シベリア旅行記(1990年8月)

 
      青いバイカルとシベリア8日間
 
                        (1990年8月6日〜8月13日)
  学生時代にロシア語を第二外国語で勉強して以来、ロシア語とはすっかり縁が切れてい たが、友人のIさんのすすめで再びロシア語を勉強することになった。そしてロシア語学習 再開2年目にして、1972年以来18年ぶりに家族とともにロシアへ行くことになった。 母親と妻(里恵子)、長男(憲一:けんちゃん9歳)、次男(雅浩:まーくん6歳)と私 の5人でシベリアツアーに参加しました。

8月6日                        
 朝9時半にタクシーを呼んで、名古屋空港へ。10時過ぎに着き、搭乗手続きをしてい たら友人のIさんが来た。30分程ロビーで話して、10時30分になったので搭乗待室の 方へ行った。新潟までの飛行機は、ちょっと小さめのずんぐりした形の飛行機だった。搭 乗手続きが遅かったせいか、窓際の席は取れず、通路側に2人ずつになった。けんちゃん の隣のおじさんが席を代わってくれたので、けんちゃんだけは外 が見られた。

1時間で新潟到着。11時50分。荷物を預け、3時30分の集合時間までどうやって時 間をつぶすか困った。とりあえず昼御飯を食べ、後は待合室の椅子に座って、テレビを見 たり、ゲームボーイをやったりしていた。おばあちゃんは、3時半のハバロフスク行きが 最終だから、それに乗らなくてもいいのかとうるさく聞くし、出発前から疲れてしまった。

 3時半に国際線入口に集合して、やっと一安心。4時半にもう一度集まってから搭乗と いうことになった。出国の手続きは簡単で、ビザとパスポートを見せてはんこを一つ押し てもらっただけ。国際線待合室の免税店で「ジャックダニエルス」の黒ラベルを2,80 0円で買って、旅行中に飲むことにした。5時、いよいよハバロフスク行きのТу154 −Бに乗り込む。窓のあたりから白い煙(エアーかなにかだと思う)が出てきて、まーく んが扇子でぱたぱた煙を追っていた。5時半、予定どうり離陸。すぐに新潟で積んだ機内食が出た。飲物も出て、シャンパンをもらった。僅か2時間でハバロフ スクに到着。
 
 ハバロフスクに着いたのは、2時間の時差を入れて9時半。税関の検査を待つのに、1 時間以上も待ったような気がするが、実際にはそんなにかかっていない。まーくんがうん ちをしたいと言うので、トイレに連れていったが、何と便座がない。仕方ないので、陶器 の便器のお尻のあたるところに、トイレットペーパーを置いてやらせた。嫌がらずにすん なりとやってくれたので助かった。外はどしゃぶりの雨で、その中を走ってバスまで行っ た。バスに乗ってみて、またまた驚いた。フロントガラスがひび割れていて、接着剤のよ うなもので応急処置がしてあるのだ。空港から30分でホテルに着くという。子供たちが 眠たくなるので早く着いてほしい。バスに乗ってすぐに、これから旅行中ずっと一緒のソ 連インツーリストの職員ナターシャが紹介された。若くて、綺麗な、そしてスタイルのい い女性だ。しかし、残念なことに彼女は英語とロシア語しか話せないというのだ。ホテル に着いたのは、もう10時半ぐらいだった。レストランで夕食があるとのこと。みんな疲 れていてあまり食べられなかった。ウエイトレスが皆ロシア人で、ロシア語を喋っている のを見て、「ああ、ソ連に来た」と思った。
疲れた!早く寝たい! まーくんとおばあちゃん。お母さんとけんちゃん。お父さんはOさんという人と一緒の 部屋になった。Oさんは、大学のロシア語の先生をしているとのこと。ウィスキーを飲 みながら少し話した。

8月7日 
 朝7時前に起きて、けんちゃんとふたりでアムール河を散歩した。河で泳いで いる人がいてびっくりした。気温は17〜18度ぐらいで肌寒いくらいなのに。「寒くな いですか?」と声をかけたら、水は温かいとのことで、手を入れてみると確かに空気より もかなり温かかった。その人はすぐに水から上がり、乗ってきていた折り畳み式の自転車 に乗って行った。あまりに立派な自転車だったので、ソ連製かと聞いたら、そうだという ことで少し驚いた。アムール河畔がレーニンスタジアム公園になっていて、体育館やプー ル、サッカー場などがあった。年金生活者らしい老人が公園の掃除をしていた。自発的に しているのか、強制されているのかわからなかった。スタジアムと反対側に、なにか軍の 役所があるようで、制服を着た軍人が歩いていたし、大砲がいくつか展示されていた。ま た、大きな恐竜の骨の模型もあり、けんちゃんは喜んでいた。ホテルへ帰る途中でキャビ アを買わないかと言い寄ってくるロシア人がいたが、いらないと断った。後で、添乗員の 関根さんに話したところ、いくらぐらいだったかということで、ひとつぐらい買ってもい いんじゃないかと言っていた。
 
