中華人民共和国/山西省
太原市

太原市

                     

Taiyuanshinei
(2006.5.20〜21)


人口320万の太源市は山西省の省都である。
過っては春秋時代に晋の都で并と呼ばれた。
并とは都が呂梁山と太行山が並ぶ間に位置することから発している。
北から南へ分河が流れ、則天武后、王維、羅貫中などを輩出している。


太原市に近づくにつれて雨雲が天を覆いだんだん暗くなり、市内に着くころには雨が降ってきた。旅行者にとって招きざる物であるが、こちらでは埃を洗い流す恵みの雨ということであるようだ。
夕暮れの中心街はひとびとが群れていた。デパートの出口から大きな袋を抱えた買物客が途切れなく出てくる。商品を手にした人々の目は獲物を捕獲した獣のようにぎらりと光って見えた。


双塔寺(明代の創建)

宣文塔、文峰塔と名付けられた二つの塔は太原のシンボルであるようだ。
明代の万励36年(1608年)、万励皇帝の母宣文皇后の出資により五大山の高僧福登が創建したと伝えられている。
二つの塔があることからこの寺は双塔寺と呼ばれている。
五大山の高僧福登により創建当初は永明寺と呼ばれたが、その後、永遠に福をもたらすようにとの意味がこめられた永祚寺に改称された。


東南に並び建つ双塔

高さ54メートルもある塔は8角13層で最上階まで登ることができる。
木造を模した楼閣式磚塔で各階軒下の桁、斗、垂木も磚積みで表現している。
伽藍は北向きに配置され、中心となる大殿の左側(東南)の方向の丘にこの塔が並立している。
太原の地形が東方向が低く西方向に勝てないため、
東のこの地に永明寺、宣文塔を建て気を補ったと伝えられている。
その後、宣文塔がわずかに傾いたことから伽藍との間に文峰塔を建てて気を補ったようである。


風水の影響を受けた伽藍配置

万暦当初の遺構であるこの寺の正殿は磚彫で木造建築を模した二層の建物である。
正殿の中に阿弥陀、釈迦、観音の三尊を安置している。
庭園に明代の牡丹が咲いたり、緑色の牡丹が咲いたりして牡丹が有名である。


崇善寺(唐代末期の創建)
太原市街のほぼ中心にある崇善寺は唐代末期の創建と伝えられている。明代に馬皇后を祀るため1381年に拡張されたが、清代に火災にあい現存するのは山門、鐘楼、大悲殿のみである。


崇善寺鼓楼

街路樹が青々と美しい歩道を歩いていくと
左右に鐘楼と鼓楼を従えて山門があった。
ここは高さが8メートルもある巨大な千手観音があることで知られている。


千手千眼観音を祀る大悲殿

千手観音は大悲観音とも言うことからこの楼閣は大悲殿というのであろう。
殿内の中央に高さ8メートルの巨大な金貼りの千手千眼十一面観音が
左右に文殊菩薩と普賢菩薩を従えて立っていた。
人々は黄金色に耀く眩い巨大な観音を仰ぎ見て広大な慈悲や
化導の智の円満自在さにすがったのであろう。


晋祠(北魏時代創建)
周の武王の次男の唐叔虞を祀るため北魏時代に創建されたものである。
晋祠境内の周柏、難老泉、聖母殿の侍女像を晋祠三絶と称する。


晋祠大門


金人台

四隅に鉄製の兵士が立つ。
西南の隅の兵士は夏の暑さに耐えかねて分河まで逃れて行ったが
河を渡るひとがなく渡し舟が出なかった。
兵士は鉄人と化し重くなって渡し舟を出そうとしたが身動き一つ出来なくなってしまった。
鉄人となった兵士はやがて捕らえられ足に三刃の懲罰を受けた。
そのときの傷がまだ西南の隅の鉄人の足に残っているとのことである。


母の邑姜を祀る聖母殿

聖母殿の前の沼に魚沼飛梁という宋代の十字橋が架かっている。
四方から渡れる橋は珍しい。
龍柱で支えられた聖母殿内に宋代の40体もの侍女像(彩色塑像)が並び
時空を超えてさながら優雅な宮廷生活を今に伝えている。


水母楼の前に難老泉という泉がある。

八角の難老泉亭がかけられた丸い井戸の中から水がこんこんと湧いている。
湧水は3対7の割合で分けられて下流の村村を潤していく。
「晋祠の流水碧玉の如し、微波の竜の鱗は沙草の緑」(李白)


2006年5月に山西省と河南省を16日間旅して来ました。
今回は太原市内の観光スポットの双塔寺、崇善寺、晋祠でした。
中国は行くところ行く所で新たなおもしろさが発見できます。
次回もお楽しみに

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