竪琴

絵:源 電力
文:藤下 真潮


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 少女のひざが震えていた。宮殿の大広間は深く静まり返っていた。婚姻の宴に湧き返っていた先ほどの喧騒が嘘のようだった。少女は竪琴を抱え、おずおずと玉座の前へと歩を進めた。王族を始め居並ぶ諸侯、楽師達までもが、高名なフィル(語り部)の唯一の後継者である少女の一挙一動を静かに見守っていた。
 足の震えは止まらなかった。玉座の前に進み出て、竪琴を床に置き、少女はしばらく呆然と立ち尽くした。出来ることなら逃げ出したかった。しかし、それは許されなかった。乞われれば、どんなときでも詠わなければならない。それが遠くドルイド
(魔術師)の流れを汲み、歌に呪を織り交ぜ、ときに王族ですら従わせる力を持つフィルとしての義務だった。
 ゆっくりと深呼吸しようとしたが、喉が張り付いたように乾き息すらうまく出来なかった。少女は諦めて大理石の冷たい床に腰を下ろした。
 ――お師匠様・・・
 少女はきつく眼を閉じた。

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 少女の師匠であったフィルは、その呪の強さに諸国に名を馳せながらも、どの王にもまつろうことを潔しとせずに、ただひとり正統なフィルでありながら諸国を放浪するバード(吟遊詩人)の立場を保ちつづけた男だった。
 少女は、まだ幼い頃、奴隷商人の手から師匠に買われた。共に各地を放浪しながらフィルとしての技術を少しずつ教え込まれた。
 「お前の歌は、天声に通ずるものがある。人の魂に共鳴する力を持つ稀有の才じゃ。だが声だけではその力を人の魂まで届かせるのは難しい。竪琴の音は力を運ぶための風のようなものだ。呪の力を運ぶための風じゃ。近頃はケニング(詩の技巧)に頼る輩が多いが、そんなものは邪道に過ぎない。フィルの真の力は歌にあるんじゃ」
 師匠は折に触れ少女にそのことを言い聞かせた。そして永い時を掛け、竪琴を鳴らす手ほどきを辛抱強く少女に施した。
 「頭で調べを弾いては、いかん。竪琴の調べは、指で考えるのものじゃ」
 その言葉を聞かなくなるのに、三年の歳月を要した。
 「竪琴を指で奏でているうちは、まだ風とはならぬ。心で調べを鳴らさなくてはならぬ」
 さらに4年の歳月が流れた。しかし、その言葉が消えぬうちに師匠は病で倒れた。旅をついの宿とした老人の最後だった。師匠を荒野に葬り、少女に残されたものは竪琴だけだった。教わるべき数々の伝承も竪琴の調べも、その多くを受け取ることが出来ずに消えていってしまった。
 少女はひとりぼっちで、最後のフィルとして諸国を彷徨った。名を馳せた師匠の最後の弟子として、少女はどこに行っても歓迎された。しかし、少女の奏でる竪琴の音に人々は失望の色を隠さなかった。そして少女は、師匠から引き継ぐことが出来なかったものの大きさを知った。
 旅の空は瞑く、足取りは鉛のように重かった。

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少女の眼は開かれない。なかなか始まらない演奏に、居並ぶ諸侯たちが、ざわめき始めるのが突き刺すように感じられた。指が動かなかった。焦れば焦るほど、凍り付いたように指が動かなかった。
 ――お師匠様、助けて・・・
 『己の天賦の才を信じよ。お前には呪を統べる力がある。人の魂を掌る力がある』
 師匠の今わの際の言葉が、少女の中で響いた。
 右手が少女の意思を離れ動き出した。三の弦がゆっくりと爪弾かれた。
 澄んだ音が広間に流れ、ざわめきは水を打った様に静まった。
 三の弦の音は、十の弦に共鳴し微かな唸りを伴い、やがて消えていった。
 それを合図に堰を切ったように、指が調べを奏でだした。
 鏡のような水の面(おもて)に、微かな波紋が立つ。竪琴の調べは、緩やかに寄せては返し寄せては返し流れた。やがて小さな波紋は、王宮の広間の空間にゆったりとした渦を形作り、人々はその渦の流れにまどろむ様に身を委ねた。時には強く、時にはやさしく揺れる揺り篭の中でまどろむように、人々は心を溶かしてていった。
 少女までもが、自分の奏でる調べに心を一つに溶かした。少女には、自分が竪琴を弾いているという意識はすでに無かった。調べが次の新しい調べを生む。その繰り返しの中に、ただ身を委ねるだけだった。
 眼を開いた。自分の中から自然と込み上がる、きらめきにも似た感情が調べとなって紡がれていった。
 突然、弾けるように少女の力強い歌声が流れた。不思議だった。ただ調べの命におもむく様に口から溢れるように歌が流れた。
 妻をさらわれた男が狂戦士となり冥府を彷徨う歌だった。愛する女のためには世界をも敵に廻す男の戦いを詠いあげた、婚姻の宴には定番の曲だった。
 心地よい音色にまどろんでいた聴衆は、いきなり冥府へと叩き落された。狂戦士の猛き咆哮を聞き、刃と刃が重なる背筋が凍るような金属音を聞き、冥府の底の腐臭を漂わす濁った大気を嗅ぎ、絶え間無く降り注ぐ敵の血しぶきを浴び、やがて人々は、己と狂戦士を一つ身に重ねた。
 刃が肉を断ち骨を削る感触に心躍らせ、妻を奪われた怒りに心を荒れ狂わせ、二つの逆巻く激情の渦に、人々は翻弄された。
 少女は、聴衆の揺れ動く心を、あたかも高みから見下ろすように眺めた。それは神の視点だった。

 ――これが歌の力かしら
 自分が詠うことにより、人の心を統べる事が出来る。自分の力がにわかには信じられなかった。けれど、歌も指も迷うことなく自然と紡がれていった。
 曲は、やがてクライマックスに差し掛かった。戦いの果てに冥府の王をも打ち倒し、狂戦士は愛する妻を取り戻した。目も眩むような栄光の時が訪れた。心は歓喜に沸き立ち、咆哮は凱歌の雄叫びに代わった。
 詠は終わり、最後に戯れのように三の弦が爪弾かれた。それは師匠の癖であることに少女は気が付いた。
 広間に再び静寂が訪れた。誰もが魂を抜かれたかのように虚脱し、声を発することが出来なかった。
 少女は立ちあがると玉座に向かって一礼し、そのまま広間を出ていった。拍手も喝采も無かった。けれど、深い沈黙が全てを物語っていた。人々はあまりの力を前に恐れおののくばかりであった。
 宮殿の石段を下りる。風は軽やかに流れ、少女の短い髪を撫でた。目に染みる碧い空には白い雲が滲みのような彩られていた。
 ――お師匠様。ありがとう
 そして少女の足取りは、少しだけ軽くなった。

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このショートストーリーは源さんの絵から想起されたイメージから産まれたものです。本来は源さんのサイトへお贈りした差し話でしたが、源さんのサイトが縮小営業中のためこちらに掲示しております。
再びネットへの本格復帰されることを心より期待しております。

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