 ホテルの店が開いていたが、まだルーブルに交換していなかったのたで、とりあえず日 本から持ってきた僅かばかりのルーブルでけんちゃんとまーくんがバッヂを買った。朝食 はソーセージに黒パン、ハンバーグにライスのバター炒め、紅茶だった。

 食事のあと、バスで市内観光。先ずホテルのすぐ近くにあるコムソモール広場へ。ロシ ア人のこどもたちが、バッチを持ってきて「Change,Change」と言って、 ボールペンやチューインガム、ライターと交換してくれと寄ってきた。ナターシャは、彼 らは本当にそれらの物が欲しいのではなく、交換してもらったものを年上の者や、大人に 売るのだから、彼らに物を与えない方がよいと言っていたし、子供たちにも、外国人に物 をねだるのは恥ずかしいことだと注意していた。コムソモール広場で新婚のカップルに出 会った。ソ連では結婚の届けをしたあと、こういう場所に来るのが習慣だということだ。 再びバスに乗り、マルクス通りというハバロフスクの目抜き通りを通って、レーニン広場 へ行った。

 その後、ルーブルと交換するために、銀行へ行った。しかし、たくさんの人が両替に来 ていて、しかも銀行の職員は一人で、大変時間がかかった。まとめて関根さんに両替して もらった。2000円が78ルーブルになった。どのくらいの価値なのかまだ分からなか ったが、あとでかなりの金額だということを実感した。ホテルに戻って、今度は外国人専 用の店、「ベリョースカ」へ歩いて行った。ここは1ルーブル=260円のレートで品物 を売っており、割高な気がするが良い商品がたくさんある。おばあちゃんとお母さんは何 かおみやげを買っていたが、私はまーくんとけんちゃんのおかしと、自分のために缶ビー ルを買った。

 午後はアムール河遊覧で、船で河を1時間ほど走っただけのもので、特別に景色の良い ところがあるわけでもなく、あまりおもしろいものではなかった。

 そのあと、まーくんのズボンが大きすぎてズルズルおちてくるので、ベルトを買いに町 へでかけた。ホテルを出ると、また数人のこどもたちがつきまとって、ガムはないか、ボ ールペンはないかと寄ってきた。しばらく相手にしないでいたが、あまりにしつこく来る し、バッチをあげるといってまーくんやけんちゃんにもただで上げていたのでライターを 一個換えてやった。して、このこどもたちに、まーくんのベルトを買いたいが、どこで売 っているかと聞いたところ、デパートにあるということで、そこまで連れていってくれる ということになった。デパートまでちょっと距離があったので、おばあちゃんやお母さん は本当に連れていってくれるのかと心配していた。でも彼らは、信号でおばあちゃんやお 母さんが離れると、まだ来ていないから、ちょっと待っててくれと言って気を使っていた。

 デパートに着くと、彼らのうちの一人がさっとベルトを買いに行ったらしく、わたした ちをまーくんやけんちゃんのためにおもちゃ売場へ連れていってくれた。そこへベルトを 買ってきたこが戻ってきて、早速まーくんのズボンに通してくれたが、長すぎて、しかも 調節もできず困ったがとりあえずしばって使うことにした。お金はいくらかと聞いたら、 いらないと言っていたが、それはだめだと言ったら、1ルーブルと日本円の50円を取っ た。おもしろいことに、その50円をめぐって、「損をしていないか」とか、「たくさん もらいすぎだ」とか言い合っていた。けんちゃんにもベルトが欲しいので、「もう一本買 ってきてくれ」と言って、いくら要るか聞いたら、2ルーブルいくらかということで、5
ルーブル紙幣を渡したら、しばらくしてベルトを買ってきてくれて、おつりもきちんと返 してくれた。最初のベルトがさっと出てきて、すぐにまーくんのズボンに通していたので、 ひょっとして万引きしてきたのじゃないかと心配していたが、二度目はちゃんと買ってき たようだし、最初のベルトも取り越し苦労だったようだ。買物を手伝ってもらったお礼に シャープをやった。
 
