【オルケストル・バオバブ・ヒストリー】・・・準備稿

1960年にセネガル共和国が独立するまでは、実質的にセネガル独自のポピュラー音楽は存在しなかった。それが変化するひとつのきっかけとなったのが、スター・バンドの誕生である。8月20日の独立を記念して、イブラヒム・カッセの経営するミアミ・クラブ専属のバンドとして結成されたのが、スター・バンドだ。主なレパートリーはラテンのカバーで、60年代はこのスター・バンドに牽引された時代であった。

このバンドはメンバーの入れ替わりが激しく、60〜70年代を通じて、主要メンバーたちが新たにバンドを結成するために脱退していく度、新メンバーの補充を繰り返していった。こうした中、60年代末には後にバオバブの主要メンバーとなるミュージシャンが集まった。70年代中頃に発売された『STAR BAND VOL.7』というLPには、69年頃に録音されたと思われるオルケストル・サフ・マウンナデムというバンドの演奏が3曲収められている。このバンドはやがてオルケストル・バオバブとして生まれ変わることになるために、バオバブ誕生前夜のサウンドを知る上で興味深い作品となっており、当時のアフロ・キューバンが中心の演奏が聴ける(ちなみに、このグループのリーダーはサックスのイサ・シソッコで、他にギターのバテレミ・アテッィソ、ヴォーカルのバラ・シディベ、メドゥーン・ジャロが参加している)。

そして1970年、バラ・シディベ、メドゥーン・ジャロ、イサ・シソッコ、バテレミ・アティッソがスター・バンドを脱退、彼らを中心として新たにオープンしたバオバブ・クラブで演奏するバンドとしてオルケストル・バオバブが誕生。

1970年結成時のオリジナル・メンバー
・Baroune N’Diaye(ts)
・Barthelemy Attisso(g)
・Sideth Ly(b)
・Balla Sidibe(vo)
・Laye M’Boup(vo)
・Rudy Gomis(vo)

このときリーダーだったサックスのバロ・ンジャエは、すぐにイサ・シソッコと入れ替わることになる。また結成時のメンバーとして、Biteye(ds)、Moussa Kone(conga、toumba)といった名前が挙げられることもあるが、この辺りについてはっきりしたことは分からない。

バオバブ・クラブでは上流階級の人間を相手に、ラテンのカバーやスター・バンドのレパートリーを主に演奏していた。出演は毎週末のみであったが、まもなくステージが毎晩のこととなった。このことからも当時の人気振りがうかがえる。70、71年頃のバオバブ・クラブでの録音は2枚のLPで聴くことが出来(一部CD化されている)、そのクレジットによるとこの頃のメンバーは次の通り。見て分かる通り、これから10年以上にわたってともに活動するメンバーがすでに揃っている。

1970年代初頭のメンバー
・Issa Cissoko(ts)
・Barthelemy Attisso(g)
・Ben Geloum(g)
・Sideth Ly(b)
・Balla Sidibe(vo)
・Medoune Diallo(vo)
・Laye M’Boup(vo)
・Rudy Gomis(vo)

ウォロフなどのネイティブなものに加えて、スパニッシュ、フレンチ、クレオール(アフリカ化したポルトガル語)などでも歌うことが出来たバラ・シディベとメドウーン・ジャロ、粘っこいハイ・トーンに特徴があるグリオ系のレイ・ンバウプなど、バンドの初期から個性溢れるヴォーカリストを多数擁していた。特に重要なのはレイ・ンバウプの参加である。グリオ系の彼はセネガルで初めてウォロフ語でポップスを歌ったと言われ、これまでのひたすらクリーンなアフロ・キューバンにはない泥臭さや不思議な感覚をもたらすことになった。そしてそれが後のンバラなどにも計り知れない影響を与えている。不思議なのは、オリジナル・メンバーのひとりとされるR・ゴミスの名がどのLPにもクレジットされていないことだ。

遅れて、サンルイ出身のベン・ジェルーン(リズム・ギター)とナイジェリア出身のピーター・ウド(クラリネット)が加入する。また、ソラーノ劇場での仕事を掛け持ちしていたレイ・ンバウプが必ず姿を現すと限らなかったので、クラブ・オーナーの希望により彼の代役を務められる歌手のオーディションを実施、ここで「Demb」を歌ってレイに対する敬意を示した天才少年チョーン・セックが文句なしに選ばれた。しかしチョーン・セックは若すぎるという理由から、加えてN.Diengも加入(72年)。実際、77年に加入したする資料もあるので、実際チョーン・セックのバオバブでの活動は限定的なものだったのかも知れない。

1970年代中〜後期のメンバー構成
・Issa Cissoko(ts)
・Barthelemy Atisso(g)
・Pape Ba(g)
・Charles Ndiaye(b)
・Peter Udo(cl、as)
・Mountaga Konte(tumba)
・Balla Sidibe(vo)
・Medoune Diallo(vo)
・Laye M’Boup(vo)(〜75年まで)
・Ndioung Dieng(vo)
・Thione Seck(vo)
・Rudy Gomis(vo)

ところが順風満帆だったかれらの活動に大きな悲劇が襲う。1974年、L・ンバウプが自動車事故死(ただし死亡年を75年とする資料も多く、70年代にBUURレーベルから発売された彼の追悼盤シングルには、死亡日が1975年6月23日と明記されている)。

