高野三山のほかに弁天岳があるのは知っていた。 いつか登ろうと思っていたが機会がなかった。 三山を登るからにはここも登らなければと、登ることにした。 大門側から上ることにした。 この山の頂上には嶽弁天が祀られている。 弘法大師が大和の天河弁天社より勧請した弁才天であると伝えられている。その昔、妙音坊という天狗が一本杉に住んでいて、嶽弁天を守護していたと伝えられてもいる。 江戸時代までは山内のお坊さん達によって社などが維持されていたが、現在では地域一般の方々によって弁天講が結成され、引き継がれていて毎年10月18日に大祭が行われているというが、まだ見たことはない。 その弁天岳山頂へは、大門からおよそ1キロメートル山道を登る。大門脇の登り口には大きな鳥居があり、それをくぐって登りになる。参道にはたくさんの鳥居が建ち並んでいる。鳥居にはそれぞれに奉納した人の名前が彫られている。 江戸時代には外(大門付近)、中(中継地点)、内(弁天社手前)と三つの鳥居があったということである。 道は快適な道である。 小さな鳥があちこちさえずりながら飛び回っていた。 種類を知りたくて後で調べるため写真に撮ろうとしたが、動きが速いのとレンズの交換に手間取り撮れなかった。 3,4人のグループ2組ほどに抜かれた。 途中休憩のための机と椅子があったのでコーヒーを湧かして飲んだが、オープンスペースなので雨がかかった。 せっかく作るなら屋根が欲しいと思った。 山道を大門前から休憩を入れて1時間10分ほどで嶽弁天社につく。 雨の霧で幽玄な雰囲気を醸し出している。 本殿の隣には結構広い休憩所のような建物があり箒が置かれていた。弁天講の人たちが掃除をしているのだろう。 周辺はきれいであった。 嶽弁天社から50分ほど歩くと、女人堂前に降りる。 女人堂は、管理の人がちょうど閉めるところであった。 その後観光客が何人かやってきたが閉まっているのでがっかりしていた。 女人道の道向かいには、お竹地蔵がある。 休憩していると外人がパンフレット片手に何かを探していたので、 「どこへ行くのですか?」(もちろん英語で)と聞くと、「奥の院」ということだった。 バスの時刻表を見せに行き、「23分に来ます」というと、困ったような顔をして歩き出した。 ところがバスはすぐやってきた。 4時50分というのがあったのだ。 弱ったことをしたと、バスが走っているところを見たら、バスは止まってその外人を乗せていた。よかった。 もしその人がブログなどを持っていたら嘘を教えられたと書くかも。 登山中雨は降り続いたがそれほど大降りではなく、おかげで暑くない快適なハイキングであった。 今は、この山を弁天岳と呼んでいるが、鎌倉時代には阿弥陀の峯と呼ばれていたり、江戸時代には神応峰とも呼ばれていたと古文書などに記されているらしい。 この嶽弁天社までの参道は、大門からの登りが表参道となり、裏参道としては女人堂からの道ということで、私たちは大門からの表参道を登った。 弁天岳に弁天がまつられるようになったのは、弘法大師が天河弁天社(奈良県吉野郡天川村)に千日間参籠した折りに、三つの如意宝珠を受けて、その内の一つを弁天岳に納めて、天女(弁才天)を勧請したことに始まると伝えられている。 中世期における弁才天信仰の高まりと、高野山の弁天信仰との密接な関わりがあるらしい。 『紀伊名所図会』をはじめいろんな文献に出てくる。 10月18日の午前10時から弁天岳山上にて御法楽を行い、大門前広場にても御法楽、ご詠歌に続き、餅撒きが盛大に行われるということで、これは是非行かなくてはいけない。 嶽弁天社を過ぎると道は下りになる。 雨が降っているのでいかにも霊地の山らしく煙っていた。 笹百合が所々で咲いていた。 キノコもあちこちに雨に濡れてあった。 (2014年7月5日)
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