二上山 (その3)
鹿谷寺(ろくたんじ)跡〜大津皇子墓〜岩屋

二上山は面白い山である。鹿谷寺 二上山
火山でありながらその気配が薄い。
しかし紛れもなく火山ということは、山の形でわかる。
過去にこの辺を震源地とする大地震もあったということである。
大阪と近く高さも手頃なためかいついってもたくさんの人が登っている。

この日は前回行けなかった、鹿谷寺と岩屋、そして雄岳に向かった。崖に近い岩がむき出しの急坂を登っていく。
足回りはきちんとした準備が必要である。
前回は雷雨であったが今回もあまりいい天気ではなかった。

鹿谷寺はあまり広くない平地にあった。石塔があり、跡地を示す看板があった。

鹿谷寺は、凝灰岩の石切場跡に造られた奈良時代、8世紀頃の石窟寺院跡である。
十三重多層塔と石窟を備え国の史跡に指定されている。
この周辺から和同開珎が出土している。
十三重石塔
は高さ約5mで、石窟は幅約3mである。石窟正面に如来座像三体が線彫されている。

鹿谷寺を出て、雄岳に向かったが、結構きつい。かわいい犬を連れた人たちが追い抜いていった。
途中の鞍部には榊縛山さんの書の碑がある。
二上山をイメージした2個の石に彫られた歌で、
「トロイデ火山ハ静マリテ」
「女岳男岳ヲ拝ム里 尼上嶽ト誰カ言ウ」
と書かれている。


そこから雄岳はすぐである。
鹿谷寺 二上山 鹿谷寺 二上山
(石窟。那智山修験の卒塔婆が)
鹿谷寺 二上山
(十三重石塔。5mあるらしい)
鹿谷寺 二上山
鹿谷寺 二上山
(当時の風景を表した案内板)
鹿谷寺 二上山
(石塔の南面の舎利孔)
鹿谷寺 二上山
(上り坂の途中にあった石碑)
鹿谷寺 二上山
(木にまつわる万葉歌の板。ほかにもたくさんある)
二上山 大津皇子
(雄岳山頂近くにある大津皇子の墓)

八一はここを、

  あま つ かぜ の すさみ に ふたがみ の
  を さへ みね さへ かつらぎ の くも


と詠んでいる。「かつらぎのくも」とは、この山は上代に雄略天皇が一言主神(ヒトコトヌシノカミ)にあい、共に馬を並べて猟をしたところであるといわれ、後には役行者が岩窟にこもって練行したところだという。それは一種怪異な思いにさせられる。
八一は、葛城山でわいた白雲が、山腹をはって二上山の全山を包み込むのを見て、この句を詠んだという。

前回の登山の際にはまさにそんな感じで、おまけに雷も落ちたのである。この日も好天ではなく、何となくどんよりとした天気であった。

雄岳山頂には「岳の権現」と呼ばれる葛木坐二上神社(かつらぎにいますふたかみのやしろ)がある。以前は雨だったので見ることが出来なかった内部を見た。かわいい狛犬がこちらを見ていた。この神社の祭神は、豊布都霊神(建御雷神)と大国御魂神である。

山頂には二上山城跡があり、楠正成が築城したとする説がある。

二上山 大津皇子
(宮内庁の管轄である)
二上山 大津皇子

大津皇子(663年〜686年)は、天武天皇(大海人皇子)の第3皇子で母は大田皇女(天智天皇の長女)となる。
同母姉に大伯皇女(大来皇女 おおくのひめみこ)、異母兄に高市皇子(たけちのみこ)、草壁皇子(くさかべのみこ 母は鵜野讃良皇女 うののささらのひめみこ)、異母弟に忍壁皇子(おさかべのみこ)らがいる。

大海人皇子と大田皇女との間に生まれた大津皇子は中大兄皇子の長女の子として寵愛を受けたが、大津皇子が5、6歳の時、母の大田皇女は亡くなってしまった。
これにより父大海人皇子の正妃の地位は、鵜野讃良皇女に移った。
大津皇子は容姿端麗、博学で文章もうまく、成長につれ武も好んだという。
鵜野讃良皇女は皇后であり、やはり自分の息子のほうが可愛かったので、天武天皇に働きかけて草壁皇子を第一の皇太子にしてしまった。


