは、新羅などの工作員による九州や対馬への侵略が現実的な脅威であったことを物語っている。
(この脅威は現在も同じである。『日本書紀』や『続日本紀』には、政治家に読んでほしい半島関連のエピソードが無数に書かれている)

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 應神天皇紀のこの数年間の記述は、『好太王碑』にある「日本軍と好太王軍の血戦」にズバリ照応しており、大和朝廷の緊張もただならぬものがあったと、推察できるのである。


『卑弥呼と日本書紀250』

■■■■■ 七・九 論語の到来と船団の炎上 そして高句麗国書の破棄事件 ■■■■■


◆◆◆ 第十五代 應神天皇の物語(2) ◆◆◆
   ――学者王仁の来朝と高句麗の非礼――


▽應神天皇十一年(西暦二八〇年/四〇〇年)
〔大池の造営〕

 十月――
 剣池・軽池・鹿垣池(ししがきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)をつくった。
 進歩した土木技術によって、潅漑用の大きな池をつくったという記録なのであろう。
 なおこの年にある人が、日向の国に髪長媛(かみながひめ)というたいへんな美人がいる――と報告し、天皇は喜ばれた。


▽應神天皇十三年(西暦二八二年/四〇二年)
〔日向から髪長媛を招く〕

 三月――
 天皇は特別な使者を日向に派遣して髪長媛を召した。

 九月――
 髪長媛がやってきたので、桑津邑(くわつのむら)――いまの大阪市東住吉区らしい――に住まわせた。
 このとき、後に次代仁徳天皇となる第四皇子の大鷦鷯尊(おおさざき)がこの媛と恋人どうしになってしまったため、天皇はこの媛を皇子の妃にすることにした。
 このときの天皇と皇子の歌のやりとりが面白い。

 この髪長媛が仁徳天皇の妃となって生んだ皇女が、のちの雄略天皇の皇后である。
 また仁徳天皇が即位したのちに定めた皇后は、葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の娘の磐之姫命(いわのひめ)であった。


『卑弥呼と日本書紀251』

 このあたりの婚姻譚からは、神功〜應神〜仁徳の系列が、大和朝廷周辺の有力者や豪族たちを味方につけるために、さかんに姻戚関係を結ぼうとした形跡がうかがえる。
 つまり、應神天皇は大和朝廷の開祖に直結する媛を皇后や妃にしたし、つぎの仁徳天皇は大和朝廷以外の大和の豪族の媛を皇后にするとともに朝廷の先祖の地日向の媛を妃にしたわけで、母違いの兄を征伐した應神天皇系列としては、日本を統率する大和朝廷の正統的な後継者として認知されるために、万全の婚姻政策をとったのである。


▽應神天皇十四年(西暦二八三年/四〇三年)
〔百済からの渡来人〕

 二月――
 百済王が縫衣工女(きぬぬいのおみな)を献上してきた。着物をつくる技術を持った女性たちである。
 またこの年、弓月君(ゆづきのきみ)が百済から来訪し、自分の配下の多くの技術者とともに帰化しようとしたが、新羅に妨げられて技術者たちは加羅国(任那の中心的な国)に留まっている――と訴えた。
 弓月君は秦の始皇帝の子孫と伝えられる、機織りの技術者集団の長で、日本にとってきわめて重要な人物であった。
 そこで天皇は葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を派遣したが、三年たっても帰ってこなかった。

 戦いに明け暮れたことを想像させるが、この話はまた〈神功皇后〉六十二年にある『百済記』の内容と一致しているようでもある。
 また『好太王碑』にある西暦四〇四年の戦いと、年代がよく対応している。
 この年は一二〇年加算で西暦四〇三年になるが、前述のように『三国史記』の阿花王のこの年の記録に、倭の使者が来たので大いに厚遇した――とある。

 推理すれば、これは翌四〇四年の高句麗との大激戦の原因である。


『卑弥呼と日本書紀252』

▽應神天皇十五年(西暦二八四年/四〇四年)
〔王仁を招聘するために使者を派遣〕

 八月――
 百済王から良馬二匹が献上された。
 このとき同時に帰化した阿直岐(あちき)は学者だったので皇子が学問を習ったが、天皇が、お前より優れた学者がいるか――と訊ねると、

「王仁(わに)がいます」

 ――と答えた。
 そこで使者を百済に派遣して王仁を招聘した。


▽應神天皇十六年(西暦二八五年/四〇五年)
〔王仁来朝と新羅との確執〕

 二月――
 百済から著名な学者の王仁が渡来し帰化した。
 王仁は漢の高祖の末裔とされ、論語を日本にもたらしたのも王仁だといわれている。
『古事記』には論語十巻をもたらしたとある。
 教科書にも出てくる人物である。
 この時代に多くの日本人が漢字を覚えてシナの学問を熱心に学びはじめたことがわかるエピソードである。

 またこの時期、さまざまな技術を持った人たちが来航して帰化したが、この百済からの帰化人(*)の増加は、百済が高句麗や新羅との戦いに苦戦し、日本が出兵してこれを助けて任那を守っていたことと関係があるらしい。

 これは日本側にとっても都合の良いことで、貴重な人材として尊重したことが分かる。
 大和周辺の各地に、帰化人を先祖とする伝説を持つ氏族がいる。
 また十四年に派遣した使いが帰ってこないので、新羅がじゃまをしているのだろうと、軍勢を派遣し、取り返す。
 新羅や高句麗との軍事的な軋轢が何代にもわたって続いたことがわかるし、ひきつづいて『好太王碑』の記述とも対応している。

(* 帰化人といっても、その多くは、九州などの日本人と同じ先祖を持つ人たちではなかったか――という推理がある。この問題についてはまた後に記すが、いずれにせよ「日本に対する憧れ」がなければ、多くの人が半島から帰化するはずはない。レベルの高い学者や技術者でも同じである。それは、近現代における半島や大陸からの流入を見ればわかる。日本に不法入国して帰ろうとしない人が多いのは、日本が良い国だからである。その反対に日本を逃げ出して半島や大陸に帰化する人はほとんどいない。日本の悪口を言いながら日本に居座る人は多いが・・・)

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(歴史に関係するあちこちの掲示板を覗いた印象だが、近隣国や欧米の歴史に強い人は、日本の正史をあまり勉強していない傾向があるように思う。日本人である以上、日本の史書を「時代順」におおまかにでも読み、その後に外国の史書を読むのが正しい順序だと思う。歴史教科書の改善運動をしている組織にも、意外なほど逆順の人が多い)
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『卑弥呼と日本書紀253』

 またこの年――一二〇年加算で西暦四〇五年――に百済の阿花王(あか)が崩じたので、天皇は、人質にしていたその王子の直支(とき)に、

「国に帰って王位を継ぐように」

 ――と告げた。
『三国史記』の直支即位の項にも同じ記述があり、照応している。
 直支は長男だが、次男は王とならずに摂政として長男の帰りを待った。しかし不満を持つ末弟が次男を殺して王を自称した。
 このような血なまぐさい政変のさなか、日本は軍隊をつけて親日的な直支を送り、末弟を排除して直支を王とさせることに成功している。

『日本書紀』は編纂時に『三国史記』の元になったらしい『百済記』などの史書を参考にしただろうから、同様な記事があることは当然でもあるが、しかし双方とも独自の伝承と矛盾していたら記さなかっただろうから、史実なのであろう。
 すなわち、日本の天皇の意向を無視して百済の王をきめる事はできなかったほど、應神〜仁徳天皇時代の日本の百済への影響力は強かった――という事である。
(これに対して新羅とは、次のように戦いが続いている)

 八月――
 武内宿禰の子である将軍・木菟宿禰(つくのすくね)に軍勢をつけて加羅国に派遣し、新羅の国境まで進んで、新羅にじゃまされて帰れなかった襲津彦(そつひこ)と弓月(ゆづき)の技術者たちを帰還させた。
 この事件もまた、『好太王碑』の碑文の終わりの方の戦いとよく照応している。
 またこの話は、十四年の項にある弓月の一件とともに、秦氏一族の渡来伝承とされている。

 高句麗の『好太王碑』にある強力な日本軍を『日本書紀』のがわから見ると、その統率者としてもっとも有力な候補は、武内宿禰の四人の息子たちと、葛城襲津彦である。
 そこで、襲津彦について、すこし記しておく。

 高句麗軍と激戦したらしい襲津彦の出自は、『古事記』の第八代孝元天皇記では武内宿禰の息子で木菟宿禰らと兄弟とされているが、それはややあいまいである。
 名前から判断して、葛城地方(図7・7)と関係が深かったのであろう。

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 剛勇だが戦略や戦術の面で疑問のあるこの襲津彦が重要な地位をしめていたのは、その娘の磐之媛命(いわのひめ)が、のちに仁徳天皇となる皇太子の妃(即位後に皇后)だったからである。
 しかもこの磐之媛命は、履中・反正・允恭という仁徳に続く三天皇を生んでいるので、襲津彦は三代もの天皇の祖父になったのだ。


『卑弥呼と日本書紀254』

▽應神天皇十九年(西暦二八八年/四〇八年)
〔吉野山中からの献上品〕

 十月――
 吉野宮に臨幸されたとき、吉野の山の人が酒を献上した。そしてこれ以後しばしば土地の産物を献上するようになった。


▽應神天皇二十年(西暦二八九年/四〇九年)
〔倭漢直の祖の帰化〕

 九月――
 大和南部の地を本拠として朝廷周辺でながく活躍した倭漢直(やまとのあやのあたい)の一族の祖とされる親子が、多くの郎党を引き連れて帰化した。
 この一族は弓月君(ゆづき)とおなじく、大陸→朝鮮→日本と渡ったとされ(たぶん自称)、文筆などで活躍した。
 のちに蘇我の手下となって第三十二代崇峻天皇を暗殺したのは、この一族の一人とされている。


▽應神天皇二十二年(西暦二九一年/四一一年)
〔吉備国などへ行幸〕

 妃の一人で吉備国――現在の岡山県――出身の兄媛(えひめ)が両親のもとへ帰りたがっているのを認めたことや、天皇自身が吉備国や淡路島などに行幸したことが記されている。


『卑弥呼と日本書紀255』

▽應神天皇二十五年(西暦二九四年/四一四年)
〔百済王直支の死〕

 百済の直支王が崩じたが、王子が若かったので政治を重臣の木滿到(もくまんち)がおこなった。しかし日本への無礼が多かったので呼びつけて叱った。
 また『百済記』には、木滿到が任那を専横したので天皇に呼びつけられたことが記されている。
 これは、百済への日本の影響力の強さが続いていたことを示す記述である。
 なお一二〇年加算ではこの年は西暦四一四年だが、『三国史記』では直支の死は西暦四二〇年とされている。


▽應神天皇二十八年(西暦二九七年/四一七年)
〔高句麗の無礼と皇子の怒り〕

 九月――
 西暦四一七年と推定されるこの年の九月、高句麗の王――この紀年を信じれば好太王の次の長壽王である――が朝献してきたが、その上奏文に、

「高麗ノ王(こまのこにきし) 倭国ニ教ウ」

 ――とあったので、皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が激怒して文を破り捨てた。
「教ウ」とは配下に対して使う言葉である。

 日本と友好関係にある百済を北から侵犯しつづけ、新羅を配下におこうとしている高句麗と、はげしくやりあっていたことが分かる。
 激しい戦争の結果、日本の力が上である事が分かって、高句麗も日本に朝献せざるをえなかったらしいが、相変わらずけんか腰である。

 高句麗からの使者がまともな交渉をするようになるのは、次の仁徳天皇になってからである。
 應神天皇の御代の終わりまでに任那地方での日本の力が強まり、高句麗の軍事力でも威圧することが出来なくなったからであろう。
 この時代の朝鮮南部における日本の力は、シナ王朝も認めていた。
 それはシナ史書によって明かである。

 古代から現代まで、日本が朝鮮半島南部に強力な橋頭堡を築いたときのみ、日本の沿岸は安全を保っている。


『卑弥呼と日本書紀256』

▽應神天皇三十一年(西暦三〇〇年/四二〇年)
〔新羅に焼かれた多くの新造船〕

 八月――
 この年また新羅がトラブルを起こす。
 即位五年に伊豆の国につくらせた巨大な官船「枯野」が古くなって使えなくなったので、後世に名を残すためにそれを燃やして塩をつくった。
 なかにどうしても燃えない木材があったのでそれで琴を作ったところ、爽やかな音が遠方まで届いたので天皇が歌を詠んだ。
『記紀』にはこういうなんともいえず楽しい話がたくさんあり、古代日本人の芸術性を感じさせる。

 さて、天皇はこの塩を諸国に配って、替わりの船を五百隻も集め、これらを武庫の港――いまの兵庫県尼崎市――に係留しておいた。
 当然ながら、朝鮮半島に軍勢を送るための船である。

 ところが、その近くにいた新羅の使者(たぶん工作員)が火をつけて、多数の船を燃してしまった。
 天皇は怒って新羅に責任を取らせた。
 新羅王は謝って優れた技術者を献上した。
 これが猪名部ら木工技術を生業とする一族の先祖であると記されているが、あいかわらず新羅との軋轢が続いていることがわかる。


