■□■□■『卑弥呼と日本書紀』第四版 第十章(オロモルフ)■□■□■


『卑弥呼と日本書紀477』

■□■□■ 第十章 〈倭迹迹日百襲姫命〉が眠る日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓》の謎――併せて《大和》に展開する雄大な《纒向京》――■□■□■


遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史をしのび けふも旅行く
〔昭和天皇御製/昭和六十年〕

神なびの みむろの山の くずかづら うら吹かへす 秋は来にけり
〔大伴家持(新古今集)〕

巻向(纏向)の 穴師の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む
〔柿本人麻呂歌集(万葉集1100)〕
「纏向の穴師川(巻向川)を流れる水が絶えないように、私も絶えることなくここに来ることにしよう」


『卑弥呼と日本書紀478』

■■■■■ 十・一 《邪馬台国》の有力候補地《大和》の地理と地勢 ■■■■■


◆◆◆ 日本最古の首都《纒向京》◆◆◆

 古代の首都――大和朝廷の都――のほとんどは奈良県(大和国)の北西部の奈良盆地に集中しているが、そのなかでもっとも詳しく構造や規模がわかっているのは、八世紀の奈良時代の《平城京》である。いまの奈良市に広大な遺跡がある。
 そのつぎにわかっているのが、《平城京》にうつる直前の《藤原京》であろう。七世紀の終わりから八世紀の初頭にかけの短い期間ではあったが、きわめて計画性の高い都市構造をしていたらしい。
 その前が《飛鳥京》で、聖徳太子のすこし前から大化改新のすこし後くらいまで明日香の地につくられた。時期的には六世紀から七世紀にかけてと考えられる。ただしこの《飛鳥京》は断続的であって、都市構造は《藤原京》ほど明確ではなく、遺跡の発掘も容易ではなく、明確になっていない点も多い。
 その前の四世紀から五世紀にかけての皇宮は、桜井市、明日香村、天理市、橿原市などを転々としていたらしい。またその間には、大阪府方面に遷ったり滋賀県に遷ったりしている。それぞれ遺跡は指摘されているが、明確な都市構造の発掘はなく、規模もさほどではなかったらしい。

 ところが、さらにその前の三世紀には、同じ奈良盆地に、広大な都があったらしいと、最近の発掘調査によって分かってきた。
 場所は、もっとも狭い意味での《大和》である。
 すなわち、これまで何度か言及してきた、《三輪山》の北西山麓にひろがる《纒向(まきむく)京》である。

《纒向京》という都としての名称は著者が便宜上使っているもので、考古学的には纒向遺跡といわれる。
 この纒向遺跡という名はこれまでの歴史書にはほとんど書かれておらず、なじみの少ない名前であるが、命名者は徳島文理大教授で二上山博物館館長などもつとめた考古学者の石野博信で、『記紀』に纏向と記され、昔纏向という村があったことが命名の理由である。
(纒向または巻向という名前は現存もしている)

《纒向京》の本格的な発掘調査は、戦後の昭和四十年代からはじまり、現在百回をこえる回数の調査がなされている。
 この地域の多くは私有地であり、民家や田畑のなかに古墳が点在しているような土地である。また代表的な古墳は皇族の御陵なので宮内庁の所管になっている。
 したがって発掘調査は簡単ではなく、予算の関係もあり、百回をこえる調査で調べられた面積は、推定される《纒向京》全体の二パーセントていどにすぎないといわれている。
 しかしそれでも、ずいぶんいろいろなことが分かってきた。
 とくにこの十年の成果はめざましいものがあり、規模からいうと《飛鳥京》を上まわり、《藤原京》に匹敵するほどの大きさと計画性を持っていたらしい――と分かってきたのだ。


『卑弥呼と日本書紀479』

◆◆◆《纒向京》の地理的利点 ◆◆◆

 まず最初に、この問題の《纒向京》のある場所がどのような利点を持っているかを理解するために、いくつかの地図を眺めてみよう。

 ここまでの章ですでに説明した関係地図に、つぎのようなものがあった。

 図4・2 畿内とその周辺の古い国名図
 図5・1 大阪湾から奈良盆地にかけての地図
 図5・2 奈良盆地の南半分の基本地図
 図5・3《大和》地方の古代地名の地図
 図7・7《大和》地方の有力氏族の勢力分布図
 図8・1 図5・2に歴代皇宮位置を書き込んだ地図
 図8・5《大神神社》周辺の俯瞰図
 図8・13《大和》の主要な神社と前期古墳の地図

 これらの地図をざっと眺めることによって、あるていどは地理的問題が頭にはいるであろう。
 いちいち詳しく見る必要はないが、図5・1と図5・2および図8・1は、《纒向京》を理解するうえで参考になると思う。

図5・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H41-51.htm

図5・2
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H52-61.htm

図8・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H81-83.htm


 ざっと見ていただいたところで、本章のために新たに描いた地図を説明しよう。

図10・1
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H98-102.htm


 図10・1は、図4・2をもう少し詳しくしたもので、大和国(奈良県)が、周囲の国々に対してどのような位置関係にあるかを示している。
 奈良市や三輪山麓の《大和》は奈良県のなかでも北西の端であって大阪湾にきわめて近いこと、瀬戸内を通らずに日本海に出るためには《籠神社》のある丹後(または若狭湾)が重要であること、東国へ行くには伊勢が重要であること、などがわかる。
 さらに、《大和》の安定をはかるためには、北西の播磨やその西の吉備(兵庫県から岡山県)、北東の美濃や尾張(岐阜県や愛知県)を味方につけることが必要であることも、一目瞭然である。
 このことは〈倭姫命〉一行の旅程である図9・2を見ても理解できる。大和朝廷が周辺の豪族を帰順させるために苦労した跡がうかがえる順路だからである。


『卑弥呼と日本書紀480』

◆◆◆《纒向京》と大和川 ◆◆◆

図10・2
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H98-102.htm


 図10・2は、図10・1における大和国(奈良県)とその近傍のみを拡大した地図である。
 奈良盆地を斜線つきの太線で明示しているが、まず第一に、大和川によって大阪湾すなわち瀬戸内海と短距離でつながっていることがわかる。
 大阪湾の内側は、図5・1で説明したように、河内湖と呼ばれる巨大な湖(水郷)になっており、それは大阪湾と直接つながっていて、海水と淡水が混ざった汽水湖だったらしい。
 つまり湾の内側にもう一つ湾があるような地形だったのだ。

 古代の大和川はその河内湖に流れ込んでいたので、奈良盆地を出るとすぐに海に注ぐという感じであり、おおまかにいって《纒向京》から海までは直線距離にすると二十キロていどにすぎず、マラソンコースよりずっと短い。
 しかも大きな大和川が流れているので、船でそのまま行けたのである。
 大和川の上流を初瀬川ともいうが、その初瀬川が《纒向京》に近接して流れていたのだ。
 のちの飛鳥時代に遣隋使やその返礼の使者が初瀬川から上陸したという『日本書紀』の記述も、地図を見れば納得できる。

《飛鳥京》はこの図には記載していないが、《藤原京》のすぐ右下である。
 奈良盆地の周囲は山地であり、とくに南方は神武天皇が苦難の遠征をおこなった奥深い山々であり、敵に攻められる恐れは少ない。
 盆地は南でいったんくびれたのち、東西に伸びる部分があるが、これは紀伊水道に注ぐ有名な紀ノ川の上流の両岸であり、《大和》とは別の低地と考えたほうがよい。交通も不便だったと考えられる。

 奈良盆地の北部を除いた主要部を破線で四角に囲ってあるが、これは、図5・2や図8・1、またつぎの図10・3に描いた部分である。見比べれば、大きさの感覚がつかめると思う。


『卑弥呼と日本書紀481』

◆◆◆ 水郷地帯としての《大和》◆◆◆

図10・3
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H103.htm

 図10・3は、図5・2に歴代天皇の御陵位置を記入してみた地図である。
 図8・1は歴代皇宮位置だったが、比較すると、大体は皇宮と同じような場所に御陵が造営されたことがわかる。
 樋口清之が大和湖と呼んだ中央部――図5・3参照――を除いた周辺の区域に、皇宮も御陵も設けられていたことは興味ぶかい。
 また樋口が述べているように、橿原のあたりが、大和湖に突き出た半島状の地形だったらしいこともわかる。

 この図10・3で大和地方の主要部全域が一望できるので、この地図によって《大和》の特色を概説しておく。
 見にくいときは、基本図である図5・2に立ち返っていただきたい。
 中央部には、大和川の支流が数多く流れているが、古代においてはそれぞれが今よりもずっと大きな川幅をもっており、幅数百メートルに達することも珍しくはなかったらしい。
 したがって図の中央部分は――とくに梅雨時においては――湖ではなかったとしても、ほとんど水郷地帯といっても過言ではない領域だったと考えられる。
 そして、それらの河川の間に、微高地と呼ばれるわずかに隆起した丘状の地帯があったとされる。

 大和川の支流のなかでも有名な飛鳥川は吉野山地の方角から図の中央を流れているが、山に近い南の上流に、神武天皇即位の地・橿原や、《飛鳥京》や《藤原京》がある。
 このあたりは全体が飛鳥の地域であるが、大阪湾から船だけで短時間に到達でき、南に吉野山地があり、北に水郷地帯を望み、近くに香具山・畝傍山・耳成山の大和三山が見え、北東に《三輪山》が聳える、皇宮には絶好の地形だったことがわかる。


『卑弥呼と日本書紀482』

 樋口清之は前章に記したように、古代の奈良盆地には大和湖があり、それが次第に隆起して水が減って現在のようになった――と主張しているが、その樋口が指摘している例証の一つに、『万葉集』にある飛鳥時代の第三十四代舒明天皇の御製「国見の歌」がある。

 大和には 群山あれど
 とりよろふ 天の香具山
 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ
 海原は 鴎立ち立つ
 うまし国ぞ あきつ島
 大和の国は

 意味は、

「大和には多くの山があるが、とくに香具山に登って国を見渡すと、広い平野にはかまどの煙が立ちのぼっており、広い海面には鴎が飛びかっている。大和の国は本当に豊かで平和な国であることよ」

 ――といったことであるが、注目されるのは、この御製のなかに、《大和》の香具山から「海原が見えた」と歌い込まれていることである。
 この海原を単なる池とする従来の解釈に樋口は異議を唱え、じっさいに香具山から海のような広々とした湖水が見えたに違いない――としている。

 他の考古学者の最近の資料を見ても、盆地の中央部一帯が水郷に近かったことは確かなようで、この欽明天皇はじっさいに香具山から広大な水面をご覧になったのであろう。
 山から自分の国を一望しようという歌に、足もとの小さな池を詠みこむのはおかしい。香具山からの遠望に果てしない水面があったにちがいない。
 飛鳥時代でもそうだったのだから、それより約三百年前の崇神天皇や〈倭迹迹日百襲姫命〉の時代の奈良盆地の中央部は、なおのこと明確な水郷地帯または湖だったのであろう。


『卑弥呼と日本書紀483』

◆◆◆ 絶好の帯状地域にあった《纒向京》◆◆◆

図10・3
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H103.htm

 橿原・《藤原京》・《飛鳥京》のあたりが、この奈良盆地の代表的な都の適地であるが、もう一つ適地がある。
 それは、図10・3の中央より東寄りを流れる初瀬川と寺川で挟まれた地帯とその東側(山地の近く)を合わせた帯状の地域で、水にも土にも恵まれて農作に適した土地だったらしい。
 この帯状地域の大和川主流に近いところに、後述する「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」があり、山に近い上流部分には神武天皇の活躍で知られて国風謚号に使われている有名な磐余(いわれ)の地がある。
 また初瀬川の東岸は、次第に山に近づくので、洪水の恐れも少なく、《三輪山》やその周辺の山地からは木材・玉・鉄鉱石などを産し、川では砂鉄も採れ、農作にも居住にも技術にも適した場所だったようで、その恵まれた初瀬川東岸にあったのが、《纒向(まきむく)京》なのである。

図10・4
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H104-105.htm

「唐古・鍵遺跡」と《纒向京》の内部のことは次に記すことにして、図10・4には、古代の都がどのように変遷したかを大まかに示す図を描いておいた。
 神武天皇は南方の山地を越えて橿原に達して即位し、それから幾代かして《纒向京》ができ、それからしばらく転々としたのち《飛鳥京》ができ、ついで《藤原京》ができ、そして北方の《平城京》ができて奈良時代になった。

 その間、大津に都を移したり、河内や摂津に皇宮を設置したり、また朝鮮半島との関係で北九州や山口県に臨時の皇宮ができたりしたこともあった。
 このような歴史を振り返るとき、《纒向京》の重要性がよくわかるであろう。


『卑弥呼と日本書紀484』

■■■■■ 十・二「唐古・鍵遺跡」と《纒向京》の地勢と時代 ■■■■■


◆◆◆「唐古・鍵遺跡」の地理 ◆◆◆

 飛鳥川の上流とならんで《大和》の地で恵まれた居住環境をもつ地帯に、大和川の下流の初瀬川と寺川の流域があることは前節で述べたが、そのもっとも北側に、巨大な弥生遺跡として知られる「唐古・鍵遺跡」がある。

 場所は、今の地理でいえば磯城郡田原本町の唐古と鍵という地区で、位置は図5・2の円または図10・3の+記号で示してある。磯城郡の磯城は神武天皇紀にも崇神・垂仁天皇紀にも出てくる地名で、《纒向京》やその南を指していたようだが、古代と現在とでは示す範囲が違っているらしい。
「唐古・鍵遺跡」の地形は、長い年月の氾濫によって堆積したのであろう、二つの河川の間の低い丘のような沖積地帯で、大阪湾から河内湖や大和川を遡航して《大和》の地に入った最初の船着き場だったらしい。
 水路の便がきわめてよく、また湿地帯よりすこし高いので居住や倉庫にも適していた。
 付近は豊かな農作地帯なので、食糧にも困らない場所だったであろう。

 おそらく、交易品の集配所としてこの微高地に倉庫の類があり、北東に向かう布留川、南東に向かう初瀬川(大和川)、南に向かう寺川などを利用して、集まった農作物や土器や銅製品や鏡や玉などを大阪湾方面に送り出し、また逆に外から来た産物を《大和》内各地に渡していたのであろう。
 はるばる朝鮮半島や大陸から届いた品々も、弥生時代にはここで集配していたのかもしれない。


『卑弥呼と日本書紀485』

 この「唐古・鍵遺跡」の発掘が始まったのは古く明治にさかのぼるが、ここ数十年に新発見が相次ぎ、面積も当初の予想よりはるかに大きく、中心部だけでも径一キロ近くあり、弥生集落に特有の何重もの環濠にかこまれており、周辺にも多くの集落があったことが分かってきた。
 栄えた時代は、消長がいろいろとあったらしいが、おおむね西暦前三世紀から西暦後二世紀にいたるとされている。
 すなわち《纒向京》出現の直前であり、かつ〈卑彌呼〉の時代の直前でもある。

図10・5
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H104-105.htm

 はじめは複数の小さな弥生式の集落だったが、人口が増えるにつれて統合され、ついには、図10・5(a)の概要図にあるような、弥生時代としてはきわめて巨大な環濠集落に発展したらしい。
 周辺を加えると、北九州の吉野ヶ里遺跡を上まわる規模の雄大な環濠集落跡である。

 遺跡からは各時代、各地方の土器・石器・金属器・銅鐸鋳型・占い用の卜骨など、あらゆる弥生的な品が出土している。
 平成十七年には、紀元前二世紀にまで遡る銅鐸鋳型が発見されて話題になった。
 また建物の絵の描かれた土器が発見されて注目を集めたが、その絵をもとに楼観が復元された。
 図10・5(b)にその写真を示す。これに登ると何キロも先まで見渡せたであろうし、到着する船を前もって知ることもできたであろう。

 もうひとつ無視できないのは、この「唐古・鍵遺跡」から聖山《三輪山》が遠望できることである。
 縄文・弥生の集落が円錐形の山容を眺望できる場所によく作られたことはすでに述べたが、この遺跡もその条件をみたしているのだ。
 この事実も、古代の《纒向京》成立の謎を解く鍵なのかもしれない。


『卑弥呼と日本書紀486』

◆◆◆《纒向京》の位置と時代 ◆◆◆

 ふしぎなことに、二世紀の後半になると「唐古・鍵遺跡」は急速に衰亡し、それと反比例するように、この遺跡から初瀬川をしばらくさかのぼった東岸にある《纒向京》が勃興する。
 図10・2や図10・3でその位置を確認してから、内部の想像図である図10・6を見ていただきたい。

