■□■□■『卑弥呼と日本書紀』第四版 第四章〜第六章(オロモルフ)■□■□■


『卑弥呼と日本書紀85』

■□■□■ 第四章 『魏志倭人伝』の信憑性 ■□■□■


松浦縣 佐用姫の子が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつをらむ
〔山上憶良(万葉集868)〕
「松浦国の佐用姫が肩にかけた布を振って夫を慕ったというこの山の名だけを聞いていることであろうか。
(任那へ赴任する夫を慕って石になってしまった佐用姫の伝説で、松浦の山に領巾の嶺という名がつけられた。夫の大伴狹手彦は朝鮮半島で活躍し、仏教伝来にも功績のあった中央の武将だが、のちに高句麗の女性を妻にしたので、さらに佐用姫の伝説は人々の心をうった)」

松浦川 玉島の浦に 若鮎釣る 妹らを見らむ 人の羨しさ
〔万葉集863〕
「松浦川の玉島の浦で若鮎を釣る娘を見ている人が羨ましいことだ」


■■■■■ 四・一 又聞きの信憑性 ■■■■■


『三国志』の著者、すなわち『魏志倭人伝』の著者の陳壽や、その元本『魏略』の著者魚豢が参考にしたであろう史料がつぎの二つであることは、よういに推察できる。

〈ア〉日本に派遣された使者の帰国報告の記録またはその伝聞。

〈イ〉日本からの使者が帯方郡や魏の都で述べた言葉の記録またはその伝聞。

 以下、この〈ア〉と〈イ〉について考えてみる。


『卑弥呼と日本書紀86』

◆◆◆ 魏国の使者は北九州までしか来ていない ◆◆◆

 まず〈ア〉について考えてみる。
 この時代に倭国を訪問した魏の使者としては、西暦二四〇年に訪れた梯儁と、二四七年に訪れた張政の名が、『魏志倭人伝』に残されているわけだが、この二人の訪日が本当だったとすると、その報告が皇帝の記録書などに残されていて、その書写を陳壽や魚豢が読んだか、あるいは伝聞で耳にしたかの可能性がある。
 しかしこの二人の使者は、もし派遣されたのが本当だったとしても、《邪馬台国》を旅してまわったわけでもなく、〈卑彌呼〉と面会したわけでもないようなのだ。

 つまり朝鮮半島の帯方郡から九州北端の伊都国まで来て、そこに逗留して、日本の役人――ひょっとしたら難升米ら――と贈り物の交換をしたり交渉したり話を聞いたりしただけだったらしいのだ。
 外国から倭国への使者が伊都国で接待されたり、文物を調べられたりしたことは、前章に記したとおり『魏志倭人伝』そのものに記されているが、さらに『魏志倭人伝』全体からも推測できる。

 国々の間隔の記述が、朝鮮半島南端から九州北部までは距離の単位の「里」によってきちんと記されているのに、そこをすぎると、あいまいな「日数」による表示になってしまうのだ。
 また、北九州からは遠い投馬国や《邪馬台国》の風物・人物の記録も、北九州の伊都国などにくらべて、きわめてあいまいなのだ。

 使者は北九州に留まっていたのだろうというこの推測に反論する学者もおり、その論拠は、印綬のような大切なものを伊都国で役人に渡して帰ってしまう筈はない――というものである。
 しかし魏の使者が《邪馬台国》まで本当に来たのだとしたら、〈卑彌呼〉や男弟や世話役の男の様子がもう少し書かれているのが自然だと思う。
 もし〈卑彌呼〉が神秘性を保つために直接は会わなかったとしても、かわりに接待した人物のことや、建物のことや、建物周辺のことが、詳しく書かれている筈ではないだろうか。とにかく当時の日本の中心だったのだから・・・。

 ところが、『魏志倭人伝』にはそれらのことは一行も書かれていないのだ。
〈卑彌呼〉の容貌も服装も体格も、身辺の男の様子も、建物の構造も、付近の風物も、何もない。
 北九州の国々については、一般民衆の服装や食べ物や習慣がかなりくどくどと書かれているのに、肝心の《邪馬台国》の人間や風物の様子がまったく無く、あるのは抽象的なことばかりなのだ。


『卑弥呼と日本書紀87』

 というわけで、魏の使者が《邪馬台国》まで来た可能性は微弱だし、仮に来ていたとしても〈卑彌呼〉や弟と直接会った可能性はほとんど無い――といえる。
 ついでながら、《邪馬台国》に女王がいるという話自体も日本側は隠していて、シナの都には『魏志倭人伝』が書かれる少し前にやっと分かったのではないか――との説もある。
 飛鳥時代の推古天皇のときも、聖徳太子や蘇我馬子らが、天皇が女性であることをシナや朝鮮の使者に隠したらしいといわれている。
 古代日本では女帝はごく普通の存在だったが、同時代のシナでは軽んぜられていて相手にされなかったからである。

 以上のような次第で、魏からの――実質は帯方郡からの――使者の派遣が本当だったとしても、帰国して報告したのは、言葉のよく通じない相手から聞いたあいまいな話にすぎなかったであろう。
 とくに地理や政治や宗教や風俗習慣については、現在のわれわれでも、外国人に説明するのは難しい。
 むしろ誤解されることのほうが多い。
 本国に戻って日本のことを正確に伝える旅行者のほうが、現代であっても珍しい。
 だから、日本の役人が必死で説明したとしても、しごくあいまいなことしか魏の都には伝わらず、誤解も多かったはずである。

 さらに、梯儁と張政は別の太守の子分であるため、見聞した事項を互いに照らしあって検討したとは、とても考えられない。
 東洋史の岡田英弘はこのことを指摘したうえで、二人の使者の報告がずいぶん違っており、それを繋ぎ合わせたために、筋の通らない文章になったのだろう――と推理している。
 これもありうることである。


『卑弥呼と日本書紀88』

◆◆◆ 難升米は漢文に通じていたか ◆◆◆

 つぎに〈イ〉の史料について考えてみる。
 倭国から魏への使者として再三名前の出てくる難升米が、魏や帯方郡の役人に話した内容が記録されていて、それを陳壽――または陳壽が参考にしたであろう『魏略』その他の文献の著者――が見たり聞いたりした可能性があるだろう、ということが考えられる。
 難升米なる名の人物がじっさいにいたのか、あるいは役職や一族をこういっていたのか、著者には判断できないが、読みや役目からの推理で、『日本書紀』でいう田道間守またはその一族のなかの誰かかもしれないという説があることはすでに記した。

 田道間守は垂仁天皇の命令で不死の妙薬である橘を求めて常世の国(たぶんシナ大陸)に渡ったが、帰国したときには天皇は崩御しており、悲観して死んでしまった。その墓は奈良市の垂仁天皇陵の濠のなかにある。
 この田道間守は但馬地方を本拠地とした地方豪族の出身で、その豪族は古くから外交を仕事としていたらしい。
 朝鮮の新羅国の王子で日本に帰化した天日槍の曾孫とされているから、朝鮮やシナの言葉もある程度は理解し、漢字の素養があったのかもしれない。
〈卑彌呼〉の時代の半世紀後くらいの但馬地方の遺跡から、ごくさいきんになって、船の集団を描いた大きな板が発見されて評判になったが、それは、但馬地方の人たちが常時日本海を航海していたことを連想させる。

 古代の大和朝廷の政治形態は豪族(氏族)を単位としており、たとえていえば、物部氏一族が防衛庁、大伴氏一族が総務庁、忌部氏一族が文化庁、千家氏一族が島根県知事・・・といった具合になっていたから、外交は難升米や田道間守が属していたであろう但馬地方の豪族にまかせていた可能性が大いにある。
 しかし、そうであっても、難升米がどれほどシナ語の会話や漢字漢文に通じていたかはわからないし、かりに通訳がいたとしても、どれほど正確に訳したのかはわからない。


『卑弥呼と日本書紀89』

 もしそんなにシナ語や漢文に通じた人物が日本側にいたとしたら、そういう人たちは漢字漢文を得意になって書きまくったり喋りまくったりしていただろうし、そうだとしたら、古墳時代の遺跡にもうすこし漢字が残っていそうなものだが、銅鏡や剣などの輸入品やそのレプリカ以外で漢字の書かれた出土品が見つかるのは、〈卑彌呼〉の時代よりかなり後の遺跡である。
 漢字そのものは、〈卑彌呼〉もすでに見慣れていたであろうが、存在を知っていることと、それを普段から使うこととは、別である。

 だから、かりに難升米が朝鮮からの帰化人の子孫だったとしても、漢文の素養がそんなに高かったとも思われず、魏の役人との間では、手振り身振りを交えてやっと理解させる――という程度だったのではないかと思われる。


◆◆◆ 魏国や帯方郡の役人の意欲 ◆◆◆

 それからもうひとつ、日本において、また魏国や帯方郡において、日本人と接した先方の役人の能力や意欲も問題である。
 はるか遠方の野蛮国とされていた国の事柄をどこまで真面目に見聞したか疑問だし、そこの人間の話をどれほど真面目に記録したかも疑問なのだ。
 それは、現在の北京政府や韓国や北朝鮮が、日本をほとんど理解しようとしていないことを考えれば、推理できる。
 しかもその記録が陳壽や、陳壽が参考にしたかもしれない『魏略』を書いた魚豢の耳目に入るまでには、ずいぶん又聞きや反復書写が有ったはずである。

 いずれにせよ、『魏志倭人伝』とは、このようなしごくあいまいな経緯で成立した短い文章であり、著者の陳壽にとっては、長い史書の重要で無い部分の一部のまた一部にすぎず、力を入れて書いたとはとうてい思えない記述にすぎないのである。
 著者も、読み下し文や現代語訳を読んでみて、とても杜撰な印象をうける。
 しかも、これがはじめて印刷されたのは十一世紀の宋の時代だとされているので、陳壽が書いてから印刷されるまでには七百年もの歳月があり、その間の転写回数は相当なもので、写し間違いもかなり多いと想像される。


『卑弥呼と日本書紀90』

 こういう成立の経緯を振り返ってみると、戦後の日本で専門の学者からアマチュアの好事家までじつに多くの人が議論してきた『魏志倭人伝』なる史書は、その記事の出所がじつにあいまいで、信憑性のないものだと、判断せざるをえない。
 陳壽にせよ、陳壽が参考にしたらしい魚豢にせよ、「蛮族の話など正確に記録しようという熱意を持っていなかったであろう魏の使者や役人」が聞いたあいまいな話の、「又聞きや書写」を元にして、首をひねりながら記録した――といったていどだったと思われる。

 しかも、難升米らの語学力が十分ではなかったとしたら、日本の役人と魏の役人との間には通訳がいたわけだが、その通訳がどれくらいの実力を持っていたかは、まったくわからないのだ。
 むしろ実力十分な通訳がいたほうがおかしいのだ。

 そのうえ、とうじ日本列島の内部でさえ言葉がどのていど通じたか、大いに疑問である。畿内人と九州人との会話も大変だったであろう。いまでも東北の方言と九州の方言とではほとんど通じない。
 大陸・半島の内部でも方言問題があったであろう。
 だから、外交をつかさどったらしい難升米にしても、完全な対話ができたとは、とても考えられない。
 身振り手振りを交えた会談だったであろう。


◆◆◆ 第四・一節の結論 ◆◆◆

 伝言ゲームというゲームがあり、それは何人かで伝えてゆくうちに、何をいっているのか分からなくなってしまう事を面白がる遊びだが、そこまで酷くはなかったとしても、『魏志倭人伝』とは、

「熱意不明の使者が実力不明の通訳を介して聞いた記録の又聞きや書写の繰り返しという文献に、どれほどの信憑性があるのか?」

 ――という疑問を抱きながら読むべき史料だと思われるのだ。

[次ぎは「第四・二節 地理の面での信憑性」]


『卑弥呼と日本書紀91』

■■■■■ 四・二 地理の面での信憑性 ■■■■■


◆◆◆ 地理で考える「九州説」と「大和説」 ◆◆◆

『魏志倭人伝』で常に話題になり議論になるのは、女王〈卑彌呼〉のいた《邪馬台国》とはいったいどのあたりだったのか――ということである。
 これが主として二説に分かれ、ひとつの説では「九州のどこか」、もうひとつの説では「大和」となり、延々として議論が続いていることは、ご存じのとおりである。
 この二説が出てしまうのは、不弥国から先が、
『記述そのままを信じると、ほとんどの国は九州の南端から海に出てしまう』
 ――ということから来ている。
 この矛盾を解決するために、

[A]「《邪馬台国》九州説」では、距離が今考えるよりもずっと短いのだ。

 とするし、

[B]「《邪馬台国》大和説」では、方角の記述が不正確であり南ではなく東だ。

 ――とするのがふつうである。
 前節の著者の考えでは、『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》の位置の記述は、「とても信憑性がうすい」のだから、文献だけから論理的にいえるのは、
「伊都国のすぐ近くではない」
 ――という程度のことなのだが、仮にあるていどの正確さを、この記述が持っていたとして考えてみよう。

 まず、伊都国にいたらしい《邪馬台国》の役人は、とうぜん、《邪馬台国》と伊都国との間を往復していたにちがいないから、距離について「歩いて何日くらい」という数字を桁外れに間違えることはないだろうし、また太陽を基準にして歩くので方角を九十度や百八十度も間違えることは無いであろう。
 で、このあとはさらなる仮定なのだが、この日本の役人――この役人がじつは難升米だったのかもしれないが――の話が、直接または通訳を介して魏の人間にだいたいはそのまま伝わったとしよう。


『卑弥呼と日本書紀92』

 そしてそれが帯方郡に伝言されたり役所で記録されたりして、さらに魏の都の洛陽にまで伝達されて記録され、さらに何回か書写されたものの、それほど大きな間違いもなく陳壽の耳や目に入ったとする。
 で、その陳壽がふつうの神経の持ち主で、あるていどの学者だったとすれば――史書編纂をまかされるのだから当然そうだったのだが――書写係の下級役人のように何も考えずにそれをそのまま写し取るとは思えない。
 倭国を含む東夷とはだいたいどうなっているのか、地図を拡げて眺めるか、またはすくなくとも頭のなかに地図を思い浮かべるかしながら、記すにちがいない。

 これは、倭国の中の国々の位置関係を記述するのだから、当たり前の話である。
 そこで、地図の問題についてすこし記してみることにしよう。


◆◆◆ 古代の日本列島 ◆◆◆

 まず、現在のわれわれがよく知っている日本地図の外形に、昔の国内分割を描いてみる。
 図4・1がそれである。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

 日本列島の外形は、ほぼ北を上にして、現在の地図と同じに描いてある。列島の内部の分割は、『記紀』の書かれた八世紀のもので、畿内を中心として、七つの「道」に分かれている。これを「日本七道」という。

 奈良時代には東山道の北部から北海道以北にかけては蝦夷だったが、平安初期には本州北端まで朝廷の勢力下にはいり、蝦夷は北海道以北のみとなった。また九州南部より南は朝廷の勢力下には入っていなかったらしい。

 この分割は、もちろん今とは異なるが、しかしその境目は現在の地図にも継続しており、われわれにとって違和感はまったくない。
 山陽・山陰・東海などは名前もそのままである。

 じつはこの分割は、明治元年の地図でも同じであり、呼称も同じだった。
 日本がいかに歴史の断絶の少ない古い国であるかがわかる。
 この地図に《大和》を中心として四つの矢印があるが、これは三世紀の崇神天皇時代の有名な四道将軍の派遣先であり、後述する。


『卑弥呼と日本書紀93』

 さらに、よく古い歴史に出てくる畿内部分の各国とその周辺とを、図4・2に示した。

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 畿内とは太線でかこまれた大和・和泉・河内・摂津・山城の五つの国である。
 大和は現在の奈良県であり、和泉・河内・摂津は現在の大阪府であり、山城は京都府の一部である。
 この、畿内や七道の内部にある「国」も、ほとんどそのまま、いまの県になっており、和泉・河内・・・といった国名もいろいろな形でいまに残されていて、ここでも日本の歴史の継続性がよくわかる。
 大和国は広いが、南部はほとんど山岳地帯であり、大和朝廷が栄えたのはこの北西部にある盆地の部分で、狭い意味での《大和》である。

 図4・2には『記紀』でお馴染みの名前がたくさんあるが、古代においては、それぞれの国にそこを支配する豪族がおり、「国造」という大和朝廷の地方官としての地位を世襲で維持し、その地方の首長として、祭政を取り仕切っていた。
 ただし大化改新以後は、近代化がすすんで、豪族単位の行政ではなくなり、国造は行政官的な役割を離れて、その地方の主要な神社の祭祀を司る世襲職となり、その一部の子孫は現在にまで続いている。
 出雲大社の千家宮司家、阿蘇神社の阿蘇宮司家、籠神社の海部宮司家などがそれである。
 北部の丹波と丹後と但馬は、はじめは一体で丹波または但波と称されたが、但馬が西暦六八四年に分かれ、丹後は七一三年に分立している。ただし但馬という地域名は古くからあったらしい。

 さて、日本列島というのは、図4・1のように南西から北東および真北にかけて伸びているが、〈卑彌呼〉の時代に比較的往来が多かったと思われる北九州から近畿にかけては、北九州を起点とすると、ほぼ東北東に向かっている。
 そして西端の九州の北側と朝鮮半島の南端の間に壱岐と対馬がある。
 こういう日本地図の方位をもとにして『魏志倭人伝』の記事を当てはめて推理するときに出てくる、前記の[A]と[B]の意見、および他のユニークな意見による《邪馬台国》の想定位置を図示したのが、第一章の図1・1である。

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『卑弥呼と日本書紀94』

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 見るとやはり、大和と九州に多くの意見が集中していることがわかる。
 そのうち「大和説」における《邪馬台国》は、多少のずれはあっても、せまい意味での《大和》地方がほとんどである。
「九州説」については、距離の解釈によってじつにさまざまな種類があり、九州本島のあらゆる場所に広がっている。


◆◆◆ 『魏志倭人伝』の著者が見た地図とは? ◆◆◆

「九州説」の学者は数多くいるが、そのなかで、とくにユニークかつ強烈な主張を展開しているのが、古田武彦である。
 氏の『魏志倭人伝』についての著作は数多く出版されているので、ご存じの方も多いと思う。
 この古田説によれば、《邪馬臺國》は現存する写本のとおりに《邪馬壹國》とすべきであり、それは九州の北部にあったに違いないとして、畿内の《大和》と結びつける説に徹底反論している。
 そして、九州王朝が、ひじょうに古くからあり、国歌の「君が代」も九州王朝を讃える歌だった――と力説している。

 さらに氏の凄いのは、『魏志倭人伝』の国々の最後にある遠方の裸國や黒齒國を南米かもしれないとしていることで、南米に土器や遺伝子や寄生虫が古代九州の住民と似ている人たちがいることが、その証拠となるらしい。
 南米に日本の九州の縄文人に似た人がいることは確かなようで、〈卑彌呼〉の時代に太平洋を往復していた可能性も、可能性としてはもちろんあるが、同時に陸を渡った可能性も大きいし、第三の場所から日本と南米に分かれた可能性や偶然の一致の可能性もあるだろう。


『卑弥呼と日本書紀95』

 いずれにせよ、「九州説」をとる人のほうが、「大和説」の人よりも個性的でユニークな意見の持ち主が多いようである。
 また、皇室に対する考え方が、「九州説」と「大和説」とで微妙に違っているようにも思える。
 著者の表面的な印象かもしれないが、戦後の「九州説」論者はおしなべて皇室への愛情に乏しいように感じられるのだ(*)。

 さてここで、とても重要なことがある。
 それは、『魏志倭人伝』の著者陳壽やその前に史書『魏略』を書いた魚豢たちが、それを書くとき、どれくらい正確な地図を見ていたか、またはどのような地理を頭に描いていたか――ということである。
 われわれは『魏志倭人伝』の、東へ何里とか南へ水行十日とかいう記述を読んでそれから《邪馬台国》の位置を考えるとき、無意識のうちに現在の日本地図を頭に描いている。
 その地図はもちろん、図1・1や図3・1や図4・1のような正確なものである。
 しかし、陳壽や魚豢らが現在のような日本地図を見ていたとは、とても考えられない。
 近世の日本でも、ほぼ正確な地図ができたのは幕末の伊能忠敬以後のことである。
 では、陳壽らはどのような地図を見ていたのであろうか?

 これについても昔からいろいろな研究があり、とくに有名なのは、「大和説」をとる古代史家・肥後和男の依頼をうけて『魏志倭人伝』と古代地図の関係を検討した、地図学者の室賀信夫で、『神道学』という雑誌にまとまった考察を発表している。
 図4・3は、室賀が指摘した古地図と、他の二つほどの古地図から、日本が描かれている周辺をおおまかに写したものである。

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(なにしろ古い地図で、地図全体の方位が不明確だが、地図作製者がよく知っている筈の大陸沿岸や朝鮮半島の向きから、紙面の上がほぼ北方だとして日本列島の配置を考えていた事がわかる)

(*注 さらに気付くことがある。それは九州説論者の皇室への態度の、戦前と戦後の違いである。戦前の九州説論者の多くは、「鬼道を操るような女酋長が神聖な大和にいた筈はない」という考えだったように感じる。これに対して戦後の九州論者の中には、「シナ史書に書かれるような立派な女王は大和にはいなかった」という発想の主が多いように感じる)


『卑弥呼と日本書紀96』

◆◆◆ 「古今華夷区域総要図(ここんかいくいきそうようず)」(図4・3a)について ◆◆◆

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 これは十一世紀末にできたとされる地図で、日本などはたんに位置が示されているにすぎず、形状がわからないが、日本そのものがいくつもの国に分割されていることに気づく。
「倭奴」が朝鮮半島の南にあり、その南西に「日本」がある。倭奴国は、すでに述べたように、九州北端の国(博多付近)であり、日本の一部なのだが、それを独立した国と考えているのだ。
「倭奴」を独立国とすれば、十一世紀の日本の都は京都だから、「日本」とは京都あたりを中心とした国ということになる。
 さらにその南西に「毛人」という国があることになっている。毛人とは一般的には日本列島の蝦夷のことらしいが、ここではたぶん関東の毛野地方のことであり、それはまた『魏志倭人伝』にいう狗奴国のことだろうという人が多い。

 毛野とは現在の群馬県と栃木県であるが、このあたりは元々は蝦夷の国々で、それが大和朝廷のかなり初期に朝廷の支配下に入ったとされている。
 そしてその支配下におさめるさいの抗争が、『魏志倭人伝』にある、〈卑彌呼〉が苦労したらしい狗奴国の王との軋轢だったのではないか、というわけである。
 もちろんこれは一つの説にすぎない。
「毛人」のすぐ下に「流求」があるが、これは明らかに琉球、すなわちいまの沖縄である。

 また地図からはみだしているが、元図では「流求」のすぐ下に「蝦夷」がある。夷は地図では虫へんだが、同じであろう。
 蝦夷とは、関東から東北、北海道にかけて、なかなか大和朝廷に服しなかった国々の総称で、時代が下がるにしたがって朝廷の領域との境界は北へ移動してゆき、北海道をさいごに消滅することはご存じのとおりである。

 ここで面白いのは、これらの国々が、じっさいの日本列島においては南西から北東へと並んでいるのに、この(a)の地図では北から南へと並んでいることである。
 北端の蝦夷が最南端にあるのだ。
(つまり方角が実際と九十度以上違っているのだ)
 そして国々の中心は、いまの沖縄県のあたりにある。
 まさに『魏志倭人伝』にある「会稽東冶の東方海上」そのものである。


『卑弥呼と日本書紀97』

◆◆◆ 「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」(図4・3b)について ◆◆◆

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 室賀信夫が肥後和男の依頼に応じて検討した結果のなかで発表した図4・3(b)は、「《邪馬台国》大和説」を補強するものとして有名である。

 この混一疆理歴代国都之図という古地図は、十五世紀初頭に朝鮮で作られたものだが、それは元の時代(十四世紀半ば)の二つの地図を合わせ、さらにそれに日本最古の列島地図とされる行基図を挿入したものだといわれている。
 行基図とは、有名な僧・行基(西暦六六八年〜七四九年)が作ったと伝えられる地図で、原本は現存していないが、その言い伝えが信じられて、古い日本全図のことを総称して行基図というようになった。
 じっさいに行基が描いた地図がどういうものであったかは不明だが、現存する最古の行基図は、鎌倉時代の末、西暦一三〇五年に書写されたとされ、形状からいえば、図(b)とほぼ同じである。

 じっさいの日本列島は南西から北東にかけて延びているとどうじに弓状に曲がっているが、昔の日本人は東西に横たわっていると考えていたらしい。
 したがって行基図も日本列島が東西に寝た形になっている。弓なりの曲がりをもつ図もあるが、その曲がりはごくわずかである。
 この行基図をシナ地図に挿入するに際して、地図の作者は、大きさを朝鮮半島よりずっと小さくし、位置を沖縄(図の琉求)よりさらに南にし、そして角度をほぼ九十度回転させたのだ。
 弓なりの曲がりがかなりある元図をつかったらしく、結果としては、真の日本列島を九十度回転したものに近くなっている。

 なぜこのように九十度も回転させて、南の海に挿入したのかについて、室賀信夫は古い文献を検討し、古代からシナでは、
「日本は大陸の東の海中のかなり南方に、南北に伸びる形で存在しているという思いこみ」
 ――があり、それは『魏志倭人伝』などを読んでそう思ったのではなく、『魏志倭人伝』が書かれたころにはすでにそのような地理概念ができていたらしい――と推測したのである。


『卑弥呼と日本書紀98』

 ちなみに、シナの都からみて日本は『魏志倭人伝』の記述どおり会稽の東方海上にあるという考えは、古くから日本にも知られていて、大学の名前や歌の文句になっている。東海大学の東海や「見よ東海の空あけて」という行進曲の東海がそれである。
 朝鮮半島の南端から日本への行路は、対馬→壱岐→北九州とすべて南へすすむので、その先さらに南へ行けば日本の中心部に達すると思ったのであろう。
 また五世紀前半のシナ史書『後漢書倭伝』には、日本列島は北西から南東にかけて長いと感じていたらしい文章があるが、だとすると(b)図が彼らの常識だった可能性がさらにたかまる。

(注・図4・1と図4・3(b)がたまたま並んでいるので、比べてみていただきたい。実際の日本と先方の人間の描いた日本とでは、その向きがほぼ九十度違っている事がわかる)

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◆◆◆ 「籌海図編(ちゅうかいずへん)」(図4・3c)について ◆◆◆

 これは一例として挙げたものにすぎないが、十六世紀ごろになっても、つまり信長や秀吉の時代になってもなお、このていどのレベルの地図がまじめに描かれていたのである。
 この図(c)を見ると、図(b)のような日本列島への理解は、十七世紀――シナでは明から清の初期、日本では江戸前期――まで続いていたらしいことがわかる。

 一部に室賀信夫の意見への反論も出されているが、国際日本文化研究センター教授で古代の歴史地図について研究している千田稔は、室賀説やそれへの反論をさまざまな角度から検討して、室賀説が正しい可能性がたかいことを、ごくさいきんも『卑弥呼は大和に眠るか』のなかで述べている。

 いずれにせよ、陳壽や魚豢が『魏志倭人伝』を書いたとき念頭に浮かんでいたのは、げんざいのような日本地図ではなく、図4・3(b)のような地図の原形だった可能性がきわめて高いのである。

 だとすると、
「《邪馬台国》大和説」
 ――ががぜん有利になってくる。


『卑弥呼と日本書紀99』

◆◆◆ 九十度ちがう地図の波紋 ◆◆◆

「大和説」を有利にみちびくひとつの仮説は、次のようなものである。
 まず、《邪馬台国》が《大和》だったと仮定する。
 すると、伊都国で魏の使者と会談した難升米ら日本の役人は、とうぜんながら《大和》と伊都国との間を何度も往復していただろうから、その間の距離や方角はかなり正確に把握しており、東に何十日もいかねばならない――と述べたであろう。
 それが魏の使者や記録者にどれほど正確に伝わったかはまったく不明だが、仮にあるていどは正しく伝わり、それがそれほどの変形を受けずに陳壽や魚豢に伝わったとしよう。