 そこで彼らとは別れて、デパートの他の売場を見て回った。けんちゃんとまーくんはバ ッチのセットとトランプをお母さんはキーホルダーを買った。ソ連で買物をするのは大変 で、まず商品を見て何を買うか決めて、いくつも買う時は店員に計算してもらって、金額 を教えてもらい、レジに行ってお金を払い、レシートを持ってまた売場へ行き、そのレシ ートに店員が破れめを入れ、商品をくれるというものだ。レでお金を払う時に、丁寧に 「2ルーブル40カペイカ」といっていたら、ソ連の人たちは「2−40」というように 省略して言っていた。

 デパートを出て、マルクス通りを歩いてホテルまで帰ったが、途中でアイスクリームを 5個買ったら、何とたったの90コペイカだった。23円40銭だ。また道端でおじいさ んが自分の描いた絵を売っていたので1枚買ったが、13ルーブルという値段を聞いた時 は「高いな」と思ったが、円に換算すると僅か329円で安い買物だ。

 ハバロフスクでは日本より西にあるのに、2時間も時間が早いので日没が遅く、10時 頃だ。明るいうちに子供たちは寝なくてはならないので、変な感じだったようだ。おばあ ちゃんがまーくんと二人だとまーくんがベッドから落ちそうで眠れないというので、おば あちゃんの部屋にエキストラベッドを入れてもらって、お父さんと3人で寝ることにした。

8月8日 
 午前中、ホテルのすぐ近くにある博物館見学を10時から行うということで、朝食の後、 家族5人で河の近くを散歩した。展望台にも行った。博物館はハバロフスクの歴史をや地 理が展示してあり、1階には熊や鹿の剥製があり、まーくんやけんちゃんも喜んで見てい
たが、2階、3階は子供にとってはおもしろくなく、退屈していた。まーくんが途中でウ ンチに行きたいと言い出し、博物館の人にトイレの場所を聞いたけど「ない」ということ で、しかたなくホテルまで戻った。戻る途中、またキャビアはどうだと声をかけられたが、 それどころではないので「いらない」と言って断った。ホテルから博物館に戻ったところ で、みんなも出てきたのでちょうどよかった。

 まだ11時半ぐらいだったので、これからどうしようということになり、一般の路線バ スに乗ってみたいと言って、みんなで乗ってレーニン広場まで行くことにした。コムソモ ール広場から乗ったが、バスは時刻表なんかあって無いようなもので、適当に走っていた。 5分も待てば来るので時刻表など無くてもかまわない。バスはワンマンカーで乗降口が3 つあり、3つともが乗降口で、日本のように乗車口と降車口は別れていない。乗るとすぐ に、バスの中に2〜3か所設けられている料金箱に5カペイカを入れ、ハンドルを回して 切符を一枚もぎとる。回数券のは、穴開け器に入れて穴を開ける。料金箱から遠い人は、 隣の人に「カッサ」と言って5カペイカを渡し、それが次々に渡され料金箱の傍にいる人 までくると、その人が料金を入れ、切符をもぎり同様な方法で切符を渡していくというシ ステムだ。もし、5カペイカ硬貨がないときは、誰か5カペイカを入れるときにお釣りを もらうこともできるし、そういう人がいないときはやむを得ず10とか15カペイカを入 れることになる。

 レーニン広場まで3区間乗って、降りた。レーニン広場からマルクス大通りをぶらぶら 歩いて帰った。途中でいろんな店をのぞいて見たが、あまり欲しいものは無かった。

 午後からは飛行機でイルクーツクへ。ハバロフスクの空港の待合室でけんちゃんとまー くんがゲームボーイをして遊んでいたら、お店のおばさんからアイスクリームをもらって 食べていた。ハバロフスクからイルクーツクへは予定どおり16:00離陸。3時間の飛 行の後、時差2時間を引いて17:00にイルクーツク到着。

 夕食までの時間、アンガラ川のほとりをぶらぶらした。ホテルを出るとすぐに若い男が 近寄ってきて、ドルと交換してくれと言ってきたが「ない」と言って断った。けんちゃん とまーくんは川に石を投げて遊んでいた。川岸が公園になっていて親子連れや、若者たち がたくさんいた。ここも日没は10時頃だ。レストランで夕食の時、イルクーツクのガイ ドのリョーニャにウォッカを一杯ごちそうになった。