70年代中頃の録音はやはりバオバブ・クラブでなされたものがLP5枚分残っており、BUURレーベルからリリースされている(一部CDで聴くことが出来る)。ラテン風の演奏が多く、かなりムーディなものもある。その一方で、かなり過激な作品も混じっている。タマやティンバレスが連打され、ヴォーカル陣がシャウトを繰り返すもの、JB張りのどファンクなどもある。いち早くロックを演奏していた隣国ガンビアのスーパー・イーグルズなどからの影響も明らかだ。また逆にユッスー・ンドゥールらに与えた影響も間違いなくあったことだろう。ナンバーワンとともに、当時のセネガルとしては突出して進んだサウンドを展開していた様が伝わってくる。もしもこうした方向性を強めてアフロ・キューバンから完全な脱皮を成し遂げていたら、またレイ・ンボウプが生きていたら、一体どんなバンドに変身していたかと考えると、興味深いものがある。なおこれらのアルバムにもルディ・ゴミスのクレジットはなく、レコーディングには不参加だったのかどうか、不可解だ。

1977年4月 拠点をバオバブからジャンディール(後のキリマンジャロ)に移転。これにはバオバブのクラブ・オーナーが交代したことが大きな理由と思われる。さらに、バラフォンやンガラムというクラブに移籍(バオバブ・クラブは79年に閉店)。ジャンディール時代の録音は2枚のLPに残されている(うち一枚はその名も『ジャンディールの一夜』と題されている)。

1978年6月パリに渡り、その後マルセイユへ。

1978年12月帰国。フランスには5ヶ月間滞在して、レコーディングも実施(2枚のLPと1枚の12インチ・シングルとしてリリース)。だがビジネス的には失敗だった。上り調子一辺倒だったバオバブに後退の兆しが見え始めたのはこの頃と言えるだろう。

1979年チョーン・セック脱退、かわってチョーン・セックの弟のマペンダ・セックが加入

1980年代初頭のメンバー構成
・Issa Cissoko(ts)
・Barthelemy Attisso(g)
・Pape Ba(g)
・Adama Sar(g)
・Charles Ndiaye(b)
・Mountaga Konte(tumba)
・Balla Sidibe(vo)
・Medoune Diallo(vo)
・Ndioung Dieng(vo)
・Rudy Gomis(vo)
・Mapenda Seck(vo)

帰国後もコンスタントに新作をリリースし続けていた(LPからカセットへの移行時期でもあった)が、グループの人気に翳りが出始めた。スター・バンドから大量にメンバーが脱退して、ユッスー・ンドゥールらが1979年に結成したのがエトワール・ドゥ・ダカール、これが1982年に再分裂してシュペール・エトワール・ドゥ・ダカールとエトワール2000となる。彼らのサバールやタマといった伝統楽器のハードなリズムを中心に据えた若々しいサウンド、ユッスー・ンドゥールというカリスマに牽引されたンバラという斬新な音楽に、多くの若者が圧倒され、かつて一世を風靡したバオバブのサウンドは古くさいものととられてしまった。

ラテン音楽に固執する考えと新しいサウンドへの移行を図る考えが対立し、バンド・メンバーの離散が始まる。結局、後に『PIRATES CHOICE』としてCD化される1982年スタジオ・セッションが、彼らのサウンドが輝いていた最後となってしまう。

1984年頃、ヴォーカルのM・ジャロとN・ディエンが脱退、その後M・ジャロは元スターバンド、ナンバー・ワンのパぺ・セックらとニューヨークでサルサ・グループ、アフリカンドを結成して大成功を収める。

1986年には、ギターのB・アティッソとヴォーカルのR・ゴミスが脱退。オリジナル・メンバーとして唯一残ったB・シディベを中心に、BAOBAB NEW LOOKと名乗り活動継続。サバールや女性ボーカルを導入したものの不成功に終わり、1987年にグループは解散、20年近いオルケストル・バオバブの歴史に幕が下ろされることとなる。

こうしたグループの衰退・消滅とクロスする形で、彼らの再評価が進んだのだから、面白い。欧州の一部で82年のセッションの録音が違法コピーされて評判となり、これらの曲がワールド・サーキットの手によって復刻された。海賊版として出回った(パイレートされた)ことから、LPとCDは『PIRATES CHOICE』と題された。92年には同じワールド・サーキットにより大失敗に終わった78年滞仏時のセッションもCD化。98年と99年には、それぞれオランダのダカール・サウンドとドイツのポピュラー・アフリカン・ミュージックによって、70〜77年のレアな録音までもがCD化された。さらに2002年には82年にセッションの12曲が完全復刻されるに至る。

そしてこうした動きの裏で同時進行していたのが、バオバブ再結成プロジェクトなのである。

2002年再結成メンバー
・Issa Cissokho(ts)
・Thierno Koite(ss、as、ts)
・Barthelemy Attisso(vo、g)
・Latfi Ben Geloune(g)
・Charlie Ndiaye(b)
・Mountaga Koite(ds、conga)
・Balla Sidibe(vo、timbales)
・Rudy Gomis(vo、maracas、clave)
・Medoune Diallo(vo)
・Ndioung Dieng(vo)
・Assane Mboup(vo)

2001年 WOMEX(オランダのロッテルダム)で初の再結成ステージ(I・シソッコは不参加)
2001年11月   新作レコーディング(ロンドン、パリ、セネガル)

2002年6月22日 セネガルのサンルイでのライブ
2002年7月9日  アメリカ・ツアー開始
2002年7月30日 WOMAD(UK)出演
2002年9月23日 『SPECIALIST IN ALL STYLES』英国リリース
2002年10月8日 『SPECIALIST IN ALL STYLES』米国リリース
2002年10月17日〜 欧州ツアー(
イギリス、ドイツ、スペイン、フランス、ベルギー、オーストリア、アイルランド、オランダ

2002年1月    『SPECIALIST IN ALL STYLES』日本盤リリース(予定)


(2002/10/30)

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