▽應神天皇三十七年(西暦三〇六年/四二六年)
〔シナで縫工女を募集〕

 使者を大陸江南の地――三国時代に呉のあったところ――に送って縫工女を募集する。
 道が分からないので高句麗王の部下に道案内してもらって、無事四人の縫工女を獲得し、天皇崩御の年に帰国した。
 さかんに技術導入をはかっていたことがわかる。
(雄略天皇紀にもほとんど同じような話があるので、混同しているのかもしれない)

 なおこの年は一二〇年加算では西暦四二六年だが、シナ正史の『宋書』に、西暦四二一年と四二五年に、倭王讃(さん)の使者が来た――とある。
 いわゆる倭の五王の筆頭である。
 一二〇年加算どおりとすれば讃は應神天皇であるが、崩年干支からの推定ではこの年にはすでに應神天皇は崩御されており、したがって次代の仁徳天皇説が有力である。これは諱からも推測できる。
 その次の履中天皇という別説もある。


『卑弥呼と日本書紀257』

▽應神天皇三十九年(西暦三〇八年/四二八年)
〔直支王の妹の帰化〕

 二月――
 百済の直支王が妹を日本に派遣して、朝廷に仕えさせた。この妹は七人の婦女を従えていた。
 この年は一二〇年加算で西暦四二八年だが、『三国史記』によれば、この年の百済王は直支の二代後になっている。しかしシナ史書の記述では直支の死の直前がこの年となっていて、矛盾はない。

**********

『日本書紀』を見ると、朝鮮問題は結局、日本を頼りにした百済とはうまくいったが、新羅はいったん和睦したものの約束を違えることが多くて苦労し、高句麗については外交関係もおぼつかなく、激戦を演じた――と推量される。

 軍隊の面では、任那を守るために、また高句麗に圧迫される百済を助けるために、さらには反抗的な新羅に懲罰を加えるために、しばしば派遣され、その派遣軍が新羅軍および高句麗軍と激戦する――といったことだったらしい。

 その抗争は、大和朝廷でいえば〈神功皇后〉から仁徳天皇の時代まで、高句麗の歴史でいえば好太王の即位前から死後まで、かなり長期にわたって続いたらしいことが、『日本書紀』や『三国史記』などの史書から読みとれる。

 とくに新羅関係の難問題はつぎの仁徳天皇の代にも記されていて、歴代の天皇が朝鮮問題に神経を使っていたことがわかる。
(このような新羅との軋轢は、『続日本紀』にも書かれており、討伐軍の編成などもなされている。さらに言えば、この軋轢は、じつに現在にまで続いていると言えるのである)

 一方百済との友好関係はずっとのちまで続いたが、六世紀に任那が滅び、七世紀の白村江の大会戦で百済・日本連合軍が唐・新羅の連合軍に敗れて百済が滅亡し、弥生時代以来の朝鮮権益に最後が来ることは、よく知られるとおりである。


『卑弥呼と日本書紀258』

■■■■■ 七・十 應神天皇の崩御 〈神功皇后〉の実在性 ■■■■■


 この節では、應神天皇の崩御前後の有様と、〈神功皇后〉の実在性の問題や皇統の問題について、略説する。


◆◆◆ 第十五代 應神天皇の物語(3) ◆◆◆
   ――崩御と皇統の問題――


▽應神天皇四十年(西暦三〇九年/四二九年)
〔皇太子の決定〕

 正月――
 次の天皇の候補として、大山守皇子(おおやまもり)・大鷦鷯尊(おおさざき)・菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)という異母兄弟がいたが、天皇は面接試験のような問答をした結果、弟の菟道稚郎子を皇太子にし、兄――第四子だが皇后の子――の大鷦鷯尊をその補佐にするようにきめ、大山守皇子には山川林野を司る役目を与えた。

 現在のように長男が継ぐという定めはなかったし、神武天皇のころのような末子相続の習慣もなかったから、派閥・閨閥争いがどの天皇の後継決定時にも有ったようで、それが実におおらかに記されている。

 ただし應神天皇の崩御後いろいろなことがあり、不満を持った大山守皇子は争って死に、菟道稚郎子と大鷦鷯尊は互いに遠慮しあってなかなか決まらず、そのうちに菟道稚郎子が自殺して、結局正室の生まれである大鷦鷯尊が即位して有名な仁徳天皇になる。
 天皇の後継をめぐる争いの言い伝えである。


『卑弥呼と日本書紀259』

▽應神天皇四十一年(西暦三一〇年/四三〇年)
〔崩御〕

 二月――
 應神天皇が豊明宮(とよあきらのみや)で崩御された。
 百十一歳だった筈だが『日本書紀』には百十歳と記されている。
 もちろん、紀年の引き延ばしがあるので、実際の宝算は数十年は減るであろう。

 崩年干支からの崩御実紀年の推定は、西暦三九四年とされている。
 もし降誕年は一二〇年加算が正しく、崩御は干支が正しいとすると宝算は七十四ということになる。
 また崩年が一二〇年加算でよいとすると、実際の御降誕は数十年あとということになる。

 もし崩御年の干支推定が正しいとすると、『好太王碑』の碑文にある激戦は、仁徳天皇の御代ということになるが、『記紀』からは應神天皇の時代との印象をうける。
 もっとも、晩年はどの天皇も皇太子に任せた可能性がつよいので、実質がどうだったかは、今となってはわからない。

 それから、『好太王碑』はきわめて重要な史料だが、それは三韓征伐についてのほとんど唯一の外国史料だからであって、争いそのものは『好太王碑』の前後かなり長期にわたってなされたことを認識しなければならない。

 この崩御の年、應神三十七年に江南に出発した使いが帰ってくるが、すでに應神天皇はおられず、縫工女(きぬぬいひめ)は間に合わなかった。
 そこで大鷦鷯尊に献じられたが、その子孫はいまの呉衣縫(くれのきぬぬい)や蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)である――として帰化人の子孫を記している。


『卑弥呼と日本書紀260』

◆◆◆ 驚くべき巨大な前方後円墳 ◆◆◆

 以上が〈神功皇后〉の皇子、應神天皇の御生涯であるが、この天皇がとてつもなく強大な権力を手中にしていたことは、造営した母親〈神功皇后〉陵の大きさからも、また自身の御陵が次代の仁徳天皇陵と並んで世界一の巨大さを持つことからも、よく分かる。
 應神天皇陵は現在は誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳といわれて大阪府羽曳野市にある。写真を図7・4の(b)に示した。

 またつぎの仁徳天皇陵は大仙陵古墳といわれて大阪府堺市にある。同図(c)である。
 この二つはいずれも大和西部の山地を越えた場所にある。
 昔から河内、和泉と呼ばれてきた土地で、おおまかな地点を図5・1に示してある。
 この二つの巨大前方後円墳の大きさを、日本以外の墳墓で最大とされるクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の陵と比較して示したのが図7・5である。

 仁徳天皇陵は、墳丘長が約四九〇メートル、周濠を含めると全長八六〇メートルもある。
 ほとんど一キロであり、面積は東京ドーム外周のほぼ十倍である。
 應神天皇陵もこれに次ぐ大きさを持っている。


図5・1は下記の下部
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

図7・4および図7・5は下記
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H72-75.htm


『卑弥呼と日本書紀261』

 高さこそピラミッドや始皇帝陵より下だし地下施設は不明だが、地表の面積では圧倒している。だんぜんたる世界一なのだ。
 しかもこの天皇陵の周辺に群臣たちの墳墓群があり、それらを含めると、仁徳天皇陵の場合、幅五キロ、長さ十キロにも及ぶとされている。
 現在の皇居のほぼ十倍である。

 古代の古墳群は荒廃と修復を繰り返しているので、造営時の姿がどうだったかについては、個々に発掘調査しなければいえないが、世界一の規模を持っていたことは間違いない。
 ついでながら仁徳天皇を継いだ履中天皇の御陵もすぐそばにあり、墳丘長三七〇メートルに近く、仁徳・應神についで世界第三位である。

 これらの巨大前方後円墳の造営は、高度な技術が必要だったことはもちろんだが、財政的にも動員力的にも絶大な力を持っていなければ不可能である。
〈神功皇后〉陵は應神天皇が、應神天皇陵は仁徳天皇が、それぞれ造営したものだし、仁徳天皇陵は生前から準備されていたとはいうものの履中天皇が造営したものである。

 だから次代の天皇の強力さを物語ってもいるのだが、それにしてもその威力が死後まで続いていなければ、このような巨大な墳墓をつくることは出来ないであろう。
 この世界一の前方後円墳だけでも、神功→應神→仁徳→履中→・・・の力がいかに強大だったかが分かるし、万単位での朝鮮出兵が可能だったこともうなずける。

 さらにその守護神の住吉神社は、大阪・九州など国内各地だけではなく、朝鮮やシナにまでつくられたという伝承がある。
 また、應神天皇を祀った八幡宮が数万というおびただしい数存在(*)することも、この天皇のよういならざる威力を証明している。

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(* 前に記したと思うが、神道事典では八幡宮の数は稲荷神社についで多いことになっている(約二万五千社)。しかし最近では、八幡宮の方が多いという資料もあるらしい。数え方にもよるのだろうが、應神天皇は今でも日本中いたるところに祭られている。稲荷神社の祭神は歴史上の人物ではないので、歴史上存在が明かな人物を祭神とする神社としては、八幡宮が最多である)
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『卑弥呼と日本書紀262』

◆◆◆ 虚構説・皇統断絶説への反論 ◆◆◆

 應神・仁徳天皇の系列は、〈神功皇后〉の夫――つまり應神天皇の父親――である仲哀天皇の影が薄いために、いろいろな説があり、皇統がいったん断絶したのだという説さえある。
 しかし、旧家に嫁いだ女性が才能豊かで、真面目だが戦略眼の無い亭主の代わりに活躍してその旧家を隆盛に導く――といった話は、いまでもありふれている。
 したがって『記紀』の物語は、べつだん不思議な事でもなんでもないであろう。

 事績はとうぜん美化されているし、神話的な表現も多用されていて超人的ではあるが、〈神功皇后〉の物語は『記紀』にあるだけではない。
『風土記』にも『万葉集』にもたくさんあるし、朝廷に異論を持つ人たちが書いたらしい『先代旧事本紀』や『古語拾遺』にもある。
 また住吉大社や籠神社などの極秘古文書にも記されている。

 籠神社の古文書(国宝『勘注系図』)などは、『記紀』に反する内容――饒速日命(にぎはやひ)系重視の内容――をもっているため、朝廷に見つかるのは拙いとして、じつに昭和五十一年になるまで公開されなかったのだが、それにすら〈神功皇后〉に従って半島に遠征し恩賞を得た話が記されているのだ。

『記紀』などの史書が編纂されはじめた奈良時代初期の朝廷はかなりの権限を持ってはいたが、まだまだ日本中に簡単にはいいなりにならない豪族がたくさんいたし、朝廷に従属しない独立心旺盛な神社もたくさんあった。
 内戦すら珍しくはなかった。

 そのような時代にあって、あらゆる史料に架空の女帝の業績を書き入れよとか、架空の女帝を讃える和歌をつくれ――といった命令を下して、それを日本中が忠実に守るといったことがあり得るだろうか?
『万葉集』の多くの歌など、じつに自然に地方に残る〈神功皇后〉伝説を詠み込んでいるのだ。

 藤原道長や平清盛や源頼朝が全盛だった時代でも、そんなことはできなかった。
 中央集権が徹底した江戸時代・大東亜戦争中・占領下でさえ、そんなことはできなかった。


『卑弥呼と日本書紀263』

 古代の皇統にかんしては、第十代崇神天皇、第十五代應神天皇、第二十六代繼體天皇という王朝がその前と交替したのだ――という水野祐らによる三王朝交替説があるが、これに反対する良心的な学者も多い。
 たとえば南原次男は、この説の矛盾点を例示して、水野祐に何度も質したが、ついに何の返事も無かったそうである。
 また南原が水野の早大における講義を連続して聴講したところ、王朝交替説の話は一度もしなかったそうである。
 その後水野は、王朝交代説は夢が元だった、と学生達に語ったといわれる。

 著者の常識でも、皇統が完全に断絶して入れ替わったとは、とても考えられない。
 遠縁の人物が入り婿の形で大和朝廷直系の妃を娶って後継になったという考え方ならまだ分からないでもないが、断絶して新しい王朝をきずいたのだとしたら、日本中が騒然としただろうから、その証拠が豪族の家伝や神社の古文書や歌集などにたくさん残っている筈だし、自身の先祖を美化するとともに大和朝廷を歴史から消そうとしたであろう。
 しかしそのような史料はなにも残されていない。

 だから、『記紀』のとおり應神天皇自身も血のつながりが有り、〈神功皇后〉も実在して夫の天皇の代わりに大活躍した可能性が強いのではないだろうか。

 このように考えてくると、最近の左翼系の学者による三つの主張、

(一)〈神功皇后〉はまったくの虚構である。
(二)任那はまったくの虚構である。
(三)皇統の継続性はまったくの虚構である。

 ――は、牽強付会のように思える。
 常識を捨ててイデオロギー的結論を先行させているように思えてならない。

 とにかく以上が〈神功皇后〉を中心とした三代紀の概要である。

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 さて、これで〈神功皇后〉とその前後の『日本書紀』の記事の説明を終わり、つぎに〈卑彌呼〉との対応を考えることになるが、その前に、〈神功皇后〉や應神天皇の時代の実年代を推定する強力な根拠となる《石上神宮》の国宝「七支刀」について、すこし詳しく触れておくことにしよう。


