■□■□■ 赤穂義士の討ち入りと法について(解法者)■□■□■

 毎年年末には赤穂義士のテレビドラマがつくられ話題になりますが、この事件の法的な解釈については、いろいろな意見があります。
 解法者さまは「帝國電網」でこの問題を、
「喧嘩両成敗法」
「私的復讐法」
「切腹法」
 という三つの観点から解説し論じておられます。
 とても勉強になりますので、お許しを得てここにそれを保存いたします。
(オロモルフ)


■■■ 喧嘩両成敗法 ■■■

 「喧嘩両成敗法」とは、闘論の理非を問わず喧嘩の当事者を同等に処分するというものをいう。その起源は、室町時代の応永22年(1441年―足利義教の時代)の五島某浦住人等一揆契状の「喧嘩・闘諍が出来た場合は両方二人を失い申す」とされる。文安2年(1445年―足利義勝の時代)の藤原伊勢守の高札にも「喧嘩・口論硬く禁ずる。これに違背した者は理の如何を問わず双方とも斬罪と成す」とある。
 これは何も武士だけに限られたものではなく、一般庶民にまで適用された。広く全国で制定されていることから、法として確立していたと考えられている。
 私的な実力行使を禁じる法制は律令時代から認められていた。西洋のように決闘ということは認められていなかった。これは西洋では「喧嘩・闘諍は当事者間において決着すべきである」という法慣習・意識があったのに対し、日本では「喧嘩・闘諍は国家・社会が統制する」という法慣習・意識が存立していたことによる。
 そこで、喧嘩・闘諍から始まる私的な実力行使をどう評価・統制するかという問題が生じる。
 そもそも、喧嘩・口論の処断に当たっては、その理非を判断し、非とされる者のみを処断すれば済むはずである。「喧嘩両成敗」はこれに反することになる。
 しかし、この法制が確立していった。これ理由についは争いがある。1つは、権力が脆弱であるため、その理非の判断を避けたとするもの、2つは、理非の判断そのものが難しく、それを避けたとするものである。3つは、喧嘩の双方を処断することによって刑の均衡を図ろうとした。つまりその理非の判断を放棄したとするもの、などがある。

 いずれにせよ、「喧嘩両成敗法」は、戦国時代も受け継がれた(「信玄家法」)。しかし、これが江戸時代(江戸幕府)にも適用されたかについては、明文法そのものはなかったが確立していたと考えるのが正しい。慶長12年(1607年)に駿府城改修の折の島津藩士の姫路藩士への刃傷事件についても、幕府は喧嘩の相手方の姫路藩士にも、「喧嘩両成敗は天下の御法」であるとして切腹を命じている。
 浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件(「松の廊下事件」)での幕府の処断(吉良上野介を処断しないこと)は「喧嘩両成敗法」からみて特異な例だったといえる。
 なお、これが喧嘩ではないという論は通らない。「喧嘩両成敗法」では相争えば<身に覚えがなく>とも喧嘩と看做されていた。つまり<理非を問わず>ということだったのである。
 また浅野内匠頭が<乱心>だったかについても、そもそも刃傷事件に及ぶことは乱心そのものであって、喧嘩の相手方を正当化する理由とはならなかったし、加害者を免罪する理由ともならなかった。

 吉良上野介は処分されなかった。その理由は明らかではなく諸説あるが、吉良上野介が儀式典礼の指南役という重職にあったということと、浅野内匠頭を命じた権力者柳沢吉保との関係が深かったということにあったと考える。
 なお、吉良上野介後、当主義周は信州高島藩に身柄預かりとなり、吉良家は断絶した。喧嘩両成敗が実現したともいえよう。
 世論(武士、町民など)は圧倒的に「喧嘩両成敗」を主張し、吉良上野介への幕府の処分は非難の的となった。幕府もそれに押されて以後は「喧嘩両成敗法」の適用を厳格にした。

 ※ 参考資料
  『江戸時代とはなにか』尾藤正英 岩波書店 1992年
  『法社会史』新田一郎 山川出版社 2001年
  『切腹』山本博文 光文社新書 2003年