 そうすると、その伝聞を元に史書を書こうとするとき、図4・3(b)しか知らない書き手は、頭を悩ますであろう。
 図(b)で東へ船や徒歩で何十日も行くと、海へ出てしまい、さらに《邪馬台国》の近くにある何十もの国も、ぜんぶ海の中になってしまうからだ。
 そこで、伝聞と書写で残されたその資料は方角を間違えたに違いないと考え、不弥国から先は、東ではなく南だろうと考え、南に変更して書いてしまうかもしれない。
 これは、前記の[B]の「《邪馬台国》大和説」をとても合理的に説明するものである。

 昔は大和から伊都国あたりまで――早飛脚は別にして一般の人は――三十日ほどかかったらしく、そういう記述が日本の古い書物(延喜式など)に出ているそうである。
 気象条件を見たり船頭の都合を見たり旅の疲れを癒したりしながら、進んだからであろう。
 だから、北九州〜投馬国〜《邪馬台国》が水上三十日陸上一日という記述は、北九州から《大和》への日程とよく一致していることになるのだ。

 また地図(b)の《邪馬台国》は沖縄よりずっと南方にあることになってしまうが、これは『魏志倭人伝』のなかの倭人の記述や位置の記述が妙に南方的であることと矛盾していない。
 倭国の中心はかなり南方だからたぶんこうだろう――と陳壽らが考えたと推理できる。
 さらにこの地図にもとづくと、狗奴国は九州南部の熊襲ではなく大和よりかなり東の三重県や愛知県から関東の群馬県・栃木県にかけてのどこかの豪族だろうということになり、これも『日本書紀』の四道将軍の伝説などと矛盾しない。
 前述したように、狗奴国とは群馬県(上毛野)から栃木県(下毛野)にかけての「毛野」と呼ばれた地方の豪族ではなかったかとの説が唱えられている。
「狗奴」の魏国読みと「毛野」の大和読みがきわめて似ているというわけである。
 また遺跡などからは、愛知県を中心とした東海地方ではないかとの説も有力になってきている。


『卑弥呼と日本書紀100』

 一方(b)の地図で前記[A]の「《邪馬台国》九州説」をとることは、ほとんど不可能である。
「九州説」の場合には、陳壽らは地理は現在と同じ正確なものを知っており、ただ距離について間違えていたり現在の常識とはかけ離れた表示をしていたのだ、と――たぶんありえない――推理をしなければならない。
 しかも距離は長さの単位の「里」だけではなく陸行何日、水行何日という時間を単位とした記述がたくさんあるので、これをうまく九州に当てはめて解釈するのは大変である。
 そのため、水行二十日とは二十日に一度船が出たのだ――といった苦しい解釈まで飛び出している。

 ところでこの古地図で面白いのは、朝鮮半島や大陸から見るとほぼ九十度のちがい――つまり東と南のちがい――があるが、対馬と壱岐を基準にして日本本土を見ると、けっこう正確なことである。
 つまり朝鮮半島から見た対馬と壱岐の位置関係が違っているのであって、対馬から先の相対的位置関係はそれほど違ってはいないのだ。
 図4・3(b)の対馬を正しい地図の対馬と一致させた上で壱岐を一致させようとすると、(b)全体を九十度ほど回転しなければならない。
 そうすると、日本列島に関しては――大きさはまったく違っているが――列島の角度そのものは真実に近いものとなる。
 したがって、朝鮮半島から見た壱岐の位置を間違えたために、日本列島の角度が九十度ずれてしまったようにもみえる。


◆◆◆ さらに強力な論拠 ◆◆◆

 もうひとつ、方角の九十度違いについての強力な論拠がある。

 それは、

<北九州に到着してからの末廬国→伊都国→奴国の現実の方位は、図3・1でわかるようにほぼ「北東」を向いている>

 ――にもかかわらず、

<『魏志倭人伝』では末廬国→伊都国も伊都国→奴国も「南東」と記されている>

 ――ことである。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm
(図3・1は下左)


『卑弥呼と日本書紀101』

 つまり、どこにあるのかが明確になっているこの三国間の位置関係が、じっさいと記述とでちょうど九十度だけ違っているのだ。
 これは否定しようのない完全な事実なので、その後の不弥国以降も、九十度違っているだろうと、かなりの妥当性をもって推理できるのである。

 ちなみに奴国→不弥国は『魏志倭人伝』では東なので、九十度変更して北とすると、いくつかの候補地のうち図3・1の楕円の北側に小円で示した津屋岬(および福間)が最有力となる。これも興味ぶかいことである。

 このようなことから、陳壽らが見ていた地図は真実とは大きく異なり、仮に「《邪馬台国》=《大和》」とすれば東と南の書き換えでなんとか説明がつくが、「九州説」ではとても苦しい――ということになる。
 したがって地図の問題は「大和説」の人たちの大きな支えとなっている。
 著者も、この地図の問題は重要だと考えている。


◆◆◆ 第四・二節の結論 ◆◆◆

 しかしここで言いたいのは、「《邪馬台国》大和説」の推奨ではない。
 そうではなくて、要するに、『魏志倭人伝』の編者の地理的知識はごくあいまいなものだったのではないかと疑う必要がある――ということを主張したいのである。

 つまり『魏志倭人伝』とは、日本列島が九十度も違っていて、しかもはるか南方にあるシナの古い地図からみても、

「不正確な地理的知識を元にして書かれた文献に、どれほどの信憑性があるのか?」

 ――という疑問を抱きながら読むべき史料だと思われるのだ。

[次ぎは「第四・三節 シナ正史自体の信憑性」]


『卑弥呼と日本書紀102』

■■■■■ 四・三 シナ正史自体の信憑性 ■■■■■


 さて次に、そもそもシナの正史における周辺国の記述がどれほど信憑性のあるものなのか、それを探ってみることにしよう。
 現代の中国の教科書にある自国以外の国についての記述――とくに日本や台湾についての記述――が強く偏向していることは、多くの人が指摘している。
 中国の指導者たちには、隣国の歴史や社会を正確に調べて記述しようという意欲がほとんどなく、あるのは自国中心の中華思想とプロパガンダである。
 そしてそれは今にはじまったことではなく、シナの歴史的伝統なのだ。

 もちろんほとんどの国の歴史の教科書は、自国に有利なことを中心にして書かれており、それは当然のことである。
 自虐的なことを書いて生徒の気持ちを傷つけている日本の教科書は世界でも珍しいのだが、それはともかくとして、自国の誇りを中心に書くのがあたりまえの歴史教科書のなかでも、中国のそれは際だっているといわれる。
 多くの識者(たとえば古森氏など)が、現代中国の教科書を精密に研究して、それが徹底して一方的なプロパガンダで埋められ、真実を隠蔽していることを明らかにしている。


◆◆◆ 奇々怪々な『明史日本伝』 ◆◆◆

 そういうシナの歴代権力者たちの習性からみて、古典だけ、あるいは『魏志倭人伝』だけが正確で良心的に記されているとはとても思えない。
 西尾幹二の『国民の歴史』では、『魏志倭人伝』の信憑性についての節で、岡田英弘『日本史の誕生』から次のシナ正史の一文を引用して、シナ王権の特質を抉っている。
 この引用文は有名で、たとえば渡部昇一も著書のなかで言及している。

 それは、光秀が信長を討ち、その光秀を秀吉が討った、「敵は本能寺にあり」という例の事件についての記述である。
 江戸時代になって著された『明史日本伝』というシナの「正史」のなかに、それがあるのだ。

「日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。当時、関白だったのは山城守の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の下男だという。すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。
 ・・・信長の参謀の阿奇支というのが落ち度があったので、信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたばかりだったが、変事を聞いて武将の行長らとともに、勝ったいきおいで軍隊をひきいて帰り、明智をほろぼした」


『卑弥呼と日本書紀103』

 もし信長、秀吉や本能寺についてまったく知らない人がこれを読んだら、当時の日本の歴史についてどう理解するだろうか?
 秀吉の本拠地は九州の薩摩なのか、それとも大阪城のある近畿なのか――と、議論するかもしれない。
 それから、阿奇支はシナの発音でアケチで、明智は日本の発音でアケチだから、ひょっとすると阿奇支と明智は同族だったのではないか、まさか兄弟ではないだろうが親戚かもしれない――などと議論するかもしれない。

 こういう実例を見てしまうと、たとえば《邪馬臺國》ではなく《邪馬壹國》だといった議論はほとんどナンセンスであるように思えてくる。
 邪馬がヤマと読めれば、その次が臺だろうが壹だろうが、おなじていどの重みでそれは大和だろうといえるし、同時にまた大和ではないだろう――ともいえてしまう。
 末廬国にせよ伊都国にせよ最初の読みのマツとかイトとかが現在に残る地名と合っていることが北九州地方とするひとつの根拠だし、奴国にいたっては、ナが一致しているだけである。「狗奴国=九州熊襲説」にしても、クが合っているだけである。
 だから、〈卑彌呼〉にしても、ヒやミコが合っていれば、それは『日本書紀』のだれそれだろう――といえるし、またそうではない――ともいえるであろう。

 ここでくどいようだが、このていどのレベルの史書を元に詳細な議論をするナンセンスさを、もう一つのたとえで書いてみよう。
 もしローマ字での史料の断片しか分からず、真面目に検討しようという意欲のない未来の歴史家が、明治維新前後の日本の首都の名前について書いたとすると、次のようになるかもしれないのだ。

「・・・TOKYOという都市名は昔はKYOTOといっていたらしい。それを明治維新という革命があったので名前を変える必要が生じ、KYOとTOを逆転させてTOKYOとしたのだろう。しかしそれに異議を唱えて、後々までしつこくKYOTOと呼ぶ人間がいたらしい・・・」

 これは笑い話だが、『魏志倭人伝』にはそういう側面があることを承知していなければならない。
 だから、樋口清之、渡部昇一、西尾幹二、岡田英弘といった論客たちが、「B級資料にすぎない」と喝破して、一字一句を問題にする愚を指摘しているのだ。


『卑弥呼と日本書紀104』

◆◆◆ 対日蔑視と誇大数字 ◆◆◆

 明智光秀の本能寺の事件をデタラメに書いた興味ぶかい『明史日本伝』は、くりかえすが、江戸時代に書かれたシナの「正史」である。
 要するに、シナの伝統的な正史とは、江戸時代になってもこの程度のものにすぎなかったのだ。
 秀吉の時代には、日本と明国との交流は有りすぎるほど有ったのだから、もし正史の編者が本気になって調べようとしたら、もっとずっと正確な記述になっていたであろう。
 しかし本気にはなっていなかった。シナの役人の周辺国への態度は、大昔からこんなものであった。
 だから『魏志倭人伝』の信憑性も――明史より千五百年も前のものだから――良くてこのレベルだ、と考えなければならない。

 また、『魏志倭人伝』が『東夷伝』のなかにあることからも分かるように、昔からシナでは、周囲の国々を、「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」と呼んでいた。
 すべて野蛮な国という侮蔑した意味である。
 つまり人間なみには考えておらず、良くて貢ぎ物を持ってくる蛮族といった扱いでしかなかった。
 ODAという名の大金を貢ぐ現在の日本も、北京政府から見ればその程度のものにすぎないが、昔はなおのことそうだったのだ。
《邪馬台国》の「邪」にしても〈卑彌呼〉の「卑」にしても、また倭国、倭人の「倭」にしても、当てはめられている漢字は下品な意味のものばかりである。
 差別意識を持っていなかったら、もっと上品な文字をあてはめていたであろう。

 そういうわけなので、『魏志倭人伝』の信憑性を客観的に論証するためには、「東夷」のなかの日本以外の国々や、「東夷」以外の外国についてどう書かれているかを見て、それらが事実とどのていど違っているかを検証する必要がある。
 それは著者の力の及ばないところであるが、歴史資料として批判に耐えるようなものであるかどうかは疑わしい。

 ざっと読んでみても、「女人国」や「顔が二つある人間の国」が東の海(つまり日本の本州の方角)にある――などという記述がいきなり出てくるのだ。


『卑弥呼と日本書紀105』

『魏志倭人伝』そのものに戻って、そのあやふやさは、『明史日本伝』を読まなくても、それ自体だけからでもわかる。
 たとえば、樋口清之が指摘していることだが、〈卑彌呼〉の墓をつくったとき、奴婢百余人が殉葬されたとあるが、三世紀の墓の発掘調査からはそういう殉葬がなされた証拠は見つかっていない。
 また死者を葬るのに棺はつくるが、それを入れる施設(槨)はつくらず直接地中に埋める――とあるが、地位の高い人の墓には、弥生時代であってもちゃんと槨があった事も、遺跡からわかっている。
 しかもシナ大陸や朝鮮半島にも例のない、石と木の二重の槨さえ発見されているのだ。
 牛や馬がいなかったという話も、骨の発掘からきわめて疑問であるし、百まで生きるというのも信じがたい。衣服などについても、南方でしかありえないような、いいかげんな話である。

 もうひとつ信じにくい数字に、戸数がある。
 投馬国が五万余戸、《邪馬台国》が七万余戸などとなっており、数値のあるすべての国を合わせると十五万戸ほどである。
 一戸あたりの人数は、奈良時代について概算されており、平均二十二人ほどだったといわれている。
〈卑彌呼〉の時代はもっと多かったと推理されるが、かりにこの二十二を戸数にかけると、『魏志倭人伝』に数字のある国々の人口の合計は、三百万以上ということになる。
 国名が書かれていなかったり数字が書かれていなかったりする国は他にも多数あるので、『魏志倭人伝』から推理される当時の日本の人口は相当な数――たぶん一千万以上――になるであろう。

 しかし、奈良時代になっても、『魏志倭人伝』に書かれた地域の人口は、――沢田吾一らの研究から――たかだか数百万であろうと推理される。
 奈良時代より五百年ほど前の〈卑彌呼〉の時代には、これよりはるかに少なかったであろう。
 つまり、計算があわないのだ。
 このように、シナがつくる日本についての記事は、間違いが多く、あいまいで、かつ下品なのだ。


◆◆◆ 第四・三節の結論 ◆◆◆

 以上のようなわけで、『魏志倭人伝』とは、江戸時代に書かれたシナ正史の凄い中身から推察しても、また倭人伝そのものを考古学で検証してみても、

「周辺国については伝統的に侮蔑的で間違いの多い正史を書くシナの古い史書中のごく短い文献に、どれほどの信憑性があるのか?」

 ――という疑問を抱きながら読むべき史料だと思われるのだ。

[次ぎは「第五章 〈卑彌呼〉という名の探索」]


『卑弥呼と日本書紀106』

■□■□■ 第五章 〈卑彌呼〉という名の探索――併せて册封体制からの独立と国名および天皇という尊称―― ■□■□■


いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋いぬらむ
〔山上憶良(万葉集63〕
「さあみんな、早く日本へ帰ろうではないか。出航のとき航海の安全を祈ったあの大伴の御津の浜の松も、われわれの帰りを待ちこがれているだろう。
(御津は大阪難波の港。遣唐使の一員として唐に派遣された山上憶良の望郷の歌)」

大和路は 雲隠りたり しかれども わが振る袖を 無礼しと思ふな
〔遊女兒島(万葉集966)〕
「大和への道は雲の彼方に隠れていますが、私が振る袖を無礼だと思わないで下さい。
(太宰府から都に帰る貴人との別れを惜しんで地元の遊女が謡ったとされる。天皇の歌と遊女の歌とが同じ歌集に並んでいるところが『万葉集』の凄さである)」


■■■■■ 五・一 『記紀』のどこを切っても出てくる〈卑彌呼〉 ■■■■■


 この節では、〈卑彌呼〉の読み方と、それに対応する名前が『記紀』にあるかどうかを検討してみよう。


◆◆◆ 〈卑彌呼〉の読み ◆◆◆

 ここでは〈卑彌呼〉を「ヒミコ」と読んでいるが、それはそう読むのが今では一般的だからである。
 しかし昔の人がそう読んでいたかどうか、また元の日本語の発音がどうだったかについては、諸説がある。
 作家の井沢元彦が調査したところでは、この漢字は、昔のシナの発音では、日本人には「ピメハ」とか「ピメコ」とか聞こえるらしい。
 だからまずヒとピの違いがあるが、古代の日本語では日はヒともピともいったようだし、いまでも「月日」を「ガッピ」というようにピということもあるので、この読みは「ヒメコ」と同じだといえるのかもしれない。
 最近の研究には、「ヒムカ」だろうという説もある。


『卑弥呼と日本書紀107』

 前述のように著者の読んだ古い教科書では、〈卑彌呼〉の左右に二種類のルビをふり、「ヒミコ」および「ヒメコ」としていた。
 いろいろな意見があるわけだが、現在の日本の著名な学者のあいだでは、この教科書の二つの読みが定着しているようである。
 おそらく、いまの日本では「ヒミコ」や「ヒメコ」と書ける言葉の古い音韻だったのであろう。
 もともと古代の発音は、日本のそれもシナのそれも定かでないし、同じ日本でも地域によって異なっていただろうから、あまりこまかな議論は意味がない。
 現在の日本人の発音で考える類似は、ごくごくおおまかなものだと考えねばならない。
「ヒミコ」とも「ヒメコ」ともちがうが、それに似たものだったかもしれないのだ。

《邪馬台国》と抗争した狗奴国とは九州の熊襲かそれとも関東の毛野かあるいは熊野か岐阜か愛知か、といった議論にしても、三世紀の日本の役人が熊襲や毛野をどう発音していたか、および、三世紀の魏の国または魏の植民都市帯方郡の役人が狗奴をどう発音していたか――がよくは分からないのだから「ひょっとしたら対応しているかもしれない」というていどのことしかいえない筈なのだが、それにしては、多くの『魏志倭人伝』の研究書に、もっともらしい対応が頻出している。

 第三章で、『魏志倭人伝』の難升米と『日本書紀』の田道間守が、似ても似つかぬように見えてもローマ字で表示すると「似ているともいえる」ことを記した。
 ここでもう一つ、似ていないようで似ている例として、遣隋使として有名な小野妹子と、その隋での名・蘇因高とを比較してみよう。
 この両者は同一人物であることが明確なので、比較は参考になる。

 シナの発音を音でおおまかに記すと、小野の小も野もSHOと読める。また妹子の日本での発音はIMOKOなので、これはIMKOまたはINKOに近い。SHOをSOとすれば、そのままSOINKO――すなわち蘇因高――となる。
 蘇因高が隋によってつけられた小野妹子の呼び名であることは『日本書紀』の推古天皇紀に明示されているので、疑う余地はないのだが、漢字だけを見てこれを同一人物だと見破ることは困難である。

 予備知識無しに「小野妹子」と「蘇因高」という二つの名を見て、即座にこれを同一人物だと見破ったとしたら、その人は名探偵である。


『卑弥呼と日本書紀108』

 一般に日本人はなるべく原文に忠実に表現しようと心がけるが、シナの役人はそうではない。
 彼らにとって都合のよいように――言いやすいように――創作してしまうのである。
 だから倭の五王のような愛想の無い名も生じてくるのであろう。

 このような例からも、『魏志倭人伝』に書かれた名前を日本の古典のなかに見つける作業は、推理力が必要だし、かつあまり深く考えすぎてもいけないことがわかる。

 したがって〈卑彌呼〉の読み方については、深入りは避けて、教科書や多くの学者の説にあるように、
「おおまかにヒミコまたはヒメコみたいな発音だった」――としておかねばならない。
 前述のように元来がそのていどの話なのだから・・・・・。

 では、日本の古い文献に、これに似た読みの人物がいるのだろうか?
 これについては、
「いすぎるほどいる」
 ――というのが結論である。
 昔の日本の文献に書かれている貴人の名は、つねにかなり長いものなので、単に「ヒミコ」とか「ヒメコ」とかいう人物がいた可能性はほとんど無く、日本の役人が述べた名前のなかから覚えやすい部分を魏の使者が記録したか、あるいは日本の役人が自分の仕える上司を固有名ではない尊称で呼び、それが記録されたものだろうと、多くの人が考えている。

 現在の美智子皇后陛下を、ただたんに皇后と記すのと同じである。
 社長秘書が来客に社長のことを告げるときも、「社長はいま会議中です」などと述べるだけで、その姓名を全部いうことはめったにない。
 したがって古代においても、特に身分の高い人物については、日本側の役人は、尊称のみで話した可能性がたかい。
 フルネームを告げたこともあったかもしれないが、会話のほとんどは、尊称だけであっただろう。
(とくに埋葬された後の貴人を生前の長い実名で呼ぶことは少なかったであろう)

 また魏や帯方郡の役人も、フルネームでは発音が難しくて記憶も記録も困難で、簡単な尊称のみのほうがずっと親しみやすかったであろう。

(男性の場合、「・・・彦」を『魏志倭人伝』では末尾の「彦(ヒコ)」だけを取り出して単に「卑狗(ヒク)」と書いたらしいことは、すでに記した)


『卑弥呼と日本書紀109』

◆◆◆ 『記紀』にある〈卑彌呼〉の候補 ◆◆◆

 では、日本の『古事記』や『日本書紀』に、そういう〈卑彌呼〉を連想させる尊称が出てくるのかというと、これが、無数に出てくるのである。
 多くの学者や研究者が述べている〈卑彌呼〉の候補をあげてみよう。
( )内は代表的な読みである。

   《日子》    (ヒコ)
   《日御子》   (ヒミコ)
   《日神子》   (ヒミコ)
   《日皇女》   (ヒミコ)
   《日巫女》   (ヒミコ)
   《日靈女》   (ヒミコ)
   《姫子》    (ヒメコ)
   《皇女》    (ヒメミコ)
   《女》     (ヒメミコ)
   《姫御子》   (ヒメミコ)
   《姫神子》   (ヒメミコ)
   《姫皇女》   (ヒメミコ)
   《姫巫女》   (ヒメミコ)
   《姫命》    (ヒメミコト)
   《姫尊》    (ヒメミコト)
   《比賣命》   (ヒメミコト)
   《日女命》   (ヒメミコト)
   《稚日女尊》  (ワカヒルメノミコト)
   《大日靈女尊》 (オオヒルメノミコト)

 さいごから二番目の《稚日女尊》は〈天照大神〉の妹であり、最後の《大日靈女尊》は〈天照大神〉の本名で、靈女は合わせて一つの文字である。
 これは白川静の『字通』によると靈と同じ字だそうであるが、古い神社の書き物などでは分けて靈女と書かれていることもある。
 このおわりの二つは別格の尊称だが、その一つ前の《日女命》も、それに準じる丁寧な文字――太陽の妻を意味する――を当てた尊称である。
「ヒミコ」または「ヒメコ」を連想させる名前は、まだまだあるだろうが、これくらいでやめておこう。


『卑弥呼と日本書紀110』

 この一覧のほとんどは、天皇の皇女の名につけられる尊称である。
 たんに尊称として使われるものもあるし、「XXX姫命」のように、長い名前の末尾につく場合も多い。
 また「姫」は「媛」としても同じ読みだし、また「女」に変えても通じる。カナ表記では「比賣」もある。
「ヒメ」はもともとが神につかえる神子(巫女)的な女性に与えられた称号だが、祭政一致の時代においては、天皇の皇女など身分の高い女性が重要な神の神子となったので、高貴な出の女性を「ヒメ」と呼ぶようになったらしい。
 語源をたどると、姫の「ヒ」は彦の「ヒ」と同じで貴い人物の名の接頭語であり、「ヒ」のうしろが「コ」なら男性、「メ」なら女性になったとされている。
 さらにこの「ヒ」は、火と同じく日(太陽)と同源であるらしい。
 要するに一覧表の名の頭にある「ヒ」は、すべて太陽から来た音で、畏敬すべき物や身分の高い人物につけられたのである。
 これは、日神祭祀が重要だった古代の人々にとっては、とうぜんの表記だったであろう。

 上のリストから直感できることだが、「姫命(ひめみこと)」が〈卑彌呼(ひみこ)〉である可能性が高いし、さらには「姫御子(ひめみこ)」という説もあるので、「姫」と「命」と「御子」の語源について、もう少し補っておく。
(これまで述べてきたことと重複するが、重要なので記しておく)


『卑弥呼と日本書紀111』

◆◆◆ 「姫」とは? ◆◆◆

「姫」は「媛」とも書くが、本居宣長によれば、「姫」は皇族の女性、「媛」はそれ以外の出身の女性に付けられている。
 これは「日女」とも書くが、この「日女(ひめ)」がもっとも元の大和言葉の意味に忠実な漢字らしい。
 ところで、
「ひめ」=「ひ」+「め」
 ――のように分けられる。

 そのうちの「ひ」は太陽の意味で、「日」である。
 また太陽のもつ優れた力から、「活力の源泉となる超自然的な力」をも意味するようになり、それには「霊(ひ)」の漢字が当てはめられた。

 昼の「ひ」
 東の「ひ」
 人の「ひ」
 左の「ひ」

 ・・・なども同源とされている。
 古代では右より左が神聖だったらしく、〈天照大神〉は、左目を洗ったとき、または左手に神鏡を持ったときに生まれたし、注連縄は左撚りである。
 なおこの「ひ」は甲類で、「火」は乙類だが、同源という意見もある。
(甲類乙類については後述)

 つぎに「め」だが、これは「女」とか「妻」とかいった意味を持つとされる。
 愛でるの「め」と同じという話もある。


**********

(付録)

▲「男女の違い」と「年齢の上下」

 連載で「姫」や「彦」を調べたついでに・・・

 現在の日本語は、男女と年齢の組み合わせに、
「あに・あね・おとうと・いもうと」
 があり、それに漢字の
「兄姉弟妹」
 が当てはめられています。

 しかし上代ではそうではありませんでした。

 まず男女によらず年齢の上下によって
「え・おと」
 ――が使われ、
 ついで年齢によらず男女に対して
「せ・いも」
 ――が使われるようになりました。
(これは『記紀』を読むと気づきます)

 これはこれでバランスがとれていますが、そこに
「あね」=「女でかつ年上」
 という新しい言葉が出現したので、このバランスが崩れたのです。
 平安以後になると「あに」が出来てバランスが回復しますが、どうやら上代では「あね」は有っても「あに」は無かったらしい。
(兄という漢字を「あに」と読むのは後の読み方で本来は性別無しの「え」らしい)

 それがどうやって現在の表現になってきたか――の究明は、謎解きの面白さ!

