■□■□■ 行基図と行基菩薩(オロモルフ)■□■□■


◆◆◆ 1.行基図に興味 ◆◆◆

 ――を持ったのは、邪馬台国問題の本を書きました時、古代におけるシナ王朝の日本列島への認識が、実際とは九十度違っていたらしい――という研究を知った時でした。
 下に示すのは、李氏朝鮮時代のアジア全図の極東付近ですが、日本は明らかに行基図を九十度変更して当てはめられています。
 つまり南北に細長い国だと思われていたのです。
 まあ、そういうわけで行基図に興味を持つようになったのですが、次に疑問に思ったのは、
「行基図は奈良時代から江戸初期までの日本全図の通称だが、この行基図と行基菩薩とはどう関係していたのか」
 ――という事でした。
 これを調べるには、平安末期に書かれたらしい『行基菩薩伝』や『行基年譜』を読んだり、行基研究の権威である井上薫先生の論文を読んだりしなければならないでしょうが、なかなかそこまで行き着けませんので、とりあえず、国史事典・人名事典の類を調べてみました。

◆行基図の例
 (805年とされる図の江戸時代の模写/弘中芳男『古地図と邪馬台国』)
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◆◆◆ 2.正史と日本全図 ◆◆◆

 奈良時代前後の朝廷(すなわち国家)が日本地図の作成に取り組んでいたことは、正史である『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』によって知られます。
『日本書紀』の記述は行基の生前ですが、あとの二つは行基生存中の項目です。
 ここで注目すべきは、これら正史における日本地図の記述が、「律令制度」の導入確立と時期的に一致していることです。
 これはまあ当然のことでして、そもそも日本の全体図が中央の要人の頭に無ければ、律令制度を作ろうという意思も浮かばなかったでしょう。それよりも攻めていって自分の領土を拡張する方が先です。
 ですから、大化の改新の時代には、きわめておおまかではあっても、大和朝廷の支配下にある日本列島の大部分の地図が、要人たちの頭に入っていたと思われます。
 さらに、律令制度を充実させようとすると、より正確な日本全図が必要になります。
 そうでなければ、法律によって国々を統率する事は出来ませんし、役人を派遣する事も出来ません。
 どの方角にどの国を経由してどう行けばどの国に達する――と分かっていなければ、役人の派遣は軍隊を率いた探検旅行と同じになってしまいます。

◆下記は、最古の世界地図(15世紀初頭)とされる「混一◎理歴代国都之図」の極東部分です。
 日本は朝鮮半島の南方の縦長の国として描かれており、明かに行基図の九十度変更です。
 この地図が、邪馬台国の位置論争に密接に関係するのです。
(弘中芳男『古地図と邪馬台国』)
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◆◆◆ 3.国史事典・人名事典類の調査 ◆◆◆

 ほとんどの事典に行基についての項目がありますが、その中に、「行基は行基図を作った」という意味の事が記されているものに○、記されていないものに●をつけます。
 行基が奈良時代に日本全図を作成した事が学会の定説になっていたとしたら、それは伊能忠敬を上回る大変な業績であって、世界でも注目されるでしょうから、事典類には必ず書かれる筈です。

(1)吉川弘文館『國史大辭典全17巻』●
〔日本図の項目に、「行基図は行基が作ったのではない」としてその理由が記されている〕
(2)河出書房新社『日本歴史大辞典全20巻』●
〔行基図という項目も無い〕
(3)吉川弘文館『日本古代人名辭典全7巻』●
〔ひじょうに詳しいが、行基図の話は無い〕
(4)小学館『日本国語大辞典全20巻』●△
〔行基図という項目が別にあり、「行基が作ったとされる地図」とある〕
(5)平凡社『大人名事典全9巻(戦前)』●
(6)講談社『日本人名大辞典』●
(7)講談社『日本史人物事典』●
(8)三省堂『コンサイス日本人名事典』●
(9)冨山房『國民百科大辭典全15巻(戦前)』●
〔行基図という項目も無い〕
(10)平凡社『大百科事典全29巻(戦前)』●
〔行基図という項目も無い〕
(11)平凡社『世界大百科事典全32巻(1950年代)』●△
〔「行基式日本図」の項があり、「日本図作成は事実だろう」とある〕
(12)平凡社『世界大百科事典全34巻(1970年代)』○
〔はじめて日本全図を作ったと伝えられる――と書かれている〕

 これら12種の事典類の中で、もっとも詳しいのは(1)と(3)ですが、どちらにも行基図の話はありません。それどころか、(1)においては、別項で、行基が作ったのではない――という説明があるのです。


◆◆◆ 4.『行基菩薩伝』と『行基年譜』 ◆◆◆

 この二冊に行基図の話が書かれているのかどうか、興味がありますが、(1)や(3)の引用の仕方からは、書かれていないように推察されます。

◎勉強不足

 これから勉強しないと、何とも言えません。以上はメモにすぎません。
 なお下は、11世紀の極東図『古今華夷区域総要図』です。
 おそろしくいいかげんです。倭国と日本が別の国になっています。
 このようないいかげんな地理知識の元に書かれた『魏志倭人伝』をこと細かに詮索するのは考え物です。
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◆◆◆ 5.井上薫先生の著作 ◆◆◆

◎井上薫『行基〈人物叢書〉』吉川弘文館(初版:昭和34年/新装版:昭和62年)