図10・3
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H103.htm

図10・6
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm


《纒向京》は、時代的には二世紀末の西暦一八〇年ごろに突如として現れ、三世紀に大いに栄え、そして四世紀初めの西暦三四〇年ごろに急速に衰退した――といわれている。
 出土品からそう推定できるのだ。
 すなわち、飛鳥時代のほぼ三百年前に全盛期をむかえた都であったらしい。
 西暦一八〇年という年は、『魏志倭人伝』にある、倭国の乱をおさめるために女王〈卑彌呼〉が共立された時期に対応している。
 また『記紀』でいえば、第七代孝靈天皇から第九代開化天皇にかけての時代と推理される。

 倭国の乱がどこまで真実なのか疑問もあるが、巨大な都ができる前にたくさんの集落どうしが競い合うのは歴史の必然なので、大なり小なり騒乱があったことは、倭人伝を読まなくとも想像できることである。
 だから騒乱自体は不思議なことではないのだが、興味ぶかいのは年代の一致である。
『後漢書倭伝』などに西暦一五〇年から一九〇年にかけて倭国が乱れたという意味の記述があるので、そこから女王共立が一九〇年前後と推理され、西暦一八〇年という《纒向京》出現時期の考古学的知見と照応するのである。
 また『記紀』との関係は、第十代以降の崩年干支などから推理できる。

《纒向京》が衰退したと考古学が推理している西暦三四〇年は、第十二代景行天皇が崩御され、次の成務天皇が都を滋賀県大津に移して全国の行政区画を整理し、国の役職(国造や県主)を置きはじめたころの推定年とほぼ一致している。
 つまり《纒向京》時代の天皇は、第七代孝靈天皇・第八代孝元天皇・第九代開化天皇・第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇・・・だと想像でき、とくに最盛期は第十代の後半から第十二代ごろだと考えられる。


『卑弥呼と日本書紀487』

 推定をまとめてみると、《纒向京》とは、第十代崇神天皇の直前の時代に勃興し、〈倭迹迹日百襲姫命〉の指導をうけた崇神天皇の御代に発展を開始し、次の垂仁天皇と景行天皇の御代に大きく進展し、景行天皇の崩御と次の成務天皇の遷都によって衰退した――ということができる。
 要するに大和朝廷が、有力ではあっても《大和》の支配者にすぎなかった状態から抜け出して、周辺の諸氏族を束ねた本格的な王権へと移行した時期に、《大和》の地にできた広大な都――それが《纒向京》だったのである。

 もちろん、考古学の推定時期が『記紀』の諸天皇の推定在位年代と一致していたとしても、それだけでは、

「《纒向京》は『記紀』にある前記諸天皇の都である」

 ――と断言することはできない。
 しかし、崇神・垂仁・景行三天皇の皇宮がこの《纒向京》周辺にあったことや景行天皇が纒向に都をつくったことなどが『日本書紀』や『古事記』に明記されており、しかも巨大な天皇陵・皇女陵などの古墳がいくつもこの地に実在しているので、その蓋然性はきわめて高いであろう。

 図10・6はその《纒向京》の概要で、上半分の太線内が、推定される全盛期の都の区域である。

図10・6
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 全盛期の大きさは、下の縮尺でわかるように、東西が二・五キロ、南北が一・五キロほどで、古代の集落としては桁外れの大きさである。
 東はすぐに山地であり、西方は奈良盆地の中心部である。

 近くには大和川の支流の初瀬川が端をかすめるように南東から北西に向かってながれており、その上流は《三輪山》の南山麓に達している。
 初瀬川に流れ込む巻向川(纏向川)は《三輪山》の北側山麓から流れ出て南西に向かっている。
 ただし古代の河川は、経路も川幅も今とはかなり違っており、考古学者が推定している河川を、《纒向京》内部のみ斜線の帯で描いておいた。
 つまり、東の山地から、幅が百メートルをこえるような豊かな河川が何本も西に向かって流れており、その河川の間に微高地があり、そこに宮殿や祭祀施設や居住地があったらしいのである。

 よく『万葉集』に、七世紀後半の有名な歌人・柿本人麻呂が巻向川や穴師川を詠んだ詩が出てくるが、それは現在の巻向川ではなく、むしろ景行天皇陵の近くを流れる川だったらしい。
 万葉時代の都は明日香のあたりで図よりずっと南だったが、人麻呂はこの巻向川や穴師川の上流の景観を愛でて、図の上右のあたりに別荘をかまえていたといわれている。


『卑弥呼と日本書紀488』

◆◆◆《纒向京》の内部 ◆◆◆

図10・6(再掲)
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《纒向京》推定範囲の大きな囲いの中央に、太線で方形の区域が描かれているが、この部分が、西暦一八〇年から二三〇年ごろまで――つまり〈卑彌呼〉の時代――の初期《纒向京》と推理される地域である。
 その北東の隅に初期の宮殿跡あるいは祭祀建物らしい遺跡があり、その同じ場所に、天照御魂(あまてるみたま)神社という古い神社がいまも残されている。
 そしてその真西にあたる地域に、きわめて古い前方後円墳の祖形をなす――帆立貝型ともいわれる――巨大な古墳がいくつかある。
 その古墳群のあたりに、纒向大溝と呼ばれている運河の遺跡が発見された。発掘場所が限定されるので、ごく一部しかわかっていないが、何条かの天然の河川を結んで船で産物を往来させる通路として使われたらしい。
 つまり本格的な都市施設である。

 有名な《箸墓》は南の微高地にあり、そのすぐ右に、やはり前方後円墳の祖形をなすホケノ山古墳がある。
 北東には景行天皇陵があるが、そのすぐ南(楕円の部分)に、どうやら後期の宮殿があったらしい。
 初期《纒向京》が大きく拡がって太線枠になった時代の宮殿である。
 考古学的な推定はそういう事だが、『日本書紀』によれば、この楕円のあたりに、第十一代垂仁天皇の皇宮「纒向珠城宮(たまきのみや)」や第十二代景行天皇の皇宮「纒向日代宮(ひしろのみや)」があったと伝えられている。
 つまり、古代史書の記述が現代考古学と、地域の呼び名までふくめて照応しているのだ。

 この二天皇の皇宮があったらしい楕円と《纒向京》の中心部とはかなり離れているように見えるが、古代の皇宮のほとんどは都の中心から離れた場所にあった。
 奈良時代になっても、皇居は《平城京》の中心ではない。
 だから第十代崇神天皇の皇宮が図10・6の右下隅の金屋のあたりだったのも不思議なことではない。
 さらにこの地図から気づくのは、いずれの皇宮も山に近い場所にあることである。
 おそらく神聖な山に近くかつ守りに強いことから選ばれたのであろう。

 さて、この《纒向京》の中央には、南北に一直線の「原上ッ道」という古くからの道が通っているが、これは日本で最古の国道の跡とされており、もうすこし南の磐余のあたりからはるか北部にまで続いている。
 いまでは山沿いの山辺の道が《大和》を忍ぶ古道として観光ルートになっているが、この一直線の道も印象的である。
 時代ははっきりしないが、きわめて計画的な道路が作られ、《箸墓》はその道路に接した位置にあるのだ。
(むろん南北に歩くためには多くの河川を渡る必要があるので、船便が庶民の足としても発達していたのだろうと推理できる。一方山辺の道は山に近いので川幅は狭く、橋を渡ったかもしれない)


『卑弥呼と日本書紀489』

 この《纒向京》の範囲はもちろん推定だが、その重要な特色として、「環濠がない」ことがあげられている。
 それまでの弥生集落は、ほとんどが環濠をめぐらしており、集落を外敵から防ぐ構造になっていた。
 直前に栄えた「唐古・鍵遺跡」もそうである。
 それが、弥生時代の終わりである二世紀末に、とつぜん、環濠を持たない大集落がここに出現したのだ。
 これは《纒向京》独自の特徴で、同じ時期の他の地域の集落には、大和であってもやはり環濠があったらしい。
 つまり、

「弥生の末にあたる西暦一八〇年ごろに、それまでの日本列島の集落とはまったく異なる構造を持った開放的な巨大都市が、突如として、しかも日本でただ一つ、《三輪山》の麓だけに誕生した」

 ――のである。
 そしてその誕生の時期が、

『魏志倭人伝』にある女王〈卑彌呼〉擁立の時期に一致する。

 ――と推理されるのだ。
 環濠が無いということは、敵に攻められる恐れが無いか、または攻められても圧倒的な力で追い払うことが出来るほどの軍事力を持っているか、どちらか――または両方――だったことを意味している。
 しかも水運によって遠方と交易できる場所でもあったのだ。

**********

 西暦一八〇年ごろ、三輪山麓の《大和》を中心にして日本列島に何か大きな動きが起こったことは、なにも外国史料の『魏志倭人伝』によらなくても、このように考古学と『記紀』によって推量できるのである。


『卑弥呼と日本書紀490』

■■■■■ 十・三《纒向京》周辺の主要地域 ■■■■■


◆◆◆《纒向京》の周辺 ◆◆◆

図10・6(再掲)
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 つぎに図10・6によって、《纒向(まきむく)京》近くの主要な場所を説明しておこう。
《纒向京》の右隅のあたりに、《檜原(ひばら)神社》がある。これは第八章や第九章で述べたように、〈天照大神〉を皇宮外に奉斎した最初の神社である。
 図示したのは現在位置だが、古代にはこのやや北だったらしい。
 ――ということは、《箸墓(はしはか)》から真東にあったことになり、逆にいえば、〈天照大神〉を祀っていた神社を真東に拝む位置に、〈倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命〉の御墓が造営されたことになる。
 これは、《檜原神社》が《箸墓》より先にできたという前提のもとにいえることであるが、『日本書紀』の記述はそのとおりの順序になっている。

 さらにこの《箸墓》のあたりは、大きな市場があったらしく、大市墓とも呼ばれ、〈百襲姫命〉の別名にも神大市があることはすでに述べた。
 考古学的にも、このあたりで「市」という墨書ののこる土器が発見されている。
 だから《箸墓》の場所は、古代の国道沿いで交通至便であり、大きな市場があり、また〈天照大神〉を真東に拝む「日神祭祀」がなされた場所でもある――と推理できるのだ。

 もちろん聖山である《三輪山》を目前に望み、その神〈大物主神〉に祈るにも、その神子だった〈倭迹迹日百襲姫命〉を祀るにも、絶好の位置であった。
《檜原神社》のそばに矢印があるが、その方角が《三輪山》の山頂である。そしてその山頂の南西の山際に、〈百襲姫命〉が神子(巫女)をつとめた〈大物主(おおものぬし)神〉を奉斎する《大神(おおみわ)神社》の拝殿がある。鳥居を描いておいた。

《大神神社》のすこし北に「神武天皇聖跡」という石碑が建てられているが、このあたりが、第六章で述べた、神武天皇が皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命を見初めて歌を詠んだ場所――狭井川(さいがわ)という小さな川のほとり――だと考えられている。
 これは、《三輪山》を祀る豪族の娘を皇后にすることによって、大和朝廷がこの山麓に進出して《三輪山》の祭祀権を手中にすることを可能にした、巧みな婚姻政策を暗示する伝承である。


『卑弥呼と日本書紀491』

図10・6(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

《大神神社》のさらに南、地図の右下ぎりぎりのあたりは、古くから金屋と呼ばれていた土地で、そこの初瀬川の北岸あたりに、第十代崇神天皇の皇宮「磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)」が置かれていたと伝えられている。
 考古学的には崇神天皇の時代にこの《纒向京》が発展を開始したと考えられるのだが、皇宮は郊外にあたる場所に有った。
 人々の集まるにぎやかな場所と王宮がすこし離れているのは、前述のように古代では一般的なことで、権力者の城は防御に適した場所を選んでいたのであろう。

 すでに何度か述べたことだが、金屋の金は鉄を意味していて、このあたりに鉄を生産した遺跡が多数発掘されている。
 したがって古代の武器を造る最善の金属だった鉄の産地に皇宮を設けたのかもしれない。

 なお金屋と呼ばれる地域は、数百年あとまで栄えていて、飛鳥時代に遣隋使の小野妹子や隋の使者の裴世清(はいせいせい)が朝廷の盛大な迎えを受けて船から降りたのもこのあたりで、初瀬川の南岸だったらしい。
 隋の使者など遠方からの旅人は大阪湾で外洋船から川船に乗り換えたのであろうが、それにしても大国の要人を乗せた船が行き来できるほどの川幅が、このあたりの上流でもあったのだ。
 またそのあたりは、海石榴市(つばきいち)とも呼ばれて歌垣などの遊びもなされたにぎやかな場所であった。

《纒向京》の特色はさらにあとで述べるが、この古代の謎の都について、苅谷俊介がデータと想像によって面白いCGをつくっているので、ご紹介したい。

図10・7
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H107-109.htm

 図10・7がそれである。図の中央部の四角は、図10・6の四角に対応し、初期纒向京の推定範囲である。


『卑弥呼と日本書紀492』

◆◆◆「敷島の大和心」と「葦原ノ中国」◆◆◆

 江戸時代のもっとも著名な国学者である本居宣長の詠んだつぎの短歌は、よく知られている。

敷島の
やまと心を 人問わば
朝日に匂ふ 山櫻花

 この歌の冒頭の敷島(しきしま)は大和にかかる枕詞だが、それは「磯城(しき)の地」が古代の《大和》を代表する場所だったからであろう。
 前述したように、第十代崇神天皇の皇宮は現金屋の磯城の地にあったし、第二十九代の欽明天皇の皇宮も同じ場所にあった。また第六章に記した神武東征神話にも磯城の戦いが強調されている。
 だから「磯城すなわち敷」が大和の枕詞になるのは判るのだが、そのあとになぜ「島」がつくのだろうか?
 じつは欽明天皇の皇宮は、厳密に「磯城島」とされているのだ。

 島というのは、海のなかの小さな陸地であり、それがのちに意味を拡大して、特定の場所を示す言葉にもなった。ヤクザ言葉のシマもそうである。
 だから、たんに皇宮の場所として「島」がついたと解釈できないことはないのだが、図10・6の地勢を見ると、《纒向京》のなかの宮殿地域にせよ磯城宮のあった金屋にせよ、幅広い河川に囲まれた微高地であり、本来の意味での「島」であったとも考えられるのである。
 古伝の一部には、初瀬川と栗原川に挟まれたせまい地域(図10・3の東端の34のあたり)が磯城島と記されているらしい。
 つまり、水郷の中の居住地だからこそ、「島」という文字がつけられているのだ、とも考えられるのである。

図10・3(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H103.htm


『卑弥呼と日本書紀493』

『記紀』のなかに「葦原ノ中国(ナカツクニ)」という言葉がでてくる。
 これは、天と地底のあいだの国――つまりこの地上の国(日本列島)――として理解されており、じじつ文脈はそのとおりであるが、では、なぜこの地上の国が、「葦の原の中の国」という言葉で表現されたのだろうか?
 字義どおりに解釈すれば、それは葦の生えている原っぱの中にある国――ということになる。
 そこで、大和朝廷の先祖が王権を築いた土地が、葦原の中にあったからではないか――との想像が浮かんでくる。
 第六章に記した神武天皇の御製の冒頭も「葦原の」である。
 葦というのは水辺の湿地帯に自生する多年草で、稲の親戚である。したがって葦の生えている場所は水のある場所であり、どうじに稲のつくりやすい場所に隣接しているといえる。

 俳優で《大和》の発掘に長年従事してきた苅谷俊介は、図10・3の+印に位置し、図10・5に図示した「唐古・鍵遺跡」こそ、この「葦原ノ中国」にふさわしい土地だ――と述べている。
 つまり《纒向京》ができる直前のこの弥生集落は、水郷(二つの大河)の間の微高地であり、水郷には葦原があるのがふつうだから、まさに「葦原ノ中国」だというわけである。
「唐古・鍵遺跡」に限定する必要はもちろん無く、《纒向京》やその周辺もまた、岸辺に葦の生えた河川の間の微高地の連なりであり、「葦原ノ中国」にぴったりなのである。

(なお、先の枕詞「敷島」の元になった神武天皇の時代からおなじみの土地、「磯城」であるが、この名には、丈夫な石の城という意味があるらしい。神武東征譚からも、それは納得できる)

**********

 次節では、《纒向京》やその中の《箸墓》の重要性を決定づけた、考古学的年代の大修正の話を記すことにしよう。
 平成に入ってからの研究や発見によって、戦後の古代史書が大幅な修正を求められるようになったのだ。


『卑弥呼と日本書紀494』

■■■■■ 十・四 遺跡の木材の伐採年を確定する「年輪年代法」■■■■■


◆◆◆「年輪年代法」の登場 ◆◆◆

 前節で、《纒向京》の時代を西暦一八〇年から三四〇年と推理したが、これは、最近の考古学の成果に基づいて石野博信教授らが提唱している数値である。
 この数値は『魏志倭人伝』の《邪馬台国》を連想させるにじゅうぶんなものがあるし、《纒向京》南端の巨大古墳である《箸墓》(またはハシノミハカ)が、やはり倭人伝にある〈卑彌呼〉の大きな冢(墓)である可能性をも感じさせる。