(以上は犬飼隆『上代文字言語の研究――増補版――』笠間書院(200512)を素人なりに解釈)

(現在でも兄弟姉妹の日本語表現は不完全だと思います。それは「実の」「義理の」という言葉が頭についた時の定義が不明確だから・・・と思います。上代の言葉では「いろ」と「まま」でしょうか? 今の日本語では「実兄」「実弟」といった表現の意味が辞書によってまちまちなのです)

追加
「あね」と同時に「あに」も出来たという説もあるようですが、下記の本の著者の犬飼先生は、「あに」という読みはどうしても見つからない――と書いておられます。


『卑弥呼と日本書紀112』

 後の時代になると、「め」だけを単独で取り出して、軽い意味でも使っている(たとえば「奴め」と怒るとき)が、古代(*)における「ひ」+「め」は、「日女」すなわち「太陽の妻」といった、太陽祭祀の意味があり、神に認められた高貴な女性であったり、神に仕える巫女であったりする。
 古代における皇族の女性は、多くの場合、神に仕える巫女でもあった。
 要するに「ひめ」とは、高貴な女性に付けられる霊的な意味をもつ尊称である。
 またとくに「日女」と表記するのは、「太陽祭祀/太陽の妻」を強く意識したときらしい(この事はのちに〈卑彌呼〉の正体を探る上で重要になる)。
〈天照大神〉の尊称は〈大日霊女貴〉だが、単に〈日女命(ひめのみこと/ひめみこと)〉と書くこともある。

 すなわち、

「姫(ひめ)」=「日女(ひめ)」=「日(ひ)」+「女(め)」

 で、神聖な言葉である。

*****

 これに対して、男性の尊称である「彦」は、

「彦(ひこ)」=「日子(ひこ)」=「日(ひ)」+「子(こ)」

 で、やはり太陽を語源とする、貴い男性という意味である。
 XX彦はいまでは大衆的な名前だが、古代においては太陽の息子という尊称であり、前述のように、『魏志倭人伝』にある官名の「卑狗」は「彦」だとされている。
 長い名前の末尾だけを採ったのかもしれないし、日本人が役人のトップを「ひこ」という尊称だけで呼んでいたのかもしれない。

 ちなみに、

 息子(むすこ)は「産(む)す日子(ひこ)」または「産(む)す子(こ)」
 娘(むすめ)は「産(む)す日女(ひめ)」または「産(む)す女(め)」

 ――である。

(*注 「古代」の用法は戦前と戦後とでずいぶん違っているようですが、ここでは、古い用法で飛鳥時代より前の大和朝廷の時代を言っています。この用法では、古代の前は神代です。ただし厳密な使い方ではありません)


『卑弥呼と日本書紀113』

◆◆◆ 「命(みこと)」とは? ◆◆◆

 つぎに「命」に移る。
 一般に「命」の訓は「みこと」で、これは「御言」だとされている。
 つまり、

「命(みこと)」=「御言(みこと)」=「御(み)」+「言(こと)」

 ――である。

 天皇陛下のお言葉である「みことのり」の「みこと」はこの「御言」で、「御言宣り」である。

 また、「言」と「事」は通じており、名前の最後につく「みこと」は、「御事」だとされている。
 すなわち、

「命(みこと)」=「御事(みこと)」=「御(み)」+「事(こと)」

 ――である。
 当然ながら、貴人の尊称で、男女ともにつく。

「尊(みこと)」と書くときは、神代における特別重要な身分が多い。
 姫と媛に似ていて、意識して使い分けされているが、こちらの命と尊の方が明確らしい。
(このことも、姫/媛と同じく本居宣長が有名な『古事記伝』で指摘している)

 前記したように『魏志倭人伝』に出てくる卑弥弓呼は、卑弓弥呼の写し間違いで、「彦命」または「彦御子」だろうとされている。

 以上の「姫」と「命」とをまとめると、古代における、

「姫命」=「ひめみこと/ひめのみこと」

 ――という言葉は、

「神につかえる霊的で高貴な女性――大和朝廷の皇女で太陽祭祀を担当したり巫女/神子であったりすることが多い――を意味する最大限の、そして重大な尊称」

 であった。

 つまり、現在の我々とはまったく感じ方が違っていたと考えられる。
『記紀』ができた奈良時代でも、〈卑弥呼〉の時代とは、かなり違ってきていたのではないかと想像している。


『卑弥呼と日本書紀114』

◆◆◆ 「御子(みこ)」とは? ◆◆◆

〈卑彌呼〉の候補リストの中に出てくる、巫女・御子・神子・皇女・靈女など「ミコ」と読む漢字は、現在の感覚では書かれた文字によって意味が違ってくるが、祭政一致の古代にあっては、ほとんど同じ意味だったとされる。
 神につかえる貴人の子――主に姫――または女性である。
 そして漢字が使われるようになってから、皇女(みこ)が尊敬されて御子(みこ)と書かれ、神につかえる役目を与えられて巫女(みこ)や神子(みこ)と書かれ、別格の女性が「靈女(みこ)」と書かれるようになったのである。


◆◆◆ 無数にいる〈卑彌呼〉の候補 ◆◆◆

 このように見てくると、〈卑彌呼〉を連想させる『記紀』のなかの多くの名前は、最初から最後まで「尊称」であることがわかる。

 さて、前掲の表の名は、それ自体ですでに〈卑彌呼〉と同じと思える読みのものが多くあり、それ以外も、わずかに変形しただけでみな〈卑彌呼〉になる。
 だから、高貴な女性と分かる名前で「ヒミコ」または「ヒメコ」と読めそうなものを探してみようと『日本書紀』を繰ると、ほとんど数頁に一人は出てきてしまうのだ。
 まさしく〈卑彌呼〉のオンパレードなのだ。

 高貴な女性のほとんどは「・・・姫命」あるいは「・・・姫尊」などとされているが、この最後の二文字の読みは、「ヒメノミコト」または「ヒメミコト」だから、要するに貴い女性名の末尾はみな〈卑彌呼〉になってしまうのである!
 姫(ひめ)のかわりに媛(ひめ)や日女(ひめ)を使っていても同じである。

 そして、先の皇后陛下や会社社長のたとえで述べたように、その時日本のどこかに「xxx姫」という名の偉大な女性がいたとしたら、人々は、最後の姫に尊敬の尊や神子をつけてたんに姫尊(ひめみこと)あるいは姫神子(ひめみこ)と呼んでいたであろう。
 つまり「・・・ヒメミコト」「・・・ヒメミコ」といった尊称つきの固有名詞を、「・・・」を略して「ヒメミコト」「ヒメミコ」という普通名詞で呼んでいた可能性が高いのだ。

****

 以上のようなわけで、「ヒミコ」や「ヒメコ」といった読みの名前のみで〈卑彌呼〉を日本の古典から探して特定しようというのは、まったく不可能である。
 いすぎるほどいるのだ。
 そして同時に、

「〈卑彌呼〉は「・・・姫命」または「・・・姫神子」の音写ではないか」

 ――との推理もまた、かなりの確実性をもっていえるのである。


『卑弥呼と日本書紀115』

■■■■■ 五・二 《倭》と《大和》の語源 甲類・乙類の違い ■■■■■


 この節では、古代にいわれていたらしい「ワ」という日本の呼称や《大和》の語源について、ざっと調べてみることにしよう。
 そして同時に、《邪馬台国》と《大和》の類似性についても、検討してみよう。


◆◆◆ 「倭」と「和」の問題 ◆◆◆

『魏志倭人伝』は正式には『三国志』のなかの東夷伝のなかの倭人の条というのだが、いずれにせよ倭人という言葉がでてくるし、さらに倭や倭国という言葉がでてくる。
 つまり当時のシナでは、現在の日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、そこに住んでいる日本人のことを倭人と呼んでいたのだ。
 なぜそう呼んでいたのだろうか?
 これについては、いくつかの説があるが、大きく分けて、

[ア] 漢や魏の役人が勝手に作ったという説。
[イ] 日本人が質問されてそう答えたという説。

 ――の二つになる。

 前者の[ア]は、「倭」という漢字の意味が低いとか曲がっているとか遠いとかいうものなので、遠路はるばる日本を訪れた使者が日本人の醜い姿を見て、そう名づけたのだろう――というものである。
 しかしそれはあまり説得力がない。
 日本人がシナ人や朝鮮人に比べて醜いなどあり得ない事だが、文献学的に言っても説得力がない。
 なぜなら、『魏志倭人伝』のなかの多くの国名は、みな日本での呼び方を漢字に当てはめて、日本人の発音に似た呼称で呼んでいるからである。
 ただそのとき当てはめる漢字に、蔑称的なものが多いということなのだ。

 一方後者の[イ]は、質問された日本人が「ワ」と答えたので、それに差別的な「倭」という漢字をあてはめたのだろう――というものである。
 これは前者よりずっと得心がゆく。
 この後者の説にもいろいろあるわけだが、著者が読んだ説を二つほど挙げておく。


『卑弥呼と日本書紀116』

 そのひとつは、

「日本人が昔のシナ人と話をはじめた時代に、日本人は自分たちのことを《われわれ》または《われ》または簡単に《わ》といい、自分たちの国のことを、《われわれのくに》または《われのくに》または《わのくに》などといったので、シナ人は日本を「ワ」と呼ぶようになり、それを漢字で書きあらわすときに、差別意識によって低い姿勢とか従うとかいう意味を持つ「倭」を当てはめ、日本のことを《倭国》、日本人のことを「倭人」と記すようになった」

 ――という説である。

 南北朝時代の南朝の忠臣・北畠親房の『神皇正統記』にも似た意見が紹介されているが、これはおそらく『釈日本紀』が出典で、とても古くからの説である。

『日本書紀』の研究は奈良時代から平安時代にかけて、かなり行われたが、鎌倉中期か末期に、大学者の卜部兼方が、過去の研究を集大成して『釈日本紀』を著した。
 この『釈日本紀』に、「倭」や金印を贈られたことで知られる「倭奴国」についての解釈が記されている。

 簡単に言えば――

 シナに派遣された日本人が、「お前の国は何というのか」と質問されて、(東の方を指して)「我の国は・・・」とか「我々の国は・・・」といった返事をしたので、その冒頭の「わ」という発音を「倭」であらわして、日本の名としたのであろう。

 ――というものである。

 古代の我は「われ」だけでなく「わ」ともいった。
(印象的な発音を選んで一字で表現するのは、古代シナの役人がよくやることだが、日本人の発音にも「わ」があった。それは現在でも使われている。たとえば「我が国」とか「我が家」という時の「我」は「わ」と発音している)

 南朝の忠臣北畠親房は、当時の最高の学者で、天皇に歴史をご進講するために『神皇正統記』を著した。一三三九年成立とされている。
 この中で親房は、以下のように述べている。

「昔此の国の人、初めて彼の土に至れりしに、汝が国の名をばいかゞ云ふと問ひければ、我が国はと云ふを聞きて、即ち倭と名付けたりと見ゆ。」

 これは『釈日本紀』の意見とほとんど同じで、おそらくそのまま引用したのであろう。

 ちなみに後漢から金印を贈られたとされる倭奴国や伊都国の次ぎの奴国の奴とは、召使いとか虜とかいう意味で、これまた倭に負けずに下品な漢字である。


『卑弥呼と日本書紀117』

[イ]にはもうひとつ、円形を意味する「ワ」から来たのだろうという説がある。
 それは、

「日本の集落や都市は昔から環濠と呼ばれる堀を周囲に円周的にめぐらした中にあった。だからシナ人からお前の国は何と呼ぶのか、と聞かれたとき、円形や環形を意味する日本語の「ワ」を使って「わのなかにある」あるいは「わのなかのくに」または「わのなか」といった答をしただろう。そこでシナ人は日本のことを「ワ」と呼ぶようになり、それを差別的な「倭」という漢字で表した」

 ――というものである。

 おそらくこの後者の[イ]の二つ、またはそれに近いことがあって、かなり昔――たぶん西暦前――の前漢の時代からシナでは日本のことを《倭国》と呼んでいたのだろう。
 そしてそれを知った古代の日本の知識層が、
「なるほど自分たちの国はシナ人によって倭と呼ばれているのか、それなら我々もこの文字を使って「倭」と記すようにしよう」
 ――と考えたのであろう。

 ところで、古い文書を読むと、日本人は自分の国のことを「倭」とも記しているが、それが次第に「大和」に変化してきている。
 なぜなのだろうか?

 それは、日本人が次第に漢字の意味を勉強するようになり、「倭」は差別的な意味を持っていることがわかってきたからだろう――といわれている。
 古代の日本人はいろいろ考えた末、シナでの発音が似ていて、かつとても穏やかで良い意味を持つ「和」を採用して「倭」のかわりに使おうではないか――ということになったのであろう。

「和」はやわらぐ、なごむ、友好的、楽しむ・・・といった日本人好みの意味を持つ漢字である。
 この「和」を「ワ」と読むのはシナの音であるが、日本古来の発音である「ワ」は、円、環、輪、回・・・といった意味を持ち、落ち着きのある良い語感の言葉である。

 だから、「和」という漢字は、当時の日本人にとって、元々の漢字の意味も、読みから来る日本語としての語感も、ともにとても感じの良いものだったのだ。
 この「和」の前に「大」をつけて「大和」という単語をつくったのは、大和朝廷やその都がとても強く大きくて立派だ――という自負心からだろうが、ひょっとすると『魏志倭人伝』に記されていてる「大倭」にヒントを得たのかもしれない。


『卑弥呼と日本書紀118』

◆◆◆ なぜ「ヤマト」と読むのか? ◆◆◆

 ここまではなるほど――と思われるのだが、つぎに疑問がうかぶのは、「ヤマト」という読みである。
『記紀』を読むと、「大和」だけではなく「倭」も「ヤマト」と読むことが多かったらしいとわかる。
 のちには「日本」も「ヤマト」と読んでいる。
 そしてその「ヤマト」という読みは、《邪馬台》の読みとじつによく似ている。
《邪馬台》を「ヤマタイ」と読んでも「ヤマド」と読んでも「ヤマト」によく似ているし、ズバリ「ヤマト」と読むのだと唱える学者も多い。

 だから、「ヤマト」なる読みの詮索は、日本国の語源論だけではなく《邪馬台国》探しの面でもきわめて重要になってくる。
「大和」を単純に音で読めば「タイ・ワ」だし、訓で読めば「オオ(オホ)・ヤワラグ」などであり、どう工夫しても「ヤマト」なる読みは出てこない。
 したがって「大和」と書いて「ヤマト」と読ませるのは、完全な当て字(当て読み)である。
 では、どこからその当て読みが出てきたのだろうか?

 もっともなっとくしやすい意見は、日本列島の盟主になった大和朝廷の先祖が住みついていた土地の名前が、漢字を知らなかったころからの純日本語で「ヤマト」と呼ばれていたからだろう――というものである。
 またそれを自分たち一族の名前にもしていたのであろう――というものである。
 そこで、大和朝廷の先祖がいた土地に、「ヤマト」なる地名が残っているかどうかを調べる段取りになるが、それには、その土地がどこだったかを求めなければならない。

《邪馬台国》に「九州説」と「大和説」があるように、大和朝廷の先祖の土地についても、最初から現在の奈良県の《大和》だったという説と、『記紀』に記されているように九州だったという説がある。
 奈良県の場合には《大和》そのものなので、問題はその地名の意味やいつごろからそう呼ばれていたか――ということだけであるが、九州については「ヤマト」なる地名をもつ場所を探さなければならない。
 それは、『記紀』にある高千穂の峰の近くや日向の地には見つからないが、中北部には現存している。
 福岡県の山門(やまと)郡(ここに大和という町もある)とその近くの熊本県の山門(やまと)である。
 第六章でも説明するが、図6・2に位置を示してある。

↓↓↓↓↓↓↓↓

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H62-71.htm


『卑弥呼と日本書紀119』

 神武東征説では、この地点が大和朝廷の先祖に関係するとする考え方があるし、「《邪馬台国》九州説」では、この二箇所のどちらかが《邪馬台国》だったとする意見が昔からある。
 江戸時代の新井白石も福岡県の山門説を唱えていた。
 地名は変化するので、九州の一部に「山門」なる地名が現存しているということは、昔は他の地域にも同様な地名があった確率が高いということであり、高千穂のあたりや現在の日向のあたりにも「山門」があった可能性がある。
 また奈良県の《大和》も、本来は「山門」または「山処」といった漢字を当てはめるべき意味の「ヤマト」という地名だったのだろう――という説が多くの学者によって唱えられている。

 というわけで、「大和(やまと)」とは本来の漢字の意味からすれば「山門(やまと)」と書くべき言葉で、山の門つまり山への入口といった意味を持っており、これが、畏敬すべき山地の近くに住んでいた大和朝廷の先祖がその土地につけた名であり同時に氏族名でもあり、それをあらわす漢字として「倭」を改善した「大和」を採用することにしたので、「大和」と書いて「ヤマト」と読む一見奇妙な読みができたのであろう――ということになる。
 これはなっとくしやすい推量であり、肯定する学者も多いらしい。

 ただしちょっと問題もある。
 それは、万葉仮名の研究などによって、古代の日本語には同じ「ト」にも二種類あることがわかっており、その違いを検討すると、「大和」の「ト」と「山門」の「ト」は発音が異なっているので、語源が「山門」という説は成立しない――との意見があることである。

 この発音の問題を《邪馬台》にあてはめると、それは「大和」には似ているが「山門」とは違うとされ、「《邪馬台国》九州説」への反論にもなっている。
 古代の音韻の問題については、第二章で「神」と「上」は同源であろうと記したときに、古代の発音が違うので別源だという説もあることを記した。
 こういった古代の発音の複雑さに起因する議論は、《邪馬台国》論争においてよく出てくるので、認識しておく必要がある。


『卑弥呼と日本書紀120』

◆◆◆ 甲類・乙類の諸問題 ◆◆◆

 甲類乙類の研究のおおもとは著名な橋本進吉博士(たとえば『國語音韻の研究(橋本進吉博士著作集第四冊)』)であるが、気軽に読めるものではない。
 そこで、名著として知られる渡部昇一『国語のイデオロギー』をもとにして、「神」と「上」を事例にとって説明してみよう。
 古代における「神」と「上」の発音の違いは、甲類・乙類という言葉で表されている。
 奈良時代までの母音は、現代のアイウエオの五音ではなく八音であり、いまのイエオに似ているが少しちがう〈イ〉〈エ〉〈オ〉が加わっていた。
 これは『記紀』や『万葉集』などの表示から推察されるもので、これを乙類とし、現代のイエオに準ずる発音を甲類とするのである。

〈イ〉〈エ〉〈オ〉は、アルファベット的には、ドイツ語などにでてくるウムラウト(変母音)に類似したもののようである。
 この変母音に子音がつくため、
 キギヒビミ ケゲヘベメ コゴソゾト ドノヨロモ
 ――という二十(『古事記』では二十一という話もある)の音節が、甲類・乙類にわけられている。
 これを現在の50音図に配置してみると、「い・え・お/ゐ・ゑ・を」列にのみ甲乙があることがわかる。「あ・う」の列には無い。現在「い・え・お」と発音している母音には異音が多くあり、それが時代とともに一つに収斂したのであろう。イロハ歌のエは一種類だが二種類のエを持つイロハ歌もあるらしい。なお現在でも「い・え・お」と「ゐ・ゑ・を」を言い分けたり聞き分けたり出来る人がいるらしい。

 問題の「神」は調べてみると乙類であり、また「上」は甲類であることがわかる。
 この二つの単語では「ミ」の音が微妙に違い、「神」のミは微・未・尾と書かれているし、「上」のミは美と書かれている。
 そこで、この二つの言葉は別源であって無関係だとの意見がでてくるのだ。

 しかし、言葉が指し示す対象を次第に変化させてゆく過程でその発音も変わってゆくのは、ヨーロッパの言語でもいろいろと例があるとされる。
 また古代の日本語でも、「日」(甲類)と「火」(乙類)が同源である根拠が古代文献にあるとされている。
 したがって「神」と「上」は、発音は違っていても、同源である可能性がある。
「神」と「上」については、現在でもいろいろな研究がなされているが、最新の学説でも同源とされているらしい。


『卑弥呼と日本書紀121』

 つぎに、この甲類・乙類の区別を、「山門」と「大和」にあてはめてみると、

「山門」の「ト」は甲類
「大和」の「ト」は乙類

 ――となるので、この二つの地名(氏族名)は古代の発音が異なっていたことがわかる。
 そしてこれが、「大和」の語源は「山門」ではないし、また九州の「山門」は大和朝廷の出発点ではない――との説に結びつくのである。
 しかし、音韻がしだいに変化する例はたくさんあるので、これは一つの意見にすぎず、「大和」と「山門」は同源であるとする著名な学者も多い。
 もうひとつ、「山門」に近い言葉に「山処」がある。文字どおり山のある処という意味だが、こちらのほうは「大和」と同じ乙類であり、したがって「山処」が「大和」の語源だという説もある。

(前記の『神皇正統記』で北畠親房は「山迹」説をとり、異説として「山止」説を紹介している。前者は山を歩いた足跡、後者は山への居住という意味だが、これに賛成する学者は少ないようなので、ここでは参考にとどめる)

 さて次に、この甲類・乙類の区別を、《邪馬台国》がどこにあったかの問題にむすびつけてみよう。
《邪馬台国》の台を検討すると、

「邪馬台」の「ト」は乙類

 で、「大和」の発音に近いらしい。
 したがって、甲類乙類を峻別する意見では、
「《邪馬台国》大和説」
 ――となるし、また音韻変化を認める意見では、「山門」なる地名が九州にあるので、
「《邪馬台国》九州説」
 ――を否定すべきではない、となる。

 これは難しい問題である。
 邪馬台の台の読み「ト」を研究した浜田敦は「魏志倭人伝などに所見の国語語彙に関する二三の問題(昭和二十七年)」において、これは乙類であり「大和」の事と主張している。
 だが田中卓博士は、「邪馬台国の所在と上代特殊仮名遣(昭和三十年)」において、シナ人が甲類乙類を正確に聞き分けたかどうかは疑問であることや、「ト」の音は『記紀』編纂の時代までに相当乱れていたらしいと述べて、峻別する意見に異議を唱えておられる(ちなみに田中卓博士はウル邪馬台国九州説である)。
 おそらく、《邪馬台国》の所在を音韻によって推理する事には限界があり、やはり考古学や他の文献の援用が不可欠であろう。

 ちなみに、『古事記』に記された仮名書きの「ヤマト」は「夜麻登」で統一されているが、『日本書紀』のそれは十通りもあり、そのなかには、「耶馬騰」という、「邪馬台」にとても似た音写文字もある。
『万葉集』においては、万葉仮名の「夜麻登」などを除くと「山跡」という表現が多いようである。


『卑弥呼と日本書紀122』

 七世紀前半の『隋書倭国伝』には、
「邪摩堆に都する、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬臺」
 ――とあるので、「邪馬台」は昔のシナでは「ヤマト」にとても近い発音だったとの印象をうける。
(五世紀半ばの『後漢書倭伝』の《邪馬台国》の註釈(たぶん唐の時代の註)にも、「今考えるに、邪摩堆の音がなまったのだろう」――とある)

*****

 以上を総括してみよう。
 甲類・乙類という古代の発音の違いは別問題として、「ヤマト」の語源としては「山のあるところ」あるいは「山への入口である門や戸」という意味からきたという説が有力で、漢字で書けば「山門」あるいは「山処」などが語源であろう――という説が一般的である。
 だから「ヤマト」は最初は山に近い場所、つまり神聖な山の麓の呼称であって、日本全体の名ではなかった。
 日本のあちこちに「ヤマト」という地名があり、また氏族名があり、そういう氏族の代表が大和朝廷の先祖であった。
 そして、奈良県の《大和》に本拠をおく大和朝廷が日本の各地を支配下に置くようになったために、シナ式表記の「倭」のかわりに美しく「大和」と書いて「ヤマト」と<当て読み>する単語が、日本列島全体の代名詞になっていったのである。

「和」は「倭」の代わりなので、「和」のみで「ヤマト」と読むのが本来である。
 したがって、大和を「オオヤマト」と読むことも多い。
 戦艦大和に祀られていたことで知られる奈良の《大和神社》がその例である。

《邪馬台国》との関係については、「邪馬台」も「大和」も乙類で古代の発音は同じと想像されるので、《邪馬台国》が大和朝廷かその先祖の地《大和》であった可能性はきわめて高い。
 しかし、それだけで奈良県の《大和》が《邪馬台国》であると決めつけることはできない。
 九州の《山門》の音韻が変化して《邪馬台国》になった可能性も否定できないからだし、シナ史書『魏志倭人伝』の正確さにも大きな疑問があるからである。

*****

 もともと、録音が残されていない時代の音韻の研究は至難である。
 無数の文献が残っている江戸時代の話し言葉でさえ、その復元は困難だと言われている。
(前にテレビで試行していたが、何を話しているのかまったく聞き取れなかった)
 まして、文献すら無い時代の音韻研究には大きな壁があり、深入りは避けるべきであろう。


『卑弥呼と日本書紀123』

■■■■■ 五・三 《大和》の地理の概略 ■■■■■


 前節で「ヤマト」についての語源論や《大和》と《邪馬台国》の発音の類似性について調べたので、つぎに、奈良県の《大和》の地理や地勢を頭に入れてみることにしよう。


◆◆◆ 大阪湾から奈良盆地へ ◆◆◆

 図5・1に、《大和》地方および、大阪湾から《大和》までの概略の地図を示した。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm
(この頁の一番下)

 図の右側が奈良盆地または大和盆地であるが、この盆地のどのあたりに都(または宮殿)のおかれたかを、古い方からたどると、

〔一〕初代神武天皇ゆかりの橿原(大和三山あたり)。

〔二〕第十代崇神天皇の磯城宮(桜井市金屋)から第十一代垂仁天皇をへて第十二代景行天皇あたりまでの都《纒向京》がおかれた《三輪山》の北西山麓(狭い意味での《大和》)。
〔《纒向京》は仮の名で、一般には纒向遺跡といわれている。大和朝廷最古の都があった痕跡がつぎつぎに発見されている〕

〔三〕第十九代允恭天皇あたりから第四十代天武天皇のころまでの何回かの《飛鳥京》(飛鳥古京)。

〔四〕第四十一代持統天皇から第四十三代元明天皇までの《藤原京》。

〔五〕元明天皇から第五十代桓武天皇までの《平城京》(奈良の都)。

 ――となる。

 さらに土地勘を養うために、図の全体を見ていただきたい。
 キイワードは大和川である。

《纒向京》、《飛鳥京》、《藤原京》、《平城京》などは、いずれも、東から東南部にかけてひろがる山地から流れ出る河川が大和川に合流するまでの、山の麓近くの平地にある。

 とくに纒向・飛鳥・藤原などの都があった盆地の中央から南にかけては、古代においては湖または水郷のような場所であり、大和朝廷ができたころも、現在よりはるかに幅のひろい――数百メートルもあったらしい――河川が多くあり、その間の微高地に集落や都市がつくられる、といった地形だったらしい。


『卑弥呼と日本書紀125』

 隆起による湖や水郷や河川の消失は大阪湾近辺でもおなじであり、河内湖も姿を消してゆくが、もと水郷的な地形の名残はいまでもあり、土木工事の不十分な戦後まもなくは、大雨が降った日の大阪市内は水がでて歩けないほどであった。
 奈良盆地全体にも、古墳時代まで水郷だった名残があり、年間の湿度変化がすくなく、したがって正倉院の御物の保存などに適していると、考古学者の樋口清之が指摘している。

《大和》のある奈良盆地とは、以上のように、水利に恵まれていて、船で瀬戸内海からすぐに到達できる交通至便の場所であった。
 また仮に徒歩でいったとしても、大阪湾から《三輪山》の麓まで直線距離でマラソン距離以下なので、一日でじゅうぶんに着いた。
 うねった道を通ったとしても、昔の人の健脚なら一日の行程である。

 もうひとつ付記すると、《三輪山》の南麓を縫って東に向かうと、道はけわしくとも、何日か歩けば伊勢につき、そこから徒歩や馬で尾張や美濃(愛知や岐阜)まで行けるし、また船で湾を横切って対岸に上陸して東海地方に進むこともできた。

 このように見てくると、「《邪馬台国》大和説」の《大和》とは、山々に囲まれた豊かな土地として《山門》や《山処》でもあるが、またどうじに、船でも徒歩でも海にすぐに出ることができ、努力すれば伊勢方面へのルートも確保できる、とても発展性のある地勢だった事がわかる。
 しかも、この盆地への入口で通りやすいのは、金剛山地と生駒山地の間だけだから、外敵からの防備もしやすい場所であった。

 さらに産物も豊富だった。
 古代の重要品だった鉄や玉や朱の素材も産出していたし、農業にも林業にも適していた。
 大和朝廷はじめ豪族たちが覇権をかけてこの奈良盆地――《大和》――で争ったのも、肯けることである。

 加えて、この《大和》が『魏志倭人伝』の時代から開けた土地であったことを示す重要な発掘について記しておく。
 その一つは、朝鮮半島製と思われる陶片が大量に発掘されていることである。
 またもう一つは、福井県あたりの日本海沿岸から《大和》まで、危機を知らせる狼煙通信の施設が、すでに弥生時代にできていたらしい――という発掘報告があることである。
 これらも、《大和》が〈卑彌呼〉以前から海外と交流していたことの傍証になるであろう。


