■□■□■ 明治憲法第一条[万世一系と統治](オロモルフ)■□■□■

 最近皇室典範問題に関連して「万世一系」という言葉が飛び交うようになりまして、その定義についての議論もなされているようです。
 私もこの一年ほどこの問題について考えてみました。
 ある掲示板で質問が出たことが、直接のきっかけでした。
 素人ですのでたいした考えも浮かびませんが、「万世一系」という言葉は「明治憲法第一条」によって世に出たものですから、当然ながらその条文についての理解が重要で、それは「万世一系」と「統治」を<対>として吟味することによって得られるのだろう・・・と思うようになりました。
 というわけで、それを『明治憲法第一条(万世一系と統治)』として簡単にまとめてみました。もちろん素人の横議にすぎませんが・・・。


■■■■■ 一 皇統「万世一系」の思想――明治憲法の第一条〈一〉―― ■■■■■


◆◆◆ 一・一 「万世一系」という言葉 ◆◆◆


◎伊藤博文たちの猛勉強

 明治二十二年に発布された明治憲法(正確には大日本帝國憲法)は、伊藤博文、井上毅ら明治の先人たちが、日本の古代史などを熱心に研究し、また欧米の憲法の歴史を勉強して、つくりあげた苦心の作だと言われます。
 それまでの日本には欧米風の近代的憲法はありませんでしたが、二千年を超える長い歴史が育んだ伝統・法・思想がありました。
 伊藤博文たちは、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』・・・などの古代から近世までの史書を猛勉して、その中を流れる「不文の憲法」を抽出し、それを欧米風の法知識で色づけして成文化して『明治憲法』を創り上げたそうです。

 さて、その明治憲法の第一条は、

「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

 ――です。

 この文章において重要なのは、

「万世一系」
「統治」

 ――の二つでしょう。
 したがいまして、この二つを勉強すれば、明治の偉人たちが日本の古典を勉強して到達した天皇による日本国の統治のあり方への理解が深まるでしょう。
 そこで、この二つの言葉について、考察してみます。
 二つは本来「対」として理解すべきと考えますが、便宜上別の章で吟味いたします。

 まずは「万世一系」です。


◎『憲法義解』にある解説

 明治憲法の有名な解説書に、『憲法義解』があります。
 著者は伊藤博文で、実質的には井上毅らが草稿をつくったと言われます。
 初版は明治二十二年六月出版で、正式な書名は『帝國憲法/皇室典範義解』です。
 これを読みますと、明治の元勲たちが、いかに熱心に日本の歴史書を勉強していたかがわかるのですが、そこに第一条の親切な解説があります。

 その解説の中の「万世一系」についての文章は、次のとおりです。

 恭て按ずるに、神祖開國以來、時に盛衰ありと雖、世に治亂ありと雖、皇統一系寶祚の隆は天地と與に窮なし。本條首めに立國の大義を掲げ、我が日本帝國は一系の皇統と相依て終始し、古今永遠に亘り、一ありて二なく、常ありて變なきことを示し、以て君民の關係を萬世に昭かにす。

「万世一系」とは何か――という議論は、インターネットのあちこちでなされておりますが、「犬も万世一系だ」など生物学的な話が多く、日本民族の心の歴史に根ざした議論があまり見られないと感じます。


◎「万世一系」の語源

「万世一系」という言葉は、明治憲法の第一条に記されたために有名になりましたが、これと似た言葉は、いくつかの史料にあります。

(まったく同じ言葉は、あるかもしれませんが、私は見つけておりません。だとしますと、「万世一系」なる表現は、明治憲法第一条によって世に出たと言えます)

 たとえば、江戸後期の学者巌垣東園の『國史略』は、明治になってからも読まれたベストセラーですが、その中に、

 自天照皇太神創業垂統而神武天皇初都中國一統天下歴正天皇正統一系亘萬世而不革天下即一人之天下

「(読み下し文)天照大神、業を創め統を垂れたまひ、而して神武天皇初めて中つ國に都し、天下を統一したまいし自り、歴世の天皇、正統一系萬世に亘りて革まらず、天下は即ち一人の天下」

(意訳・天照大神が、国の基礎をうちたてられ、その端緒を子孫にお伝えになり、それを受けて神武天皇が初めてこの日本という国土に都をおつくりになって天下を統一なさってから、歴代の天皇は、正しいただ一つの血統を永遠にお続けになられて、決して他の一族に変わるようなことはなく、日本全土は天皇お一人による統治のもとにあり続けている)

 ――とあります。すなわち「正統一系亘萬世」という「万世一系」とほとんど同じ表現があります。
 この本は、神代から後陽成天皇の時代までの編年史で、出版は文政九年(一八二六年)です。
 万世のみまたは一系のみについては、古い書物にもいろいろとあるようですが、万世と一系を結びつけた表現は、この『國史略』が有名だそうです。

