■□■□■ 「三種の神器」の心(オロモルフ) ■□■□■


◆◆◆ 一 まえがき◆◆◆

「三種の神器」という名そのものはとても有名で、家電製品にまで使われておりました。
 しかし真の「三種の神器」がどのようなものであるかについては、あまり知られていないようです。
 戦後の歴史教育が軽視したからでしょうが、多少は戦前の教育もうけた私も知らないことが多くあります。
 昭和初期の小学生時代、先生から「三種の神器」について習って以来、もう少し詳しく知りたい、という希望をずっと持ち続けてきましたが、多忙な日々を送っていたため、なかなか勉強する機会に恵まれませんでした。

 そこで、多少は時間のできた今回、古い時代の史書を元にして、
「「三種の神器」とは何か」
「その歴史はどうなのか」
「それは現在どうなっているのか」
 ――について、勉強してみました。
 ここに、その勉強結果を簡単にまとめてみたいと思います。
(歴史の専門家ではないので、間違いがあるかもしれません。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです)

     *

 古くから言われる「三種の神器」とは、つぎの三種の神宝です。

「三種の神器」(サンシュノジンギ/みくさのかむたから)

「神鏡」=「八咫鏡」(やたのかがみ)
「神剣」=「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)(はじめは「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)といわれた)
「神璽」=「八坂瓊勾玉」(やさかにのまがたま)(または「八坂瓊の五百箇御統」(やさかにのいおつみすまる)

 鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象でしたが、とくに皇宮に永く継承されている「三種の神器」は、日本全体の祖神ともいうべき〈天照大神〉の時代に端を発し、それが現在まで――精神としても物としても――伝えられているものであり、日本の歴史において特別重要な意味をもっております。

 以下、物としての「三種の神器」についても述べますが、元来それは君民一体の日本民族の精神であり心のよりどころですので、その点は誤解なきようお願いいたします。


◆◆◆ 二 「三種の神器」の由緒◆◆◆

 高天原において、素戔嗚尊の乱暴に悩んだ〈天照大神〉が天の岩屋にお隠れになったとき、困った神々が岩屋の前に天香具山の聖木・榊を立て、上部に「神璽」をかけ、中ほどに「神鏡」をかけたのが、この二つが歴史に出てくる最初です。

「神鏡」である「八咫鏡」の咫は手指をひろげた長さとされますが、ここでの意味は立派な神鏡ということであり、伊斯許理度賣命(いしこりどめ)がつくったとされます。
 鏡をつくる職人集団・鏡作部の祖神です。
(注:実年代の推理は困難ですが、二千年以上前だろうと思われます)

 この鋳造のとき、はじめ表に傷ができたので、そのあと無傷のものを造り、これが「神鏡」となりました。
 はじめの傷のあるものは和歌山県の日前・国懸神宮のご神体になったという伝承があります。
 この神社は神武天皇がご創建になったとされます。

「神璽」と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命と呼ばれる職人集団の祖神です。
 家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった、鏡と勾玉をかけた神木を模したものです。

「神剣」は、高天原から追放された素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治したとき、その尾のなかから出てきた霊剣で、それを和解した〈天照大神〉に献上したものです。
 これについては、出雲の豪族が帰順のしるしに大和朝廷に献上したのだという解釈もあります。
 神棚の向かって左の眞榊にこの「神剣」を模した剣がかけられております。

(注:素戔嗚尊が大蛇を斬ったときに使った天十握剣も神剣とされ、その霊威は物部一族の本拠《石上神宮》(現天理市)に奉斎されました。布都斯魂大神(ふつしみたま)と呼ばれ、主祭神のひとつになっております。この神社には、「草薙剣」以外の、神話に出てくる著名な神剣がほとんど祀られています。物としても一部は拝殿奥の禁足地から発掘されています)

〈天照大神〉は、天孫の瓊瓊杵尊が高天原から日向の地に降臨するにさいしてこの「三種の神器」を授け、とくに「神鏡」については、

「此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉(古事記)」
(この鏡を自分(御霊代)だと思って奉斎するように)

 ――とお教えになりました。
 このため「三種の神器」のなかでも「八咫鏡」は別格の存在として扱われてきております。


◆◆◆ 三 「三種の神器」の神社への奉斎◆◆◆

「三種の神器」は瓊瓊杵尊から神武天皇まで引き継がれ、神武天皇が即位してからは、ずっと皇宮に祀られてきました。
 しかし、第十代崇神天皇の御宇に、大和朝廷に大きな変化がおこり、「神璽」はそのままでしたが「神鏡」と「神剣」は〈豐鍬入姫命〉(とよすきいりひめ*)が斎王(いつきのみこ)としてあずかって、皇宮外の神社に奉斎することになりました。
 この神社は〈豐鍬入姫命〉から〈倭姫命〉にかけて何カ所も遷りましたが、第十一代垂仁天皇の御宇に《伊勢神宮》の内宮――皇大神宮――におちつきました。
(*:崇神天皇の皇女で『魏志倭人伝』にある卑弥呼の後継者台与(トヨ)の有力候補です)

 このうち「神剣」は、つぎの第十二代景行天皇の御宇になって皇子の日本武尊が東国遠征の途におつきになったとき、伊勢神宮を守っておられた〈倭姫命〉から授けられ、火攻めにあった際に草を薙いで一行を助けたため、「草薙剣」という別名がつきました。
 日本武尊は《大和》に帰ることができずに悲運の死をとげますが、そのとき剣がおかれていた近くに熱田神宮ができ、剣はそこに祀られました。
 熱田神宮の場所は、昔尾張国だった名古屋市内でありますが、そういう関係でこの「神剣」の管理は尾張一族がおこなうことになりました。
 豪族尾張は〈饒速日命〉の天道日女命系の子孫ですが、神武天皇と争った一族の子孫が責任者になったのはおもしろいです。
 天皇になれなかった武将を大切にしたともいえるのでしょう。
(注:日本武尊は実質天皇であったという説もありますが、正史では天皇にはなっておりません)