8月9日 
 バイカル湖観光。朝食の後、10時出発。イルクーツクから東へ60キロのところにあ るリストビャンカへ。アイルランドから個人旅行で来ているというマクドナルドという若 者も同乗させてほしいということで一緒だった。リストビャンカへ行く前にズナメンスキ ー寺院を見学。今もミサをやっているということで、ちょうどミサを見せてもらった。黄 金に輝く聖体や壁画がとても美しく、宗教的な雰囲気にみちあふれていた。イルクーツク にはたくさんの寺院があったが、スターリンの宗教弾圧政策で多くの寺院が取り壊されて しまったということで、今残っている寺院は数少ないとのことだった。その残り少ない寺 院の中で、ロシア正教の教会とカソリックの教会が道をはさんで両側にあるというところ にも寄った。ロシア正教の方は丸い屋根が特徴で、カソリックの方は尖った屋根をもって いた。ここでも外国人観光客にタバコやライター、ボールペンをねだる子供たちがたくさ んいて、ナターシャが注意していたが日本人が何人か物をやっていた。

 リストビャンカまでは約1時間半。タイガの林を抜けてただひたすらに走った。車も少 なく、80キロぐらいでとばしていた。リストビャンカのホテルで昼食。バーで280円 のビールを買って食事のときに飲んだ。ビールはデンマーク製。近くに、日本料理レスト ランがあるということで、何人かが食べに行ったが、昼食を食べていったのでお腹が苦し いと言って帰ってきた。ざるそばを食べたそうだが、ロシア人にあわせて量がたくさんで、 値段も900円とよかった。その間、けんちゃんとまーくんたちは花の実を採ったり、バ ッタを捕まえたりして遊んでいた。

 1時に港へ出発。船着き場に着いて船の時間を問い合 わせていたら、3時だという。船着き場にいたあまり可愛くはない女の子に写真を撮らせ てくれと頼んだら、恥ずかしがって「うん」と言わなかったが、まーくんと一緒に写って くれと頼んで何とか撮らせてくれた。そのあいだじゅう、ともだちの男の子がなんだかん だと言って冷やかしていた。写真を撮ったあと、写真を送ってあげるから住所を書いてく れと言うと、またもじもじしていたが、なんとか書いてくれた。お礼にガムをあげたらま わりの男の子たちが「ぼくも」、「ぼくも」と寄ってきて大変だった。

 関根さんが、近く に店があるからと言って連れていってくれたが、あいにくと3時まで昼休みだった。しか たなく岸辺で日光浴をしているロシア人を眺めていたり、まーくんやけんちゃんと一緒に 石を投げて遊んでいた。道をはさんで向こうに小学校らしいものがあり、そこでも少し遊 んだ。

 3時前に遊覧船に乗った。最初の予定では、アンガラ川に沿ってイルクーツクの近くま で行く予定だったが、バイカル湖をちょっと回るだけのものになった。30分ぐらい岸に 沿ってはしったら、キャンプ場があり、そこで10分位とまった。その間に水着に着替え て泳いでいた外国人がいた。水は結構冷たく、とても長い時間入っていられない。船はキ ャンプ場にいた人を乗せて、元のリストビャンカの船着き場に戻った。そこからまたバス に1時間半ほど乗ってイルクーツクに戻った。

 夕食のあとデカブリスト博物館見学。ホテルからバスで10分ぐらい。オプションで1 人 1,200円払った。けんちゃんとまーくんには全く面白くなく、博物館見学のあとミニコ ンサートがあったがこれもクラッシックで1時間近くもあり、隣の部屋で終わるのを待っ ていた。けんちゃんとおばあちゃんは外に出て、鍵を掛けられてしまった。10時ぐらい に終わったが、まだ明るく日本の6時ぐらいの感だった。街を見ながら歩いて帰るという 人もいたが、こどももいるのでバスで帰った。
 
 お湯をもらいにジェジュールナヤのところへ行くと、「いないので9階へ行ってくださ い」とメモが貼ってあったので9階へ行くと、ちょうどサモワールの水がなくなったので ちょっとそこに座って待っててくれというので、しばらく待っていたが、今日の昼に写真 を撮った女の子の住所がよくわからないので、教えてもらおうと一度部屋に帰った。そし て住所を書いたメモ帳を持って行って、よくわかるように書き直してもらった。彼女はヤ クーツクで生まれて、小さい時にイルクーツクに来たそうだ。11才になる娘が一人いる と言っていた。

8月10日 
 朝、昨日のジェジュールナヤの写真を撮りに行った。昨日の服のほうが良かったがしか たない。彼女の部屋にいくと、夫や娘の洗濯物が部屋いっぱいに干してあった。朝食の後、 ベリョースカでおばあちゃんとお母さんは買物。
 
 9時にホテルを出発し、タイガの森へピクニック。イルクーツクから南へ60キロ。途 中、軍の施設の見える所も通り、トラックがたくさん並んでいた。そこをカメラでとって も今は何も言われなくなった。目的地に着いても家が一軒あって、おじいさんとおばあさ んが住んでいるだけで、そこからさらに200mぐらい入ったところに立派な家があった。

