「JOKO」 / YOUSSOU N'DOUR



ユッスー・ンドゥールの最新作「JOKO」がようやくリリースされました。そこでかねてから予告していたとおり、このアルバムを含めて彼の最近の活動について個人的に論評しようと思うのですが、実はまだきちんと自分の考えをまとめられないでいます。しかし、アフリカ音楽のサイトである以上、「JOKO」についても一言触れておくべきと思い、未完成な原稿ですが、現時点での印象を簡単にまとめてみました。


〜 深化し続けるユッスー・ンドゥール 〜

アフリカ音楽との個人的な出会いは、サリフ・ケイタの「ソロ」だった。アフリカ内外の強者ミュージシャンによって構成されたバンドと、サリフ・ケイタの強靱なボーカルが発するサウンドは、それまで全く聞いたことのないもので、世界にはとんでもなく凄い音楽があることを知って、大きな衝撃を受けたことを憶えている。そしてこの音楽の延長上には、アフリカの要素と欧米の要素、それに最新のテクノロジーが融合することで生まれる全く新しい音楽の創造が待ちかまえているのだろうと胸を高鳴らせたものだ。この考えは、ユッスー・ンドゥールの「セット」を聞くことで確固たるものとなった。アフリカ音楽と欧米の音楽の理想的混交を通じて、新時代のポピュラー音楽が創造されるものと信じて疑わなかったのだ。

しかし残念なことに、ワールド・ミュージックのブームが一段落することとシンクロするように、アフリカ音楽の全体状況も一見失速気味である。サリフ・ケイタとユッスー・ンドゥールというアフリカ音楽を牽引する両輪は、ともに様々なパートナーとの共同作業を通じて新たな音楽を模索し続けているものの、私が当初抱いた期待に十分応える成果は実現できていない。 サリフは彼の最高作「FOLON」にしても、「ソロ」の与えた衝撃を超えるものではなかった。一方のユッスーもインターナショナル盤に関しては、「Seven Seconds」の大ヒットは別問題として、音楽的に「セット」に続く傑作を完成できないでいる。

しかしだからと言ってユッスーの音楽が後退してしまった訳では決してない。カセットの形で発表しているセネガル国内向けの作品群の充実度はかなり高い。たとえそれが過去の楽曲の再生産作業であっても、そのどれもが素晴らしい仕上がりで、とりわけ「ST−LOUIS」、「SPECIAL FIN D’ANNEE」が最近の傑作アルバムであることに異論はないだろう。アルバムごとに彼の音楽は着実に進化と深化を繰り返しており、絶えず前進し続けていることに変化はない。

そのことは、昨年のライブで3度に渡って確認することができた。5月にはセネガルで、秋以降は新作ライブ・カセット「LE GRAND BAL」で、そして11〜12月には東京のブルーノート公演で、ユッスーの素晴らしい音楽世界に浸りきった。

セネガルではダカール郊外にユッスー自身が所有するクラブ、チョサンで、アメリカ公演を終えて帰国した直後のユッスーらのパフォーマンスを見ることができた。実際にクラブでのライブを体験してみると、それはライブ・ビデオなどから想像するステージとはかなり印象の異なるものであった。1時間ほどの前座の後、ユッスーがステージに現れたのは深夜2時で、4時過ぎまでの間に演奏したのは計11曲。どの曲も10分を超えるもので、前半がボーカル・パート、後半はインスト・パートと分けてとらえることができる。サバールの主導する反復するリズムの上を、前半はユッスーの声が、後半はアサン・チャムのタマが弾み跳び回る音楽だった。演奏した曲は最近のものが多く、中でも「Birima」でのボーカルはカセット等で聞いていたのと全く変わらず、彼のベスト・ボーカルを直に聞けたことに感動した。サウンド面では、パーカッションを主体とする重いリズムの反復が支配的で、後半にボーカルが抜けると単調すれすれと言えるほど。とにかく、シューペル・エトワールの重厚なビートは完璧かつ圧倒的迫力で、強く身体に刻み込まれた。

最も意外であったのは、最後の一曲を除くとユッスーが全くダンスしなかったこと。またMCも一切なく、私を除くとステージを注視している客も見当たらず、ユッスーの音楽はまずダンスするために存在するのだろうが、これがダカールの人々の日常なのかどうか、今もって疑問である。

「LE GRAND BAL」は世界ツアーを音源としているが、かなり大きな会場でのコンサートらしく、ダカールでの演奏と比較するとはるかにノリがよく派手なライブである。ここに収められた演奏もやはり10分を超えるものが多く、「Benn La」(実際は「The Same」と「Liggeey」のメドレー)や、「Football」「Medina」「Djino」の終盤3曲は信じがたいレベルに達している。ユッスーとウゼンとの丁々発止のやりとりがまた強烈である。