 なお熱田神宮の大宮司は、頼朝の時代の直前に尾張氏のかわって藤原一族が担当しますが、その藤原大宮司の初代・藤原季範の娘が頼朝の母親です。
 そのため頼朝は伊勢神宮や熱田神宮への崇敬心が高かったと言われています。

《伊勢神宮》は二十年ごとにすべてを作り直す式年遷宮――前回は平成五年でつぎが平成二十五年――がなされますが、そのときは、本殿だけではなく多くの神宝類も同じ形のものをつくりなおします。
 このとき二振りの宝剣用にトキの羽が必要なのでトキの絶滅が大問題になったのです。
 ただし、「八咫鏡」だけは――当然のことではありますが――絶対に触ることも見ることもなく、慎重に奉斎され新殿に遷される。
 新造されるのは、それを収める容器の方で、式年遷宮の中でも最重要な儀式とされています。

 熱田神宮の話をくわしくするゆとりはありませんが、境内二十万平米、摂末社四十四、年間一千万の参拝者で賑わう巨大な神社です。
 合計百二十五社からなる《伊勢神宮》ほどではありませんが、日本を代表する神社であることは間違いありません。
「草薙剣」のほかにも数々の神宝をもち、国宝二十七、重要文化財七十六、県指定文化財五十三を数えるという、文化財の宝庫でもあります。

 さて、崇神天皇の御宇に「神鏡」と「神剣」が神社に奉斎されたわけですが、このとき、別御霊(みたまわけ)すなわち御分霊として似た鏡と剣が奉製され、それを皇宮に奉安することになりました。
 したがってそれ以後、皇宮には、新たにつくられた「神鏡」と「神剣」と、そして元来の「神璽」とが、奉斎されることになったわけです。
 これもやはり「三種の神器」と呼ばれて、きわめて重要視されてきました。
 天皇が即位なさるときに継承されるのは、こちらのほうの神器です。

 別御霊が奉製されたときの伝承は『古語拾遺』に記されております。
「磯城の瑞垣の朝に至りて、漸に神の威を畏りて、殿を同くしたまふに安からず。故、更に斎部氏をして石凝姥神が裔・天目一箇神が裔の二氏を率いて、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、護の御璽と為す。是、今踐祚す日に、献る神璽の鏡・剣なり。仍りて、倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神△(ひもろき)を立てて、天照大神及草薙剣を遷し奉りて、皇女豊鍬入姫命をして斎ひ奉らしむ」
(難しい漢字は便宜的な使い方をしております。以下同様)

 このことを、巖垣松苗は幕末のベストセラー『國史略』においてつぎのように表現しています。
「初め神祖、神寶を瓊瓊杵尊に賜ひて以来十世、牀を同じくして起臥し、未だ嘗て須臾も離れざるなり。是に至りて褻涜(なれけがすこと)を懼れ、剣鏡を模造して御牀に置き、而して皇女豊鍬入姫命に命じ、斎戒して眞寶を載せて奉祀せしむ」

 以後、説明の便宜上、皇宮に奉安された「三種の神器」を「神鏡」「神剣」「神璽」と記し、伊勢神宮と熱田神宮に奉斎された神器を「八咫鏡」「草薙剣」と呼ぶことにする。


◆◆◆ 四 「三種の神器」の皇居における奉安の場所◆◆◆

「神鏡」は別御霊とはいってもやはり別格であるため、平安時代からは温明殿などの別殿を造営して奉安し、みだりには動かさないことになりました。
 これは内侍(女官)がつかさどるので内侍所と呼ばれました。
 明治以後は賢所(かしこどころ)と呼ばれるようになりました。
 この「神鏡」を祀る賢所と、神々を祀る神殿と、歴代天皇の霊を祀る皇霊殿が、いわゆる宮中三殿であり、天皇皇后両陛下はこの三殿への参拝を毎日欠かしません。
 現在この賢所や皇霊殿をお守りする内掌典は、未婚の女性が選ばれて、世俗を避け身を清めて泊まり込んで奉仕しているそうです。
 これはおそらく、伊勢神宮の斎王にならっているのでしょう。内掌典長は終身で、他は二年交替といわれます。

 一方「神剣」と「神璽」は、はじめは「神鏡」のそばにありましたが、近世以降は天皇皇后が日常お暮らしになる場所のそばに「剣璽の間」をもうけて、そこに奉安しお守りなさることになり、それは今に続いています。
 そして、つねに天皇とともにある――という大原則によって、行幸のさいには、「剣璽」も同行(ご動座)されるのがきまりになっていました(*)。
 ただし賢所の「神鏡」は別格なので不動である。

(*)この御動座は、終戦後に中断したが、憂国の士の熱望によって、昭和四十九年の伊勢神宮への行幸の際になされたと言われます。


◆◆◆ 五 剣璽等承継の儀◆◆◆

 皇居内の「三種の神器」は、天皇の代がかわれば、とうぜん新しい天皇がそれをひきつぎます。
 皇位の継承にともなって神器も相承されるのです。
 ただ、その方法は時代によって変化してきました。

 豪族が割拠していた大化改新の前までは、践祚時に有力氏族の代表が「神鏡」と「神剣」をいったん預かって、あらためて新天皇に献上する儀式があったようです。
 これは、新天皇を豪族たちが認めたことを証明する重要な儀式だったのでしょう。
 ただし「神璽」は内侍が皇居内に奉斎したままだったようです。
 つまり皇居内の女官がずっと祀っていたことになります。
「神鏡」>「神剣」>「神璽」の順に格付けされていたことがわかります。