(この中の「創業垂統」は一種の四字熟語です)

 このほか、水戸光圀が音頭をとり、二百五十年もの歳月をかけて完成した『大日本史』の神祇一にも、似た表現があります。

 ・・・天下皆知神威之可畏、而神孫之可尊、萬世一統之業、於是乎定矣・・・

「萬世一統」という酷似した言葉ですが、この一行が実際に書かれたのが明治憲法の前なのかどうか、確認できませんでした。


◆◆◆ 一・二 『神皇正統記』の思想 ◆◆◆


◎『神皇正統記』に見る「万世一系」の思想

 さて、大切なのはその思想です。
 これにつきましては、北畠親房による史論書『神皇正統記』が知られております。
「三種の神器」の解説に記しましたように、南朝の忠臣で当時の大学者だった北畠親房は、南朝の天皇へのご進講を意図して『神皇正統記』を書きましたが、その巻一に、「万世一系の誇り」がつぎのように記されています。

 大日本は、神の國なり。天祖始めて基を開き、日神長く統を傳へ給ふ。我が國のみ此の事あり。異朝には其の類なし。此の故に神國といふなり。・・・。

 これは冒頭の一句ですが、伊藤博文『憲法義解』の先の文章は、この冒頭の句の影響を強く受けているように思えます。
 それから少し後に、つぎの有名な文章があります。

 我が朝の始は、天神の種を受けて、世界を建立する姿は、天竺の説に似たる方もあるにや。されど是は天祖より以来、繼體違はずして唯一種まします事、天竺にもその類なし。彼の國の初の民主王も、衆の爲に選び立てられしより相續せり。又世くだりては、その種姓も多く亡ぼされて、勢力あれば下劣の種も國主と成り、剰へ五天竺を統領する族も有りき。震旦又殊更みだりがはしき國なり。昔世すなほに道正しかりし時も、賢を選びて授くる事ありしにより、一種を定むる事なし。亂世になるままに、力を以て國を争ふ。かかれば民間より出でて位に居たるも有り、戎狄より起りて國を奪へるもあり、或は累世の臣として其の君をしのぎ、終に讓を得たるも有り。伏犠氏の後、天子の氏姓を替へたる事既に三十六、亂の甚しさ云ふに足らざるものをや。
 唯我が國のみ、天地開けし始より今の世の今日に至るまで、日嗣を受け給ふ事邪ならず。一種姓の中におきても、おのづから傍より傳へ給ひしすら、猶ほ正に歸る道ありてぞたもちましましける。これしかしながら、神明の御誓あらたにして、餘国に異なるべきいはれなり。抑神道の事はたやすく顯はさずと云ふ事あれど、根元を知らざれば、みだりがはしき端とも成りぬべし。その弊を救はんために聊か勒し侍り。神代より正理にて受け傳ふる謂を宣べん事を志して、常に聞ゆる事は載せず。然れば神皇正統記とや名づけ侍るべき。


(意訳・日本のはじまりには、インドに似た点もあるようだが、日本では天子の位が高天原の神以来ずっと正しく唯一に継承されていて(すなわち万世一系であって)、これは世界にも類のない事である。インドでも最初は王が民衆のために選ばれてその子孫が継承したが、後の世になると亡ぼされて、力さえあれば誰でも一国の主となった。シナはさらに秩序のない国で、大昔であっても帝王に一つの姓を定めることがなかったし、のちに世が乱れると力で帝王を争った(易姓革命)。だから民間から起こって王位についた者もあるし、辺境の種族が国を奪ったこともあるし、仕えていた臣下が主君を追い払って帝王になったこともある。伏犠氏(シナの伝説時代の最古の帝王とされる)のあと天子の氏姓が変わったことがすでに三十六度もあり、その無秩序は言葉もないほどである。
 しかしながら日本だけは、天地の最初から現在まで、天皇は正しく御位を受け継いでおられる。直系がおられず傍系がお継ぎになっても、また正しい系統に復して、万世一系の皇統を維持してこられた。これは〈天照大神〉の「天壌無窮の詔勅」が明確だからで、日本が他国と異なる理由もまたそこにある。高天原の神々の教えは恐れ多いものだが、その根本を知らないと善悪の区別を知ることができず、世を乱すことになるであろう。そこで、そのような悪弊がおこらぬように、神代から今日まで正しい道理に基づいて皇統が受け継がれてきたわけを述べようと思う。ただし世間がふつうに知っている事は書かない。正しい道理によって受け継がれた皇統の事を記すので、この書を『神皇正統記』と名づける)

 右の文の中で重要な「天壌無窮の詔勅」について、簡単にご説明します。
 大昔、天照大神は高天原におられて、御孫の瓊瓊杵尊を、この国土に降ろされました。
 これを天孫降臨といいますが、瓊瓊杵尊が多くの部下をしたがえて降臨なさるとき、天照大神は、「八坂瓊曲玉」「八咫鏡」「天叢雲剣」という三種の神器をお預けになり、かつ、つぎのように仰せになりました。

