中華人民共和国山東省の旅
SHANDONG
臨シ斤・曲阜・泰山・済南・青島
(2000.10.6〜10)
山東省は広大な農業地帯である。
とうもろこし、麦、りんご、ハウス栽培の野菜など
豊富な作物を生む自然は
古代文化が芽生えた源でもある。
4月に雲南省の旅で知り合ったK先生と偶然この旅もご一緒することになった。 K先生とは日暮里のホームで一緒になることができた。 今回の旅は中国五岳の一つ泰山と孔子の故郷をたずねることである。 成田から10時30分発JL783便で青島国際空港へ向かう。昼食を取ると眠くなる。 「青島の天気は晴れ気温27度」機長のアナウンスあった。 前の席の男はしぶとくオンザロックを楽しんでいる。 窓の外は青、指輪をしない女が腕を組んでじっと外を眺めていた。 ようやく日常から解き放たれたボクが目を覚ました。 現地時間12時50分青島国際空港へ到着した。
山東省は人口8500万人、3000キロの海岸線を持つ。 産物は石油、石灰、金などであり、野菜栽培も盛んで日本からごぼうの種を持ち込み日本に出荷している。 春秋戦国時代は曲阜(Qufu)を都とする魯とシ博(Zibo)を都とする済が栄えた。 また孔子、諸葛亮や王義之などが出たところである。
臨シ斤(Linyi)
国際空港からバスでLinyiへ向かう。地平線まで畑が続く広大な農業地帯をバスは進む。 ちょうどとうもろこしや大豆の収穫時期で舗装した公路の両端は作業場となっていてバスはスピードを落としざるを得ない。 農家の屋根にもとうもろこしが千成瓢箪のように干されていていた。作物が豊かであることを感じさせた。
キョ県博物館
3時間ほどでキョ県に入る。ここはキョ国という国があったそうである。博物館へ到着したころは薄暗くなっていた。 博物館の外には2200年前の貴族の墓から掘り出した石碑が並べられていた。 蛇が交尾している図柄や車を引いている行列絵などが彫られていた。
博物館のなかは6000年前の大シ文口文化期の白陶や4500年前の龍山文化期の1000度の高温で焼かれた黒陶などが陳列されていた。 特に黒陶は見事な出来映えで当時の技術に関心した。 キョ県は昔夷という少数民族の文化が栄えた。族の長は牛の角笛で号令をかけたようである。 墓から酋長が使う角笛が発見されたり、冨を誇示する豚の骨が多数出てきたり、当時から貧富文化があったことがわかる。 掘り出された陶器には象形文字が刻まれていて文化の高さも感じさせた。
竹簡博物館
中国は10月1日が国慶節で1週間休みである。Linyiの街の中にある竹簡博物館を訪れた。 1972年に
春秋時代の孫子の兵法などが書かれた4942点もの竹簡が発見
され有名になった。 ここでは発見された墓穴や竹簡の一部を見ることができる。 竹簡に書かれた文字は粗末なものであろうと思っていたが、実際は一文字一文字きちっと書かれていて驚いた。
王義之故居
Linyiは書道家の王義之の出身の地であり故居公園となっている。 真中に大きな池があり枝をたらした柳の大木が周りを囲むように植えられていた。 王義之は筆をとる感覚は鵞鳥の頭の動きと同じということで鵞鳥を珍重したそうであり、 池には実しやかに鵞鳥が遊んでいた。
1976年まで農民は人民公社で集団的に農務についていた。作業の内容により一日10点、12点など と点数が決められており、その合計点により賃金が支払われていた。当時のレートは0.01分/点で あったそうである。その後、生産責任制になり指定された作物以外は作付けが自由になり生産も活発に なったそうである。
山東省は中国で一番高速道路網が進んでいる。 土地が国有であるから高速道路の整備がすぐ出来るようである。 Linyiから曲阜へは高速道路を使い泰安を回って曲阜へと遠回りした。
トウモロコシ畑が多いがコウリャンも見られた。昔はコウリャン畑が多かったが最近は お酒の味付けの原料となるだけで生産もあまりしていないとのことである。
