■□■□■ 熱田神宮参拝記(オロモルフ)■□■□■

(写真が60枚以上ありまして、かなり長くなります)

◆◆◆◆ 1.まえがき ◆◆◆◆

 平成19年8月7日と8日、家内と娘と孫をつれて、計4人で名古屋に行ってきました。
 いま住んでいる神奈川某所から名古屋までは、新幹線で一時間十分しかかかりませんから、東京に行くより近い感覚なのですが、小学三年の孫にとっては夏休みの大旅行です。
(去年は京都に行きました)
 7日はナゴヤドームでドラゴンズの対カープ戦の試合を応援。
 私が応援に行くとたいていドラが負けるのですが、この日は6:3の逆転勝ちで、気分が良くなりました。
 東京生まれの私がドラゴンズを応援するのは、疎開先の多治見の中学に入学して一年間過ごしたからです。

 で、それはそれとしまして、翌日の8日には、熱田神宮に参拝しました。
 熱田さんへは、平成13年の4月にも家内と参拝し、宝物館も参観しているのですが、境内摂末社がよくわからず、写真にも撮っていなかったものですから、今回は摂末社もできるだけ参拝しようと、事前に地図をにらんで計画を立てて行ったのです。

 以下はその参拝記録ですが、「草薙剣」が盗まれた話など、いろいろと挿入しますから、かなり長くなると思います。

(じつはちょっと不思議なことがあります。名古屋は熱田さんのおかげで開拓されて現在があるわけですから、当然ながらプロ野球のドラゴンズも熱田さんのおかげで運営されているわけです。ですから毎年選手や球団関係者が参拝しているのですが、なぜか現監督は参拝しようとしません。やむなく有志の選手やコーチだけで参拝しているようです。奇妙なことだと思います)


◆◆◆◆ 2.由緒譚 ◆◆◆◆

 まず最初に、熱田神宮の由緒を簡単に記します。


◇◇◇ 2−1 「草薙剣」の由緒譚 ◇◇◇

 乱暴が原因で高天原から追放された素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、その尾の中から出てきた「神剣」を和解した天照大神に献上したのが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」で、「三種の神器」の一つとして皇宮に祀られました。

 やがて第十代崇神天皇の御于に大和朝廷に大きな変化が起こり、「神鏡」の「八咫鏡」とともに皇宮外の神社に奉斎されることになりました。
「神鏡」と「神剣」はいくつもの神社を遷りましたが、第十一代の垂仁天皇の御代になって、現伊勢神宮の内宮に鎮座されました。

 その次ぎの第十二代景行天皇の御代に、勇猛な皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国遠征の途におつきになったとき、伊勢神宮の初代斎王・倭姫命からこの「神剣」を授けられ、火攻めにあったときに草を薙いで一行を助けたため、「草薙剣」という名がつきました。


◇◇◇ 2−2 熱田神宮の由緒譚 ◇◇◇

 話はさかのぼります。
 神武天皇が九州から大和の地をめざして東征なさったとき、はげしく抵抗したのが長髄彦(ながすねひこ)ですが、神武天皇より先に天降って長髄彦の妹の三炊屋媛(みかしやひめ)を娶っていた饒速日命(にぎはやひのみこと)は、神武天皇に帰順して大和の地をゆずりました。

 この饒速日命と妃の三炊屋媛の子孫の中心が物部一族で、この一族は朝廷の重臣となって貢献し、ほとんど朝廷と一体となりました。
 一方、饒速日命には天道日女命(あめのみちひめのみこと)というもう一人の妃がおられ、その御子の子孫が尾張一族や海部一族だと言われています。
 尾張一族は現愛知県西部を支配する豪族として、大和朝廷とは微妙な関係を保って栄えました。

 さて、「草薙剣」を授かって東国に遠征して愛知まで戻った日本武尊は、この尾張一族と協力関係にあったらしく(同時に朝廷との軋轢があったらしく)、尾張の長である国造の娘宮簀媛命(みやずひめのみこと)を妃にしました。
 日本武尊は現三重県の鈴鹿で、足が三重に折れるほど疲れて病死します(これが三重という地名の語源だそうです)。
 このとき「草薙剣」は宮簀媛命の家に安置されていました。
 もともとは伊勢神宮の神宝だったのですから、戻すべきかもしれませんが、大和朝廷と微妙な距離を保って日本武尊を支援していた豪族尾張はそうはせず、近くに神社を創建して奉斎します。
 これが現名古屋市の熱田神宮の創建説話です。


◇◇◇ 2−3 「草薙剣」の想像図(IMG_0425/atj01)◇◇◇



 そういうわけで、八岐大蛇(やまたのおろち)の神話にあります「草薙剣」は、いまもなお熱田神宮に大切に奉祀されています。
 重要な御神宝・御神体ですから、見てはいけないのですが、江戸時代の神官が見た記録が残されており、さらに重さや長さなどは容器の上からわかっていますので、石井昌國氏は著書『古代刀と鉄の科学』のなかで、この図のような推理をしておられます。
 写真の右側の三振りがそれです。
 全長はほぼ60センチで、材質は銅が主体だろうとされています。


◇◇◇ 2−4 熱田神宮の大宮司 ◇◇◇

 熱田神宮の祭祀の責任者は歴代尾張一族が世襲でつとめましたが、平安後期になると勢力の強い藤原氏(南家)と婚姻関係をむすび、藤原氏が大宮司(最高責任者)となり、尾張は補佐役に後退しました。
 大宮司に就任した藤原氏の初代を藤原季範といいますが、すぐに武家が勃興したため、季範は生き残りを図って娘を源義朝に嫁がせました。
 そこに生まれた子供が、鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
 したがって頼朝は権力を得てからも伊勢神宮や熱田神宮をとても大切にして多くの寄進をしました。
 源頼朝の時代を記した史書『吾妻鏡』には、
「当社(熱田神宮)は外戚の祖神なるによって、殊に中心の崇敬を致さる」
 ――と記されています。
 頼朝はまた、後白河上皇との激しい角逐はあったにせよ、基本的には朝廷を大切にして多額の寄付をし、かつ君臣の別を守り、『日本外史』で頼山陽に高く評価されました。


