■□■□■ ドラゴンズの順位の歴史(オロモルフ)■□■□■


■■■ 1.ドラゴンズが優勝した歴史 ■■■

 1954年(昭和29年)天知監督(日本一)
 1974年(昭和49年)与那嶺監督
 1982年(昭和57年)近藤監督
 1988年(昭和63年)星野監督
 1999年(平成11年)星野監督
 2004年(平成16年)落合監督
 2006年(平成18年)落合監督
 2007年(平成19年)落合監督(二位でCS優勝)

 1954年に日本一になったあと、53年間も日本一になっていません。
 全球団のなかで、ドラゴンズが一番長く日本一から遠ざかっていたのです。
 ファンがやきもきしたのは当然ですね。
 そして平成19年になって、やや変則的ながら、ついに二度目の日本一になりました。


■■■ 2.ドラゴンズの球団名の変遷 ■■■

 1936年(昭和11年)名古屋
 1944年(昭和19年)産業
 1946年(昭和21年)中部
 1947年(昭和22年)中日ドラゴンズ
 1951年(昭和26年)名古屋ドラゴンズ
 1954年(昭和29年)中日ドラゴンズ(日本一になった年)
 以後ずっと中日ドラゴンズです。


■■■ 3.ドラゴンズの年間順位の歴史 ■■■

昭和11年(1936)「名古屋軍/池田豊監督」順位は決められない
昭和12年(1937)「名古屋軍/桝嘉一監督」春季7位、秋季8位
昭和13年(1938)「名古屋軍/根本行都監督」春季7位、秋季4位
昭和14年(1939)「名古屋軍/根本行都→小西得郎監督」6位
昭和15年(1940)「名古屋軍/小西得郎監督」5位
昭和16年(1941)「名古屋軍/小西得郎→本田親喜監督」6位
昭和17年(1942)「名古屋軍/本田親喜監督」7位
昭和18年(1943)「名古屋軍/三宅大輔総監督/桝嘉一監督」2位
昭和19年(1944)「産業軍/三宅大輔監督」4位
昭和20年(1945)「産業軍」(前年の秋から試合中止)
昭和21年(1946)「中部日本チーム/竹内愛一→杉浦清監督」7位
昭和22年(1947)「中日ドラゴンズ/杉浦清監督」2位
昭和23年(1948)「中日ドラゴンズ/杉浦清監督」8位

 天知俊一が技術顧問となり強化に乗り出す。

昭和24年(1949)「中日ドラゴンズ/天知俊一監督」5位
昭和25年(1950)「中日ドラゴンズ/天知俊一監督」2位
昭和26年(1951)「名古屋ドラゴンズ/天知俊一監督」2位
昭和27年(1952)「名古屋ドラゴンズ/坪内道典監督」3位
昭和28年(1953)「名古屋ドラゴンズ/坪内道典監督」3位
昭和29年(1954)「中日ドラゴンズ/天知俊一監督」1位(初のリーグ優勝、初の日本一)

 フォークボールを駆使した杉下茂投手の超人的な活躍がありました。
 この年の秋には一日に二回完投して勝利するなどし、ライオンズとの日本シリーズでは七試合中五試合に出て、チームを日本一に導きました。

昭和30年(1955)「中日ドラゴンズ/野口明監督」2位
昭和31年(1956)「中日ドラゴンズ/野口明監督」3位
昭和32年(1957)「中日ドラゴンズ/天知俊一監督」3位
昭和33年(1958)「中日ドラゴンズ/天知俊一監督」3位
昭和34年(1959)「中日ドラゴンズ/杉下茂監督」2位
昭和35年(1960)「中日ドラゴンズ/杉下茂監督」5位

 このあたりから、天知俊一が構築したドラゴンズ選手団がほぼリタイヤし、新体制になってゆきますが、それでも杉下・西沢はじめ天知の部下たちが指導者として活躍します。戦後昭和20年代から30年にかけての天知俊一の功績はまことに大きなものがありました。日本一になっただけではなく、監督になる前から杉下を育て有力選手を勧誘するなどチームの強化に尽力していた人です。また人情監督としても知られ、選手から慕われていて、いろいろなエピソードが残されています。

昭和36年(1961)「中日ドラゴンズ/農人渉監督」2位
昭和37年(1962)「中日ドラゴンズ/農人渉監督」3位
昭和38年(1963)「中日ドラゴンズ/杉浦清監督」2位
昭和39年(1964)「中日ドラゴンズ/杉浦清→西沢道夫監督」6位
昭和40年(1965)「中日ドラゴンズ/西沢道夫監督」2位