 つまり、

「《邪馬台国》大和説」
 かつ、
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――である。

 しかしごく最近まで、そのような主張は少数派であり、学会の主流ではなかった。
 なぜなら、纒向遺跡の年代も《箸墓》の年代も、しばらく前までは『魏志倭人伝』の時代よりずっと後だ――とされていたからである。
 北九州の大きな遺跡は『魏志倭人伝』の時代と合うかもしれないが、《大和》の同様な遺跡はその何十年かあとである――というのが、多くの学者の見解だったため、《大和》説に同意する人が少なかったのだ。

 それが、この十数年ほどで、多数派にかわった。
 それは、考古学的な年代の決定法が、画期的に進展したからである。
 この節では、ジャーナリスト倉橋秀夫の『卑彌呼の謎年輪の証言』によって、その新しい年代決定法である「年輪年代法」を概説することにしよう。
 以下は倉橋の解説を著者なりに短くアレンジしたものである。


『卑弥呼と日本書紀495』

◆◆◆ 放射性炭素年代測定法の限界 ◆◆◆

 古代を対象とした考古学おいては、ある遺跡が成立した年代の推定は、主として遺跡から出土する土器の時代変化によってなされる。
 土器類の形式変化と年代の前後関係は、きわめて精密に研究されていて、数年単位の違いがわかるらしい。
 ただし絶対年代の決定となると、なかなか決め手がなく、困難であり、さまざまな関係史料や物理的方法から推定されていた。

 物理学的方法のなかでよく用いられてきたのが、木材に対する放射性炭素年代測定法と呼ばれるもので、木がふくむ炭素14という元素の量から伐採年を推定する方法である。
 これは木材についてはかなり有効で、たとえば青森市の有名な縄文遺跡・三内丸山遺跡から出土した栗の大木を測定した結果、四八二〇年前の伐採であることが分かった。
 こういう方法で遺跡の木材の伐採年代が分かれば、そこに埋められている土器類も、ほぼ同じ年代に製造されたものだろう――と推理することができ、ひいては遺跡そのものの年代も推理することができる。
 ところが、この方法は、誤差が大きいという欠点がある。
 右の三内丸山遺跡の栗の場合は、プラスマイナス十五年という誤差がいわれているが、一般には数十年の誤差を覚悟しなければならない。
 したがって、物理的方法として有力ではあっても、《箸墓》が〈卑彌呼〉の墓かどうかといった「きわどい問題」に使用するのは――不可能ではないにしても――難しい。
 十年か二十年ちがうと、次の代になってしまうのだ。つまり〈卑彌呼〉が〈臺與〉になってしまうのだ。
 そこで、近年になって登場したのが、「年輪年代法」という方法である。


『卑弥呼と日本書紀496』

◆◆◆「年輪年代法」とは何か ◆◆◆

 この方法の原理自体は簡単である。
 樹木の成長は均質ではなく、一年間には成長の速い時期と遅い時期があるため、輪切りにしたとき濃淡が見える。これが年輪だが、この年輪は、毎年一定の幅でできるわけではない。
 その樹木にとって都合の良い気候が続いた年は、大きく成長するため年輪の幅は広くなる。また気候の悪い年は狭くなる。
 したがって、年輪は年代の記録になっているのだ。

図10・8
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H107-109.htm

 図10・8でわかりやすく説明しよう。
 たとえば、三十年前に生まれて今年伐採した樹木の各年の年輪の幅を顕微鏡で見て測定したところ、図(a)のようだったとする。グラフの上ほど年輪の幅が広く、下ほど狭い。横軸は年で、右端が今年であり、左端が五十年前である。
 これとは別に、もう一本の同じ種類の樹木があり、それは三十五年分の年輪をもっていて、測定してみるとその幅が図の(b)のような変化をしていたとする。
 図(a)と(b)を比較すると、(b)の外側の伐採時の年輪から十五年前までの変化の形が(a)の十五年前から三十年前までの形と同じになっている。
 すなわち、この(b)の樹木は、五十年前に生まれて十五年前に伐採されたものだと判定できるのだ。
 そして、(a)と(b)を組み合わせることによって、現在から五十年前までの年輪幅の変化の様子――つまり各年の気候の様子――をあらわす図(c)のパターンができる。

 もちろん気候が同じでも樹木の個性や場所によって年輪変化は違ってくるが、だいたい合っていればそれを統計的に処理して、標準の年輪幅のグラフをつくることができる。
 そこで、この操作を何百本何千本という樹木に適用してゆくと、百年前、五百年前、千年前・・・というふうにさかのぼることができ、古墳時代や弥生時代までの年輪の標準パターンが描けるであろう。
 それができてしまうと、遺跡から出土した木材が、何年ごろに伐採されたものかが、判定できるはずである。

 その原理を図10・9に例示した。

図10・9
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 図の(a)が多数の樹木によって得られた標準年輪幅のパターンだとし、(b)がある遺跡から出土した年代不明の木材のパターンで○印の右端がその木の樹皮のすぐ近く――いちばん外側――だったとする。
 そして(b)を(a)と照合していった結果、図のようにパターンが一致する年代が見つかったとする。
 すると、この出土した木材は、六十年前に生まれて三十年前に伐採されたものだと判定できるのである。
 このように「年輪年代法」の原理はとても単純であり、すぐにもできそうに思える。
 しかしじっさいは、そう簡単にはいかない。
 日本では不可能だといわれていた時代もあったのだ。


『卑弥呼と日本書紀497』

◆◆◆「年輪年代法」の歴史 ◆◆◆

 この方法は、一九二〇年代にアメリカの天文学者A・E・ダグラスによって考案され、アメリカとヨーロッパで発展した。
 アメリカは年々の気候の変化が激しく、したがって年輪の変化が大きいため、出土した木材に十五年分ていどの年輪が刻まれていれば、それがいつ頃の伐採かが分かるといわれている。
 ヨーロッパはもうすこし長く必要だが、それでも三十年分くらいの年輪が分かれば、判定可能だとされている。
 しかし日本では、

一 島国で海によって気候が緩和されるため、年毎の気候の変化が少なく、したがって年輪幅が毎年ほとんど一定である。
二 地形が複雑で、山地や平地の森や水際など、じつにさまざまな場所に樹木が生育しており、同じ年でも場所によって年輪幅がまちまちであろう。
三 日本列島は北から南まで細長く、北と南では気候がまったく違うので、統一的に扱うことは不可能であろう。

 ――といった困難が考えられ、欧米のようなわけにはいかないだろう、と誰もが考えていた。

 じつは日本でもかつて試みた人はおり、大正時代、終戦直後、また昭和五十年ごろ・・・などに実行されかかったことはあったのだが、成果をあげられずに終わってしまった。
 戦後まもなく、西岡秀雄という学者(トイレットの研究でトイレット博士としても知られていた)が、法隆寺五重塔の解体修理のときに中心となる木材をこの「年輪年代法」で計測して、西暦六〇七年という値を出したことがあったが、周囲の納得は得られなかった。
 図10・9(a)に相当する資料が不備だったからである。

 しかし考古学の進展が著しくなるにつれて、日本でもこの方法ができないか――との要望が強くなり、一度徹底的にやってみようということになり、昭和五十五年(西暦一九八〇年)に、光谷拓実という当時三十二歳の若い学者がはじめることになった。
 光谷は東京農業大学で造園を学び、千葉大学大学院で園芸を学び、そののち奈良国立文化財研究所に入って遺跡の植物の研究や遺跡発掘あとの公園化などを担当しており、考古学者としては変わった経歴だったが、この経歴が「年輪年代法」の確立には大きくものをいった。
「年輪年代法」とは、もともと植物を対象とする研究だからだ。


『卑弥呼と日本書紀498』

◆◆◆ 光谷拓実の予想外の成果 ◆◆◆

 光谷は年代が明確に分かっている原生木の測定からはじめて、同じ年代で二十ていどのサンプルをとって統計的に処理しながらデータを積み上げていった。微妙な変化を見るために年輪測定の精度は一〇ミクロンという微細な値にした。
 選んだ樹木は、古代から現代まで一貫して使いつづけられていて、どの地方にもあり、そして百年以上の年輪が得られやすい――という条件を満たす、杉・檜・高野槇の三種だった。

 こつこつとデータをとり続けた結果、数年ほどで、日本でも年輪のパターンが――同じ地域なら――どの木材でも一致することがわかってきた。
 ただし、日本は気候変化が微妙なので、年輪の照合には、欧米とちがって百年から二百年という多くの年輪が必要だった。
 しかしさいわいなことに杉や檜の類は長寿であり、各地に百年をこえる太い木材がかなり残されていて、データの収集は可能だった。
 これは予想外の嬉しい結果で、周囲の期待も高まった。

 つぎに日本列島の各地域で年輪パターンが一致するかどうかの研究がなされた。
 その結果として、従来の考えをくつがえす『驚くべきデータ』が得られた。
 日本列島の北と南ではまったく気候が違うので、大和なら大和、山陽なら山陽・・・といった具合に、別のデータになるだろうと思われていたのが、ほとんど同じであることが分かったのだ。
 青森・秋田・長野・岐阜・三重・和歌山・高知・屋久島など遠く離れた場所でも、パターンの一致が見られたのだ。
 またさらに、地域による微妙な違いの資料も得られて、産地の推定も可能となってきた。

 年代的にもじわじわとさかのぼり、六年後には二千年前までの年輪パターンが得られるようになった。つまり弥生時代から古墳時代にかけての年輪変化が分かってきたのだ。
 光谷の所属する研究所は各地の遺跡からの木材や、古い寺社の解体修理のおりの古材などが求めやすい環境であり、そのことも研究に幸いした。
 そして、倉橋が執筆した平成十一年には、七千本もの木材を測定した結果として、

 杉で西暦前一三一三年(いまから三三〇〇年前)まで
 檜で西暦前九一二年(いまから二九〇〇年前)まで

 ――の標準年輪幅パターンが得られるようになった。
(悠仁親王殿下の御印で有名になった高野槇でもかなりのデータが得られた)

 欧米では一万年前まで分かっているので、それに比べれば僅かな期間だが、古墳時代をこえて弥生時代までの精密なパターンが求められたのだ。
 こうして、百年ていどの多くの年輪を持ち、かつ樹皮に近いところまでの年輪が残されている太い木材であれば、それが伐採された紀年を、年単位で――うまくすれば季節単位で――確定できる技術が完成した。

**********

 これは日本の考古学にとって、じつに画期的なできごとであった。
 以下に述べるように、従来の編年表の定説がつぎつぎに覆されることになったのだ。


『卑弥呼と日本書紀499』

■■■■■ 十・五「年輪年代法」の衝撃と編年表の大修正 ■■■■■


 この節では、「年輪年代法」を実地に適用した結果とそれによって弥生時代から古墳時代にかけての古代編年表がどのように修正されたかを、前節と同じく倉橋秀夫の資料によって検証しよう。


◆◆◆ 衝撃的だった「年輪年代法」の適用結果 ◆◆◆

〈1〉紫香楽宮の柱根の測定

『続日本紀』によると、第四十五代聖武天皇(皇后は光明皇后)の離宮である紫香楽宮(しがらきのみや))は天平十四年(西暦七四二年)の八月に建て始めたとされる。
 候補地は滋賀県にいくつかあったが、その一つの宮町遺跡から出た檜の柱根を測定したところ、一本が七四三年の初秋に伐採、他の一本が七四二年の冬か翌年の春に伐採されたことがわかり、正史の記述を裏づけた。
 この九年あとに木簡が出土して、測定の確かさが証明された。

〈2〉法隆寺五重塔の心柱

 前記の西岡秀雄の測定した檜の心柱を、新たに光谷のデータによって測定しようとしたが、樹皮に近い部分が無かったために推定しかできず、創建の七世紀初頭よりかなり遅く、六七〇年の火災によって再建されたのだろうとの説が一度は流布した。
 ところがそのご平成十三年になって、エックス線撮影により樹皮に近い部分――白太と呼ばれる部分――が残っていることがわかり、再測定したところ、西暦五九四年という意外な伐採年が出た。
 これは再建どころか創建時よりさらに十年以上も前の伐採であり、議論を呼び、現在著名な学者たちがいろいろな仮説を発表している。

〈3〉滋賀県の二の畦・横枕遺跡

 典型的な弥生時代の環濠集落であるこの遺跡は、従来は西暦後五〇年くらいとされていたが、井戸の遺跡の檜や杉を測定したところ、紀元前六〇年と九七年という値が出された。つまり百年以上古く出たのだ。
 ただし井戸に使うような木材は、古材の再利用かもしれないので、まだ編年表の修正には疑問がもたれた。


『卑弥呼と日本書紀500』

〈4〉池上曽根遺跡の驚くべき建造物と古さ

 大阪府の堺市の南西、和泉市と泉大津市にまたがる池上曽根遺跡は弥生中期の遺跡として知られてはいたが、発掘調査が進んだ結果、平成七年に高床式の大型建造物や巨大な井戸が発見されて、大きなニュースになった。
 吉野ヶ里遺跡より古い時代に、より大きな建物をもつ大規模な集落が関西にあったのだ!
 遺跡から出た多数の檜の柱根は直径が七十センチもあり、《平城宮》なみの大きさで、樹齢も二百年前後だったし、井戸は樹齢七百年の楠をくりぬいた外径二メートルにも達する巨大さだった。

 この発見は、弥生時代には大型建物は無いという通説をうちやぶるものだったが、その古さが「年輪年代法」によって測定されると、衝撃はさらに強まった。
 測定可能な柱根の発掘も、測定そのものも、大変だったが、多くの関係者の努力によって、いくつものサンプルが測定され、さらに土器の調査をはじめさまざまな調査がなされた結果、この遺跡の大型建造物の柱の檜は、
「西暦前五二年に伐採された」
 ――ことが明らかになり、かつ、
「古材が再利用された可能性はきわめてうすい」
 ――ことが明らかになった。
 この結果は平成八年三月に発掘報告書の形で公式に発表された。

 この前五二年という伐採年はじつに衝撃的で、従来の土器の推定より百年はさかのぼることになったのだ。
 つまり弥生時代中期は、ごく最近の教科書に書かれていた数字にくらべてさえ、百年も古いことが分かったのだ。
 奈良時代なみの大規模な宮殿状の建物があったというこの西暦前五二年がどういう意味を持つのかを、いくつかの事例で述べてみよう。

▽この年はクレオパトラが女王に即位したころだが、その時代に日本にも巨大な宮殿に住む王がいた。
▽「漢委奴國王」という金印を九州の倭奴国がもらった年よりも百年も古い時代に畿内に大きな国があった。
▽『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉の時代より二五〇年も前の時代にすでに大規模宮殿が畿内にあった。
▽〈卑彌呼〉の時代よりずっと古くから、畿内に九州より大きな集落遺跡があった。
▽さらに、弥生時代の畿内に大きな国がいくつもあり、独自に大陸や朝鮮半島と交流していたらしいことも推量されるようになった。

 考古学界がうけた衝撃の大きさがわかるであろう。
 この「年輪年代法」の威力によって、いまでは、九州在住の考古学者ですら、「《邪馬台国》九州説」を唱える人が激減したといわれる。


『卑弥呼と日本書紀501』

〈5〉その他の測定と《箸墓》の推定

 その後もいろいろな遺跡の出土木材が測定された。
 たとえば、《纒向京》の纏向石塚古墳の周濠から出た檜の板材は、西暦一九五年伐採らしいことがわかった。つまり〈卑彌呼〉の死の五十年以上も前の造営であることがわかった。
 またそのすぐそばの勝山古墳の周濠から出土した檜板は、西暦一九九年の伐採であることがわかった。

《箸墓》からの木材の出土はまだ発表されていないが、こういう多種の測定と土器の研究から、《箸墓》の造営年は、西暦二五〇年から二六〇年の間くらいであろうと推定されるようになった。
 それまでは、西暦三〇〇年以後であろうとか、どんなに古くても西暦二八〇年ごろであろうとかいわれていたので、これはじつに大きな修正だった。
『魏志倭人伝』から考えられる〈卑彌呼〉の死の西暦二四八年から五年後くらいには、《箸墓》ができたことになるが、巨大な墓の造営には最低でも五年はかかるだろうから、《箸墓》の造営年と〈卑彌呼〉の没年はピタリと一致することになったのだ。

 それまでは、〈卑彌呼〉の死から何十年もたって墓ができる筈はなく、したがって別の人物の墓だろうとされていたのが、あっさりと覆され、

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――が急上昇することになったのだ。

 さらに、《大和》の古墳がこのように古いと判明したことは、逆にいうと〈卑彌呼〉の時代に北九州に無いような巨大古墳が《大和》にはあった――とわかってきたことでもある。
 それまでは、《大和》の発展は北九州より何十年か遅れていると考えられていたので、《大和》の巨大古墳と〈卑彌呼〉を結びつける人が少なかったのだ。