ブルーノート公演は、当初ヒット曲中心の構成になることも心配されたが、結果として期待以上のものだった。確かに「Shaking The Tree」などこれまでに飽きるほど聞いてきたヒット曲の再演は余計なものに感じたし、毎回1時間で8曲程度というコンパクトなステージは、ユッスーにとっても聞く側にとっても物足りなさの残るものと見受けられたが、フル・サイズの公演のエッセンスは十分に感じ取れるステージでもあった。「Set」「No More」「Liggeey」「Baykat」などのテンションの高さは特筆ものだったし、最後の2日間は何とあのブルーノートがオール・スタンディングの熱気あふれるものとなり、そこに立ち会ったそれぞれにとって思い出深い一夜になったに違いない。

これらのライブは三者三様ではあるものの、共通点の方が多い。「Birima」や「No More」などで浴びせる、ユッスーの激情ボイスと天を切り裂くロング・トーンも完璧で、今さらながら彼の天性にひれ伏すばかりだ。しかし何より、リズム面の強調、特にサバールとタマの凄まじいビートこそ現在のユッスーらの音楽を最も特徴づけるものだ。ユッスーのボイス、ババカルのサバール、アサンのタマが、タレント軍団シューペル・エトワールの3トップだという印象を持っている。

さて対して6年振りのインターナショナル盤「JOKO」はどうか。さすがはユッスー、大変クオリティーの高い曲が続き、最近のポピュラー音楽の中でも傑出した一枚である。ところが、お終いまで聞き終えた時、さかのぼってもう一度聞こうという気持ちが起こらない。アルバム・タイトルに象徴されるように様々な要素をリンクした結果、あれこれ詰め込み過ぎているようだ。例えば、静謐な「Red Clay」でお終いかと思うと、いきなり「How Come」のラップが始まり、聞いているこちらが「How Come?」と聞き返したくなるなどどうにも曲の流れも良くなく、第一印象からしてボーナス・トラックの寄せ集めに過ぎないのではとさえ感じたのだ。結局は「EYES OPEN」などと同様に、課外活動の領域を超えない作品なのだろうかと考えてしまった。

一番の難点は、「JOKO」のビートが自分の身体と共振しないことである。現地盤カセットやライブでは、バンドのビートとユッスーの声に体も魂も揺さぶられる思いをしたが、今回はそれがまるでない。典型的ンバラである「Beykat」や「Liggeey」にしても、これまでであればここから畳みかけるようなビートのループが始まりそうなところで音がとぎれてしまい、どうにも気持ちが高まらないのだ。演奏時間の短さや、英語詩にも、その原因を感じるが、根本的に、打ち込み主体のリズム・トラックが問題なのか。ユッスーのボーカルにしても、いつもよりはどこか迷いながら歌っているようで、「Birima」に至っては従来のテイクと比較するとはるかに劣る出来。この曲は彼の生涯を代表する名曲、名唱とかねがね賞賛しており、ブルーノート公演でも、構成の異なるファーストとセカンドの両ステージで歌うなど、ユッスーの意気込みも伝わっていただけに至極残念。

今回各誌に掲載されたユッスーのインタビューをいろいろと読んでみて気になったことのひとつは、ユッスー本人が「ダカールの人もニューヨークの人も口ずさめるメロディーを作りたい」と語っていることだ。歴史的傑作「セット」が売れなかったことへの反省が、レコード会社にもユッスー自身にも相当強くあるのだろうと思う。ふと気が付くとCDに合わせていくつかのフレーズを口ずさんでいる自分を発見することもあり、一面では今回の彼の戦略は成功しているのかもしれない。しかし私が彼に求めるのはそのような音楽ではない。「JOKO」が質の高い作品であることを認めつつも、私にとって絶対的に必要な音楽とは言えないのだ。

ただ、ユッスーがこうしたアルバムを作ることはひとつの必然なのだろうと考えている。

ダカールで驚いたことのひとつが、クラブ・チョサンのセキュリティーの厳しさであった。開場時点から筋肉の固まりのような大男たちがガードしており、私もカメラを即没収されたほど。前日、偶然ダカールに来ていたフェミ・クティに会ったとき、その夜のステージの写真を撮らせてくれるように頼んだところ、彼の答えが「No problem」の一言だったのとは大違いだ。しかし現在のユッスーの立場を考えてみれば、これも当然のことだろう。彼は、世界最高のボーカリストであり、優れたソング・ライターであり、躍動美あふれるダンサーであり、卓越したサウンド・クリエイターであり、天才的パフォーマーである。そして、レコーディング・スタジオ、レコード・レーベル、カセット製作会社、クラブ、新聞、テレビ局などを含めた、一大企業体の経営者でもある。大統領と繰り返し面会しているといわれるほど、スケールの大きな存在なのだ。ワールド・カップ、フランス大会の組み合わせ抽選会で、ユッスーが突然壇上に登場したことは、彼にまつわるここ数年の話題で最大の驚きだったが、世界最大のイベントのテーマ曲を歌うことに、ユッスーのポジションが象徴されていると言える。