■■■ 私的復讐法 ■■■

 復讐(仇討)は、古来から行われ、国家・社会は関与しなかった。つまり、私刑主義が容認されていたのである。
 記録に残された復讐(仇討)第1号は、『日本書紀』、『古事記』にある第20代安康天皇が叔父の大日下王を殺し、その妃長田大郎女を皇后としたことから、大日下王の皇子目弱王(7歳)が安康天皇(56歳)の首を討ったというものである。目弱王が非難されずに『日本書紀』、『古事記』に載っていることは、その時代から仇討が容認されていたと考えられよう。第2号は、平将門に父を殺害された平貞盛が軍勢を率いて平将門を討った(天慶2年〔940年〕)というもので、平貞盛はその行為を賞賛され、従5位下に叙せられ、右馬助、鎮守府将軍に任ぜられた。その後も仇討は度々記録されており、賞賛こそされ、非難されることはなかった。

 復讐(仇討)は、江戸時代になっても続き、遠州掛川藩士であった三宅玄蕃(後に脱藩)に兄染川銀右衛門を殺された銀之助が仇討を果たした事件(寛永7年〔1630年〕)、備前岡山藩士河合又次郎に弟を殺害された渡辺数馬が仇討を果たした事件(寛永11年〔1634年〕―三大仇討の一つ)など赤穂浪士事件の前にも数多くある。
 これらの仇討にしても前者は藩主自らが仇討を命じ、後者は目下の者に対する仇討である。同様な例はたくさんある。
 これが国家・社会が関与したのは江戸時代の公事方御定書制定以後からであるとされる。公刑主義が導入されたのである。ただ、それまでと異なるのは、幕府が関与したことと復讐(仇討)の概念を明確にしたことである。公事方御定書(寛保2年〔1742年―徳川吉宗時代〕)の附録に「内緒にて仇を討つことは処罰する」とあり、領主の許可を得れば処罰を免れることになっていた。さらに実際の運用では、事前の許可を得ずに仇を討ってもその後の吟味で仇討と判明すれば処罰を免れた。これは武士町民を問わなかった。したがって、町民などにも刑の減免が認められていた(同上百箇条〔公事方御定書 下巻〕第72条、第74条)。これは戦国大名の分国法での仇討を整文化したものとされるが、見出すことができかった。慣習法を成文化したのではなかろうか。

 公事方御定書制定以前は、それまでの仇討法(仇討慣習法)が成立していたのであって、仇討には届出・許可が必要なかったのである。さらに、仇討の意義は広義に採らえられていた。例えば、妻が密通した場合に夫が密夫および妻を殺害するのも仇討と認められていたし、子・弟など目下の者を殺された場合も仇討が認められていた。
 このように仇討を規制したのは、それ以前の「浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件(「松の廊下事件」)」後の仇討に関する混乱を収めるためだったと考えられよう。
 公事方御定書では、仇討は目上の者を殺された場合に限って許されることになった。これは儒教の影響によるものである。
 浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件の時代は、先の公事方御定書の制定以前である。したがって、浅野内匠頭の家臣が吉良上野介への<仇討>は認められるかどうかなどと考えること自体誤りである。幕府自体が許可権など持っていなかった。つまり勝手に<仇討>が可能だったのである。
 >南條氏続けていわく「敵討ちの前提である公けの許可など貰えなかったのは当然であり」(南條範夫氏)<というが、彼は江戸時代の法制史の知識がない。
 同じく>赤穗浪士の討ち入りは「敵討ち」に値しません(黄東洋さん)<も誤り。彼らに対する処断の当否はともかく「敵討ち」には該当する。