『卑弥呼と日本書紀264』

■■■■■ 七・十一 《石上神宮》の七支刀――〈神功皇后〉実紀年の推理―― ■■■■■

(注意――
 本連載の写真や図面類は、すべて引用もとの許可を得て掲載している。
 たとえば、本節の「七支刀」はじめ《石上神宮》関連の写真も、石上神宮の社務所の許諾を得た上での掲載である。
 石上神宮社務所のお話しでは、写真を反日活動に使用する左翼史家がいて困るそうである。
 伊勢神宮、大神神社などについても同じである。
 なお本節では写真だけでなく解説の文章についても石上神宮社務所にあらかじめお送りして校閲を受けている)


◆◆◆ 《石上神宮》の場所と歴史 ◆◆◆

《大和》の地理をいくつかの方法で図示した図5・1〜3、とくに図5・2をごらんいただきたい。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

 大和川の支流のひとつに、笠置山地から流れ出る布留(ふる)川がある。
 奈良盆地の中央東寄りを流れているが、この布留川を遡ると、天理の市街を斜めによぎって山地に入るあたりの南岸に幽玄な地があり、そこに古式ゆかしい神社が鎮座している。
 百済王が〈神功皇后〉に献上したと『日本書紀』に記されている「七枝刀(なささやのたち)」そのものが奇跡的に宝殿に伝世されてきた《石上神宮(いそのかみじんぐう)》である。

 図7・6に境内と拝殿の写真を示すが、境内には神鶏が遊び、荘厳な拝殿はそれ自体が国宝であって、神韻縹渺たる趣がある。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

 この神社は石上振(いそのかみふる)神宮と呼ばれたり、石上布都御魂(いそのかみふつのみたま)神社と呼ばれたり、また布留社(ふるのやしろ)と呼ばれたりしていたが、現在では《石上神宮》が正式名称になっている。
 昔の神社の最高の格式である正一位官幣大社である。
 石上も布留も神社名であるとともに鎮座地の名にもなっており、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)が伝承されるその土地の名前だが、「布留(ふる)」という奇妙な名は、後述するように「振る」から来ているらしい。


『卑弥呼と日本書紀265』

 この《石上神宮》は大和朝廷の成立と密接に関係するといわれ、日本最古の神社の一つであり、図5・3でわかるように、大和朝廷発祥の地《三輪山》山麓に隣接し、山麓とは日本最古の公道「山の辺の道」で結ばれている。
 創建は第十代崇神天皇七年、天皇の勅令によるとされ、実紀年研究によれば三世紀半ばと推定されている。
 すなわち〈卑彌呼〉晩年の時代である。

 この古さは、崇神天皇六年とされる《檜原神社(ひばら)》(伊勢神宮の元となった神社)や《大和神社(おおやまと)》、崇神天皇が初めて祭祀をなされた《大神神社(おおみわ)》の社殿(信仰そのものはずっと古い)など《大和》の著名古社とほぼ同じであり、大和朝廷が正式に認めた神社としては名実ともに日本最古のひとつである。
《石上神宮》を含めたこの四社のうち檜原神社を除く三社までが最高格式の官幣大社である。
 檜原神社も《大神神社》の摂社となっているから、官幣大社に準じている。

 この《石上神宮》に勅命によって初めて祭神を奉祀したのは伊香色雄命(いかがしこお)だが、この命はかの〈饒速日命(にぎはやひ)〉の子孫であり、したがってまた物部一族の祖の一人である。
 このことから、《石上神宮》の祭祀は代々物部氏が預かることになり、物部一族の総氏神となったが、元来物部一族は軍事を担当しており、したがって《石上神宮》は自然に武器庫の役割を果たすようになったといわれている。

 図7・7は、古代の《大和》の豪族の勢力範囲のおおまかな地図で、桜井市編『わがまち桜井』所載の岸俊男作成の図を参考にしている。

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『卑弥呼と日本書紀266』

 西側の河内方面から《大和》に入り込んだ〈饒速日命(にぎはやひ)〉一族らと南東の吉野山地から入り込んだ大和朝廷との軋轢を連想するが、〈饒速日命〉の子孫を自負する物部一族の勢力範囲は、いまの天理市にある《石上神宮》の周辺であったらしい。
〈饒速日命〉が河内に降臨してそこから《大和》に進出したことや、争いの末、神武天皇に帰順したことは、すでに述べたとおりである。

 さて次に、《石上神宮》の御祭神について記すことにするが、その由緒が記されているのは、『日本書紀』よりもむしろ『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』である。
 この史書は、序文に聖徳太子や蘇我馬子の撰と読める記述があるために、昔は『記紀』よりも古いと信じられてきたが、江戸時代からの研究によってそれは誤りであり、平安初期の成立であることが分かった。

 しかし内容的には、『記紀』にはない古い伝承が含まれており、かつ物部一族の先祖についての記述に詳しいことから、物部一族の誰かが、『記紀』における物部関係の記述の少なさに不満をもち、『記紀』編纂の前からあった家伝を元に著したのであろう――とされている。

 もちろん朝廷への遠慮もあったろうから、『記紀』を攻撃するようなところは無いが、《石上神宮》や丹後の籠神社など〈饒速日命〉系の古い神社に残る言い伝えとも矛盾しないようである。
 自分たち一族が軽視されたことへの不満を史書の形にした点では『古語拾遺』と似た意思によって書かれたように考えられる。


『卑弥呼と日本書紀267』

◆◆◆ 《石上神宮》の祭神 ◆◆◆

 さて、その『先代旧事本紀』と『日本書紀』、および神宮の解説書(引用文献参照)を元に、御祭神について記してみる。
 三柱の主祭神はすべて剣と神宝の霊である。

主祭神
  布都御魂(ふつのみたま)大神
  布留御魂(ふるのみたま)大神
  布都斯魂(ふつしみたま)大神
配祀神
  宇摩志麻治(うましまじ)命
  五十瓊敷(いにしき)命
  白河天皇(第七十二代の天皇)
  市川臣(いちかわおみ)命


ア 布都御魂(ふつのみたま)大神

 この神宮の最高位の主神である。
 第六章で記したように、〈天照大神〉らが〈大己貴神〉または〈大國主神〉に国譲りを説得したとき、高天原から派遣された神が剣の切っ先にあぐらをかいて談判したのだが、その時の剣の名がフツノミタマとされている。
『日本書紀』や『先代旧事本紀』では{師の左を音}靈という文字をあてている。
 その別字が布都御魂であり、その霊威を讃えて布都御魂大神と称している。
 この霊剣はそののち高天原に帰ったが、やはり第六章にあるように、神武東征の際の危機を救うために〈天照大神〉から神武天皇に与えられた。

 神武天皇は即位後、これを〈饒速日(にぎはやひ)命〉の御子である可美眞手命(うましまで)に命じて宮中に奉斎させた。
〈饒速日命〉一族が帰順したことへの一種の恩賞である。
 第十代崇神天皇の六年に「三種の神器」のうちの「神鏡」と「神剣」が宮中から移されて檜原神社(元伊勢)に奉斎されたが、その翌年の七年になって勅命がおりて、こちらの剣・布都御魂も宮中外に祀ることになり、物部氏の先祖の一人の伊香色雄命(いかがしこお)が拝命して、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)という地――つまり現在の《石上神宮》の地――に主神として奉祀した。
 これが《石上神宮》の創建伝承である。


『卑弥呼と日本書紀268』

イ 布留御魂(ふるのみたま)大神

 神武東征の前に河内に降臨して《大和》の地に進出した〈饒速日(にぎはやひ)命〉は、第六章で記したように高天原の天津神(あまつかみ)から「十種の神宝(とくさのかむたから)」を授けられた。
 二面の鏡、剣、四種の玉、邪悪なものを打ち払う三種の布帛からなる神宝である。
 このとき天津神は、

「もし痛むところあれば、この十宝を、一二三四五六七八九十と言いて振るえ。ゆらゆらと振るえ。かくなさば、死りし人も生き返らん」

 ――と教え諭した。

 これは物部一族の祭祀の一つの形らしいが、「振るえ」は原文では「布瑠部」で、これが地名・川名・社名にある布留の語源である。
 この「十種の神宝」が布留御魂で、〈饒速日命〉が帰順してから、その御子の可美眞手(うましまで)命が神武天皇に献上し、神武即位元年に天皇皇后の長寿祈願に用いられた。
 これは鎮魂祭の始まりとされている。

 この十宝は歴代天皇の宮中にあり、先の布都御魂(ふつのみたま)の御前に奉祀されていたが、崇神天皇七年に、布都御魂と同時に《石上神宮》に遷され、祭神となった。
 なお本章トビラ裏(前掲)の柿本人麻呂の歌にある「袖布留山(そでふるやま)」は、袖を振るの「振る」とこの「布留」をかけた有名な歌で、歌碑が建てられている。


ウ 布都斯魂(ふつしみたま)大神

 この大神も神剣の霊である。
 素戔嗚(すさのお)尊が出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに使った剣は十握剣(とつかつるぎ)といわれる大振りの剣だが、この剣は「三種の神器」の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を大蛇から取り出すのに役立った霊剣でもあるので、その御霊威を讃えて、布都斯魂大神として奉祀され、祭神となった。

 つまり、古代神話に出てくる著名な神剣のうち、「三種の神器」となった草薙剣以外はすべてこの《石上神宮》に奉祀されたわけである。
 武器庫としての役割をもつ神社にふさわしい祭神であるし、また大和朝廷が対抗者〈饒速日命〉の後裔を名乗る物部一族の帰順に腐心していた実情を読み取ることもできる。


『卑弥呼と日本書紀269』

エ 宇摩志麻治(うましまじ)命

〈饒速日命〉の御子の可美眞手(うましまで)命のことである。


オ 五十瓊敷(いにしき)命

 第十一代垂仁天皇の皇子で、第十二代景行天皇の兄にあたる名門である。
 武具の製造を担当して、剣一千口をつくって《石上神宮》に納め、社宝を収める天神庫の管理を司った。
 晩年には妹の大中姫(おおなかつひめ)命にその役職を譲ろうとしたが、姫命は女性の身で倉に登るのは困難だとして辞退し、物部氏に譲ったとされている。
 この五十瓊敷命を祭神とした神社が岐阜市などにある。
 一千口もの剣を収納した神社は珍しいが、武器庫としての性格がわかる伝承である。


カ 白河天皇

 第七十二代、平安後期の天皇で、《石上神宮》を深く崇敬されて拝殿を寄進されたりしたので、祀られている。


キ 市川臣(いちかわおみ)命

 第五代孝昭天皇の皇子の子孫で、春日臣(かすがのおみ)の一族。
 第十一代垂仁天皇の時代から《石上神宮》に仕えた。その子孫は布留宿禰(ふるのすくね)と称し、物部氏を補佐して長く祭祀をつとめた。

 以上の祭神でもわかるように、宮中に関係する宝剣の類はほとんどこの神宮の神庫に奉祀されてきたし、また実際に使用するための一千口もの剣も神庫に保管されてきた。
 また〈饒速日命〉の「十種の神宝」のように武具以外の神宝も奉祀されてきた。
 この他、帰化王子の天日槍(あめのひほこ)が運んできた朝鮮の宝物もここで保管したと伝えられている。

 そういうことなので、当然のことながら、〈神功皇后〉の五十二年に百済国の王から貢献された有名な「七枝刀(ななさやのたち)」や「七子鏡(ななこのかがみ)」もここで保管したであろう。
「七子鏡」とはたぶん、周囲に小さな六つの鏡が付属した特殊な形状の鏡であろうが、これは残念ながら不明となっている。

 しかし「七枝刀」は奇跡的に伝世されて、現存している。
 神宮では「六叉鉾(ろくさのほこ)」と呼び伝えてきたが、刀に刻まれた銘文には、「七支刀(しちしとう)」とあるので、現在ではこれが正式の名称となっている。


『卑弥呼と日本書紀270』

◆◆◆ 《石上神宮》の苦難と神宝発掘 ◆◆◆

 さて次が、この神宮の苦難の歴史である。
 最初の苦難は八世紀末の桓武天皇の時代で、平城京から長岡京に遷都したとき、ご神体がその新都に召し上げられてしまった。

 都から遠くなった《石上神宮》に武器を保管させるのは危険である――という朝廷の考えによる措置だったらしい。
 しかし天皇の身に祟りが生じたので、すぐに返還された、といわれている。
 おそらく物部系有力者の尽力があったのであろう。

 これは《石上神宮》ならではの例外的な事件であるが、日本の社寺はどこでも、乱世に土地や神宝を失うという苦難に遭遇している。
 たとえば、十二世紀の源平の争い、十五世紀の応仁の乱にはじまる戦国時代、十六世紀の信長勢の《大和》侵攻、豐臣・徳川時代になされた検地による領地没収、そして大東亜戦争による空襲被害と終戦後の占領軍による神社への弾圧・・・などである。

 この《石上神宮》も例外ではなく、とくに永禄十一年に信長に援助された尾張勢が神宮境内に乱入して、拝殿や神庫を打ち壊し、中のものを強奪したため、多くの神宝や古文書が失われた。
 また豐臣秀長の命令によって社領も何十分の一かに減らされ、すっかり衰微してしまった。
 この時代には、勅命がなければ開けることを許されない有名な東大寺の正倉院ですら、織田勢などによって多くが失われたといわれているので、やむを得ないことであった。
(このような織田勢の乱暴狼藉が、明智光秀に謀反された原因だとする話もある)