(読み下し文)豊葦原の千五百秋の瑞穂國は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。よろしく爾皇孫、就いて治むべし。行け。寶祚の隆ならんこと、天壌とともに窮無かるべし。

(意訳・この美しく豊かな国は、私の子孫が治めるべき国である。さあ行きなさい。私の子孫が栄えることは、天地とともに永遠であろう)

 これが天壌無窮(天地とともに永遠であること)の詔勅で、たいへん有名です。


◎「万世一系」と「三種の神器」

 北畠親房のこの一節に、「万世一系」の思想が明確に述べられておりますが、さらに親房は、「三種の神器」と結びつけた有名な言葉をいくつか残しています。
「三種の神器」の解説で引用しなかった部分をここに記してみます。

(三種の神器が)この國の神靈として、皇統一種正しくまします事、誠にこれ等の勅(天壌無窮の詔勅など)にみえたり。三種の神器世に傳ふ事、日月星の天に在るに同じ。
 昔皇祖天照大神、天孫の尊にみことのりせしに、寶祚之隆當與天壌無窮(天壌無窮の詔勅)とあり。天地も昔に變らず、日月も光を改めず。況や三種の神器、世に現在し給へり。窮りあるべからざるは、わが國を傳ふる寶祚なり。仰ぎて貴み奉るべきは、日嗣をうけ給ふ皇になんおはします。

 北畠親房の思想をかいつまんで記しますと、

「他の国々の帝王はしばしば、より力のある他の者に替わられているが、日本はそのような武力による王朝交替が無かった世界でも稀な国で、世界でもっとも長く継続している国である」

 ――のようになります。
 このような誇りこそが、「万世一系」の精神なのです。
 北畠親房が生きた南北朝時代は、皇室の正当性を争った時代ですから、親房はこの問題をとくに重要視したのでしょう。

 この『神皇正統記』は、江戸時代になってもよく読まれ、光圀による『大日本史』編纂や、頼山陽の『日本外史』執筆、また新井白石、山鹿素行など尊皇の学者に大きな影響を与えました。むろん前記の『國史略』にも影響しています。
『神皇正統記』の思想は、これら江戸後半の尊皇思想を生み、そして最終的には『明治憲法』を結実させたと言えるでしょう。


◆◆◆ 一・三 『愚管抄』の思想 ◆◆◆


◎『愚管抄』にある慈圓の見解

『神皇正統記』と並ぶ史書である『愚管抄』は、藤原一族の出身である天台座主慈圓が著した史論書の高峰で、一二二〇年の成立とされています。
「三種の神器」の解説で引用しましたように、仏教的な世界観の入った史論なのですが、その巻第七において慈圓は、つぎのような注目すべき意見を述べています。

 ・・・アマノコヤネノミコトニ、アマテルヲオン神ノ、「トノノウチニサブライテヨクフセギマモレ」ト御一諾ヲハルカニシ、スヘノタガウベキヤウノ露バカリモナキ道理ヲヱテ、藤氏ノ三功トイフ事イデキヌ。ソノ三ト云ハ、大織冠ノ入鹿ヲ誅シ給シコト、永手大臣・百河ノ宰相ガ光仁天皇ヲタテマイラセシ事、昭宣公ノ光孝天皇ヲ又タテ給シコト、コノ三也。・・・

(意訳・遠い昔、〈天兒屋命〉は〈天照大神〉から「宮殿の内にいて、外敵や災難を防ぎ、皇孫(天皇)をお守りするように」とのご命令を受けた。これはのちの世になっても違えるべきでないご命令であり、これにもとづいて、〈天兒屋命〉の子孫である藤原氏は三つの手柄をたてた。第一は、藤原鎌足が蘇我入鹿を排除したことである。第二は、藤原永手、藤原百川が光仁天皇を天皇の位に推挽したことである。第三は、藤原基經が光孝天皇を天皇の位に推挽したことである。この三つが、〈天照大神〉のご指示を守った藤原氏の三つの手柄である)

 これだけでは分かりにくいので、少し解説してみます。


◎〈天照大神〉のご命令

 神代のこと、素戔嗚尊の横暴にお怒りになった〈天照大神〉が天の岩屋にお隠れになったので、みな困り、なんとかして出ていただこうと、榊に「三種の神器」の「八咫鏡」や「神璽」をかけ、いろいろな行事をするわけですが、この榊を香具山から運んだ神が、天兒屋命と太玉命であるとされています。
 そして天兒屋命は中臣一族の遠祖であり、太玉命は忌部一族の遠祖であるとされています。どちらも大和朝廷の祭祀担当です。
 この二柱の神は、その後〈天照大神〉の信用を得て、重要な役割を任せられました。
 すなわち、〈天照大神〉の皇孫・瓊瓊杵尊が天孫降臨されたとき、〈天照大神〉は、二神につぎのように指示なさいました。