『卑弥呼と日本書紀502』

◆◆◆「年輪年代法」に基づく編年表の大修正 ◆◆◆

 以上のような多くの適用結果を考古学者が受け入れた結果として、弥生時代から古墳時代にかけての畿内の編年表がどのように修正されてきたかを、図10・10に略描した。

図10・10
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1010-1012.htm

 いずれも佐原真、都出比呂志といった著名な考古学者の案で、倉橋秀夫の前掲書の資料をアレンジした。
 これをみると、一九七〇年の説Aと一九九八年の説Cとでは、弥生後期の始まりが二百年も後退し、古墳時代の始まりも五十年後退していることがわかる。
 さらに驚くのは、一九八三年Bから一九九八年Cまでのわずか十五年の間に、同じ学者の説が、弥生後期の始まりで百年、古墳時代の始まりで五十年も後退してしまったことである。
 この、一九八三年Bから一九九八年Cへの変化こそ、「年輪年代法」の衝撃によるものなのである。

(なお前述した放射性炭素年代測定法によっても、弥生前期の大幅な後退が唱えられており、精度は別にして「年輪年代法」と矛盾しない結果が出ているようである)

 読者の多くは、おそらく、一九八三年より前に中学高校などで弥生・古墳の年代を先生から習ったであろうから、その記憶と現在の最新の研究成果とは、弥生時代後期にして二百年も違っているのだ。
 都出比呂志は平成十年の講演録で、古墳時代のはじまりは三世紀半ば(一説では二世紀末)とわかったのに、教科書には検定基準によって三世紀末から四世紀初と書かねばならない――と述べている。

 再度図10・10をみて、〈卑彌呼〉の推定没年の西暦二四八年を縦軸で確認していただきたい。
 つい最近の一九八三年ごろまでは、その没年は畿内の弥生時代であって、古墳時代の始まりより五十年かそれ以上も前であり、したがって《大和》に径百余歩もあるような巨大な墳墓はなかった――とするのが通説であった。


『卑弥呼と日本書紀503』

 しかし「年輪年代法」の威力が認められるようになった二十世紀末になって、大和の古墳時代の始まりと〈卑彌呼〉の没年とが一致するという判断が主流になったのだ。
 さらに細かな検討の結果として、本邦初の「超巨大」前方後円墳である《箸墓》の造営年が、西暦二五〇年から二六〇年の間くらいだろうと推定されるようになり、

「《大和》説における年代の矛盾が一挙に解消してしまった」

 ――のである。
 そしてその同じ年代には、《箸墓》のような「超巨大」な墳墓は、《大和》以外のどの地域にも――北九州にも南九州にも――存在しないことが、あらためて認識されるようになってきたのである。

**********

 この節の最後に、
「《邪馬台国》大和説」と「《邪馬台国》九州説」の論争にこの「年輪年代法」の成果が与えた影響について、倉橋秀夫のコメント(大意)を紹介しておく。

「・・・「年輪年代法」で《大和》の古墳の年代がずっと古いことが分かった結果、九州説につきものの《邪馬台国》東遷時期より以前に、《大和》に九州より大きな墓があり、その後に九州に大和式の墓ができるようになったと認められるようになった。土器も近畿から九州への流れが認められるようになった。
 ・・・すくなくとも《纒向京》に日本列島ではじめて大王墓――箸墓のこと――ができたことは間違いない。
 ・・・最近では考古学者の九割までが「大和説」になり、九州在住の考古学者でさえそうなっている」

 断言はしていないが倉橋の感想は「大和説」極めて有利であり、著者もそれに同感である。


『卑弥呼と日本書紀504』

■■■■■ 十・六《纒向京》に集中する「祖型および前期」前方後円墳の概観 ■■■■■


◆◆◆ 前方後円墳の名づけ親 ◆◆◆

 日本の古墳時代は弥生時代と飛鳥時代をつなぐ重要な時代区分であるが、それは巨大な前方後円墳で特徴づけられている。
 巨大前方後円墳は世界的にみてきわめてユニークな日本独特の墳墓形状である。
 弥生時代の小さな円墳が巨大化する過程で小さな方形部をもつようになり、その方形部が、相対的に急激に大きくなり、ついには円形部を上まわるようになった――と考えられている。
 方形部の役割は、墳墓造営後の祭祀に関係しているらしい。

 前方後円墳というお馴染みの名称を発案したのは、江戸後期の勤王の志士として高山彦九郎とならんで著名な蒲生君平で、出典は文化五年(一八〇八年)に刊行された『山陵志』である。
 山陵とは天皇や皇后の御陵のことであるが、この本は極貧のなかで全国の天皇陵をめぐった君平が、その現状を漢文で書き記したもので、御陵についての総合的な研究書の先駆である。
 その前に松下見林が似た仕事をしているが、昔の史書を参考にしただけで実地の調査はほとんどしなかったといわれており、内容においては『山陵志』が群を抜いている。
 蒲生君平はこの経験によって、天皇陵が荒廃しているさまを知り、心を痛め、その修復や維持を幕府に訴えた。
 訴えは幕府には通じなかったが、それからほぼ六十年ののち宇都宮藩がこの『山陵志』に刺激されて御陵の修復整備を計画し、幕府の許可を得て実行した。
 そして文久三年(一八六三年)から慶應元年(一八六五年)までの幕末騒乱期に、百以上の天皇陵を修復し垣根をめぐらすなどして荒らされることを防いだ。
 これは昨今の幕末史ではほとんど無視されている偉業であった。


『卑弥呼と日本書紀505』

 さて、前方後円墳の命名だが、蒲生君平は『山陵志』のなかで、つぎのように記している。

「其爲制也。必象宮車。而使前方後圓。爲檀三成。且つ環以溝。」

 読み下すと、

「その制をなすや、かならず宮車にかたどり、前方後円となさしめ、檀をなすに三成とし、かつめぐらすに溝をもってす。」

 ――である。

 これが前方後円墳の語源で、言い得て妙である。
 蒲生君平のころは上から見ることは難しく、横からみた形を前方後円と描写したのだ。
 さらに君平はこの形が古代の宮車を模したものだと推理している。この推理は現在では否定されているが、面白い考えである。
 檀をなすに三成――というのは、墳丘が三段でできているという意味だが、たしかに古代の前方後円墳はそういう作り方が多かったらしい。
 蒲生君平は戦前は修身の教科書の常連だったが、戦後は忘れられている。
 しかし日本独自の巨大墳墓に「前方後円墳」という名をつけただけでも、日本人が記憶すべき人物ではないだろうか。


『卑弥呼と日本書紀506』

◆◆◆ 前方後円墳の分類 ◆◆◆

 話を《纒向京》にもどして、この日本最古の本格的な都の内部とその周辺――すなわち狭い意味での《大和》――には、最初期の前方後円墳がきわめて多い。
 おおまかにいって《大和》の前期の前方後円墳は全国の四割をしめるが、最初期の大古墳にかぎれば、百パーセントが《大和》にあるといってよい。
 古墳時代はかなり長いため、三つにわけられており、

 前期・・・ほぼ三〜四世紀
 中期・・・ほぼ五世紀
 後期・・・ほぼ六世紀

 ――と考えればよい。
 このほかに前期と弥生期の境目にあるものが《纒向京》には多いので、これを祖型とすると、

 祖型・・・ほぼ二〜三世紀

 ――となる。
《纒向京》にあるのはほとんどが祖型か前期のなかでもとくに早い時期のものであり、真の意味で最初期の巨大な前方後円墳によって《纒向京》が構成されているといっても過言ではない。

図10・6(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

 図10・6を振り返っていただけばおわかりのように、《纒向京》には少なくとも七つの最初期の前方後円墳があり、それは大小二つの大きさに分かれている。
 しかし小とみえる古墳も、じつは弥生時代の墳墓にくらべればはるかに巨大で墳丘長が百メートルもある。
 そしてその多くは前方部が後円部にくらべて小さく、円墳時代の形状を残している。
 この前方部が小型の形の古墳は、時代的には超巨大な前期古墳の前であり、形状も過渡的なので、前記のように祖型と呼ぶことにしたのであるが、便宜上大きさの呼び方をつぎのように決めよう。

 祖型(前方部が小さく、墳丘長が百メートル前後)→「巨大」
 前期(前方部が大きく、墳丘長が三百メートル級)→「超巨大」

 百メートル前後とは、サッカー・グラウンドの大きさであり、図10・6では小さくみえても、じっさいにはじつに「巨大」なのだ。
 さらに三百メートル級の「超巨大」になると、東京ドームの外周を上まわり、周濠を合わせるとドームよりはるかに大きい。


『卑弥呼と日本書紀507』

◆◆◆ 前方後円墳の《大和》での分布 ◆◆◆

 これらの祖型と前期の巨大、超巨大な前方後円墳によって彩られる《纒向京》の雰囲気を、図10・11と図10・12によって感じとっていただきたい。

図10・11、12
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1010-1012.htm

 図10・11は北方からの航空写真で、中央が崇神天皇陵、右上が景行天皇陵で、上部中央が聖山《三輪山》である。
 図10・12は南方からの航空写真で、中央下部が《箸墓》であり、右上が景行天皇陵である。
「超巨大古墳」が《纒向京》の地勢そのものとなっていることが実感されるであろう。

 つぎに《纒向京》およびその北方と南方の古墳群を描いた地図を、図10・13のAとBに示しておこう。

図10・13A
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1013A.htm

図10・13B
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1013B.htm


『卑弥呼と日本書紀508』

図10・13A(再掲)
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図10・13B(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1013B.htm


 Aは下方が《纒向京》で中央から上が天理市の範囲で朝和(大和)、柳本と呼ばれる古墳群である。小さな黒点もすべて古墳であり、数え切れないほどの古墳が密集していることがわかる。
 Bは上部が《纒向京》の南端で、下方が磯城から磐余と呼ばれた地域で、現在の桜井市の南部である。Bの中央部に古墳が見られないのは、地形的に河川を中心とした低地であって古墳の造営に適していないからである。
 このAからBにかけての土地は、前述した初瀬川(大和川)と寺川の流域でつくられた農業や住居に適した地勢をもち、範囲は広いが両河川の流域という意味では単一の地域である。
 A、Bにある大きな古墳は、そのほとんどが祖型と前期の前方後円墳である。

 参考までに、北から順に書き出してみよう。
( )のなかは所属する地域名と周濠を除いた墳丘長の概略値である。
 巨大、超巨大の区別も記しておいた。

  東殿塚古墳(朝和/一三九メートル/巨大)
  西殿塚古墳(朝和/二三四メートル/超巨大)
  中山大塚古墳(朝和/一三二メートル/巨大)
  黒塚古墳(柳本/一三〇メートル/巨大)
  崇神天皇陵(柳本/二四二メートル/超巨大)
  景行天皇陵(纏向/三一〇メートル/超巨大)
  勝山古墳(纏向/九〇メートル/巨大)
  纏向石塚古墳(纏向/九六メートル/巨大)
  矢塚古墳(纏向/九六メートル/巨大)
  東田大塚古墳(纏向/九六メートル/巨大)
  ホケノ山古墳(纏向/九〇メートル/巨大)
  箸墓古墳(纏向/二八〇メートル/超巨大)
  桜井茶臼山古墳(磐余/二〇八メートル/超巨大)
  メスリ山古墳(磐余/二五〇メートル/超巨大)

 ここでホケノ、メスリというカナ名は、その古墳の場所の小字名が昔からカナで表記されていたからであり、漢字が難しいからカナにしたわけではない。
 年代・形状や出土品などについては後述するが、とにかく《纒向京》を中心とした地域に、弥生時代から古墳時代への過渡期と見られる最初期(祖型と前期)の「巨大」および「超巨大」な前方後円墳がずらりとならんでいることがわかるであろう。
 図10・13の最初期古墳群はまさに壮観である。


『卑弥呼と日本書紀509』

◆◆◆ 前方後円墳の一覧と形状変化 ◆◆◆

 つぎに、これらのなかでもとくに目立つ前期「超巨大」前方後円墳が、中期・後期まで含めた前方後円墳群のなかでどのような地位にあるのかを、日本列島のすべての前方後円墳を大きさの順にならべたベスト二十の一覧で示してみよう。

図10・14
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 図10・14がそれである。
 もちろん最大は、世界でも最大といわれる仁徳天皇陵で、墳丘長だけで五百メートルに近く、面積は東京ドームの外周の三倍もある。これに三重の周濠を入れると長さ八百メートルにも達し、ほとんど一キロである。
 面積は東京ドームの十倍である。
 こういう超々巨大な天皇陵は中期古墳であるが、それらのベスト三を除くと、《大和》の「超巨大」古墳群は、中期や後期の古墳群に劣らない大きさをもっている。

 仁徳陵などを含めた全体で景行天皇陵が七位、《箸墓》が十一位、崇神天皇陵が十六位である。
 そのなかでも最古が《箸墓》であるが、この中期後期に負けない大きさの「超巨大」前方後円墳が、《纒向京》に「いきなり」出現したのである。

図10・15
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 図10・15に、

   祖型(二〜三世紀)
   前期(三〜四世紀)
   中期(五世紀)
   後期(六世紀)

 ――にかけての形状の変化の概略を描いた。
 個々によって形は異なるが、おおまかにはこういった変化――すなわち時代とともに前方部が次第に大きくなる変化――をなしている。
 祖型については、前方部の形状が推測の域をでないことも多いが、その形から帆立貝型と呼ぶこともある。
 また前方部がもっと細長いものもあるらしい。


『卑弥呼と日本書紀510』

 従来からの考えでは、古墳時代のはじまりは前期形状の古墳が出来はじめた時期とされ、それは図10・10で説明したように、最近になって、西暦三〇〇年ごろから西暦二五〇年ごろにさかのぼることになった。
 しかしその直前の祖型の墳墓も、弥生時代の小型の円墳墓とは大きさも形状も明らかに異なっており、古墳時代の特徴を備えている。
 したがってこれらの祖型墳墓ができた時期を古墳時代のはじまりとする考え方もある。
 となると《大和》における古墳時代の幕開けは、西暦二〇〇年より前にまでさかのぼることになる。
 この問題については、考古学者の間でも意見の統一はまだ見られないようである。

図10・16
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 図10・16には、《箸墓》と第十代から第十二代までの一皇女三天皇の四つの前方後円墳の形状を描いておいた。
 これは長年のあいだに損壊したり、また幕末に修復したりしているので、最初の形を厳密に残しているとは限らないが、いずれも本格的な前方後円墳で、大きさも拮抗しており、《箸墓》が三天皇の墓とほぼ同一寸法であることが印象的である。
 つまり《箸墓》は、単なる一皇女の墓とはとても思えないほど巨大なのだ。
 しかも、史上有名な三天皇に先駆けての造営なのである。

**********

 この節では前方後円墳の大きさや形状に着目して《纒向京》とその周辺の特徴をみてきたが、もちろん古墳以外にもさまざまな特色を、この《纒向京》は有している。
 次節ではそれらを列挙してみることにしよう。


『卑弥呼と日本書紀511』

■■■■■ 十・七 国家の黎明を告げる古代の都《纒向京》1――その自然と祭祀――■■■■■


 石野博信、苅谷俊介はじめ多くの考古学者が述べている《纒向京》の特徴を整理して箇条書にすると、以下のようになる。


◆◆◆ A めぐまれた自然環境 ◆◆◆

〈A1〉交通の便と防御の便がよい

《大和》の主要部を占める《纒向京》が、大阪湾から船で大和川をさかのぼればすぐに着く場所にあり、瀬戸内海を経由して大陸や半島にまで連絡していることは、すでに何度も述べたとおりである。
 また日本海側の港である丹後半島の東の若狭湾に出るのも、決して不可能ではなく、さらに伊勢から東海への経路も可能な場所であることも述べた。
 一方東側は山地であるため狭い道しかなく防御は簡単で、背後から攻撃される恐れは少ない。
 また敵軍が南から北上しようとしても、神武東征の苦労で分かるように紀伊の国の山地がひかえていて困難である。
 したがって、主な部隊は西側の生駒山地と金剛山地の間の大和川周辺のみを守ればよく、防御もしやすい。

〈A2〉聖山《三輪山》の山麓にある

 当時の人たちにとって特別な聖山だった円錐形で秀麗な《三輪山》の山麓にあり、祭政一致の時代にあっては、絶好の場所であった。
《三輪山》は古く縄文・弥生初期の時代から信仰を集めていたと考えられ、事実縄文時代からの遺跡が山の周辺にある。
 したがってここに都をかまえたということは、その主が《大和》全体の祭祀と政治を手中におさめたということを意味している。
 とくに《大和》の外から来た豪族にとっては、ここに都をかまえることは、付近の諸豪族の頂点に立つことを意味していたであろう。
 神武天皇が三輪山麓の狭井川岸から皇后をむかえたことを想起していただきたい(第六章)。これは《大和》の祭祀権を手中にするための政治的判断だったと考えられる。