 おそらく、このような被害を少しでも避けようとした関係者の苦心の策が、禁足地だったのであろう。
 いつのころからか、拝殿の背後に絶対に人の入ることを許さない禁足地ができ、そこに霊剣・布都御魂(ふつのみたま)大神などの御祭神や神宝が埋斎されているという話が密かに口伝されてきたのだ。


『卑弥呼と日本書紀271』

 その真偽は長く不明だったのだが、明治になって古くからの神社が重んじられるようになり、第一・一節で記した歴史学者の菅政友が《石上神宮》の大宮司になったとき、官許を得て禁足地を発掘(明治七年)したところ、口伝どおり、多くの神宝が出土した。
 そしてそのさい、主祭神・布都御魂(ふつのみたま)大神とおぼしき霊剣が、鋭端を東に向けて、地中に鎮座していたのが見つかったのである。

 元来この神宮には拝殿はあっても本殿は無く、禁足地に向かって参拝する形をとっていた。そして神庫は禁足地の外側にあったのだが、菅政友の後任者はこれら出土品を奉祀するために、禁足地内に本殿をつくった。
 また後に、神庫は禁足地内に遷され、これとは別に耐火施設の宝物収蔵庫を建造して、現在は社宝はここに奉安されている。
 さて、菅政友が発掘した霊剣以外の出土社宝だが、それは次のようなものである。

 硬玉勾玉十一箇・碧玉管玉二九三箇・琴柱形
 石製品・弧状管玉・硬玉棗玉・角形管玉・環
 頭大刀柄頭・銅鏃・金銅垂飾品・金銅空玉・
 草花文鏡・萩菊双雀鏡・鏡形銅製品二面・瑞
 花文八稜鏡・草花文五稜鏡

 これらの多くは古墳時代前期の製造と思われ、ひじょうに古いものである。
〈饒速日命〉が天津神から授けられた「十種の神宝」を連想させる玉や鏡が多いことに注意されたい。
 以上の出土品はすべて、国の重要文化財に指定されている。
 ただし次の品は、鉄製品であるため錆がひどく、指定はない。

 籠手残欠
 大刀
 いくつかに折れた鉾状物や槍状物


『卑弥呼と日本書紀272』

 霊剣・布都御魂(ふつのみたま)大神のほかに、明治十一年になって同じ禁足地から、神話にある十握剣(とつかのつるぎ)=布都斯魂(ふつしみたま)大神かもしれない宝刀が出土したといわれる。
 図7・8(a)のような剣だったのであろう。

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(菅政友が布都御魂として記録した霊剣はご神体そのものなので、写真等には撮られていないが、発掘時の手書き図が残されていて、神道大系で見ることができる。日本という国は凄い国で、神話に出てくる大國主神に国譲りを説得した際の剣が現実に発掘されて神社に祭られているのである。ただし考古学的研究対象ではない)

 禁足地からの出土品のほとんどが重要文化財だが、もちろん出土品以外にも国宝や重文などがある。
 それを一覧にしておく。

 拝殿(国宝)
 摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)
〔出雲建雄は三種の神器・草薙剣の荒魂〕
 七支刀(国宝)
 楼門(重要文化財)
 鉄盾(重要文化財)
 色々威腹巻(重要文化財)
 境内二十四万平方米(奈良県天然記念物)
 鏡池とワカタ(魚)(奈良県天然記念物)
 太刀・小狐丸(奈良県指定文化財)
 厳甕(奈良県指定文化財)
 繪額二面(奈良県指定有形民族文化財)

 要するに神社全体が国宝のような社なのだが、このなかでも近隣国との交流の史料としてとくに重要とされるのが、「七支刀」である。


『卑弥呼と日本書紀273』

◆◆◆ 《石上神宮》の奇跡の至宝「七支刀」 ◆◆◆

 さて、問題の「七支刀」である。
 これは禁足地に埋められていたのではなく、高句麗からの献上品かもしれない鉄盾など他のいくつかの重要文化財とともに神庫に保管されて伝世されたもので、尾張勢の乱入によって神庫自体が破壊されたときにも、略奪を免れて、現在に至った。
 これは奇跡的なことであるが、いくつかの最重要な社宝とともに、山中に隠すなどして難を逃れたのかもしれない。

 また菅政友の論文には、尾張勢の略奪物のいくつかは翌年に返却されたと書かれているので、「七支刀」も略奪されたのちに戻された可能性がある。
 神社関係者や朝廷などによる必死の働きかけがあったのであろうが、何と何が戻ったのか、戻らなかったのは何か、など、詳細は菅も記していない。
 伝承があるだけで、文献資料は残っていなかったのであろう。
「七支刀」以外の多くの社宝・古文書などが行方不明になったのは確かであるが・・・。
(*)

「七支刀」の写真を図7・8(b)に示す。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

 じつに珍しい形状の刀で、たしかに六つの枝と先端とで合わせて「七支」である。
 鍛鉄製で全長が約七十五センチある。
 錆におおわれてはいるが、校倉造りの神庫の環境が良好だったのであろう、いまだ原形を保っており、そこに金象嵌で記された六十余文字の銘文があって判読可能である。
 百済王がきざんだこの銘文は、次のようなものである。

(*注:この時代の織田勢などが略奪した宝物類の多くは、武将の手から次第に流出し、現在でも時々その方面の市場に出てくるといわれる。一説によれば、正倉院の御物の三分の二は織田勢が強奪し、その一部が時々市場に出るそうである。それが本当なら、現在の正倉院御物は本来の三分の一にすぎないことになる)


『卑弥呼と日本書紀274』

**********

(表面)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鐵
    七支刀 以辟百兵宜供侯王
                □□□□作
               (□は判読不能)
(裏面)先世以來未有此刀 百済王 世子奇生
    聖音故 爲倭王旨造 傳示後世

 推定されるおおまかな意味を、八木荘司の訳で記すと、

(表面)泰和四年(西紀三六九年)の五月十六
    日丙午の日の日中、百練した鉄で七
    支刀を造る。もって百兵(多くの敵)
    のわざわいを避くべく、侯王(帝また
    は諸侯)に供するにふさわしい霊刀で
    ある。
             □□□□が作る。
(裏面)古来いまだ、このような刀はなく、百
    済王と世子(太子)の寄生(『日本書紀』
    の貴須、『三国史記』の仇首)が、聖な
    るお言葉ゆえに、倭王のおんために造る。
    後世に伝示されたい。

 ――といったことになる。

**********


『卑弥呼と日本書紀275』

 これが特A級の史料である最大の理由は、冒頭に「泰和四年」という紀年が記されていることである。
 朝鮮半島の各国はずっとシナ王朝の年号を使用していたので、これは東晋の年号である「太和(たいわ)」の音を仮借したものとみるのが通説である。
 そしてこれへの反対意見は少ない。
 だとすると、この「七支刀」は、

「任那地方の七国が日本に帰順した西暦三六九年に、それを記念して製作された」

 ――ことになる。
 第七・七節に記したように、日本に献上されたのが、〈神功皇后〉五十二年で、これは西暦表示で二五二年だが、一二〇年加算をすると三七二年になる。
 すなわち、この刀の銘文と『日本書紀』の記述とはピタリと一致する。

 おどろくべきことだが、この一致によって、干支二回りの一二〇年加算が信憑性を持つといえるのである。
 そしてそのことは、〈神功皇后〉摂政から應神天皇への交替の時期が、どうやら三七〇年代ではないか――という実紀年推理にも結びつくのである。

 西暦三六九年というのは、一二〇年加算した『日本書紀』の事項を見ると、日本軍が百済と協力して新羅を押さえ、弁韓の七国を帰順させて任那を拡大し、済州島を支配して百済に譲渡した年である。
 したがって、日本との修好を願う百済王が、七国帰順を祝ってこのような七つの枝をもつ特殊な刀に銘文をきざんで朝献してくる必然性は、きわめて高い。

 この時代の百済王は近肖古王といわれ、『三国史記』によると、王と太子の近仇首王(銘文中の奇生)とが高句麗と激しく戦っていること、および新羅となんとか和解して国境を確定しようとしていること、などがわかる。


『卑弥呼と日本書紀276』

 したがって、高句麗対策の一環としても、元来友邦だった日本に宝物を贈ってさらに味方につけようとしていたことは、十二分に考えられる。
 また、『日本書紀』には明示されていないが、対新羅戦だけでなく対高句麗戦にも日本の大軍が参加していたことは、『好太王碑』から確実である。

 このようなことから、この国宝「七支刀」は、〈神功皇后〉から應神天皇の前記の実年代を推理する、日本で最古の、かつきわめて有力な史料なのである。
 なにしろ、いまから千六百三十年も前の古墳時代の伝承を記した『日本書紀』にある外国からの献上品そのものが、遺跡からの出土ではなく、神社宝殿の伝世品として、いまに伝わっているのだ。

 まさに奇跡である!

 なおもう一つの宝物である「七子鏡」は紛失してしまっているが、それを連想させるような古鏡があるので、図7・8(c)に示しておいた。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H76-78.htm

 伊勢神宮の徴古館に収蔵されている六鈴鏡で、古墳時代――つまり〈神功皇后〉のころ――に作られたと考えられるものである。
 百済から届いた「七子鏡」も――そのものズバリではないかもしれないが――これに似た形状ではなかったか、と想像される。
 この形状の鏡は、すこし後の時代の遺跡からも、いくつか出土しているらしい。
 真似て作ったのであろうか?


『卑弥呼と日本書紀277』

■■■■■ 七・十二 『魏志倭人伝』との奇妙な一致 ■■■■■


◆◆◆ 数多い〈卑彌呼〉との暗合 ◆◆◆

 神功皇后紀と『魏志倭人伝』の対応は、じつに多くある。
 多すぎるくらいだといえる。
 それを以下に列挙してみよう。
 簡単に結論が出るわけではないが、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」
 ――は、
「《邪馬台国》九州説」
とも結びつくし、また、
「《邪馬台国》大和説」
とも結びつくのである。

〈神功皇后〉や應神天皇が九州を本拠とする豪族の出だったと仮定すれば前者になるし、『記紀』の記述にそっているとすれば後者である。
 ここでは一応、前者もありうるとして箇条書きにしてみる。


〈1〉暦年の一致

『魏志倭人伝』で年代入りで記されているのは西暦換算で二三〇年くらいから二五〇年くらいの事件だが、この〈神功皇后〉紀の後半の年代も、修正をまったくしないで西暦に換算すると、同様になる。
 また〈卑彌呼〉の活躍はその前、つまり三世紀初頭からあった筈なので、それは〈神功皇后〉紀の前半とほぼ一致する。
 すなわち、〈神功皇后〉が朝鮮へ遠征するのは、『記紀』のとおりの紀年を一二〇年加算しないで西暦に直すと二〇〇年である。


『卑弥呼と日本書紀278』

〈2〉『魏志倭人伝』の引用

『日本書紀』の神功皇后紀には、『魏志倭人伝』にある魏との使者交換の引用が三箇所にも出ていて、西暦換算の年も完全に一致している。
 また、〈臺與〉に対比したと思われる西暦二六六年の『起居注』の引用まである。


〈3〉国の乱れ

『魏志倭人伝』には倭国が乱れたとき、男王が立ったが治まらず、女王を擁立してやっと平穏になった――とある。
 これを『日本書紀』に見つけることは容易である。
 すなわち、少し前の景行天皇紀では、国々が乱れて困り、そこで日本武尊が九州や東国に遠征して諸国を平定したが、途中で病没したことになっており、国の乱れに苦労した話が多い。
 景行天皇は第十二代だが、次の第十三代の成務天皇や〈神功皇后〉の夫の第十四代仲哀天皇は、『記紀』ではじつに影が薄く、ほとんど無視されている。
 したがって男王では駄目で女王を共立した――との『魏志倭人伝』の記述に一致するといえる。


〈4〉名前の一致

〈神功皇后〉の謚号でかつ諱と思われる氣長足姫尊の末尾の「ヒメミコト」は〈卑彌呼〉「ヒミコ」そのものであり、名前の点でも類似している。


〈5〉夫が無く男弟が補佐している事

 夫がいないという『魏志倭人伝』の記述に合わせるのは簡単で、夫の仲哀天皇は早世し、その後で〈神功皇后〉の活躍が始まるのだから、活躍期間のほとんどにおいて夫は無いことになる。
 また大臣の武内宿禰が夫がわりのような感じで終始補佐しているが、これは「男弟が補佐している」――という『魏志倭人伝』の記述に通じる。
 また〈卑彌呼〉の身の回りの世話はただ一人の男がしているという話も、武内宿禰に比定することが可能である。
 さらに、女王の言葉を外に伝える役割をしている男の件は、仲哀天皇九年1の審神者(さにわ)が暗示的である。


『卑弥呼と日本書紀279』

〈6〉靈力の一致

『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉は鬼道をよくするとあるが、〈神功皇后〉も盛んに霊力を発揮し、神託をうけて政治を決定するとともに、数々の奇跡を起こしている。
 まさに鬼道である。


〈7〉北九州の地名の一致

『魏志倭人伝』に出てくる末廬国、伊都国、奴国が、〈神功皇后〉紀――および仲哀天皇紀――にも、次々に出てくる。
 また仲哀天皇の在位時に皇宮を九州と至近距離にある山口県にかまえ、そのあと〈神功皇后〉のみの時代に拠点を北九州に移している点、また《邪馬台国》の候補地の一つである九州の山門が神功皇后紀に出てくる点も、なにやら暗示的である。


〈8〉東征伝説

《邪馬台国》が東征して大和に移ったという神武天皇紀と結びつけられている説に対応する移動が、〈神功皇后〉紀にもちゃんと見られ、北九州に拠点を持った〈神功皇后〉が戦いながら近畿に移動する。
 さらに面白いのは、瀬戸内海からまともに大阪湾に向かったのではうまくいかず、紀州方面に迂回して上陸して成功する話があることで、これもまた神武天皇紀の東征神話と酷似している。
 したがって「《邪馬台国》九州説」ともうまく結びついている。


〈9〉皆既日食の記録

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」のひとつの根拠は西暦二四八年の皆既日食だったが、〈神功皇后〉紀にも皆既日食を思わせる記述がある。
 昼も夜のように暗くなったという事件である。


『卑弥呼と日本書紀280』

〈10〉狗奴国と熊襲の対応

『魏志倭人伝』では〈卑彌呼〉は狗奴国との闘いに苦戦するわけだが、神功皇后紀や仲哀天皇紀では熊襲征伐が大きな難問題となっている。
 狗奴国が熊襲だったとすると、これもまた記述の一致だといえる。


 まだまだ対応は有ると思うが、このくらいにしておく。
 以上の照合をまともに考えると、〈神功皇后〉は〈卑彌呼〉そのものではないか――と考えられる。
 なにしろ『記紀』の編者自身が

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

――をとっているらしいのだから・・・!