 大化改新以後は、祭祀職の忌部(齋部)氏が鏡剣献上を役職としておこなうようになりました。
 忌部氏はのちに、同じ祭祀職の中臣氏(藤原家の祖)に圧せられたことを無念に思って、有名な『古語拾遺』を編纂したといわれる一族です。

 この鏡剣献上の儀式は平安時代になって、践祚時ではなく大嘗祭――新天皇の最初の新嘗祭――における行事にかわりましたが、八世紀初めにはそれも無くなり、かわりに「剣璽渡御の儀」が成立します。
 これは践祚にさいして、「神鏡」は別扱いにして「神剣」と「神璽」を新天皇が承継する儀式で、ここではすでに豪族による献上の儀式は影がなくなっています。
 そして、もっとも重要な「神鏡」は、温明殿などの別殿に奉安したままで動かさないことになりました。

 この「神剣」「神璽」継承の儀式は、いまでは「剣璽等承継の儀」とされ、今上天皇が即位されたときも、憲法に定める国事行為としておこなわれました。
 このとき今上天皇が承継されたのは、「神剣」「神璽」のほかに天皇の印章である「御璽」と日本国の印章である「国璽」であった。
 そして同時に今上天皇は、「神鏡」が奉安されている賢所へ、このことを奉告する儀式をなされました。
〈天照大神〉の御霊である「神鏡」は、まったくの別格扱いなのです。

 以上が、〈天照大神〉から神武天皇を経て連綿として平成の世までつづく「三種の神器」の継承です。
 それは、神武天皇から数えても二千六百六十年(考古学的にはほぼ二千年)も続いております。
 もちろんこの長さは、世界に類例がありません。
 あるイギリスの貴族が、かつてこの連綿たる長さを知って感激して、神武から昭和まで百二十四代すべての天皇名を暗記して朗詠したというエピソードがあります。
(注:なお実際には最低でも百三十代になるだろう――という説があり、著者もそれに賛成ですが、その内容は略します)


◆◆◆ 六 熱田神宮における「草薙剣」の危機◆◆◆

 祭政一致の古代におきましては、神器は政争の的でもあって、その継続には困難がありましたが、神社に奉斎されている方は、皇居内の神器ほどの苦難には遭っていないようです。
 しかしそれでも、危機は何度かありました。
 とくに熱田神宮の「草薙剣」は、つぎのようなきわどい被害にあっていることが、史書の記録に残されています。

〔一〕
 天智天皇七年(西暦六六八年)、日本に来ていた新羅の密偵・沙門道行が、「草薙剣」を神宮から盗んで帰ろうとしました。
 しかし海が荒れて船が出ず、必死で追跡した神宮関係者によって、大阪湾で捕らえられました。
 このとき道行が盗んで通った清雪門という神社内の門は、不吉だというのでずっと開かずの門とされています。
(現韓国の古代王朝との軋轢は、神代から絶えることがありませんでした。朝鮮半島とのトラブルは、古い史書に無数に記されています。たとえば、瀬戸内海に繋留していた大和朝廷の多数の新造船が、半島からのスパイによって放火されて全焼したという記録もあります。実紀年で四世紀後半のことです)

〔二〕
 新羅の密偵によるこの事件は朝廷でも問題となり、事故再発を防ぐために皇居に置くことになりました。
 しかし天武天皇のご病気の原因がこのことだとの説が出て、さらに神宮側の懇望もあって、天武十三年(西暦六八六年)に返却がきまり、その年の十二月に熱田神宮に戻りました。

〔三〕熱田神宮の火事は何度もあったようですが、鎌倉時代の西暦一二九〇年に社殿が焼けたとき、火のなかから「草薙剣」を助け出す様子を、ここで奉仕していた貴人の娘が日記に書き残しております。

〔四〕
 江戸も幕末になった西暦一八三九年に、賊が神社に入って「草薙剣」を奪って逃げました。賊はただちに捕らえられ、剣は無事でしたが、これに懲りて神殿を改造しました。

〔五〕
 大東亜戦争の末期になった昭和二十年の三月と五月、東京大空襲と同じ時期に、焼夷弾によって神域に大被害が出、本殿の主部だけがかろうじて残りました。
 このころから神社をねらい打ちに爆撃するという蛮行がなされだしましたので、本殿を解体して隠しました。
 それから岐阜県の神社の境内に地下の熱田神宮をつくるという計画ができましたが、これは実行されないうちに終戦となりました。
 米軍の進駐にさいしては、万一の略奪を考えて、「草薙剣」を飛騨の水無神社に隠し、仮殿をたてて奉斎しました。

〔六〕
 昭和三十年になって、崇敬者の寄付と《伊勢神宮》の古殿の用材によって、本殿の再建がなり、正式に遷宮して、現在にいたりました。

 戦後の混乱期には、米軍の神社への無理解によって、ほとんどの神社の鎮守の森が失われ、パリなど欧米の大都市に劣らなかった東京など大都市の緑地比率が、大幅に縮小してしまいました。
 もともと神道は諸宗教を超越した日本独自の習俗なので、神社の境内は、信教とは無関係に誰でも入れる場所であり、公園と同じ役目を果たしていたのですが、それが米軍の無理解によって潰されてしまったのです。
 また貴重な遺跡である奈良県の前方後円墳なども、米軍のブルドーザーによって壊されて倉庫などになり、そのおりに出土した貴重品がゴミとして捨てられるという被害がたくさん出ております。


◆◆◆ 七 伊勢神宮における「八咫鏡」の危機◆◆◆

 一方《伊勢神宮》のほうは、さいわい熱田神宮ほどの混乱はなかったようですが、それでも皇室の力が弱まった時期には、遷宮もままならず、正殿も古びてしまって危機に瀕した時期もありました。

