元旦の朝日・文化欄「接続詞のない時代に」がずっと気になってました。井上ひさし「感動詞から離れ、考えるヒトに戻ろう」、香山リカ「短くなった言葉の賞味期限」というのも気になるのですが、ここでは別役実「肉声のネットワーク復活を」というのを取り上げます。全部引用したいのですが、こらえて1/6に圧縮します。 > 方言には不思議な力があります。方言で芝居をすると、反応が違う。 >たとえば観客の体が自然に揺れてくる。標準語は耳で聞き取ろうとするが、 >方言は体で感じとろうとするからです。発信者と受信者が共鳴する。これは >非常に重要なことです。 > でも、方言を再認識すると言っても、ただ保存するんじゃ意味がない。芝居 >という媒体を通じて、生きた言葉として再生産し定着させる。それでこそ、肉 >声のネットワークが復活できるとぼくは思います。(2002年1月1日の記事より) 年末、方言の芝居が続いたとき、眠りを欲したのは ☆体で感じとることができなかった(=客席まで聞こえてこなかった) ってわけです。ただし、自分の県の芝居は理解できた。それは、その芝居が生きた言葉として伝わってきたからです。 さて、体で感じとらなければならないという意識を持てないと、芝居を見られないというのはあるいは苦痛を伴うことかもしれません。拷問なのかもしれません。そこから逃れるために携帯でメールをする。だめ? 香山リカは >難しい現実に直面したとき、無意識に解離のメカニズムを利用してしまう と指摘してます。いや、芝居が「難しい現実」になってしまっては困るのです。そこに「肉声」なり「肉体」を見つけることができればよろしいかと思います。 最後に井上ひさしのコメントを。 >接続詞を感動詞に置き換えることで、わたしたちはそろって幼児に退行してしまった と。 「感動しました」 「すごいですね」 というコメントはありがちなのですが、もう一声。 「だけど、おどおどしない方がいいよ」 「しかし、日常生活もきちんとしてもらわないと」 というコメントがついて、小学生にもどる。何とかそのレベルまでもどさないとなぁ、というのが更新さぼりまくりからの懺悔です。 |