◆◆◆◆ 3.場所と境内図 ◆◆◆◆

 熱田神宮の場所ですが、新幹線の名古屋駅から南に6キロほど行ったところが正門(南門)です。
 すぐそばにJRの駅がありますし、タクシーでも15分くらいです。
 方向は違いますが、名古屋駅からナゴヤドームまでとほぼ同距離です。


◇◇◇ 3−1 熱田神宮周辺の地図(IMG_0417/atj02)◇◇◇



 まず、周辺の地図を示します。
 JRの駅からすぐですし、地下鉄もあります。国道沿いなので車にも便利です。
 近くには大きな公園もありますし、有名な料理屋さんもあります。

 図の左側に赤丸がありますが、これは白鳥御陵で、後述します。


◇◇◇ 3−2 熱田神宮の境内図(IMG_0399/atj03)◇◇◇



 次に、熱田神宮のサイトから、境内の解説図を写しておきます。
 じつにいろいろなお社や施設があることがわかります。
 全長はほぼ500メートルで、鬱蒼とした樹木に覆われています。
(境内の説明などは、熱田神宮のサイトや神道事典類や篠田康雄『熱田神宮』などを参考にしています)

 図の上やや左に行ったところが新幹線の名古屋駅です。
 それでは、図の下端の正門から参ります。


◆◆◆◆ 4.正門から手水舎まで ◆◆◆◆


◇◇◇ 4−1 正門(南)の鳥居(IMG_0196/atj04)◇◇◇



 駅でつかまえたタクシーの運転手さんには「正門につけてください」と頼んだのですが、違う門(たぶん西門、東門だったか?)に着いてしまいました。
「ここは違います、正門に行ってください」と何度言ってもよくわからないらしい。つまり、境内に入る便利な口があれば、どこでもいいと思っているらしいのです。
 平成13年に来たときは、国道19号線沿いの西門についてしまい、こちらもそこを正門だと錯覚したので、方向感覚がおかしくなってしまいました。
 じつは前に出雲大社に参拝したとき頼んだタクシーも同様でして、いきなり拝殿の目の前に着いてしまったので聞くと、「歩くのは大変でしょう、ここなら拝殿がすぐだから便利ですよ」との返事。
 つまり一般の観光客は、出雲大社でも熱田神宮でも、参道を歩むという感覚は無いらしいのです。
 で、とにかく地図を見せてしつこく頼んで、ようやく納得してもらって、遠回りして国道一号線沿いの正門に着きました。
 駅から見ますと、正門はもっとも遠い場所ですので、わざわざ正門まで行く人は初めてらしいのです。

 写真3−2でもわかりますように、最初の鳥居は国道一号線から少し入ったところにあります。
 道路沿いにいきなり一の鳥居があるのではなく、鳥居の手前も広々とした境内なのです。
 一礼してくぐりました。
 鳥居の手前にも大きな樹木が茂っていますが、くぐるとさらに鬱蒼としています。


◇◇◇ 4−2 掲示板(IMG_0197/atj05)◇◇◇



 鳥居のすぐ左脇にこのような掲示板がありました。
 同様な掲示板はあちこちにあります。


◇◇◇ 4−3 参道1(IMG_0200/atj06)◇◇◇



 長い参道はこのように鬱蒼とし、かつ広々としております。
 セミの鳴き声がぐわーんと響いていました。
 孫は早速セミの抜け殻をいくつも見つけました。
(同時にヤブ蚊にも刺されて大騒ぎ!)


◇◇◇ 4−4 参道2(IMG_0202/atj07)◇◇◇



 しばらく歩いていると、右手に小さな鳥居が見えてきました。小さいと言いましても、正門の鳥居に比べれば小さいのであって、立派な鳥居です。
 写真の右手に見えると思います。
 境内摂社巡りの第一番の「楠之御前社」〈32〉の鳥居です。
〈32〉という番号は、写真3−2の境内図にある番号です。〈 〉でくくった番号は以下同様です。


◇◇◇ 4−5 「楠之御前社」〈32〉一の鳥居(IMG_0205/atj08)◇◇◇



 これがその鳥居です。
 末社のひとつです。


◇◇◇ 4−6 「楠之御前社」〈32〉二の鳥居と拝殿(IMG_0206/atj09)◇◇◇



 上の鳥居の左側に拝殿のようなものが見えていますが、鳥居をくぐって左を向くと、そこに二番目の鳥居があって、拝殿があります。
 これが「楠之御前社」(くすのみまえしゃ)で、本殿はなく、垣の内側に楠が神木として植えられ祀られています。
 御祭神は伊弉諾尊(いざなぎ)と伊弉册尊(いざなみ)の二柱の神です。
 安産の神様、また病気を治す神様で、鳥居の模型に干支や氏名を書いて奉献すると願い事が叶うそうです。
 そういうわけで、「子安の神」「お楠さま」と呼ばれているそうです。


◇◇◇ 4−7 参道3(IMG_0209/atj10)◇◇◇



「楠之御前社」を過ぎてまた参道をしばらく歩きます。
 本当に森が深いという印象です。
 セミの鳴き声がとどろいています。
 前方にかすかに正参道の二番目の鳥居が見えています。


◇◇◇ 4−8 「徹社」〈30〉(IMG_0213/atj11)◇◇◇



 やがて、やはり右側にお社が見えます。
 これが「徹社」(とおすのやしろ)です。
 由緒はわかりませんでしたが、参拝しました。


◇◇◇ 4−9 橋(IMG_0215/atj12)◇◇◇



「徹社」を過ぎると、すぐに橋があります。
 そしてその両側に大きな燈籠があります。


◇◇◇ 4−10 佐久間燈籠〈29〉(IMG_0430/atj13)◇◇◇



 参道の写真ではよくわかりませんが、これが佐久間燈籠と呼ばれているものです。
 寛永七年(1630)の5月に、佐久間大膳亮勝之は海難にあいましたが、当神宮に祈りその加護によってことなきをえたというので、感謝して寄進したのだそうです。
 高さは約8メートルもあり、形も六角形で雄大な相をもち、江戸時代から日本三大燈籠の一つとして知られているそうです。
 燈籠の写真は熱田神宮のサイトから拝借しました。