  そこが街からピクニックに来る人達のための施設らしい。長椅子に毛皮が貼ってあった。 きのこがたくさん生えているということで、みんなできのこ狩りをした。大きなきのこが たくさん生えていて、けんちゃんもまーくんも大喜び。バケツを持って採りに行った。まー くんは犬に吠えられ、追っかけられて大泣きした。たくさん採れたきのこをおじいさんが 食べられるのと食べられないのに分けてくれ、ナターシャが料理してくれた。他の料理は 町から車に材料を積んで持ってきて、その人達が作ってくれた。1時頃の食事になったの で、みんなお腹も空いていたし、ウォッカも飲んで久し振りの美味しい食事に喜んでいた。 自己紹介をしながらの楽しいひとときだった。帰りに、料理を作ってくれた人にイクラを 1000円で買ってくれと言われ、買った。2時過ぎに出発し、同じ道を戻った。
 
 4時にホテルを出て、空港へ。結局イルクーツクの町をゆっくりと見てまわることがで きず、とても残念だった。遊園地もあったけど、バスから見ただけに終わった。空港に着 くと、5時の飛行機に全員乗れず、6時の飛行機とわかれわかれになるとのこと。6時の 飛行機になったので、絵はがきを書き、子供たちがアイスクリームを食べたいというので 探したがなかった。けんちゃんと関根さんと三人で空港前のカフェに入ったが、ジュース もなく、コーヒーだけということで、けんちゃんは何も飲めなかった。コーヒーは24カ ペイカだった。約65円。ただし、外国人は10分の1に切り下げられているのでわずか 6円ぐらいということになってしまう。
 
 飛行機の準備ができたからというので、外国人だけトレーラーのようなバスに乗せられ 飛行機のそばまで行ったが、まだ乗せてもらえず、しばらく待っていたらロシア人のお客 さんも来たがやっぱり乗せてもらえず、しばらく待っていると給油を始めた。お客をそば で待たせておいて給油するなどソ連でこそ通用することだと思った。給油しているのを見 ていると、入れるはしからジャージャーと油が漏れている。こんな飛行機には乗りたくな いと同行の外国人が言っていた。給油が一応終わると、外国人から乗せてくれた。プロペ ラ機で入口が後ろにあったので、前から順に座っていったら、ちょうど羽根のところだっ た。エンジンをかけるとものすごい騒音で、プロペラ機の羽根のそばには乗るものじゃな いとつくづく思った。更に悪いことに、ハエが飛行機の中をわがもの顔に飛び回っており、 ハエをやっつける仕事もできた。悪い時には悪いことが重なるもので、離陸してしばらく 雲の中を飛んでいたため飛行機が上がったり、下がったりで気持ちが悪くなりそうだった。 後ろの席のロシア人の若い女の子もぐったりしていた。後半は揺れも少なく順調に飛んだ が、前の荷物室との境の扉が閉まらなくなり騒音が一層ひどくなった。1時間後にはなん とかブラーツクの空港に着いた。

 先発隊は、バスが出なくて空港で足止めされていたとのことで不満をもらしていた。後 で聞くと、バスの運転手が二度も往復したくないので、1時間半では行って戻ってこれな いかもしれないというのでナターシャが後発隊を待つことにしたということだった。実際 は30分ぐらいでホテル「タイガ」まで行た。なにしろ道は良いし、車は少ないのでスピ ードは100キロ以上も出して走っていた。ホテルに着くとすぐに食事。2階のレストラ ンで食べたが、ちょうどバンドが入っていて、さながらディスコといったかんじだった。 疲れていなければ一緒に踊っただろうが、この日はタイガの森へのピクニック、そしてそ の後のひどい飛行機にゆられての移動ですっかり疲れていたので、踊る元気もなかった。

8月11日 
 朝7時前に起きて、町を散歩することにした。一人で大通りを500m四方くらい歩い た。ホテルの近くには店がいくつかあったが、しばらく行くと住宅地ばかりになった。ち ょうど出勤する人たちがバスを待っていた。バスは頻繁に走っていたがどれも満員だった。 工場のバスが迎えに来ているところもあったようだった。ホテルのななめ横に映画館があっ た。なにをやっているのかはよくわからなかったが、こども向けの映画もやっていた。