 昭和36年は権藤投手が35勝、昭和37年は30勝をあげた年で、まさに超人でしたが、「権藤、権藤、雨、権藤」と歌われた農人による酷使がたたって、この二年で実質的選手生活は終わってしまいました。
 また高木守道選手が活躍しはじめました。
 昭和39年は、二リーグ制になって初めての最下位でした。
 昭和39、40年は江藤が二年連続首位打者になりました。
 また、外国人に頼り始めたのもこの時代です。

昭和41年(1966)「中日ドラゴンズ/西沢道夫監督」2位
昭和42年(1967)「中日ドラゴンズ/西沢道夫監督」2位
昭和43年(1968)「中日ドラゴンズ/西沢道夫→杉下茂→本多逸郎→水原茂監督」6位
昭和44年(1969)「中日ドラゴンズ/水原茂監督」4位
昭和45年(1970)「中日ドラゴンズ/水原茂監督」5位

 西沢監督の時代は優勝こそしませんでしたが、二位が多く、つねに上位で戦っていました。小川が29勝、中利夫が首位打者など活躍していました。
 しかし昭和43年正月に西沢道夫が病気で引退し、高木の死球気絶などもあって崩れてしまいました。
 昭和44年は星野投手がデビュー、昭和45年は谷沢選手がデビューなど、後に有名になる新人が入りましたが、逆に黒い霧事件で有力選手が追放されるなど、苦難の年でした。

昭和46年(1971)「中日ドラゴンズ/水原茂監督」2位
昭和47年(1972)「中日ドラゴンズ/与那嶺要監督」3位
昭和48年(1973)「中日ドラゴンズ/与那嶺要監督」3位
昭和49年(1974)「中日ドラゴンズ/与那嶺要監督」1位(二度目のリーグ優勝)
昭和50年(1975)「中日ドラゴンズ/与那嶺要監督」2位

 三年間の水原時代が終わりますと、与那嶺監督が就任し、巨人コンプレックスの解消に努めました。
 そして就任三年目の昭和49年、ついに巨人をきわどく抜いてリーグ優勝!
 日本シリーズではロッテに負けましたが、久しぶり二度目のリーグ優勝でした。
 なおこの時代になりますと、大島、木俣、鈴木孝政、田尾、藤波など、他チームの監督や現解説者の方々が活躍しています。
 それからコーチとして忘れてならないのが近藤貞雄で、大リーグの分担方式(先発・中継ぎ・抑えの分業)を取り入れました。
 そしてついに昭和49年にリーグ優勝を果たします。
 その結果、二位になった巨人では長嶋が引退、川上監督もV10を逸して引退など、歴史を刻んだ優勝でした。
(なお昭和50年には、広島球場で広島ファンがグランドになだれ込んで暴れ、翌日の試合が中止になるという事件が起こっています)

昭和51年(1976)「中日ドラゴンズ/与那嶺要監督」4位
昭和52年(1977)「中日ドラゴンズ/与那嶺要監督」3位
昭和53年(1978)「中日ドラゴンズ/中利夫監督」5位
昭和54年(1979)「中日ドラゴンズ/中利夫監督」3位
昭和55年(1980)「中日ドラゴンズ/中利夫監督」6位

 やがて中監督の時代になりますが、なかなかうまく行かない事が多く、最高が3位でした。
 快速球の小松投手がデビューしたり、まさかり打法の木俣が活躍したり、谷沢が首位打者になったり、個々の活躍はありましたが・・・。
 中監督の時代、たまたま名古屋に出張したとき、スポーツ新聞を駅で買いました。
 残念ながら負けた翌日だったので、試合内容について何が書いてあるかと思ったのですが、一面にでかでかと出ていたのは、「休日を自宅で楽しむ中監督の様子」でした(笑)。
 試合の話はほとんど無し!

昭和56年(1981)「中日ドラゴンズ/近藤貞雄監督」5位
昭和57年(1982)「中日ドラゴンズ/近藤貞雄監督」1位(三度目のリーグ優勝)
昭和58年(1983)「中日ドラゴンズ/近藤貞雄監督」5位
昭和59年(1984)「中日ドラゴンズ/山内一弘監督」2位
昭和60年(1985)「中日ドラゴンズ/山内一弘監督」5位

 昭和57年は、放任主義の近藤監督のもと、野武士野球といわれたスタイルで、ぎりぎりで優勝を果たしました。
 しかし日本シリーズではライオンズに2勝4敗でかなわず。夢破れました。
 昭和59年からは山内監督を迎えて、緻密な野球になりましたが、優勝を意識しすぎたのか、後半乱れて二位。
 昭和60年は、有名な田尾のトレードがあり、ファンが激高するという事件がありました。
 田尾さんの行くところ常に嵐が!
 なおこの時代から外国人選手の活躍が目立つようになり、外国人頼りのチーム作りとなってゆきます。

