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その2
地獄谷石窟仏〜首切り地蔵
地獄谷への道の入り口には小さな駐車場があり。2台ほど駐めていた。いきなりの上り坂で道は地獄谷へと向かっている。左右は急な崖である。地獄谷というのにふさわしい道である。

史跡「地獄谷石窟仏」は金網で守られていた。
正面中央は盧舎那仏、左は薬師如来、右は十一面観音(室町時代くらいの追刻)だ。
三体とも緑色に苔むしているが、赤褐色の色がかなり色濃く残っている。
よく見ると、この三体のほかにも、石仏が描かれており、右壁には妙見菩薩、左壁には阿弥陀如来と千手観音が刻まれているという。
山伏が岩窟に寝起きして彫刻したとか、大仏殿建立のおりに石材採りの石工が彫刻したなどといわれているそうだ。

文化財だからガードしなければいけないのはわかるが、少し大げさすぎる感じもする。
こうした守りの施設を作らなければいけない国になってしまったかと、少し残念に思う。これまで何百年も、普通にそこにたたずんでいたのに、急に周りを固められ、少し憤慨しているのではなかろうか、あるいは人心の荒廃を憂えているか。

ドライブウェイからここまでのアップダウンで疲れたので、一休みすることにした。コーヒーをわかして飲んだ。

八一は、この地獄谷で、詠んでいる。

  いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし
           まつ の はやし に めじろ なく なり


すぐ近くに奈良の街があるとは思えないような、山深い谷間に地獄谷がある。

石窟は、凝灰岩をくり抜いたもので、仏像は、線刻で彩色されている。
聖が住んでいたという伝承があり「聖人窟」とも呼ばれる。
如来坐像が中心にある。

『沙石集』(1279年)『春日御流記』などには解脱上人の弟子の璋円は死後魔道に堕ちて、その霊が、ある女に憑いてその口を借りて、春日明神は、春日野の下に地獄を構えて、毎朝亡者の口に清水を注ぎ入れて、正念に就かせてお経を読み聞かせ、得脱させたという記述があるという。

そのことと、この石窟仏の製作時代とは関連がないらしい。
柳生街道 地獄谷石窟仏
(明暗差が大きく露出が難しい:D70)
柳生街道 地獄谷石窟仏
(ここから下りばかり:D70)
柳生街道 地獄谷石窟仏
(地獄谷への登り口:D70)
柳生街道 地獄谷石窟仏
(蜂がブンブン:D70)
柳生街道 首切り地蔵 柳生街道 地獄谷石窟仏
(首切り地蔵:D40x)

石仏群から再びドライブウェイに戻り、「首切地蔵」に向かった。
途中連れ合いが、イノシシをみたという。そういえばこれまでの畑にイノシシよけを頑強に作っている畑が多かった。
切り株の近くに蜂が巣を作っており注意を促す看板があった。
木々の間をしばらく行くと、右手に「地獄谷新池」が見えてくる。途中の分かれ道で、右手に「春日山石窟仏」の表示のある標識があるのが気になったが時間がなかった。

池からの坂道を下りると、道の分岐点あたりに、首切地蔵と大きな杉の大木が二本ある。首切地蔵は、鎌倉時代の作だそうで、予想より大きく、その名のとおり首に切れ目がある。荒木又右衛門が試し斬りしたという伝説がある。
木々に囲まれてたたずむ地蔵様は凛として好ましい。
柳生街道 首切り地蔵
(首切り地蔵付近の古い杉:D40x)
柳生街道 朝日観音
(朝日観音:D40x)

(きれいな休憩所:D40x)

この道筋には杉の大木があちこちにそびえている。
折れて道に転がっているのもたくさんある。それらが様々な形で歴史を伝えているような気がする。
しばらく石畳の道を下っていくと、右手に朝日観音がある。早朝、高円山の頂からさしこむ朝日にまっさきに照らされることから名付けられたものだというが、現在の木々の茂り具合を見るととても朝日が差すようには見えない。季節によるのかもしれない。

この観音は、文永二年(1265年)鎌倉時代の作といわれ、古い。

石畳の道をなおも下り、橋を渡って、今度は左に谷川を見ながら下っていくと、右手に三体地蔵と夕日観音が見えてくる。朝日観音と同じ作者と思われるとのことだ。
夕日観音は、夕日を受けるとありがたさがさらに増すという。弥勒信仰が盛んだった鎌倉時代のものであるという。