『卑弥呼と日本書紀126』

◆◆◆ 奈良盆地南部の詳細地理 ◆◆◆

 つぎの図5・2は、図5・1の右下部分――つまり奈良盆地の南部を拡大して精密に描いたものである。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

 以下の各章では、この図を元にして、いくつかの説明図を作成しているので、ざっと眺めておいていただきたい。
 土地勘を得るために、JR線を描いてあるが、このほかに私鉄がたくさんあるし、道路も数多くあることは当然である。
 河川も代表的なものしか描いていない。
 このあとの多くの章で話題になるのは、初瀬川の両岸および寺川と初瀬川の間の土地で、〈卑彌呼〉の時代の遺跡が無数にあり、それが初期大和朝廷の都や墳墓の跡だろうとされている。
(初瀬川は大和川の支流であるが、山に近いところまで大和川とも呼ばれている)

 図の中央上部に、破線の円で描いた「唐古・鍵遺跡」があるが、これは弥生時代における日本でも最大規模の集落跡であり、大和朝廷の成立との深い関連が指摘されている。
 また《三輪山》の北西山麓の《纒向京》は、第十代から第十二代にかけての天皇の都が造られたと考えられる遺跡で、時代的には『魏志倭人伝』とほとんど一致しているので、このあと再三にわたり、くわしく言及することになるであろう。

 そのつぎの図5・3は、『日本書紀』などにしばしば出てくる、《大和》周辺の古い地名である。図5・2のさらに中心地帯に書き込んである。


『卑弥呼と日本書紀127』

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

 この図5・3参照

 いちばん下の円は、神話の最後の部分にある、初代の神武天皇が即位されたという、畝傍山の麓の橿原である。
 このあたりは、発掘によって樫の木(橿)があったことが分かっており、したがって橿原の名に違わず、また河川――というよりも水郷――に突き出た小半島状の土地で、船着き場などがあったらしく、初代の宮殿にふさわしい場所だったといえる。

 その右上の楕円が、磐余である。この一帯は、初期の大和朝廷の勢力圏内だったらしく、神武天皇の国風謚号は神日本磐余彦天皇である。
 またのちに何人かの天皇が宮殿をつくったとされる場所でもある。

 そのすぐ上の楕円の磯城は、神武天皇に最後まで逆らったとされる八十梟帥の拠点で、梟帥が滅んだのちは大和朝廷の勢力圏内となり、のちに第十代崇神天皇はじめしばしば宮殿がつくられた場所である。
 おそらく防備によく住みやすかったのであろう。

 またその上の纒向は、第十代崇神天皇の宮殿のすぐそばであり、かつ第十一代垂仁天皇や第十二代景行天皇の宮殿が置かれた場所で、数多くの遺跡が発見されているので纒向遺跡と呼ばれている。纏向とはこの地の古い村名で、『日本書紀』に出てくるし、現在でも名が残っている。

 東西約二・五キロ、南北一・五キロという広大な面積にわたって、多くの遺構があり、祭祀跡や運河の痕跡もあり、大和川にそそぐ巻向(纒向)川、初瀬川などを利用して大阪湾と連結した開放的な古代の大都市だったと考えられている。

 考古学の成果と『記紀』の記述とを総合して、すくなくとも崇神天皇の時代から垂仁を経て景行天皇の時代まで、三代にわたる大和朝廷の中心的な都だったことはまちがいない――と考えられている。
 本書では前記のようにここを仮に《纒向京》と称しているが、いずれは正式にそのように名づけられるのではないかと、予測している。


『卑弥呼と日本書紀128』

↓↓↓↓↓↓↓↓
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 この図5・3参照

◆◆◆ 水郷を囲む豊かな土地 ◆◆◆

 その左に大和湖?――とした大きな半円が描いてある。
 前述のごとく古く縄文時代には、この大和一帯が大きな湖であり、土地の隆起によって次第に水が減って平地になったものの、大和朝廷の時代になっても、まだその跡が残っていた――という説があるので、描いておいたものである。
 たしかに、縄文〜古墳時代の遺跡は、この想定される湖の周囲に連なる形で発見されており、湖の中心部にはほとんど無い。
 明確な形での湖ではなかったとしても、このあたりが水郷であったことは確かと思われる。

 この図の左下の外側で金剛山地の右側あたりの広大な地帯が葛城で、そこは有名な豪族の葛城氏が支配していたといわれている。
 大和朝廷がこの豪族を帰順させるために、婚姻政策などあれこれ苦労したあとが、『記紀』に多くみられる。

 磯城のなかの海石榴市というのは、現在の桜井市金屋のあたりで、聖徳太子の時代に船で初瀬川まできた隋の使者裴世清をここで迎えたという話がのこされている場所である。
 初瀬川を船で上ってきてここで下船したのであろう。
 瀬戸内からの船便が大阪湾を通って大和まで通じていた何よりの証拠である。

 またここは、歌垣という、歌を男女でやりとりして睦み合う遊びがなされたことでも知られる場所である。
 歌垣については、場所は不定だろうが、初瀬川岸に宮殿のあった第二十五代武烈天皇と恋敵の鮪との真剣勝負の掛け合いなどが有名である。

 纒向のなかの大市は、もじどおり大きな市場があった古代の繁華街ではないかと想定されている場所で、「《邪馬台国》大和説」で〈卑彌呼〉の有力候補の一人とされる〈倭迹迹日百襲姫命〉の墳墓《箸墓》(はしはかまたははしのみはか)がある場所である。

《箸墓》は巨大な前方後円墳の最初とされる著名な古墳で、あとの章で詳述する。


『卑弥呼と日本書紀129』

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 この図5・3参照

《箸墓》はまたの名を大市墓ともいわれ、またこの付近から「?市」と墨で書かれた土器が発見されている。
 宮内庁の正式表示も現在《大市墓》とされている。
 これはまた、国々には市があったという『魏志倭人伝』の記述とも暗合している。

 右上に「山の辺の道」と書かれている道は、いまは大和めぐりの観光の道になっているが、日本最古の国道ともされており、《三輪山》の山麓から笠置山地の麓を縫って天理市の《石上神宮》を通過して北へ続いている。
 このほか平野の中心部には、直線的な古代の道が何本も作られたらしい。

 地図の説明が長くなってしまったが、このように《大和》はその土地自体が豊かで資源も豊富で暮らしやすいばかりではなく、想像以上に交通も便利で、かつ防備にも適した場所であった。
 そして、畏敬すべき山々の近くであるので「ヤマト」と呼ばれていた。
「ヤマト」という呼称が最初から《大和》の地にあったのか、それとも九州などから持ち込まれたのか、あるいはその両方なのかは分からないにしても、『記紀』ができる前からそう呼ばれていたことは間違いない。

 そしてここに、縄文時代から生活していたり、弥生に入って外部から進入したりして拠点をかまえた多くの豪族がいた。
 それら豪族のなかでもとくに強力だった大和一族が弥生後期に急速に成長して、大和朝廷を建設し、西の九州から東国までを従えるようになった。

 そこで自然のうちに、日本そのものをあらわす「倭」や「大和」と、ヤマト地方の「ヤマト」とが一体のものになっていった――というわけである。

*****

 なお、図5・3の《大和湖?》は半円になっているが、半円形の湖があったという意味ではない。
 このあたりが水郷だったらしい、という意味である。


『卑弥呼と日本書紀130』

■■■■■ 五・四 《日本》という国号および「天皇」という尊称の由来 ■■■■■


◆◆◆ 《日本》という国名の発祥と歴史的意義 ◆◆◆

 さて、これまでに述べた《大和》が次の段階で《日本》となったのだが、それは、良い意味を持つ《大和》といえども、その元は差別的な《倭》であり、いくらいいかえてもシナから輸入された名前にすぎなかったからであろう。

 聖徳太子の時代や大化改新のあたりまで来ると、日本人としての気概がみなぎってきて、シナ皇帝から与えられた名称では満足できなくなり、かつ天皇やその周囲の人たちも、かならずしも「ヤマト地方」出身とはいえなくなり、別の名前を考えるようになってきたと思われる。

 そこで出てきたのが、《日本》という漢字で書かれた国名である。
 ここで使われている漢字「日」の訓である「ひ」という言葉は太陽を意味していてとても日本人の好みに合った神聖な雰囲気があり、歴代の天皇の名にもじつに多くつけられている。
 また〈天照大神〉の尊称のひとつが「日神」であることからも、「日」のもつ特別な語感が理解できる。

 推古天皇の皇子で摂政として実質的な最高指導者だった聖徳太子(六世紀末〜七世紀初)が、西暦六〇七年に小野妹子を遣隋使として派遣したときの国書に、

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」

 ――とシナ皇帝の煬帝に述べて册封体制からの離脱宣言――すなわちアジアで最初の独立宣言――をし、不快にさせたというエピソードの出来た時点でその構想が明瞭になり、大化改新(七世紀中葉)のあたりで太陽の昇る所といった意味の《日本》が確立しはじめ、七世紀末の天武天皇・持統天皇のころの律令のなかに定められ、八世紀初頭には遣唐使によって唐の都に伝わったようである。
(法的に明確になったのは七〇一年の大宝令といわれる)

 この《日本》の読みは、古来からの日本語では――つまり訓では――「ヒノモト」であり、伝統的には当て読みの「ヤマト」であるが、シナ人にも読んでほしいので音読みを採用して、しだいに「ニッポン/ニホン」となってきたのであろう。


『卑弥呼と日本書紀131』

 なお当然のことだが、さらにずっと昔から日本という地名はあり、とくに大化改新の結果の都である難波地方に有ったらしい。
 難波の都から見ると、その場所から太陽が昇るように見えることから、そういう地名がつけられた――と推理する学者もいる。
 だから、そういうことにヒントを得て、《日本》という国名を考えたのかもしれない。

 ではシナではどうだったかというと、ずっと「倭国」といっていたのだが、八世紀の初めに《日本》という名が伝えられてからしばらくしてそれを認め、そののち次第に《日本》と記すことが多くなり、十世紀ごろには定着したようである。

 九世紀に撰述された『舊唐書、倭國日本傳』に、

「日本國ハ倭國ノ別種ナリ。ソノ國日邊ニアルヲ以テ、故ニ日本ヲ以テ名トス。或イハ云フ、倭國自ラソノ名ノ雅ナラザルヲ悪ミ、改メテ日本トナスト。或イハ云フ、日本ハ舊小國、倭國ノ地ヲ併セタリト」

 ――とあり、また明代にできた『元史、外夷、日本傳』に、

「日本國ハ東海ノ東ニ在リ。古ク倭奴國ト稱フ。或イハ云フ、其ノ舊名ヲ悪ム。故ニ名ヲ日本ト改ム。其ノ國ノ、日ノ出ヅル所ニ近キヲ以テナリ」

 ――とある。

 シナ大陸や朝鮮半島から見て太陽が昇る方角だという意味も――聖徳太子の文面などからみて――あるだろうが、外国に対してそんな偉そうな事ばかりいっていたわけではない。
 属国ではない、対等な国である――と主張し、毅然とした態度で、侮蔑的な意味の「倭国」という名称を改めさせたのである。

 なお前記のシナ正史をみると、十世紀前後になってもなお、日本列島の地理的理解はあいまいであり、倭国を併せて大きくなったとか、東の海にあるとか、古くは倭奴国と呼ばれていたとか、誤解が大きいことがわかる。
 こういう正史記事からも、『魏志倭人伝』時代のシナの歴史家が、日本列島について正確な地理的認識をもっていたとは、とても思えないのである。

 本章のトビラ部分に記した山上憶良の歌は、遣唐使の一員として唐にわたり、西暦七〇四年に帰国した憶良が、唐の都で詠んだ有名な望郷歌だが、原文にも「早日本邊」と記されている。


『卑弥呼と日本書紀132』

◆◆◆ 「天皇」という尊称の制定とその歴史的意味 ◆◆◆

 さてここまで、《大和》や《日本》の由来を述べてきたが、《日本》という国名を自称するにいたった精神的自立はまた、「天皇」という日本独自の称号を生んだことも、記しておかねばならない。
 昔のシナの周辺国の指導者は、「王」またはそれ以下の位であり、シナの皇帝のお墨付きをもらってそれを権威としてその地を支配する册封体制に組み込まれていた。
「王」とは皇帝にくらべてずっと低い称号である。

 それは日本も同様であり、一世紀に倭奴国の王がもらった金印にも「漢委奴國王」とあるし、『魏志倭人伝』に記されている〈卑彌呼〉がもらった詔書にも、「親魏倭王」とある。
 倭奴国の時代と《邪馬台国》の時代との間にも、何回か日本の西方の豪族がシナの皇帝に朝献して「王」というお墨付きを貰うことがあったらしい。

 ところで、古代の日本国内における豪族(氏族)たちの貴人や首長の呼称は、前述した尊称を用いて「ヒコ」「キミ」「ミコト」などといっていたらしい。
 そして大和一族の長の場合には、多くの豪族の中の特別な豪族の長という意味で、「キミ」の前に「大きい」をつけて「オオキミ」といったり、「ミコト」の前に「統べる」または尊敬語の「スメラ」をつけて、「スメラミコト」といったりしていたらしい。
 これを漢字で書くと、『記紀』よりかなり前の時代ではやはり「王」であり、特例として「大王」である。
 だから初期には豪族の長も大和一族の長もすべて「王」であり、大和朝廷の最高の位を「大王」と漢字で書くのは、五世紀ごろからといわれている。

 しかし、日本列島の統一がすすみ、文化も向上し、シナの皇帝を中心としてその支配に甘んじる册封体制から独立しようという気概が漲ってきた六世紀以降、日本の指導層が、シナの皇帝のはるか下の位である「王」や「大王」という文字に満足できなくなったのは当然である。


『卑弥呼と日本書紀133』

 そこで、シナの皇帝に匹敵する尊称は無いかといろいろ考えた末、七世紀に入るころから「天皇」という称号が登場してくるのだ。

 さきの西暦六〇七年の国書にある「日出ずる処の天子・・・」の天子とは皇帝の尊称としての別名なので、日本の側が「天子」を用いたということは、日本の最高指導者はシナの最高指導者の皇帝と同じ地位であって下の身分ではない――という意味を具体化したものであり、すでにこの時に「天皇」という尊称の下地ができていたと考えられる。

『日本書紀』によると、聖徳太子の時代の何回かの外交交渉のなかに、西暦六〇八年の小野妹子の隋への派遣があるが、そのときの日本側の国書に、

「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す」

 ――とあるので、この時代に天皇という尊称が登場したらしいと推測できる。
 しかしもちろん『日本書紀』は八世紀初頭の書なので、これだけではほんとうの証明にはならない。

 そこでさまざまな学説が出され、古い方の意見としては六世紀から七世紀にかけての推古天皇の時代(聖徳太子の時代)という説、もっと後だとの意見としては、七世紀後半の天武天皇や持統天皇の時代とする説がある。

 さいきんは考古学の進展が著しく、その知見をもとにすると、どうやら推古天皇の御代の中頃に天皇という尊称がきまったらしい。
 そしてその訓読みには、前記のような、「統率する尊」という意味を語源とする「スメラミコト」が用いられたのである。


『卑弥呼と日本書紀134』

◆◆◆ 「年号」の制定と日本人の気迫 ◆◆◆

 これに関連してもうひとつ強調すべきは、天皇という尊称の制定と同時期に、「年号」も日本独自に定めたことである。
 その最初は、孝徳天皇のとき、その即位の西暦六四五年を元年とした「大化」であった。
 有名な大化改新の年である。
 以後平成の今日まで、日本独自の年号が続いている。
 シナの年号を使用して年代を表現するのが普通だった当時のアジア諸国のなかで、わが国だけが年号もまた独立を宣言したのだ。

 これら、

 《日本》という高貴な国名の決定
 「天皇」というシナの皇帝に並ぶ称号の決定
 「年号」をシナに合わせるのではなく日本独自の制定

 ――は、たとえれば、アメリカ合衆国がイギリスから独立し、インドネシアがオランダから独立したのと同じくらいの、日本国の独立運動だったのである。
 そして、東アジアの国々のなかで、このようなシナの権威からの独立を果たしたのは、近代にいたるまで、日本のみだったことも、再度強調しておきたい。

 朝鮮半島の王権なども、ずっとあとの時代まで「王」と称して、けっして「皇帝」とならぶ称号はつけていない。
「朝鮮」という国名すらシナ(明朝)につけてもらったもので、清朝時代の朝鮮の国旗には「大清国属」と書かれていた。
(新羅は古い国だが、初期の支配者は「王」とも言っていない)
 つまりシナの皇帝のはるか下位に甘んじていたのだ。

 明治になって近代国家としての体制をつくった一環として、国旗と国歌の制定があるが、これについては、平成十一年の「国旗・国歌法」の施行に伴って数多くの解説書が出されたので、ここでは省略する。いずれも誇るべき古い歴史をもっている。

*****

 册封体制からの独立と名称の問題が長くなってしまったが、『魏志倭人伝』や『日本書紀』を検討するさいに、きわめて重要な背景となることがらなので、お許しいただきたい。
 次節では、『魏志倭人伝』の信憑性についての話をまとめてみることにしよう。

[次ぎは「第五・五節 『魏志倭人伝』の信憑性についての結論」]


『卑弥呼と日本書紀135』

■■■■■ 五・五 『魏志倭人伝』の信憑性についての結論 ■■■■■


 この節では、前節までの知識を背景にして、第四章に記した『魏志倭人伝』の信憑性についての検討結果を、補足し整理してみることにしよう。
 まず第四章の結論をまとめてみる。

[一]又聞きの信憑性(第四・一節)
「熱意不明の使者が実力不明の通訳を介して聞いた記録の又聞きや書写という文献に、どれほどの信憑性があるのか?」

[二]地理的な信憑性(第四・二節)
「不正確な地理的知識を元にして書かれた文献に、どれほどの信憑性があるのか?」

[三]シナ正史自体の信憑性(第四・三節)
「周辺国については伝統的に侮蔑的で間違いの多い正史を書くシナの古い史書中のごく短い文献に、どれほどの信憑性があるのか?」

 この三つによって、もし『古事記』や『日本書紀』を一級の史料だとすれば、『魏志倭人伝』とは二級三級の史料にすぎない――という樋口清之らと同じ結論が導かれる。
『古事記』や『日本書紀』、およびこれら『記紀』のもとになったといわれるいくつかの古い日本の史書は、量的に圧倒的であるだけではなく、古代日本人の「心」が感じられ、またじつに生き生きとした「人間模様」が感じられる。

 四百年のひらきがあるとはいえ、多くの日本人が伝承し口伝してきた記録の集大成であり、その迫真力は『魏志倭人伝』の比ではない。
 またそこにある固有名詞は現在の日本地図の位置関係やいまに残る地名や神社名とよく一致しているし、記述も考古学の成果と合致することが多い。

 もちろん、そうかといって著者は、『魏志倭人伝』を無視すべきだ――と主張するわけではない。
 それは、つぎの四つの理由によっている。

*****


『卑弥呼と日本書紀136』

(一)年代の信憑性
「シナの正史における他国の記述の信憑性は薄いが、自国に朝貢に来た使者や他国に派遣した使者についての、年号で記した年代は、比較的信用がおけるし、年号と西暦の換算も信憑性がある」

(二)女王の存在感
「女王の記述に奇妙な存在感がある。とくに男王と対比させているので、当時の日本に女性の権力者がいたのは確からしく思われる」

(三)作為の必要性の無さ
「侮蔑的な表現がされているし記述も数値もあいまいだが、当時のシナにとって日本は、今とはちがって競争相手ではなかったから、ことさら事実とちがう日本像を創作する必要性もなかった」

(四)唯一の外国文献
「三世紀ごろの日本について書かれた、現存する唯一の外国文献なので、信憑性の有無は別にして、無視することはできない」

*****

 したがって著者としては、『魏志倭人伝』は、[一]〜[三]の理由によってB級史料にすぎないが、そうかといって(一)〜(四)の理由により、無視すべきでもない――と考える。
 それは、『古事記』や『日本書紀』を補足するいくつかの――『古語拾遺』『先代旧事本紀』『風土記』『万葉集』などの――史料の一つとして頭に入れておくべきであろう。

 だから大切な事は、『魏志倭人伝』の数値や事項自体のことこまかな詮索ではなく、『記紀』の類や古い神社や古い地名や古い伝承などにある古代日本人の「心」と、考古学的研究とを結びつけ、その成果によって『魏志倭人伝』を解釈することであろう。

 そしてそれには、科学技術に詳しい人材を大量に投入しなければならない――と思う。
 ハイテクを駆使した科学技術的感性に基づく研究こそが、推古天皇以前の神話的な時代の真相に近づく、最善の方法ではないだろうか?

*****

 付言するが、以上のように考えてくると、現行の多くの歴史教科書における『記紀』と『魏志倭人伝』の扱いは本末転倒であり、とても奇妙なものに思える。


『卑弥呼と日本書紀137』

■□■□■ 第六章 〈天照大神〉説の検討 ■□■□■


天の戸の あくる光も のどかにて 神代かわらぬ はるは来にけり
〔桃園天皇御製〕

天地の 初の時 ひさかたの 天の河原に
八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神計り
はかりし時に 天照らす 日女の尊・・・
〔柿本人麻呂(万葉集167)〕
「天地がはじめて出来て多くの神々が集まって相談なさったとき、天照大神は・・・。(日女の尊という表現に注意)」

ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 岳に天降りし
皇祖の 神の御代より 梔弓を 手握り持たし
真鹿児矢を 手挟み添えて・・・
〔大伴家持(万葉集4465)〕
「わが大伴一族は天の岩屋を開いて高千穂の峰に天降られた皇祖瓊瓊杵尊の時代から、梔の木の弓を手に握り、鹿を射る矢を手に挟んで添えて・・・。(神武前から大和朝廷につかえてきた誇りを持てと、大伴一族を励ました歌)」

[次ぎは「第六・一節 〈天照大神〉と「天の岩屋」」]


『卑弥呼と日本書紀138』

■■■■■ 六・一 〈天照大神〉と「天の岩屋」 ■■■■■


◆◆◆ 教科書が教えない日本神話 ◆◆◆

 いよいよこの章から、第二章で略述した〈卑彌呼〉の正体についてのいくつかの意見を、くわしく説明することにする。
 本章の対象は、第二・一節で記した「〈天照大神〉説」である。

 一般に、

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」
 は、
「《邪馬台国》九州説」

 ――と結びついており、それはまた神武東征神話とも結びつくことが多い。
 ロマンにあふれた説であり、たいへんポピュラーである。
 大量に自費出版されているアマチュア研究者の主張も多くはこの説になっているし、この説にもとづく小説もたくさんある。

〈天照大神〉説について考えるには、とにもかくにも〈天照大神〉の神話や神武天皇の東征伝説の概要を知らねばならないが、いまは学校でほとんど教えなくなったらしい。
 アメリカの義務教育の教科書には、日本神話が、日本の教科書よりもくわしく書かれており、天孫降臨、神武東征、「三種の神器」などもちゃんと載っているといわれる。
 こういうことだといまに、日本の若者がアメリカの若者に日本神話を教えてもらうという情けない時代が来てしまうであろう。

 ――というわけで、まず『日本書紀』をたどる形で、神武天皇即位までの日本神話の概要を記してみよう。
 ただし神話の解釈については、議論が多すぎるし、頁も超過してしまうので、ここでは〈卑彌呼〉問題に直接関係する事項にかぎることにする。
 また『日本書紀』は主文のほかに「一書に曰く」として、多くの異説や補足を記している。また『古事記』の方がくわしい部分もある。
 以下では、『日本書紀』の主文を主としながら、それ以外の補足も随時記すことにする。
 文中「一書では」という注書きは、『日本書紀』のなかの異説や補足のことである。

*****


『卑弥呼と日本書紀139』

◆◆◆ 神代の物語(1)――天地開闢から天の岩屋まで―― ◆◆◆


▽▽▽ 天地開闢と神世七代 ▽▽▽

 世界の初めは陰陽も天地もない混沌とした状態だったが、澄んで明るい部分が天となり、重い部分が地となった。
 その天地のなかに、
  國常立尊(くにのとこたち)
  國狹槌尊(くにのさつち)
  豐斟渟尊(とよくむぬ)
 ――という三柱の男神が生まれた。
 (第二章に記したように読みのミコトは略す)

 そのあと、以下の四組八柱の男女の神々が生まれた。
  泥土煮尊(うひじに)・沙土煮尊(すひじに)
  大戸之道尊(おおとのじ)・大苫邊尊(おおとまべ)
  面足尊(おもだる)・惶根尊(かしこね)
  伊弉諾尊(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみ)

 國常立尊からここまでを神世七代という。

『古事記』では、この神世七代のさらに前に、
  天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
  高皇産靈神(たかみむすびのかみ)
  神皇産靈神(かみむすびのかみ)
  宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)
  天之常立神(あめのとこたちのかみ)
 ――の五柱の神がいたが、すぐに身を隠したとされている。
(ここまでの神々については『古事記』と『日本書紀』で少しだけ違っている)


『卑弥呼と日本書紀140』

▽▽▽ 初めての結婚と国土の誕生 ▽▽▽

 天と地を結ぶ天浮橋の上に伊弉諾尊と伊弉冉尊が立って、矛で下界の海を探ると、その矛から落ちた潮が固まってオノコロジマという島になった。
 その島に降り立った二神は、そこにある大きな神聖な柱をまわって結婚し、日本列島を生んだ。

 巨大な柱は古くから神が宿るとされ、神社の鳥居の源といわれている。
 いまでも古い神社には横柱のない二本の柱に注連縄をはっただけの鳥居があるし、また諏訪大社のように御柱祭がなされる神社もある。
(著者の家の近くには二本の巨大な杉が鳥居になっている神社がある)

 伊弉諾尊・伊弉冉尊がこのとき生んだ島は八つだったので日本列島を大八洲という。
 これは日本が数多くの島から成っていることを、古代のひとたちがすでに知っていたことをあらわしている。
 つぎに二神は、海・川・山・木・草などを生んだ。


▽▽▽ 〈天照大神〉の誕生 ▽▽▽

 伊弉諾尊・伊弉冉尊はつぎに、〈日神〉を生んだ。
 これを〈大日靈女貴〉といい、一書では〈天照大神〉といい、さらに一書では〈天照大日靈女尊〉といい、さらに『古事記』では〈天照大御神〉とも書いて尊称しているが、この御子は明るく美しく、天地の隅々までが輝いた。
 太陽神の誕生である。
 喜んだ二神は、この御子を天に送った。

 つぎに月神を生んだ。一書では月弓尊、月夜見尊などと尊称している。

 つぎに素戔嗚尊(すさのお)を生んだが、この尊は勇ましく強く過酷で泣くことを仕事にしていた。そのため国土が荒れてしまった。
 そこで伊弉諾尊と伊弉冉尊は、
「遠く根の国に行きなさい」
 と、追放なさった。
 根の国とは、地底の異境とされる。


『卑弥呼と日本書紀141』

▽▽▽ 〈天照大神〉と素戔嗚尊の軋轢 ▽▽▽

 素戔嗚尊は根の国に行く前に高天原の姉に会いたいといって、海を揺り動かし山を鳴り響かせて、荒々しい態度で天に昇った。
 高天原とは、〈天照大神〉が統率する天の世界で、この神話が史実の反映だとすれば、九州の一部――たぶん北部――ではないかとされている。
〈天照大神〉は武装してむかえて――天の川を挟んで――詰問し、それに応えて素戔嗚尊は、邪心のない証拠を示すために、誓約をして子を産むことにしようと提案した。