 仇討は明治時代になっても絶えることはなかった。明治時代の最初の刑法典である「仮刑律」(明治元年)には「尊属。目上の者を殺害した者を殺害しても無処罰とされた」。
 明治4年に公布された「新律綱領」でも、事前に届出(許可は不要)した者、その場で復讐を遂げた者は無処罰とされ、届出をしなかった者は笞五十とされた。これが有罪とされたのは、明治6年(1873年)の「太政官布告」であった。そこでは復讐による殺害は「謀殺」と定義された。しかし、その後も仇討は明治37.8年ころまで続いていた。その刑は明治元年から明治37.8年ころまでの「仇討による殺害」の20件のうち、死刑(斬罪)は1件、無罪・免罪が6件、有期刑は6件、自死が1件、その他は不明である(『法社会史』新田一郎 山川出版社 2001年)。なかなか仇討を罰することが難しかったことがわかる。

 ※ 参考資料
  『江戸時代とはなにか』尾藤正英 岩波書店 1992年
  『法社会史』新田一郎 山川出版社 2001年
  『切腹』山本博文 光文社新書 2003年
  『日本法制史』瀧川政次郎 角川書店 1959年
  『日本仇討100選』稲垣史生 秋田書店 1946年
  『近世武家思想』石井紫郎 岩波書店 1974年
  『武田信玄』小和田哲男 講談社 1988年


■■■ 切腹法 ■■■

 切腹がいつから始まったかについて、記録から明らかなものは、藤原保輔(袴垂)だとされている。平安時代の大盗賊として有名であった袴垂は検非違使庁の追及を受けていたが、逃げられぬと知り腹をかっさばいて自死した。永延2年(988年)のことであった。『続古事談』(承久2年〔1219年〕)に記録があり、袴垂のことは『今昔物語』(承久3年〔1220年〕ころー正確な年代は不明)にも記述がある。ただ、この『続古事談』については記録としての価値に疑問を抱く者がおり、切腹の最初であるとすることに異議がある。そこで、最初の切腹は源為朝だとする者もいる。これは保元の乱で敗れて伊豆大島に流されてなお朝廷方の追捕を受け、腹を切って自死した(嘉応元年〔1156年〕)というもので、『保元物語』(延応元年〔1239年〕ころー正確な年代は不明)に記録がある。
 切腹は武士の自死手段として武士道が確立した鎌倉時代に整備されていったとされる。

 このように切腹は自死する手段としてのものであって刑罰ではなかった。日本最古の刑法集といえる『養老律令』(養老2年〔718年〕ー天平勝宝9年〔757年〕施行)は1部しか残っていないが、その後の研究で大部分が判明している)。これによると、刑罰のうち死罪は斬絞であり切腹はなかった。これは切腹が整備された鎌倉時代でも同じだった。主君が家来に死罪を行うには斬殺、抵抗する場合は、謀殺しかなかった。この頃の武士の主従関係はそう強固なものではなく、切腹などの自死をさせようとしてもおいそれと従う者はいなかった。さらに武士の主君の移動は自由で切腹をさせようとしても、主君の元を去って別な主君に仕えればよかった。つまりこの時代の武士には就職難などなかったのである。
 自死する手段としての切腹は、室町時代になって頻繁に行われたが、刑罰としては行なわれることはなかった。

 切腹が刑罰として行われた最初のものは、戦国時代の越後上杉謙信の時代からであるとされる。上杉謙信の臣下だった長尾右衛門佐は不都合を働いたかどで士籍を剥奪された(帯刀の禁止、所領の没収)。彼の親戚一同はこれを恥じて切腹を願い出て許されたという。越後上杉家の掟では、武士の刑罰は1に士籍剥奪、2に切腹だったのである。このように戦国時代になって切腹が刑罰の死罪として次第に定着していったが、成文法として制定されているものはこれ以外になく慣習法としても定着していたかについては疑問がある。
 羽柴秀吉によって水攻めにされた備中高松城主清水宗治の切腹は有名であるが、これは切腹と引き換えに家臣を救うという戦国時代の慣習によるもので、死罪というものではない。秀吉の養子であった秀次(秀吉の甥)の切腹は、秀吉の家臣であった尾藤知宣(讃岐城主)も秀吉によって手討(斬罪)にされている(『武辺咄聞書』)ことからみれば、例外であったと見るべきである。
 関が原の戦いで破れた石田三成、小西行長も切腹ではなく、斬罪されている。

