風のささやき

音無川

 雪解けのきれいな水がもつれあいながら、その川は流れていきます。透き通って川底が見える岸辺には、飽きることなく小さなさざ波がたちます。けれどその川の上では、何一つ音を立てません。すべての物音が、大きな動物に飲み込まれてしまったように静かなのです。
 野を渡ってやってくる若草の香りの春風も、川の上を渡るときにはその楽しげな歌を忘れたように静かです。真夏のジリジリと焦げ付く太陽の光も、水面の上ではただキラキラと、鏡のように輝くだけです。秋になって真っ赤に染まる木の葉が水面に落ちるときにも、丸いどんぐりがコロコロと山の方から転がり落ちるときにも、何の水音もしません。冷たい冬の空から、雪がシンシンと舞い降りて来るときにも、川は白くうっすらと化粧するだけで、寂しいぐらいに静かなのです。
 それでいつからか、何の物音もしないこの川は「音無川 」と呼ばれるようになったのです。

 音無川の流れにも魚がすみ、時折その魚が銀色のうろこを光らせて、水面を跳ねます。そうして、それを狙ったように青い色のかわせみが川を横切ることもあります。けれど川は、そんなことがあったことも知らないように、黙ったまま流れて行きます。
 川の中は、一年中薄い藍色の冷たい世界です。暖かな春の光りは、水面に桜の花びらのように淡く広がるだけで、川の中にまでは届きません。それで冷たさに魚たちは、ゆっくりとした動きで泳ぎます。魚たちが泳ぐ時に湧く小さな気泡も、どことなく寒そうに見えます。それで川の上を渡る風が、すっかりと暖かさを奪われてしまうようなときもあります。
 鳥たちは音無川の側に近寄りません。それはこの川の上を横切る時に、自分たちの楽しい歌声がすっかりと奪われてしますからです。そうして人々もこの川のそばにはあまり近寄りません。静かに流れていく川を見ていると、とても寂しい気分になってくるからです。

 音無川も昔は、ゴウゴウと勢いよく音を立てて流れる川でした。その流れにはたくさんの魚たちが勢いよくはねまわり、動物たちは川の岸辺に水を飲みにやってきてにぎやかでした。川縁にはたくさんの花が咲き、蜂は忙しそうに川の上を飛び回って蜜を集めていました。人々も大勢やってきては、河原で寝そべったり、ギターを弾いたりしながら、楽しい時間を過ごしていたのです。そうして川も、毎日楽しい夢を見ているような気分で、よどみなく歌いながら流れていたのです。
 そんな川が音を無くしてしまったのは長く激しい戦争があったからです。戦争は何年も続き、いくつもの村を焼き、大勢の人の命が奪われました。
 戦争で怪我をしたたくさんの人々が、敵から逃れて川のほとりにやってきました。そうして、最後にこの川の水を飲みながら、息を絶えたのです。そんな人々の苦しそうな顔をたくさん水面に映しているうちに、川の歌声はだんだん小さくなって行き、ついにはすっかり音を無くしてしまったのです。
 戦争が終わってから長い年月が過ぎて、戦争のことを覚えている人々がいなくなった今でも、川は音を無くしたままなのです。


 南風が吹いた暖かい春の日のことでした。栗毛色の髪に白い帽子を被った少女が一人、川の近くにやってきました。少女はつい最近、音無川の近くの森に引っ越してきたのです。そうして自分の家の近くのあちらこちらの花畑をまわっているうちに、音無川のほとりへたどり着いたのです。
 
 初めて見る音無川を少女は、最初不思議そうな顔をして眺めていました。何の物音もしない川を見るのは初めてだったからです。
 けれど、音無川の流れがきれいだったからでしょう。少女は、川のそばにやってきて、川の水に手をつけました。
「冷たい、水」
 少女はそう言うと、今度は川の水面を鏡の代わりにして、自分の顔をうつしてみました。音無川が久しぶりにうつした顔は、大きな二重の目と小さな唇の、愛らしい人形のような顔でした。
 少女は、川の中の自分に笑いかけたり、舌を出してみたりと、クルクル表情をかえます。きっと一人でにらめっこでもしているのでしょう。ときどき、おかしそうに笑いだします。
 それから、川に話しかけたりもします。少女のたわいのない話し声は、耳元をくすぐる音楽のようです。
「もう少し、この髪がのびたらいいのにな。そうしたら、長い三つ編みができるのに。」
 少女のまわりに木漏れ日はキラキラとまぶしく、川の上にいつもよりも強く輝いています。

 音無川は、人間の苦しそうな顔しか覚えていませんでした。ですから、自分の水面に映るかわいらしい顔を、不思議な気持ちで見ていました。
 今まで何一つ音のなかった川底の方で、コトリと何かが小さな物音を立てました。敏感な魚は驚いて、岩影に急いで隠れたりもしました。けれど、それはほんとうにかすかな音でした。あるいは川自身さえ気がつかなかったかもしれません。