◆◆◆ 井沢元彦のユニークな説 ◆◆◆

 なお井沢元彦は、「《邪馬台国》九州説」を補強するものとして、宇佐八幡宮の特異性を記している。
 宇佐八幡宮は前記したように應神天皇を祀る八幡宮の総本宮で、九州北部にあるひじょうに古い神社である。
 そこには
 〈神功皇后〉
  應神天皇
  日賣大神(ひめおおかみ/〈天照大神〉の姫たち)
 ――の三柱の神が祀られているが、應神天皇を主神とする神社でありながら一番上座にあるのが日賣大神なのだそうだ。
 そしてこの宇佐八幡宮の礼拝作法が出雲大社とおなじ独特なもので「二礼・四拍手・一拝」なのだという。
 ふつうの神社は「二礼・二拍手・一拝」または「二拍手・一礼・二拍手」だから、たしかに独特である。
 それから、古くから皇室で別格の扱いを受けてきた《伊勢神宮》や出雲大社と同じく別格であり、歴史もきわめて古く、應神天皇の御心霊が六世紀に宇佐の地に御示顕になったといわれている。


『卑弥呼と日本書紀281』

 こういうことから井沢元彦は、日賣大神はじつは〈天照大神〉そのものであり、東征して《大和》の地に本拠を遷したのは〈天照大神〉に関係の深い〈神功皇后〉の系列の豪族で、彼らがその前にいた古い大和一族に取って代わったのだ――としている。
 そして、〈天照大神〉を祀った《伊勢神宮》があるのになぜ宇佐にも祀るのか――という疑問に対しては、田舎から都会に出て成功した人が、現住所に仏壇を飾り、また実家にも飾ってあるのと同じようなことだ、と答えている。

 じつにユニークな――というよりも不思議な――仮説で、「《邪馬台国》九州説」をよく説明しているようにもみえる。

**********

〈神功皇后〉と〈卑彌呼〉がこれだけの一致点を持っているにもかかわらず、
「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」
 が主流になっていないのは、紀年の違いがあるからである。
 たしかに『記紀』の皇紀を基準にすれば紀年も一致するが、それは明治以来の学問的研究によって皇紀の引き延ばしが確実視されている以上、そのまま信じるのは科学的ではない。
 暗合する事績が多いといっても、故意に似た事績を集めたという可能性もあるだろう。

 そこで次節で、紀年問題を中心にした検討を加えてみよう。


『卑弥呼と日本書紀282』

■■■■■ 七・十三 〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説の確からしさ ■■■■■


◆◆◆ 〈卑彌呼〉と〈神功皇后〉 ◆◆◆

 前節の〈1〉〜〈10〉項は、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――にとって魅力的な暗合であるが、そうかといって、これを鵜呑みにするわけにはいかない。
 もともと〈神功皇后〉の大きな事績である三韓征伐や任那進出は、魏に朝貢した〈卑彌呼〉とは正反対だし、実際上の年代も干支二回りの違いを考えると、まったく時代が異なる。
 では、〈卑彌呼〉の話と後の朝鮮との抗争の話とを混ぜて〈神功皇后〉伝説を創作したのだろうか?
 つまり〈神功皇后〉は架空の存在なのだろうか?

 このように主張する学者も一部にいるけれども、それにしては〈神功皇后〉の事績についての史書や詩歌や神社の秘文や各地の伝承が多すぎる。
 やはり実在した皇后をモデルにして、史実を神秘化して記したのであろう。

 神功皇后紀と應神天皇紀とで年代関係が入り組んでいて矛盾があるのは、意図的に創作したからではなく、つぎの理由によるものであろう。


[一]
 神武天皇即位を紀元前六六〇年の革命の年に移動したものの、繼體天皇以後はほぼ完全に『記紀』の紀年と実紀年が一致するようにしたので、神武〜繼體の間で調整しなければならず、そのために紀年全体を移動しつつ、一天皇の在位期間を伸ばさなければならなかった。

[二]
〈卑彌呼〉と〈臺與〉を〈神功皇后〉に照応させるために、年代を調整しなければならなかった。

[三]
 西暦三六九年ごろや四〇〇年ごろの任那進出や朝鮮出兵の史実と神話的な三韓征伐を結合しなければならなかった。

[四]
『百済記』など百済の史書との対応もとらねばならなかった。


『卑弥呼と日本書紀283』

 実紀年の推理については節のおわりに再度記すことにして、ここで第七代孝靈天皇以後の御陵の大きさについて記しておく。
 ただどの御陵がどの天皇のものか――については、明治初めに強引に決めてしまった面もあるらしいので、研究者によって様々な意見があり、百パーセント正しいとはいえないことを注意しておく。
 つぎの数字は現存する墳丘長のみで、周囲の濠や堤防は含まれていない。
 それらを含めると、もっとずっと大きくなるし、いまは消えていても発掘によって大きな周濠が推理されているものもある。
 幕末の大修理によって墳丘形自体が違ってきたものもあるらしい。

 第二章にある〈卑彌呼〉候補の一人〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉の父親とされる孝靈天皇の御陵は山形で、それ以後はすべて前方後円墳だが、形状がはっきりしかつ巨大になるのは〈百襲姫命〉の御墓以後である。
 また孝靈天皇以前になると、さらにあいまいになる。


 第七代 ・孝靈天皇陵 一〇〇メートル
(これは山形、このあとはすべて前方後円墳)
 第八代 ・孝元天皇陵 一四〇メートル
 第九代 ・開化天皇陵 一〇〇メートル
        (これ以後超巨大となる)
 倭迹迹日百襲姫命陵  二八〇メートル
 第十代 ・崇神天皇陵 二四二メートル
 第十一代・垂仁天皇陵 二二七メートル
 第十二代・景行天皇陵 三一〇メートル
  同皇子・日本武尊陵 一九〇メートル
 第十三代・成務天皇陵 二二〇メートル
 第十四代・仲哀天皇陵 二三八メートル
  同皇后・神功皇后陵 二七六メートル
 第十五代・應神天皇陵 四二〇メートル
 第十六代・仁徳天皇陵 四八六メートル
 第十七代・履中天皇陵 三六五メートル
(天皇や皇族の墓の名称にはいろいろな定義があるようだが、ここではすべて陵という言葉を使用した)


 表中日本武尊は崩御後白鳥になって飛び遷ったので合計四基もの御陵が知られているが、ここでは羽曳野市にある最大の御陵の寸法を採用した。

 この表を見ると、〈倭迹迹日百襲姫命〉からとつぜん二百〜三百メートルという大規模な前方後円墳となり、日本武尊は早世したので別としても、巨大な墳墓がつづき、そして應神・仁徳・履中にいたってとてつもない規模になったことが分かる(*)。
 この御陵の大きさの変移は、大和朝廷の進展を考えるさいにとても参考になる。
 ここで着目している〈神功皇后〉の御陵は、夫の仲哀天皇や先代の成務天皇の御陵よりずっと大きいことに注意されたい。

(*百襲姫命の巨大な御陵の墳丘長を天皇陵が上回るのは、三代あとの景行天皇になってからである。つまり、百襲姫命の直後の天皇である有名な崇神天皇や垂仁天皇の御陵も巨大ではあるが百襲姫命にはおよばないのだ。また神功皇后御陵がほぼ百襲姫命御陵に匹敵していることも注目される。つまり〈倭迹迹日百襲姫命〉の存在感は尋常のものではないのである)


『卑弥呼と日本書紀284』

◆◆◆ 〈神功皇后〉実紀年の多面的推理 ◆◆◆

〈神功皇后〉と〈卑彌呼〉の関係を論ずるとき、また〈神功皇后〉の実在性や朝鮮進出の史実性を検討するとき、その実紀年の推定が大きな問題となる。
 そこで、いくつかの面からの実紀年推理について、記しておく。
 これらは著者の新説ではなく、従来からある資料の整理である。
 以下の紀年数字はすべて西暦である。


〔1〕崩年干支による推定

 干支の記述によって実崩年を推定すると、

  成務天皇 三五五年
  仲哀天皇 三六二年
  神功皇后 三七〇年代?
  應神天皇 三九四年
  仁徳天皇 四二七年

 ――となる。

〈神功皇后〉の崩年干支は伝えられていないが、仲哀と應神の間にあることは確かなので、その活躍期間(摂政在位期間)は「三六〇〜八〇年ごろ」と推定できる。
 仲哀天皇の崩年干支がもし正しいとすれば、〈神功皇后〉の新羅遠征は三六二年ということになる。
 前述したように南原次男は、(戦史学からいって)これは後の本格遠征の前哨戦と考えられ、三六二年という年代に矛盾は無い――としている。


『卑弥呼と日本書紀285』

〔2〕一二〇年加算による推定

『日本書紀』にある降誕〜即位〜崩御の三つの紀年を一二〇年加算してみると、

  成務天皇 二〇四〜二五一〜三一〇年
  仲哀天皇 二二九〜三一二〜三二〇年
  神功皇后 二九〇〜三二一〜三八九年
  應神天皇 三二〇〜三九〇〜四三〇年
  仁徳天皇 三七七〜四三三〜五一九年

 ――のようになる。

 つぎに、神功皇后紀〜仁徳天皇紀にある朝鮮半島関係の記事の紀年を、一二〇年加算で並べておく。

 神功皇后紀――
  三二〇、三二五、三六六、三六七、三六九、
  三七〇、三七一、三七二、三七五、三七六、
  三八二、三八四、三八五

 應神天皇紀――
  三九二、三九六、三九七、四〇三、四〇四、
  四〇五、四〇九、四一四、四一七、四二〇、
  四二六、四二八

 仁徳天皇紀――
  四三〇、四四三、四四四、四四九、四七三、
  四八五、四九〇

 神功皇后紀の後半については一二〇年加算がかなり合うとの意見が多いので、これらの数字から、活躍期間は「三二〇〜八〇年ごろ」と推定できる。


『卑弥呼と日本書紀286』

〔3〕『三国史記』および『好太王碑』による推定

 第七・二節に記した倭国との関係事項の数を、『三国史記』と『好太王碑』碑文を合わせて、数えてみる。ただし古い時代の『三国史記』の年代はあてにならない。
( )内は、前記の『日本書紀』にある日本側の朝鮮半島関係の記事数である。

  一〇〇年以前     三件
  一〇一〜一五〇年   二件
  一五一〜二〇〇年   二件
  二〇一〜二五〇年   四件
  二五一〜三〇〇年   六件
  三〇一〜三五〇年   四件( 二件)
  三五一〜四〇〇年   七件(一四件)
  四〇一〜四五〇年  一五件(一三件)
  四五一〜五〇〇年   六件( 三件)
  五〇一〜五五〇年   〇件
  五五一〜六〇〇年   〇件
  六〇一年以降     三件

 四世紀から五世紀にかけて――つまり推定される神功皇后から仁徳天皇にかけての時代――に記事数のピークが来ている。

〈神功皇后〉の三二〇年の三韓征伐が史実だとすると、これは大和朝廷による朝鮮進出政策の初期段階と思われるので、〔2〕と〔3〕を総合して、活躍期間が「三二〇〜八〇年ごろ」との推定に無理は感じられない。


『卑弥呼と日本書紀287』

〔4〕宋書にある「倭の五王」の記録による推理

『魏志倭人伝』以後、しばらくはシナ王朝の記録に日本の記事は見えないが、五世紀の初めになって、「倭の五王」と通称される記録が『宋書倭国伝』にあらわれる。
(倭の五王の記述は、『宋書』の他に『南斉書』『梁書』『晋書』『南史』にあらわれるが、ここでは『宋書』を基準にする)

 宋とは東晋の武将劉(武帝)が四二〇年に建国した王朝である。
 その宋に使者を送ったのは、つぎの五人の王(日本の天皇/六王説は後述)とされる。
 一般に言われている系図を記しておく。