〈A3〉水田をつくりやすい斜面をなす

《纒向京》およびその周辺は、東の山地と西の大和湖(水郷)の中間にあって、水の豊富なゆるやかな斜面であり、したがって稲田をつくりやすい土地である。
 完全な平地だと――古代の土木技術では――水を万遍なく行き渡らせるのは大変だが、緩い斜面で斜面の上方に水源があると、きわめて容易に水田をつくることができるのだ。

〈A4〉大きな河川の流域で肥沃な土壌がある

 初瀬川(大和川)と寺川の流域で、そこに流れ込む無数の川があるため、肥沃な土壌が形成されていて夏枯れの心配もなく、農作物に最適な場所である。
 また斜面の微高地だから洪水の心配もない。

〈A5〉山地が近く木材が得られやすい

 東側は《三輪山》だけではなく巻向山、初瀬山はじめ笠置山地の山々があり、そこから巨木をふくめて木材を容易に得ることができる。

〈A6〉鉄や玉や朱が得られやすい

 周囲の山々――とくに《三輪山》――は鉄を含んでおり、それが川に流れ込んだ砂鉄もあり、古代の重要産物である鉄を得ることができたと考えられる。また付近の山々は玉の産地であり朱の産地でもあった。


『卑弥呼と日本書紀512』

◆◆◆ B 革命的な祭祀遺跡 ◆◆◆

〈B1〉日本初の祖型(帆立貝型/手鏡型)前方後円墳が多い

 本格的な前方後円墳が出現する直前の墳墓形式である祖型(帆立貝型または手鏡型/図10・15参照)の古墳が、はっきりしているだけで五つもある。
 また周辺にもあるし、さらに現在では消滅してしまって「・・・塚」などの土地の名のみで推察される古墳も多い。
 帆立貝型は弥生時代から古墳時代への過渡期につくられた巨大古墳だが、その造営年代が、きわめて古いと推定されている。
 したがって日本列島でもっとも古い時代に、巨大な前方後円墳の原型が「発明」された地域であると考えられる。

〈B2〉日本で最初の「超巨大」古墳がある

 おなじみの《箸墓》は、日本列島で最初の「超巨大」な前方後円墳であり、神につかえる一皇女の墓であるにもかかわらず、その大きさはのちの時代の著名な天皇陵に負けていない。
 しかも、それまでの日本列島のどこにも無かった、まったく新しい前方後円墳という形状をなしている。
 つまり、「超巨大」という点でも、「前方後円墳というユニークな形状」という点でも、日本で最初の墳墓が造営された場所である。

〈B3〉前期前半の「超巨大」古墳はここのみ

《箸墓》のほかに同じ《纒向京》内には景行天皇陵があるし、そのすぐそばには崇神天皇陵があるが、それらも前期前半の古い「超巨大」前方後円墳である。
 前期の前半の超巨大前方後円墳のあるのは《大和》のみだが、そのうちの代表的な三墓がこの《纒向京》とその隣接地にあることになる。


『卑弥呼と日本書紀513』

〈B4〉鏡の出土状況が他と異なる

 奈良県の古代研究で知られる石野博信は、〈卑彌呼〉が魏の王から鏡を受け、かつそれが有力者の墓に副葬された時期を西暦二四〇年から二七〇年ごろと仮定して、その時代の鏡の出土状況を調査している。
 それによると、合計六十面が発見されており、その分布は以下のとおりである。

  北九州(筑豊)   一七パーセント
  丹波・丹後・但馬  一三パーセント
  瀬戸内海周辺    二七パーセント
  大和・大阪湾周辺  三二パーセント
  関東・東北      八パーセント
  若狭・加賀      三パーセント

 つまり、大和とその西側の大阪湾や瀬戸内周辺に、〈卑彌呼〉の時代の鏡の六割が出土しているのである。
 これに対して九州は一七パーセントでしかなく、古代《大和》勢力圏との差は歴然としている。

 さらに鏡の形式を調べると、この《大和》と北九州の差はもっと明確になる。
〈卑彌呼〉の鏡が威力を発揮したと考えられる前記の西暦二四〇年〜二七〇年の六十面の鏡は、大きく後漢式鏡と神獣鏡にわけられる。
 後漢式鏡は『魏志倭人伝』の時代の少し前の形式で、《籠神社》のところでも述べた内行花文鏡がその代表である。
 また神獣鏡は四獣鏡、獣帯鏡、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡などからなり、瑞祥のある獣の像が特徴である。そして、後漢式鏡よりもあとの四世紀まで使用されている。
 この二種類の鏡の分布を、各地方ごとに見ると、以下のようになる。

            後漢式鏡  神獣鏡
  北九州(筑豊)   六面    二面
  丹波・丹後・但馬  四面    なし
  芸備        四面    なし
  大阪湾岸      九面    なし
  近畿内陸      二面    五面
  四国北部      四面    五面
  上総        なし    二面
  会津        二面    なし

 これを見ると、《大和》地方や四国北部に、当時としては新しい形式だった神獣鏡が多く、瀬戸内海から九州にかけては、古い後漢鏡が多いことがわかる。
〈卑彌呼〉が魏の王からもらった鏡がどのような形式であったかについては、神獣鏡だろうという説、そうではないとする説、および混在説に分かれており、決着がついていない。
 ただ、新しい形式の神獣鏡が〈卑彌呼〉の時代に《大和》で流行しはじめ、輸入だけでなく国内でも数多くつくられはじめたことは、確かだと感じられる。
(以上の石野博信の資料に、「年輪年代法」の成果がどのくらい入っているかは不明で、新しい出土とあわせて変更される可能性もあるだろう)


『卑弥呼と日本書紀514』

〈B5〉神社の祖と思われる建物の遺跡がある

 図10・6の解説(第十・二節)で記したように、初期《纒向京》と思われる地域の北東の隅に、宮殿と思われる古代建築の遺跡が発見された。
 これは専門家の手によって復元図が描かれており、それは図10・17のような形をなしている。

図10・17
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 柱の間隔はきちんと三十二センチになっていて、魏の国の魯般尺と呼ばれる縁起のよい単位の一尺に一致している。魯般尺は〈卑彌呼〉の時代に魏との交流の結果として伝わったと想像されている。
 またこの尺は出雲大社や伊勢神宮の宝殿にも古くから使われてきた単位である。
 つまりこの遺跡は神社の原形とも考えられるのだ。

 図10・17が当時の面影を映しているとすると、これは神社建築様式のなかの神明造と大社造を折衷したような形式である。
 神明造は切妻かつ平入で屋根にそりがなく、その代表は《伊勢神宮》である(図9・3参照)。
 また大社造は同じく切妻だが妻入で屋根はそりをもっている。また入口が偏った位置にある。代表は出雲大社である。
 さらに南北二つの建物の配置は、伊勢神宮や熱田神宮の宝殿を連想させる。
 このようないくつかの検討から、この遺跡が古代から続いている多くの神社の原形をなしていることは確からしく思われる。

(注・・・切妻は本を半ば開いた形の屋根、平入は屋根を横から見る部分に入口をもち、妻入は屋根が三角に見える部分に入口をもつ形式である)

 図10・17は場所からいうと宮殿(皇宮)と思われるが、祭政一致の古代においては首長の住居と行政の場所と祭祀の場所とは一致するかあるいは同種の建築物であったと考えられるので、皇宮の原形はまた神社の原形でもある。
 元来が神社の本殿や拝殿は古代の貴人の住居の面影を残すとされており、したがってこの図10・17の遺跡は、宮殿であったと同時に、その後の全国の神社の原形となった可能性が、きわめてたかいのである。

 さらに図10・17の両側の建物は、高床式の倉庫のようにもみえ、伊勢や熱田の宝殿配置にそっくりなのだが、これはまた、『魏志倭人伝』にある、

「租賦ヲ収ム邸閣アリ
(年貢を収納する倉庫がある)」

 ――という一文を連想させる。

 なお、この遺跡が皇宮や神社だったとして、そこの主が誰だったのかが問題になるが、初期の《纒向京》の主要建築物であるため、〈倭迹迹日百襲姫命〉、若いころの崇神天皇、あるいは崇神の前の開化天皇やその前の孝元天皇であった可能性もあるであろう。
 いまのところ、人物を特定する史料は発見されていない。


『卑弥呼と日本書紀515』

〈B6〉新嘗祭の遺跡が数カ所で見つかっている

 新嘗祭の原形と思われる祭の遺跡が何カ所かで見つかっている。
 新嘗祭とは天皇がその年に収穫された穀物を神前に供え、またこれを食して、神々に感謝する行事である。
 一般国民もこれに参加する。
 古くは陰暦十一月の卯の日に催されたが、いまでは十一月二十三日になされる。
 戦後はこれを「勤労感謝の日」という奇妙な名前で呼んで国民の祝日としているが、もともとは新嘗祭である。
 さらに天皇の即位後に初めておこなうものを大嘗祭といって、「三種の神器」とからんで、きわめて重要な宮中の儀式である。
 この新嘗祭がいつからはじまったのかは、議論のあるところであるが、その原形らしい遺跡がここで見つかったということは、《纒向京》と天皇家とが不可分の関係にあることを暗示している。
 遺跡からの判断では、この祭の際に地方の豪族から農産物が供物として献上されたらしいとされる。
 これもまた興味ぶかい発見である。

〈B7〉新しい形式の祭祀用具の出土

 それまでの弥生時代の集落から出土している土器をはじめとする祭祀用具にくらべて、新しい形状をもった祭祀用具が多く出土している。
 このことも、《纒向京》が時代を画した都であったことを示唆している。


『卑弥呼と日本書紀516』

■■■■■ 十・八 国家の黎明を告げる古代の都《纒向京》2――その都市構造――■■■■■


◆◆◆ C 飛鳥京・藤原京を先取りする都市構造 ◆◆◆

〈C1〉圧倒的な広さ

 前節の続きである。
《纒向京》より前の弥生集落にも、考古学者を驚かせるような巨大なものがある。
 たとえば、

  池上曽根遺跡  一二ヘクタール(中心部のみ)
  唐古・鍵遺跡  一六ヘクタール(中心部のみ)
  吉野ヶ里遺跡  四五ヘクタール
  妻木晩田遺跡 一六五ヘクタール

 ――などが知られている。
 とくに鳥取県の日本海よりで発見された妻木晩田遺跡は、考古学者を絶句させたほどの大きさで、『魏志倭人伝』にある国の一つではないかともいわれている。

 しかし、全盛期の《纒向京》は、この妻木晩田をも大きく上まわる、隔絶した大きさをもっていたのだ。
 すなわち、推定だが、

  纒向遺跡(纒向京) 四〇〇ヘクタール

 ――もあるのだ。
 有名な吉野ヶ里遺跡の十倍である!
 この広さは、三百五十年ものちの《飛鳥京》の約二五〇ヘクタールを凌駕し、また日本で最初の都市計画による造都とされる《藤原京》の約六七〇ヘクタールにすら匹敵している。
 驚くほかはない。


『卑弥呼と日本書紀517』

〈C2〉環濠がない

 第十・二節で述べたように、この《纒向京》には環濠がない。
 これは、それまでの弥生遺跡とも違うし、同時代の他の地域の集落跡ともまったく違う特色である。
 守るための環濠がなく、逆に外部との交通を便利にするための河川の利用や一種の運河までつくられていたのだ。
 都市――大規模な集落――の性格が、このとき大きく変化したことを意味している。
 これは、前述のように、外敵から攻められる恐れが減り、仮に攻められても簡単に追い返すほどの力を持つにいたった強力な首長がこの《纒向京》の支配者であったことの強力な証拠である。
 そしてそれは、第八章に記した『日本書紀』三天皇の記述と、じつによく照応しているのだ。

〈C3〉人工の運河の遺跡がある

 これまでに見つかっている運河遺跡は図10・6にあるように一部分だけであるが、《纒向京》の全体像から判断して図の部分だけで終わった筈はなく、もっと長い運河が四方に走っていたであろう。
 そしてその工事はじつにしっかりしたもので、木材による護岸壁もきちんと造られており、高度な技術が使われていたことがわかっている。

〈C4〉竪穴住居が見つかっていない

 これは、《纒向京》の特異性をもっともよく表している事実である。
《纒向京》の時代である弥生時代から古墳時代前期にかけての日本列島の住居は、竪穴式が一般である。
 ところが《纒向京》には、この広い面積があるのに、竪穴式住居がひとつも見つかっていないのだ。
 見つかるのは、高床式および平地式のみである。
 高床式は弥生から古墳前期にかけては豪族の住まいまたは収蔵庫とされた種類の高級建築物である。
 同時代の一般庶民用の竪穴住居が《纒向京》のどこにも見つかっていないという事実は、やはりこの都が時代を画する、そして他地域の集落とはまったく異なった性格を持っていたことを意味している。
(むろんこれまで見つかっていないから存在しなかったとは言えない。しかし、仮に存在したとしてもごく僅か、または周辺地域のみだったのであろう)


『卑弥呼と日本書紀518』

〈C5〉外来土器が突出して多い

 弥生時代の終末期から古墳時代の前期にかけては、それまでにくらべて日本列島の各地域間の交易や人の移動が盛んになった時代である。
 したがってこの時期から各地の集落遺跡に、他の地方の特色をもった土器が増加するのだが、その増加の率は《纒向京》が突出しているのである。
 一般に弥生集落にある外来土器の比率は数パーセントていどであるし、《纒向京》の直前に栄えた「唐古・鍵遺跡」でもほぼ三パーセントで、それがふつうだったのだが、それが《纒向京》では、じつに三十パーセントにもなるのだ。
 突如として十倍に増えたのである。
 このことも、《纒向京》がそれまでの大規模集落とちがって環濠がなく河川利用ができ、外部との往来に便利な構造になっていたことと関係している。

《纒向京》で見つかる外来系土器は、北九州製から新潟や東海製までさまざまだが、なかでも多いのが、伊勢から東の東海地方の形式である。
 これは、《纒向京》を中心とする《大和》地方が、伊勢(三重)やその先の尾張(愛知)・美濃(岐阜)などと密接な関係をもっていたことを示している。
 交流と軋轢の両方があったのだろう。
 一方瀬戸内海沿岸の文化の中心だった吉備(岡山)だが、ここからの外来系土器は、最初期こそ多かったが、のちに減少し、《纒向京》の終末近くにはほとんど無くなっている。
 これは吉備勢力の消長を暗示しているようで興味ぶかい。

 もうひとつ土器についていえるのは、同じ大和(奈良県全体)でも、とくに《纒向京》とその周辺だけに新様式が多いということである。
 つまり、前期の巨大古墳が密集している図10・13の地域にのみ、新しいタイプの土器が多く出土し、それ以外の大和地方(奈良県全体)は伝統的な弥生土器が大半なのである。
《纒向京》が当時の日本列島のなかでいかに特別な場所だったかが分かるであろう。

〈C6〉出土品の品種の豊富さ

 ここからは、他の地方では見られない種類のさまざまな遺物の発掘が続いている。
 祭祀用のほかに、農耕具、建築用具などで、なかには用途不明の金属製品などもある。


『卑弥呼と日本書紀519』

〈C7〉大規模な市場があったらしい

 図10・6でいえば《纒向京》推定範囲の下方――《箸墓》のあたり――に、大きな市場があったらしい。
 これは、古くから〈倭迹迹日百襲姫命〉の別名に「大市」とついていたり、《箸墓》を「大市墓」と呼びならわしていることなどから想像できるし、すこし後の時代ではあるが、「市」という文字が墨書された土器が発見されたりもしている。
 そしてこのことが、『魏志倭人伝』にある、

「國國市アリ有無ヲ交易シ
(国々に市場があり交易している)」

 ――を思い出させる。

図10・6(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm


〈C8〉水洗トイレらしい遺跡がある

 導水施設が発掘されているが、その施設から寄生虫の卵がみつかり、したがって水洗トイレだったのだろう――との推理がなされている。
 しかしこれとは別の考えとして、「聖水を汚す儀式」がなされた跡ではないか――との説もある。
 清らかなものをわざと汚すことによって禍を避けるという儀式は、《纒向京》の時代にずっと続いていたらしく、その内容は〈天照大神〉と素戔嗚尊の説話にそっくりだったらしい。
 またそれは、第六章に記した、奈良盆地西部の葛城地方にあった日蝕の際の「破壊する儀式」を連想させるものでもある。