◇◇◇ 4−11 二十五丁橋〈28〉1(IMG_0220/atj14)◇◇◇



 参道の小さな橋のところから左の林の中を見ますと、おもしろい形の橋の側面が見えます。
 これが二十五丁橋と呼ばれる橋です。


◇◇◇ 4−12 二十五丁橋〈28〉2(IMG_0356/atj15)◇◇◇



 側面からではわかりにくいので、横道に入って正面から眺めてみます。
 それがこの写真です。


◇◇◇ 4−13 二十五丁橋〈28〉3(IMG_0355-1/atj16)◇◇◇



 説明板の写真を撮っておきました
 25枚の板石を並べてできていて、名古屋では現存する最古の石橋だそうです。
 西行法師がここで休んだと伝えられているそうですから、相当に古いですね。
 源頼朝の時代の人ですから・・・。


◇◇◇ 4−14 東門方向(IMG_0223/atj17)◇◇◇



 橋をすぎてすぐに、右に曲がる広い道があります。これが東門方向への道で、東参道です。
 この写真は東門方向を見た光景です。
 先方にかすかに鳥居が見えます。
 本当は東参道も歩いて東門のところの鳥居の近くまで行って写真も撮るべきだったのですが、時間がおしているという錯覚(実際には余裕があった!)がありまして、撮りませんでした。


◇◇◇ 4−15 東門の鳥居 ◇◇◇

 東門の鳥居も、正門と似た豪壮な形で、鳥居前の広々とした景観も同様です。
 今度また行ったときには、忘れずに撮影してきます。


◇◇◇ 4−16 参道の手水舎のそばの鳥居1(IMG_0224/atj18)◇◇◇



 東門の見える場所から正面本宮方向を見ますと、鳥居が見えます。
 これを二の鳥居というのかどうかは知りませんが、正参道の二番目の鳥居です。
 これも大きな鳥居です。
(なお熱田さんの鳥居はすべて神明鳥居という装飾の少ない基本的な形式です)


◇◇◇ 4−17 参道の手水舎のそばの鳥居2(IMG_0299/atj19)◇◇◇



 これは帰りに反対側から撮った写真ですが、近づくとこのように立派な鳥居です。


◇◇◇ 4−18 手水舎〈24〉(IMG_0230/atj20)◇◇◇



 橋をすぎてすぐに右手に東門が幽かに見えるわけですが、その左側に警衛詰所があります。
 大切な神社ですから、守衛さんがたくさんいて、あちこちを巡邏しています。
 詰所のすぐ先に、左に行く道があり、そこが西門方向です。
 また右には宝物館・文化殿が見えます。
 西門や宝物殿は後回しにしまして、まっすぐに行って二番目の鳥居をくぐったところの左側に手水舎があります。
 ここで手や口を清めました。
 さあ、いよいよ本宮の拝殿を目指します。


◆◆◆◆ 5.三の鳥居を通って本宮に参拝し西楽所まで ◆◆◆◆


◇◇◇ 5−1 三の鳥居(IMG_0235/atj21)◇◇◇



 手水舎で清めて正面を望みますと、三番目の鳥居が見えます。
 それがこの写真です。
 人々の往来が増えました。


◇◇◇ 5−2 御造営の告知(IMG_0236/atj22)◇◇◇



 平成19年秋から平成21年にかけて、本宮その他の修復作業が始まるのだそうで、その広報のための掲示が、上の鳥居のあたりの道の右手にありました。
 総経費は35億円で、うち15億円を寄進でまかなう計画らしいです。


◇◇◇ 5−3 鳥居用材(IMG_0239/atj23)◇◇◇



 似た箇所の左手に、このような巨大な木材の断面が飾られていました。
 直径は130センチもあります。
 これは、樹齢300年の檜の根元で、今回の造営時に御垣内鳥居(中重鳥居)の笠木に使用される御用材の一部だそうです。
 現在、このような御用材が次々に運びこまれているそうです。
 伊勢神宮の式年遷宮の少し前に修復作業がなされるのですね。


◇◇◇ 5−4 本宮拝殿1〈1〉(IMG_0244/atj24)◇◇◇



 ついに本宮の拝殿(拝所)が見えてきました。
 参拝客もけっこう多いのですが、なんとか静謐な感じの拝殿前を撮ることができました。
 この本宮全体は、明治26年に尾張造から神明造に改築されたのだそうです。また戦災にあったため、昭和30年に伊勢神宮のご協力などもあって、大規模な造営がなされて、今日の姿になったそうです。


◇◇◇ 5−5 本宮拝殿2〈1〉(IMG_0248/atj25)◇◇◇



 もう少し近づいて拝撮。


◇◇◇ 5−6 本宮拝殿の右側(IMG_0250/atj26)◇◇◇



 本宮拝殿の右側です。別の社殿も見えます。


◇◇◇ 5−7 本宮拝殿の左側(IMG_0251/atj27)◇◇◇



 本宮拝殿の左側です。御垣内がいかに広壮かがわかります。


◇◇◇ 5−8 本宮御垣内の遠望〈1〉(IMG_0256/atj28)◇◇◇



 本宮拝殿に至りまして、一家四人で参拝しました。
 家で拝むときは「宝くじが当たりますように」とか祈ることもありますが、ここではさすがにそういう思いはありませんで、イラン・イラク・アフガンや近隣国などに比べまして、日本には英雄〈日本武尊〉がおられたからこそ、古代から統一された立派な国として栄えたのだと、感謝の気持ちで祈りました。

 この写真は、本宮拝所の左側から御垣内を拝撮したものでして、右手前から中重鳥居、内玉垣御門、瑞垣御門、本殿と連なりますが、写真にはっきりと見えているのは中重鳥居と内玉垣御門です。その後方にわずかに見えているのが瑞垣御門で、その向こうが御本殿だと思います。