  ┌讃
  │
  └珍・・・濟―┌興
         │
         └武

(この系図については、シナ史書に(書写時にできた)欠落があるために『日本書紀』と合っていないという説がある)

 最初の讃が宋王朝へ使者を派遣したのは、四二一年と四二五年とされている。なお王の名は不明だがその前の王朝・東晋に四一三年に使者がきたことが、『晋書』に記されている。

 これらの使者が携えた文書では、日本が朝鮮半島のかなりの地域で権益を確保していると強調していること、またシナ王朝(晋〜宋)でもその権益確保を認めていたこと――が、宋書の記事から判明する。
 具体的には、次のような文言がある。
 五王のうち二番目の珍が、四三八年に使者を派遣したとき自分のことを、

「使持節都督(軍政の官職) 倭・百済・新羅・任那・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)六国軍事、安東大将軍、倭国王」

 ――と述べた。


『卑弥呼と日本書紀288』

 つまり日本列島の支配権および高句麗を除く朝鮮半島(三韓/百済・新羅・任那)の支配権が日本の天皇にあることを、シナ王朝の宋に主張したのだ。六国とは三韓とその後継国とを重複させて大げさにした国数である。
 しかしすでに百済の王を使持節都督に認めていた宋では、この主張を認めるわけにゆかず、とりあえず、

「安東将軍・倭国王」

 ――にした。
 そのあと宋は、三番目の濟が四四三年に使者を送ったとき、同様な、

「安東将軍・倭国王」

 ――を与えたが、これに日本の天皇は不満を持って厳しく要求したらしく、そのあと同じ濟が四五一年にも送ったとき、宋王朝は、

「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国軍事」

 ――という称号を加えた。
 つまり二番目の珍が要求した六国のうち、すでに称号を与えていた百済を除く国々の支配者が日本の天皇であることを認めたのだ。
 加羅は任那の前身にあたる国だが、百済を除いたかわりに、数合わせで付加したものである。

 当時のシナ王朝が、隣接する朝鮮半島の情勢を知らなかった筈はないし、使者の話が虚偽であれば認める筈はないので、この珍や濟の要求に宋が応じたことは、実際に朝鮮半島南部のほとんどを日本が支配下に置いていたことの証明になっている。
 なお高句麗は百済と同様な称号を独自に与えられていた。
 また五王の最後の武も、東の五十五国、西の六十六国、海の北(朝鮮半島)の九十五国を平らげた――と述べ、それを認められて濟と同じ称号を得ている。


『卑弥呼と日本書紀289』

 シナ王朝が日本にゴマをするような必要はまったく無いので、これらのやり取りからいえるのは、四世紀〜五世紀にかけての神功〜應神〜仁徳の朝鮮出兵とその結果として南朝鮮で権益を得た伝承が史実であることが、宋の正史から証明できる――ということである。

 当時の大和朝廷がじつに強大な勢力を誇っていて、日本列島の北方を除く大部分と半島南部の多くを支配下に置いていたことが推理できるのである。

**********

 さて、この「倭の五王(実際にはたぶん六王)」が、『記紀』のどの天皇にあたるのかについてであるが、なにしろ名前が一字にされてしまっているので、確定は難しい。
 日本の使者によるそのとき使われていた天皇名つまり諱の読みを、漢字一字で勝手に表現してしまっているのだ。

 ここでは、田中卓の推理する対応を記しておく。
 括弧内は使者が派遣された年である。

 讃(さん) → 第十六代 仁徳天皇(四一三#、四二一、四二五)
 王(おう) → 第十七代 履中天皇(四三〇*)
 珍(ちん) → 第十八代 反正天皇(四三八)
 濟(さい) → 第十九代 允恭天皇(四四三,四五一)
 興(こう) → 第二十代 安康天皇(四六〇、四六二)
 武(ぶ)  → 第二十一代 雄略天皇(四七七、四七八)

(#は讃かどうかはっきりしない年。*はシナ史書に「倭国王」とだけ書かれていて名が欠けている年)

 このうち後の三天皇についてはかなり確実だとされているし、珍についても異論は少ない。
 第一の讃については、仁徳天皇説と履中天皇説とがあって結論は出ていない。ただ履中天皇は在位期間が短かったらしいので、仁徳天皇説の方が有力である。
 仁徳天皇の諱は国風謚号と同じ大鷦鷯(大きなミソサザイ)なので、日本の使者は「サザキ・・・」と発音したであろう。シナの役人はその発音の「サ」を讃の一時で表現したのだろう――というわけである。
 他の一字名についても、似たような対応が考えられている。
 このような、役人が勝手に略称をつくって記述する方法は、『魏志倭人伝』の昔からシナ王朝の常套である。
 シナでは姓は一字が多いので、日本の天皇を一字で表すのは、あちらの役人としては自然なことである。
 前に記したが、遣隋使・小野妹子のシナでの名前は明確になっていて、姓は一字名は二字の蘇因高である。しかも、とても素人には類推できないほど変形されている。

 四一三年の遣使については、史書に名が出ていないので、在位年代から推定するほかはない。晩年の應神天皇の可能性もあるが、仁徳天皇説が有力である。
 四三〇年の使者については、シナ史書には王とだけあって名前が欠けているが、これを履中天皇と仮定すると辻褄が合う。
 これが正しいとすると、倭の五王ではなく六王である。

 この場合、シナ史書による系図を推理した田中卓の説によると、

    ┌――某王
    │
 讃――│――珍
    │     ┌興
    └――濟――│
          └武

 ――のようになるが、これは、『日本書紀』による系図、

    ┌――履中
    │
 仁徳―│――反正
    │     ┌安康
    └――允恭―│
          └雄略

 ――に一致する。

 著者としては、この田中卓の六王説に妥当性を感じるが、断言はできない。

(なお古田武彦のように倭の五王を九州王朝とする説もあるが、左右を問わず学界の最大公約数にはなっていない)


『卑弥呼と日本書紀290』

 この対応を元に、各天皇の干支による崩年と、シナ史書による推定崩年とを比較してみると、次のようになる。上が干支、下がシナ史書の数字である。

 第十六代 仁徳天皇  四二七年/四三八年
 第十七代 履中天皇  四三二年/ ? 年
 第十八代 反正天皇  四三八年/四四三年
 第十九代 允恭天皇  四五四年/四六〇年
 第二十代 安康天皇   ? 年/四七七年
 第二十一代雄略天皇  四八九年/ ? 年

 日本とシナの両史書できわめて近い数字になっていることがわかる。せいぜい十年しか違わない。しかも宋書の数字は次の天皇の使者が来た年だから、実際の崩年はこれより数年は減ずる可能性があり、だとすると一致度はもっと高い。
 千六百年も前の、国の違う二つの資料がこれだけ一致するのは興味ぶかいが、このことから、崩年干支推定の〔1〕を活かすことができると考えられる。
 すなわち〈神功皇后〉の活躍期間は「三六〇〜八〇年ごろ」と推定できる。


『卑弥呼と日本書紀291』

〔5〕「七支刀」の銘文による推定

 第七・十一節に記したように、この刀ができたのは三六九年、日本に朝献されたのが三七二年と推定されている。
 すなわち日本が任那における権益を確立した直後である。
『日本書紀』によれば崩年の十七年前のできごとなので、〈神功皇后〉の活躍期間は「〜三八〇年ごろ」と推定できる。


〔6〕御陵の考古学的研究による推定

 天皇陵は発掘がなされないため、厳密な調査は困難とされいるが、おおまかに造営年代を推定することはできる。
 ここでは、国立歴史民族博物館教授の白石太一郎作成の表から判読してみる。
 ただしどれがどの天皇の御陵なのか、については異説もあるので、参考にとどめなければならない。
 たとえば仲哀天皇陵とされている御陵は実際は第二十一代雄略天皇のものではないか――という説があるし、十五代と十七代についても、入れ違っているのではないか――との考えもある。
 また推定年代も「年輪年代法」などによって今後古い方向に修正される可能性がきわめてたかい。

 第十三代成務天皇陵  三八〇年前後
 第十四代仲哀天皇陵  四九〇年前後
 〈神功皇后〉陵    三五〇年前後
 第十五代應神天皇陵  四三〇年前後
 第十六代仁徳天皇陵  四四〇年前後
 第十七代履中天皇陵  四一〇年前後

〈神功皇后〉の摂政在位が三〇年間とすると、活躍期間は「三二〇〜五〇年ごろ」と推定できる。


『卑弥呼と日本書紀292』

◆◆◆ 「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」の可能性 ◆◆◆

 これらのさまざまな方角からの推定をまとめると、〈神功皇后〉とその前後の天皇が活躍された実紀年は、

 仲哀天皇 西暦三〇〇年代半ば
 神功皇后 西暦三〇〇年代半ばから後半
 應神天皇 西暦三〇〇年代後半から四〇〇年前後
 仁徳天皇 西暦四〇〇年前後から四〇〇年代前半

 ――といったことになるだろう。

〈神功皇后〉の活躍のなかでも白眉とされる三韓征伐は、『日本書紀』の記述どおりとすれば、仲哀天皇崩御の直後だから、実紀年は三六二年ごろということになる。
 またのちの進出を神話化したのみだとすれば、晩年の三七〇年ごろの任那七カ国の事件と、次の代の四〇〇年前後の『好太王碑』にある事変とを主な材料にしている――ということになるが、南原次男が主張するように、三六二年ごろになされたその前哨戦と考える方が当たっているであろう。

 したがって、どう幅広く解釈してみても、〈神功皇后〉の活躍した時代は、西暦二〇〇年代の〈卑彌呼〉の時代とは合わない。
 百年も違っている。

 というわけで、多くの照応点があるにもかかわらず、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――が成立する可能性はほとんど無い。

 また、

「《邪馬台国》九州説」

 ――への援用も、神武東征と似た話があるので誘惑にはかられるが、考古学的にはかなり苦しいといえる。


『卑弥呼と日本書紀293』

 ただ、〈卑彌呼〉についての古い記憶が、〈天照大神〉の神話のほかに〈神功皇后〉の物語にもいくぶんか投影した可能性はあるだろう。
 また、神功皇后紀にある『魏志倭人伝』の引用も、きわめて古い時代のものなので、史料として貴重である。
 そういう意味で、〈卑彌呼〉を語るとき、〈神功皇后〉の検討は欠かせないのである。

**********

 奈良時代から長く信じられてきた「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」にはじめて異を唱えたのは、江戸時代の国学者・本居宣長とされている。
 宣長の学問的態度の立派さがわかる。

 当時の歴史家がわざと〈卑彌呼〉を思わせる事績を集めた可能性もあるが、『日本書紀』編纂者の理解には、つぎの二種類があり得るであろう。

(1)「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」を信じていた。
(2)疑問を持ちながらも、「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」に合うように記述を工夫した。

 著者は(2)の可能性が高いと考えている。

**********

 もちろん、〈神功皇后〉を〈卑彌呼〉に比定し、「《邪馬台国》九州説」を展開するSF的な創作なら、ロマンにあふれていて魅力的であり、今後も書かれ続けることを期待している。


『卑弥呼と日本書紀294』

(以下の節は、『女性天皇の歴史』の第二章に記した帰化人問題についての採録です)

■■■■■ 七・S 朝鮮半島からの帰化人についての二、三の考察 ■■■■■


◆◆◆ 七世紀の帰化人は三割もいた? ◆◆◆

「新しい歴史教科書をつくる会」の元会長で正論派の著名な論客が、ある雑誌に、ちょっと気になる事を書いておられた。

「七世紀の畿内では、人口の約三十パーセントが百済からの帰化人」(甲)

 ――という一節である。

 これがふと気になったのは、前に読んだ歴史書に、

「当時の上層部の十〜三十パーセントが帰化人」(乙)

 ――と書いてあったのを記憶していたからだ。

 反日家の中には、飛鳥時代の日本に住んでいたのは大部分が朝鮮人だと言い張る人がいるが、それは別として、著者なりに検討してみたところ、(甲)がおかしいのは勿論として、(乙)もまた真実とは少し違うと考えるようになった。

 そこで「つくる会」に著者の意見を送ったところ、歴史教科書の古代史部門を担当なさっている理事の方から、「あなたの意見の方が正しい」というご返事をいただいた。

 著者の意見の概要を以下に記す。


『卑弥呼と日本書紀295』

◎『新撰姓氏録』の拡大解釈はおかしいのでは?