「桓武天皇の御宇にあった放火窃盗事件」
「平安期における御正殿への乱入事件」
「室町後期から安土桃山にかけての百年以上の遷宮中断」
 ・・・などが知られています。
(この中断を救って式年遷宮を再開させたのが、伊勢神宮近くの仏寺の尼僧たちの活躍であったことは、あまり知られておりません)

 これらの苦難の間も「八咫鏡」は大切に守られてきましたが、意外な危機もありました。

 第二十一代の雄略天皇の皇女の稚足姫は《伊勢神宮》の斎王として仕えていました。
 伊勢斎王は独身の皇女がつとめる習わしでしたが、雄略天皇三年に、男女関係で讒言があって妊娠していると言われ、悲嘆した皇女は、五十鈴川の川上に「八咫鏡」を埋めて自害してしまいました。

 必死で探しているうちに、ある場所に虹がかかったので掘ったところ、「八咫鏡」が埋められていた――という伝承があります。
(虹というのは神秘性を強調するための修辞です)
 これは『日本書紀』にかなり詳しく記されており、当時の大事件だったことがわかります。
 実年代は推定五世紀後半です。

 またもちろん、終戦直後には、アメリカの軍人が神域の神木を切り倒して遊ぶなど、危機がありました。
(注:はっきりはしませんが、何らかの形で「八咫鏡」の疎開を図った可能性もあると思います)

 戦後は、一宗教法人になってしまったために、やはり遷宮もままならず、緊急的に延期――本来は昭和二十五年の筈が昭和二十八年に延期――するなど苦しい時代がありましたが、熱心な人たちの協力で、やっとまともな姿に復旧しました。

 平成五年の式年遷宮においては、四百億円に近い史上最高額の浄財が集まり、そのため現在の《伊勢神宮》は空前の充実ぶりです。
 平成二十五年に予定されている第六十二回式年遷宮については、平成十六年四月五日に、天皇陛下より「御聴許」を賜って、北白川道久神宮大宮司において準備が進められることになりました。
 総額五百五十億円が試算されている大行事です。
 なお心配は金銭面だけではなく、特殊技能者の不足もあるし、檜のような用材にもあります。
 今回は社殿以外には代替材を考えているとのことです。


◆◆◆ 八 「三種の神器」の実体◆◆◆

 つぎに「三種の神器」の実体ですが、これは眼で見てはいけないことになっていますので、公式的には分かりません。
 しかし、いろいろなことから、おおまかな推定はついております。

〈一〉「八咫鏡」の実体
 伊勢内宮の「八咫鏡」は、厳重な器に入れられて、内宮本殿の中に、人間が夜寝るのに近い形で奉斎されています。
 つまり、寝間着状の布にくるまれ、敷き布団状と掛け布団状の寝具にはさまれて器の中に安置されています。

 その器を式年遷宮のときに交換する儀式があり、また時々寝具を交換する儀式があり、それは暗い夜に眼をつぶった神職によってなされるのですが、江戸時代の神職が、眼をつぶったままで入念に触り、それを記録に書き残しているのです。

 それによりますと、
「直径が二十センチほどの凸面鏡で、中心に紐を通す輪がついており、裏には同心状の唐草模様のような模様があった」
 ――となっています。

 この形状や模様や大きさは、遺跡から出土する弥生時代の各種の鏡と大きくは違っておりません。

 容器は、「御樋代」および「御船代」と呼ばれております。
「八咫鏡」はまず、新しい寝具にくるまれた形で「御樋代」に奉安され、その「御樋代」を「御船代」という船型の容器に奉安します。
 いずれも檜づくりで、荘重な祭儀としてつくられます。
 この「御樋代」の寸法によって「八咫鏡」の大きさが推理できるのですが、それは、
 深さ約40センチ(内寸約25センチ)
 直径約60センチ(内径約50センチ)
 ――とされています。

 したがって、江戸時代の神職の記録と矛盾しない大きさです。

(注:この二つの容器は、新規のものを造るだけではなく、旧殿から新殿に遷宮される途中のわずかな経路の間だけに使われる「仮御樋代」と「仮御船代」も造られます。ご神体の遷宮時には、「仮御船代」をさらに長方形の大きな覆いで覆って、絶対に直視することのできないようにして、旧殿から新殿に運ばれます。古い容器は別の神社に祀られたり埋葬されたりするようです)

 この寸法は内宮のものですが、じつは、外宮においても、式年遷宮のときに、まったく同じ形の同じ寸法のものが造られます。
 このことから、外宮のご神体も、内宮のご神体「八咫鏡」と、大略同じ寸法形状のお鏡ではないか――と想像されます。
 外宮のご神体の由緒については、いくつかの伝承がありますが、ここでは略します。

(注:「八咫鏡」の次に御正殿で重要なものは中央下にある「心御柱」です。遷宮時における古くなった方の心御柱の処置については、面白い話がいろいろとありますが、割愛します。外宮のご神体とともに、著者による別の論考を参照してください)
(注:なお宮中における「神鏡」も、とうぜんながら、似た寸法形状だと拝察されます)

〈二〉「草薙剣」の実体
 熱田神宮の「草薙剣」についても、江戸時代にひそかに見てしまった神官の記録があり、それによると剣というよりも鉾に近いものだったとされております。
 しかし、もともと鉾の先と古代の剣とはほぼ同じ形状であり、そりのある日本刀を見慣れた江戸時代の人が錯覚したのでしょう。
 文書に残されている記録とは、
「長さ五尺の木の箱の中に石の箱がありその中に樟(楠木)をくり抜いた箱があり、そこに黄金を延べ敷いて、その上に鎮座していた。長さは二尺七、八寸くらいで刃先は菖蒲の葉のようで元の部分六寸くらいは魚の背骨のようで、色は全体的に白だった」
 ――というものです。