 惟爾二神も、同じく殿内に侍ひ、善く防き護りまつることを為せ。

(意訳・おまえたち二柱の神も、神鏡や皇孫と同じ皇宮内に仕えて、外敵や災難を防ぎ、お護りするように)

 藤原一族は、中臣の出身ですから、自分たちの遠い先祖が〈天照大神〉からじきじきに皇室を守護する役割を与えられたのだ――との自負心を抱いていました。
 そしてその役割を果たした例として、『愚管抄』において慈圓は、皇統を護った三つの功績を記しているわけです。


◎第一の功績 蘇我入鹿の排除

 蘇我一族は、古代の伝説的な政治家・武内宿禰の子孫を名乗って代々天皇の近くに仕えていましたが、しだいに勝手なふるまいをするようになりました。
 とくに蘇我蝦夷は推古天皇、舒明天皇、皇極天皇の三代(第三十三代から三十五代)に仕えながら、人民を使役して自分の墓を生前につくり、天皇の御陵と同じ呼び方をし、天皇の位を狙うほどの横暴ぶりでした。
 さらにその子の蘇我入鹿も天皇きどりで、聖徳太子の子孫を亡ぼしたり、自分の邸宅や子供達を皇室と同じ呼び方にするなど、皇統を無視するような態度でした。

 これを心配したのが中臣鎌足で、皇子時代の天智天皇(第三十八代)と相談して、入鹿を亡ぼしました。父親の蝦夷も自殺し、ここに権勢をほこった蘇我一族は力を失い、皇統の危機が除かれました。
 中臣鎌足はその後、政治家として辣腕をふるい、朝廷のために尽くしました。
 この功績によって鎌足は、天皇から藤原という姓をたまわり、のちの藤原一族の祖となります。


◎第二の功績 光仁天皇の擁立

 第四十八代の稱徳天皇(孝謙天皇重祚)は、妖僧といわれた道鏡の専横を許した女帝として知られ、和氣清麻呂の箇所でご説明したとおり、生前からさまざまな事件が起こっておりました。
 やがて崩御されますと、皇嗣を定めておられなかったために、政争が起こりました。
 このとき、道鏡を排除し、老齢ではあっても天皇の座につこうという野心のまったく無かった光仁天皇を推挙したのが、左大臣藤原永手やその後継者の藤原百川(二人とも藤原不比等の孫)でした。
 光仁天皇は立場上天皇への野心が皆無の人だったため、渡来系とされる身分の低い女性の高野新笠をそばにおいていましたが、その新笠の子供が勇猛で知られる次の第五十代桓武天皇です。
 この桓武天皇をつぎの天皇とする手はずを整えたのも、百川だったと言われております(『水鏡』など)。

 天皇の系列は稱徳天皇までしばらくは天武系でしたが、光仁天皇は天智系であり新笠は皇族とは無関係な女性でした。
 したがって、この藤原永手・百川の運動によって、皇統は天武系から天智系に移りました。
 天智系には有力な皇族が多くおられ、稱徳天皇の時代のような皇統の危機はなくなり、女帝を立てる必要もなくなりました。

 奈良時代後半に起こったこの事件には、いろいろと事情もあり、簡単には言いきれないものがありますが、これ以後江戸時代まで女性天皇は存在いたしません。


◎第三の功績 光孝天皇の擁立

 藤原基經(八三六〜八九一)は、平安前期の有名な政治家で、第五十七代陽成天皇の摂政・太政大臣をつとめ、また次の光孝天皇、さらにその次の宇多天皇にもお仕えして、内外の政務を担当し、また六国史の五番目にあたる『日本文徳天皇實録』の編纂にも力を尽くしました。
 宇多天皇の時代に史上初めての関白となったことでも知られています。
 平安期最大の政治家でしょう。
 慈圓の文に出てくる昭宣公とは、基經の謚号です。

 この基經がはじめ仕えていたのは第五十七代の陽成天皇でしたが、この天皇は、生来のものなのかそれともご病気によるものなのかは不明ですが、粗暴なふるまいが多くあり、人心は朝廷から離れ、皇統は危機に見舞われました。
 陽成天皇は第五十六代清和天皇の皇子で、八歳で即位したので藤原基經が摂政として政務をとりしきっていました。
 しかしその粗暴ぶりに基經は失望し、やむをえず、退位を画策し、年輩の光孝天皇の即位を推進しました。
 こうして第五十八代となった光孝天皇は、陽成天皇にとっては祖父の弟にあたり、実年齢もずっと上でしたが、争いを好まない穏和きわまりないご性格で、この点が陽成天皇の乱暴に懲りた人たちの賛同を得た理由でした。

