中華人民共和国/新彊ウイグル自治区吐魯番地区
吐魯番市

吐魯番

高昌古城・アスターナ古墳・火焔山・ベゼクリク千仏洞

Tulufan
Gaochanggucheng/asitanagufen/Baizikelikeqianfodong/

(2007.9.21)


新彊ウイグル自治区
新彊ウイグル自治区は13もの民族が暮らす多民族居住地区である。そのなかでウイグル族が約40%を占めほとんどがイスラム教徒である。バザーで混雑する街角で佇んで見ていると街のたたずまいも暮す人々の姿も中国を思わせない。ここは中国とは言えどももう中国から離れたところなのである。


敦煌より列車でトルファンへ向う。
20時16分発の夜行列車でトルファンへ向う。この旅三回目の夜行列車である。夜行の移動も三度目となると慣れて気軽になる。早朝目覚めて窓の外を眺めると列車は高いところを走り眼下に霞みがかかったトルファン盆地の景色が見えていた。到着時間が近づき車掌がドアをノックした。列車は定刻の8時30分トルファン駅に到着した。駅前広場は列車を下りた観光客でいっぱいになって一時的に華やいだ。

トルファン駅

トルファンは南北に長い形をして北に高く南に低い地形になっている。トルファン駅は北部にあり、これから行く市街地は盆地の底にある。駅前から発車するとバスの正面に斜面が水平に開ける。バスは霞んだ斜面をゆっくりと下っていく。ケーブルカーで山を下っているような感じでとても気持ち良い。


ぶどうの産地トルファン
トルファン盆地の特産はぶどうである。いたるところでぶどう畑が広がる。ぶどう畑の一角には必ず白壁の小屋が建っている。この小屋には無数の窓があり、中に柱が何本も立てられ収穫されたぶどうはこの柱に掛けられて干しぶどうになるのである。

トルファン市内の真中にもぶどう棚がある

西暦640年、トルファンの麹氏高昌国は唐によって攻め滅ぼされた。トルファンはこの当時もぶどうが主産地で、ぶどう酒もさかんに醸造されていた。ぶどう酒の醸造方法が唐へ伝わったのは、この戦いによって長安へ連れてこられた職人によると言われている。文化の発芽とか伝播とはこのような歴史の運動を伴うものなのである。
この旅の終わりにウルムチから北京へ向う機内で手土産にぶどう箱を持った乗客をたくさん見かけた。ぶどうは遥か唐代以前より絶えることなく延々とこのオアシスで栽培され続けているのである。


ぶどう農家
ガイドに案内されてウイグル族のぶどう農家を訪れた。屋敷は土の壁とポプラの木で囲まれていた。農家は4世代が同居する大家族であった。一家は庭先のぶどう棚の下の縁台でのんびりと腰をおろして談笑していた。家族に見守られた子供をあやす若い嫁さんの顔はおだやかである。暑い日が続く夏の夜、一家は母屋を出て庭のぶどう棚の下で寝るそうである。蚊もおらず快適であるとのことである。この農家でつくった埃を被っていない清潔な干しぶどうを一袋(1斤)を買った。


桑の木の街路樹
オアシスの町はポプラが似合う。ここトルファンでもポプラの街路樹が多い。またポプラのほかに柳や楡の木もある。驚いたのはトルファンには桑の木の街路樹があったことだ。桑の木の枝を見ていると過って我が家も桑の木で囲まれ時期になると桑の葉が青々と繁ったたことを思い出した。私の田舎はつい最近まで養蚕がさかんであった。子供のころ屋根裏で養蚕の手伝いをしたことも連想し頭に浮かんできた。私の田舎とこんなに遠く離れたトルファンが文化的につながっていたなんで考えると感激しないではいられなかった。


高昌古城
高昌は91年(和帝永元三年)後漢によって砦が築かれたのが記録に残る始まりである。その後、499年麹氏高昌国の都となって繁栄したが、640年突厥と組んで東西交通を阻害したとして唐によって滅ぼされた。

高昌城は宮城、内城、外城と三重に城壁をめぐらせていた。ひろい城内に宮殿跡や大寺院跡の一部分が形をとどめているが、人々が生活した住居は消えてすっかり無くなっている。日干し煉瓦で造られた住居であってもほとんど雨の降らないトルファンではすっかり面影をなくすほど自然崩壊が進んだとは考えられにくい。ここには別な理由があったのではなかろうか。