 また、容器の記録としては、前記した一二九〇年の鎌倉時代の火事の際の貴人の娘の日記があり、
「幅一尺長さ四尺の漆の箱のなかの赤地の錦の袋に入っていた」
 ――と書かれています。

 さらにもう一つ貴重な記録があります。
 それは、先に述べた昭和二十年の飛騨への疎開のときに、袋にくるまれたまま捧げ持った神官の記録です。
 それによりますと、
「寸法は二尺ほどで、重さから判断して銅剣らしい」
 ――ということです。

 これらを総合しますと、
「長さほぼ六十センチくらいの諸刃の銅剣」
 ――ということになるでしょう。

(注:鉄ではないという事は、色彩の記録からも分かりますが、楠木の箱に入っていたことでも推量できます。楠木だと鉄では錆が早くて持たないと思われるからです)
(なお宮中における「神剣」も、今上天皇の承継の儀におけるお写真に容器が写っており、その大きさから、似た寸法形状だと想像されます)

〈三〉「八坂瓊勾玉」の実体
 現在皇居に奉安されている「八坂瓊曲玉」についても、次の資料が残されています。

 源平合戦の最終局面で、安徳天皇が壇ノ浦で入水なさったとき、「八坂瓊勾玉」は比較的軽かったために、容器が海面に浮いて、源氏の兵がこれを拾い上げました。
 そのとき、何も知らない兵士が中を覗いている有様を、女官の一人が見て、それが伝えられて記録されました。

 それによりますと、
「容器は二段になっており、各段に四つの珠玉があった」
 ――そうです。

 つまり計八つの珠玉よりなっていることになります。「八坂瓊曲玉」という名前どおりです。
 もともと「八坂瓊勾玉」は紐でつないで首にかけるものですが、紐はすぐに消滅してしまうので、勾玉のみが奉安されていたのでしょう。
(高森明勅氏の著作より)

 もちろん「三種の神器」の科学的な意味での本当のことはわかりませんし、考古学的に詮索すべき事でもありませんが、弥生〜古墳時代の遺跡から多数出土する鏡、剣、勾玉を代表する神宝であることはまちがいありません。


◆◆◆ 九 皇居内の「三種の神器」の苦難◆◆◆

 先に伊勢神宮と熱田神宮の神器の苦難を記しましたが、皇居内の神器は、皇統の証であるため、南北朝時代など、危機一髪の事件が記録されております。
 政争や戦乱にも巻き込まれて、神宮の神器にくらべて、さらに苦難の連続だったと言えるでしょう。
 ざっと列記してみます。

〈一〉
「神鏡」は、
「村上天皇の天徳四年九月二十三日(西暦九六〇年)」
「一條天皇の寛弘二年十一月十五日(西暦一〇〇五年)」
「後朱雀天皇の長久元年九月九日(西暦一〇四〇年)」
 ・・・など平安中期に三度も火災にあって被害をうけ、そのつど修復しましたが、灰燼とはならず、かろうじて形を保ちました。
 ただしこの時代に再度新しい「神鏡」を造ったとも解釈でき、そのため、現在の皇居賢所に奉斎されている「神鏡」には、推定三世紀の第十代崇神天皇の御宇の新造を修復したものと、平安期に新造したものと、二面がある――という話が書かれた本もあります。

 皇居の火災はその後もあり、
「鳥羽天皇の天永三年(一一一二年)」
「後小松天皇の応永八年(一四〇一年)」
「後土御門天皇の文明十一年(一四七九年)」
「霊元天皇の寛文十三年(一六七三年)」
「光格天皇の天明八年(一七八八年)」
「明治天皇の明治六年(一八七三年)」
「昭和天皇の昭和二十年(一九四五年)」
 ・・・などが知られておりますが、これらのときは、幸いにして「神鏡」はご無事でありました。

〈二〉
 つぎに、「神剣」が失われてしまった大事件について、記します。
 安徳天皇の寿永四年三月二十四日(西暦一一八五年)、壇ノ浦の源平合戦に巻き込まれた形で、わずか七歳の安徳天皇が海に沈むという悲劇がありましたが、このとき「三種の神器」も動座して船上にありました。
 幼年の安徳天皇を抱いて身を投げたのは、平清盛の妻で天皇の祖母にあたる二位尼でしたが、そのとき彼女は「神剣」を腰につけ「神璽」(=「八坂瓊勾玉」)の御箱をかかえていました。
「神璽」は軽くて箱に入っていたので入水ののちに浮き上がり、源氏の兵士・片岡太郎經春によって拾われました(平家物語)が、「神剣」は箱がなくしかも腰につけていたため浮かばず、のちに源氏兵士や海女たちが動員されて、必死の捜索がなされましたが見つからず、ついに行方不明のままとなってしまいました。
 このとき、安徳天皇の母親で清盛の娘にあたる建礼門院も同時に入水したが、源氏の兵士が熊手で引き揚げて助かったそうです(吾妻鏡)。

 一方「神鏡」は安徳天皇の乳母の大納言佐殿が櫃ごとかかえて海に入ろうとしましたが、源氏の矢で衣が船に縫いつけられて果たさず、船上に残りました。
 この「神鏡」を、何も知らない源氏の兵士が蓋をあけて覗こうとしたところ、たちまち目が眩んだという伝承があります(吾妻鏡)。
 このとき船上にあった平家の平時忠が乱暴な源氏兵士を制止して「神鏡」を大切に扱うよう説得し、京都へ戻ってその功績を述べて命乞いしたが入れられなかった――という話もあります。
 源義経は、兄の頼朝から「「三種の神器」を大切にせよ」と厳しく言われていたので、助かった「神鏡」を丁重に扱って、後に「神璽」とともに宮中に戻しました。