 光孝天皇は即位後四年で崩御されましたが、皇子皇女を臣下に降ろしておられました。
 崩御の直前、天皇は藤原基經と相談して、その中の一人の源定省を皇太子に定めますが、それが次の宇多天皇です。
 臣籍になっておられたため、皇族から臣籍降下された御方が皇族に復帰して天皇になられた最初の例として知られております。
 これは、現在の皇室典範改正問題で、話題になっている事です。
 終戦直後に臣籍降下なさった元皇族のご子孫の復帰が、現在の皇嗣難の解決法として有力だからです。
 また、この宇多天皇のつぎの第六十代醍醐天皇も、臣籍にあったときの御降誕ですので、やはり臣籍からの復活の第二の例とされております。
 なお宇多天皇は、基經没後に菅原道眞を重用したことで知られています。
(基經ら藤原一族の俊才たちは、慈圓の愚管抄で高く評価されておりますが、もちろんその政治の目的は皇統を守ると同時に藤原氏の権力を高める事でもあり、客観的に見れば、功罪のあるのは当然です。光孝天皇はいわゆるやり手ではありませんから、政治の実権は基經がにぎりました)

 以上に示しました三つの功績のうち、とくにあとの二つは、「諫言問題」に似た点があります。
 つまり、そのときの天皇のご意向に反して、皇統のためにより良い皇嗣を選んだということでして、その時かぎりの決断としては、大きな不忠です。
 皇統を重んじる忠臣たちが、あえてこのような不忠をおかしたのは、『日本書紀』にありましたような、「〈天照大神〉によって皇室の護りをまかされてきた」という、目の前の天皇より上位の価値判断基準があったからだと考えられます。

 自分たち一族のための政治的思惑はもちろん有ったでしょうが、単にそれだけなら、外戚などに満足せず、最大の権力者が自ら天皇になればよいわけで、そうはせずに「三功」のような事を藤原一族がおこなったのは、やはり〈天照大神〉の教えという「時の天皇より上位の判断基準によって理論武装されていた」からでありましょう。

 前に著者が仮に名づけた言い方では、『「三種の神器」の心』です。

*****

 なお、ここで引用しました古い史料のどれにも、「男系」という表現はありません。しかしこれら史料の著者が「女系」でも「万世一系」と考えていたようには思えません。
「男系」が当然なので、とくには記さなかったのでありましょう。


■■■■■ 二 〈うしはく〉と〈しらす〉の違い――明治憲法の第一条〈二〉―― ■■■■■


◆◆◆ 二・一 二種類の統治〈うしはく〉と〈しらす〉 ◆◆◆


◎明治憲法第一条の「統治」

 伊藤博文の『憲法義解』では、「万世一系」の説明のあと「統治」の説明に入りますが、ここで伊藤博文は、次のような、史書にある言葉を並べています。

「瑞穂國是吾子孫可王之地宜爾皇孫就而治焉」(天壌無窮の詔勅)
「始御國天皇」(『日本書紀』にある神武天皇の尊称)
「吾者纒向の日代宮に坐て大八島國知らす大帯日子淤斯呂和氣天皇の御子」
 (『古事記』より。後半の天皇は景行天皇のこと)
「天皇か御子のあれまさむ彌繼繼に大八島國知らさむ次」
 (『続日本紀』にある文武天皇即位の詔)
「(詔勅の例式として)御大八洲天皇」(『令義解』巻七・公式令)

 すべてシラスの入った言葉ですが、このあと伊藤博文は、

 所謂『しらす』とは即ち統治の義に外ならず。・・・君主の徳は八洲臣民を統治するに在て一人一家に享奉するの私事に非ざることを示されたり。此れ乃憲法の據て以て其の基礎と爲す所なり。

 ――と締めくくっています。
 つまり、

「天皇による統治」=〈しらす〉

 であり、それが明治憲法の基礎だ、と言っているのです。
 何故でしょうか?

〈しらす〉とはいったい、どういうことなのでしょうか?


◎「国譲り」の物語

 これは、日本の古代史から見出された言葉と概念で、直接的には『古事記』にある有名な「国譲り」が源だそうです。
 というわけで、「国譲り」のおさらいをいたします。

 高天原の〈天照大神〉の弟の〈素戔嗚尊〉は乱暴者だったので、追放されて、出雲に宮をつくりました。
 その子孫の〈大國主神〉は、天孫降臨の前、葦原中国(日本の国土)の支配者になっていました。
 したがって、皇孫が日本の国土を治めるためには、〈大國主神〉に国土を譲ってもらわねばなりません。

 そのため〈天照大神〉や〈高木神〉は、幾度となく使者を派遣しますが、すべて籠絡されてしまって、使命を果たせませんでした。
 最後に、剛勇の〈経津主神〉と〈武甕槌神〉が〈大國主神〉のもとに行きます。
『古事記』によりますと、この交渉において高天原の使者は、〈大國主神〉に対してつぎのように言います。