 朝食の後、ホテルの売店で「ドクトル・ジバゴ」を書いたパステルナークの絵はがきを 売っていたので、めずらしいと思って買った。また子供のお菓子が少なくなってきたので、 隣にある食料品店に買いに行ったがクラッカーのようなものか焼きパンのようなものしか なく、細い棒状のクラッカーのようなものを買ったが、大きなビニール袋に入って1ルー ブル(26円)だった。子供たちはちょうど骨のような形なので「骨、骨」と言って喜ん で食べていた。ホテルの前でクワス(ソ連のコカコーラといわれていたが炭酸は入ってい ない)を売っていたのでジョッキ一杯3カペイカで買ってみんなで飲んだ。こどもたちに はあまり評判が良くなかった。

 午前中は1964年に完成した世界最大の水力発電所を見学に行った。ブラーツクのガ イドのアナトーリーさんは真面目そのもので、北方領土の問題について、エリツィンが提 案したまず4島を共同管理下におき、その後日本に返還すると言う方法を個人的に支持す るとか、イラクのクウェート侵攻のその後の情勢などについてもバスの中で話した。40 分ぐらいで発電所に着き、外から全体を見たあと内部に入って説明を聞いた。送電線は東 ヨーロッパまで続いており、いざというときには送電することもできるが、通常はシベリ ア地方に電力を供給しているとのことだった。ダムの上を道路と鉄道線路が走っていた。

 道路をバスで通り、ダムの上から発電所を見た。線路は第二シベリア鉄道(ВАМ鉄道) の線路だった。ダム見学のあと、帰る途中に百貨店があったので、そこに立ち寄って買物 をした。イルクーツクのホテルのベリョースカ(外貨専用の店、1ルーブル=260円で 換算)で売っていたのと同じ毛皮で出来た猫や犬の壁掛けが格安の値段で売られていたの で、猫を3枚買った。時間がなかったのでたくさんは買えなかったが、得をしたような気 分になった。

 ホテルに帰って昼食をとり、午後からは屋外にある民族資料館に行った。昔、ここに住 んでいたヤクート族の住居などがいくつも建てられていた。それをアナトーリーが丁寧に 説明してくれるので、みんなはうんざりして聞いていた。ここは2つの区域に別れていて、 ヤクート族の生活を展示した区域とここに最初に移住してきたロシア人の家が展示してあ る区域だ。暑さも手伝ってみんな疲れた顔をしていた。ここで、3組の新婚さんに出会っ た。
 
 夕方、ホテルに戻ったあと少し時間があったので、こどもたちにクワスを買ってきてや るからといって妻と二人で町に買物に行った。しかし、もうクワス売りのおばさんはいな くなっていて、ホテルの入口のすぐ横の喫茶店風のところでみんなが何か飲んでいるので、 並んで買ったらクワスではなく、はっかの入ったようなスーッとする飲物だった。値段も 30カペイカぐらいした。道をはさんだ向かいにデパートがあるというので探したが見つ からなかった。食料品店があいていて人がたくさんいたが買うようなものはなく、本屋を 見つけたが新入学フェアにいっているので休みという張り紙がしてあった。朝、散歩の時 に見つけておいたその場所に行ってみたら、土曜日は3時までということで、もう誰もい なかった。結局何も買えずにホテルに戻った。

 花火を持ってきていたのでやることにしたが、明るくてあまりきれいに見えないけど翌 日3時に起きなければならないので暗くなるまで待つこともできず、8時頃(日本では5 時ぐらいの明るさ)にホテルの前でやった。やりはじめると、子供たちが寄ってきて欲し いと言って手を出すのでみんなに分けてやった。家庭用の花火などソ連にはないみたいで、 みんな珍しそうにして大人も寄り集まってきた。なかには花火に火をつけているライター をみて、それをくれと言って、奥さんに物をねだるなんてやめなさいと叱られているおじ さんもいた。線香花火が多かったので、まっすぐ持って、下に向けて、動かさないで、玉 を落とさないでなどと注意するのが大変だった。こんなにみんなが喜んでくれるのならも っと持って来れば良かったと思った。

 花火の後、部屋に戻ってカップラーメンを食べるこ とにした。ジェジュールナヤにお湯をもらって、彼女にも同じものを一つあげた。そして 一緒に写真を撮り、住所を聞いておいた。 廊下で関根さんに会い、東都いすずの人達のところで飲んでるから来ないかと誘われて行
った。部屋にはナターシャもいて楽しそうに飲んでいた。ナターシャにこれもあげる、あ れもあげると言っているうちに酒の空箱や、ひとのカバンまであげると言って大分悪のり していた。氷がなかったので、貰ってきてあげると言って空の1lびんを2本持っていこ うとしたら、何もなしではもらい辛いだろうからとライターを2個くれた。1個でいいと 言ったが、2本だから2個だと言って2個渡された。