 そこで〈天照大神〉は素戔嗚尊の剣をかみ砕いて吹き捨てて、三柱の女神を生んだ。
 この女神たちは九州の筑紫に祀られて、朝鮮に渡る人たちの守護神となった。有名な宗像大社の祭神などである。
 素戔嗚尊は〈天照大神〉が身につけていた宝玉(瓊)をかみ砕いて五柱の男神を生んだ。
 この男神たちは、出雲・河内・山代などの豪族の祖、また葬儀や造墳を役目とする土師連の祖、とされている。
 そして〈天照大神〉は提案して、女神と男神を交換する。なにやら暗示的な交換である。


▽▽▽ 「天の岩屋」事件 ▽▽▽

 軋轢が解けたようにみえたが、素戔嗚尊は高天原に留まったまま乱暴を続け、田畑や御殿を荒らしまわった末、〈天照大神〉が機織りをしているときに、馬の皮を剥いで投げ込んだ。
〈天照大神〉は驚いて機織りの梭(ひ/横糸を通す道具)で身体を突いて怪我をしてしまった。
 一書では〈天照大神〉の妹の稚日女尊(わかひるめ)がこういうめにあって死んでしまうし、また『古事記』では機織の姫が梭で陰部を突いて死んでしまうことになっている。

 尖ったもので高貴な女性が下腹部を突かれて死んでしまうこの話は、〈卑彌呼〉の死と関係が深いという説もある。
〈卑彌呼〉の有力候補の一人である〈倭迹迹日百襲姫命〉の死に方ととても似ているのである。

 さて〈天照大神〉は立腹して天の岩屋(天石窟)に隠れて、岩戸を閉じてしまう。そのため国中が闇となり昼がなくなってしまった。


『卑弥呼と日本書紀142』

 困った神々は天の川に集まって相談して、智慧のある神がつぎの作戦をたてて実行した。
 不老長寿の国の鶏を集めて長鳴きをさせた。
 力のある手力雄神(たちからおのかみ)を岩戸のそばに隠れさせた。
 祭祀担当氏族の中臣連の先祖(藤原氏の先祖)や祭祀実務担当氏族の忌部の先祖が天香具山の聖木・榊を抜いてきて、その上の枝に八坂瓊(やさかに)の五百箇御統(いおつみすまる/大きな勾玉をたくさん連ねた飾りで後の三種の神器のひとつだが、別の見解もある)をかけ、中間の枝に八咫鏡(やたのかがみ/大きな銅鏡で後の三種の神器のひとつ)をかけ、そして下の枝に御幣の一種の青和幣(あおにきて)・白和幣(しろにきて)をかけて、全員で祈った。
 勾玉をつくったのは玉作部の先祖であり、鏡をつくったのは鏡作部の先祖であり、そして和幣をつくったのは忌部の先祖である――とされている。

(注・・・このときの、榊に勾玉と鏡をかけた神木の模型は、一般の家庭でも見ることができる。神棚にかならずそなえられている向かって右側の真榊がそれである。左側の真榊には剣がかけられているが、これは素戔嗚尊が出雲で発見した「神剣」である)

 それから鎮魂の舞楽に奉仕する猿女君の先祖の天鈿女命(あまのうずめ)が巧みに演技し、神憑りになって踊りくるった。
 この騒ぎを聞いて、岩屋のなかの〈天照大神〉は、自分が隠れて世が暗くなったのに、どうして喜んでいるのかと不思議に思って、岩戸をすこしだけ開けて外をうかがった。
 そのとき手力雄神はすぐに岩戸をこじあけて〈天照大神〉の手をとってそとにお出しし、ついで中臣と忌部が注連縄(しめなわ)をはって境界をつくり、二度と入らないで下さい――と請い願った。
 そして神々は素戔嗚尊から賠償を徴収し、高天原から追放した。

*****

 これが有名な「天の岩屋伝説」で、第二章の図2・1は、昔の歴史の教科書にあったこの物語の挿絵である。

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 この岩屋伝説と〈卑彌呼〉とのつながりの推理については、後述する。


『卑弥呼と日本書紀143』

■■■■■ 六・二 出雲の国譲りと天孫降臨 ■■■■■


◆◆◆ 神代の物語(2)――八岐大蛇から神武天皇御降誕まで―― ◆◆◆


▽▽▽ 八岐大蛇と天叢雲剣 ▽▽▽

 素戔嗚尊(すさのお)が高天原から追放されて出雲国に降りてみたところ、老夫婦が奇稻田姫(くしいなだひめ)という名の娘を間にして泣いていた。
 たずねると、八つの頭と八つの尾を持つ八岐大蛇(やまたのおろち)が娘をつぎつぎに飲み込み、のこるこの娘もまもなく食べられたしまうと訴えた。
 素戔嗚尊は酒を大蛇に飲ませ、酔って眠ったところを自慢の十握剣(とつかつるぎ/握り拳が十個の寸法=大きな剣)で寸断した。

 そのとき尾を切ろうとすると剣の刃がすこしかけてしまった。
 割いてみるとそこに立派な剣があった。
 これが天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)で、のちに日本武尊(やまとたける)が使って草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになり、現在は名古屋の熱田神宮に御祭神として奉斎されている神剣である。

 古代の剣は諸刃の直刀で、刃の部分の形状は鉾とあまりかわらない。
 材質はかなり古くから鉄が使われていたが、銅製の可能性もある。
 素戔嗚尊は「これは霊剣だ」として、〈天照大神〉に献上した。
 これが「三種の神器」の最後のひとつである。

 それから素戔嗚尊は助けた娘の奇稻田姫と結婚するための宮殿を、出雲の清々しい場所――現在の島根県大原郡大東町須賀(清々しいので須賀という)――に建てて、第一章のトビラにも掲載したつぎの歌を詠んだ。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を

 これは短歌の先祖とされる有名な歌だが、素戔嗚尊のような乱暴者がこういう優美な歌をつくるのが、日本神話の真骨頂である。


『卑弥呼と日本書紀144』

 奇稻田姫という名は、神聖な稲田という意味である。
 また八岐大蛇とは、一説では、河川の氾濫であり、したがってこの説話は、稲田が河川の氾濫によって崩壊するのを、水利工事の知識によって救った史実をあらわしている――とされている。
 興味ぶかいのは、のちの第十二代景行天皇の皇子の英雄・日本武尊が、この同じ剣を借り受けて東国に遠征した説話もまた、稲作技術の伝播をあらわす――といわれていることである。

 さて、こうしてめでたく奇稻田姫と結婚した素戔嗚尊は、御子〈大己貴神(おおなむちのかみ)〉をおつくりになった。
 そして宮殿の管理者を定めて、ご自身は約束通り根の国に去っていかれた。
 この〈大己貴神〉は、『日本書紀』の本文では、のちの〈大國主神(おおくにぬしのかみ)〉の親または先祖であるが、『日本書紀』中の一書や『古事記』では六代目の子孫で〈大國主神〉と同一神ということになっている。

〈大己貴神〉とは土地の偉大な貴い神といった意味であり、〈大國主神〉とは国の偉大な首長という意味なので、ほぼ同じ含意の神名である。
 したがって同一神(または同一の豪族)としてさしつかえないであろう。

『日本書紀』のこの部分には、朝鮮に行って戻ってくる話や《大和》の《三輪山》の〈大物主神(おおものぬし)〉との関係など、いくつもの長い異説が載せられていて、それぞれ興味ぶかいのだが、ここでは割愛する。
〈大物主神〉との関係については、〈倭迹迹日百襲姫命〉についての章で説明する。
『古事記』のこの部分には、有名な因幡の白兎の説話などがあるが、それも割愛する。


『卑弥呼と日本書紀145』

▽▽▽ 出雲の国譲り ▽▽▽

 いっぽう高天原の〈天照大神〉は、素戔嗚尊との対決のなかで、尊が大神の宝玉を砕いて生んだ男神五柱をご自身の御子にしたのだが、その長男である天忍穗耳尊(あまのおしほみみ)が高皇産靈尊(たかみむすび)の姫と結婚して、瓊瓊杵尊(ににぎ)を生んだ。
 高皇産靈(*)とは、高所から降臨する神聖な生成靈力の意味で、『日本書紀』本文ではここでとつぜん出てくるのだが、『古事記』では、前記のように、世界誕生の最初期からおられる神である。つまり神世七代の前の神である。

 この高皇産靈尊は瓊瓊杵尊を寵愛して、葦原中国(あしはらのなかつくに)――字義どおりには葦の原のなかの国だが、ここでは天と地底の間の国の意味でつまりは日本の大地――の王にしようとしていたが、土地がたいへん乱れている様子なので、平定するために、男神五柱の二番目の天穗日命(あまのほひ)を派遣した。
 ところがこの神は出雲の〈大己貴神〉に籠絡されて報告もせず戻ってこなかった。
 またそのあと、何柱もの神を送ったが、うまくいかなかった。

 そこでさらに高皇産靈尊は神々と相談して、剛勇できこえる經津主神(ふつぬしのかみ)に武甕槌神(たけみかづちのかみ)をつき添わせて葦原中国に派遣した。
 この二神は、〈大己貴神〉のいる出雲に出向いて、剣の切っ先の上にあぐらをかくという凄い迫力で談判したところ、〈大己貴神〉は息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)――物事を代替語で宣言する託宣の神――と相談して、自分たちの国を高天原に譲ることを承諾した。

 そして〈大己貴神〉は遠方に隠れることにし、息子の事代主神は海中に隠れた。
 經津主神と武甕槌神の二神は抵抗する残党を制圧して、高天原に戻った。

 これが『日本書紀』にある出雲の国譲りの神話であるが、一書ではこのとき、高皇産靈尊が〈大己貴神〉に、国を譲ってもらうかわりに天上界と同様な巨大な宮殿を造ってあげようと約束し、〈大己貴神〉は今後は軍事や行政から離れて神事を担当します――と答えている。
 これが出雲大社の創建説話である。

 出雲大社はいまでも高く大きいが、昔はさらに巨大だったらしく、太い柱の遺跡などが発見されている。
 平安時代の記録では、東大寺を上まわる高層ビルなみの十六丈(四十八メートル)もあったとされている。
 この高さは信じがたいとする歴史家も多かったが、最近になって発掘された遺跡から、どうやら本当だったらしい――と推理されるようになった(**)。
 現在の出雲大社も八丈(二十四メートル)の高さを誇り、数多い神社のなかでも最高である。

(* この神名は「高霊」の間に「皇産」が挟まれている。これを強引に解釈して、韓国の高霊郡で天皇の先祖が産まれた――として記念公園を作ったりするのが韓国の反日家たちである。牽強付会の極致である)

(** 著者も先年拝観してきたが、とてつもない大きさであり、四十八メートルも嘘ではないように思われる)


『卑弥呼と日本書紀146』

『古事記』では、出雲平定に派遣された二神に命令する主体は高皇産靈尊とともに〈天照大神〉であり、国を譲った〈大己貴神〉は〈大國主神〉となっていて、上記の他にも面白いエピソードが多く記されている。
 たとえば、事代主神が帰服したあと、弟で勇猛な建御名方神(たけみなかたのかみ)が反抗したがやはり負けてしまって、諏訪湖まで落ち延び、有名な諏訪大社の祭神となった。
 これは北陸から長野県にかけて、山陰地方とおなじく古代出雲一族の勢力が強かったことと関連しているらしい。

 一般に日本の神社の祭神には、大和朝廷に反抗したがかなわなかったり悲劇に終わったりした一族の神――出雲系やのちに記す〈饒速日命(にぎはやひ)〉や日本武尊など――がとても多く、朝廷側の神よりも多いくらいである。
 これは大和朝廷の巧みな融和策――権力を持たせないかわりに名誉を与える策――でもあったろうし、また日本人の心理にある判官贔屓でもあったのだろう。


▽▽▽ 天孫降臨 ▽▽▽

 こうして〈大己貴神〉らが出雲の隅(神殿)に隠れたので、高皇産靈尊は瓊瓊杵尊(ににぎ)を葦原中国に降臨させることにした。
 瓊瓊杵尊は〈天照大神〉の孫にあたるので、天神の孫が降り立つという意味で、これを「天孫降臨(てんそんこうりん)」と呼んでいる。

 瓊瓊杵尊は、天上の御座を押し離し、天の優れた道を選んで進み(図6・1)、日向の高千穂の峰に降りられた。
 そしてその峰から天浮橋という巨大な橋を伝って平地におり、そこから豊かな土地を求めて歩いて、笠狭(かささ)の岬に到着された。

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 一書や『古事記』では、このとき猿田彦神(さるたひこのかみ)という異形の神が出迎えて案内した話や、〈天照大神〉が「三種の神器」を瓊瓊杵尊に授けて「鏡は自分の御魂だと思って祀るように」と述べた話や、また瓊瓊杵尊に付き添う武将として大伴一族の先祖神がいた話・・・などが記されている。
 本章のトビラにある大伴家持の長歌は、大伴一族に苦難があったときに、この故事をひいて一族を諭し励ました一種の檄文である。


『卑弥呼と日本書紀147』

 さて〈卑彌呼〉との関連でいうと、場所が問題になる。
 まず日向であるが、むかしの日向は今とは違っていてずっと広く、宮崎県と鹿児島県一帯、つまり九州南部の全体を指していたらしい。

 日向はいまは「ヒュウガ」と読むが、元来は「ヒムカ」であり、東(ヒムガシ)のもとになった言葉で、太陽に関係する方角を示す地名だったらしい。

 その日向の高千穂の峰であるが、現在まで高千穂という地名が残っている場所は九州に二箇所で、図6・2に示したように、宮崎県の北部と、宮崎・鹿児島の県境にある。
 このうち県境の霧島山の高千穂の峰が、有力とされている。

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 つぎに、ここから歩いて探した良い場所の笠狭であるが、これは薩摩半島の野間岬だとされている。
 奈良時代に唐から帰化した鑑眞和尚が漂着した場所でもある。
 ずいぶん端の方まで行ったものだが、薩南諸島や南西諸島・台湾を経て大陸とつながるので、海洋漁労や技術の伝搬に関係するのかもしれない。

 さらに高千穂の峰に来たときの出発点であるが、もし〈天照大神〉が〈卑彌呼〉の史実を反映しているとすれば、そこが《邪馬台国》である可能性もあるので重要なのだが、だとすれば、前述した二箇所の《山門》であろう。
 図6・2に示しておいた。
 ただし、高天原を《邪馬台国》に比定するのが妥当かどうかは、かなり疑問である。


『卑弥呼と日本書紀148』

▽▽▽ 木花之開耶姫と海幸彦・山幸彦 ▽▽▽

 野間岬についた瓊瓊杵尊は、そこで見そめた鹿葦津姫(かしつひめ)――またの名を木花之開耶姫(このはなさくやひめ)で天の神と山の精霊との娘――と結婚し、

   火闌降命(ほのすそり/海幸彦)
   彦火火出見尊(ひこほほでみ/山幸彦)
   火明命(ほのあかり/饒速日命)

 ――という三柱の神を生んだ。
 長男の火闌降命は海の幸を得る霊力をもっていたので海幸彦と呼ばれ、二男の彦火火出見尊は山の幸を得る霊力をもっていたので山幸彦と呼ばれた。
 三男の火明命は別名を〈饒速日命〉といって、古代の謎を秘めた神であり、神武天皇より先に《大和》を制覇していたとの伝承がある。
 またこの神は瓊瓊杵尊の兄弟――つまり一代上――だったとの説もある。

 さて、あるとき兄の海幸彦と弟の山幸彦が相談して、自分たちの霊力(道具)を交換してみようということになった。
 しかしうまくいかなかったので、もとに戻すことにしたが、弟が預かった釣り針が無くなってしまっていた。
 兄がそのことを責め立てたので、弟は老翁の助けで海中にある海神の宮殿に行って、魚の口に入っていた釣り針を見つけた。

 そしてそこに留まって、海神の娘の豐玉姫(とよたまひめ)と結婚した。
 やがて望郷の念が増して、陸に帰ることになったが、豐玉姫は身ごもっていたので、妹の玉依姫(たまよりひめ)をつれて海中から海辺に出て、そこでお産をすることになった。
 陸に戻った弟は海神に教えられた方法で兄を懲らしめて降参させたが、豐玉姫のお産のとき、姫との約束を破って産屋をのぞいてしまった。
 そこにいたのは龍の姿の姫だったが、見られた姫はひどく恥じて、産んだ御子を置いて海中に帰ってしまった。

 この海幸山幸の物語にはいろいろな解釈があり、人生訓話にもなっているのだが、九州南部を勢力圏として大和朝廷に逆らっていた隼人族(はやとぞく)との抗争が一部に反映している――との説がある。


『卑弥呼と日本書紀149』

 さて、山幸彦と結婚した豐玉姫が産んだ御子は、やはり貴人であり、鵜草葺不合尊(うがやふきあえず)といわれた。
 この御子は、母の妹の玉依姫と結婚して、

   彦五瀬命(ひこいつせ/尊称の彦が頭についている点に注意)
   稻飯命(いない)
   三毛入野命(みけいりの)
 ――をお生みになり、ついで、
   神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)
   {狭野尊/彦火火出見尊}
 ――をお生みになった。

 この四柱の神は、いずれも男神である。

 この最後の尊こそ大和朝廷の初代、神武天皇なのだが、幼名を狭野尊(さの)、実名を彦火火出見尊(ひこほほでみ/祖父にあたる山幸彦と同名)とされている。
 神日本磐余彦尊はもちろん、後でつけられた尊称である。

*****

 こうしていよいよ、有名な神武天皇の東征物語がはじまる。


『卑弥呼と日本書紀150』

■■■■■ 六・三 初代 神武天皇の東征物語 ■■■■■


◆◆◆ 第一代(初代) 神武天皇の物語(1)――難波での苦戦と熊野まわり―― ◆◆◆

 国風謚号 神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)
 (尊称 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと))
 漢風謚号 神武天皇(じんむてんのう)
〔在位・西暦前六六〇年〜前五八五年〕
〔降誕・西暦前七二一年/崩御・西暦前五八五年〕*
〔皇宮・畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや/奈良県橿原市畝傍町)〕
〔御陵・畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ/奈良県橿原市大久保町)〕
*史実を反映しているとした場合、推定実崩年は崇神天皇から遡って西暦一世紀ごろか?


▽▽▽ 神武天皇、いよいよ《大和》へ向けて出陣 ▽▽▽

 瓊瓊杵尊の曾孫にあたる〈神日本磐余彦尊〉は四男で末子だったが、古代には末子相続の習慣があったらしく、十五歳で皇太子になり、父の崩御後は日向の王になっていた。
 四十五歳のとき、
「西の地は治まったが、遠方では国々が境をつくって争っている。平定しなければならない」
 ――として、どこへ進出すべきかを相談したところ、老翁が、
「東方に四方を青い山で囲まれた美しい土地(*)があります。そこへ天磐船(あまのいわふね)に乗って降臨した者がおります」
 と答えた。

〈磐余彦尊〉(**)は、
「それは〈饒速日命(にぎはやひ)〉であろう。そこへ遠征しよう」(***)
 ――といって、諸皇子をひきい、三人の兄とともに水軍を組織し、争う国々を統一するための東征の途についた。

(* 《大和》のこと)
(** ここでは即位前の神武天皇を〈磐余彦尊(いわれひこ)〉と記すことにする)
(*** 出発の前から大叔父にあたる〈饒速日命〉の大和支配を知っていたことになる)


『卑弥呼と日本書紀151』

 こうして、〈饒速日命〉と〈磐余彦尊=神武天皇〉との、《大和》をめぐる覇権争いが始まる。

〈磐余彦尊〉一行は、途中いろいろな事はあったが、とくに困難はなく、図6・3の経路を通って吉備の国まで着いた。いまの岡山県である。

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 ここに三年ほど滞在して船や武器や食糧を調達し、浪速(難波)の湾に入り、河内国の草香邑(くさかのむら/東大阪市の日下あたり)に達して上陸した。
 日下というと、大阪府と奈良県の境の生駒山地のすぐそばだが、前記のように汽水湖が深く入り込んでいたので、古代にはこのあたりまで船で行けたのである。


▽▽▽ 長髄彦との戦い ▽▽▽

〈磐余彦尊〉はそこから陸路を東に進んで生駒山地を越えようとしたが、そこで長髄彦(ながすねひこ)の激しい抵抗にあった。
 生駒越えの場所は、上陸地点のすぐそばで、現在の近鉄奈良線のトンネルの東大阪市側にあたり、物部氏の本拠のひとつとされる石切町の石切神社の近くだったらしい。
 図5・2でいうと、左上枠外の「生駒」という文字のすぐ右のあたりである(図5・1も参照されたい)。

 長髄彦はこの地に古くから勢力をもっていた物部一族の先祖――つまり〈饒速日命〉一族――だから、抵抗するのは当然のことで、〈磐余彦尊〉の軍勢は大苦戦となった。
 そこで秘策をめぐらし、

「日神の子孫でありながら、太陽に向かって戦っているのはまずい。いったん下がって太陽を背にして戦うことにしよう」

 と、紀伊半島に沿って船で南下をはじめた。


『卑弥呼と日本書紀152』

▽▽▽ 熊野まわりの作戦 ▽▽▽

 竃山(かまやま)まできたとき、長兄の彦五瀬命は、長髄彦軍の流れ矢でうけた傷が悪化して、亡くなられ、この場所に葬られた。
 竃山はいまの和歌山市であり、彦五瀬命を祀る神社がのこされている。

 この近くで名草戸畔(なぐさとべ)という者を討ち、紀伊半島を廻って熊野に至り、今の新宮市のあたりの海路を進んだ。
 そのとき、暴風に遭遇して、船は大揺れとなった。

 すると次兄の稻飯命とつぎの三毛入野命は、「母は海神の娘なのに、どうしてこんな目に遭うのか」といって、海に入ってしまった。
 稻飯命は鮫の神となり、三毛入野命は常世国(遠い不老国)に行かれた。
 結局、三柱の兄神はすべて薨去されてしまったことになる。

 兄たちを失った〈磐余彦尊〉は、皇子の手研耳尊(たぎしみみ)と二人で軍勢をひきいて、熊野の荒坂津(あらさかのつ/三重県の度会郡のあたりらしい/図6・3参照)に上陸し、ここで丹敷戸畔(にしきとべ)という者を討ったが、そのとき軍勢は毒気にあたってみな倒れてしまった。
 危機の連続である。


▽▽▽ 〈天照大神〉の助け1 ▽▽▽
〔霊剣と八咫烏で救われる〕

 このとき、〈天照大神〉は布都御魂(ふつのみたま)という霊剣を天から授けられた。
 すると全員が眠りから醒め、元気になった。
 この霊剣は、伝えられるところでは、先に經津主神と武甕槌神が出雲の〈大己貴神〉に国譲りを迫ったときに、その切っ先の上に乗ったという、有名な剣である。

 この霊剣の『日本書紀』での名は難しい文字(師の偏を音にかえた文字に霊)なので『古事記』にしたがったが、のちに物部一族に恩賞として与えられ、天理市にある《石上神宮(いそのかみじんぐう)》に奉納されて祭神となった。

 そして、戦乱の世の略奪から守るために拝殿後方の禁足地に埋められていたのを、明治になって発掘し、あらためて社殿を建てて奉祭した。
(この話はのちに詳しく述べる)

 もちろん学問的な同定は不可能だが、神話のなかの剣や鏡や神社が現存していて、今でも神話の神々の子孫が拝んでいるという事実は、日本の歴史の、世界でも稀な長期継続性を示している。


『卑弥呼と日本書紀153』

 この霊剣で助けられた一行は山中を進もうとしたが、険阻で道もわからない。
 そこでまた天の〈天照大神〉が助けを出して、道案内の八咫烏(やたがらす)を遣わした。
 八咫の咫とは親指と人差指を拡げた長さで、二十センチ弱だから、八咫は一メートル以上となる。
『古事記』では八咫烏だが『日本書紀』では頭八咫烏のなっていて、羽の長さではなく頭の大きさが八咫とされている。超巨大な烏である。

 もちろんこれは一種の修辞で、大きくて立派という意味であろう。
 一般には、天地の初めの神のお一人である神皇産靈神の孫の賀茂建角身命(かもたけつぬみ)の化身または称号とされており、その孫が、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命(かもわけいかずち)となっていて、賀茂県主(かものあがたぬし)の祖とされている。

 また熊野にある熊野神社の神事にも、日神祭祀のトーテムとして登場するし、八咫烏神社という神社もある。

 八咫烏神社の由緒譚では、賀茂県主の祖が黒い衣装を着て木から木へと飛び移りながら一行を案内したので、〈磐余彦尊〉が「まるで大きな烏のようだ」と言われ、そこから出来た称号だとされている。

(拙著『女性天皇の歴史(栄光出版社)』参照/〈八咫烏〉の足が三本あったという俗説が最近流行しているが、史料に基づくそれへの反論をこの書に記しておいた。この掲示板でも連載した)

 熊野神社を根城とする熊野一族は、物部一族などとならんで〈饒速日命〉の子孫――つまり〈天照大神〉の子孫――のひとつとされ、独自の文化をもった豪族である。
 八咫烏の道案内は、この熊野一族が早期に大和朝廷に帰順したことを示しているともされる。

 そのほかいろいろな説があるが、とにかく天皇の配下につけられた綽名の一種とするのが、昔からの解釈らしい。
 この有名な神話は、昔の小学校の国史の定番であり、かならず挿絵があった(図6・4)。

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 この八咫烏に導かれて、天孫降臨以来の直参豪族である大伴氏の先祖たちが先頭にたって険しい山道を進み、ついに兎田(うだ)に達した。
 兎田はいまの宇陀郡で、図5・2の右下に記入してある。奈良盆地の南端部に近い山地である。
 ようやくにして〈磐余彦尊〉一行は、太陽を背にする南東の側から、《大和》にたどりついたのだ。

(このあたりからは、図5・2や図5・3の地図を参照しながら読んでいただきたい)


『卑弥呼と日本書紀154』

■■■■■ 六・四 〈饒速日命〉の帰順と狭井川の恋歌 ■■■■■


◆◆◆ 第一代(初代) 神武天皇の物語(2)――苦戦を制して大和進出に成功―― ◆◆◆


▽▽▽ 〈天照大神〉の助け2 ▽▽▽
〔天香具山の土で救われる〕

 兎田の首領は兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)だったが、兄猾の悪巧みを弟猾が知らせたので、無事にすんだ。
 そのあと〈磐余彦尊〉は隣接する吉野の地を視察し、井戸の中に棲んで光った身体で尾のある井光(いひか)や岩の中にいた尾のある磐排別(いわおしわく)を帰順させた。
 また阿太(あた)という地方にも行った。ここは現在の五條市の東部で、図5・2の左下の枠外にある。

 それから兎田に戻って高倉山(宇陀郡にある山)の上から《大和》を眺めると、国見丘には八十梟帥(やそたける)の軍がおり、磐余(いわれ)には兄磯城(えしき)の軍がおり、また弟猾の知らせで、磯城には磯城八十梟帥が、高尾張には赤銅八十梟帥がいて、容易なことでは《大和》に進出できないことが分かった。

 ここで八十梟帥とはたくさんの武人といった意味である。
 磐余(いわれ)と磯城(しき)は地名で、図5・3に描いておいたが、これはごく大まかな位置である。

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 国見丘は高倉山と桜井市の間にある山、高尾張も地名で、図5・2の左下の葛城地方(金剛山地の東側の御所市やその南北の広い地域)らしい。
 兄磯城は磯城の首領という意味で、磯城から磐余に出て陣地を張ったのであろう。

 悩んだ〈磐余彦尊〉が祈ると、また〈天照大神〉が夢に現れて、
「天香具山の土を取って土器の皿や酒瓶を作って祈りなさい」
 ――といわれた。
 そこで、九州の豊予海峡で味方につけていた椎根津彦(しいねつひこ)を老夫に化けさせ、兎田で帰順させた弟猾を老婆に化けさせて香具山に派遣した。


『卑弥呼と日本書紀155』

 香具山の位置は図5・2にあるが、畝傍山・耳成山とともに大和三山とされる聖山である。

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 二人は敵軍のなかを怪しまれずに進み、ぶじ香具山の土を持って帰った。