**************

 以上は『平家物語』の有名な一節を元にして記しましたが、当時の史書『吾妻鏡』にはもっと詳しい記述があります。
 参考までに、源氏がどのように海に没した「神剣」を捜索したかの記録を、『吾妻鏡』から抜粋しておきます。

△元暦二年(1185年)三月
 源頼朝が平家追討の弟の範頼に、「三種の神器」を確保するよう注意した記述。
 平家滅亡のとき、「神鏡」「神璽」は無事だったが「神剣」が海に沈んだ記述。
(源氏の兵士が「神鏡」を開こうして目が眩んだ話や、平時忠が制止した話なども)

△元暦二年(1185年)四月
 源頼朝が弟の義経に、確保した「三種の神器」を朝廷に返還するよう命令。
 飛脚が義経の戦勝報告を鎌倉に届けたが、その中で失われた「神剣」を探そうとしている旨が書かれていたとの記述。
 同月下旬、「神鏡」「神璽」が京都へ戻った話。義経が鎧を着て供奉したとの記述。

△元暦二年五月
 頼朝の弟範頼に鎌倉から飛脚で、「神剣」を探すように指示が出たとの記述。

△文治三年(1187年)六月
 厳島神社の神主に、海女を使って「神剣」を探すよう頼朝から命令が出たとの記述。

 結局、いくら探しても見つからずに終わってしまいました。
 いまでも瀬戸内海に沈んだ小さな金属を探すなど、至難の技だから、無理もありません。

**************

『増鏡』の冒頭にも、上に関連した「三種の神器」の話があるので、引用しておきます。

△寿永二年(1183年)八月二十日、(後鳥羽天皇が)御年四にて位につかせ給けり。
 ――という文章の次に、
「内侍所、神璽、寶剣は、譲位の時かならず渡さる事なれど、先帝(安徳)筑紫へ率ておはしければ、こたみ初て三の神寶なくて、めづらしき例に成ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり歸のぼりけれど、寶剣はつゐに、先帝の海に入給ふとき、御身にそへて沈みけるこそ、いとくちをしけれ。」
 ――とあります。

 第八十一代安徳天皇が西海にあったとき、入水崩御の前であったが、つぎの第八十二代後鳥羽天皇が三歳と一ヶ月で踐祚された時の記録です。

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 藤原兼實の『玉葉』(日記体の史書)は、「三種の神器」の危機の時代の詳しい記録であり、かつ、神器の精神論の先駆ともいうべき記述があって注目されます。
 後鳥羽天皇は、安徳天皇が「三種の神器」とともに西走なさったために、寿永二年(1183年)八月二十日に踐祚されたのですが、その踐祚の日の日記に、つぎのようにあります。

「不得剣璽踐祚之例希代之珍事也」
(神器なしの踐祚は例のないことである)

 また、新天皇をひろく知らせる即位の式典は元歴元年(1184年)七月二十八日になされましたが、この日がせまった同年六月二十六日に、つぎのように記されています。

「先我朝之習、以剣璽主爲國王、不待璽踐祚之例、書契以來未曾聞、然而依無止事、有立王事、天子位不空一日之故也、然而至于即位者、待剣璽之歸來、可被遂行也」
(わが朝廷では神器の主をもって君主とするのであって、神器を持たずに踐祚(*)する例は聞いたことがない。しかし、天子の位は一日も空けるべきでないので、今はやむを得ないが、即位の式典は神器が戻ってからにするべきである)
(* 踐祚は皇嗣が天皇の位を受け継ぐことであり、即位はそれを天下万民に告げる式典のことです)

 しかし、神器無しの即位の儀式をせざるをえない事態になったため、同月二十八日の日の日記に、後世注目された見解を記しています。
「不帯剣璽、即位例出來者、後代亂逆之基、只可在此事」
(神器を帯びずに即位する例が出てしまったという事は、後に世が乱れる原因になるであろう)

 この『玉葉』の翌年の記録――元歴二年四月二十五日から二十八日にかけての日記――には、「神鏡」「神璽」が源義経によって朝廷にもどされたときの有様が詳しく記されています。
『玉葉』は天皇に仕えていた要人の記録なので、史実性が高く、貴重です。

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 なお、この「神剣」が沈んでしまった事件について、『愚管抄』に興味深い解釈があります。
 それは、武士階級が勃興して皇室をお守りするようになったので、「武」を象徴する「神剣」が不要になった――という以下のような説です。

「抑コノ寶剣ウセハテヌル事コソ、王法ニハ心ウキコトニテ侍ベレ。コレヲモココロウベキ道理サダメテアルラント案ヲメグラスニ、コレハヒトヘニ、今ハ色ニアラハレテ、武士ノキミノ御マモリトナリタル世ニナレバ、ソレニカヘテウセタルニヤトヲボユル也」
『愚管抄』は天台座主の慈円が書いた歴史書であるため、仏教的な運命論で解釈されたのでしょう。

〈三〉
 この大事件によって「神剣」が失われてしまいましたので、それからしばらくは宮中においては、「神剣」につぐ宝剣であった清涼殿の「晝御座剣(ひのおましのつるぎ)」で代用しておりましたたが、のちに《伊勢神宮》の祭主が奉った宝剣を用いることになりました。
「晝御座剣」とは、天皇のおられる場所の守り神として重要視されていた宝剣であり、安徳天皇が西国に向かうとき、「三種の神器」とともにこの剣も携える予定だったのですが、周囲の人たちがあわてたため、置き忘れてしまい、皇居に残された――といわれています。