 2階のレストランに行って、氷水2本もらって部屋に戻ると、洗面所でナターシャが泣 いていた。そばで関根さんがとりつくろっていたが、とうとう彼女は自分の部屋に戻って いった。後で関根さんに聞いたところによると、彼女にいろんなものをあげたまでは良かっ たが、悪のりして空箱やゴミみたいなものまでやると言われてプライドを酷く傷つけられ たらしいということだった。彼女の友達にも外国の良い品物が欲しくて、体を提供したり している者がいるということもあり、物を無責任に与えられることに屈辱を感じたのでは ないか。奢れる日本人の姿を見せられ、こちらも恥ずかしくなった。当の本人達も反省し ていたが、体にしみついたものがつい出てきたもので、またどこかで同じようなことをす るかもしれない。たまたま日本に住んでいたからという理由だけで、ソ連で物を投げ与え るようなことをしたり、高いみやげものを買いあさったり、優越意識を持ったりするのは 大間違いだ。人間はその人の置かれた状況、組織、等によってその価値が決まるのではな く、いかに行動し、いかに発言し、考えたかによってその価値が決まるものだ。そういう 点では、ロシア人も日本人も何ら優劣はない。にもかかわらず、金と物がその人間の価値 を高めているかのように錯覚し、奢り高ぶるというのは悲しいことだ。せっかくナターシャ と楽しく飲めると思っていたのに全く興覚めしてしまった。次の日の3時起床に備えて10 時には寝た。

8月12日 
 朝3時、モーニングコールのベルの音がなる。3時半にはスーツケースをとりにきた。 3時45分、ホテルのロビーに集合。飛行機が30分遅れて5時30分になったというが、 ここで待っていてもしようがないということで空港に向かった。ブラーツクのガイドのア ナトーリーも来ていた。夜のタイガをバスで走っていると、バスの明かりでうす明るくなっ たまわりの景色が、まるで雪の中を走っているようで、冬に来るとこんなふうかなと思っ て外を見ていた。

 空港に着いて、待合室でしばらく待たされた。みんなウトウトとしていたら、突然ナタ ーシャが「出発です」と言ってみんなを起こして待合室の外へ出たら、空港の職員がどこ へ行くのかと聞いて、まだ飛行機は出ないとのことだった。ナターシャも疲れていて乗り 遅れそうになった夢でも見たのだろう。下の階の待合室にもう一度入り、しばらくすると 今度は本当に出発ということになった。飛行機はプロペラ機ではなくジェット機だったの で一安心。プロペラ機にはもうこりごりで二度とソ連では乗りたくない。飛行機はもう既 にロシア人の乗客が乗っており、空いている所にバラバラに座った。まだ朝早いのでみん な眠そうだった。私はロシア人の親子の隣に座った。眠くなければ話しかけたけど、眠く て眠くてウトウトしている間に3時間が過ぎ、ハバロフスクに着いた。

 ハバロフスクの空港の前に野菜を売っている個人の店がいっぱい出ていた。見てみると 野菜の他に、青りんごやトマトも売っていたので、真っ赤に熟れたトマトの値段を聞いた ら、小さな袋に一杯で5ルーブルもするということだったが、おいしそうだったので買っ たら、お金はいらないというのでプラスチックの調味料入れをあげた。トマトは早速バス の中でみんなにも配って食べた。完熟の味でとても美味しかった。

 空港からバスにしばらく乗っていくと、日本人墓地に着いた。日本人墓地といっても墓 地全体の一角が日本人墓地になっているもので、案外小さなものだった。シベリアで多く の日本人が死んだだろうが、こうして墓地に葬られたものはまだしも幸せなほうだと思う。
しかし、日本人墓地でなぜか素直に彼らの死を悼むことができなかった。侵略戦争の兵と して他国を侵しておきながら、敗戦とともにソ連の捕虜となり強制労働をさせられ、その あげくに異国の地で生涯を閉じなければならなかったからといって素直に彼らを悼むこと はできないであろう。根本には日本の大陸侵略を阻止しえなかったという、国民の力のな さがある。そして軍国日本の先兵として大陸へ侵略してきたのが、まさに彼らではなかっ たのか。日本人墓地で30分程過ごしたあと最初に泊まったのと同じインツーリストホテ ルに行った。
 昼食の後、自由行動だったが、自由市場までバスを出してもらうように交渉したらど うかと関根さんに言われたが、子供たちを近くの遊園地に連れていこうと決めていたので 断った。遊園地はコムソモール広場のとなりにあり、日曜日だということでたくさんの人 出だった。乗り物はいくつかあったがどれも並んで待っていたので、並ばなくても乗れる のにした。東山公園(名古屋の動植物園)にもあるビックリハウスのようなもので、座っ ている椅子が上がったり下がったりし、周りの壁が反対に動くので、部屋がひっくり返っ ているような錯覚におちいるというものだ。他のはみんな混んでいるし、どれが何という 乗り物なのかよくわからず、こどもたちは同じものに2回乗って満足していた。遊園地の 入口近くでアイスクリームを売っていたが、ここも並んでいて10分位ならんだ。そのあ とトイレに行ったら、ものすごく汚くて鼻と目が痛くなり、息を止めてした。