第一 家系と氏族的環境
第二 民間伝道と地溝開発
第三 平城京造営と布施屋設置
第四 弾圧とその後
第五 恭仁京の造営
第六 紫香楽の大仏造営
第七 東大寺の建立
第八 四十九院と布施屋

 井上薫先生は大正六年生まれ。東大国史科卆。文学博士。
 行基研究の第一人者です。

 行基図の制作は行基が主体ではなかっただろう――という推理は、『卑弥呼と日本書紀』を書いた時の調査で感じていましたが、上に、なぜそう思ったかのデータを記しました。
 といっても素人の憶測にすぎませんので、その道の権威がどのように述べているかを知ろうとしてこの本を買ってみました。
 古い本ですが、行基図の話は出ていないようでした。
 奈良時代における日本全図の作成は世界の歴史に記されるような大事業ですから、もし行基がそれをおこなったのが学界の定説になっていたら、最低でも一つの章が設けられていたと思います。
 巻末文献補足の所に、それらしい論考を含むと思われる論文が書かれていましたが、特殊な媒体なので読むのは困難です。
 ・・・というわけで、行基が行基図を作ったという説は学問の世界では定説にはなっていないとの感を強くしました。
 あくまでも素人の感想ですが・・・。
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◆◆◆ 補足1:オロモルフ号の航宙日誌2996『井上薫教授と行基図1』◆◆◆

◎井上薫(編)『行基事典』国書刊行会(平成9年7月)

総論 行基の生涯
1 政治社会・集団
2 教学・伝導
3 地理・社会事業
4 史(資)料
5 行基信仰
付編

 先日、昔の無線電信技術の資料調べで図書館に行きましたとき、なにげなく書棚を見ていたら『行基事典』が眼にとまり、ぱらぱらと覗いたら「行基と日本地図」という一節が見つかりましたので、コピーをとってきました。

▼興味を持った理由と疑問

 私が行基に興味を持つようになったのは、仏教の普及や社会事業という面からではなく、「行基図」という側面からです。
 かつて『卑弥呼と日本書紀』を書きました時に、『魏志倭人伝』の地理感覚を理解するためには古い時代の「日本全図」である「行基図」が重要である事を教えられたからです。
 で、そこで疑問を持ったのは、
「行基図は奈良時代から江戸初期までの日本全図の通称だが、この行基図と行基菩薩とはどう関係していたのか」
 ――ということでした。
 昔の「日本全図」を「行基図」と言うからには、行基菩薩(混乱しないために行基という人物を表すときにこの書き方をします)が奈良時代にお作りになったのだろう、と思うのは当然だし、事実そう信じている人も多いようなのですが、それにしては奇妙なことが多いのです。
 そこで、素人なりに調査して本掲示板に発表し、保存頁に保存(前掲)いたしました。

▼書影(トビラ部分)
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◆◆◆ 補足2:オロモルフ号の航宙日誌2997『井上薫教授と行基図2』◆◆◆

▼疑問点列挙

 わたしが素人なりに調査して、「行基図」を作ったのは行基菩薩ではない可能性が高い――と結論した理由を簡単に記してみます。

(1)正史である『続日本紀』には行基の事が書かれているが、「日本全図」を作ったという記述はない。

(2)間接的調査だが、行基菩薩について記した『続日本紀』以外の基本文献にも、「日本全図」をつくったという記述は無い。

(3)鎌倉時代以降になって「日本全図」に「行基作」と書かれるようになったらしいが、その理由を明記した信頼できる文献は無い。

(4)現代の多くの国史事典、百科事典、国語辞典、人名事典を調べたが、行基菩薩が「行基図」を作ったという記述をなした辞典類はほとんど無い。それどころか、最大の国史事典(吉川弘文館)では、明確に否定する文章が書かれている。
(事典類は学界での定説に準拠しますから、学界での定説が否定的らしい事がわかります)

(5)行基菩薩研究の第一人者である井上薫博士がお書きになった吉川弘文館の人物叢書『行基』にも、「日本全図」や「行基図」に関する記述はまったく無い。
(但し新装版の巻末に、末永雅雄先生米寿記念会編『献呈論文集』に「行基の勧進・日本地図・土塔」という論文を井上先生が寄稿しておられることが記されていました。しかしこの論文の入手は困難で諦めていました)

(6)日本地図の作成がもし本当ならば、幕末の伊能忠敬の偉業を上回るほどのものなので、世界的に有名になる筈だが、そういう話は聞かない。

(7)行基が周遊したのは都の周辺だけだった事が文献から知られるので、「日本全図」作成はとうてい無理だったのではないか?

▼『行基事典』の記述

 こういう疑問を持っていたのですが、上の(5)の括弧内の論文と似ているのではないか――と思われる一節「行基と日本地図」を『行基事典』の中に見つけて、わくわくして読んでみました。
 内容は、行基菩薩が作った、とする二編の論文を紹介してその論拠が薄弱である事を指摘し、ご自分のお考えを述べておられるものでした。
 二編の論文と言っても、一つは昭和9年、もう一つは昭和30年という古いものです。
(つまりそれ以後は行基菩薩作成説は論文としては書かれていないのでしょう)
 結論として、私が上に列挙したのと似た根拠のもとに、行基菩薩を讃えるための栄誉付与だったのだろう――としておられます。
 要するに伝説の一種で、日本中の池や井戸が弘法大師作とされるのと似ている現象なのでしょう。
 安心いたしました。



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