昔の主食はトウモロコシと芋であったそうだ。 煎餅に焼いて葱と味噌をつけて巻いて食べたり、粉をおかゆにしたりしたそうである。 今では小麦粉をパン、麺、饅頭にして食べる。最近は米も食べるのが多くなってきたようである。 具体的な朝食メニューは油条(あげぱん)焼きもち、豆乳などであるとのことである。
曲阜(Qu fu)
曲阜の街は高い建物がない。大方2階屋である。孔子の街ということで古都の趣きがある。
阜の文字は大地が盛り上がって小山をていする形を現している。 曲阜に近づくと幾つもの丘が見えはじめ段々峰も高くなった。 ほとんどが石灰岩の岩肌を露にした禿山であり、段段畑の斜面が広がっている。 これは文化革命のときに大塞に学ぼうという耕地開拓運動がおこり、 全国規模で木を切って段々畑に変えたためだそうである。 耕地の豊富な山東省でもこれが金科玉条行われ禿山が多い。最近では 3月12日を植林の日と定め半日総出で植林を進めているとのことである。
孔廟−金声玉振坊
孔廟は孔子様のお墓である。魯国の哀公が孔子が亡くなった翌年(紀元前478年)に建てたと伝えられる。 明清代に増築が繰り返され現在の大きさになっている。 この金声玉振坊を幾つもの門を潜って行くと本殿の大成殿に行き着く。
孔廟−大成殿
大成殿は皇宮建築様式を取り入れている。正面の10本の柱に刻まれている龍の彫り物は 見ごたえがある。本殿の中央には孔子像があり、右に曽参と孟子、左に顔回と子思の四配 が並びその左右には12人の高弟ら十二哲がならんでいる。
孔府−三堂太湖石
大成殿から大成門までもどり左から外にでると孔府の大門がある。 孔府は孔子の子孫が代々住んだ邸宅である。歴代の皇帝は孔子の子孫を重んじてきた。 46代の孔宗願が行(真ん中にシが入る)聖公の位を得てから代々世襲された。 1948年に代77代直系子孫が台湾に移るまで孔子の子孫が住んでいた。 重光門は皇帝が式典を行うとき開かれる門であり現在は開かずの門になっている。 大堂は接見の間であり内閣という語源になる布で仕切られた席がある。
孔府−内宅門
内宅門は私邸との仕切りの門であり外部の人はいななる人も許可がないと入れなかった。 内宅の壁に太陽も食べる強欲な怪獣が描かれていて、子孫を不道徳な行為に走らせない ために描かれたと伝えられている。
孔林−至聖林坊
孔府から北方の位置に孔子と孔家歴代の墓所がある。 林前村に車を停めて物売りの露天が両側に並ぶ神道路を進と至聖門がある。 これは魯国の城門があったところでこの門をくぐると10万本もの樹木が鬱蒼と茂っている。 樹木の木陰に数え切れない草に被われた土饅頭が目についた。 奥に大きな石碑と円墳が並んでいるがその一つが孔子墓である。 石碑は文化大革命の傷痕がある。
仰径門(径はにんべんなし)
宿泊したQue里賓舎は古風の建物で趣きがある。朝賓舎を出てもう一度孔廟の門まで出かけた。 あたりは霧が立ち込めていた。金声玉振坊の前に丸く囲った門があった。 5元を受付の女に払って城門に登った。 写真は城門から下を眺めていた女性からシャッターを押しましょうか?と声をかけられ 写してもらったものだ。
夜K先生、Y先生と3人で賓舎の近くにある五馬祠街という夜店の並ぶ繁華街に出かけた。 K先生はCDや酒を買った。酒は孔府家酒である。原料は高粱、小麦、大麦などで酒精度は54%である。 それから3人で夜店で飲んだ。歩道にテーブルと椅子が並べられ、食材を並べた料理場を兼ねた屋台には 若い旦那と年上の奥さんが店をだしていた。奥さんをからかったり三人で談笑したりして 料理を5皿をつまみにビール6〜7本を飲んでいい気持ちになった。いざ飲み代を支払う段になって 9百元を請求されボラれたと途端に酔いがさめてしまった。3人とも安いだろうと考えていたためいちいち 代金を確認しなかったというスキがあった。しかし、これは日本人と見て餌食にしたとしか思えなかった。 礼を貴ぶ孔子の街はスキを見せれば容赦無くむしりとられる無頼の街でもある。
泰安(taian)