 ホテルに戻り、子供たちはおばあちゃんと留守番をしてゲームボーイをやっているとい うので、妻と二人で町に行った。ホテルの近くのトロリーバスのバス停から乗り、デパー トのあたりで降りた。マルクス大通りをぶらぶらと店を覗きながらきたが、あまりいいも のはなかった。夕食の後、ホテルの6階のエレベータ前で同じツアー参加者の Iさんの日 本舞踊を見せてもらった。袴や扇子、ラジカセにテープまで用意していた。その後、Iさん たちの部屋に行って、カップラーメンを食べたり、おかきを食べたりした。そしてまた、 東都いすずの人達の部屋で関根さんも一緒に飲んだ。といってももう飲むものが少ししか なく、早く終わった。

8月13日 
 朝食後、ベリョースカへ買物に。みんな高価なお土産をどんどん買いまくっていた。まー くんがトイレに行きたいと言い出し、ベリョースカにはないので困ったが、店の人に子供 がトイレに行きたいのでと説明して、トイレを貸してもらった。ベリョースカを出て、マ ルクス大通りに買物に行こうと子供たちに言ったが、子供たちはいやだと言うので妻に任 せて、一人で買物に行った。ルーブルが30ルーブル程残っていたので使ってしまわなけ ればならず、何かいいものがないかと歩きまわった。まずバスに乗ってコムソモール広場 の手前まで行き、本屋でハバロフスクの地図とやさしい読み物を買った。ちょうど新入学 の時期で、小学生向けのやさしい本がたくさん売っていたのでロシア語のクラスのみんな におみやげに本を買っていくことにした。本は安くて、1冊15〜20カペイカでたくさ ん買ったなと思っても、3ルーブルぐらいだった。かばんにぽんぽんに押し込んで先に歩 いていると、珍しくタバコを売っていた。北朝鮮のタバコで1箱40カペイカだというの で、お土産にちょうどよいと思い、10個買った。何かいれものをを買わないと、もうこ れ以上何も買えないし、重いしということで、デパートに行ってカバン売場へ行くと、ち ょうど女性用のバックを売っていて、それを買い求める人でとてもほかの物は買えそうも なかったので、文房具売場に行って子供用の背中に背負うこともできる子供のカバンを見 たがあまりぱっとしないし、値段もついてなかったし、店員は別のところで忙しそうだし、 しばらくしてまたカバン売場へ行ってみたら、今度は空いていたので、袋を見せてもらっ て10ルーブル50カペイカで買った。とても高い袋だ。じょうぶそうだけどこの値段に はびっくりした。でもルーブルがまだたくさん残っていたので買った。その袋に本とタバ コを入れて帰った。11時頃に帰るつもりだったのが11時半過ぎになってしまった。帰 りはデパートの前からトロリーバスに乗って帰った。

 ホテルの外貨ショップで残っていたドルでソ連のタオルを買った。昼食のあとはハバロ フスク空港へ。空港に着いてまたしばらく時間があった。売店でコーヒーやアイスクリー ムを売っていたがルーブルを全部使ってしまっていたのでそれも食べられず、ベリョース カで初めてソ連のタバコにおめにかかり、大量に買うのも気がひけて2個だけ買った。税 関検査も簡単に終わり、予定よりも早く飛行機は出発した。2時間余りの飛行の途中でや はり機内食が出た。

 16時20分頃に新潟に着いた。飛行機から一歩外へでると、じとっと生暖かくしめっ た空気にからだを包まれ、日本の暑さにうんざりした。17時半発の名古屋行きの飛行機 にはゆっくり間に合った。日本の飛行機の機内の美しさや、スチュワーデスのサービスが とてもすばらしく見えた。飛行機は富士山の横を通り予定よりも早く着いた。空港からは タクシーで家まで帰った。7時半頃には家に着き、日本の風呂にゆっくりとつかり、旅の 垢を落とした。
 
                   1990年9月7日   田口龍司


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