中華人民共和国/河南省
安陽市
黄河中流に位置し中原こそが古代中国の核をなしたとの象徴の地が安陽である。
殷墟博物苑
殷王朝の遺跡
Henansheng Anyangshi
Yinxubowuyuan
(2006.5.24)
殷墟は安陽市の中心から西北約5キロの郊外にある。
紀元前17世紀〜11世紀にかけて約6百年にわたり黄河流域で栄えた殷王朝はこの遺跡の発見により実在が証明された。第19代の王盤庚(ばんこう)のときこの地に移り、第31代辛(しん)で滅びるまで約270年もの間ここを都としていた。殷が滅んで数年の後、王族のひとりであった箕子がここを通りかかったところ宮殿は跡形もなく作物が青々と生い茂っていたそうである。
殷墟遺跡は発掘された遺構によって宮殿区、王陵区、墓葬区などに分けられている。
ここ小屯村の宮殿区あたりは殷墟博物苑として整備され開放されている。
殷墟を横切るシ亘河
殷墟を斜めに横切るシ亘水の流れは河南省林県を源とする。
この川の流れは殷王朝の栄えた3千年前の当時とあまり変っていないと考えられている。
靄にかすむ橋は京広線の鉄橋であろうか。
殷墟発掘のきっかけは甲骨文の発見である。中国では竜骨とよばれる骨を粉末にした薬がある。このため農民が密かに骨を掘り出し骨董商が売りさばいていた。その骨に文句が刻まれていた。
甲骨文は甲骨(主に牛の肩甲骨や亀甲)に記されたうらないの文句(記録)である。甲骨の裏にくぼみをほり、火であぶると表に神のお告げをあらわすひび割れができる。これを王が読み解き貞人が記録を彫付けた。
甲骨文碑林
牛などの動物の肩甲骨や亀甲に記された占いの文句
占のテーマ、右に王が実現を望むこと、左にその逆を
予言の検証、日付、貞人の名前を記してある。
殷墟丙組遺跡
博物苑のほぼ中央に祭壇の遺跡がある。透明ガラスで蓋をした長方形の穴がいくもあり。覗いてみると人骨が重なって横たわっている。これは王が王の祖先に奉げた生贄である。王は祭祀を行うとき生贄の数も占にかけたようだ。祭祀のため夥しい数の捕虜が殺された。祭壇の前はさぞ凄惨な場面が繰り広げられたことだろう。
このような物語が甲骨文字に記されているとは甲骨の模様だけでは想像しがたい。
車馬遺跡
直径1.5メートルの輪を持つ二頭立ての馬車だ。戦車であろうか?6台の馬車が整然と並んで埋まっている。
婦好墓
紀元前約1200年の婦好の墓である。
婦好は殷王朝22代目の王、武丁の妃で勇ましい戦いの将軍でもあったいう。
後屈を免れた竪穴の墳墓からは婦好と銘が付された青銅礼器や多数の宝貝、玉器などの埋葬物が出土した。
夕食後古都を散策した。城壁で囲まれた旧市街はらんたんが灯り
人々は一日の緊張から解き放されたように買い物など楽しんでいた。
昼間登った天寧寺塔の上層部が太ったてんぺんも街の灯りをうけて夜空に白く浮んで見えた。
とある街角からにぎやかな音楽が聞こえてきたのでその方向に歩いていくと
広場いっぱいに国内をはじめ西域の国々の食物を並べた小さな夜店が軒を連ねていて家族ずれの市民でごった返していた。人ごみにまみれて多民族の情緒を楽しむことができた。
中国は行くところ行く所で新たなおもしろさが発見できます。
次回もお楽しみに!!
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