 少女はきれいな流れの音無川が気にいたようです。時折、この川のほとりを訪れるようになりました。川に来ると少女は、いつものように自分の顔を水面に映しては笑ってみたり、泣き顔を作ってみたりしながら、川に話しかけるのです。 音無川は少女を自分の上にうつしだすのが楽しみでした。少女の笑顔は、音無川がずっと前に忘れてしまった、暖かさをくれるからです。それで遠くから少女の足音が聞こえたりすると、うれしくて少し流れが速くなるのです。音無川は少女のあどけない話と笑顔に、少しずつ自分の歌を取り戻し始めます。

 例えば少女が、お気に入りの絵本をもって来ることがあります。川に足をつけながら読もうというのです。そんな時、少女の白い足のところだけはせせらぎの音がします。そうして冷たいはずの水もどこか気持ちよく流れるのです。
 少女は近くの花畑で摘んだ花で、器用に首飾りを作ります。それを音無川へのおみやげにもってきて、流れにそっと乗せるのです。音無川は、そんな少女の贈り物を、ゆっくりと沈めないように流れの上で遊ばせます。そのどこか楽しげな様子には、暖かな風が誘われてやってきて、首飾りにそっと触ります。そんな時に音無川は、クスリと笑うように音をたてるのです。

 少女は、森の中でたくさんの動物たちと友達になりました。それは肩の上にのってどんぐりを食べるリスや、少女が摘んだ草をおいしそうに食べるウサギ、優しい目をした子鹿たちです。少女は、そんな動物たちを連れて、音無川に遊びに来ることもあります。
 アライグマなどは、少女があげたお菓子を川の流れで洗って食べます。小さな手で一生懸命にお菓子を洗うその様子が面白いので、川はアライグマの調子に合わせて音を立てます。あるいは鹿の親子が一緒に来たときには、美味しそうに水を飲む様子がうれしくって、音無川は小さく歌いました。
 少女が連れてきた動物たちは、他の動物たちを連れてきます。やがて、川のほとりは、昔のようにたくさんの動物が集まり、楽しい憩いの場となりました。

 音を取り戻し始めた川には、少しずつ他の生き物たちも戻ります。少女はある日、川の中を泳いでいく音符のようなおたまじゃくしの群を見つけました。川の浅いところには、沢蟹がもどって来ました。水面にはたくさんのあめんぼうがすべっています。音無川はどんどんとにぎやかさを取り戻します。
 小さなげんごろう、タニシやとんぼも帰ってきました。音無川は少しずつ昔の姿に戻っていきます。


 やがて少女が初めてこの川に遊びに来てから、何年もの歳月が過ぎました。少女は、すっかり大きくなり、きれいな娘になりました。今でも昔のように音無川に遊びに来ては水面に顔をうつすこともありますが、音無川はそのあまりの美しさにどきまぎとしてしまいます。

 そんなある日、美しい娘になった少女が、川に話しかけました。
「すごく悲しいことだけど、私、遠くへ行かなければならないの。」
 音無川はドクリと大きく波打ちました。
「私、今度お嫁さんに行くことになったの。とっても大好きな人と一緒になれるの。だからあなたもきっと喜んでくれるわよね。」
 そう言うと娘は、顔を川に映して優しく微笑みました。それは、音無川が見た中でも一番素敵な、そうして幸せそうな娘の笑顔でした。
 音無川の流れの中に、今まで娘が見せてくれたたくさの笑顔が一斉に蘇りました。そうして音無川は、娘が今まで聞いたこともないような大きな音で流れ始めたのです。それは少女を見送るための音無川の心をこめた歌声でした。大好きな人と別れることの悲しさや、その幸せを祈る気持ち、たくさんの素敵な笑顔をくれたことへの感謝、そうして何よりも、音無川の歌声を取り戻してくれたこと。音無川はそんなたくさんの気持ちを自分の流れにたくして歌ったのです。

 娘は、その歌を目を閉じてじっと聞いていました。どこか悲しく、けれど娘のことを励ますような暖かさも持った、それは不思議な音楽でした。その曲に合わせるように、水面の太陽の光は、たくさんの宝石を散りばめたようにキラキラと光り出し、風は娘の顔を優しく撫でて行きました。

「ありがとう。」
 やがて、音無川の歌が終わると、娘の目からは、涙が一つこぼれ落ちて、音無川の上におちました。それは、どんな雨水よりも豊かに、音無川の流れを潤しました。

 少女は遠くの村へ旅だっていきました。けれど今ではすっかりと音を取り戻した音無川は、たくさんのもののために流れます。少女の面影をいつでも流れの中に宿しながら。そうして、新しい人たちの笑顔や、動物たちの穏やかな眼差し、小鳥たちの歌声を流れの中にとりこみながら、音無川は勢い良く流れて行くのです。