 切腹が刑罰として始められたのは、江戸時代の初期からであろう。まず、切腹は喧嘩両成敗法の刑罰として行われた。慶長9年(1604年)旗本柘植正勝が喧嘩の相手である花井小源太を斬殺した件において家康が切腹を命じたのが最初である(『大日本史料』第12編の2)。切腹が一般的な犯罪の刑罰として行われたのは次の秀忠(第2代)の時代からである。美濃国代官栗原盛清が部下の年貢の横領に関する監督不行届きを理由に切腹を命じたのが最初である(元和7年〔1621年〕『大日本史料』第12編の38)。ただ、悪口を言ったり、袴を捲り上げただけで切腹が明示されており、秩序化が始まったとされているが、これは家光(第3代)のヒステリックな性癖によると考えた方がよいと思われる。しかし、これも例外で死罪は斬罪が一般的であった。さらに切腹は殉死という意味を有しており、江戸時代の始まりから寛文8年(1668年―第4代家綱の時代)までで205名にも達している。

 切腹として有名なのが、浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件(「松の廊下事件」―元禄14年〔1701年〕)、赤穂浪士の吉良上野介の仇討(翌年)である(第5代綱吉の時代)。
 ただ、この「切腹」も例外的なものであった。切腹を命じられた赤穂浪士の「富森 助右衛門」も預けられ先の熊本藩の堀内傳右衛門に「拙者はこの度のことで斬罪を命じられると思っておりましたが、皆様のお世話や世上の批判を聞き、切腹などの結構な御沙汰があるのではないかと期待するようになりました」と述べている(『堀内傳右衛門覚書』)。大石内蔵助も切腹に際し有り難き仕合せと述べている。このように彼らも「切腹」と「斬罪」との区別を認識していた。つまり、幕府の法・習慣は周知徹底されていたのである。
 したがって、>南條氏続けていわく赤穗浪士が切腹させられたのも「当然」であり、」(南條範夫氏)<、>赤穗浪士の吉良邸「討ち入り」は間違いなのです。浅野や大石が切腹させられたのは当時の法・習慣で妥当ですし、(黄東洋さん)<は、いずれも誤りである。<殺人>であるというなら、「斬罪」が妥当で、切腹などは許されるものではなく、そういう法・習慣などなかったのである。

 武士の死罪は「斬罪」が原則で、「切腹」は例外であったものを示す史料としては多くのものがあるが、ここでは加賀藩のものを挙げる。例えば、延宝2年(1677年)、江戸詰めの藩士柴田孫之丞が銀屋長右衛門という者を衆道(同性愛)のもつれから殺害した件では切腹ではなく、斬罪が言い渡され、父親のみ切腹が許されている(『五公譜略』)。また享保16年(1731年)、藩士毛利太兵衛が弟の助右衛門を殺害した件では、助右衛門にも行状が悪かった点があるとして、罪1等を減じて切腹としている(『凌新秘策』)。会津藩でも重罪は成敗(斬罪)で切腹は許されなかった(『会津藩家世実記』)。
 江戸時代でも身内に不心得者がでると親戚にも類が及んだので、本人はもちろん親戚一同も成敗(斬罪)ではなく切腹を願い出ることが多かった。藩主側も親戚一同に「扇子腹」といって本人に扇子を持たせて腹を切る真似をさせて首を落として切腹したということとし、親戚に類が及ぶことを防いだということ(方法)が江戸時代初期から広く流布していた(『大江戸残酷物語』氏家幹人 洋泉社 2002年)。また、親戚が本人を殺害(絞殺)し、腹に刀を突き立てて切腹(自死)させたように偽装することまで行われたようである(薩摩藩 文化5年〔1808年〕)「文化朋党崩れ」事件)。これらは切腹を自死の手段ではなく、親戚一同の成敗(斬罪)の手段として利用したもので、切腹の形骸化が広がっていたという証佐を示している。