中国統一後、秦の始皇帝は山東省へ三度訪れたそうである。 その理由は済の国が強国でありこれを抑える。泰山で法禅の儀式を行う宗教活動の意味合い。 長寿の薬を求める。との3つの目的があったとのことである。 泰山が天と地の聖地として崇められ封禅の儀式を行うようになったのは調べないとわからないが、 海が近く海へのあこがれもあるのではないかと思われた。 長寿の薬探しについては、薬探しのため日本に3000人を派遣したとの史記の記録もある。
岱廟
岱廟はおてんとうさんと大地を祭祀する祠である。外敵から守るため城壁が巡らされており 城のようでもある。敷地内は桧の森となっており雀や尾長などの鳥の囀りが聞こえ心地良い。
漢の武帝が封禅の儀式を行った時植えられたと伝わる樹齢2千年を越える漢柏が5株現存する。 高官や貴族が休憩した東御座には伽羅の木の獅子の形を原形にした鎮山三宝の沈香獅子などが陳列されて いる。また、秦二世刻石には秦代(紀元前209年)二代皇帝胡亥の丞相であった李斯の文字が刻まれて いる。もとは222文字あったそうであるが現存するのは9字である。
岱廟−天きょ殿
おてんとうさまから天書を賜ったという意味で天きょ殿と言う。九五様式で建てられたこの宮殿建築は 中国古代三大宮殿の一つである。 宋代に建てられたことから宋天きょ殿と言う。内部の壁に描かれた泰山の神が巡視に出かける 壁画はみごとなものである。年月を経てだいぶ傷んでいるのが気がかりであった。 天きょ殿の裏に寝殿があり、その左右に銀杏の大木がある。ちょうど銀杏の実が熟れる時期で 住民が輪になって梢から実が落ちてくるのを待つ光景に出会った。自分の陣取った場所に落ちて きたら拾うのであろうが私にとって珍しい光景であった。 右奥にある銅亭に登り雲の晴れ間から泰山の峰峰が見えてきた。
後門の後宰門を出ると岱廟北路に出る。右に折れてポプラ並木を行くと自由市場が開かれていた。 まだ、午前中なのであまり人出は多くなかったが、道路の両側にずらっと野菜、肉、果実、パン、 衣類などの出店が立ち並んでいた。
泰山(Taishan)
泰山は石灰岩の岩山である。日の傾きと雲の流れによる変化する峰峰は荘厳で 中国で言う日本人の富士山とおなじ親しみのある山である。
泰山
昼食を取り小型バスに乗り換えて桃花源駅へ向かった。途中から泰山の谷間に入り 渓流に沿った急斜面の道を登って行った。30分余りでロープウェイの駅に着く。 6人乗りのゴンドラは自動でドアが開閉する最新式であった。急斜面をつたい約10分ほどで 西南天門駅へ着く。
泰山−天街・南天門
ここから歩道を登って行くとホテルやレストラン、ショップ などがある天街がある。天街の広場からすぐ下に南天門がありここから十八盤という 急勾配の石段が霧の中に消えていた。
泰山−碧霧祠
天街の広場から左側に店が並ぶ山道を登り始めるころようやく霧が晴れてきた。 約200段ほど急な階段を登ったところに碧霧祠がある。これは泰山の玉皇大帝の娘の 碧霧元君を祭るもので宮殿楼閣は宋代のもので泰山で最も古い建物である。
泰山−玉皇頂
碧霧祠をぬけて左に折れて登って行くと多くの碑文が刻まれている唐摩崖がある。 726年玄宗皇帝が封禅の儀式を行ったとき彫った紀泰山銘之碑を見ながらここで 一休みした。ここからちょっと登ると天と地の接点である標高1545メートル 泰山の最高峰、玉皇頂にたどり着く。 玉皇頂には玉皇殿という祠があり玉皇大帝が祀られている。また、左右の祠には十二支の 神神が並んで祀られていた。ここに漢の時代の石碑があるが、この無字碑はここからの眺 めがあまりにも素晴らしく言葉では表現できないためと言われている。
泰山−日観峰
ここから東の峰に日観峰があり西の峰には望河亭が望める。黄河は見えず霧の間から見え隠れする頂は紅葉が始まっている。ナナカマドの赤い実が 印象的であった。
済南(Jinan)