 ところがこの第二の宝剣についても、壇ノ浦の二ヶ月後の元歴二年(1185年)五月に皇居に強盗が入って盗まれるという事件が起こりました。
 幸いにして警護の武士が取り返しましたが、当時の皇宮は、強盗・殺人・放火など、惨憺たる有様で、のちに源頼朝が必死で治安回復につとめたことが知られています。

 第八十二代後鳥羽天皇、第八十三代土御門天皇のあと、第八十四代順徳天皇が承元四年十一月二十五日に即位なさいましたが、そのあとで後鳥羽上皇から《伊勢神宮》で奉製された宝剣が新天皇に奉られました。
 そしてその後の天皇は、この新たな宝剣を正式の「三種の神器」の「神剣」として継承され、それ以後これが永世的に宮中の「神剣」となりました。
 これが現在の皇居に奉安されている「神剣」です。

 したがって皇居内に現存する「三種の神器」のうち「神剣」がもっとも製作年代が新しく、十三世紀の初めです。
 つぎが推定三世紀の「神鏡」で、最古が推定二千年以上前の神話時代の作とされる「神璽」です。

〈四〉
 南北朝時代には北朝が偽神器をつくったと伝えられるなど、いろいろと危機がつづきましたが、結局は北朝が受け継いで危機を脱しました。

〈五〉
 南北朝が合一してから三代目にあたる北朝系の後花園天皇の嘉吉三年九月二十二日(西暦一四四三年)に、南朝の残党が京都の御所に乱入し、宮殿を焼いて「神剣」「神璽」を奪って延暦寺に立てこもったことがありました。
 しかしすぐに一党は討伐されて、二つの神器はぶじ皇居に戻りました。
「神鏡」はこのとき、ご無事のままでした。
(「神璽」は、このような危機はあったものの、破損や紛失という事件は無かったようです)

〈六〉
 それ以後も危機はしばしばありましたが、なんとかもちこたえ、大東亜戦争末期の空爆にも耐え、終戦のおりの危機も安藤明ら忠臣たちの涙ぐましい努力によってくい止めました。
 そして神器も皇統も主要な神社も絶えることなく、平成の御代につづいております。
 いまも今上天皇皇后両陛下は、「三種の神器」への祈りを欠かされません。
 また神々や皇霊への祈りも欠かされません。
 さらには主要な神社や御陵への御拝もなさっておられます。
 政府や宮内庁関係者の信じがたい無情な判断によって靖国神社への御拝が中断しているだけです。

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 以上概説しました「三種の神器」は、もちろん考古学的な研究対象ではありませんので、注意していただきたく思います。
「三種の神器」とは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などを共有するわれわれ日本民族の心の歴史なのです。


◆◆◆ 十 「三種の神器」の精神的な意味◆◆◆

 ここでは、「三種の神器」の精神的な意味について記すことにします。

 南北朝時代の南朝の支柱となった忠臣・北畠親房は、南朝の天皇へのご進講のために、『神皇正統記』を著しましたが、そのなかで、『記紀』の記述をもとにして、つぎのように記しております。

「・・・この三種につきたる神勅は、まさしく國を手持ちますべき道なるべし。鏡は一物をたくはへず、私の心なくして、萬象を照すに、是非善悪の姿あらはれずといふ事なし。その姿に從ひて感應するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源なり。剱は剛利決斷を徳とす。智慧の本源なり。この三徳をあはせ受けずしては、天下の治まらんこと、誠に難かるべし。神勅明かにして、詞約かにむね廣し。剰へ神器にあらはし給へり。いと忝なき事にや。」

 すなわち北畠親房は、古代からの伝承をもとに、

「神鏡」・・・正直の本源(日の體)
「神璽」・・・慈悲の本源(月の精)
「神剣」・・・智慧の本源(星の氣)

 ――であると述べているのです。
 つまり天皇は「三種の神器」によって、正直と慈悲と智慧の心を承継し、その心によって統治なさるのです。

 江戸時代になると、水戸学の泰斗である藤田東湖は、やはり『記紀』の記述をもとに、天皇の役割を、

「蒼生安寧」

 ――としています。
 蒼生とは人民とか百姓とかいった意味です。
 人民も百姓も『記紀』に出てくる言葉で、今でいえば国民であるが、『記紀』ではこれを「おおみたから」つまり「大御宝」と称し、宝物であると認識していました。

 つまり、

「天皇とは「三種の神器」を先祖から受け継ぐことによって、宝物である国民の安寧が成就するように正直と慈悲と智慧をもってまつりごと(祭祀や政治)を行うことを義務とする存在」
(別の言葉でいえば、力ではなく「君主の徳」によって国と国民を統べる存在)

 ――なのです。

 権力者が自分の支配下の人々を「至高の宝」としてその安寧を願いつづけるというこの思想は、世界の古代史において珍しいのではないでしょうか。
 日本の大和朝廷独自の平和思想です。
 伊藤博文の『憲法義解』によれば「うしはく」ではなく「しらす」の思想による統治です。

 近世以降は祭政がほぼ分離しましたので、天皇皇后両陛下の主要な役割は政治から離れて「祈り」となりました。
 ふだんほとんど報道されませんが、今上天皇皇后も連日祈っておられ、また全国の神社や陵墓をめぐって祈りを捧げつづけておられます。

 元東大教授兼白山神社宮司で『少年日本史』で知られる碩学平泉澄の名とともによく語られる「皇国史観」という言葉があります。
 これは、

「日本とは「三種の神器」を継承した万世一系の天皇を中心とする「神々の国」である」

 ――という考え方で、その内容は、前述のように、正直・慈悲・智慧の象徴である「三種の神器」を守って、蒼生(国民)の安寧を祈り続ける天皇を中心(象徴)として、先祖や自然や芸術(これらのすべてが神々)を大切にする国だ――という史観のことです。