寺院跡
大慈恩寺三蔵法師伝によると玄奘はここで仁王般若経を講義したと記録に残している。玄奘は天竺から帰国するときにここで3年間留まって供養すると約束して出発したが、帰国の際にここを通った時にはすでに麹氏高昌国は唐によって滅ぼされた後であった。

玄奘が講義した寺院跡

現在、この寺院跡は修復中で、近いうちに仏塔や伽藍が復元されるだろう。


がんばれロバちゃん
城門から大仏寺跡まで驢馬車が用意されている。しこたま観光客を乗せた驢馬車はもうもうと埃をたてて走る。

力持ちのロバちゃん

身体の小さい驢馬が懸命に客車を引っ張る様は哀れを感じさせる。がんばれがんばれロバちゃんと声をかけてウイグル人の白い帽子を被ったあんちゃんは無常にもロバの尻に鞭をくれる。小柄で力持ちのロバちゃん頑張れ!!


アスターナ古墳
高昌古城の西に古墳がある。これは高昌城内で生活していた貴族や役人が眠るアスターナ古墳である。乾燥した気候風土は多数の文物を残し当時の生活を物語ってくれる。

この階段を下ったところに墓の扉がある

瓦礫の地面から三十数段階段を下ると入り口があり前室と墓室と続く。
29段の階段をさがった73TAM210墓からは夫婦のミイラが発掘された。
35段の階段をさがった72TAM215墓は三世仏の壁画がある。鴨や雉も描かれ江南の人の墓であると考えられている。
34段の階段をさがった72TAM216墓は孔子の教えが描かれ役人の墓であると考えられている。


木頭溝と火焔山
高昌古城からベゼクリク千仏洞へ向う。やがて道はぶどう畑をぬけ地獄を思わせる火焔山にぶち当たる。道は右に折れ道は深い谷に沿って曲りくねりながら登っていく。車を停めて断崖に立つ。谷底から風が吹き上げてくる。

高昌文化の源木頭溝

緑がまぶしい

火焔山はトルファン盆地の北の縁にあたる。夏は火州との異名があるほど酷暑で有名である。火焔山という名の由来は、炎天下陽炎が立ちひだの入った赤い山肌が揺らめいて焔に包まれたように見えるということにある。実際、赤いひだの山肌を見あげているだけでも焔に包まれているように見えてしまうほど猛烈な印象を与えるのだ。

西遊記の舞台火焔山

ここは子供の頃記憶された西遊記の舞台そのままである。孫悟空や鉄扇公主が登場する場面に私がこのままはまり込んしまったような風景なのだ。


ベゼクリク千仏洞
木頭溝の断崖に6世紀から14世紀にかけて造営された仏教の石窟寺院がある。ウイグル語で美しく飾られた家と呼ばれる石窟は煌びやかな仏像や壁画で燦然と光り耀き人々の心をときめかせていたことだろう。

ベゼクリク千仏洞

新彊の石窟は西域文化をとどめる

石窟寺院の造営は麹氏高昌国に始まり、唐の西州時代、回鶻(ウイグル)高昌まで続けらた。もっとも盛んであったのは回鶻(ウイグル)高昌であったと言う。現在もトルファンの住民の多くはウイグル族であるが、そのほとんどがイスラム教徒である。モンゴルより天山へ移動したころのウイグル族はマニ教を信じていたが、回鶻高昌国は仏教に帰依して盛んに石窟を造営したようだ。14世紀になってこの石窟が遺棄され破壊されていったのは、海路の発達によるシルクロードの衰退と、イスラム教の東進によりこの地がイスラム化したことによる。


トルファンからウルムチへバスで向う
トルファンからウルムチへの道は天山山脈の間をぬって行く。途中天山の峰に傾く光が反射して塩湖が白く光る。だんだん風が妙に強くなる。風は横殴りに吹きバスの進行を危うくする。風が吹き止まないという信じられない谷があった。ボゴダ峰を背景に無数の風車が突っ立って羽根を回し続けている。道は夕暮れた白い都ウルムチへと続いていく。


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