 この土で土器を作って兎田を流れる川(たぶん図5・2の右下の枠外を流れる宇陀川)で天神地祇――すべての神々――に祈ると、いろいろな奇跡があらわれた。
〈磐余彦尊〉は喜び、榊を立ててさらに諸神に祈った。

 これが、土器の皿や瓶に供物や御神酒を盛って祈る「神社神事のはじまり」とされる。
 この神事をすませた〈磐余彦尊〉は、必勝の勢いで国見丘の八十梟帥を討った。

 このあたり、討伐のたびに、久米歌といわれる歌が、大伴氏一族にひきいられた久米部という一族の人たちによって謡われている。
 久米歌は現在でも宮内庁楽師が雅楽として演奏している。

 まだ残党がいたが、大伴氏の先祖たちが、酒を飲ませて酔ったところを退治した。


▽▽▽ 〈天照大神〉の助け3 ▽▽▽
〔再度、八咫烏の救援〕

 こうして〈磐余彦尊〉の軍勢は、いよいよ磐余地方に迫った。
 図5・3の右下部分に到着し、楕円で描いた磐余の地を目前にしたのだ。
 磐余には兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)という首領がおり、彼らが八十梟帥たちを配下にしていたのだが、強敵であり従おうとはしなかったので、八咫烏に頼んで、空から帰順を呼びかけてもらった。

 すると、兄磯城は烏が不吉な声で鳴いている――と怒って矢を射た。
 八咫烏は逃げて、弟磯城の上で呼びかけたところ、弟磯城は恐れ畏んで、八咫烏に料理をふるまい、〈磐余彦尊〉に帰順した(*)。
 兄磯城はあくまでも逆らったが、〈磐余彦尊〉の軍は二手に分かれる作戦をたてて猛攻し、兵が疲労すると〈磐余彦尊〉が歌をつくって励ますなど、日本神話独特の歌の力を加味して、ついに兄磯城を平らげ、待望の磐余や磯城の地に進出することができた。

(* この〈八咫烏〉のエピソードも、〈八咫烏〉が紀伊半島または《大和》の近くの豪族であった事を示唆している)


『卑弥呼と日本書紀156』

 神武天皇の実名は彦火火出見尊だが、国風謚号の〈磐余彦尊〉に磐余(いわれ)地方の名が入っているのは、この磐余や磯城での戦いを記念したからかもしれないし、磐余が大和朝廷にとって「重要な土地」だったからかもしれない。
 さらに、出身の秘密が磐余地方にあったからかもしれない。

 この土地は、のちに聖徳太子らが活躍した飛鳥の隣接地である。
 神武天皇のこの名前の問題にも、古来諸説がある。


▽▽▽ 〈天照大神〉の助け4 ▽▽▽
〔金の鵄の救援〕

 こうして〈磐余彦尊〉の一行は、大和平野を北上して、いよいよ、《大和》に君臨していた長髄彦(ながすねひこ)の軍勢と直接対決することになった。
 しかし、大阪湾から入って河内から生駒を越えようしたとき、戦って勝てず、長兄の彦五瀬命の命まで奪った強敵なので、たとえ太陽を背後にしたといっても、簡単には討伐できなかった。

 いくたび戦っても勝利できず、困惑しているとき、奇跡が起こった。
 天がにわかにかき曇って、雹が降ってきたかと思うと、金色の霊妙な鵄(とび)が飛翔してきて、〈磐余彦尊〉の弓の先に止まったのである。

 その鵄は光輝いて、稲妻のようであり、その光に撃たれて長髄彦の軍勢は目がくらんで混乱し、戦う気力も無くなってしまった。
 この現象も有名で、やはり昔の教科書の挿絵の定番であった。
 図6・4の左である。
 この金色の鵄にちなんだ勲章が「金鵄勲章」で、いまは廃止されているが軍功抜群の軍人に下賜されていた(*)。

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 その奇跡が起こったのは、鵄の村がなまって鳥見(とみ)となっている場所で、図5・2の枠外のずっと北で、いまの奈良市西部の鳥見町や富雄元町のあたり(近鉄奈良線の富雄駅近く(**)らしい。

 奈良盆地を北へ一気に駆け抜けて長髄彦と対決したのだ。

(* 神武東征を助けた鳥に、〈八咫烏〉と〈金鵄〉があるが、この二つはまったく性質が異なる。〈八咫烏〉は天皇の配下として記されているが、〈金鵄〉は光を放つ神秘の鳥である)

(** 現奈良市ではなく、《大和》の南端部にある神武天皇の神事で有名な鳥見山のあたり(現桜井市)だったのではないか――という気もしないではない)


『卑弥呼と日本書紀157』

▽▽▽ 〈饒速日命〉の出現と帰順 ▽▽▽

 こうして勢いづいた〈磐余彦尊(いわれひこ)〉は、さらに軍勢を進めて強襲したところ、長髄彦は使者を派遣してきた。

 使者は述べた。
「昔この地に天神の御子である〈饒速日命(にぎはやひ)〉が天磐船に乗って降臨され、妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)と結婚して可美眞手命(うましまで)をお生みになりました。天神の御子がお二方もおられるはずはありません」
〈磐余彦尊〉はこれに答えて、
「天神の御子はたくさんいる。もし〈饒速日命〉が本当に天神の御子なら証拠がある筈だ。見せなさい」
 ――といった。
 すると長髄彦は、〈饒速日命〉の天上界の矢とそれを入れる用具を見せた。
〈磐余彦尊〉は、
「たしかに本物だ」
 ――と述べて、自分の矢と入れる道具を見せた。
 それは〈饒速日命〉のものとまったく同じだった。

 この交渉で長髄彦は〈磐余彦尊〉に畏敬の念を抱いたものの、反抗心は変わらなかった。
 しかしこのことを知った〈饒速日命〉は、天神が〈磐余彦尊〉の味方をしていることを感じとり、また長髄彦の乱暴な性質も知っていたので、長髄彦を葬って、〈磐余彦尊〉に帰順した。

〈磐余彦尊〉は、〈饒速日命〉が自分と同じ〈天照大神〉の子孫――つまり自分の祖父または曾祖父の兄弟――であることを知っていたし、また自ら帰順したので、これを褒賞して親しくされ、味方につけた。

 この〈饒速日命〉の子孫は、尾張一族、(熊野一族?←佐伯の日本古代氏族事典にある)、海部一族などたくさんいるが、その代表が、大和朝廷の重臣となった物部一族である。
 そのご、あちこちに残って反抗していた土蜘蛛たち――生駒市、奈良市、天理市、御所市などの土着の豪族たち――を破って帰属させた。

*****


『卑弥呼と日本書紀158』

 ここまでの東征譚を読むと、大和朝廷の先祖たちは、圧倒的な軍事力や戦いのうまさによって制覇するのではなく、先祖神の助けを得ながら、アノ手コノ手で敵を帰順させて進んだことがわかる。

 敵対していた豪族たちを策によって帰順させ、恩賞や名誉をあたえて味方につけるやり方は、ずっとあとの天皇たちも同じである。
 神社にもその証拠が残っていて、大和朝廷のがわの神社よりも、敵対していた出雲の神社のほうが巨大だし、《大和》をめぐる競争相手だった〈饒速日命〉を祀る神社も多い。
(じつは、この平和的な方法は、明治〜平成にまで、形は違うが続いているといえる。谷沢永一の著作など参照)


▽▽▽ 皇宮の造営と皇后の決定 ▽▽▽

 こうして《大和》は瓊瓊杵尊の曾孫にあたる〈磐余彦尊〉によって平定された。
 やがて〈磐余彦尊〉は次の詔勅を発する。
 これは大和朝廷の「施政方針演説の原型」である。

「東征してから六年がたった。遠い地にはまだ賊もいるが、この《大和》は平穏である。そこで、都をつくり宮殿を建てて皇位につこうと思う。
 そして、天神の〈天照大神〉と高皇産靈神が国を授けてくださったご意向に応え、天孫の瓊瓊杵尊の正しい御心を広めよう。
 その場所は大和の奥深い場所である畝傍(うねび)山の東南の橿原(かしはら/図5・2や5・3参照、現在の橿原神宮のあたり)がよい」

 そしてそこに宮殿を造営なさった。

 また、皇妃を求めたところ、ある人が推薦して、〈大己貴神〉(大國主神)の子どもの事代主神が玉櫛媛(たまくしひめ)を娶って産んだ媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ/彦が頭に来る名と同じく媛が頭に来ている。彦や媛が尊称だったからである)が容姿秀麗で最適です――と申し上げたところ、〈磐余彦尊〉はお喜びになって、宮中に召して正妃とされた。
 
 正式におきめになるまえに〈磐余彦尊〉は、《三輪山》から流れ出る狭井川の近くで遊ぶ媛を見て気に入り、その媛の家に泊まって歌を詠んだと、伝えられている。
 これが歴代天皇最初の御製である。


『卑弥呼と日本書紀159』

 初代の天皇の最初の御製が、好きな女性と寝た情景を謡っているところに、大和朝廷のおもしろさがある。

葦原の 穢(しけ)しき小屋に 菅畳 いやさや敷きて わがふたり寝し
(葦の原のなかのまずしい小屋で菅のむしろを敷いて、わたしたちふたりは寝たものだ)

 注目すべきは、この媛の名に蹈鞴(たたら)がついていることである。
 タタラとはもちろん古代の製鉄に用いられた足踏みの大型フイゴ(またはそのような製鉄場所)のことである。
 つまり初代の皇后が「製鉄に関係する名」をもっているのだ。

 図8・5の左側を参照していただきたいが、媛の家は《三輪山》の山麓を流れる狭井川(さいがわ)のほとりにあったと記されている。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H84-85.htm

 そこにはいまも記念碑が建てられているが、水源の《三輪山》はもともと鉄鉱石を産したとされ、またそこから流れでる川からも砂鉄がとれたとされている。
 磐余と《三輪山》のあいだには、製鉄を意味する金屋という地名ものこされ、付近からは古代製鉄所の遺跡が発見されている。
 さらにこのあたりは、玉や朱の原料も豊富だった。
 大和朝廷の先祖が《三輪山》山麓の《大和》に進出した背景に、鉄やその他の産物の問題があったことを想像させる伝承である。

 この媛命については、『古事記』にすこし違った伝承があり、《三輪山》に祀られる〈大物主神〉が、朱塗りの矢に変身して高貴な姫の陰部を突き、そして結婚して産まれたのがこの五十鈴媛だとされている。
《三輪山》の問題は第八章以降で詳しく述べるが、〈大物主神〉は〈大國主神〉の分身だという神話もあり、〈饒速日命〉一族のほかに《大和》の土地の豪族や出雲の〈大國主神〉一族などをともに納得させるために、大和朝廷が苦労して親戚扱いした痕跡が、『記紀』のさまざまな場面に顔を出している。


『卑弥呼と日本書紀160』

『古事記』は物語性がひじょうに強く、出雲の国譲りも、さまざまな童話風のエピソードがあり、史書というよりも歴史物語といったほうがよい。
 先の短歌も『古事記』にあるものである。

*****

 なお神武東征伝承が史実の反映であることの証拠として、高地性集落の分布があげられている。
 高地性集落とは、平地近くの高地に出来て、しばらくして消える集落のことで、平地の人たちが戦乱を避けて高地に避難したためではないか――とされている。
 そしてその分布を調べてみると、図6・3の神武東征経路に沿って沢山あり、他にはあまり無いのである。
 この事から、大和朝廷の先祖の九州から大和への進出は、史実だったのだろうとの説が昔からある。

 この問題について、最近では、芥川賞作家の高城修三が詳しい考察を発表している。
 また、産経新聞の八木荘司は、
「このような神武東征譚が史実を反映しているとすると、『魏志倭人伝』にある「倭国の乱」はこの東征の結果としておこった戦乱かもしれない。とくに東征経路に防御につよい高地性集落が多く出現したことは、この仮説を裏づけている」
 ――と述べている。

 以下に、高地性集落と東征譚を結びつける説の中でもとくに興味深い高城説を記してみよう。


『卑弥呼と日本書紀161』

■■■■■ 六・S 高地性集落と神武東征経路 ■■■■■


 神武天皇の東征伝説と考古学の関係に著者が注目するのは、その年代が、〈卑弥呼〉が活躍した年代と繋がっているように思われるからである。
 ただし以下は、一次資料を私が料理したものではなく、二次資料の紹介とそれへの感想である。


◆◆◆ 小野忠熈博士の研究 ◆◆◆

 小野忠熈(ただひろ)博士は、一九二〇年の生まれで、立命館大学の地理学科を卒業して遺跡調査に邁進し、多くの業績を上げた学者である。
 とくに高地性集落の遺跡研究は有名で、考古学における一つのジャンルを確立したといってもよいと思う。
(『高地性集落と倭国大乱――小野博士退官記念論集』雄山閣出版など参照)

 高地性集落とは、稲作などに適した低地の背後にある、決して住み良いとは言えない高地にできた集落である。
 この集落が興味深いのは、永続的ではなく、多くの場合、ある時期に突然出来て、しばらくして消えることである。

 これは、
「低地に居住していた集団が、ある理由で急に高地に移り、しばらくしてその理由が無くなったために稲作に良い元の低地に戻った」
 ――ことを意味するのではないか、と考えられている。

 この高地性集落というのは、見晴らしが良くて守りに強い高台に造られるのが特徴で、「見張り台」とか「山城」かといった機能をも持っていたとされる。
 つまり、戦争と関係があるらしいのだ。

 日本の歴史でこのような一種の山城が盛んに造られたのは、

[一]戦国時代
[二]白村江の大会戦など六〜八世紀の朝鮮半島や大陸との関係が緊張した時代
[三]高地性集落の形で遺跡が残されている弥生時代

 ――の三時代であり、詳細が分かっている[一]と[二]の理由が戦乱を乗り切るためであるので、[三]の弥生時代の「高地性集落=山城」も、戦乱を生き抜くための智恵ではなかったか、との推測が成立する。


『卑弥呼と日本書紀162』

 とくに、古くから永続的に高地にあったのではなく、低地から突然移って、しばらくしてまた低地に戻ったらしいことが遺跡から言えるので、なおさら、右の推測がなされるのである。

 遺跡の研究結果をもとに考古学者の田中琢が作図した分布地図は有名(たとえば後記高城修三氏の本に掲載)だが、四国の一部を除くと、神武東征の経路に沿ってのみ、高地性集落が分布している。
『日本書紀』や『古事記』による神武東征の地図はよく描かれているが、図S4のようにそれとこれとを見比べると、ドキッとするほど一致しているのだ。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/HS2-4.htm

 驚くべきことに、神武天皇の軍勢が大阪湾奥から退いて熊野周りで背後をつくために紀州を迂回したその迂回ルートにまで、高地性集落が分布しているのだ。
 そして神武東征ルート以外にはほとんど無い。
(時代をさらに分けた図では、このことはもっとはっきりするらしい)

 多くの学者がこのことに注目して、神武東征や『魏志倭人伝』にある倭国の乱と高地性集落とが関係しているのではないか――との仮説を唱えた。

 この仮説はもう数十年も前からあり、大衆的な邪馬台国の本にも出ている。
 ただし、弥生時代の集落の年代の信憑性の高い推定はなかなか困難で、前記の有名な地図も、かなり幅のある期間の集落を集めたもののように思えるし、データが古いようである。

 だから、あまり大胆なことは言えなかったのだが、最近の考古学資料はかなり充実してきているので、大胆な仮説を唱える人も出てきた。
 その仮説の一部をご紹介する。


『卑弥呼と日本書紀163』

(補足)

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/HS2-4.htm

 地図S4の下図を見ていただきたい。大阪付近に高地性集落が集中しており、『記紀』の記述とよく一致しているが、その他、瀬戸内海沿岸の安芸と吉備にも高地性集落が集中している。
 これも実は、『記紀』の記述とよく対応しているのだ。
 九州を出てから瀬戸内を通って大阪に達するまでの神武東征軍が、安芸に仮宮を建てて逗留していたこと、吉備に仮宮を建てて三年も留まっていたことが、『日本書紀』に明記されているのである。
 つまり、神武東征譚と最近の考古学資料とは、大阪→大和だけではなく、遠征途中の瀬戸内海沿岸の経路まで含めて、よく対応しているのである)


◆◆◆ 高城修三氏の推理 ◆◆◆

 高城修三氏は一九四七年の生まれ。京都大学の文学部を出た小説家で、一九七七年に『榧の木祭り』で芥川賞を受賞した。
 最近は「《邪馬台国》大和説」を独自の視点から探究して、何冊もの本を出しておられる。
 強い信念で大和説を唱えている方で、一年を春秋二年とする考えがその基本にある。

 その高城氏は、『大和は邪馬台国である』(東方出版)という本の中で、「《邪馬台国》大和説」を提唱し、その論拠の一部として、高地性集落について記しておられる。
 ここでは、その本から資料を引用して、
「神武東征や倭国大乱と高地性集落の関係」
 ――について、どういうことが考えられているのかを、記してみよう。

『記紀』には、何波にもわたる、高天原および九州の日向の地からの「葦原中国」――たぶん大和――への軍事的派遣が記されている。
(注 葦原中国が大和であろうという話は、考古学からも来ている。大和は葦の豊富な水郷地帯で、その水郷の中の陸地に、古代の遺跡がたくさんある)

第一波――
〈天照大神〉と〈素戔嗚尊〉の軋轢の中で産まれた五柱の神の二番目にあたる〈天穂日命〉を、〈高皇産霊尊(たかみむすひ)〉が派遣した。
 派遣の理由は五柱の長男の〈天忍穂耳尊〉が〈高皇産霊尊〉の姫と結婚して産んだ〈瓊瓊杵尊〉を「葦原中国」に降臨(天孫降臨)させるにあたって、反抗する者を承伏させるためであった。
 しかし〈天穂日命〉は葦原中国の〈大己貴神(大国主神)〉に籠絡されてしまって、三年たっても帰ってこなかった。

第二波――
 そこで〈天穂日命〉の子の〈大背飯三熊之大人(おおせいみくまのうし)〉を派遣したが、父親に従ってしまって、やはり帰ってこなかった。

第三波――
 ついで、〈天国玉(あまつくにたま)〉の子の〈天稚彦(あめわかひこ)〉を派遣したが、〈大国主神〉の娘〈下照姫(したでるひめ)〉を娶って、「自分が葦原中国を統治するのだ」と言って帰ってこなかった。やがて怒った〈高皇産霊尊〉の放った矢に当たって死んでしまう。


『卑弥呼と日本書紀164』

第四波――
 そこでさらに〈高皇産霊尊〉は神々と相談して、剛勇できこえる〈経津主神〉に〈武甕槌神〉をつき添わせて「葦原中国」に派遣した。
 この二神は、〈大己貴神〉のいる出雲に出向いて、剣の切っ先の上にあぐらをかくという凄い迫力で談判したところ、〈大己貴神〉は息子の〈事代主神〉と相談して、自分たちの国を高天原に譲ることを承諾した。
 そして〈大己貴神〉=〈大国主神〉は遠方――現在の出雲の地か越前方面?――に隠れることにし、息子の〈事代主神〉は海中に隠れた。

第五波――
 ようやく「葦原中国」が平定されたので、〈瓊瓊杵尊〉が日向の地に降臨し、その子孫の神武天皇が大和に進出する足がかりができた。

第五・一波――
 この直後と思われる時期に、〈瓊瓊杵尊〉の兄弟または子にあたる〈饒速日命〉が瀬戸内海を経由して現大阪府の河内のあたりに降臨する。

第五・二波――
 この〈饒速日命〉の降臨は、別説によれば、はじめ丹後に着き、そこから河内に入ったとされている。

第六波――
〈瓊瓊杵尊〉の曾孫にあたる神武天皇が東征を企画し、強力な軍勢を率いて瀬戸内海を経由し、熊野をまわって大和への進出に成功する。これが神武東征である。

第七波――
 神武東征以後も、大和朝廷に逆らう周辺豪族との戦い、崇神天皇の四道将軍派遣、景行天皇や日本武尊の九州遠征などがある。

 これを見ると、『記紀』における九州から近畿または大和への東遷は、何度にもおよんでおり、文章どおりとすれば、五回以上もあったことになる。

*****

 一方『魏志倭人伝』およびその後のシナ史書にある倭国の大乱は、どうやら、「西暦一五〇年から一八〇年ごろ(二世紀後半)」の時代の日本列島西部の戦乱を指しているらしい――と言われている。

 次は、問題の高地性集落が、これら東征伝説とどのように関連づけられるかについての推理である。


『卑弥呼と日本書紀165』

◆◆◆ 森岡秀人氏の提案 ◆◆◆

 最近の考古学の資料を基にすると、高地性集落の年代は、どのように整理できるのか、興味がある。
 これについては、考古学者の森岡秀人氏が、新しい考古学成果を取り入れて、つぎの五段階を提案しているとされる。
(高城氏の著作より)

〔第一段階〕
 時期 紀元前二世紀末〜前一世紀中頃
 地域 北九州・瀬戸内・大阪湾岸

〔第二段階〕
 時期 一世紀初頭
 地域 瀬戸内・近畿

〔第三段階〕
 時期 一世紀中頃〜二世紀前半
 地域 表六甲・紀伊北中部・大和南部

〔第四段階〕
 時期 二世紀後半〜三世紀初頭
 地域 淀川流域・南山城・近江・南河内・中国四国九州の要地

〔第五段階〕
 時期 三世紀前半〜
 地域 北陸・東国

 じつに興味深い整理結果である。
 もし、神武東征が西紀元年〜二〇〇年ごろとすると、それは第二段階から第四段階のどこかに相当する。
 また『魏志倭人伝』の倭国の乱がよく言われるように一五〇年から一八〇年ごろとすると、それは第四段階に相当する。

 もっとも、『記紀』や『魏志倭人伝』などの文献からの年代推理も、かなりの幅があるので、いずれにせよおおまかな事しか言えない。

 この五段階提案を元に、高城修三氏は、一つの結論を記している。
 それは、神武東征と高地性集落の間には驚くほどの対応が見られる――という事である。


『卑弥呼と日本書紀166』

◆◆◆ 高城修三氏の結論 ◆◆◆

 高城氏は、森岡秀人氏が区分けした段階について考察して、

◎第三段階→神武東征
◎第四段階→〈倭迹迹日百襲姫命〉の活躍/倭国大乱

 ――とあてはめ、『記紀』における第四段階の対応を、神武東征が終わってから、崇神天皇による三輪山麓の本格政権発足までの間の混乱として考えている。
『日本書紀』を読むと、崇神天皇が四道将軍を派遣するまでに、大和の周辺でかなりの混乱があり、それが〈倭迹迹日百襲姫命〉によって救われたと判断できることから、高城氏の推理は、かなりの迫力がある。

 つまり――

「第四段階は『魏志倭人伝』にある倭国大乱であり、それは神武天皇と崇神天皇の間の御代に起こり、『日本書紀』に記されている〈倭迹迹日百襲姫命〉が鎮圧法を忠告した事件そのものだ――ということである」

『日本書紀』などにある神武東征の経路は、戦闘ではなく、進軍の経路である。
 神武天皇の東征は、小さな波乱は別にすると、安芸に宮を建てて滞在したのち、吉備(岡山県のあたり)に宮を建てて数年滞在して十分に準備し、準備なってから現神戸を経て大阪湾奥――古代の汽水湖――から大和へ向かおうとして激戦するがうまくいかず、後退して紀伊半島を迂回して大和の南部から大和盆地へ向かって成功する。
 これは第三段階にある「表六甲・紀伊北中部・大和南部」という高地性集落分布と、よく照応している。

 興味深いのは、安芸と吉備の高地性集落の意味である。
 この二点に神武東征軍が仮宮を建てて長期滞在したことは『日本書紀』に記されているが、ここの豪族たちと激しい戦いをしたとは書かれていない。
 だから、神武東征の時代には安芸と吉備はすでに神武軍の支配下になっていたとも考えられる。
 だとすれば、この二箇所の高地性集落の密集は、その前の(第二段階など)の戦争によるものという事になる。


『卑弥呼と日本書紀167』

◆◆◆ 著者の仮説 ◆◆◆

 高城氏などの以上の資料をもとにして著者があえて大胆な仮説をつくると、つぎのようになる。

A 『日本書紀』などの第一波〜第五波→高地性集落の第一段階〜第二段階
B 『日本書紀』の第六波(神武東征)→高地性集落の第三段階
C 『日本書紀』にある倭迹迹日百襲姫命の活躍、および『魏志倭人伝』の倭国の乱→高地性集落の第四段階
D 『日本書紀』の第七波(四道将軍など)→高地性集落の第五段階

 そして、神武東征が史実の反映だったとした場合、その実年代は、以上から、西暦一〇〇年前後ではなかったかと考えられる。

*****

 ここで、神武東征は第二段階ではないか、という意見もあるようなので、著者の考えを記しておく。

 神武天皇はたしかに大阪湾岸――今の大阪湾よりずっと奥――で激戦を演じるのだが、第三段階にはその周辺の高地性集落はあまり多くなく、むしろ第二段階にそれがある。
 これが、神武東征を第二段階とする考え方だが、私はやはり第三段階が可能性が高いと思う。
 その理由は次のとおりである。

 神武勢は大阪湾奥では〈饒速日命〉勢にやられてしまって、退却している。
 ということは、地元の勢力が勝ったわけだから、地元勢はわざわざ不便な高地に逃げたり防御を固めたりする必要は少ない。
 神武勢を撃退したのだから・・・。

 で、神武東征神話において、神武勢が勝った地点だけを見ると、第三段階の高地性集落の考古学データとよく一致しているのだ。
 だから、第三段階と神武東征はかなりよく照応すると言えるのだ。


『卑弥呼と日本書紀168』

*****

 これまでに記した仮説(または憶測)は、あくまでも仮説(または憶測)に過ぎず、学説にはいたっていない。
 考古学的研究が途上だからである。
 とくに年代推定の精度が問題である。
 だから、「年輪年代法」などを活用した高地性集落遺跡年代のさらなる精密な研究が、倭国の乱や神武東征の史実性の検討に欠かせなくなるだろうと予想される。

 たしかに言えるのは、

「高地性集落の研究は文献史学と考古学とを結ぶ重要な接点である」

 ――という事である。

 この問題の最後に、この高地性集落のこれまでの研究成果は、「《邪馬台国》九州説」の中心に据えられている〈卑弥呼〉以後の東遷説では、説明困難であることを、強調しておく。

 もし〈卑弥呼〉が九州の女王でその後継者が東遷したとすると、それは時代的に第五段階かそれ以後という事になるが、現在の考古学のデータでは、その時代の高地性集落の分布は九州から大和ではなく、大和から東や北の方角なのだ。

 つまり崇神天皇時代の四道将軍の大和から四方への派遣とは照応するが、西方の九州から大和への進出とは合わないのである。
 このことも、考古学者が大和説に傾く大きな理由になっているらしい。

 以上は、憶測から仮説に進化しかかっているというレベルの話で、まだまだデータの足りない問題であることを強調しておく。
 戦史学によるさらなる研究も必要であろう。


『卑弥呼と日本書紀169』

■■■■■ 六・五 神武天皇の即位と崩御 ■■■■■


◆◆◆ 第一代(初代) 神武天皇の物語(3)――即位から崩御まで―― ◆◆◆


▽▽▽ 神武天皇の即位 ▽▽▽

 こうしてすべては整い、辛酉の年――西暦に換算すると紀元前六六〇年――に、〈磐余彦尊〉は橿原宮で即位し、初代の天皇となった。
 そして正妃の五十鈴媛を皇后とされた。
 この皇后は二人の皇子、神八井命(かむやい)と神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ)をお生みになったが、後者が第二代の綏靖天皇(すいぜい)である。

 即位された〈磐余彦尊〉は、その国風謚号(御名)を、
「神日本磐余彦火火出見天皇」
 ――といわれる。
 また『記紀』編纂後の人が漢風謚号をきめて、
「神武天皇」
 ――と申し上げた。
 また人々はこの初代天皇を、
「始馭天下之天皇」
 ――と讃えた。
 これは賞賛を意味する称号で、はじめて国を治められた天皇という意味である。
(読みは前出)