〈C9〉三代の皇宮の伝承がある

 天皇や〈倭迹迹日百襲姫命〉の御陵のことはBですでに記したが、『日本書紀』にある皇宮の場所もまた、この《纒向京》にある。
 すでに記したことでもあるが、第十代崇神天皇の皇宮は、図10・6の右下の部分にあったと記されているし、第十一代垂仁天皇と第十二代景行天皇の皇宮は、右上の楕円の「推定宮殿地区」というあたりにあったと、記されている。
 つまり、古代の天皇紀と考古学的推定とが一致しているのだ。
 これもまた、何百年ものちの《飛鳥京》や《藤原京》とならぶ、注目すべき《纒向京》の特色である。


『卑弥呼と日本書紀520』

◆◆◆ D『日本書紀』と《纒向京》の対応 ◆◆◆

 以上、ABC三つの面から、《纒向京》の特色を調べてきたが、どの特色も、

『日本書紀』に記されている崇神・垂仁・景行三代および〈倭迹迹日百襲姫命〉の事績――に照応している。

 ――と同時に、

『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》の描写――にも照応している。

**********

 この節のさいごに、《纒向京》の時代約百六十年間を五期に分けて、文献史料と考古学資料との対応を、もうすこし具体的に記しておこう。
 もちろん西暦の年代は、干支や考古学に基づく著者の推理である。

〔前期〕
   初代神武天皇より第六代くらいまで
      西暦一〇〇年前後?
      (大和朝廷の先祖が九州から《大和》への
       東征を何度か試行したのち、ついに成功
       して大和南部の橿原などに拠点を作り、
      《三輪山》山麓への進出を計った時代)

〔第一期〕
   第七〜九代天皇および
  〈倭迹迹日百襲姫命〉の活躍期
      西暦一八〇〜二三〇年の初期《纒向京》
      (《三輪山》山麓の《纒向京》への進出を
       果たし紛争に勝利して祭祀権を得た時代。
       西暦一八〇年は、『魏志倭人伝』にある
      〈卑彌呼〉が女王となって倭国の乱をおさ
       めた年と推定されている)

〔第二期〕
  〈倭迹迹日百襲姫命〉の晩年および
   第十代崇神天皇や〈豐鍬入姫命〉の活躍期
      西暦二三〇〜二七〇年の発展期《纒向京》
      (『魏志倭人伝』によれば狗奴国との抗争に
       悩んだ〈卑彌呼〉が没して〈臺與〉が後
       継した時期。『日本書紀』にも相応する
       記述がある)

〔第三期〕
   第十一代垂仁天皇や〈倭姫命〉の時代
      西暦二七〇〜三一〇年の最盛期《纒向京》

〔第四期〕
   第十二代景行天皇や日本武尊の時代
      西暦三一〇〜三四〇年の後期《纒向京》
      西暦三三〇年ごろ滋賀県大津へ遷都

〔第五期〕
   第十三代成務天皇の時代
      都は大津だが、西暦三四五年ごろ、
      《纒向京》に景行天皇の御陵を造営
      (大津への遷都の理由として、豪族間
       の軋轢など政治的理由、人口集中に
       よる汚物堆積や不衛生化、土地の隆
       起による川幅の狭隘化、などが考え
       られる)


『卑弥呼と日本書紀521』

■■■■■ 十・九《纒向京》にある「祖型」巨大前方後円墳の概要 ■■■■■


◆◆◆ 造営年代順の推理 ◆◆◆

《纒向京》にある前方後円墳の造営年代を定めるのはきわめて難しく、分かっているのは二、三にすぎないが、それもごくごく大まかであって、しかも異論のあるのがふつうである。
 ここでは、纒向遺跡の名付け親である石野博信の推理をもとにして、それに著者の推理を加えて、《纒向京》の前方後円墳群を、年代順に並べてみよう。
( )の中は、祖型か前期かの別、墳丘長、推定造営年である。とくに造営年はごくおおまかな推理である。
 天皇陵の推理は『記紀』や『住吉神代記』の干支などによっている。

《纒向京》のはじまり(西暦一八〇年)
  ↓
 纒向石塚古墳(祖型/九六メートル/西暦一九五年)
  ↓
 勝山古墳(祖型/九〇メートル/西暦一九九年)
  ↓
 ホケノ山古墳(祖型/九〇メートル/西暦二二〇年)
  ↓
 矢塚古墳(祖型/九六メートル)
  ↓
 東田大塚古墳(祖型/九六メートル)
  ↓
《箸墓》(前期の最初期/二八〇メートル/西暦二五五年)
  ↓
 崇神天皇陵(前期の初期/二四二メートル/西暦二七五年)
  ↓
{垂仁天皇陵(前期/二二七メートル/西暦三一五年/奈良市)}
  ↓
《纒向京》のおわり(西暦三四〇年)
  ↓
 景行天皇陵(前期/三一〇メートル/西暦三四五年)

 周辺までふくめると、《箸墓》と崇神天皇陵の間の年代に、「超巨大」前方後円墳を三基があげることができる。
 すなわち、

 西殿塚古墳(前期の初期/二三四メートル/朝和)
  ↓
 桜井茶臼山古墳(前期の初期/二〇八メートル/磐余)
  ↓
 メスリ山古墳(前期の初期/二五〇メートル/磐余)

 ――である。
 この三基はおそらく、大和朝廷の重要人物か、あるいは周囲の有力氏族の首長の墓であろう。
 西殿塚古墳は、宮内庁としては繼體天皇の皇后だった手白香(たしらか)皇女の御陵ということになっているが、繼體天皇の在位は六世紀であって時代があわないし、また一皇后の墓にしては大きすぎる。
 そこで、すぐそばの東殿塚古墳が手白香皇后の墓であり、「超巨大」な西殿塚古墳はしかるべき権力者の墓だろうとされている。
 両古墳がすぐそばにあることから、明治初期に間違って登録してしまったのであろう。


『卑弥呼と日本書紀522』

◆◆◆ 纏向石塚古墳(祖型)について ◆◆◆

〔一〕その配置

図10・6(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

図10・17(再掲)
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1014-1017.htm

 つぎに、前記の五基の祖型古墳のうち、発掘調査によってその実態がかなり分かっている二基について、時代順に概説してみよう。
 はじめは纏向石塚古墳である。
 まず、その配置を、図10・6によって確認していただきたい。
《纒向京》の勃興期の推定範囲の方形のなかに位置しているが、そこから太陽が昇る方角である真東に、図10・17にある神社(宮殿)の遺跡が正面を向いてある。
 またその背後には《三輪山》に隣接する初瀬山がある。

 つまりこの古墳に早朝立って真東を見ると、

「初瀬山および聖なる神殿の背後から朝日が昇ってくる」

 ――のである。
 とくに春分秋分でそれが顕著である。
 またもう一つ興味ぶかいのは、

「前方部がきっちりと聖山《三輪山》の山頂――ほぼ南東方向――を向いている」

 ――ことである。
 したがってこの古墳は、有力者の墳墓であったかもしれないが、それ以上に重要な祭祀施設ではなかったか――との想像がはたらく。
 苅谷俊介はそのような想像をたくましくして、発掘資料をもとに図10・18の復元図を描いている。

図10・18
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm


『卑弥呼と日本書紀523』

〔二〕形状と大きさ

 前方部は直径約六十四メートルの後円部にくらべて小型で、あきらかに祖型であるが、そうかといって決して突起物ていどのものではない。
 その形状は三味線の撥に似ており、長さがほぼ三十二メートル、幅はくびれた狭い部分が十六メートル、先端の広い部分が三十二メートルである。この部分だけで野球の内野ほどの大きさである。
 この前方部と大きな後円部とを合わせた墳丘長は九十六メートルに達する。
 後円部の周囲には周濠のあとが認められるが、後年の前方後円墳の周濠とはちがって、円形に近い形をしている。
 濠の幅は約二十メートルで、その外に堤もあるので、全体の直径は百メートルをはるかに超える。
 まえに祖型古墳の大きさをサッカー・グラウンドにたとえたが、周濠まで入れれば、さらに一回り大きい。
 近くに「超巨大」古墳があるので大きさでは目立たないが、弥生時代の一般的な古墳に比較すれば「桁外れの大きさ」である。

〔三〕出土品

 出土品であるが、二世紀末〜の最古級の土師器など各種の土器のほか、祭祀に使用されたらしい木製品が多いのが特徴である。
 木製品としては、朱色に塗られていた鳥型、どくとくの円弧模様のある弧文円板、鋤、樹皮製の円座などが出土している。
 また周囲には、図10・18に描かれているような、柱を建てた跡が見つかっている。
 古墳時代を特徴づける埴輪は無いが、多くの木製品から、弥生時代とは異なった祭祀が行われたことはたしかであり、古墳時代の祭祀の祖型が推理されている。

図10・18(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm


〔四〕「年輪年代法」による造営年測定

 もうひとつこの纏向石塚古墳の調査で画期的なのは、周濠内から出土した檜の板に対して、前述の光谷拓実による「年輪年代法」の測定がなされたことである。
 その結果、この板は、

 「西暦一九五年に伐採された可能性が大きい」

 ――ことがわかった。樹皮近くまでの年輪は残っていなかったのだが、かなりの確度で推理できたのである。
 この板が造営のころに伐採されたとすると、この古墳は二世紀末――《纒向京》が勃興しはじめたころでかつ〈卑彌呼〉が共立されたころ――にできたということになる。
 すなわちこの祖型古墳は、『記紀』と『魏志倭人伝』と考古学とを結ぶ、じつに興味ぶかいモニュメントなのである。


『卑弥呼と日本書紀524』

◆◆◆ ホケノ山古墳(祖型)について ◆◆◆

〈一〉形状と大きさ

 この古墳は、《纒向京》の祖型古墳のなかで、もっとも保存状態が良く、精密な発掘調査がなされている。
 もちろん古墳一般の例に漏れず、盗掘はかなりなされたらしいが、それでも貴重な収穫があったのだ。
 場所は、図10・6で見られるように、《箸墓》のすぐそばにあり、前方部は南東を向いている。

図10・6(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm

図10・19
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm


 図10・19は平成十二年の発掘調査時に明らかになった中身であり、全体の構造がよくわかる。
 三段になった円形部の直径は約六十メートルであり、それに長さ二十メートル、最大幅三十メートルほどの前方部が付属している。
 前方部は、石塚よりやや小ぶりな撥に近い形で、同じ系列にあることがわかる。
 これと円形部を合わせると全長は八十メートルになるが、原形はもっと大きく、おそらく九十メートルはあっただろうとされている。
 纏向の五基の祖型前方後円墳の特色として、

「後円部の直径と前方部の長さの比が二対一」

 ――という規則があるらしく、その規則を当てはめても、全長は九十メートルになる。
 周濠の痕跡も一部にのこされており、やはり幅が二十メートル近くあったらしい。
 したがって周濠まで入れると、大きさは百メートルを超え、纏向石塚古墳とほぼ同じと考えられる。


『卑弥呼と日本書紀525』

〈二〉出土した鏡

 平成十二年の出土品でとくに目をひくのは、鏡および棺を包む木槨である。
 鏡については、棺の部分から画文帯神獣鏡が一面発見され、棺の外側からは内行花文鏡が一面と画文帯神獣鏡の破片が発見された。
 内行花文鏡は、第九章の《籠神社》の神宝のところでも触れたように一〜二世紀からの後漢鏡であり、また画文帯神獣鏡も、二〜三世紀の弥生時代からある鏡である。
 つまりのちの本格的前方後円墳の時代に多い三角縁神獣鏡よりも数十年から数百年古い時代の鏡が出土したのだ。
 これらが〈卑彌呼〉が魏王から得た鏡かどうかはまったく不明だが、こういう種類の鏡を、〈卑彌呼〉の時代の《纒向京》の有力者たちが大陸から輸入していたことは、確実である。
 なぜなら、このホケノ山古墳の構築時期は、〈卑彌呼〉の生存中だと考えられるからである。
 この推理は、《箸墓》が〈卑彌呼〉の墓でなかったとしても成立する。

〈三〉独特の木槨

 つぎの木槨であるが、これは、古墳の研究史に新しい頁を加えたほどユニークなものであった。
 槨とは遺体の眠る棺を包み込むような施設のことで、石槨や木槨があり、とくにシナ大陸に多い。
 ホケノ古墳の内部は、まず土に大きな穴が掘られ、その内側に石が積まれて石室(一種の石槨)ができている。
 その大きさは、石の外側で、奥行き七メートル、幅二・七メートル、深さ一・五メートルである。
 かなりの大きさであるが、その内側にさらに木の囲いがあり、これが内部の棺を包み込むような施設になっていたのだ。つまり石と木の二重の槨(棺を包む施設)ができていたのだ。
 最内部の棺は、幅一メートル、長さ五メートルで、巨大な高野槇をくりぬいて造られていた。

 古墳時代に入ってからの一般の前方後円墳では、石材で壁をつくる竪穴式石室の中に棺を入れているし、またその前の弥生墳墓では、槨をつくらないのがふつうで、造ったとしても木槨のみである。
 したがってホケノ山古墳の埋葬施設は、弥生時代とも古墳時代とも異なる、独特なものなのだ。
 まさに過渡期の巨大古墳である。
(倭人は槨をつくらないという『魏志倭人伝』の記述が間違いであることは、こういう発掘調査からもわかる)


『卑弥呼と日本書紀526』

〈四〉その他の出土品

 鏡以外の出土品としては、棺内には、鉄剣や大量の水銀朱が残されていた。
 棺の外側には、鏃、刀剣、埴輪状に並べられた壺などが見つかった。
 その他全体として、甕、大型甕、壷、大型壷、高杯、その他の土器類、また祭祀用の木製品などが多く出土している。
 また墳丘の構成には、土が崩れないように、葺石が丁寧に積み上げられていた。

 このホケノ古墳は、とうぜんながら盗掘にあっているだろうし、また風雨で土が流れて自然に出土したものもあったであろう。
 近隣の農家には、ここから出土したと口伝される品々がかなり伝わってきたらしい。
 第九章でその学説を取り上げた《大和》出身の考古学者として著名な樋口清之は、その人脈によって、ホケノ山古墳から出土したという伝承のある鏡を、二面入手したそうである。
 ひとつは内行花文鏡で、最近の出土と同じ種類のものである。またもう一面は、縦列式神獣鏡と呼ばれる鏡である。
 このうち内行花文鏡は《大神神社》に奉納され、また神獣鏡は國學院大学に寄贈された。
 この二面が本当にホケノ山古墳からの出土だったとすれば、花文鏡が二面、神獣鏡が三面出土したことになる。
 おそらく、最初はもっとたくさんの鏡が副葬されていたのであろう。

 さらに樋口清之の著作によれば、昔は周囲に埴輪円筒があり、頂上に家型埴輪があり、さらに勾玉も出土したらしい。
 この埴輪はのちに奉納されたものかもしれない。
 ホケノ山古墳や《箸墓》のあたりは、戦国〜江戸時代には織田一族の領地になっており、その領主が古墳を庭園としてかなり加工してしまったらしい。そういう折りにも、かなりの出土があったのであろう。
 これらの多彩な出土品は、いずれも後の古墳時代の先駆であり、また《大神神社》の祭祀遺跡とも密接に関係しているようである。

〈五〉造営年代の推定

 ホケノ山古墳の場合は「年輪年代法」を適用できる木材は出土していないので、精度のよい造営年代推定はできていないが、木棺に放射性炭素測定法を適用した結果、西暦三〇年から二四五年という数値が得られた。
 これでは精度が悪すぎるが、鏡など他の出土品からの推定を加えて、西暦二二〇年前後の可能性がたかいといわれている。
 つまりホケノ山古墳は纏向石塚古墳と《箸墓》の中間期に築造されたらしい――ということである。
 この時期は本格的古墳時代の黎明期であり、同時に大和朝廷の黎明期でもあって、じつに興味ぶかい。


『卑弥呼と日本書紀527』

◆◆◆ 勝山・矢塚・東田大塚古墳(祖型)について ◆◆◆

 この三基の古墳については、前二基ほどくわしいことはわかっていない。
 盗掘は当然されただろうし、現状も、農地がぎりぎりまで迫っているなど、調査はかなり困難らしい。
 以下分かることを簡単に記す。
 位置や向きについては、図10・6を参照されたい。

図10・6(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H106.htm


[甲]勝山古墳

 後円部の直径は約六十メートル、前方部の長さは約三十メートルで、全長九十メートルと推測される。
 前方部の形は細長く、手鏡の柄のような形状だったらしい。向きはほぼ北東である。
 やはり周濠があり、その大きさは石塚やホケノ山と同様らしいが、その跡地から平成十三年になって大量の木製品が出土した。
 とくに面白いのは鋸歯文が描かれた一メートル近いU字状の木製品で、埴輪の原形ではないかといわれている。
 これらの多くの木製品は、墳丘上で祭祀がなされたときの建築物の廃品だろうと推理されている。