 天照大御神・高木神之命以、問使之。汝之宇志波祁流葦原中國者、我御子之所知國言依賜。故、汝心、奈何。

「(読み下し文)天照大御神・高木神の命以て、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らさむ国と言依し賜ひき。故、汝が心は、奈何に」

(意訳・我々は《高天原》のお使いとしてやって来た。お前が〈うしはける〉日本の国は、本来皇孫が〈しらす〉国であると、〈天照大神〉や〈高木神〉が述べておられる。お前はどう考えるか)

 これを聞いた〈大國主神〉は、子供たちの意見を聞いて、国土を皇孫に譲ることにしました。
 こうして天孫降臨がなされ、その子孫の神武天皇が東征して、大和の地で初代の天皇に即位いたします。


◎二種類の支配があること

 さて問題は、この談判の言葉の中で、〈素戔嗚尊〉の子孫の支配を〈うしはく〉と言い、これに対して新たに領主となるべき皇孫の統治を〈しらす〉と言って使い分けている事です。
 現在の言葉に直しますと、〈うしはく〉も〈しらす〉も、支配、領有、統治・・・などで区別がつきません。
〈うしはく〉は今では使われない言葉ですし、〈しらす〉は今では「知る(認識する)」という意味でしか用いられませんから、古語について調べませんと、この両者の区別はつきません。


◎〈うしはく〉の由来

 そこで、辞書の類で、調べてみます。まずは〈うしはく〉の由来です。

〈うしはく〉は『古事記』や『万葉集』にある古い言葉で、「支配する」とか「領有する」とかいった意味です。
 文化勲章を受章された白川静先生の『字訓』には、
「〈うし〉は主人、〈はく〉は身に帯びること」
 ――となっており、また平成九年刊行の小学館の『古事記』の注では、
「〈うし〉は主、〈はく〉は着」
 ――となっています。

 この説は、古くは、江戸期最高の国学者である本居宣長の『古事記伝』にもありますので、引用しておきます。

 宇志波祁流(うしはける)は、主として其處を我物と領居るを云、但天皇の天下所知食ことなどを、宇志波伎坐と申せる例は、さらに無ければ、似たることながら、所知食などと云とは、差別あることと聞こえたり、・・・

 これらから、次のように言えると思います。
〈うし〉は重要人物にとっての「自分」という意味で、「居る」という意味の〈う〉が語源のようです。
 似た言葉に現在も通じる〈ぬし〉があり、これは「この巨大魚は湖のぬしだ」などの用例でわかりますように、主人という意味ですが、「Xのうし」の「のうし」が短く変化して〈ぬし〉なったとされます。
 一方〈はく〉は、現在も使われており、「ズボンを履く」「靴を履く」がありますし、「武士が太刀を佩く」などもあります。

 つまり、
〈うしはく〉=「貴人が自分の身につける」
 ――で、そこから、
「土地や人民を自分の私有物として支配し領有する」
 ――という意味になりました。
 比較的分かりやすい古語です。


◎〈しらす〉の由来

 つぎに〈しらす〉ですが、そのおおもとは〈しる〉で、天皇陛下に対しては、平安以後は、〈しろしめす〉となっています。
 すなわち、
〈しる〉→〈しらす〉→〈しらしめす〉→〈しろしめす〉
 ――と変化したようです。

〈しらす〉は〈しる〉に尊敬をあらわす助動詞〈す〉がついたもので、ほとんど天皇のみに使われます。
〈しらしめす〉はさらに尊敬語が付加されたもので、〈めす〉は〈みる〉に尊敬語の〈す〉がついたものとされ、いわば二重の尊敬表現です。
 現在でも通じる用法に「思し召す」などがあります。
〈しらしめす〉が使われたのは奈良時代までで、平安時代以後は「ら」が「ろ」に変化して〈しろしめす〉になりました。

 この用例は、平安時代から近現代まで無数にあります。
 たとえば、

「・・・いますべらぎの、あめのしたしろしめすこと・・・」(古今集序文)
「遠つおやのしろしめしたる大和路の 歴史をしのびけふも旅行く」(昭和天皇)
「しろしめす大御國内にことなくて くるる年こそのどけかりけれ」(昭憲皇太后)

 なお、奈良時代までの〈しらす〉や〈しらしめす〉は、『記紀』や『万葉集』などにたくさんあります。

「始馭天下之天皇」(『日本書紀』にある神武天皇の尊称)
「御肇國天皇」(『日本書紀』にある崇神天皇の尊称)
(いずれも「はつくにしらすすめらみこと」)
「葦原の 瑞穂の國を 天降り 知らしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る・・・」(『万葉集』大伴家持)


◎〈しる〉の二つの意味

 さて、問題はこの意味です。
 辞書をひきますと、古代/上代の〈しる〉には、

甲「領/領有する/支配する/統治する」
乙「知/知る/知識を持つ/認識する」

 ――という甲乙二種類の意味があるとされております。
 平安以後の〈しろしめす〉になりますと、
「領有なさる/御支配なさる/統治なさる」
 ――という一つの意味になり、乙の意味で使われることは殆ど無くなるようです。

 で、疑問ですが、〈しる〉という一つの言葉が、なぜ、まったく違うようにみえる二つの意味を同時に持つのでしょうか?
 そして、ほんとうの語源はどちらなのでしょうか?
 あるいは、同時に二つの意味が出来たのでしょうか?