三体地蔵のある所までは急斜面で、何度も滑りそうになりながら、登った。疲れた足に少しきつかったが、這うようにして上がった。 元の道に引き返すときも、きちんと足場を確保しながらでないと危ない。

寝仏はそこから程なくあるが、うっかりすると見過ごしてしまう。
しかし何よりも困ったのは、この滝坂の道は木々がうっそうと茂り、昼でも十分な明るさがなく、写真を撮るのに苦労した。写真が暗くなってしまうのである。かといってストロボはたきたくないしで、ぶれた写真がかなりあった。本来なら、三脚できっちりとりたいところである。
雨の降るときのこうした石仏群をきっちり押さえることができたらと思いながら歩いた。
(右の写真は寝仏)

八一は、この寝仏を見て、

   かけ おちて いは の した なる くさむら の
            つち と なり けむ ほとけ かなし も


と、詠っている。それにしてもうまく表現している。「かなし」はいとおしいという意味である。

柳生街道
(いい道が続く)

(滝坂三体地蔵菩薩磨崖仏)

(夕日観音)

(地蔵菩薩)

寝仏は、道の脇にある。一見何気ない石であるが、その裏には大日如来が横に刻まれている。てくてくマップの説明では、近くの四方仏の一体が転がり落ちたといわれ、室町時代の作と書いてあった。
でもよく見ないととても仏様とは見えない。

実は私はここで失敗をやらかしていた。
カメラをマニュアルフォーカスにしてしまっていてほとんどの写真がピンぼけであった。蜂の巣を写したときに、飛び交う蜂にピントを合わすため、マニュアルにしていたのを戻し忘れたのである。ワイドで撮ることが多いので、微妙にアウトフォーカスになっているのに気がつかなかったのである。
滝坂道〜終点
この滝坂道は、春日山と高円山の谷あい、春日山原始林に流れる能登川の渓流沿いに続いている。柳生の里と奈良の町をつなぐ風情ある古道で、初めて歩いたがなかなかのものである。柳生街道のなかで、峠の茶屋辺りから滝坂道呼ぶ。
石仏の歴史をみても、さすが奈良で、皆古い。
この界隈は、平安時代から鎌倉時代にかけて南都七大寺の僧たちの修行の場となり、今でも静寂な雰囲気がただよっている。この石畳は江戸時代に奈良奉行所によって敷かれ、柳生の道場を目指す剣豪達が往来したという。映画のロケなど今でもそのまま使える。妙な人工物が少ないのもありがたい。

八一は、この滝坂でいくつか詠んでいる。

  かき の み を にないて くだる むらびと に
             いくたび あひし たきさか の みち


  まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
             くも もて ゆきし たきさか の みち


  たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて 
            きよき かわせ に あそびて ゆかな

  ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の 
            あかき はさみ に あき の かぜ ふく


八一が散策した頃は、この滝坂も今以上に自然がいっぱいで、川で遊んでいると蟹もたくさん歩いていたことだろう。

(ここで白毫寺や新薬師寺方面に分かれる:D70)

(高畑町にある地蔵様:D70)

(鹿が迎えてくれた。さすが奈良:D70)

ここ滝坂の道は、紅葉の名所でもあるという。歩いたのは紅葉には少し早い時期である。石畳のでこぼこ道は、湿っていると滑りやすいので気をつける必要がある。春日山原生林を巻くように続き、動植物も自然のままに豊富なので、ゆっくりと散策しながら歩くといいコースである。

そのためには、時間に余裕が必要である。紅葉の時期など日の暮れが早いので、滝坂道は真っ暗になる。昼でも薄暗いので、夕暮れは茜が差し込み幻想的かもしれないが歩くには注意が必要である。絶えず能登川のせせらぎの音が、都会の喧騒の中を行き来しているものにとってありがたい。
この日は近鉄奈良駅から乗り忍辱山のバス停で降りたが、便がもっと多くあれば歩き方もいろんなバリエーションができるのにと思った。

帰りは本来なら近鉄奈良駅まで歩けばいいのだが、時間も体力もなくなっていたので破石からバスに乗った。

この柳生街道は、都会の近くにあって、癒しの道である。残りの剣豪の里コースとまだ見ていない石仏を見に、あと何回か歩かなければいけない。
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