鵜野讃良皇女は序列が上で、文武両道で人望のある大津皇子の存在が不安だったのか686年9月9日、50歳で天武天皇が没すると、早くも10月2日に大津皇子に謀反の動きありとして捕まえてしまう。
いわれなき謀反の疑いをかけられ、刑死する前、奈良橿原の磐余池の堤で涙ながらに詠んだのが、

  ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
  (磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は雲の彼方に去るのだろうか)

である。
謀反の内容は明らかではなく、この時捕まった30余人の内2人を除いて罪を許されているという。
本当に謀反を計画していたのなら、神ともあがめる二上山の頂上などに墓は作れないとの見方がおおかたで、やはり冤罪と考えられる。
大津皇子の像が薬師寺にある。
姉の大伯皇女(大来皇女 おおくのひめみこ)は、


  うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む
  (この世に残された私は、明日からは二上山を弟と思って眺めよう)

と詠んでいる。彼女は伊勢の海に出現する太陽神を祭祠した伊勢斎王であった。
その聖職にあった彼女が弟を落陽の山に葬ったのは、自ら祭祠していた太陽に愛する人の魂を託し、永世の蘇りを熱望したのであろう。

二上山 葛木坐二上神社
(葛木坐二上神社)
二上山 葛木坐二上神社 二上山 葛木坐二上神社
(葛木坐二上神社の隣にある城の遺構?)
二上山 雌岳
(登山道途中からの雌岳。今にも煙を噴きそうな感じである)
 二上山 石切場
(石切場。高松塚の石もここから出た)

雄岳から案内板に沿って、下ると「石切場」跡がある。二上山 雌岳
二上山は今から
1500万年程前に噴火したトロイデ式の火山で、そこから噴出した火山灰が堆積し、凝灰石がとなった。

石は軟らかく細工し易いので、古墳時代終末期に高松塚を始めとする飛鳥の殆どの古墳の石棺や、川原寺、薬師寺、法隆寺などの基壇に用いられ、遠くは京都平安京の造営にも使用されたという。

中腹では安山岩も取れ、その中に含まれる硬いザクロ石(ガーネット)は、昔から二上山特産の金剛砂で、サンドペーパー、グラインダーの砥石等に利用され、また、雄岳の頂上付近からはサヌカイトも取れる。

二上山 石切場 二上山 岩屋
二上山 岩屋
(岩屋)
二上山 岩屋

二上山の尾根上は府県境界で、二上山と竹内峠を繋いでいる。
岩屋峠で、馬の背方面は直進、右に行くと祐泉寺方面にいく。

案内板に沿って歩くと、奈良時代の石窟寺院跡の岩屋がある。
凝灰岩の岩窟には中央部に三重の石塔を残して、北壁に三体の仏像がうき彫りされている。
寺の起源等、歴史は不明である。

その岩屋の前に杉の大木が横たわっている。
以前は雌岳中腹にあって岩屋杉と呼ばれていたという。
根周りは8mもある杉の大木は、その名を岩屋の千年杉と言われていたが、平成10年の台風で倒れ、今この岩屋の前に横たわっている。

岩屋を見た後、雌岳に登った。頂上はかなり広いスペースになっている。たくさんの人が思い思いにくつろいでいた。
しかし大きな日時計や不要な石碑など、首をかしげる施設があった。
こんなセンスのない施設を大金を出して作るのであれば山頂の景色にマッチした東屋風のものの方がいい。
ここは、かなり見晴らしがいいはずであるが、あいにくの天気で景色はよくなかった。

国土地理院の三等三角点がある。雄岳になく雌岳にある。
雌岳から下り、麓の食堂の前を通りかかったとき、ご主人を思われる方に声をかけたら、サヌカイトの原石を見せてくれた。


(大杉の横にある千年杉の説明)

(横たわる大杉)
二上山 雌岳
(ここに建立した理由がわからない石碑)
二上山 雌岳
(雌岳頂上の巨大な日時計。不要な施設だ)
二上山 サヌカイト
(サヌカイト原石)

(ここはもう太子町である)

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