 平成十三年の五月になって、この出土木製品のひとつに外側までの年輪の残されていることがわかり、光谷拓実が「年輪年代法」で測定したところ、

「西暦一九九年に伐採されたもの」

 ――であることがわかった。
 すなわち、纏向石塚古墳の直後の造営である可能性が高まった。
 ただし同時に出土した土器は布留〇式といわれるもので、修正編年でもその数十年後とされているので、今後の研究が必要である。
 土器はのちの時代の祭祀遺物であると考えれば、矛盾はなくなるが、確言はできない。

[乙]矢塚古墳

 現状は方形に近いのだが、かつては直径六十四メートルの後円部を有していたと推定されている。
 前方部の推定寸法は、長さが三十二メートル、幅が四十メートルで、ほぼ南西を向いており、墳丘の全長は九十六メートルと推測される。
 周濠は幅二十メートルほどで、濠跡からは壷、甕、高坏、線刻土器などが発見されている。


『卑弥呼と日本書紀528』

[丙]東田大塚古墳

 これは石塚・勝山・矢塚とは別の微高地にあるが、前方部の向きは矢塚と同じである。
 後円部の直径六十四メートル、前方部の長さ三十二メートルと推定されており、全長は九十六メートルで、大きさや形状も矢塚古墳と同種である。
 どの祖型古墳も、このように、方形部の長さが円形部の直径のちょうど半分(半径と同一寸法)になっており、これも《纒向京》祖型古墳の特徴である。
 この東田大塚古墳にも、やはり幅二十メートルほどの周濠の跡があり、そこから土器が発見されているほか、周濠の外周部から壷型の棺が発見されている。

**********

 この節で記したのは、《纒向京》に残された五基の祖型巨大前方後円墳の考古学的調査結果であるが、古代史として興味をひくもう一つは、埋葬者は誰か――ということである。
 しかし残念ながら、これについては史料がまったく残っておらず、人物名を特定することはできない。
 ただ、《纒向京》の性格から、

「二世紀末から三世紀初にかけて没した、三輪山麓の豪族の首長もしくは成立期大和朝廷内部の要人、または朝廷に協力した有力者」

 ――ということはいえるであろう。
 また崇神天皇より前の天皇が埋葬されていた可能性も、まったく無いわけではないであろうが、《纒向京》の主体が大和朝廷になったのは崇神天皇の直前と思われるので、その仮説には少々無理があるだろう。

**********

 以上で祖型「巨大」前方後円墳についての概説を終わる。
 次節ではいよいよ問題の、日本最古の「超巨大」前方後円墳――《箸墓》――の説明をすることにしよう。


『卑弥呼と日本書紀529』

■■■■■ 十・十《纒向京》のシンボル 日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓》の謎1――形状と造営の経緯――■■■■■


 たんに《大和》だけではなく、日本列島全体を見渡しても、史上初の――つまり日本最古の――「超巨大」な前方後円墳・・・それが《纒向京》のシンボルともいえる《箸墓》である。

 以下、この《箸墓》について、いくつかの項目にわけて、解説してみよう。


◆◆◆ 位置と向き ◆◆◆

 図10・6や10・12でわかるように、《箸墓》は《纒向京》を縦断する幹線道路とJR桜井線と巻向川に挟まれた位置にあり、その周囲は、一部が民家、多くが田畑である。
 そして北西のがわに農業用水として維持されてきたらしい大池がある。
 地図や写真の右側はもちろん山地で、《三輪山》がそびえている。

図10・6(再掲)
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図10・20、21
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 前方部の先端に小さな突起がみえるが、これは宮内庁でつくっている拝所で、その写真を図10・20の(a)に示した。鳥居、説明板などがつくられている。守衛所もあるが、ふだんは無人である。
 宮内庁の説明板には、

「孝靈天皇皇女倭迹迹日百襲姫命・大市墓」

 ――とある。
 説明版の拡大写真は図10・21にあるが、「大市墓」がとくに大きく書かれていて印象にのこる。

 現在の住所表示は「奈良県桜井市箸中一〇四三番地」であるが、この箸中というのは、もちろん《箸墓》から来た地名で、《箸墓》を中心とした一角である。
 昔の地名は「磯城郡大市郷」だったらしい。
 この御陵を北西の大池を挟んで対岸から写真に撮ると図10・20(b)のように写る。この写真は四月撮影だが、樹木が鬱蒼としてくる五月以降に撮ると、その雄大さが実感できる。


『卑弥呼と日本書紀530』

図10・20、21(再掲)
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 図10・20(c)は図10・12と同じく末永雅雄による航空写真である。

《纒向京》内部における位置は、図10・6によって明確にわかる。拡大された《纒向京》の南の端にあるが、方形で示した初期の範囲からは、南の郊外にあたる土地にある。
 現在の幹線道路は墓の左側を通っているが、古代の国道である原上ツ道は、《箸墓》と一部重なっている。
 つまり、古代国道に接する位置に〈倭迹迹日百襲姫命〉の御墓が造営され、一部重なった部分の道を迂回させたのだ。
 原上ツ道が《箸墓》の前からあったのか後でできたのかはわからないが、遠方から来るのにじつに便利な場所であることは間違いない。
 また、古代の幅広い二つの河川の間の住み良い微高地にあったこともわかる。

 方角的には、前方部を逆に伸ばせば、ほぼ初瀬山を向くようにつくられている。
 前方後円墳の向きについては、意見がいろいろあるのだが、この《纒向京》の古墳群を眺めると、後円部の先端が北東または東北東を向いていることに気づく。
 図10・6に描かれた七つの古墳のうち四基までがそうであり、そしてその向きは初瀬山の向きである。
 勝山古墳は、それと正反対だが、前方部の先端が初瀬山を向いている。
 のこる二つの、纏向石塚古墳とホケノ山古墳は、他の五基とちょうど九十度ちがう向きにつくられている。
 このように見てくると、雑然としてみえるこれら古墳群にも、おおまかには規則性があることがわかる。
 古墳の向きは地勢によってつくりやすいように決められたという説があるが、それとともに宗教的な意味もあったのであろう。

《箸墓》の位置について、重要なことがあと二つある。
 その一つは、真東に《檜原神社》があることである。
 図ではすこしずれているが、かつてはわずかに北にあったらしいので、真東ということになるのだ。
『日本書紀』によれば、《檜原神社》は〈倭迹迹日百襲姫命〉存命中に創建されているので、だとすれば、〈天照大神〉をはじめて奉斎したこの神社の向きから朝日が昇るような位置に、〈百襲姫命〉の墓が造営されたことになる。
 二つめは、当然のことではあるが、この《箸墓》から聖山《三輪山》が間近に一望できることである。

 さらに付記するならば、西南には天香具山など大和三山が望めるし、大気が澄んでいれば、とおく西の金剛山地の端の二上山も望めたであろう。
 夕日が沈む方角にあるこの山から、《箸墓》の大石が運ばれたと『日本書紀』にある。
 まさに眺望絶佳である。
〈倭迹迹日百襲姫命〉が眠る《箸墓》は、《大和》の地でももっとも神聖な景観に恵まれ、交通や立地条件の良い場所に造営されたのだ。


『卑弥呼と日本書紀531』

◆◆◆ 形状と大きさ ◆◆◆

《箸墓》の形状は、本格的な前方後円墳のなかでもっとも古い前期前半の形であり、図10・20(c)の航空写真によって見ることができる。また他の御陵との形状の違いは、図10・15と16によって知ることができる。

 帆立貝のような祖型であるホケノ山古墳などと比較すると、前方部がとつぜん巨大になり、本格的な前方後円墳になっていることと、同時に、その前方後円墳のなかでは明らかに古い形であることが、図によって理解できる。

 大きさであるが、現況の数値は、

   後円部径    一五六メートル
   後円部高さ    二五メートル
   前方部最大幅  一三二メートル
   前方部長さ   一二五メートル
   前方部高さ    一五メートル
   墳丘全長    二七六メートル

 ――である。

 しかし、長年の侵食や農地・宅地造成によってかなり縮小されていると考えられるので、造営時の大きさは、右の数値のすべてを切り上げたものに近いであろう。

図10・20、21、22(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm

 現在の等高線図は、図10・22のとおりである。よく見ると、後円部は基礎の上に三段の層があり、その上に頂上部がつくられていることがわかる。
 だから厳密には五段であるが、曲線状ではなく三段の層があると記した蒲生君平の観察眼は鋭かったといえるであろう。


『卑弥呼と日本書紀532』

 つぎに周濠であるが、これは長い間不明であった。
 しかし平成九年、後円部の隣接地を調査したさいに、大きな周濠と大規模な周堤の跡が発見されて、古代史界で評判になった。
 発見された周濠の幅はほぼ十メートルで、その周囲の周堤の幅は十五メートルほどである。
 またそのさらに外側にも周濠があったと推定する学者もいる。
 図10・22の外周部は、これまでの発掘調査結果をもとにして、石野博信が推定した内濠と外濠の形状である。
 内濠を守る周堤の長径は三百七十メートル、外濠の長径が四百七十メートルと算定されている。

図10・20、21、22(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1018-1022.htm

 つまり外濠まで含めると、ほとんど二分の一キロにも達する「超巨大」さなのだ。
 面積を、東京ドームの外壁までの面積と比較すると、

 墳丘部分がほぼ同じ
 内濠の外側ではより大
 外濠まで含めると、四倍

 ――ということになる。
 驚くべき大きさである。
 あらゆる時代の古墳を含めても奈良で三番目であり、前期古墳のみでいえば景行天皇陵についで日本で二番目に大きい。
 さらに注目すべきは――繰り返しになるが――すこし後の著名な天皇陵(崇神・垂仁・景行)とまったく同じか、または上まわる規模を有していることである。


『卑弥呼と日本書紀533』

◆◆◆ 造営のいきさつ ◆◆◆

『日本書紀』にこの《箸墓》の造営の話が記載されていることは、第八章で述べたが、ここでもう一度、原文の読み下しを記しておこう。

「爰ニ倭迹迹姫命、仰ギ見テ悔イテ急居。即チ箸ニ陰ヲ撞キテ薨リマス。乃チ大市ニ葬ル。故、時人、其ノ墓を号ケテ箸墓と謂フ。是ノ墓ハ、日ハ人作リ、夜ハ神作ル。故、大坂山ノ石ヲ運ビテ造ル。即チ山ヨリ墓ニ至ルマデ、人民相踵ギテ手逓伝ニシテ運ブ。時人、歌シテ曰ク、
  坂ニ継ギ登レル
  石群ヲ 
  手逓伝ニ越サバ
  越シカテムカモ
 トイフ。」

 小学館の『日本書紀』の訳文を一部アレンジして記すと、つぎのようになる。

「そこで〈倭迹迹日百襲姫命〉は、天空を去りゆく神を仰ぎ見て後悔し、急に座り込んだ。そしてそのはずみに箸で陰部を突いて亡くなられた。そこで大市に葬った。それゆえ時の人は、その墓を名づけて《箸墓》といった。この御墓は、昼は人がつくり、夜は神がつくった。大坂山の石(たぶん二上山の石)を運んで築造した。山から墓に至るまで、人々が立ち並び、石を手から手へ渡して運んだ。時の人は歌を詠んで、
  大坂山の麓から頂きまで連なる
  多くの石を
  手渡しにして運べば
  運ぶことができるだろう
 といった。」

『日本書紀』を通読したことのある方なら、これがいかに例外的な記述であるか、お分かりになると思う。
 どんな著名な天皇でも、その天皇の埋葬についてはごく簡単にしか記されておらず、XXX陵に葬りたてまつった――といった一行ていどの説明があるだけである。
 例示してみよう。

〈倭迹迹日百襲姫命〉の父親にあたる第七代孝靈天皇については、
「(九月六日に)片丘馬坂陵に葬りまつる」

 第九代開化天皇については、
「(十月三日に)春日率川坂本陵に葬りまつる」

〈倭迹迹日百襲姫命〉の活躍時期と重なる第十代崇神天皇についても、
「(八月十一日に)山辺道上陵に葬りまつる」

 ・・・といった具合であって、どのようにして造ったなどという記述はないし、まして人々が墳墓造営にからんで歌を詠んだなど、まったく無い。
〈倭迹迹日百襲姫命〉が助言したとされる崇神天皇の崩御と埋葬ですら、

「何月何日に崩御された、何月何日にxxxに葬った」

 ――とあるだけなのだ。
 最高首脳の天皇より、神子(巫女)をつとめた皇女のほうが、ずっと詳細に、その墳墓造営の様子が記されているのである。
 しかも大きさはそれまでの天皇陵を遙かに超え、かつ現在までちゃんと残っているのだ。


『卑弥呼と日本書紀534』

◆◆◆《箸墓》の謎/〈倭迹迹日百襲姫命〉の謎 ◆◆◆

〈倭迹迹日百襲姫命〉は実質的には天皇であったが、推古天皇以前には女帝を認めないという『記紀』編者たちの方針があって、皇女や神子としてのみ記述したのだろうか?
 それとも他になにか、書くことのできない重大な秘密があったのだろうか?
 あるいは、『記紀』の編者たちはさほど重大だとは認識しておらず、ただ《箸墓》周辺にこの皇女についての特異な伝承が残っていて、それを記載するように豪族たちが主張したのだろうか?

 つぎに、『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼〉の墓の記述を引用してみよう。
 この《箸墓》が〈卑彌呼〉の墓かどうかは、意見の分かれるところであるが、大いに参考になるからである。

「卑彌呼以テ死ス 大イニ冢ヲ作ル 径百余歩 徇葬スル者 奴婢百余人
(〈卑彌呼〉が死んだ。大きな墓を作った。直径百余歩で殉死する者は奴婢百余人だった)」

 ここで歩を魏の尺度とすると、一・四メートルほどなので、百余歩は百四十メートル以上となる。
 これは《箸墓》の後円部の直径約百六十メートルにほぼ等しい。
 だから《箸墓》は〈卑彌呼〉の墓だ――との説は、昔からあるが、『魏志倭人伝』の歩がそうかどうかもわからないし、たんに「とても大きい」という意味で書いたのかもしれない。
 数値の一致は偶然にすぎないとも考えられる。
 そもそも、魏の使者が日本に来てわざわざ墓の寸法を計ったり、また日本の役人が測定値を出してそれを魏に伝える――といったことが有ったのかどうかも、疑問であり、「とても大きい」という評判を百余歩という表現で記しただけだった可能性もある。

 ただ、つぎのことだけはいえる。
 それは、魏の使者が、

「日本の女王が死んでとても大きな墓をつくった」

 ――という情報を、なんらかの方法で得ており、その話が彼らにとって「とても印象的だった」――ということである。
 なぜなら、『日本書紀』における《箸墓》の記述が「例外的」であるのと同様に、『魏志倭人伝』における〈卑彌呼〉の墓の記述もまた、数多いシナ正史のなかで「例外的」だからである。
 日本の様子を記したシナ史書は、『魏志倭人伝』以外にもたくさんあるが、首長が没したあとの墓の大きさを記したような史書は、『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉の項以外には見あたらないのである。

**********

 ここでは断定はしないが、こういう史料からも、

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――は、とうてい無視できない説なのである。


『卑弥呼と日本書紀535』

■■■■■ 十・十一《纒向京》のシンボル 日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓》の謎2――造営法と出土品――■■■■■


◆◆◆ 造営の方法 ◆◆◆

図10・23
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1023-1025.htm

 図10・23に、苅谷俊介による、構造の推定図を示した。この図によって、造営法も想像することができる。
 図10・22の等高線図からもおおよそわかるが、《箸墓》は五段の構造をしているらしい。
 つまり、なだらかな円錐として造営したのではなく、階段状に下から積み上げていったのである。
 前述のように平成九年に周濠や周堤が発見されたが、翌十年には長さ十メートルの渡り堤も見つかり(図10・23の右下)、また道のできかたから、右上にも渡り堤があったらしいと推測された。
 苅谷の図では古道の原上ツ道(今もそれに近い道がある)は後円部の中心を通っているが、図10・6や図10・13の現況からの推測では、中心をすこし外れており、むしろ渡り堤のある場所を通っていたように思われる。
 そしてそのほうが合理的である。道をまっすぐに来るとそのまま堤を渡って墳丘に登ることができるのだから・・・。

 こういう大型の墳墓をつくるには、土を積むことが基本の作業になるが、その土を遠方から運ぶのは大変なので、周囲に穴を掘ってその土を盛り上げるのがふつうである。
 そしてその穴が、自然に周濠になる。だから、大型の墳墓の場合には、周濠ができないほうが、むしろ不思議なのだ。
《箸墓》もこうして周濠と墳丘とが同時に作られたことは明かである。
 盛り土をとめるために、葺石が大量に使われたらしいが、それは、調査の結果、近くの河原などの石であることが判明した。
 だから、『日本書紀』にある大坂山(二上山)から運んだ石というのは、もし史実だとすれば、河原石の不足分の補充や、内部の石室などに使用された大型の石なのであろう。