 こういう数値の根拠とされるのは、一般に、『新撰姓氏録』と呼ばれる平安初期の書物である。
 どのような書物か、日本歴史大辞典(河出書房新社)の説明を引用する。

**********

 平安時代初期に朝廷で諸氏の系譜を集成した古代史研究の重要資料。
 西暦七九九(延暦十八)年に桓武天皇が勘本系使をおき、諸氏に本系帳の提出を命じたが、これが嵯峨朝に継承され、万多親王、藤原園人、藤原緒嗣以下が勅命により編纂に従事し、西暦八一四(弘仁五)年六月一日に序文を付してこの書を完成し、さらに臣籍に降下した源・良岑・長岡・広根の諸氏の条項をこれに追加して、翌年七月二〇日に上表文とともに奏進した。
 内容は三〇巻と目録一巻から成り、左右京と畿内五国(大和・山城・河内・摂津・和泉の五国)に住む一一八二(現存本では一一七七)氏の系譜を、皇別(三三五)・神別(四〇四)・諸蕃(三二六/帰化人を元にする氏族)の三部に大別して収め、最後に未定雑姓(系譜不確実のもの一一七)をまとめてある。
 はじめから京畿の諸氏だけに限ったものらしく、それも完全に網羅されてはいない。
 現存本は抄録本で、原本の逸文は諸書に散見するが、鴨脚家本によって伝えられる巻一七の賀茂朝臣と鴨県主の二条項のほかは、原本の全容を知ることはできない。

**********

 古代日本の様相を知る上での貴重な文献である。
『新撰姓氏録』そのものについては、いくつか資料があるが、『田中卓著作集9 新撰姓氏録の研究』(国書刊行会)をおすすめする。

 上の引用で『新撰姓氏録』の概要はお分かりと思うが、ここにあるように、帰化人系の諸蕃の氏族の数は三二六、全体数は一一八二だから、諸蕃数を全体数で割ると、

「二七・六パーセント」

 ――という数値が得られる。
 これは純日本人と帰化人の割合がほぼ10:4である事を意味する。
 じつに大きな割合である。

 これが、前記(甲)と(乙)の数値的な根拠である。


『卑弥呼と日本書紀296』

 検討に入る前に、桓武天皇と『新撰姓氏録』の関係について触れておく。
 桓武天皇にはゴマスリ役人が創作したとされる生母伝説があり、それにあやかって先祖を百済の王族だと詐称する役人が多く出たため、それを是正する必要が生じ、こういう資料が作成されたとも言われている。

◎『神皇正統記』にある引用文

 先に記したように、『続日本紀』の最後は桓武天皇の前半の事績となっており、そのあとは『日本後紀』にある。
 桓武天皇の在位期間は西暦七八一年〜八〇六年だが、このうち、前半のほぼ十年が『続日本紀』に記され、その後のほぼ十五年が『日本後紀』に記載されている。

『日本後紀』の桓武天皇の部分は、全部で十三巻からなっているが、残念なことに散逸が多く、現在残されているのは、巻第五、八、十二、十三の四つの巻のみである。
 したがって不明の事が多いのだが、断片的な引用文から推理できる事もある。
 本章に関係の深いその一つが、『神皇正統記』における引用(らしい記述)である。

『神皇正統記』は、南朝の忠臣で大学者でもあった北畠親房が、天皇にご進講するために執筆したとされる史書で、西暦一三三九年に初版がなったとされている。
 この本には、前にも記した「やまと」の語源、「倭」の語源などについての考察などもあって当時の考え方が分かり、とても興味深いのだが、『新撰姓氏録』に関係するのは、巻二の應神天皇の箇所にある、次の文章である。

**********

異朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後なりといふといへり(注1)。かへすがへすあたらぬ事なり。昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に焼き捨てられしなり。天地開けて後、素戔嗚尊韓の地に到り給ひきなど云ふ事(注2)あれば、かれらの國々も神の苗裔ならん事、あながち苦しみなきにや。それすら昔より用ゐざる事なり。天地神(注3)の御末なれば、なにしか(注4)代下れる呉の太伯が後にはあるべき。三韓震旦(注5)に通じてより以來、異國の人多くこの國に歸化しき。秦の末、漢の末、高麗、百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇(注6)の御末と混亂せしによりて、姓氏録(注7)と云ふ文をも作られき。それも人民にとりての事なるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異學の輩の云ひ出せる事か。


『卑弥呼と日本書紀297』

(引用文の解説)

 わかりにくい箇所があるので以下に注を記す。

(注1)『晋書』の四夷傳の中の倭人の条に、「自謂太伯之後」とある。太伯とは春秋時代の呉の国の先祖。『晋書』は唐の初期(七世紀初)にできた西晋東晋を通じての史書で、三世紀後半から五世紀前半にかけてのシナ王朝の記録である。この倭人の条は、『魏志倭人伝』の抄録のような短い文章で、その中に前記の文言があるが、これだけが『魏志倭人伝』には無い。日本からの使者の誰かが自分を誇示するために、呉の偉人の子孫だ――と言ったのではないかと思う。
(注2)素戔嗚尊が朝鮮に行った話は、『日本書紀』の一書とされる部分にあるごく短い記録だが、そこに、「(高天原から)新羅に行ったが、この地には居たくない、と言って船を造って出雲の国に着いた」とある。
(注3)日本神話の神々。天神地祇。
(注4)どうして
(注5)三韓は馬韓、弁韓、辰韓(のちの百済、任那、新羅にほぼ相当)。震旦はシナの異称。
(注6)日本神話の神々や皇族。
(注7)『新撰姓氏録』のこと。

**********

 さて、注目されるのは、この引用文の中に、

「桓武天皇が三韓と日本人の先祖をごちゃごちゃにしてしまった本を焼き捨てた」

 ――という意味の、看過できない文言があることである。
 おそらく散逸した『日本後紀』の中に記されていたのであろう。

 だとすると、上層階級ではなかった母親を格上げするために百済を重んじた桓武天皇も、先祖を百済の王様だと捏造する役人たちが数多く出たことに危機感を持って、それを抑える措置をとったのかもしれない。

 話が少し逸れるが、自虐史家たちに翻弄されてはいけない。
 素戔嗚尊が新羅に行ったという記録は、神話の中の本文ではなく「一書の四番目」という一種の異説を述べた箇所のさらにほんの一部にあるだけだし、しかも行ってすぐに戻ってきた話にすぎないのだが、それだけを取り出して大きく話を拡げて「だから大和朝廷の先祖は朝鮮から来た」とする人が、保守派論客の中にさえいる。

 また、北畠親房の引用文の中の「昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが・・・」――という箇所だけを取り出して、その前後から来る文意を意図的に無視し、さらに『神皇正統記』全体に流れる親房の歴史観もまったく無視して、「親房のような勤王派に属する人までが古代の日韓の支配層が同種であると記している」と言い切っている人(韓国の文学博士)がいる。


『卑弥呼と日本書紀298』

『新撰姓氏録』に戻って、いくつか検討してみよう。

(甲)においては、畿内に住む人たちは身分を問わずすべて姓氏録に記載されていると仮定し、かつ帰化人の大部分が百済からだと仮定し、さらに帰化系氏族の構成員数が、古くからの日本の氏族と同じだと仮定している。

(乙)は、百済からの帰化人以外にも、新羅・高句麗・大陸など古くからの帰化人も含めるとし、かつ、姓氏録にあるのは上層部のみと考えての日本全体での数値である。

 しかし、これらの考え方――というよりも数字――は釈然としない。
(甲)よりは(乙)の方がずっと真相に近いとは思うが、それでも首をひねる。
 なぜなら、

(一)姓氏を持つ人間の比率とは?
『新撰姓氏録』に記載されているのは、朝廷の近くにいて朝廷に認められた上層階級のみであり、一般庶民(農民・漁民・樵・労務者・雑役・・・など上流階級に使われていたり地方で独自に働いていたりした人たち)は含まれていないと思われるが、それら日本各地の一般人の中に上層部と同じ比率で帰化人がいたのだろうか?
(*上層部に帰化人がいたといっても、一般にその階級はあまり高くはなかったらしい)

(二)畿内以外の帰化人の比率とは?
『新撰姓氏録』は畿内・左右京を中心にしたものだが、北海道から九州まで日本中にそれと同じ比率で帰化人が一様に分布していたのだろうか?

(三)氏族の構成員数や支配下領民数はみな同じなのだろうか?
 古くからの日本固有の氏族の構成員数や支配下領民数の方が、帰化系のそれよりはるかに多かったのではないだろうか?
(*初期の部民(べのたみ)の一部が帰化人だったのは事実らしいが)

 ――という疑問が浮かぶからである。

 本章でも記したが、四世紀以降、朝廷を囲む古来からの伝統的な氏では、再三にわたって、何万という大軍を朝鮮半島に派遣している。
 しかし帰化人系にそんな事ができたとはとても考えられない。

 三十パーセントという数字は、『新撰姓氏録』の拡大解釈ではないだろうか?

 なお、たとえば近藤安太郎も、『新撰姓氏録』の氏族の数の比率は人口の比率ではない――としている。
 さらに氏は次のように述べている(『系図研究の基礎知識』第一巻)。

「・・・このように見てくると、大化前代の社会は、多くの著名な氏族が知られているとはいえ、全国的視点からすれば、氏族が全体に占める比率はきわめて少いといわざるを得ないし、これらの圏外には多数の人民がいたであろうと推測される。したがって古系図をいかに詮索してみたところでこれら多数の人民の系図など永遠に見付かるはずもない。逆に言えば、先祖が、奴婢・部曲・部民であったというケースもあり得るわけで、そこまで考えては、系図研究は成り立たなくなってしまう。・・・」

 これは著者の常識に一致する。

(297の補足:「自謂太伯之後」は『晋書』四夷伝に有って『魏志倭人伝』には無いと記したが、『魏略』逸文にはある)


『卑弥呼と日本書紀299』

◆◆◆ 帰化人の数の大胆な推理 ◆◆◆

◎日本の人口と帰化人の数

 日本の全人口の中の帰化人の比率という問題を考えるには、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本の人口そのものとその中身を推理する必要がある。
 板倉聖宣『歴史の見方考え方』によると、明治時代に数学者の澤田吾一が研究した結果では、奈良時代の人口は六〇〇万から七〇〇万だとされる。
 インターネットで教えられた結果では、この推理は、平成になっても変わっていないようである。
(日本の人口の変遷や澤田の研究については、關山直太郎『日本人口史(四海書房/昭和17年)』がよくまとまっている)

 だから、百済帰化人が多く流入した白村江の大会戦の直後(七世紀後半)の人口は、たぶん五〇〇万前後だったであろう。

 したがって、もし三十パーセントという比率が、日本の全人口に対するものだったとすると、帰化人の人口は一五〇万人というとてつもない数になり、昔からの日本人はわずか三五〇万にすぎないということになってしまう。
(畿内近辺だけの人口が二〇〇万とすると帰化人六〇万、日本人一四〇万となる!)

 戦前から戦後にかけての長い間に流入して、いま在日と言われる朝鮮半島系の人口でさえ、帰化した人を含めても一〇〇万人強とされるし、そもそも百済全体でもそんなにはいなかったと思われる。
 百済の面積は、やっと四国くらいのものだったのだから・・・。
 では、姓氏数からの三十パーセントと、本当の帰化人のパーセントとは、どのくらい違うのだろうか?

 ここから先は素人の横議になってしまうが、ごく簡単にチェックしてみる。


『卑弥呼と日本書紀300』

A 姓氏をもつ上層階級と一般庶民の違い
 七世紀ごろの上層部と一般庶民の人数比は教科書には見つからなかったが、江戸時代の武士・商人の比率は数値が残されており、
 武士 約五パーセント
 商人 約五パーセント
 農民他 約九十パーセント
 ――とされている。
 もし仮に、姓氏録に入っている七世紀の上層部の人口比率が江戸時代の武士+商人と同様だったとし、帰化人がすべて姓氏録に入っていたとすると、帰化人の比率は三十パーセントの十パーセントで、三パーセントというわずかな数字になる。

B 諸蕃と皇・神別の歴史の違い
 帰化人を元にしてできた氏族と、皇統に連なったり、天津神・国津神に連なったりした氏族とでは、家系の歴史がまったく違う。
 したがって、一つの氏族を構成したりその氏族に従ったりする人数は、帰化人系の方がずっと少なかったであろう。
(前記近藤安太郎氏は、一氏族の構成員数を、十人から百人強と推理している)

C 遺伝子の希薄化
 帰化人の氏族といっても、ずっと帰化人どうしが結婚をつづけている筈はない。帰化人中の女性は男性に比して少なかっただろうから、なおさらである。
 周囲の大部分は昔からの日本人なのだから、活発な男性帰化人ほど、日本女性と結婚しようとしたであろう。
 現在の韓国系の在日の人たちも、最近では、日本人と結婚する人の方がずっと多いらしい。つまり、どんどん希薄化しているのだ。
 戦後わずか数十年でそうなったのだから、七世紀はもっとその傾向が強かったであろう。氏の名もどんどん日本的なものに変化している。
 前記近藤安太郎の書にも、
「帰化系で後世にまで系図が残されている氏族はほとんどなく、本来の和人の系統に埋没してしまったのだろう」
 ――とある。
 だから、帰化人系の氏族として『新撰姓氏録』(九世紀に編纂)に名が載っていても、朝鮮半島の遺伝子の比率はそう多くはなく、実質的には日本人と変わらない氏族が多かったと考えられる。
(日本人と百済人の遺伝子がもともと区別できない可能性については、あとで触れる)


『卑弥呼と日本書紀301』

D 帰化したのは要人が中心だろう
 古代においても船便はあったが、それに乗って百済から来日できるのは、とうぜん要人のみであり、一般の農民などが自らやってくるとは考えにくい。
 指導層は新羅にやられて逃げたが、一般庶民がわざわざ危険な海を渡って見知らぬ土地に移動はしないであろう。生活ができなくなるのだから・・・。
(農民一万人が――たぶん奴隷として――唐に拉致されたという話はあるが、日本側が拉致したという記録はない)

 とくに一度に多数が帰化したとされる白村江会戦の直後は、日本軍と百済の王族とが一緒に戦ったわけだから、その帰化人の大部分は、百済の王族や軍首脳や高級官吏といった男性の要人だったであろう。
 だから当然、彼らは朝廷の周辺に集まり、トップクラスとは言えないものの比較的高い地位を与えられ、文書作りなど重要な仕事をし、また前述のように日本の女性と結婚したであろう。
『新撰姓氏録』や『日本書紀』や『続日本紀』からもそれは読みとれるが、そのような要人やそれに準ずる人たちが七世紀の四国程度の面積の百済にそんなに多数いたとは、とても考えられない。