 主祭神は〈熱田大神〉で、ご神体の「草薙剣」を依りましとする〈天照大神〉です。
 また相殿の御祭神は、
〈天照大神〉
〈素戔嗚尊〉
〈日本武尊〉
〈宮簀媛命〉
〈建稲穂命〉
 ――の五柱の神だそうです。
 いずれも尾張名古屋の地に関係の深い神様です。


◇◇◇ 5−9 祈祷殿〈10〉(IMG_0259/atj29)◇◇◇



 拝所の左を直角に折れたところに祈祷殿があります。拝所前で左を向くと正面に見えます。これも豪壮な建物です。
 熱田神宮の名物の一つの車のお祓いはここでなされます。


◇◇◇ 5−10 授与所1〈9〉(IMG_0261/atj30)◇◇◇



 拝所の右を直角に折れたところに授与所があります。


◇◇◇ 5−11 授与所2〈9〉(IMG_0390/atj31)◇◇◇



 ここで、御神札を頂きました。


◇◇◇ 5−12 授与所3〈9〉(IMG_0394/atj32)◇◇◇



 また、お伊勢さんで頂いた朱印帳に御朱印を頂きました。
 で、御垣内での参拝をお願いしたのですが、これから儀式が始まるので、30分は待たねばならない――と分かりまして、帰りの時間が心配になり、残念ながら諦めました。


◇◇◇ 5−13 斎館・勅使館〈11〉(IMG_0266/atj33)◇◇◇



 授与所の横を東に向かいますと、真正面に大きな建物があります。
 斎館・勅使館ですが、現在工事中で、覆われ養生されておりました。


◇◇◇ 5−14 神楽殿〈8〉(IMG_0269/atj34)◇◇◇



 斎館・勅使館の前で左(北方向)を見ますと、神楽殿があります。
 祈祷やお神楽はここでなされます。
 とても時間が無いので、諦めました。


◇◇◇ 5−15 龍神社〈7〉(IMG_0272/atj35)◇◇◇



 神楽殿の右横を抜けて細い道を北へ向かいますと、道の右手に摂社の龍神社があります。
 吉備武彦命、大友武田命が祀られています。

 ここを拝んでから、その手前にあるトイレを借用しました。小さなトイレですが清潔でした。
 写真3−2で分かりますように、熱田さんの境内には合計五つの外のトイレがありまして、参拝客が困らないように配慮されています。
 このほか、多くの施設の中にも、もちろんあります。
 ただし、休憩所のそばのような多くの人が利用するトイレは、清潔さに欠けるとかトイレットペイパーが無くなっているとか、万全ではありません。
 私は、浮浪者のせいではないか――と思っています。


◇◇◇ 5−16 御田神社〈6〉(IMG_0275/atj36)◇◇◇



 そこからさらに北に向かいますと、やはり道の右手に御田神社(みたじんじゃ)があります。
 比較的新しく修築されたように見えます。
 ここは最初から参拝を計画していた御社でした。

 この神社は、五穀豊穰の守護神である「大年神(おおとしのかみ)」をお祀りしているそうです。
 格式の高い式内社(平安時代の延喜式に記されている神社)です。
 この社の祈年・新嘗の両祭に奉る神饌はまず烏に食べさせる信仰が残っており、祭員がホーホーと烏を呼びながら、御供(ごく)を土用殿の屋根の上に投げ上げるそうです(烏喰の儀)。昔は烏が飛んできてそれを食べなければ、祭典が行われなかったのだそうです。
 毎年6月8日には御田植祭(おたうえさい)が行われるそうです。

 上の説明にあります土用殿とは、昔「草薙剣」を奉安していた御殿です。
 昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和46年に古式に従って復元され、現御本殿の東側、神楽殿の北にあります。
 昔も、旧本殿の東に並んでいたそうです。
 写真は熱田神宮のサイトでご覧ください。

 この先にも水を司る清水社があって人気があるそうですが、時間が無い(と思っていた)ので、断念して引き返しました。


◇◇◇ 5−17 西楽所〈13〉(IMG_0278/atj37)◇◇◇



 ここからは戻りですので、写真3−2を反対に見て、北から南へ向かうとしてお読みください。右左は、南を上にした地図で言いますと来た道と逆になってしまいますので、なるべく東西で言います。
 引き返して神楽殿をすぎた道の西側(正参道の側)に西楽所(にしがくしょ)という古い建物があります。
 もともとは海上門という門内に東西楽所が相対していたそうですが、海上門も東楽所も戦災で焼失してしまい、この西楽所だけが焼け残ったのだそうです。
 現在のものは、将軍綱吉が再建した江戸時代の建造物です。
 5月1日の舞楽神事ではここで楽が奏され、5月8日の豊年祭には畠所・田所の模型が奉飾されるそうです。


◆◆◆◆ 6.大幸田神社から西門に寄って宝物館まで ◆◆◆◆


◇◇◇ 6−1 大幸田神社〈15〉(IMG_0283/atj38)◇◇◇



 ここからは旧参道に入ります。
 写真3−2を北を上にして正規の向きで見たとき、中央一直線の正参道のすぐ右に、狭い道がもやもやと続いているのが分かります。
 これが旧参道の名残の道です。

 この旧参道を正門方向に戻りはじめた最初の東側にあるのが大幸田神社(おおさきだじんじゃ)です。
 五穀をはじめ食物を司る「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」をお祀りする末社だそうです。別名「大福田」というそうです。1月7日に世様神事(よだめししんじ)、1月11日に踏歌神事(とうかしんじ)が執り行われます。


◇◇◇ 6−2 六末社〈16〉(IMG_0286/atj39)◇◇◇



 大幸田神社に隣接して、六つの社殿が並ぶ六末社があります。
 こういう六のついた摂末社は全国に多数あります。


◇◇◇ 6−3 信長塀〈14〉(IMG_0287/atj40)◇◇◇



 ここでいったん旧参道を離れ、正参道の西側まで行きますと、そこに長い頑丈な塀が見えます。
 これが有名な信長塀です。

 永禄三年(1560)織田信長が桶狭間出陣にあたり、熱田神宮に必勝祈願をし、その結果大勝したので、そのお礼として奉納した築地塀(ついじべい)が残されているものです。
 土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、兵庫西宮神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つとして有名だそうです。
 凄い物が残っていますね。