 これにつきましては、白川静『字訓』に、つぎのようにあります。
 要約して記します。

▽しる〔知〕
 心にさとり、理解することをいう。「わかる」は分別することによってその異同を知ることであるのに対して、「しる」は全体的に所有すること、「領る」ことによってその全体を把握することをいう。「領る」ことは尊貴の人のなすところであるから、「令知」という敬語的な形の語がある。

▽しる〔領〕
「知る」と同源の語で、他を支配し、統治することをいう。知の字をその義に用いることが多い。
「知る」から「領る」となったのか、「領る」から「知る」となったのか、その両説に分かれているが、漢字の字義においても、知・領にいずれも「知る」意があり、また「支配」する意がある。「占む」とも関係のある語である。

 つまり、二つの意味があり、その二つの意味は関係が深いが、どちらが先なのかについては、意見が分かれている――という事です。
 この問題について国立国語研究所に質問してみましたが、雰囲気としては「知る」が先と考えておられるようでした。
 白川先生のしる〔知〕の説明をよく読みますと、古代人にとっての認識と領有は、ほとんど同じ意味であったと、推理できます。


◆◆◆ 二・二 〈うしはく〉と〈しらす〉はどう違うのか ◆◆◆


◎著名な資料にある解説

「国譲り」の神話で分かりますように、古代の史書にあります天皇による統治は、〈うしはく〉ではなく〈しらす〉です。
 そこで次に知りたいのは、〈うしはく〉と〈しらす〉の違いです。
 この二つの語には、どういう違いがあるのでしょうか?
 この違いを意識したからこそ、伊藤博文たちは、『憲法義解』におきまして、天皇の御統治は〈うしはく〉ではなく〈しらす〉である、と強調したわけですから、明治憲法を理解するためには、この二つの言葉の違いを明確に認識しなければなりません。
 いくつかの資料から、この違いを拾ってみます。

(「万世一系」と「対」になっている「統治」の意味の吟味なので、これは「万世一系」の認識にも通じると思います)

〔a〕本居宣長『古事記伝』
「・・・天皇が〈しろしめす〉ことを〈うしはきます〉と言う例は無いので、似た言葉ではあるが、〈しろしめす〉という表現とは、違う事だと考える・・・」
 先の引用の後半を意訳すれば、このようになるでしょう。
 違いを明確に述べてはおりませんが、〈うしはく〉は天皇の統治には使わない言葉である――と言っています。たしかにそのような例は無いようです。

〔b〕小学館『古事記』
 この本の注では、
〈うしはく〉は、ウシ(主)+ハク(着)で、そのものの主人として身に着けるの意。ここでは、〈大國主神〉が地上世界の諸領域を領有することをいう。
〈しらす〉は、高度の政治的・宗教的支配を表し、〈うしはく〉と区別されている。
 ――となっています。
 高度と言われても、具体的にはどういう事なのかわかりませんが、「独裁的ではない穏やかな支配だ」という雰囲気は、おおまかには分かります。

〔c〕白川静『字訓』
〈うしはく〉は直接的な支配を意味し、〈しる〉はより高次の統治のしかたをいう語である。領にその両訓がある。
 ――と書かれています。
 小学館の説明と似ています。
 高次とは「野蛮ではない」「近代的である」とも受けとれます。


◎当てはめられた漢字

 ここで〈しる〉に当てはめられた二つの主要な漢字「知」と「領」の語源を、白川静『字統』から要約してみます。

▽「知」
 矢に矢(ちか)うの意があって、誓約のときにもちいるもの。口は祝祷を収める容器。神に誓約する意味の字で、これによって為すべきことが確認される。『春秋左氏伝』に「其れ将に政を知らんとす」とある知が字の原義に近く、司るの意味がある。司ることから、知悉の意味となる。知事は司主の意。

(つまり、昔の日本人が〈しる〉に当てはめた漢字の「知」も、認識するという意味と司るという意味と両方あり、日本の古語の〈しる〉にとても近いことがわかります。ですから現代語の都道府県の「知事」や江戸時代まで使われた「知行」に「知」を使うのは、漢字の語源からいっても、古代日本語の〈しる〉の意味からいっても、自然な用法なのでしょう)

