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聖宝の宿跡には12時48分に着いた。 普通は20分ほどで来るらしいが40分かかっていた。 やはり普通の人の倍かかっている。 ここ聖宝宿跡は「大峰奥駈け75靡き」の55番靡で、「講婆世宿」というのはここである。 逢いたかった理源大師が山伏姿で待っていた。 理源大師は天長9年(832年)2月15日現在の香川県本島で生まれ、16歳の時、弘法大師の実弟・真雅僧正の弟子となり、真言密教や奈良仏教を学んだという。聖宝尊師と呼ばれていたという。 ここが聖宝の宿跡ということで、納得できる。 聖宝尊師は様々な仏教教学を学ぶ一方、弘法大師伝来の密教修行や修法にも精進した尊師は、貞観16年(874年)、43才の時に醍醐寺を開いた。 さらには役行者の開いた大峯山に「峰入り」をし、龍樹菩薩、役行者と続く「祈りの世界」を霊異相承として、修験道を真言密教の祈りの世界を中心に、理論と実践方法を大成させたことから「大峯山中興の祖」と仰がれた。 大峯山を「一乗菩提正当の山」とし、修行を通して自らの心と体で学んだことは「実修」という2文字であらわし、学んで得たことを人々のために行うことを「実証」とし、この二つの修行を「実修実証」として説き、醍醐寺をその中心とした。 延喜9年(909年)7月6日に78歳でなくなったが生涯「実修実証」の中に身をおき、醍醐教学を確立し、真言宗小野法流の基礎を築いたという。民間信仰である「修験道」と「密教」を融合させ、「民衆の救済」の為にその生涯を捧げたのである。宝永4年(1707)東山天皇によって「理源大師」の号が与えられた。 その銅像が目の前にあった。 優しいお顔をしていた。 銅像の前で男女二人連れがなにやら言い争いをしていた。 |
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![]() (15:38 大普賢岳が見えた) |
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![]() (16:46 こんな登り降りばっかり) |
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コーヒーを飲んだり、弥山頂上の案内板の前で、ちょうど登ってきていた二人連れに記念写真を撮ってもらった。 3時40分に弥山小屋を離れた。 少しゆっくりしすぎた感じである。 ザックのフィッティングが悪いのか肩が痛くなってきた。 両手で肩ひもを持ち上げると少し楽になった。 聖宝の宿跡に着いたのは4時50分で約一時間かかったことになる。 時間がなくなってきたのでろくに休憩もせず歩き出した。 かなりうす暗くなってきたが歩行が困難な暗さではなかった。 6時に奥駆け出合いに着いた。 このとき弥山方面から3人連れの若者が降りてきた。 聞けば天川村役場のある河合から八経に登り今着いたと言うことだった。すごい健脚で、びっくりした。 彼らは到着すると間もなく、行者還トンネル西口に向かって降りていった。 私たちも後に続いていったが、徐々に離され、やがては話し声も聞こえなくなった。 とにかく明るいうちに降りたいと一生懸命に歩を進めたが、あちこちの関節の回転力が鈍っているせいか気持ちに反していっこうにスピードが上がらなかった。 坂の途中で真っ暗になり、ヘッドライトをつけた。 道がはっきりしているのでルートに不安はなかったが木の根っこやゴロタ石などに気を使った。 結局西口に着いたのは7時30分であった。奥駆け出合いから1時間30分かかっていた。 以前は1時間ほどで降りたのだが今回は大幅に遅くなった。 |
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