◇◇◇ 6−4 大楠〈20〉(IMG_0293/atj41)◇◇◇



 信長塀から南へ少し下がった正参道の西側に、弘法大師お手植えという伝承のある大きな楠があります。
 熱田さんの境内には、名古屋市で一番、三番、四番めの大楠があるそうです。
 これは四番目の楠ですが、著名度では最大だそうです。
 樹齢は推定千年です。


◇◇◇ 6−5 西門方向(IMG_0302/atj42)◇◇◇



 正参道を少し戻って二番目の鳥居を出た西側に、西門に至る西参道があります。
 これは西門方向を正参道から撮った写真です。


◇◇◇ 6−6 参道から見た西門の鳥居(IMG_0305/atj43)◇◇◇



 出口に近い西参道から見た鳥居です。
 鳥居の外を横に走っているのが国道19号線です。


◇◇◇ 6−7 表から見た西門の鳥居(IMG_0308/atj44)◇◇◇



 外からの西門鳥居の写真です。
 どの鳥居も豪壮ですね。

 ところで、わざわざ西門をこうして撮りましたのは、戦中まではここに鎮皇門という国宝建造物があり、それが「草薙剣」盗難事件と関係が深いからです。
 そのことは、このあと第7章で詳しく記します。


◇◇◇ 6−8 菅原社〈22〉(IMG_0311/atj45)◇◇◇



 西門鳥居のすぐ北側に、菅原社がありますので、写真に撮りました。
 有名な学問の神様です。


◇◇◇ 6−9 南神池〈27〉(IMG_0348/atj46)◇◇◇



 西参道の中間地点の南側に、二軒ほどの休憩所(レストラン)があり、南神池という綺麗な池があります。


◇◇◇ 6−10 宝物館・文化殿〈25〉(IMG_0312/atj47)◇◇◇



 西参道から正参道に出た所(正参道の東側)に、宝物館・文化殿があります。
 今回は時間がなくて拝観しませんでしたが、前回の参拝時には、早朝開くのを待ちまして、ゆっくりと拝観いたしました。
 入ったところに、ものすごく長い日本刀がありました。奉納された祭祀用の刀なのでしょう。
(この前回の時は朝かなり早かったのですが、東門〜西門の間を通勤のサラリーマンが多数通っていました。はっきりはしませんが、JRや地下鉄の駅に出る近道なのではないかと思います。写真3−2で分かりますように、このような通路を通りますと、拝殿の前をよぎることになりますが、見ていますと、拝殿に向かってお辞儀する人は一人もおりませんでした。なんだか複雑な気持ちになりました。そういえば明治神宮の参道も靖国神社の参道も通路にしている人がいますね)


◆◆◆◆ 7.「草薙剣」盗難事件と清雪門 ◆◆◆◆


◇◇◇ 7−1 清雪門1〈31〉(IMG_0319/atj48)◇◇◇



 宝物館を過ぎ、東参道を横切ってから、再び旧参道に入り、南へ少し行くと、道の西側にこのような古い門があります。
 これが有名な開かずの門とされる清雪門です。
 もともとは本殿の北側の門だったそうですが、保存のために、中世のころにここに移築されたそうです。
 両袖は信長が寄贈した築地塀です。


◇◇◇ 7−2 清雪門2〈31〉(IMG_0320/atj49)◇◇◇



 真正面から撮りました。


◇◇◇ 7−3 清雪門3〈31〉(IMG_0322/atj50)◇◇◇



 左側から撮りました。

 さて、この門のいわれにつきまして、少々長くなりますが、以下に記します。


◇◇◇ 7−4 「三種の神器」に手を伸ばした新羅の工作員? ◇◇◇

 現韓国の祖とされる新羅は、推定四世紀の神功皇后・應神天皇の時代から九世紀まで、厄介な隣国として歴代天皇を悩ませてきました。
 白村江の戦いで新羅が勝利して百済が滅びた天智天皇の御代(七世紀後半)に、その新羅の工作員ではないかと想像される僧が、きわめて重大な事件を起こしました。
 我が国至高の神宝「三種の神器」が盗まれた事件です。
 盗まれたのは熱田神宮の「草薙剣」でした!


◇◇◇ 7−5 「草薙剣」盗難事件の文献 ◇◇◇

 新羅の工作員?がこの熱田神宮からご神体の「草薙剣」を盗み出した事件は『日本書紀』の天智天皇の巻に記されており、『古語拾遺』にもありますから、史実であることは確かなのですが、さらに詳しくは『熱田宮寛平縁起』に記されています。

『古語拾遺』は朝廷の主流派に不満をもつ人たち(斎部広成ら)によって書かれたとされますが、大同二年(807)という、『日本書紀』とさほど違わない古さがあり、かつ『記紀』には無い伝承も記されていて貴重な史書です。

『熱田宮寛平縁起』は寛平二年(890)に成ったと記されていますが、実際には鎌倉時代初期(1200ごろ)の作と推定されています。
 ですからこれは実際の事件から五百年のちの書ですが、元になっているのは『尾張国風土記』(今では逸文しか残っていない)らしいので、『記紀』に負けないほど古い伝承が記録されていると考えられます。
 またこの書は一般には『尾張国熱田太神宮縁起』と呼ばれています。
 この『縁起』そのものは私は読んだことがないのですが、熱田神宮に残る伝承や神事とともに、元熱田神宮宮司の篠田康雄氏が『熱田神宮(学生社)』に解説を書いておられますので、それを元にし、さらに『神道大辞典』なども参考にして、以下に記してみます。


◇◇◇ 7−6 『日本書紀』と『古語拾遺』にある記録 ◇◇◇

『日本書紀』の記述――
 巻第二十七天智天皇七年に次ぎのようにあります。

「是歳、沙門道行盗草薙剣、逃向新羅。而中路風雨、芒迷而帰。」
(意訳:この年(天智天皇七年/西暦668年)に、道行という僧侶が、「草薙剣」を盗んで、新羅へ逃げようとした。しかし途中で風雨が激しくなり、道に迷って果たせなかった)