▽「領」
 ・・・要するに「えりくび」をいう。要領は腰と頸で、人体のもっとも重要なところ。それで統領の意となり、領地・領事のように支配する意となり、心に領して領悟・領略の意となり、その独自に領悟するところを本領という。衣服において、領と袖とが目立つことろであるから、人の儀表たる指導者を領袖という。

(つまり、昔の日本人が〈しる〉に当てはめたもう一つの漢字である「領」も、語源的に、支配する意味と悟る意味があった、という事になります)


◎井上毅の演説から

 明治憲法や皇室典範策定の中心人物だった井上毅は、〈しらす〉の意味について、
「中の心は外の物に臨みて鏡の物を照らすごとく知り明むる意なり」
 ――と解説しているそうです。
 鈴木正幸氏は『皇室制度』の中で、井上の講演の大意をつぎのように記しています。

 国を手に入れ統治することを、中国では国を有つといい、ヨーロッパでは「オッキューパイド」すなわち奪い占領するといった。これらはいずれも国土国民を私有財産にみたてて所有するという意味であった。ところが日本では、皇祖神が大國主神に対して、お前が「うしはぐ」ところの土地人民は自分の子孫の「しらす」ところのものであるといったと、古事記に書いてある。大國主ら豪族の支配である「うしはぐ」は中国やヨーロッパの王や豪族と同様の私的所有であるのに対して、皇祖神や歴代天皇の統治の仕方である「しらす」とは、土地人民を私有して支配する型とは正反対で、純粋に公的な統治である。ヨーロッパでは近々二百年前に、国家統治を公的なものとし公私の区別があきらかにされたのであるが、日本では神代の昔より、天皇によって公私の峻別のうえになりたつ公的統治が行われていた。

 つまり、日本では、権力者が私有する原始的な支配ではなく、公的で近代的な統治が、神代から実現していたのだ――というわけです。
 この解釈には多少の無理があるように感じますが、皇室と近代法とを結びつけるための苦心の理論武装だと思えば、納得できます。


◎まとめますと・・・

 これまでの検討で、伊藤博文らが明治憲法を策定したときに、
「天皇による統治は――〈うしはく〉ではなく――〈しらす〉である」
 ――と強調した理由が、大体は分かったように思います。
〈うしはく〉というのは、独裁者的・直接的・私有財産化的な支配であり、古代から乱暴者による支配にはこの言葉を使っているが、天皇の統治には使っていない――という事です。

 天皇の支配である〈しらす〉とは、その領地や人民の様子、また人民の気持ちをよく「認識」して「高度で公的な統治」をおこなうことを意味しており、そこには独裁者的な感覚はありません。
『「三種の神器」の心』として説明しましたような、「正直と知恵と慈悲」による温かい統治です。
 これは、『記紀』に記された大和朝廷の軍事や祭政のあり方を見ても、よく分かります。
 徹底した温情主義で、敵をつくらないのです。
 はげしく争った相手でも、帰順すれば、物部一族のように重臣として取り立てたり、出雲一族のように自分たちより大きな宮殿――出雲大社――を建ててやったりしています。

 この大和朝廷の伝統は現在でも継承されており、天皇制反対を叫んだ学者に、晩年になってそれを言わなくなったら勲章を与えておりますし、明治維新においても、敵対した榎本武揚を大臣にしたり、同じく敵対した西郷隆盛の大きな銅像を都に建てたりしております。

 うまくは言えませんが、私の感覚では、〈しらす〉とは家父長的な行為に近いと感じます。
 多くの家人をかかえた家父長は、自分が主宰する家や土地や家族についてよく「知って」それを「円滑に運営」してゆかねばならず、そうして得られた家人の幸福はすなわち自分の幸福でもあります。
 乱暴な家人がいても、反省すれば温かく迎え入れて、一家の繁栄を計ります。
 もし家父長が独裁したら、その家はかならず破滅してしまいます。

 天皇の統治が、世界の奇蹟と言われるほど長く継続したのは、歴代の天皇が、
『統治すれども私有独裁せず』
 ――を守ったからなのでしょう。
「三種の神器」の解説でも記しましたが、正しい祭政をなさった天皇にとって、統治の対象となる国民は『大御宝(おほみたから)』なのです。

 これは異国の帝王による「人民の私有化」や「独裁」とはまったく異なる平和な統治思想です。そして、このような「統治」だからこそ、「万世一系」となったのだと思います。

 すなわち、一の冒頭で記しましたように、皇統の「万世一系」と天皇の「統治」とは、「対」として理解すべきものでありましょう。

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蛇足――
 もともと「万世一系」の厳密な意味での初出は明治憲法第一条であり、そこでは「統治」と結びつけて表現されているのですから、「万世一系」だけを孤立させて――たとえば生物学的に――議論するのは奇妙なことだと思います。
 最近よくなされるこういう種類の議論への違和感は、昔から身体を張って皇室の伝統護持に挺身してこられた方々(たとえば田中卓先生、所功先生、立正の皆様など)も持っておられるようです。


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