「皇国史観」という言葉そのものは、戦前や戦中にはほとんど使われませんでした。
 平泉澄にしても、「皇国史観」という言葉を使った論文を書いたことは一度もないそうです。それはあたりまえの考え方だからです。
 この言葉は戦後に左翼組織が天皇への不当な指弾のためにプロパガンダ用語として使ったために、有名になると同時に誤解が拡がってしまいました。
 しかしその実質は以上のようなことであって、本来的に悪い意味はまったくないのです。

 なお「天皇制」という言葉も、ソ連共産党が指導するコミンテルンが創作し、大正十二年に日本に輸出してきたプロパガンダ用語とされています。
 目的はもちろん日本崩壊で、日露戦争に破れて日本・朝鮮・満州などを植民地にできなかったことへの報復でした。
 だから戦前にはほとんど使用されず、戦後になって左翼勢力がさかんに悪用したのです。


◆◆◆ 十一 国民の宝としての「三種の神器」および補足◆◆◆

 もう一つ注意すべきことがあります。
 それは、鏡・剣・玉は、皇室独自のものではなく、古墳発掘でわかりますように、弥生時代から広く一般国民の宝でもあったことです。
 ですから、皇室における「三種の神器」は、武力で征圧した独裁者が勝手に創作したものではなく、君民一体の神宝でもあったのです。

 この問題について、戦前のベストセラー『國体に対する疑惑』で有名な里見岸雄は、『歴史と天皇』のなかで、つぎのように記しています。
「・・・そこには、三器各個の宗教的な意義だけでなく、政治の理念を象徴するものとしての新性格が生まれてきた。この理念は、三種の神器に於いて、皇祖天照大神の統治意志として観念され、更に規範化されて、歴代天皇の奉ずべき、神命であるとされた。・・・神器の本体は物質でなく理念であり精神であり道である。」

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「三種の神器」の心の表現はいろいろあり、なかには牽強付会と思うものもあるのですが、参考までに、そのいくつかをあげておきます。

◎『日本書紀』において、神武東征の直前、神武天皇が過去を振り返って、「養正・積慶・重暉」(正しい道を養い慶事をつみ、瑞祥を重ねた)とおおせられました。
◎平安朝以後の仏教教学において「法身・般若・解脱」。
◎おなじく儒教教学において「知・勇・仁」。これは少年時代の昭和天皇にご進講した杉浦重剛のご進講記録にあります。
◎明治以降では、「自由・平等・博愛」。
◎おなじく明治以降のキリスト教で「信・望・愛」など。


◆◆◆ 十二 まとめ◆◆◆

甲:天孫降臨のときに皇孫が授けられた「三種の神器」

「八咫鏡」(神代より。伊勢神宮内宮のご神体)
「草薙剣」(神代より。熱田神宮のご神体)
「八坂瓊勾玉」(神代より。皇居の剣璽の間に奉斎)
(注:ここで神代とは、現在の考古学では、西暦紀元直前ごろと考えられます)

乙:皇統の証として皇居に祀られている「三種の神器」

「神鏡」(正直の本源)(推定三世紀の奉製。他に推定十一世紀前後のものも)
「神剣」(智慧の本源)(推定十二世紀に伊勢神宮奉製)
「神璽」(慈悲の本源)(「八坂瓊勾玉」と同じ)

『「三種の神器」とは精神的な存在であり、日本民族の心の歴史である』

(当然のことながら、「三種の神器」が安泰の時代は日本人が希望を持って団結している時代であり、「三種の神器」が危機の時代は日本人が仲間内で足を引っ張り合っている時代であります)

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 おわりに、「八咫鏡」が祀られている《伊勢神宮》の式年遷宮のおりに三天皇がお詠みになった御製を紹介しておきます。

 神風の伊勢の宮居のみや柱 たてあらためむ年は来にけり
        (明治天皇御製/明治四十二年/第57回)

 秋さりてそのふの夜のしづけきに 伊勢の大神をはるかをろがむ
           (昭和天皇御製/昭和四十八年/第60回)

 白石を踏み進みゆく我が前に 光に映えて新宮は立つ
     (今上天皇御製/平成六年/第61回の翌年)

(御白石について:式年遷宮のとき、全国の崇敬者が集まって、直径七センチ強の綺麗な白石を一人一個ずつもって御正殿の周囲に敷き詰めます。これは白石奉献と呼ばれる神事です。平成五年の遷宮時には、この神事に十万人もの崇敬者が参加したそうです。この行事は、ふだんは目にしにくい新しい御正殿を間近に拝む絶好の機会でもあります)

 大正天皇ご在位の時代には式年遷宮はありませんでした。明治の終わりが第57回で昭和の初めが第58回です。そこで、遷宮時ではない時の伊勢神宮をお詠みになった御製を示しておきます。

 たからかに年浪かへる五十鈴川 神のめぐみの深きをぞ汲む
                     (大正天皇御製)


(文献は略しますが、『日本書紀』以来の史書類のほか、田中卓、所功、長谷三千子、高森明勅先生たちの著書に学んでいます。資料集としては加藤仁平『三種の神器観より見たる日本精神史』を参考にしました)


[付記]

『皇室典範』の改正問題は、女帝女系が焦点になっていますので、あまり話題になりませんが、『現皇室典範』には「三種の神器」についての規定が無くなっております。
 すなわち、『旧皇室典範』の第十条には、
「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」
 ――とありますが、『現皇室典範』の第四条では、
「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」
 ――となっており、神器という言葉は、影も形もありません。
 皇室典範の改正は、まずこういう箇所からやってほしいものです。
 それは、皇室と一般国民とを結びつける精神的な拠り所なのですから・・・。


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