『古語拾遺』の記述――
 終わりに近い部分に次ぎのようにあります。

「況復、草薙神剱者、尤是天璽。自日本武尊ト旋之年、留在尾張熱田社。外賊偸逃、不能出境。神物霊験、以此可観。」
(意訳:いわんや、「草薙剣」は皇位の証拠となる神宝であって、まことに重要である。日本武尊が凱旋なさったとき、尾張国造家に奉斎されており、それが熱田神宮になった。外国(?)の賊がこれを盗んで逃げたことがあったが、国境を出ることはできなかった。「草薙剣」が霊剣であることはこれによっても分かる)


◇◇◇ 7−7 『熱田宮寛平縁起』にある記録 ◇◇◇

『熱田宮寛平縁起』の記述――
 これが一番詳しいのですが、その一部に次のようにあります。

「新羅沙門道行、盗此神剣将移本国、窃祈入于神祠取剣?(裹)袈裟逃去伊勢国・・・」
(意訳:新羅の僧道行が、「草薙剣」を盗んで自国に帰ろうと図り、社殿に潜入して神剣を盗り、袈裟に包んで伊勢の国へと逃げた・・・)

 この続きを、篠田康雄元宮司の解説からアレンジしつつ引用します。

(・・・ところが一夜のうちに神剣は袈裟から抜けて本殿に戻ってきた。ふたたび盗むと今度は摂津の国へ逃げ、難波の津(現大阪湾のあたり)からとも綱を解いて新羅の国へ帰ろうとした。ところが嵐で船が進まず、難波の津に戻ってしまった。
 そのとき、次の神託があった。
「われはこれ熱田の剣神である。しかし妖僧にあざむかれて新羅に着こうとした。はじめは七条の袈裟に包まれたが、抜け出て社に戻った。しかし後に九条の袈裟に包まれたので、とうとう抜け出ることができなかった」
 これを聞いた人々は驚いて探し求めた。
 追われた道行は剣を捨てたら捕らえられないだろうと考えたが、剣は身体に張り付いて離れず、ついに自首した・・・)

 中に超常的な話がありますが、これは「神剣」の霊性を強調するための修辞の一種で、おおまかには史実を反映していると思います。
 捕らえられた道行ですが、『神道大辞典』では死刑になったとされています。


◇◇◇ 7−8 史実の推理 ◇◇◇

 以上の物語が史実の反映であることは、熱田神宮に様々な――そしてかなり深刻な――伝承や神事が残っていることから確かだと感じられます。
 この事件のとき、賊が逃げた門は、昔の本宮の北門だった清雪門とされ、不吉だというのでずっと閉ざされ、開かずの門と言われてきました。
 それを保存するために中世のころに移築したのが、本章の冒頭の三葉の写真に映っている門です。

 このような伝承からも史実性がうかがわれるのですが、問題もあります。
 それは、『日本書紀』には「新羅に逃げようとした」とあり、『古語拾遺』には「外賊」「不能出境」とあるものの、「賊は新羅の人間だった」とは書かれていないことです。
『熱田宮寛平縁起』にはそれが書かれていますが、この資料は古い『尾張国風土記』を参考にしているとはいえ書かれたのは鎌倉時代初期ですから、『日本書紀』からそう判断したとも考えられるのです。

 そういうわけで、盗賊道行についてはいろんな説があるのですが、事件の起こった天智天皇七年とは、白村江の戦いで日本が唐新羅連合軍と激闘して敗れた直後であり、そんな非常時に日本の僧が「草薙剣」を持って新羅に渡っても、たちまち捕まって「神剣」は奪われ本人は殺されてしまうと思います。
 そもそも純日本人が戦争相手国の新羅に逃げようと考えるでしょうか?
 ですから、新羅の工作員、または新羅に洗脳された日本の僧だったと考えるのが自然だと思います。
(今でも近隣国の工作員やら洗脳された日本人やら、たくさんおります)

 後に書かれた書には穿った話もいろいろとあるようですが、なにしろ正史には数行しかない事件ですから、詮索し過ぎるのも考えものだと思います。
 新羅と激しい戦争および外交抗争を繰り広げていた時代背景のもとに起こりうる常識的ないくつかのケースの一つだろうとするのが妥当だと思いますし、その史実性は熱田さんのお祭りから考えるべきだと思います。
(日本の有力者が新羅にそそのかされて朝廷に背く事件としては磐井の乱が有名です)


◇◇◇ 7−9 壬申の乱と「草薙剣」の還座 ◇◇◇

 あとで分かりますが、朝廷ではこの事件を重く見て、「草薙剣」を皇宮に奉斎することにしました。
 つまり熱田神宮では創建以来の御神体が失われてしまったのです。
 尾張一族としては必死で奉還を懇願したと思いますが、それから三年して天智天皇が崩御されますと、尾張一族の立場を高めた壬申の乱がおこります。
 壬申の乱では尾張一族は天武天皇の側につき、何万という大軍(一説では十万も!)を動員しました。
 その結果天武天皇は勝利しましたから、尾張は面目をほどこし、朝廷での発言力が極めて強くなりました。
 それからしばらくして、「草薙剣」の熱田神宮への還座が許されます。

『日本書紀』の記述――
 巻第二十九天武天皇朱雀元年六月に次のようにあります。
「戊寅、卜天皇病、祟草薙剣。即日、送置于尾張国熱田社。」
(意訳:朱雀元年(686年)六月十日に、天皇のご病気を占ったところ、「草薙剣」の祟であることが分かった。そこですぐその日に、尾張の熱田神宮に還座し、安置した)

 壬申の乱において大きな貢献をなした尾張の願いは無視できなかったでしょうし、また争乱の後の朝廷が安定を保つためには、尾張一族の協力は欠かせなかったでしょう。
 そこで、紛争が一段落したころに、還座を実現させたのだと思います。
 この少しあとで天皇は崩御されていますから、卜占は史実ではありましょうが、他の豪族たちを納得させるための理由付けでもあったと考えます。