(もちろん六世紀より前には「天皇」という尊称はなかったので、漢字での表記は「王」または「大王」だったであろう。日本語としての訓読みは「オオキミ」や「スメラミコト」だったのであろう)

 さらに諱は、
「彦火火出見」(幼名を狭野尊)
 ――である。

 諱とは生前の実名のことで、死後は使用することを忌むのでイミナというらしい。神武天皇の諱が祖父の山幸彦と同じであることは前述した。


『卑弥呼と日本書紀170』

 はじめの二つの謚号(御追号)とは、先般崩御された皇太后陛下に香淳皇后という御名を謚ったのと同様な命名で、国風謚号は『記紀』編纂時からだが、二字からなる漢風謚号は八世紀半ばに第三十九代弘文天皇の曾孫にあたる学者・淡海三船が定めたともいわれている。
 したがって古代のすべての天皇は、『記紀』が完成したあとは、国風・漢風二種の尊称をお持ちである。

 こうして、天神〈天照大神〉から数えて五代目にあたり、〈天照大神〉の孫の瓊瓊杵尊から数えて三代目、すなわち曾孫にあたる〈磐余彦尊〉が、初代の神武天皇となられたのである。

 即位ののち天皇は、大伴氏の先祖をはじめとして功臣たちの論功行賞を行われた。
 敵対したがのちに帰順した首領たちにも、たとえば弟磯城は磯城の県主、弟猾は猛田(宇陀郡または橿原市の一部)の県主・・・といったように、恩賞を与えられた。
 最大の強敵だった〈饒速日命〉系の物部一族にも、熊野の苦難の際に〈天照大神〉から授けられた霊剣「布都御魂」を下賜され、その帰順の恩賞とした。
 この霊剣は前記のように物部が担当する《石上神宮》の祭神として祀られた。

(このとき、〈八咫烏〉にも恩賞が与えられ、その子孫のことが記されている。したがって『日本書紀』の編者が〈八咫烏〉を天皇の配下の人間と理解していた事は明かである。なお金鵄には恩賞はなく、金鵄と八咫烏は明確に区別されている)


▽▽▽ 神社祭祀の原型 ▽▽▽

 論功行賞のあと〈磐余彦尊〉は勅語して、

「わが皇祖の御霊が、我が身を助けてくださった。そして天下は何事もなく治まっている。 そこで天神を都の郊外に祀って大孝をなそう」

 ――と申されて、斎場を鳥見山に設けて、神事をなされた。

 これが有名な「鳥見山の祖神祭祀」で、大和朝廷ができて最初の、きちんとした斎場を設けての祭祀であり、やはり昔の国史の挿絵の定番となっている。
 図6・5にその例を示したが、日本画の画題としても、天の岩屋や天孫降臨や金鵄とならんで有名である。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H62-71.htm


『卑弥呼と日本書紀171』

 図6・5の天皇の正面にあるのは、榊にかけられた鏡と勾玉と剣であり、三種の神器そのものかどうかはわからないが、そのような三点セットである。
 また前の祭壇の上にあるのは、土器に盛られた、神酒や農産物などの神饌(御供物)である。

 これらは、兄磯城らを討ったときに〈天照大神〉から教えられて香具山の土で土器を作ったときにできたとされる作法で、この神事作法はいまに続いている。

 考古学的にいっても、古代の祭祀は山中の大きな岩などを斎場としておこなわれたことが多かったらしく、そのような遺跡が《大和》の地ほか全国に多くみられる。
 山中の岩での祈りそのものの起源はとても古く、年代的には縄文時代からなされていたらしい。
「鳥見山の祖神祭祀」はこの縄文以来の伝統的な祭祀を大和朝廷が形をととのえておこなったことを示す伝承である。
 また場所を定めたという意味では、神社の原型でもある。
 じじつ、古い神社を発掘すると、縄文から弥生にかけての岩上の祭祀遺跡が見つかることが多いらしい。
 日本の神社の歴史はおそろしく古いのだ。

 なお鳥見山とは、前出したように、現在のJR桜井駅の南東約一・五キロほどのところにある小さな山で、長髄彦の鳥見とは別である。
 図5・2におおまかな位置を示してある。
 渡部昇一は若いころにこの鳥見山に登って、そこから大和三山が一望できることを知り、またそこにある古い神社の宮司の話を聞いて、

「ここなら神武天皇が天神を祀ったという『日本書紀』の記述によく一致していると思った」

 ――と語っている。


『卑弥呼と日本書紀172』

▽▽▽ 《大和》の美称 ▽▽▽

 これで『日本書紀』における神武東征の物語は終わるのだが、最後に、この《大和》の地を讃えた美称が記されている。

 神武天皇は、
「なんと美しい国だろう。狭いけれども蜻蛉(あきつ)が輪になっている姿のようだ」
 ――と仰せられたので、
「秋津洲(あきつしま)」
 ――という名ができた。

 伊弉諾尊(いざなぎ)が昔述べた御言葉から
「秀真国(ほつま)」
 ――という名ができた。

〈大己貴神(おおなむち)〉は、
「玉牆(たまかき)の内つ国」
(美しい垣根のような山々に囲まれた国という意味)
 ――といわれた。

〈饒速日命(にぎはやひ)〉は、天磐船(あまのいわふね)に乗って虚空を飛翔してこの国に天降ったので、
「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」
 ――といわれた。
 これから「ソラミツ」が日本(大和)の枕詞のひとつとなった。
〈饒速日命〉の天磐船とは、この命が河内から生駒山地をこえて奈良盆地に入ったときの山越えを神話的に表現したものであろう。


▽▽▽ 立太子と崩御 ▽▽▽

 即位から四十二年の年に、神渟名川耳尊を皇太子とされた。この皇子が第二代の綏靖天皇である。
 即位七十六年に橿原宮で崩御された。宝算(御年)百二十七歳であった。
 翌年、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)に葬られた。


『卑弥呼と日本書紀173』

◆◆◆ 欠史八代のこと ◆◆◆

 これで〈天照大神〉の「天の岩屋隠れ」と神武天皇の東征譚はおわるのだが、この初代の神武天皇と第十代の崇神天皇の間にある第二代から第九代の八代の天皇については、その業績はごくわずかしか残されていない。
〈天照大神〉以外で〈卑彌呼〉の候補となりうる女性が活躍するのも、第十代以降である。
 しかし無視することはできないので、ここにその謚号や皇宮の場所を、『日本書紀』にあるとおりに記しておく。

 なかでも第七代から第九代にかけては、〈卑彌呼〉の候補のひとりである〈倭迹迹日百襲姫命〉の生誕に関係しているので、重要である。

第二代 綏靖 天皇(神渟名川耳天皇)
       〈八十四歳〉〔奈良県御所市〕
第三代 安寧 天皇(磯城津彦玉手看天皇)
       〈六十七歳〉〔奈良県大和高田市〕
第四代 懿徳 天皇(大日本彦耜友天皇)
       〈七十七歳〉〔奈良県橿原市〕
第五代 孝昭 天皇(觀松彦香殖稻天皇)
       〈百十四歳〉〔奈良県御所市〕
第六代 孝安 天皇(日本足彦國押人天皇)
       〈百三十七歳〉〔奈良県御所市〕
第七代 孝靈 天皇(大日本根子彦太瓊天皇)
       〈百二十八歳〉〔奈良県田原本町〕
第八代 孝元 天皇(大日本根子彦國牽天皇)
       〈百十六歳〉〔奈良県橿原市〕
第九代 開化 天皇(稚日本根子彦大日日天皇)
       〈百十一歳〉〔奈良県奈良市〕

 ( )内は国風謚号、〈 〉は宝算つまり崩御されたご年令、〔 〕内は皇宮がおかれたと伝えられる現在位置である。国風謚号の天皇は「スメラミコト」とお読みする。
 皇宮の位置は、開化天皇以外はすべて奈良盆地南部で、狭い意味での《大和》やその周辺にある。図8・1を参照されたい。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm


『卑弥呼と日本書紀174』

 第十代の崇神天皇の実在性については疑う人はすくないが、それまでの第二代から第九代については、『記紀』における記述がわずかなので、架空の天皇だという史家もおり、欠史八代などとも呼ばれている。

 また初代の神武天皇は第十代崇神天皇の業績を投影した創作だろうという人もいる。
 崇神天皇紀に、「初めて国をつくった天皇」という、神武天皇と同じ尊称が記されているからだ。
 しかしこれに反論して、歴史的事実の反映がある――と主張する学者も多い。

 何人かの学者が述べているが、もしすべて架空だったとしたら、年齢を標準的なものにして代数をずっと増やしただろうと考えられる。そのほうが大和朝廷の権威が増すからである。
 また神武天皇の即位年にしても、もっとずっと遠い過去にしたであろう。そのほうが外国への発言権も増すからである。

 だが、奈良時代初期の『記紀』の編集者たちはそうはしなかった。
 ――ということは、じっさいにこのような天皇の伝承が各豪族に伝えられており、その初代の即位年を、なんとか納得できる範囲でなるべく古い時代にしようと、革命のおこるとされた辛酉の年の西紀前六六〇年とし、各代の天皇の宝算を「ありうるきわめて長寿」ということにしたのではないだろうか。
 ・・・これが、実在を主張する人たちの意見であり、著者も同感である。
(実在を主張する意見が書かれている現行の高校歴史教科書もある)

 初代の神武天皇の偉大な事績については、現在の著名企業の社史にのこる創始者の物語になぞらえると分かりやすい。
「地方から東京へ出てきて商店を創業してその町で最大にしたのが初代で、そのあと何代目かに有能な企業家や発明家が出て、その商店を一部上場の大企業に育て上げた」
 ――といった物語は、企業史の定番である。

 一例をあげれば、マンモス企業の島津製作所の基礎を築いた実質的な初代は、蓄電池の世界的発明家だった二代目島津源藏だが、厳密な意味での初代は、その父親の初代島津源藏である。初代源藏も優れた技術者だったらしいが、二代目は飛び抜けた発明家兼企業家だったのだ。


『卑弥呼と日本書紀175』

 他の多くの企業についても、似たことがいえる。
 厳密な意味での初代と事実上の初代との間に、真面目だが社史で強調するほどではない地味な何代かの商店主がいることも、もちろんある。

 これを大和朝廷の伝承にあてはめると、大和朝廷の第一歩を印した厳密な意味での初代が神武天皇で、王権を確立した実質的な初代が第十代の崇神天皇だということになり、それは初代が二人いるからおかしい――ということにはならない。

 神武天皇から開化天皇までは、三輪山麓南部の《大和》の地のみを支配した豪族であり、崇神天皇になって、《大和》の地全体を支配し、さらに《大和》以外の各地の豪族まで帰順させた強力な政権となったのであろう。
 このように考えれば、『記紀』の記述は理解できるし、また神武と崇神の間の何代かの天皇の事績がとりたてて記すほどではないことも理解できる。

*****

 第二代から第九代にかけての天皇紀に記述が少ないと記したが、〈倭迹迹日百襲姫命〉の生誕以外にも、興味ぶかい話はのこされている。
 その一つに、神武皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命が歌で皇太子を救ったエピソードがある。

狭井川よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす

 ――がそれである。
 これは、皇太子はじめ自分の生んだ御子たちに対して、神武天皇とともに東征した異母兄・手研耳尊(たぎしみみ)が叛乱しようとしたとき、その急を知らせた歌とされている。
 神武天皇崩御ののち、皇后はこの異母兄の妃になった。
 だから、自分の義理の息子を夫にしたところ、その夫が自分の実子を殺そうと計るという、悲惨な事件である。

 なおこの異母兄は実質上は一時期天皇だったのではないかともいわれている。
 こういう複雑な事情が記されている『記紀』は、神武天皇紀であっても、やはり史実を反映していると考えられる。
 創作ならば、こんな生臭く不名誉な話は書かなかっただろうからである。


『卑弥呼と日本書紀176』

■■■■■ 六・六 「天の岩屋伝説」は果たして日蝕神話か ■■■■■


◆◆◆ 高天原はどこにあったのか ◆◆◆

 第六・一節でも述べたように、

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」
 は、
「《邪馬台国》九州説」

 ――と結びついており、東征神話とも関係してくるのだが、その結びつきかたにも無数のヴァリエイションがある。

 それを検討するためにも『日本書紀』の神代紀の概要を記してきたのだが、その神話のなかで、場所的に明確なのが、〈天照大神〉の孫の瓊瓊杵尊が降臨した九州の日向と、その曾孫の神武天皇が東征して即位した《大和》の橿原である。

 しかしその前の、〈天照大神〉や高皇産靈神らのいた高天原とは、いったいどこなのだろうか?
 もちろん神話では天上界らしい神々の世界だが、現実にはそれはありえないから、それが史実の反映だったとしたら、そして、もし〈天照大神〉が実在の女王の尊称だったとしたら、その場所を探さねばならない。
 そして、この章の主題である、
「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」
 ――を採用したとすると、その場所――高天原の場所――こそが《邪馬台国》だ、ということになる。

 つまりそこに女王〈卑彌呼〉がいて――または跡継ぎの〈臺與〉がいて――それが日本の伝説では〈天照大神〉になったのだ、というわけである。
〈天照大神〉説における《邪馬台国》の位置は、とうぜんながら九州内部かその付近ということになるが、のちの大和朝廷との関係については、多くの意見があるので、「《邪馬台国》大和説」
 とあわせて、代表的な分類を、ここに示しておこう。


『卑弥呼と日本書紀177』

◆◆◆ 田中卓の分類 ◆◆◆

 皇學館大學の元学長の田中卓博士は、つぎのように分類して解説している。

*****

一 「《邪馬台国》大和説」
 A《邪馬台国》と大和朝廷との関係を認める立場
 B《邪馬台国》と大和朝廷との関係を認めない立場
二 「《邪馬台国》九州説」
 C《邪馬台国》と大和朝廷との関係を認める立場
 D《邪馬台国》と大和朝廷との関係を認めない立場
   D・一 まったく別個とみる立場
   D・二 両者の前身が一つだったという立場

*****

 このうちAでは、『記紀』のなかに〈卑彌呼〉が隠されているかもしれない――とも考える。
 もちろん『記紀』には記録されずに終わったという推定もありうる。

 Bでは、大和朝廷の成立をずっと遅いとして、〈卑彌呼〉の時代よりあとの、たとえば四世紀末以後とされる第十五代應神天皇や第十六代仁徳天皇のころ、とする。
 時代が違うから関係しないのは当然である。

 Cは、《邪馬台国》が狗奴国に負けて解体させられ、そのため東方に移動して大和朝廷になったという考えである。

 D・一は、文字どおり無関係とする考えだが、D・二はすこし違っていて、〈卑彌呼〉の時代より前に「原・邪馬台国」なる前身が九州にあり、それが九州の《邪馬台国》と大和の《邪馬台国=大和朝廷》に分かれた――とする仮説である。

 D・二のこの推理によると、九州の《邪馬台国》に〈卑彌呼〉がおり、同じ時期に大和の大和朝廷に第九代開化天皇や第十代崇神天皇が出現したことになる。

 田中卓はさまざまな考察をおこなって、D・二説をとなえている。
 そして九州の《邪馬台国》の場所として、図6・2の福岡県山門を候補にしている。
 これは江戸時代の新井白石以来、多くの学者が唱えてきた説でもある。
 九州北部に近い山門から南部の日向の高千穂に進出しさらに野間岬まで進出したとすれば、天孫降臨の物語との整合性も良い。

 ただしこの田中説では、〈天照大神〉が実在したとしても、〈卑彌呼〉の時代の前の存在となるので、
「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」
 ――にはならない。

 しかし〈卑彌呼〉についての物語が《大和》の大和朝廷に伝わり、それが記紀神話の元になったとすれば、ある意味では〈天照大神〉説でもある。


『卑弥呼と日本書紀178』

◆◆◆ 井沢元彦の分類 ◆◆◆

 田中卓とは対照的なアマチュア研究家である井沢元彦も、この問題に熱心にとりくみ、次のような分類をして自説を展開している。

*****

a 「《邪馬台国》大和説」
 (一)大和において、そのまま大和朝廷に発展した
 (二)大和の地で、大和朝廷に滅ぼされた
 (三)他の勢力に滅ぼされ(あるいは連合し)、大和
    朝廷になった
b 「《邪馬台国》九州説」
 (四)大和へ移動(東征)し、大和朝廷になった
 (五)九州の地で大和朝廷に滅ぼされた
 (六)他の勢力に滅ぼされ(あるいは連合し)、大和
    朝廷になった

*****

 井沢の分類で興味ぶかいのは(四)であり、これは田中卓のCやD・二にほぼ同じで、有名な学者としては文化勲章の和辻哲郎が一時唱えたことがある。
 とても魅力的な仮説であるため、これをいろいろとアレンジして、数多くの《邪馬台国》論が書かれ、また小説が書かれている。
 井沢も、さまざまな視点から検討して、この(四)の系統の考えを持つにいたったようである。
(注 著者の見解は後に詳しく述べるが、上の田中・井沢のどれとも違っている)

 ところで、
「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」
 ――には、場所が九州らしいことや、女性であることや、神武東征の神話と結びつきやすい・・・といったことのほかに、どのような根拠があるのだろうか。
 のちの『日本書紀』の各天皇紀には、日向を平定した話や日向から妃を迎えた話などがあるので、九州南部の日向地方が、大昔から、大和朝廷と密接に関係していたらしいことはうかがえる。
 しかし、それだけでは、「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」にはならない。
 なにしろ『記紀』神話の時代と『魏志倭人伝』の時代とは、表面上は隔絶しているので、これまで記したことの他にそうとうな根拠がないと、説得力はない。

 そこで出てくるのが、
「天の岩屋の物語と日蝕の関係」
 ――である。
 これは井沢元彦が重視している関係なのだが、以下、その話をかいつまんでしよう。


『卑弥呼と日本書紀179』

◆◆◆ 「天の岩屋」事件の日蝕説 ◆◆◆

 第六・一節に記したように、〈天照大神〉は弟の素戔嗚尊の乱暴に呆れて、「天の岩屋」に隠れてしまい、そのため世界が暗くなり、大騒ぎがおこった。
 素戔嗚尊は出雲系神話の祖神ともいわれ、この話は大和王権と出雲豪族の軋轢を象徴しているようであるが、それはともかく、この、岩屋に隠れたのであたりが暗くなった――という話が、何を意味しているのかが重要である。
 これについては、いくつかの説がある。

 ひとつは、原因となった素戔嗚尊の乱暴で田畑が荒らされたという記述から、植物を駄目にする台風や天候不良をあらわしているのだろう、というものである。
 もうひとつは、冬至になって太陽がかげり、寒くなり、田畑が枯れる有様を、あらわしているのだろうという説である。

 これらの一般的な自然現象のほかに、きわめて説得力のある第三の説がある。
 それは日蝕説である。
 つまり、

「〈天照大神〉が岩屋に隠れてあたりが暗くなったのは、天体の知識の無い古代人が恐れた皆既日蝕を反映した神話であり、そこから出て世の中が明るくなったのは皆既日蝕が元に戻ったことを意味している。また同時に考えられるのは、岩屋に隠れた時点で――つまり日蝕の衝撃で――〈天照大神〉は死ぬか殺されるかしており、岩屋から出て明るくなったのは優れた霊力をもつ後継者が出現したことを意味しているのかもしれない。岩屋は墳墓の象徴でもある」

 ――という説である。

 この日蝕説の最初の提唱者は江戸中期の儒学者・荻生徂徠だといわれているが、これはとてももっともらしい説だといえる。

《大和》の西側、奈良盆地の南西部は葛城地方であり、そこは古代の豪族・葛城一族の勢力圏で、最終的には大和朝廷に帰順したのだが、その葛城地方では、五世紀ごろまで、
「日蝕がおこるとあたりの事物を破壊する祭」
 ――がなされていたといわれる。
 古代にはもちろん日蝕の予測などできないから、これは突発的な祭りであるが、素戔嗚尊の乱暴と〈天照大神〉の岩屋隠れをじゅうぶんに連想させる祭りであり、右の説の傍証になっている。

*****

 では、古代における皆既日蝕は何年に起こっていたのだろうか?
 古代日本人が見たであろう皆既日蝕の年月日やその様子の推定は、昔からなされていたようだが、さいきんでは天文学者の斉藤國治による研究が有名である。
 それを次節に記す。


『卑弥呼と日本書紀180』

■■■■■ 六・七 古代の日蝕と『記紀』の実紀年 ■■■■■


◆◆◆ 古代の日蝕の一覧表 ◆◆◆

 斉藤國治の古代日蝕のデータは、井沢元彦が着目して評価し、一般に紹介したので、知られるようになった。
 それによると、日本列島の本州か四国か九州をとおる中心食が見られた年月日は、西暦紀元後については以下のとおりである。

*****

1 西暦  一年 六月一〇日(皆既)
2 西暦 四一年 四月一九日(金環皆既)
3 西暦 五三年 三月 九日(金環皆既)
4 西暦一〇三年 六月二二日(金環)
5 西暦一四六年 八月二五日(金環)
6 西暦一五四年 九月二五日(皆既)
7 西暦一五六年 三月 九日(皆既)
8 西暦一五八年 七月一三日(皆既)
9 西暦一七九年 五月二四日(金環皆既)
10 西暦二〇〇年 九月二六日(金環)
11 西暦二四七年 三月二四日(皆既)
12 西暦二四八年 九月 五日(皆既)
13 西暦二五四年一〇月二九日(金環)
14 西暦二七三年 五月 四日(皆既)
15 西暦三〇一年 四月二五日(皆既)
16 西暦三〇二年一〇月 八日(皆既)
17 西暦三〇八年一一月三〇日(金環)
18 西暦三二八年 五月二六日(皆既)
19 西暦三八四年一〇月三一日(皆既)
20 西暦四五四年 八月一〇日(皆既)
21 西暦四六九年一〇月二一日(金環)
22 西暦四七九年 四月 八日(金環)
23 西暦五二二年 六月一〇日(皆既)
24 西暦五七二年 九日二三日(金環)
25 西暦五七四年 三月 九日(皆既)

(注 斉藤國治先生は、国立天文台を定年退職の後も、コツコツと研究を続けて「古天文学」という新分野を開拓した天文学者である。まったくの偶然であるが、著者の知人の叔父上にあたっていて、紹介していただき、いろいろな資料を戴いたこともある。九十歳過ぎてもなお矍鑠として研究を続けておられたが、残念ながら先年お亡くなりになった。ご冥福をお祈りする)


『卑弥呼と日本書紀181』

*****

 以上は紀元後であるが、紀元前の日蝕もいろいろと計算されている。たとえば、西暦前一三八年一一月一日の日蝕が知られている。
 これら紀元前の日蝕が「天の岩屋」事件の神話になった可能性もなくはないが、〈卑彌呼〉との関連づけでいえば古すぎる。

 だから面白いのは、『魏志倭人伝』に書かれた時代らしい5から14の間くらいである。
 5〜8は、長命だったとされる〈卑彌呼〉が生まれたころ、あるいはその少し前と想定され、『魏志倭人伝』の記録どおりだとすれば、日本列島に大乱がおこって国々が互いに争い、男の王ではどうしようもなかった時代――つまり倭国大乱の時代――である。

 もっとも、〈卑彌呼〉の時代に日本列島の統一が進んだとすれば、その前は統一されておらず、豪族たちが国々(集落)をつくり境界をつくって争っていたに違いないから、『魏志倭人伝』の信憑性いかんにかかわらず、国の乱れは歴史の必然であり、特異な事件ではない。
 じじつ、この時代――弥生時代――の遺跡の多くは、厳重な環濠に守られたつくりになっている。
 この5〜8が日本に何か影響を与えたかどうかは、史料が何もないので分からない。

 つぎの9や10は、たぶん〈卑彌呼〉が女王になったかならないかの時期だと思われるが、これも史料がなくて考えようがない。


『卑弥呼と日本書紀182』

◆◆◆ 〈卑彌呼〉の没年に日蝕が起こっていた! ◆◆◆

 で、問題は、11と12である。
 11の西暦二四七年は、〈卑彌呼〉が狗奴国の始末に困って魏に助けを求めた年にあたる。
 また12の西暦二四八年は、多くの学者が〈卑彌呼〉が死んだと想定している年である。
 帯方郡の太守が〈卑彌呼〉に応えて檄文をもって告げ諭したとされるのがおそらく二四七年か二四八年の初めであり、その告諭のことが書かれたそのすぐあとに、〈卑彌呼〉が死んだ――と記されていることは、第三章で述べたとおりである。

 死んだ年そのものは書かれていないのだが、もしまだずっと生きていたとしたら、帯方郡や魏の宮廷にさらに使者を送った記録が残っていたであろう。
 しかしそれが無くてとつぜん〈臺與〉の話になってしまうので、二四七年に使いを送って告諭をうけたすぐあとの二四七年の暮れから二四八年にかけての一年くらいの間に死んだのだろうと、推察されるのである。

 つまり、この計算が正しいとすれば、〈卑彌呼〉が死んだと想定される二四七年と二四八年の両方の年に「日蝕」が起こっているのだ。

 この暗示的な「日蝕」の、もうすこし詳しいデータを、斉藤國治の著書によって、図6・6に示した。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H62-71.htm

 11の二四七年の三月の日蝕は、九州福岡では日没直前に皆既蝕になっており、《大和》では六十三パーセントくらいの部分蝕で日没に入っている。
 つまり二四七年の日蝕は、九州では明瞭だが、《大和》ではちょっと暗い――というていどのものである。

 一方12の二四八年の九月の日蝕は、九州・大和ともに早朝に九十パーセント以上の蝕分となっており、早朝から起きて働いていたであろう古代の人たちにとっては、かなりの衝撃だったろうと考えられる。


『卑弥呼と日本書紀183』

 もしこれらの日蝕が〈卑彌呼〉の死と関連づけられるとすれば、それはたぶん12の二四八年のほうであろう。
 西暦二四七年は〈卑彌呼〉の使者が帯方郡へ派遣された年であり、派遣が年初でそれへの返書の使者が大急ぎで来たとしても、その年の三月に間に合うとはちょっと考えにくい。
 また、この年の日蝕で目立つのは九州のみであるが、それでも日没直前なので、「日の暮れるのがちょっと早いな」というていどのことだったであろう。

 したがって、日蝕が〈卑彌呼〉の死と深い関係にあるとすれば、それは西暦二四八年のものであり、これはかなりの効果があったと推理できる。
 また、シナ王朝の盛衰など日蝕とは無関係ないくつもの傍証から、多くの学者が〈卑彌呼〉の死を西暦二四八年と想定していることも、考慮に入れるべきである。

 こうして、西暦二四八年の日蝕が、〈卑彌呼〉の死の年に起こり、両者が関連しており、しかもそれが〈天照大神〉の「天の岩屋伝説」に反映しているとすると、考えられるストーリーは次のようなものである。


◆◆◆ 〈卑彌呼〉の死因は日蝕か? ◆◆◆

 二世紀後半の日本列島は、各地の集落に住む豪族たちが領土や資源を争って収拾がつかなくなり、そこで神につかえる高貴な女性〈卑彌呼〉が霊感を買われて北九州の《邪馬台国》の女王となって、男弟を指図して国々を平定した。

 しかし九州南方の狗奴国だけは何年たっても逆らうことをやめず、困りはてて西暦二四七年に、それまでも外交関係のあった帯方郡にお墨付きを貰いに行ったが、それでもうまくいかなかった。

 そしてその翌年の西暦二四八年九月に皆既日蝕が起こり、人々の不安は頂点に達し、その心労で〈卑彌呼〉は死んでしまった。
 あるいはまた、日蝕は〈卑彌呼〉の神子(巫女)としての靈力が落ちたためで狗奴国を平定できないのもそのためだと考えた人たちによって、殺されてしまった!