 この造営工事に、いったいどれくらいの人員と年月がかかっただろうか――という推理は興味ぶかいが、これについては、『(株)大林組』の試算結果がある。
 まず容積だが、高さ二十メートルまでを五段に積み重ねると、三十万立方メートルの盛り土が必要となる。
 これだけの土を盛るためには、道具が鉄や木の鋤、鍬、モッコなどとし、労働時間を一日八時間で月に二十五日とすると、

「毎日五百人が働いたとして十二年かかる」
「毎日千人が働いたとして六年かかる」

 ――という計算になる。
 いまなら千人の動員はそう困難ではないが、奈良盆地全体でも十万人いたかどうかという時代だから、当時の千人はいまの十万人以上に匹敵するであろう。そう考えると、五百〜千人はたいへんな数だし、命令系統もよほどしっかりしていなければ働くことなど不可能である。
 また、もし現在これを実現しようとすると、かかる費用は二百億円以上になるらしい。
 じつに大変な大工事だったことがわかる。
 いまから一七五〇年も前に、よくこんな大事業を完遂したものだと、感嘆する。
 これを実行した第十代崇神天皇の力の大きさは驚異である。
 まさしく、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)という尊称にふさわしい。


『卑弥呼と日本書紀536』

◆◆◆ 出土品 ◆◆◆

〈一〉昭和後期

 宮内庁が管轄している御陵は発掘は困難であり、考古学者による本格的な調査はなされていない。
 しかし、墳丘の補修時にたまたま遺物が発見されたり、周囲の調査によって土器類が見つかったりしており、かなりのことがわかってきている。
 戦後の発見のはしりとしては、昭和四十年代から五十年代にかけて、補修工事中に、後円部で特殊器台など、前方部で二重口縁壺などが――多くは破片で――発見された。
 これらは埴輪の祖型であり、とくに特殊器台は墳丘の頂部に集合的にあったらしい。

〈二〉平成六年〜七年

 昭和の間は断片的だったが、平成に入ると、発見は急展開する。
 平成六年から七年にかけて、大池の護岸工事にともなう前方部北側の調査が二百メートルにわたってなされ、そのとき池の底から土器がいくつか発見された。これらの土器は、布留〇式と呼ばれるもので、年代的には、西暦二五〇年〜二六〇年に作られたと推定されている。
 かつては西暦三〇〇年より後とされていたのだが、他の遺跡における「年輪年代法」の適用によって、大幅に修正されたのだ。
 またこのとき、後円部と前方部とで作り方が違うのではないか――との意見がでた。
 そして、最初は後円部のみ作られ、十年か二十年して前方部が付加されたのではないか――という昔にあった説が復活した。
 しかしこれには異論もあるらしい。


『卑弥呼と日本書紀537』

〈三〉平成九年

 前記したように、この年の後円部南東隣接地調査によって周濠と周堤が発見され、「周濠の有無についての議論」に決着がついた。
 この発見も最近のことなので、現在刊行中の考古学書にも「周濠は無い」という解説が見られることがある。

〈四〉平成十年1

 後円部の南東隣接区域で、周濠・周堤・渡り堤などが発見された。

〈五〉平成十年2

図10・24
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1023-1025.htm

 秋に台風で墳丘上の樹木が倒れ、その整備工事中に三千数百点もの土器類が発見された。
 後円部からは、とくに「特殊器台」の発見が注目された。その写真を図10・24(a)に示す。
 これは断片だが、全体像もかなり判明している。
「特殊器台」というのは、高さが一メートル近くもある大型の円筒に、写真のような斜線状の模様が刻まれた土器で、その発祥は吉備地方(岡山県)とされており、墳墓供献用に用いられた神具の一種で、のちの埴輪の祖型とされている。
 したがって「特殊器台型埴輪」ということもある。
 その製作年は、「年輪年代法」を援用すると、西暦二五〇年ごろとされている。
 すなわち、〈卑彌呼〉の死とほぼ同じ年代である。


『卑弥呼と日本書紀538』

 前方部からは、壷型土器が多く発見された。とくに注目されるのが「二重口縁壺」で、ほぼ完全な形のものが複数ある。
 これも埴輪の原型と考えられており、発祥は瀬戸内沿岸らしい。
 製作年は、やはり「年輪年代法」による修正編年表にもとづいて、西暦二六〇年〜二七〇年と推定されている。
 図10・24の(b)にその一例を示した。

図10・24(再掲)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1023-1025.htm

 後円部と前方部とで、出土品の推定年代に十年から二十年のひらきがあることが、ここでも確認されている。

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 問題は内部の石室や木槨や棺であるが、これは残念ながら発掘調査はできない。
 もしそれが可能ならば、盗掘されていたとしても、かなりの新発見があるだろう。
 そのため、多くの考古学者や古代史家が、発掘調査の希望を述べているが、天皇家の先祖の墓を開くことについては、モラルの面からも反対意見が多くあり、難しい問題である。

 出土品に吉備地方や瀬戸内沿岸の影響が強いことは、《纒向京》全体の発掘調査において、初期には吉備からの土器搬入が多く、それが次第に減って後期には東海が増えたとの前述した知見を裏づけるものでもあり、興味ぶかい。

 後円部が先に造営されて、前方部はかなり後でできた――という昔からの説は、『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉の墓の記述を一つの根拠にしている。
 つまり、《箸墓》を〈卑彌呼〉の墓とした場合、『魏志倭人伝』に記されているのは「円形」らしいので、まず後円部のみができて、それを魏の使者が報告したのだろう――との解釈である。
 しかし「円形」と明記しているわけではないし、出土品の年代の違いは、造営時の祭祀は後円部でなされ、後の祭祀は前方部でなされたとすれば説明できるので、二回造営説が正しいとはかぎらない。
 周濠付近の調査から、二回造営説に反対する学者も多いようである。

 いずれにせよ、台風のおかげで多くの出土品が得られ、それと「年輪年代法」によって、《箸墓》の造営年代が西暦二五〇年〜二六〇年ごろらしい――とわかってきたことは、古代史研究として画期的なことである。


『卑弥呼と日本書紀539』

◆◆◆ 保存状態 ◆◆◆

 ほとんどの古墳が盗掘の被害にあっているので、《箸墓》だけが例外とは考えにくい。
 とくに戦国時代はひどかったらしい。
《箸墓》一帯は戦国〜江戸時代にかけて織田氏の一族の領地になっており、武将が自分の庭として使っていたことはホケノ山古墳の所でも記したが、そのとき、《箸墓》を庭園の築地のようにして墳丘上まで道をつけるなど、かなり加工していたそうである。
 大池は周濠の名残かもしれないが、農業用水として維持されたらしいので、いろいろと工事がなされたであろう。
 後円部の一部は削られて宅地造成がなされているが、農業用地を確保するために古墳が削られることは昔からよくあるので、《箸墓》の大きさも初期よりは小さくなっているであろう。
 ただ希望を持てるのは、この地の人たちは《三輪山》への信仰が篤くて山を大切にしてきたことである。
 だから《三輪山》に関係の深い《箸墓》もまた、大切にされたと考えられるのだ。
 今後も、皇室の尊厳を損なわない範囲で調査がなされることを、期待したい。


『卑弥呼と日本書紀540』

■■■■■ 十・十二〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説の確からしさ ■■■■■


 ここまで三つの章で、《大和》と〈倭迹迹日百襲姫命〉について知るところを述べてきた。
 また第三〜五章にも、関連事項を記してきた。
 すなわち、

「《邪馬台国》大和説」
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――の傍証となるさまざまな事項である。
 さいごのこの節では、これまでに述べた事柄を、まとめておこう。
 詳しいことは、これまでの各章を振り返っていただけばよいので、ここでは重複は避けてなるべく簡明に箇条書きにする。


◆◆◆「《邪馬台国》大和説」◆◆◆

[一]国名の問題

『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》(邪馬臺國)は、その読みにおいて《大和国》に酷似している。
 国を除くと、《邪馬台(やまたい)》または《邪馬台(やまと)》であり、甲類乙類の区別までふくめて、《大和》にそっくりである。
 この国名は、残っている写本では《邪馬壹國(やまいちこく)》となっているので、ヤマトとは無関係だとの意見もあるが、写本作業の過程で《邪馬臺國》が誤写されたという見解が、専門家の多数意見である。逸文などからもそう判断されている。

[二]都としての水準の高さ

『魏志倭人伝』に記述された期間であるほぼ西暦一八〇年から二七〇年にかけての日本列島で最大の都は、《箸墓》のある《纒向京》であり、その規模・計画性・交易性・文化水準などの面でこれに拮抗する――またはこれを上まわる――都は、他に見つかっていない。

[三]方角の問題

『魏志倭人伝』にある《邪馬台国》の位置は伝聞によるものと思われ、南→東というような方角の九十度変更をおこなえば、北九州から自然に《大和》に達する。
 しかも九十度の違いは、北九州の経路や古地図によっても裏づけられており、九州内部説よりはるかに納得しやすい。

[四]『記紀』との関係

 この十年ほどの考古学的研究の成果によって、《大和》の《纒向京》で活躍した第十代崇神天皇の時代が、ほぼ〈卑彌呼〉の晩年から没直後と重なることが、わかってきた。
 また崇神天皇紀には、朝鮮半島との交渉の記録も残されている。
 さらに崇神天皇は〈御肇國(はつくにしらす)天皇〉と讃えられており、「初めて国をおつくりになった天皇」であることが『日本書紀』に明記されている。

[五]人によって異なる「九州説」

「大和説」の場合、ほとんどの人が《邪馬台国》の場所を狭い意味での《大和》=《纒向京》としているのに対し、「九州説」では、九州各地千差万別であり、迫力が感じられない。


『卑弥呼と日本書紀541』

◆◆◆「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」◆◆◆

[六]女王の名前の問題

『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼(ひみこ)〉または〈卑彌呼(ひめこ)〉なる女王名は、古代日本における高貴な女性名の末尾につける尊称の〈日女命(ひめみこと)〉〈姫命(ひめみこと)〉や〈姫御子(ひめみこ)〉〈姫皇女(ひめみこ)〉、また神に仕える高貴な女性である〈姫神子(ひめみこ)〉〈姫巫女(ひめみこ)〉に酷似している。
 そして〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめみこと)〉の末尾もまた〈姫命〉であり別名は〈日女命〉で、その役目は〈姫神子〉または〈姫巫女〉だし、出自は〈姫御子〉〈姫皇女〉である。

[七]活躍の内容

『魏志倭人伝』にある〈卑彌呼〉の鬼道による活躍と、『日本書紀』崇神天皇紀にある〈倭迹迹日百襲姫命〉の《三輪山》の神子(巫女)としての活躍(古神道)とは、年代的にも内容的にもよく照応している。
 神武東征の話や、世の乱れを神意によって鎮静させた『日本書紀』の話は、倭人伝の女王共立の経緯と対応するし、四道将軍の派遣についての苦心は、倭人伝の狗奴国問題を連想させる。
 とくに、〈倭迹迹日百襲姫命〉の甥(または兄弟)の子で東海に遠征した武渟川別(たけぬなかわわけ)命が注目される。

[八]墳墓の問題

《箸墓》が〈倭迹迹日百襲姫命〉の墓である可能性は、『日本書紀』の記述や考古学的知見から、きわめて高い。
 そして、『魏志倭人伝』にある径百余歩の墓と、《箸墓》とは、年代的に一致するほか、巨大さにおいても造営の経緯においても、また寸法においても照応している。
 また死の唐突さにおいても通じるものがある。
 そして、西暦二五〇年〜二六〇年ごろに造営された古墳のなかで、《大和》の《箸墓》は隔絶した巨大さをもっている。
 一回り小さな古墳すら、他の地域では見つかっていない。もちろん九州にもない。
 だからこそ、当時の日本の役人もシナの役人も話題にし、『日本書紀』にも『魏志倭人伝』にも例外的に記された可能性がある。

『日本書紀』に墳墓造営が詳しく記されているのは〈倭迹迹日百襲姫命〉のみであるし、シナの史書中の日本の項に、墓の大きさが記されているのは、〈卑彌呼〉のみである。


『卑弥呼と日本書紀542』

[九]女王かどうかの問題

『記紀』における〈倭迹迹日百襲姫命〉は天皇(大王)とはされていないが、崇神天皇の大叔母(または叔母)として天皇を指導したと記されており、『魏志倭人伝』における「女王と男弟の関係」に照応している。

 すなわち、推古天皇以前には女帝を認めなかった『記紀』編者の方針によって「とくべつ高貴な皇女」として扱われただけだったが、実質的には天皇であった可能性が高い。
(推古天皇以前に女帝を認めない方針は、〈神功皇后〉や飯豐青皇女について、『日本書紀』で天皇としての業績を記しているのに、天皇号はつけていないことでもわかる。天皇と記した史料も多くあるのに、『日本書紀』のような正史においては天皇としていないのだ)

『日本書紀』における、「倭」なる国名が頭に来る名称の女性は、実質的に〈倭迹迹日百襲姫命〉とその近い係累だけであり、別格の扱いがなされている。
 またその母親は、『古事記』では「オオヤマトクニアレヒメ」と呼ばれているが、これは大和国(つまり日本国)を存在させた女性――という意味が考えられ、これまた別格である。

 また国宝古文書『勘注系図』や物部系史書の『先代旧事本紀』では、〈倭迹迹日百襲姫命〉のことを、〈日神〉や〈日女命〉という、〈天照大神〉に匹敵するほどの重大な尊称で記している。
 つまり、古代の文献史料のなかに、

「別格の女王として尊敬されていた痕跡」

 ――が認められるのである。


『卑弥呼と日本書紀543』

◆◆◆ その他 ◆◆◆

[十]後継者の問題

『魏志倭人伝』においては、〈卑彌呼〉の後継者は、わずか十三歳の〈臺與(とよ)〉だったとされている。
『日本書紀』においては、〈倭迹迹日百襲姫命〉よりはるかに若い〈豐鍬入姫(とよすきいりひめ)命〉が、〈百襲姫命〉没後も祖神祭祀を担当して丹後・吉備などの重要地点を歴訪し、やがて〈倭姫命〉がひきついで《伊勢神宮》を創建する。

 したがって、

「〈臺與〉=〈豐鍬入姫命〉説」

 ――は、年代的にも活動の内容からいっても、納得しやすい。
 なお、『魏志倭人伝』に書かれている、〈卑彌呼〉を補佐する男弟は、〈倭迹迹日百襲姫命〉の同父母弟とされる吉備津彦命だったのかもしれないが、崇神天皇だった可能性のほうが高いであろう。
『勘注系図』の箇所で記したように、崇神天皇は義理の弟とも考えられるからである。

 また、〈卑彌呼〉と〈臺與〉の間にいた男王は、崇神天皇だった可能性がさらに高い。
 この男弟や男王の影が薄いのは、『魏志倭人伝』の編者や元資料の作成者たちが、女王の存在に気をとられて、崇神天皇を軽視してしまったからかもしれない。

 さらにもう一つ、〈卑彌呼〉も〈百襲姫命〉もともに夫がいない事も重要な一致点である。


[十一]断言はできない

「《邪馬台国》大和説」
「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――を断言するためには、《箸墓》から墓碑銘の記された青銅板なり刀剣なり鏡なりが出土する必要がある。
 あるいは、すくなくとも《纒向京》の近辺から、魏から贈られた金印が発見される必要がある。
 だから、いま断言することは、科学的ではない。


『卑弥呼と日本書紀544』

[十二]本書での結論

 しかしながら、別の説(九州説など)が大和説以上の信憑性をもつためには、まったく新しい画期的な考古学的発見がなければならない。
 それがあるまでは、《邪馬台国》とは、

  第一候補  《大和》の《纒向京》
  第二候補  《纒向京》以外の《大和》のどこか
  第三候補   九州のどこか
  第四候補   その他の地域

 ――であり、もし第一候補だとすれば、

 〈卑彌呼〉の有力候補は〈倭迹迹日百襲姫命〉
 〈臺與〉の有力候補は〈豐鍬入姫命〉
  男弟や男王の有力候補は崇神天皇

 ――というのが、本書の結論である。

**********

 さいごに、《箸墓》と《三輪山》の迫力ある航空写真を図10・25に示す。古墳の航空写真で定評のある梅原章一の撮影である。

図10・25
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H1023-1025.htm


《邪馬台国》かどうかは別にして、ここ《大和》の地に栄えた古代の《纒向京》が、大和朝廷最初期の都でありわが国の原点であることは、まちがいない。


文献は連載の冒頭にも記したが、以下にある。ただしまだ推敲不十分である。
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/himiko_bunken.htm


(これで『卑弥呼と日本書紀』の連載全544回を終了します。掲示板管理者さん、長い間ありがとうございました)

(本連載は平成19年7月17日に終了した)


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