E 日本全土に拡散するだろうか
 帰化人が多く居住したのは畿内とその近辺であり、日本のあらゆる地域に急に拡散したとは思われない。
(*さほど重要ではない人たちを特定の地方に集団移住させたことは『日本書紀』にも出ているが、日本の人口を変えるような数ではない)

F 大胆な推理
 数字を出したのは項目Aだけだが、これはかなり乱暴で、大きく違っているかもしれない。
 しかし、Aを無視して、仮に日本列島に居住する全員が『新撰姓氏録』に記載されていたとしても、そのあとの項目BからEを考えれば、三十パーセントという数字は、あまりにも過大である。
 著者としては、白村江大会戦の時代に帰化して姓氏録に記された百済の要人たちの絶対数は、多めに見積もっても一万人ていどではなかったか、と大胆に推理している。
 その前の四、五世紀ごろの帰化人の多くは部民に入ったといわれるが、それも日本の全人口の何十パーセントにもなったとはとても思えない。


『卑弥呼と日本書紀302』

◎著者なりの常識による感想

 三十パーセントを日本全国にあてはめると、七世紀の帰化人は一五〇万人、畿内近辺では推定六〇万人になるが、その三分の二が白村江事変のときに来たとすると、四〇万〜一〇〇万人となる。
 しかし、派遣された日本軍はほぼ三万人で、それすらも帰還は大変だったのだから、七世紀の木造の船で四〇万人以上など、とうてい運べるはずがない。
 そもそも百済の軍勢だって総数でたかだか数万人だった。
 動力を持つ大型船がたくさんある今だって、一気に何十万人など送れない。
 終戦時の外地からの帰国がいかに困難だったかを考えてみてほしい。

 たかだか一万人という著者の大胆な推理は、日本全体の人口に比べれば少ないようだが、朝廷に仕える上層階級の中に、とつぜん、この数の帰化人が入ってきたら、大変な騒ぎになったであろう。
 仮に一氏族の平均が五十人とすると、『新撰姓氏録』にある帰化人系以外の氏族の合計人口は四万人強になるから、急に二割以上も増えた事になる。

 だからこそ、『記紀』にもいろいろな事が記され、官位を新設したり、二千人を東国に住まわせた――といった記述が天智紀にあるのだと思う。

 こう考えてくると、三十パーセントを鵜呑みにした六〇万人とか一五〇万人とかいった数字が、いかに現実離れしているかが、わかる。
 もし本当にその数字だったとしたら、「二千人を東国に」どころか、数十万人を移住させなければならない。
 というよりも、日本列島の中に「新百済国」という国ができていたであろう。

 それに、百済は面積が日本の四国程度の国であり、したがって全人口だってそんなにあったとは考えられない。
 ちょっと試算してみよう。
 四国の場合、明治初期の人口は推定一八〇万人、現在はほぼ四〇〇万人。
 七世紀の日本の全人口推定値は、現在の全人口に比べて四パーセントくらいだから、その比で計算すると、七世紀の四国の人口は一六万人ていどになる。

 韓国の同地方の人口は、たぶん四国と同等だろうから、七世紀の百済の全人口は、農民漁民最下層女性まですべて含めても、二〇万人にはなっていなかった――と推理できる。
 奴隷のような階層まで含めて二〇万人以下の国から、文書などの仕事のできるインテリが四〇万人またはそれ以上来るなど、ありえないことである。

 以上はまことに乱暴な話であり、桁の推理にすらなっていないが、七世紀の帰化人の比率が『新撰姓氏録』に準拠した三十パーセントより桁外れに少なかったのは確実だと思う。

(著者の以上の推理は、前記したように「つくる会」の古代史担当理事も認めてくださったが、神功皇后問題や新王朝問題で何度か言及した南原次男先生も「人口の三十パーセントが帰化人だなど想像もできない不思議な意見だ。あなたの推理する一万人でも多すぎるだろう」と述べておられた)

 つぎに、この問題に関する渡部昇一先生のご意見を引用する。


『卑弥呼と日本書紀303』

◆◆◆ 渡部昇一の見解 ◆◆◆

 これまでの話から、同祖論なども出てくるのだが、著者は思想家の渡部昇一の説が妥当性が高いと感じている。
 氏は、『かくて昭和史は甦る』や『渡部昇一の昭和史』の日韓併合の箇所で、古代の日本と南朝鮮の関係の密接性について、大要つぎのように述べている。

**********

〔一〕九州と朝鮮南部
『三国志』の『魏志東夷伝』では、九州と朝鮮南部をともに倭国・倭人としている。つまり同じ文化に属する同一種族と見ていた。

〔二〕百済は旧外地
 日本と(任那と)百済は協力して戦ったが、日本軍は白村江の会戦で敗れたのち、多くの百済難民を引きつれて帰国した。
 これは終戦のときに外地に進出していた多くの日本人が引き揚げてきたことに似ている。
(つまり帰化人ではなく外地からの帰国人!)

〔三〕言語の類似
 日本の言語と百済など南朝鮮の言語はよく似ていた可能性がある。
 日本と違って『記紀』、『万葉集』のような古い書物が韓国には残されていないので比較はできないが、帰化した人たちがすぐに活躍しているのは、言葉が通じたからであろう。そうとしか考えられないような記録がいくつもある。
(つまり百済の言語は日本語の方言の一種だった、または日本人が大勢いたので自然に日本語を修得していた・・・といった事なのであろう)

〔四〕言葉は通じていた
 百済から帰化した王仁が、じつに日本的感性豊かな和歌、

「難波津に咲くや木の花冬ごもり 今は春べと咲くや木の花」

 ――を詠んでいるのは、言葉が通じていたから、としか考えられない。

〔五〕信仰の同一性
 信仰の面でも、日本と南朝鮮は同一だったようだ。
 仏教や儒教が伝来するまでの南朝鮮の宗教は日本と同じ神道であったとしか、考えられない。
 日本の正史にも、帰化人が来日してすぐに日本式の神社をつくって宮司になったと書いてあるのだ。宗教が同じでなければそれは考えられない。

 渡部昇一が〔五〕について韓国人に質問すると、多くは絶句してしまうそうである。
 つまり、「儒教や仏教が伝来するまでのあなたの国の宗教は何でしたか?」と質問すると、たいてい答えられないらしい。
 桓武天皇が今木大神を祭った話なども、共通した神道の伝統があったという仮定なしでは、考えにくいことである。


『卑弥呼と日本書紀304』

◆◆◆ 作家・荒山徹の見解 ◆◆◆

 荒山徹という作家がいる。
 新聞社や出版社勤務を経て韓国の大学に留学して朝鮮半島の歴史や文化を研究し、平成十一年に作家としてデビューした。
 史実を丹念に調べた上で、奇想天外な空想を展開する人で、剣豪小説においては山田風太郎の衣鉢をつぐとさえ思える手練れである。
 この荒山徹が、著作『十兵衛両断』(新潮社)の中で、作家の独白として、つぎのような意見を述べている。

**********

 ・・・また、東洋史学者の岡田英弘氏は、
「朝鮮の民族文化と呼び得るものが成立するのは、新羅王国が半島の南部を統一した七世紀後半よりもあとの話である」
 ――と指摘されている。なるほど、史書を繙き、史跡を踏査すれば、朝鮮文化の成立以前に滅んだ百済なる国は、韓国よりも寧ろ日本に包摂されたと見るのが妥当である。領土を除けば、その人材、文化の殆どは日本が受容、継承したからである。したがって百済とは、日本の一構成要素として日本史で扱うのが妥当であって、これを後世の朝鮮、韓国に直結させるのは粗忽な歴史認識ということになろう。とまれ、一族の祖の百済なるを以て宇喜多氏(*)を韓人と決めつけることの、厳として慎まれねばならない所以がここにある。
(以上の見解は、鶏林大学校の黄算哲教授の研究にも教示を得た。黄教授は『中国史としての高句麗、日本史としての百済』〈同大学紀要八十七号〉と題する論文で、韓国史の祖型を新羅一国に限定し、高句麗史および百済史は韓民族史から切り離すべきと提唱しておられる)

(著者による注)この一節は宇喜多一族を扱った五味康祐や山岡荘八の小説への反論として書かれている。

**********

 小説の一部にある文章ではあるが、傾聴すべき論旨である。
 余談ながらこの本には、現在反日韓国人がプロパガンダに励んでいる「剣道韓国発祥説」への痛烈かつ論理的な反論も書かれている。

 荒山徹は最近も長編伝奇小説『処刑御使』で、若き日の伊藤博文を暗殺しようとする朝鮮人集団を描いて、自虐史観の多い小説家としては珍しい史観を披瀝している。


『卑弥呼と日本書紀305』

◆◆◆ 冗談ではない喩え話 ◆◆◆

 渡部昇一先生の前記した説〔一〕と〔二〕に関連して、次のようなたとえ話も出来ると思う。

『南樺太には、明治時代から、日本から渡った人たちがたくさん暮らしており、したがって日本の文化圏になっていた。
 ところが、昭和二十年、ロシアが北から押し寄せてきた。日本人は命からがら、北海道などに逃げ、樺太はロシアが占有してしまった。
 何百年かたってロシアの歴史家がこのことを自分たちに都合良く解釈して、
「いま日本に住んでいるのはロシア領の樺太から渡った人たちの子孫である。つまり日本人の先祖はロシア人であり、日本の文化はロシアがつくった」
 ――のように主張した』

 反日家たちが盛んに言っている「日本人の先祖は韓国人で、日本の古代文化は韓国人がつくった」という話は、これに近いレベルのナンセンスさではないだろうか。


『卑弥呼と日本書紀306』

◆◆◆ 天皇を慕った百済の王族 ◆◆◆

◎『金策号』の奇妙な行動。

 平成十四年、小泉総理が北朝鮮訪問を発表した八月三十日の直後から、能登半島沖合に北朝鮮の船団が現れ、日本の警備船に船体を見せびらかせるようにして航行してから去ってゆくという奇妙な事件が起こった。
 その中に、日本側にはっきりと船腹を撮影させた船があり、その船腹には『金策号』と記されていた。
「金がほしい、なんとかしてくれ」というブラックジョークのように思った日本人も多かったが、防衛庁は、『金策』とは北朝鮮の地名であると発表した。
 しかしそれが北の英雄の名だとは言わなかった。

◎人名としての金策。

 これについて、月刊日本の論説委員である山浦嘉久は、つぎのように記している。
 金日成はコミンテルンの捏造に乗って平壌に凱旋したが、その後粛清によってソ連派を壊滅させて独裁権力を確立したと言われている。
 このとき金日成にソ連派粛清を助言したのが金策だとされている。
 金策は、併合時代に朝鮮にいて諜報活動をした明石元二郎(日露戦争時の諜報活動の責任者で後に台湾総督)とも密接なつながりがあったとされ、息子には「国泰(国家安泰)」というじつに日本人的な名をつけている。
 おそらく、明石から学んだ諜報活動の要諦を実行したのだろうが、ソ連派粛清の功績によって、出身地の「城津」は「金策」と改称され、また「金策工科大学」という大学が出来た。
「城津」とは、北緯40度40分のあたりの東海岸にある町。
 当然ながら『金策号』はこの日本にゆかりの金策氏から来た船名で、日本のマスコミはそこまで考察すべきであったが、同時に、『日本書紀』にある「金策」もまた重要である。
 それを次に述べる。


『卑弥呼と日本書紀307』

◎『日本書紀』にある「金策」も重要。

 北の船名の「金策」は英雄の名前だが、日本の「金策」には、経済がらみの意味のほかに、もっと重要な意味がある。
 日本の古代文献では「金策」は「キンサク」または「こがねのふだ」と読む。

『日本書紀』の孝徳天皇の即位前紀に、

「辛亥(645年6月15日)に、金策を以ちて阿倍庫梯麻呂大臣(あへのくらはしまろのおほおみ)と蘇我山田石川麻呂大臣(そがのやまだのいしかはまろのおほおみ)とに賜ふ」

 ――とある。

 この金策は、黄金製の札に詔を書いて臣下に賜うもので、勲章に近いものであろう。古くは『文選』にあるらしい。

 とくに天智天皇元年(662年)五月の次の記事は重要である。

「大将軍大錦中阿曇比邏夫連(だいきむちうあづみのひらぶのむらじ)等、船師一百七十艘を率て、豊璋(ほうしやう)等を百済国に送り、勅を宣りて、豊璋等を以ちて其の位を継がしむ。又、金策を福信(ふくしん)に予ひて、其の背を撫で、褒めて爵録賜ふ。時に豊璋等と福信と、稽首(をろが)みて勅を受け、衆、為に涕を流す」

 百済滅亡時の悲劇の主人公たちだが、ここで注目されるのは、大和朝廷が百済に対して完全に宗主国としての立場で行動していることである。
 だから天皇は豊璋を百済の王に任命し、福信将軍に「金策」を授け、それを受けた百済王や将軍は平伏して天皇を拝んだのである。

 豊璋のことは第八章の《大神神社》の話のところで述べるが、いずれにせよ大和朝廷にとって百済は係属国であったことが、この「金策」のエピソードからでもわかる。


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