しげぼうの言いたい放題

 


・精神病患者に対する偏見をなくすには(2002年02月11日)

精神分裂病という病名が変わるそうだ。 う−ん。そんなことをしても、意味があるのかな。名前だけ変えても結局は同じことになるの では、という気がするのだが。

精神病患者が差別的な目で見られてしまうのは、精神を患っているものはとんでもない犯罪を 起こし易いと考えている日本人が多いからであろう。「どこそこで、突発的な殺傷事件が起こり ました。犯人を精神鑑定した結果、精神分裂症と診断されました。」などと報じられることで、 「やっぱり犯人は頭がおかしかったんだね。」と妙な納得をして「精神を患った者は何をしで かすかわからない。あまりかかわらないようにしよう。」となってしまう。これが、精神病患者に 対する偏見の始まりである。

こうした偏見は、一般の善良な精神病の方の肩身を狭くするだけではなく、そのような 病気を治療する病院に通うことすらためらう風潮が出来てしまう。現在のようなストレス社会では 実際に精神科へ通院していない精神病患者、その予備軍とも言える方がかなりいると思われる。

そうした偏見を改めるには、精神病に対する正しい理解を広めることは不可欠である。 と同時に、犯罪報道を行なうマスコミに対して犯罪者の精神鑑定の結果を公表させない など報道規制が必要である。法的に強制するべきだと私は考える。要は悪いことをした人間が 精神病かどうかをわからなくすることである。 日本のマスコミは余りにもプライベートなことを暴き過ぎであり、それが精神病患者の偏見を生む のに一役買っている。 凶悪事件が起こったら、我々が知りたいのは、犯人が確実に捕まったかどうか、共犯者はいるのか、 逃走しているならその顔写真、出所はあるか、あるならいつ頃かなどである。犯人がどんな趣味で どんな病気を持っているのかなどどうでもよい。ところが、日本のマスコミは、逃走犯の顔写真に しても未成年者だと載せないし、出所時期や出所後そいつがどこに住むのかも秘匿される。 報道規制すべき問題と公開すべき問題が逆立ちしているのだ。(ちなみにあの酒鬼薔薇も今年出所 して名前を変えてどこぞやに住むらしい)

そもそも精神鑑定を行なうこと自体が意味がないと思う。精神に異常があるから罪に問わない、は 間違いだ。例え精神を患っていた人間でも犯罪を起こせば刑罰を与えるような法改正を行なう ことが大切である。大体本当に危ない人間であれば、精神病院側で退院させないはずだし、凶悪犯罪者 の大半は私の見る限りは善悪の判断くらい出来る人間だと思う。特別扱いの必然性など見当たらない。 今の日本は、悪いことをした人間の人権だけが守られ、一般の善良な精神病患者の偏見だけが強 まっていくという最悪のシステムとなっている。更に始末が悪いことに、こうした法律を悪用して、 犯罪者がわざと精神病を装う風潮にも繋がっている。例えば、大阪の児童殺傷事件の犯人の ように、おれは精神病院に通っていた人間だから何をやっても許されるなどと公言して犯行に及ぶ 人間も現れた。オウムの麻原が裁判のときに、奇声をあげたりするのも、精神病を装えば罪が軽く なるなどと考えているからなのであろう。こんな奴らを許すことが弱者に対する思いやりなのか? 弱者とは世間一般のまじめにリハビリに取り組んでいる精神病患者であり、精神病を装うような 犯罪者ではない。今の日本の社会では、弱者と悪者の区別がゴッチャになっており、それを改 めなければ何も変わらない。

精神分裂病の名称を改めること自体はまったく意味のないことではないと思う。 が、精神病そのものに対する悪い認識を消去しない限り、偏見は決して消えない。上記のような 対策を行なってもあくまでそれらは第一歩に過ぎず、偏見を完全に世間から消し去るには相当の 年月がかかると思う。だが、いつかはなくなるであろう。

風邪をひいたら誰でも病院へ行く。そういう軽い気持ちで精神を患った人が病院に行けるような 世の中にしなければいけない。精神の病の大半は、早期に発見し治療を行なえば直るものが多い という。それを無用な偏見差別で病院へ行くのをためらわせ、直るはずのものが直らないで精神病の 人が増えてしまうようならこれほど罪作りなことはないのである。


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