 浅野内匠頭が斬罪ではなく切腹が許されたのは、大名であったからだと思われる。殿中を汚したのだからそれまでの法慣習からいって「斬罪」が妥当であったであろう。
 赤穂浪士らの討ち入り直後の幕府の彼らに対する処分方針について、老中阿部豊後守、土屋相模守、小笠原佐渡守、稲葉丹後守の評定が行われたが、そこでも「すべて夜盗の輩の致し方につき、全員に討首が妥当」との結論に達していた(『柳沢家秘蔵実記』〔巻上七〕)。
 ところが、思いの外、大名、庶民からも無罪放免という声が強くなり、老中は前評定を覆し、赤穂浪士らの処分を大目付、各奉行などに諮問した。彼ら14名の連名評定所の意見書(『評定所一座存寄書』)は、赤穂浪士らの処分の保留だった。その内容は、『武家諸法度』(天和3年〔1683年〕の第1条「文武忠孝を励まし、礼儀を正しくすべき事」に該当するというものであった。なお、第5条に「徒党を結び、誓約を成すを禁止する」とあるが、全員一致団結し統制の下に行動しており<徒党>ではないとしている。
 幕閣の見解は、討首(斬罪)か、保留(放免)かで揺れていた。切腹という見解はなかった。

 赤穂浪士らが<大量殺人>というなら、「斬罪」でなければならない。これが「切腹」とは<大変有り難き仕合せ>だったのである。「切腹」となったのは、世論が<喧嘩両成敗法>に反した綱吉を非難したからであるとされている。当時は、赤穂浪士らの「仇討」を<大量殺人>と考えたものは、綱吉、柳沢吉保も含めて極めて少なかった。
 しかし、柳沢吉保は頑なに<処分>を望んだ。処分しなければ、吉良上野介に「お構いなし」にした<片手落ち>を問われるからである。これを助けたのが、柳沢吉保に仕えていた「荻生徂徠」であった。彼は「赤穂浪士らの討入は私恨に基づいた不義の行いである」と主張し、その旨を柳沢吉保に進言した(『論四十七士之論』宝永2年〔1705年〕)。
 これに意を強くした柳沢吉保は、赤穂浪士らを斬罪ではなく「切腹」にした。それは、妥協だったのであろう。
 浅野内匠頭の切腹は即日、赤穂浪士らの切腹は事件より1ヶ月あまりもかかり、幕府を悩まし続けた。江戸町民は無罪放免を願っていたので、それでも庶民の非難は収まらなかった。多くの大名も不満だった。

 刑罰としての切腹は様式も含めて赤穂浪士事件以降確立していったといわれている。しかし、死罪の第1は斬罪、第2が切腹だったことは江戸時代終わりまでの法慣習であったことは間違いない。<切腹>は名誉刑だったのである。吉田松陰も斬首(安政5年〔1858年〕)となっている。
 なお、武士以外には切腹は認められていなかった。
 明治時代には「切腹」は刑罰として認められなかったが、自死方法としては残っていた。

 ※ 参考資料
  『江戸時代とはなにか』尾藤正英 岩波書店 1992年
  『大江戸残酷物語』氏家幹人 洋泉社 2002年
  『切腹』山本博文 光文社新書 2003年
  『切腹』中康弘道 久保書店 1976
  『切腹の歴史』大隈三好 雄山閣 1995年
  『忠臣蔵100問勝負』杉並良太郎 出窓社 1998年
  『忠臣蔵』野口武彦 ちくま新書 1994年
  『日本法制史』牧英正・藤原明久 青林書院 1993年
  『日本法制史』瀧川政次郎 角川書店 1959年
  『法社会史』新田一郎 山川出版社 2001年
  『近世武家思想』石井紫郎 岩波書店 1974年
  『武田信玄』小和田哲男 講談社 1988年
  『物語 大江戸牢屋敷』中嶋繁雄 文春新書 2001年