昭和61年(1986)「中日ドラゴンズ/山内一弘→高木守道監督」5位
昭和62年(1987)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」2位
昭和63年(1988)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」1位(四度目のリーグ優勝)
平成元年 (1989)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」3位
平成2年 (1990)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」4位

 昭和60年代から平成にかけては、星野仙一監督の時代です。
 就任二年目にリーグ優勝を果たしますが、日本シリーズでは相変わらずライオンズに勝てず、1勝4敗で終わりました。
 昭和62年で有名なのは落合博満をロッテから移籍させるという大トレードでした。そのために牛島投手など四人の選手がトレード要員としてドラを去り話題を集めました。
 結果としては落合は活躍して、翌年の優勝に貢献しました。
 この時代に活躍または台頭した選手としては、川又、大島、近藤真一、小松、鈴木孝政、仁村、彦野、山本昌、立浪、郭源治、与田、今中・・・など。

平成3年(1991)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」2位
平成4年(1992)「中日ドラゴンズ/高木守道監督」6位
平成5年(1993)「中日ドラゴンズ/高木守道監督」2位
平成6年(1994)「中日ドラゴンズ/高木守道監督」2位
平成7年(1995)「中日ドラゴンズ/高木守道→徳武定祐→島野育夫監督」5位

 平成3年は二位ではありますが、後半息切れして星野監督が辞任し、翌年から高木守道が期待されて監督に。
 平成4年はけが人や不調の選手が多く、ついに最下位。
 平成5年は、優勝を期待されながら後半に息切れ。
 平成6年は優勝目前で巨人との同率最終決戦に敗れました。FAで巨人に移籍した落合に打たれたのです。
 平成7年になると、いろいろとややこしい事が起こり、高木監督が6月に休養という情けない年でした。
 このあと、星野監督の再登場となります。

平成 8年(1996)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」2位
平成 9年(1997)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」6位
平成10年(1998)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」2位
平成11年(1999)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」1位(五度目のリーグ優勝)
平成12年(2000)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」2位

 再登場した星野監督は、抑えの弱点を補うために韓国のソン・ドンヨル投手を獲得しますが、最初の年はうまくいかず、パウエルや山崎や大豊の打撃で補いました。
 投手としては今中の活躍と若い野口の活躍がありました。
 平成9年になるとソンが働きはじめましたが、12球団最低の打率で沈没。
 しかし平成10年には新人川上投手の活躍などで二位。
 平成11年には、投手陣の活躍や山崎の打撃などで優勝。開幕11連勝という記録も作りました。
 しかし日本シリーズではダイエーと戦って1勝4敗で終わりました。
 短期決戦に弱いドラゴンズの体質は、星野監督の下でも直りませんでした。
 平成12年は、ギャラードとバンチという外人投手が活躍しました。

平成13年(2001)「中日ドラゴンズ/星野仙一監督」5位
平成14年(2002)「中日ドラゴンズ/山田久志監督」3位
平成15年(2003)「中日ドラゴンズ/山田久志→佐々木恭介監督」2位
平成16年(2004)「中日ドラゴンズ/落合博満監督」1位(六度目のリーグ優勝)
平成17年(2005)「中日ドラゴンズ/落合博満監督」2位
平成18年(2006)「中日ドラゴンズ/落合博満監督」1位(七度目のリーグ優勝)
平成19年(2007)「中日ドラゴンズ/落合博満監督」2位(日本一に輝く)

 星野仙一監督は球団幹部と折り合いが悪くなったようで、ドラゴンズを宣伝するための雑誌に球団幹部が星野監督への批判を書くという異例の有様になり、退団。
 そのあと星野政権でコーチを務めた山田久志が監督になりました。最初は期待されたのですが、素人目にも選手起用が変で批判も多くあり、また瞬間湯沸器的な性格もあってか二年目の途中で解任され、コーチだった佐々木恭介が監督代行を務めました。
 そのあと、落合監督が就任し、既存勢力を徹底的に鍛えて一年目からリーグ優勝。
 しかしやはり日本シリーズでは宿敵ライオンズに3勝4敗で勝てず。
 次の平成17年は二位。
 その次の平成18年は再度の一位になりましたが、日本シリーズでは1勝4敗で日ハムに敗れました。
 しかし平成19年に、リーグでは巨人に敗れて二位でしたが、クライマックスシリーズを勝ち抜いて日本シリーズに進み、同じ相手の日ハムと戦って4勝1敗でついに53年ぶりの日本一になりました。
 レギュラーシーズンが二位で日本一という変則でしたから、来年以降の真の日本一がファンの希望ですが、FA宣言などでもめていますので、補強がどうなりますか、心配ではあります。

 最後に順位の変遷をグラフにして示す。
 69年間に二位が24回もある。三分の一以上の年が二位だった事がわかる。




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