 これ以後、古代から尾張と距離を保っていた朝廷も熱田神宮を重視するようになり、尾張による熱田神宮祭祀を公式に認め、勅命による「草薙剣」奉斎の基礎ができたそうです。
 なおこのとき、神宮の守人として七員を置き、一人を長とし六人を別とし、祭祀に専任することが決まったそうです。
(同時に警備も厳重になったと思われます)

「草薙剣」の危機はその後も、社殿の火事、江戸時代の盗難事件、戦災、米軍の進駐など、何度もあったそうですが、省略いたします。
(この件については、拙著『皇統の危機に思う』をご参照ください。三種の神器全体についてのさまざまな危機の物語を詳しく記してあります)


◇◇◇ 7−10 「酔笑人神事」(IMG_0431/atj51)◇◇◇



 当時の熱田神宮の人たちは、「草薙剣」の還座がよほど嬉しかったらしく、このことを喜ぶ二つの神事が今につづいています。
「酔笑人神事」と「神輿渡御神事」です。

 この写真は、「酔笑人神事」です。
 熱田神宮のサイトの写真を拝借しました。
「酔笑人神事」は、「草薙剣」の還座が近づいたことを歓喜する祭りで、祭員一同が「オッホオッホ」という笑い声を出して清雪門などを巡るそうです。

 同サイトの解説を引用いたします。

◎酔笑人神事(えようどしんじ)5月4日午後7時
 天智天皇の御代、故あって神剣は一時皇居に留まられましたが、天武天皇朱鳥元年(686)勅命により当神宮に還座(かんざ)されました。この時社中挙って喜んださまを今日に伝えるものです。
 この神事では祝詞・神饌がなく、境内の灯りは全て消されます。古来より見てはならないと語り伝える神面を神職各自が装束の袖に隠し持ち、中啓で神面を軽く叩いた後、全員が一斉に高笑いをする神秘的な神事で、天下の奇祭と伝えられています。


◇◇◇ 7−11 「神輿渡御神事」1(IMG_0432/atj52)◇◇◇



 また「神輿渡御神事」は、空襲で焼けてしまった鎮皇門という門に御輿を安置して西方の皇宮を鎮める祭りで、大変きらびやかだそうです。
 還座を感謝し朝廷の安穏を祈る気持ちが込められて、こういう門を、現在の西門の鳥居の所に造営したのです。
(先に西門の鳥居をとくに丁寧に撮影掲載したのはこのためです)

 この門そのものは空襲で焼けましたが、祭りは昔のままになされています。
 この写真はやはり熱田神宮のサイトから拝借しましたが、お祭りの様子です。
 同サイトの解説を引用しておきます。

◎神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)5月5日午前10時
 天智天皇朱鳥元年(686)の神剣還座の故事による神事で都より還座の際「都を離れ熱田に幸すれど、永く皇居を鎮め守らん」との神託(しんたく)にもとづくもので「神約祭(しんやくさい)」とも称されます。
 当日は、雅やかな装束を着けた約100名の奉仕者が御神宝を捧持し、神輿を中心に行列を整え、本宮から正参道を経て鎮皇門跡(ちんこうもんあと・現在の西門)に神幸され、皇居鎮護(こうきょちんご)の祭典が執り行われます。


◇◇◇ 7−12 「神輿渡御神事」2(IMG_0433/atj53)◇◇◇



 これも熱田神宮のサイトから拝借したものですが、昔の鎮皇門における祭りの様子です。
 じつに大きな立派な門だったことがわかります。
 皇室への感謝の気持ちが伝わってきます。


◇◇◇ 7−13 不安になる現在の神社の警備 ◇◇◇

 国が乱れたとき、神社も被害を受けます。
 たとえば戦国時代は、信長の部下などによって多くの有名神社の神宝が奪われたと言われていますし、検地などで経済基盤も失われたようです。
(正倉院の御物もこの時代にずいぶん減ってしまったそうですね)

 明治以後は国の支援があり人々も伝統を護って――空襲以外は――安心できましたが、戦後はそうはいきません。
 GHQの指令によって、広かった境内は大幅に減り、有志の方々の尽力でかろうじて保たれているのが現状です。
 さらに不穏な動きもあります。
 伊勢神宮に火炎瓶が投げ込まれたりしたのは一例にすぎません。
 最近では外国人による神社乗っ取り事件も起こっているようです。
 放火もあります。

 ある有名神社に参拝したとき、その無警戒ぶりが心配になったので社務所にお聞きしたところ、「酔っぱらいが悪戯して困るのだが人手不足でどうしようもありません」というご返事でした。
 反日的な外国人が大勢滞在している昨今です。
 心配でなりません。

 幸い熱田神宮では、終戦時に「草薙剣」を疎開した以後は、大きな災厄はないようですし、今回の参拝時にも、多くの警備員が巡回していました。
 でも、油断は禁物です。
 靖国神社への参拝に外国政府が文句を言うような荒れた国際社会です。
 特に歴史の古い神社は、十二分に警戒してほしいと思います。


◆◆◆◆ 8.清雪門を過ぎてから正門に戻るまで ◆◆◆◆


◇◇◇ 8−1 南新宮社〈33〉(IMG_0324/atj54)◇◇◇



 清雪門と「草薙剣」盗難事件の話が長くなって恐縮でした。
 さて、清雪門を過ぎて旧参道を南へ行きますと、道の東側を少し入ったところに南新宮社があります。
 古式ゆかしい神社の多い熱田神宮境内では、唯一めずらしい朱塗りのお社です。
 ここは、疫病退散の祇園祭りで知られる京都の八坂神社と同じ〈素戔嗚尊〉を御祭神とする摂社です。
 6月5日に南新宮社祭がなされるそうです。

 じつは旧参道のこのあたりには、大勢の小学生が道や社殿の前などあちこちに机を並べて勉強していて、通るにも一苦労という有様でした。
 総勢で数百人はいたでしょうか。
 これは、熱田神宮の肝いりで何十年も前からなされている、夏休みの林間学校のようでした。
 見ると、熱心に作文を書いたりしております。
 偉いなあ・・・。


