中国/山西省
大同市

雲崗石窟

Datong
Yungangshiku

(2006.5.19)


大同市は山西省の北部に位置し古来、北方に対する軍事的な要衝であった。
漢の時代に平城県が置かれ、胡族の王朝北魏はここ平城に都を置いた。
魏王朝が漢族支配にあたり漢民族の儒教や道教でなく西方より伝来した仏教を選んだ.
5世紀初頭インドで始まった尊像を伴った石窟寺院の造営の流れが涼州を経て伝わり、460年代に雲崗石窟が造営が開始された。


北魏について
後漢が崩壊後、紀元4世紀華北に胡族による国家群が分立興亡した。この時代を五胡十六国という。
五胡とは胡族の鮮卑、匈奴、羯、羌、氏を示すもので、いずれも北方の遊牧民族である。
北魏は鮮卑族拓拔氏の王朝であり386年〜534年と150年間中国を支配した。
中国支配にあたり中国固有の儒教より西方伝来の仏教を好のみ仏教を普及に力を注いだ。


大同市街よりバスで雲崗石窟へ向う。
中国三大石窟の一つ雲崗石窟は大同市の西16キロ雲崗鎮にある。
途中晋華株式会社と看板を掲げた大きな炭田があり大同は炭坑の町であることを書き加えたい。
石窟は武周山南麓の砂岩を切り開き築かれもので武周川の北岸に位置する。
東西1キロメートルに53窟もの石窟が削られ、彫像は5万1千体にも及ぶ。


雲崗石窟
正門の正面に楼閣で被われた第5窟第6窟がある。
門を入ると第6窟の左側に五華洞が並び、西谷を越えて曇曜五窟、西部窟群が続いている。
右手奥は東谷を挟んで東部窟群がある。


曇曜五窟
北魏王朝初期に開鑿したもので王朝の威厳を誇示している。
389年北魏初代帝の道武帝は道教を採り入れるため仏教や儒教を排除した。
しかし、文成帝の時代に仏教を国教にして転換し石窟の開鑿が開始された。
16窟〜20窟は仏教行政の長官、沙門統曇曜が文成帝に奏請して開鑿した洞で曇曜五窟と言われている。
直線的な鼻梁、きりっとした唇、耳朶が大きく垂れ下がった耳、鼻梁の上から弧線を描いて耳元まで伸びる眉の鋭く秀麗な線どの大仏も支配する皇帝の威厳に満ちている。


16窟 如来立像
高さ13.5メートルの立像
波状髪,服制が中国式である。


第17窟 交脚菩薩像
高さ16.25メートルの菩薩像。
曇曜5窟のなかで唯一の菩薩である。


第18窟 如来立像
高さ16.38メートルの本尊立像と脇侍立像が並ぶ。
両者の間に菩薩、上方に十大弟子。
本尊は千仏袈裟をかけている。


第19窟
高さは最大の16.48メートルの座仏


第20窟 如来坐像
高さ13.46メートル
前壁が落ちて大仏がむき出しになってしまった。


第5窟
文成帝を偲ぶものであるとの説がある。
第6窟の塔柱窟と一対をなす。

座仏
高さ17メートルの仏像が鎮座している。


第6窟
塔柱窟
釈迦の誕生から仏になるまでの物語を浮き彫りされている。

マヤ婦人の脇の下より誕生する釈迦

文殊像


第7窟

ニ仏


第8窟

シヴア神やヴィシュヌ神


五華洞 第9窟〜13窟

第9窟、第10窟で双窟を形成
第11窟〜13窟の3屈で一組を形成


第9窟

正面に列柱をつくり出して主室を塔柱窟としている。


第10窟
阿修羅といった多面多臂のインドの神々

多面多臂のインドの神々


第11窟

菩薩像


第12窟
さまざまな楽器を奏でる伎楽天人とさまざまな姿態をした飛天
このような形を見てひとびとはどのような観想に耽ったことだろうか・・・

伎楽天


第13窟
交脚菩薩像

高さ12メートル交脚菩薩と力士像


旅に出かける前に下調べをしたのですが、あまりにも規模が大きくてこの写真がどの窟の何になのか正確に確定できないものが一部あります。
今回の旅で仏像に興味を持つとっかかりになり意義のあるものとなりました。
日本の飛鳥、天平に至る仏教伝来の痕跡を訪ねる旅はおもしろいと思います。