こうした彼の現状を考えると、彼の肩にかかってくる責任や義務というものは相当なものに違いない。さまざまな会社を経営することで、雇用主としての責任が伴ってくることになり、雇用を維持するために彼がその活動を停止することはもはや不可能だろう。そのことは、自己のレーベル、Jololiのレコーディングの多くに自らが絡んでいることでも分かる。様々な仕事を依頼される音楽家としての責任もあって、ワールド・カップのテーマ・ソングから、CMソングまで、多様なレベルの仕事の依頼に対して応えているのだろう。付け加えると、女性問題をテーマにした曲作り、地元のコミュニティーへのメッセージ・ソング、そしてアムネスティーや国際赤十字関連のイベント参加などに、彼の社会に対する強い義務感も感じる。

例えば自分の真に理想とする音楽のみをひたすら追い求めた、フランク・ザッパのような孤高な姿勢をとることは、ユッスーのスタンスでないだろうし、多伎にわたる活動にかかわることが彼の指向でもあるようだ。実際じっとしていられない性格とも聞いている。これだけ多忙な生活を送りながら、ダカールに帰っている間は毎週末チョサンでライブを行い、地元のファンを大切にする積極性も保ち続けている。

とにかくユッスーに求められていることは多いが、中でもアフリカ音楽の第一人者としての表現が求められている。そして、世界に向けてどのような音楽を提示すべきか追求した結果が「JOKO」なのではないだろうかと考える。つまり世界中から求められる多様な要請に対する回答として「JOKO」が存在しているように思えるのだ。その結果、「JOKO」には彼の最高の音楽が刻み込まれていなくとも、多くの人々がこの音楽を楽しむことができたとしたなら、そこに意味があるのではないだろうか。「アフリカ音楽は普通の人たちにとっては難しいものだ」とユッスーは語っている。確かに一般の音楽ファンに、いきなりンバラの奥深さを堪能することを求めても無理がある。多くの人々にとって、「JOKO」がアフリカ音楽の素晴らしさを知る入口になってくれることを願うとともに、セネガルの同胞が求める最高の音楽を生み出し続けながら、その一方で世界に向けてまた違った音楽を創造するユッスーのゆとりさえ感じる。

ところで、「JOKO」が紹介される枕として、ピーター・ゲイブルエルとスティングの名前が必ず挙がるが、この2人が新作に対して果たした役割はほとんど無に等しいと思う。ゲスト・アピアランスの点では、ワイクレフ・ジーンの方がはるかに大きい。冒頭で触れた新時代のアフリカ音楽を考える上でキーワードとなるのは、案外、ラップやヒップ・ホップなのかも知れないと最近考えている。在仏コンゴ人ラッパーらによるビソ・ナ・ビソの音楽や南アの最近のヒット曲のいくつかが持つ勢いを耳にしてそう感じ始めている。ヒップ・ホップのサウンドには、ユッスーもかなり強い関心を持っており、今回のワイクレフとのコラボレーションもその一環だろう。ただしビソ・ナ・ビソの音楽はまだまだラップとルンバ・ロックが同居しているに過ぎないという見方も可能だろうし、単にアフリカ音楽へラップを取り入れただけでは、アフリカ音楽が欧米の音楽との均質化に進むだけに終わりかねない危険性もある。実際それは最悪の事態だろう。

そのようなことをあれこれ考えながら、未だに「LE GRAND BAL」を繰り返し聞いている。このカセット、何度聞いても興奮させられ、コンゴの巨人フランコのベスト・パフォーマンスに比肩しうるアフリカ音楽の到達点だと評価している。そして私がユッスーを心からリスペクトする理由がここにあると信念をもって語ることができる。現在計画中と伝えられる4CDのボックス・セットも楽しみだが、それ以上に現地盤の次回作と今年の世界ツアーを心待ちしている。もちろん日本での次のステージ・アクトも。



かなり無理に文章を締めたので、近日この続きを紹介します。

(2000/02/21 Ver.1.0:準備稿)


当初は加筆修正するつもりだったのですが、稿を改めて再度ユッスーの音楽について論じてみたいと考えています。

(2000/04/03)


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