◇◇◇ 8−2 孫若御子神社〈36〉(IMG_0327/atj55)◇◇◇



 さらに少し南に行ったところに、摂社の孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)があります。
 昔から有名な境内摂社で、天火明命(あまのほあかりのみこと)が祀られています。
〈天照大神〉の孫にあたり、別名〈饒速日命〉(にぎはやひのみこと)で、尾張一族の遠い先祖です。
 格式の高い式内社です。


◇◇◇ 8−3 日割御子神社〈37〉(IMG_0330/atj56)◇◇◇



 さらに南に行きますと、日割御子神社(ひさきみこじんじゃ)があります。
 天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)などの神様が祀られている境内摂社で、やはり格式の高い式内社です。
 天忍穂耳命は〈天照大神〉の御子で、天孫降臨の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)や先の〈饒速日命〉の父親に当たります。


◇◇◇ 8−4 参道側からの正門鳥居(IMG_0343/atj57)◇◇◇



 正門の鳥居を出るところです。


◇◇◇ 8−5 別宮と上知我麻神社への鳥居(IMG_0333/atj58)◇◇◇



 正門の鳥居を出たところの西側に、もう一つの立派な鳥居があり、その向こうに境内が広がっています。
 これが、別宮と上知我麻神社への鳥居です。


◇◇◇ 8−6 上知我麻神社〈34〉(IMG_0336/atj59)◇◇◇



 上の鳥居をくぐった正面に、写真のような大きく立派な拝殿が見えます。
 境内摂社、式内社の上知我麻神社です。
 尾張一族の祖で、〈日本武尊〉を助けた尾張国造(くにのみやつこ)の乎止與命(おとよのみこと)をお祀りした神社です。

 熱田神宮のサイトにある説明を引用いたします。

◎上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)
 本宮相殿(あいどの)に祀る宮簀媛命(みやすひめのみこと)の父君である尾張国造「乎止與命(おとよのみこと)」をお祀りしています。
 この社の脇に、大国主社(おおくにぬししゃ・大黒様)事代主社(ことしろぬししゃ・恵比寿様)をお祀りしていることから、広く「えびすさま」とも呼ばれています。
 又、当社のことを俗に「知恵の文殊(もんじゅ)さま」ともいいならわし、古くから知恵の神様として崇敬する人が多く、受験シーズンには若者で境内は賑わいます。
 尚、当宮の数多くある特殊信仰の内、当社の「名氏子(なうじこ)」は特に信仰が篤く珍しいものです。これは、新生児の名前をつける際に、神託により名前の1字を神様から戴くというもので、命名(めいめい)祈祷として毎日奉仕しています。その文字を元に名付けをされたお子様は、名氏子として氏名が永久保存され、毎年11月15日、無事成育を感謝する名氏子祭が執り行われます。

(なおおなじく摂社・式内社の下知我麻神社は本宮の北西にあり、乎止與命のお妃である眞敷刀媛命が祀られています。なお乎止與命は〈天照大神〉の御子から数えて13代目にあたり、〈饒速日命〉の御子から数えて11代目にあたります)


◇◇◇ 8−7 別宮〈2〉(IMG_0339/atj60)◇◇◇



 上知我麻神社の拝殿から右(北)を向いたところに、古式ゆかしい拝殿があります。
 これが別宮です。

 正一位式内社で、八剣宮ともいいます。
 第43代の元明天皇の和銅元年(708)に勅命によってお社を建て、新造宝剣を奉じたとされています。
 元明天皇は天智天皇の皇女で、有名な女性天皇です。
 重い社格で、祭祀は本宮と異なりません。

 熱田神宮サイトの解説を引用いたします。

◎別宮・八剣宮(べっくう・はっけんぐう)
 元明天皇和銅元年(708)9月9日に勅命により神剣をつくり、境内に社を建てて、これをお納め祀ったことが御鎮座の創始であります。
 建築様式をはじめ、年間の祭典・神事に到るまで全て本宮に準じて執り行われます。古来より武家の信仰が殊に篤く、天正3年織田信長は長篠に出兵の際社殿の修造を命じ、又慶長4年家康は拝殿・回廊・築地の修造を、貞享3年将軍綱吉は本殿の造替を行った等の記録が残っています。
 本宮の参拝を終えられたら、少し足を伸ばして是非参拝されることをお勧めします。


◇◇◇ 8−8 白鳥御陵(IMG_0405/atj61)◇◇◇



 これで平成19年8月8日の熱田神宮参拝記は終わりですが、前回の参拝時に拝んだ白鳥御陵の写真を複写しておきました。
 場所は、写真3−1の左側の赤丸です。
 熱田神宮から西へ数百メートルの住宅地の中にあります。

 本稿の主人公である〈日本武尊〉は、三重県の能褒野(のぼの)というところ(亀山市のあたり)で身体が弱って御年三十歳で崩御されますが、その御陵はいくつもあります。
 最初、父君の景行天皇が能褒野に御陵を造営されますが、〈日本武尊〉は白鳥となって故郷の大和へ飛び、琴弾原(御所市)に留まったので、そこに御陵を造りましたが、白鳥はまた飛んで、河内の古市邑(羽曳野市)に舞い降りたので、またそこに御陵を造営しました。
 しかし景行天皇四十三年に、そこからも白鳥が舞い上がり、天に向かって消えました。
 その白鳥は、最終的には熱田神宮のそばに舞い降りて落ちついたので、そこに御陵を造営したのが、この白鳥御陵だと言われています。
 考古学的なことは別としまして、立派な前方後円墳です。
(結局四つもの御陵があるわけですが、史跡としての重要性は、前三者だそうです。おそらくは熱田の白鳥御陵は、顕彰の意味で造られたのでしょう。ちなみに、このあたり一帯は白鳥という地名で、いろいろな施設があります)


◇◇◇ 8−9 名古屋城(IMG_0364/atj62)◇◇◇



 おまけとして、名古屋城の写真を出しておきます。
 帰りは、この名古屋城の近くでひつまぶしを食べて、娘と孫は水族館に行き、我々老夫婦はそのまま新幹線で帰りました。
(うなぎは悪いコレステロールが溜まりそうなので、半分残しました)


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