 そのあとまた騒乱が続いたが、霊力をもつ若い〈臺與〉が〈卑彌呼〉の後継となってようやく一段落した。
 そしてそのさらに後継者が北九州から南九州の高千穂の峰などに移り、さらにまたその後継者が東に移っていって大和朝廷を樹立した。

 この、日蝕で死んだ〈卑彌呼〉の記憶と、〈卑彌呼〉を後継した〈臺與〉の記憶とが、神話として伝承され、六世紀から七世紀にかけて文字として記録され、『記紀』のなかの「天の岩屋伝説」となった。

*****


『卑弥呼と日本書紀184』

 これはかなり迫力のあるストーリーであり、〈卑彌呼〉以後の年代については疑問も生じるが、一応の合理性もある。
 今でも多くの好事家や一部の学者がこの説をとっていることも、理解できる。

 上の仮説で〈卑彌呼〉の神子(巫女)としての霊力というのは、『魏志倭人伝』の鬼道――すなわち『記紀』にある神道――のことであるが、それはいまの新興宗教の教祖の祈りのような妖しげなものではなく、現在の総理大臣や大統領の政策決定能力と同じである。
『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉と男弟との関係が事実だったとすれば、〈卑彌呼〉が神に祈って決定した政策を、男弟が行政の長として実行していた、ということになる。

 こういう、男女の組み合わせによる祭政の遂行は、『記紀』にもよく出てくるし、昔の沖縄にもあったもので、「彦姫制」ともいわれる。
 ――ということなので、霊力を失ったというのは、政治的指導力が無くなったのとまったく同義である。

 要するに戦争や政策についての正しい判断力が無くなったという意味である。
 したがって、元々指導力を無くしていた〈卑彌呼〉が、日蝕によるショックでさらに指導力を失い存在感がなくなり、ついに死んでしまった――ということになる。

 さらに、指導力の減退によって「殺されたのかもしれない」という「〈卑彌呼〉殺人事件」は、松本清張や樋口清之らが真剣に唱えていた説である。
 じじつ、弥生期の古墳から、下腹部にたくさんの矢を射られて死んだ高貴で老齢の女性の遺骨が出てきているそうで、これは老齢になって霊力を失った――政治的判断力を失った――姫神子が、若い神子(巫女)を後継者にするために殺される風習があった証拠の一つ、ともされている。

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」では、〈天照大神〉が機織りの棒で攻撃された『記紀』神話の話をこれに結びつける事も可能だし、陰部を突かれたという一書での説話も、なにやら暗示的である。

 ・・・というようなことで、

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」

 ――においては、日蝕にともなうこの《邪馬台国》の騒動を、シナ式におおまかに描いたのが『魏志倭人伝』であり、この事件全体を神話にしたのが『日本書紀』であるとし、ただ『日本書紀』の方は、神武天皇即位をずっと古いおめでたい年に設定するために、紀年を大きくずらしてある――とするわけである。


『卑弥呼と日本書紀185』

◆◆◆ 神代の実紀年とは? ◆◆◆

 さいごに、〈天照大神〉と神武天皇の実紀年の推理であるが、これは、
「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」
 ――ではじつにはっきりしており、神話ではいかに古くとも、実在の〈天照大神〉は三世紀前半に活躍した女王ということになる。

 一方神武天皇はその子孫だから、三世紀以後であり、この説の多くの研究家が、〈神功皇后〉紀にみえる――次章で述べるような――別の東征伝説を重視していて、神功・應神・仁徳の時代、つまり四世紀末から五世紀にかけて九州から大和へ進出した豪族の活躍の神話化だろう――としている。

 もちろんこれへの反論も数多くだされており、外国の史料とも合わないし、また考古学的研究結果とも合わないという意見も多い。

 以上の「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」とは別に、『記紀』における紀年が、古代の天皇がすべて実在だったとしても実際の紀年とは合っていない――という研究は、明治時代からあり、明治の末期にはほぼ定説となっていた。

 したがって、第一章でも記したように、大東亜戦争が終わるまでは、『記紀』に記された神武天皇の即位年をただただ信ぜよといわれていた――という説はまちがっている。

 ただ、具体的な数値については、さまざまな意見があって、平成になっても結論はでていない。
 おおまかには、神武天皇の即位が、もし史実だったとしたら、西暦一〜二世紀だろうし、第十代の崇神天皇の在位期間は、三世紀の半ばから後半だっただろう――といわれている。

(〈天照大神〉が実在の女帝だったとして、後の天皇から遡及して――神武天皇の前も『記紀』の通りとして――計算してグラフを描き、〈卑彌呼〉の年代に一致する――と主張する研究家もいるが、著者には得心がいかない。相当な無理が感じられる)

*****

 崇神天皇の御代や〈神功皇后〉の御代の実紀年の推理は、〈卑彌呼〉の正体を探る上で重要なので、またのちの章で詳述する。


『卑弥呼と日本書紀186』

■■■■■ 六・八 〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説の確からしさ ■■■■■


 本節では、
「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」
 ――の確からしさについての著者の見解をのべて、この章のまとめとすることにしたい。
 ただその前に、〈大國主神〉と〈饒速日命〉について、おおまかに触れておく必要がある。
 まとめるに当たって念頭に置くべき重要な神――または豪族――だからである。


◆◆◆ 〈大國主神〉の謎 ◆◆◆

『日本書紀』では、国譲りの相手側の神は〈大己貴神〉であり、それは〈大國主神〉と同一神ともいわれ、また何代か前の別神ともされるのだが、同一神としての〈大國主神〉が有名で親しまれ、のちには大黒様にまでなってしまっているので、ここでは〈大國主神〉で統一する。
 もともとが古い伝承で、豪族を神として表現したものだろうから、同一でも親子でもそれほどの問題ではない。

 この興味ぶかい出雲の神についての、典型的な解釈はつぎのとおりである。

『記紀』の記述によれば、〈大國主神〉は〈天照大神〉の弟の素戔嗚尊の子孫だから、先祖は大和朝廷と同じことになるが、これは便宜的なもので、たぶん出雲(島根県)の地に本拠を持ち、山陰山陽の中国地方に昔から勢力をもっていた豪族*だったのであろう。
 この中国の豪族が九州大和一族の東方進出の妨げとなるので、幾度となく九州から討伐部隊を派遣したがうまくいかず、何回目かでやっと帰順させて、政治的軍事的権力を取り上げるかわりに出雲地方の行政と祭祀の名誉ある役割をあたえた史実が、さまざまな神話となって残ったのだろう。

(注* 神武東征神話の中で、神武天皇の軍勢が山陽の大阪寄りでかなり長期にわたって駐留していたとされているのは暗示的である。簡単には進軍できなかったのだ)

『日本書紀』の国譲り神話は既述したように実質的だが、『古事記』の〈大國主神〉の項は、白兎の話や死と再生などいくつものお伽噺的な挿話に彩られていて興味ぶかい。
 古代日本人の「心」が伝わってくるようだ。


『卑弥呼と日本書紀187』

 ところで、この討伐部隊のなかに、〈大國主神〉一族に籠絡されて高天原に帰ってこなかった何柱かの神がいるが、そのうち最初に派遣されたのが、素戔嗚尊が生んで〈天照大神〉の養子になった五柱の神の二番目の天穗日命(あまのほひ)である。
 この神はのちに〈大國主神〉との関係の深さを買われて、〈大國主神〉を祀る神社の祭祀をつかさどる役目を担うことになった。

 つまり国を譲った神とその神を祀る神職の長とが元来姻戚関係でともに大和朝廷と先祖を一つにしているという伝承となっていて、豪族たちを帰順させるさいの大和朝廷の苦心を察することができる。
 この天穗日命は出雲臣の祖とされ、のちに出雲国造(島根県知事に相当)になったが、大化改新のあとは、巨大な出雲大社の神官職となって現在まで続いている。
 現在じつに八十三代めになる千家がそれである。

 この出雲の豪族については、もちろん、別の意見もあり、たとえば、元々大和にいた豪族が追われて出雲に逃げて、そこで強国をつくって大和朝廷を悩ませたのだ――と主張する学者もいる。

 出雲神話についての幾つかの解釈は〈倭迹迹日百襲姫命〉とも関連するので、第八章で改めて詳述する。
(著者も、出雲一族は饒速日命一族の前に《大和》の地を支配していた可能性が高いと感じている)

 なお、神社のほかにも、この神話に関係すると思われる遺跡や出土品が出雲地方にたくさんある。
 とくに、現在の鳥取県の島根寄りの大山町・淀江町の丘陵地帯にひろがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡は、発見された弥生遺跡では最大の集落とされ、面積が百六十ヘクタールにも達し、有名な吉野ヶ里遺跡の四倍もある。一辺が一・五キロと思えばよい。

 初期の大和の都にも匹敵する広大さであり、考古学者を絶句させたと言われる。
 この大きさからも、大和朝廷の先祖の強敵が中国地方にいたことは明白である。
 こういうことからも、出雲が但馬と並んで『魏志倭人伝』の投馬(ズマ)国の候補とされることが理解できる。


『卑弥呼と日本書紀188』

◆◆◆ 〈饒速日命〉の謎 ◆◆◆

 つぎに補足しておくべきは、〈饒速日命(にぎはやひ)〉である。
 第六・三節に記したように、神武天皇は東征に出発するときから、目的地の《大和》に先に天降った〈饒速日命〉なる英雄がいることを知っていた。
 この神話が史実を伝えているとすれば、出雲地方への再三の討伐軍のほかにも、九州の《山門》らしい大和朝廷の祖先の地から直接《大和》へ向かった一派がいたことを意味している。

 この〈饒速日命〉については『古事記』には簡単にしか書かれておらず、『日本書紀』にもそう詳しくはない。
 むしろ義兄にあたる長髄彦との争いが、主眼となっている。
 しかし、『記紀』よりもすこし後の時代に〈饒速日命〉の子孫――と信じている物部系の人たち――によって書かれたとされる『先代旧事本紀』には、かなり詳細な記述があって、とうじの人たちの伝承がわかる。

 簡単に記すと――
 正式の名前は〈天照國照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)〉で、またの名は天火明命(あめのほあかり)などといい、その父神は天忍穗耳尊(あまのおしほみみ)とされている。
 この尊は、素戔嗚尊が〈天照大神〉の宝玉から生んで〈天照大神〉の御子になった五柱の神の筆頭であり、出雲の神官の長となった天穗日命の兄にあたる。
 そして母神は高皇産靈神(たかみむすび)の娘の萬幡姫(よろずはたひめ)である。

 こう書くとややこしいが、これは要するに、〈饒速日命〉とは〈天照大神〉の孫として日向の高千穂の峰に「天孫降臨」した〈瓊瓊杵尊(ににぎ)〉と兄弟だ――ということである。


『卑弥呼と日本書紀189』

 天火明命は、『日本書紀』の一書と『古事記』では瓊瓊杵尊の兄となっているし、『日本書紀』の本文では瓊瓊杵尊の三男となっている。つまり海幸・山幸兄弟の弟である。
 さらに、丹後の籠神社に伝わる国宝『勘注系図』でも、瓊瓊杵尊の兄弟とされている。
 だから、天孫降臨の瓊瓊杵尊とまったく同格の神なのだ。

(『日本書紀』の本文で瓊瓊杵尊の三男となっているのは、正史としては〈饒速日命〉をあまり重視したくなかったからかもしれない。瓊瓊杵尊の兄では、格が高すぎると思ったのであろう。しかしそういう伝承を持つ豪族の意見も入れる必要があるので、一書として入れたのであろう)

 こういう高貴の生まれの〈饒速日命〉は、やはり〈天照大神〉や高皇産靈神の仰せによって、二種の鏡・剣・さまざまな玉などからなる「十種の神宝」(またはトクサノカンダカラ)を授けられて、天磐船にのって河内の国に降臨し、そこから《大和》に進出した。

 そして奈良市の鳥見に遷り住み、そこに昔からいた豪族の長髄彦の妹の三炊屋媛を娶って可美眞手命を生み、《大和》の首領として君臨していた。
 つまり、兄の〈饒速日命〉と弟(または父親)の〈瓊瓊杵尊〉が、同時に、片や河内に降臨したのち大和へ進出、片や九州の日向地方へ降臨して子孫が日向から大和へと進出――したのだ。

(〈饒速日命〉が最初に降臨したのは丹後地方で河内へはそのあとで遷ったのだという説を記す古文書『勘注系図』もあるが、それについては第九章で述べる)

 その兄の所へ、弟の曾孫にあたる神武天皇こと〈磐余彦尊〉がやってきて、〈饒速日命〉の義兄にあたる長髄彦と熾烈な戦いを演じたわけで、〈饒速日命〉の心境は複雑だったろうが、戦況を判断して、長髄彦を排して御子の可美眞手命とともに神武天皇に帰順した。
 神武天皇は〈饒速日命〉やその御子の心根を賞して深く寵愛した。
 そして〈饒速日命〉の直系の子孫は物部氏となって長く大和朝廷に仕えることになった。


『卑弥呼と日本書紀190』

◆◆◆ 〈饒速日命〉の子孫たち ◆◆◆

 物部一族が、降臨以来の家臣である大伴一族と並ぶ古い大和朝廷の重臣となり、おもに軍備や警備を統括し、六世紀になって蘇我一族との権力闘争に破れるまで権勢を振るったことは、よく知られている。
 物部(もののべ)という名は、武を担当する職業を意味し、その読みは「モノノフ」でもあり、武士を意味する「もののふ」と同義である。

〈饒速日命〉の子孫を名乗る豪族は物部以外にもいくつかあり、先述した熊野の豪族もそうで、物部にきわめて近い親戚とされている。
 また『先代旧事本紀』にくわしい系図がのっている愛知・岐阜を本拠とする尾張一族も〈饒速日命〉の系統であるとされているし、丹後半島を根城にして日本海側の出口を抑えていた海部氏も、〈饒速日命〉を祖とする独自の系図を誇りにしている。

 瓊瓊杵尊が降臨に際して「三種の神器」を授けられたのと同様に、〈饒速日命〉も「十種の神宝」を授けられたという伝承も興味ぶかいが、これはいったん神武天皇に献上され、のちに返却されて、物部一族の本拠で武器庫の役目も果たしていたとされる現天理市の《石上神宮》に、先の霊剣「布都御魂」と並んで奉納されて祭神となった。

(《石上神宮》には、素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったときに使った剣も奉祀されている。また「十種の神宝」のなかにも剣がある。つまりこの神宮には、「草薙剣」以外の神話における著名な剣がすべて奉祀されているのだ。大豪族・物部の権勢を物語っている)

 いずれにせよ、九州のある地域(たとえば山門)にいた大和朝廷の遠い先祖が、九州の日向に進出したり、山陽山陰に進出したり、大和に進出したり、幾度にもわたって様々な形で拡散したことがうかがわれる。

 昔から指摘されていることだが、『記紀』の神代史のなかに「雪」がほとんど出てこないことも、大和朝廷の九州起源を連想させる。
 まったく無いわけではないのだが、「あわゆきのような胸(古事記)」とか「あわゆきの如く蹴散らし(日本書紀)」といった表現が二、三箇所あるのみなのだ。

 もちろん神話には各氏族の名誉を保つための後世の付会もあるだろうが、古い神社の伝承などとも考え合わせると、史実の反映もまた多く見られるように思われる。
 とくに九州から畿内に進出したらしい〈饒速日命〉一族については、史実の可能性が高いように思う。
〈饒速日命〉を祭神とする神社も残されている。


『卑弥呼と日本書紀191』

◆◆◆ 「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」の確からしさ ◆◆◆

 さて、
「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」
 ――の確からしさについて、著者なりの結論を述べてみよう。

「《邪馬台国》九州説」
 と、
「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」

 ――とを結びつけ、ついでその《邪馬台国》またはその後継一族が東征して現在の天皇家の先祖になった――という説は、ほんとうにロマンにあふれており、なかなかの説得力がある。
《邪馬台国》が九州だという説も、距離を大幅に縮めて解釈すれば『魏志倭人伝』のとおりである。
〈天照大神〉の本名である大日靈女貴や天照大日靈女尊にしても、ヒミコ、ヒメコ、ピミコ・・・などと読めて、〈卑彌呼〉と共通している。
 さらに「皆既日蝕」の件も迫力がある。
 この説を踏み台にしたSF的な小説がたくさん書かれていることは、この説が日本人の心に響くものを持っているからであろう。

 しかし、なんといっても考古学的な証拠に乏しいことが欠点である。
 何人かの学者が九州の何カ所かの候補地を探訪して、ここに都をつくるのは困難だと直観した――と述べている。

 また、《邪馬台国》の場所が一箇所に限定されず、人によってまちまちな意見が出されていることもいまいち信じがたい理由である。

「大和説」の場合には、多くの説のほとんどが現在の狭い意味での《大和》の地になるのだが、「九州説」では、まちまちなのである。


『卑弥呼と日本書紀192』

 さらに、東征の結果が神武天皇なのか崇神天皇なのかあるいは〈神功皇后〉なのか、はたまた應神天皇なのかも、論ずる人によってまちまちである。

 それから大もとに戻って、図4・3のような古い地図から考えた『魏志倭人伝』の解釈とも、結びつきにくいものである。

 日蝕の問題にしても、計算が合っているとしてもその効果は意外に薄いのではないかと考えられる。
 ちょっと天気が変だな――というていどで過ぎてしまうかもしれない。
〈卑彌呼〉の時代以後にも日蝕は何回もあったのだが、それで大騒乱が生じたという伝承は『記紀』にも他の史書にも見られない。
 また『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉の死のところにも、天体変異の話はまったく無い。

 したがって著者としては、この説はロマンとしては面白いし、われわれの想像をかき立ててくれるものではあるが、今後そうとうな考古学的証拠(科学的証拠)が出てこないと、にわかには信じがたい――と考えている。

 吉野ヶ里遺跡や鏡の発掘ていどでは、大和にも同種のものがたくさんあるから、それだけでは科学的根拠にはならないであろう。

《大和》をはるかに上まわる新たな考古学的発見のみが、このロマンにあふれた説を支持するであろう。

*****

 もちろん、間接的な関係は、あってもおかしくない。
 両者が別の事象だったとしても、伝説ができる過程で影響しあったことは、じゅうぶんに考えられるからである。

[次は第七章「〈神功皇后〉説の検討」になりますが、その前に海部光彦さまのエッセイを二編ご紹介させていただきます]


『卑弥呼と日本書紀193』

 天橋立を参道とする《元伊勢籠神社》は、日本でもっとも重要な神社の一つです。
 日本の古代史の謎を解くカギを握っている神社だといっても過言ではありますまい。
 それは、〈天照大神〉のご神体「八咫鏡」を《大和》の土地の外に奉斎した最初の神社である(*)――という事からも言えますし、〈卑彌呼〉の謎(および〈饒速日命〉の謎や〈神功皇后〉の謎)の解明につながると思われる『勘注系図/海部氏系図』(国宝)を伝世した神社であることからも言えるでしょう。
 その《元伊勢籠神社》の宮司家は、天皇家についで日本でもっとも古い家系として知られており、現在の海部光彦宮司さまは、なんと第八十二代になられます。
 その遠祖は記紀神話にまで溯り、出雲大社の千家さまと並ぶ驚くべき家系なのです。
 その《元伊勢籠神社》の海部光彦宮司さまから、『卑弥呼と日本書紀』の第三刷に対しまして、下のような心温まる推薦のお言葉を頂戴いたしましたので、ここにご紹介させていただきます(**)。
(* 現在の伊勢神宮よりも前に「八咫鏡」が祀られましたので、「元伊勢」を前につけて《元伊勢籠神社》と呼ばれます)
(**前に小生のサイトにはご紹介済みですが)

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《元伊勢籠神社》
八十二代宮司 海部光彦

「邪馬台国論争の第二幕を先導する好著」
 かつて日本古代史研究が国家的規制のはざまをさまよっていたが、終戦を契機としてそのタブーが漸く解放された。中でも新進豪腕の推理作家松本清張が、昭和三十年代に意欲作「陸行水行」をあらわして、その中で象牙の塔内に専断されていた邪馬台国論争を、今こそ天下のアマチュアに解放すべきであると、高々とのろしを打ちあげた。以来周知の如くこの論争は百家争鳴の観を呈し、功名心にはやるつわもの達が語呂あわせやパズルの謎解きに、フィクションと見紛うような手法をも加味して汗牛充棟の書をなしたのであるが、かえって邪馬台国論争はいよいよ八幡の藪知らずに迷いこんで、心ある人士の敬遠するところとなった。それから今日までいくそばくの月日を閲したであろうか。歴史解禁の終戦から六〇年近くもたった今、突如、光通信の権威で、工学博士の肩書を持つ在野の異色史家○○氏によって、『卑弥呼と日本書紀』と銘打った目のさめるような大著が公刊された。六〇〇頁二段組の重厚な本を開くと、この論争に必要なあらゆる基礎的な項目が極めてやさしい文章で整然と網羅され、読者はコンピューター論理できたえられた著者の、知のメモリーの玉手箱を次々にあけてゆくようなぞくぞくした興味で、つい読み進んでしまう魅力に満ちている。又今までの論争が、位置、所在論に終始していたのに、○○氏は邪馬台国の内面を神祭りの巫女名まで解析して、古代建国の意義論にまで踏みこんでいる。これ程の啓蒙的な力作が戦後の論争の早期に若し出ておれば、邪馬台国論争の流れはだいぶん変わっていたのではないかとさえ思われる。私自身、二千年余続いた家系で国宝史料を持つ身として、本書の出現に天意を感じ、平和ボケしたと云われる日本人の起死回生の妙薬の一つになる事を祈るものである。

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 たいへん有り難い推薦のお言葉でして、恐懼感激いたしました。
 また海部光彦さまは、貴重な数種類の文献をお送りくださったのみならず、《元伊勢籠神社》の社務所に『卑弥呼と日本書紀』を置いて頒布を図ってくださっておりまして、さらに感激です。
 過日、神道にお詳しい備中處士さまが《元伊勢籠神社》に参拝なさったおり、それをご覧になって驚かれたそうです。

(現在数カ所の掲示板で連載中の『卑弥呼と日本書紀』は、連載開始時に記しましたが、この出版された『卑弥呼と日本書紀』第三刷と『卑弥呼一問一答』とを合わせて、改訂したものです。とはいいましてもまだまだ欠点が多いと思いますので、お気づきの点はどうかご教示ください)


『卑弥呼と日本書紀194』

 最近、昨日ご紹介させていただきました海部光彦さまから、興味深いエッセイを頂戴しましたので、掲載させていただきます。

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「天の真名井の水とマナの言霊の神秘に就いて」
   元伊勢籠神社 八十二代宮司 海部光彦

 当神社の奥宮の境域は古来真名井原と呼ばれています。そこに悠遠の神代から豊受大神が海部宮司家の大氏神として祀られ、更に崇神朝には倭(やまと)から幽契(かくれたるちぎり)に依って天照大神がお遷りになって、両大神を同殿に祀って吉佐宮と称しました。
 ヨサとは天吉葛(あめのよさずら)の省略で天然自生のひょうたんを意味し、これは神に水を捧げる器として古代には最も大事にされました。さてそのお水ですが、本宮に祀られている彦火明命(ひこほあかりのみこと*)(天照大神の御孫で、海部宮司家の祖神)の御孫(三代目)である天叢雲命(あめのむらくものみこと)が、地上から天上の至高聖所である高天原に参い上がって、天祖のおつかいになる神水を琥珀(黄金)の鉢に入れて地上に降り、それを奥宮真名井原に湧く泉に和した(合わせた)のが天の真名井の水で、一に天地根源真名井の水とも呼ばれました。このように神秘に包まれているマナ井に、もう一つ逸してはならない伝承があります。それは天照大御神と御弟の須佐之男命が、高天原の天安河の最も聖域である即ち天の真名井を挟んで、誓(うけ)ひ(神の前で二者が物事の正邪を占う行為)を行い、真名井の息吹の狭霧――聖なる水気を媒介として皇統を嗣がれる五男三女神が誕生された事です。この五男神の内の最初の長男神の又ご長男が彦火明命に当たります。
 こうして当神社の奥宮のある真名井原は、天上の聖域真名井の地上の雛形であると代々伝えられて来ました。全国に真名井の地名は十数カ所ありますが、伊勢神宮の故地としての真名井原の地名は当宮のみです。
 そうして神代(最古代)から真名井原の祭祀を司って来たのは、誠に恐れ多い事ながら、天照大御神の血脈につながる海部(あまべ)宮司家が、現存最古の国宝海部氏系図に裏づけされるように、現代まで直系八十二代にわたってその伝統を守って参りました。
 そて茲でマナ井信仰の頭の音である“マナ”について、世界的な流れを概観してみたいと思います。そもそも“マナ”とはメラネシアの土語で、「打ち勝つ」「勢力ある」などの意味で、未開社会の宗教における、非人格的な神秘的・超自然的力を指し、人間・霊魂・動植物・無生物にこもり、移転性と伝染性を特色としています。又マナはいかなる物にも固着せず、ほとんどあらゆる物に伝えられる性質を有し、それ自体としては非人格的でありながら、常にそれを支配する人格と結びついていると云われます。その範囲は南太平洋の島々で、パプア・ニューギニア、ソロモン諸島、ニューカレドニア等となっています。


『卑弥呼と日本書紀194』続

 次に“マナ”の最も有名な事例を眺めてみる事にします。それは今迄信仰の書として重んじられ、更に現下歴史書としても注目されて来ている、旧約聖書の出エジプト記第十六章に出ている“マナ”です。そこでは昔イスラエル民族を霊的指導者モーゼが率いて、荒野をさまよって民が飢えて時、天からマナと云う白い液状のものが降って飢えをしのいだと云う奇跡が語られています。
 次にユダヤの三種の神器と云うものがあります。これに先立って我々大和民族にとって皇統のシンボルであり、根源の霊的遺伝子とされる三種の神器は、申すまでもなく「八咫鏡・八坂瓊勾玉・天叢雲剱」であります。一方イスラエルのそれは、「モーゼの十戒石・マナの壺・アロンの杖」の三種と云われます。この内、マナの壺に入っているマナは、当神社の奥宮真名井原に古代に湧いていた天の真名井の水の訓とたまたま同音であり、又飲料として、食物としての或る種の共通性があるかも知れません。
 今より三〇年位前から、ユダヤの十部族の内の一部族が古代に日本列島に来ているのではないかと考える一団の熱心な考古者が増え始め、当神社にもその方々が沢山押し寄せ、真名井とマナとの発音の関連性に就いて随分質問されましたが、所詮偶然の一致と答える外はありませんでした。唯、日本の古代に於いて奈良の正倉院にオリエント(古代東方)の目もあやな工芸品がシルクロードを経て伝来していますように、日本の縄文時代末期から弥生時代にかけて、古代世界の優秀な文化が太陽崇拝と東方憧憬の大潮流に乗って、極東の小島日本に東遷し、或いは漂着したのではないでしょうか。当神社の至宝である、前漢(紀元前)と後漢(紀元直後)の伝世鏡二面(**)は、黎明日本の活きた証拠と申してもよいかと存じます。何れにしても限りなく懐の深い日本古代の神秘は、物質ぼけと技術ぼけの日本と世界に対して、不世出の哲人アインシュタインが、・・・世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は感謝する。我々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・との遺言が、雷の鳴り響くように、強く迫って来る日を確信するものであります。

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(* この神につきましては、本連載の188、189をご覧ください)

(** この二面の古代鏡は、まさに奇跡の伝世鏡と言えます。紀元前の鏡そのものは、いくつかの遺跡から発掘されていて、日本列島が紀元前後から大陸と交流のあったことを示していますが、遺跡ではなく神社に代々大切に保存されてきたものは、他に類例が無いと思います。恐ろしいまでの長期にわたって同じ神社に奉斎されてきたのです。この鏡につきましても、『勘注系図』などとともに、本連載の後の章で詳述いたします)


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