(大変興味深い論述で、法律の歴史にうとい私にもわかりやすく、勉強になります。
 歴史の本を読んでみますと、いろんな話があるのですね。当時の儒学者の浅見絅斎も赤穂浪士討ち入り事件を「喧嘩両成敗」の観点で論じていました。
「・・・然らば大法を以云へば、自分同士の喧嘩両成敗の法なり。若又内匠頭大礼の場を乱りたるを科とせば、只乱りたるに非ず、皆上野介私意にてかやうになることなれば、内匠頭成敗にあづかれば上野介も成敗にあづかるべき筈也。・・・」)

 なお同じころに備中處士さまが忠義という観点からの平泉澄博士のご意見を紹介しておられますので、掲載させていただきます。


■■■ 仇を復し、法に死す ■■■

 ご承知のやうに、荻生徂徠・福澤諭吉の如き、功利思想からする所の赤穗義士の否定は、直ちに楠公に對する感激の喪失冷淡、足利への同情讚嘆に聯携するのではないかと、小生なんぞは、密かに考へてをる次第です。
 なほ其の詳細は、徳富蘇峰翁『近世日本國民史』第十八卷「元禄時代・中卷・義士篇」(大正十四年九月刊・時事通信社・講談社学術文庫)及び渡邊世祐博士『正史・赤穗義士』(昭和五十年一月・光和堂刊)が、最も卓れた研究であらうと存じます(義士關係の研究書の殆んどは、讀物創作類に非ざれば、義士の根本史料に據らずして、江戸時代の傳寫記録類から、各々の先入觀または各々の想ひをまとめたもの、實否を深く正さゞる噴飯ものばかりである)。義士論、此の兩書ぐらゐは一覽の上、論爭して戴きたいものと、かねゞゝ思うてをります。一言、失禮申し上げました。

●平泉澄博士『忠と義』(昭和九年九月・十年十月増補・非賣品)に曰く、「
 あの義士の擧が、所謂小さな忠義であつて、大きな忠義でないといふ非難につきましては、小さな忠義と大きな忠義が離反する場合には、大きな忠義を取るといふことが、即ち小さな忠にもなるのでありますが、今の場合(赤穗義士)には、皇室に對する忠義を損なつてゐないといふことを考へなければならない。それは(山鹿素行先生の精神を承け繼いだ)吉田松陰先生や乃木大將が、義士を敬慕されてゐる點からも明かになりますが、それを今一層明白にしますためには、明治元年に、明治天皇が、初めて東京へ行幸遊ばされまして、四五日目に、直ちに勅使を大石の墓へ遣はされ、幣帛を賜つてをります事を憶起せばよろしいのであります。その時、賜はりました勅書には、恐れ多い事でありますが、「汝、良雄等、固く主從の義を執り、仇を復し、法に死す。百世の下、人をして感奮興起せしむ。朕、深くこれを嘉賞す」と、かう仰せられてをります。即ちその行爲は大忠において少しも損ふ所なく、而してその精神は、全く義により起つたことでありまして、これに對する非難は、少しも當らないと思ひます。法がこれを處斷したことは、それはそれで別のことでありまして、これ等の人を非難するは當らないと思ひます。法に背いてはならない、法はどこまでも守らなければなりませんが、しかも實は、法よりもさらに重いものがあるといふことを、又た考へなければなりません。さきに分といふことを述べましたが、分は守らなければならないが、併しそれも非常な時に臨んでは、これを越えなければならない、君國の大事に臨んでは、人は分を越えなければならない、法は守らなければならぬ、しかし時には之を破らなければならぬ場合がある、これはよく考へなければならぬことであります。若しさういふことが全くなくして、どんなことがあらうとも、國家こゝに轉覆しようとも、皇室こゝに一大事に際會し給はうとも、自分の與へられた分を守つて行き、定められた法律に從つて、知らぬ顔をしてゐるといふが如きことでありましては、これこそ實に恐るべきだと思ひます。こゝにおいて吾々は、根本において深き所のものを掴んでゐなければ、一朝、大變に際して、到底、君國を護持するといふことは出來ないと思ふのであります」と。


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