済南は山東省の省都である。市区の人口は250万人、オートバイ35万台とRさんが説明した。 済南は72名泉と称するように泉の街である。町のいたる所で泉が涌いている。 しかし最近は開発により涌き水が枯れる問題があり、井戸掘りを禁止するなど対策がうたれている。
済南
済南の付近の龍山から4千年まえの黒陶が発見され龍山文化の発祥の地とされている。 市内には隋唐時代に摩崖仏が彫られたため千仏山という自然公園がある。宿泊したホテルは
テレビ塔の見える千仏山路の済魯賓館
であった。
済南−大明湖
大明湖は済南の涌水が注ぎこんで成り立っている湖である。湖の周囲には柳が植えられており、 湖中にはたくさんの蓮が葉を並べている。水温が低くここの住んでいる蛙は発情しないので 鳴かないそうである。(ほんとうかな??) 大明湖は唐時代の李白や杜甫が訪れたことで有名である。 杜甫は745年に書道家の李?と
歴下亭
で出会ったことを詩に残している。 わき水を集めて澄んだ湖水もわき水が涸れたことにより緑色に染まっている。
Zibo/青州(Qingzhou)
済南から済青高速に乗りシ博(Zibo)へ向かう。あたり一面は麦畑である。 畑を見ていて不思議に思ったのは、野菜をつくるハウスは東から南に太陽の移動するのと 平行につくられていたが、麦畑のさくは北から南へと太陽の移動する軌道とは直角になっていることである。
東周殉馬坑
斉の主君の墓の廻りに600頭ほどの雄馬が二列に折り重なって整然と埋められている。 強い国を千乗国と言うそうだ。一乗は4頭だから4千頭もの馬は大国の象徴であったことから あの世でもということで馬が犠牲になったのであろう。 周の景公に使えた晏子の話として主君の刑罰があまりにも厳しかったことから、 市中では靴が安く擬足が高いと言って行き過ぎを諭したとの言い伝えがある。
青州博物館(K先生とTDのTさん)
ZIboの隣の青州市では博物館を見学した。先に紹介した大シ文口文化や龍山文化時代の陶器やその後の 時代の青銅器など夥しい提示品を見物できた。陶器や青銅器で出来た器の名称について盆、鼎、胚、椀、 壷、薫、などをメモしたがワープロで表現できない文字もたくさんあった。 特に驚いたのは北斉時代の
貼金彩絵菩薩像など仏像の表情の豊かさ
である。北宋時代の仏教排斥運動により このころの仏像は破壊されたとのことである。龍興寺遺跡出土の夥しい石仏像は当時の仏教文化の 壮大さを感じさせた。 仏像の彫りの精緻さや面持ちは日本の仏像にうり二つである。洛陽にある龍門石窟にある石仏より 何か日本仏教と近くつながりが強いのではないかと疑問を持った。
青島(Qingdao)
青島は二度目である。何故か日本との近さを感じさせられた。今回の旅行のガイドを努めたR先生の 旅行公司のある街でもある。今回の旅行が興味深いものになったのはR先生の説明が素晴らしかった ことがあげられる。感謝したい。
現地旅行公司のR先生と桟橋で
小魚山公園や桟橋を見物した。夜はK先生と西陵峡路に出る夜市場へ出かけた。 海岸べりの路の両端に多数の出店がたち、たくさんの買い物客でにぎわっていた。
宿泊した海天大酒店へもどり地下のカラオケバーへでかけた。 雲南旅行でK先生からの出された宿題の歌を練習しておいたので歌った。 一つはテレサテンの月亮代表我的心もう一つはジュエットの在雨中である。 我々についた王雪(WangYue)というxiaojieからnin 唱歌 hen 好 tingと誉められた。 午前12時にバーは閉店した。再見と言ってロビーの階段に消えたWangyueのzaijian という発音がロビーと心に響いたのが心に残った。
今回の旅は孔子の里を訪ねる。中国語で片言話をする。中国語のカラオケを歌うであった。
孔子とはというところは準備不足で未達成。通信教育の中国語の実践はまずまずで満足できた。
山東省は何故古代文化が芽生え育ったのかそれは古代から作物が取れ豊かであったためだと 感じさせられた。
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