中華人民共和国/浙江省/紹興・寧波・普陀山・天台山
日本ゆかりの中国寺院を訪ねて
Riben fojiao yinyuan de siyuan
(2007.12.15〜20)
暮れに日本仏教ゆかりの寺院を訪ねて浙江省へ出かけました。日本となじみの深い紹興、寧波、天台山などを見てまわりました。
紹興
杭州の空港から車で分紹興の街へ着く。紹興酒で知られる街である。現在は紡績業や軽工業の盛んで、日本との経済的な関係が深いと聞く。紹興酒の工場を見学したところ日本に出回っているものは台湾製ばかりで紹興産のものはないとの説明があった。だからお土産に買ってくれということなのだろうか・・・・一本買ってしまった。もともと私は煙草よりは酒が好きだ。それも蒸留酒よりは醸造酒が・・・だから紹興酒は好きな酒の一つである。かって大手町ビル地下の中華レストランで暖めた紹興酒をグラスに注ぎ氷砂糖を入れて飲んだこともなつかしい思い出なのである。
紹興朝の広場
紹興は魯迅、周恩来、秋瑾の故郷である。
魯迅の記念館は魯迅の生家の隣りに建てられていて周囲がきれいに開発されている。また紹興は運河の街で知られている。真っ黒に塗られた観光客めあての小船は烏篷船と言いベニスのゴンドラよりはるかに小さいが、この船で夜の運河をまわったらとても恋人同士をロマンチックなき持ちにさせてくれるであろう。
周恩来記念館や秋瑾の像はホテルの近くにあった。朝早く起きて散歩に出て訪ねることができた。大通りから一歩横道に入ると街路樹は低く垂れこみ低い建物が続く。道は直線的でなく生活を積み重ねたような曲りがあり、交差点もわずかに対照的ではない。個人的にはこんな街並が私は好きである。
魯迅も周恩来も秋瑾もどのような人生をおくり業績を残したのか・・・。自分の意識のなかで近世歴史が腫れ物さわるように扱われ未成熟のまま放っておかれている。その霧のなか彼らはあるのだ。
郊外にある蘭亭
蘭亭跡は公園として整備されたいた。明の時代にここに遷されたものでもともとは天章寺の庭園にあったそうである。竹林のなかに書家王義之の鵝池と鵝池の碑、墨華亭、蘭亭序の碑、流しょう亭、御碑亭などが復元されている。曲水の宴は韓国、日本へも伝播し今でも貴族文化の象徴的な形として痕跡をとどめている。
寧波へ
寧波(ニンポー)を現地ガイドは日本人客向けにネイハと読んで解説した。私はネイハよりニンポーと読むほうが感じがぴったりする。難波はナンポーよりナニワがよい。紹興はシャオシンよりはショウコーと読むのがよい。中国語講座で田中という苗字をティエンチョンと中国語の発音で読むが、ここは現地ガイドさんがネイハと読むようにタナカと読んで欲しいものだ。
寧波世紀広場
朝早く街に散歩に出た。ちょうど通勤時間帯にあたり中山路は街の中心へ向って人の流れが続いていた。流れに逆らって中山東路を進むと奉化江にぶちあたる。そこにかかる江厦橋を渡り中山東路は真っ直ぐ続いている。橋のたもとに黒い石碑が見えた。近づいてみるとそれは道元禅師が上陸した地点を示す記念碑であった。このすぐ先で奉化江は余姚より流れくる余姚江と合流して甬江となり金塘水道へとそそいでいるのである。日本とははるか昔から馴染みのあった寧波に立っているのだという喜びが胸にわきおこってくる至福の時間だ。
寧波余姚江風景
仏舎利の残る阿育王寺
阿育王寺は寧波郊外にある。かって中国国内に建立された舎利塔は総勢19基と伝えられており、保存され残っているのはここ阿育王寺の舎利塔だけと言われている。舎利塔は石彫で五層四角高さ7メートルある。塔身は青く四面は穿たれた龕に菩薩像が掘られ内頂には宝磬がかかっている。また舎利塔の後ろには涅槃仏が横たわっている。
禅宗の名刹・天童寺
臨済宗の栄西と栄西の弟子の道元がここに学び、道元は帰国後曹洞宗を開いた。駐車場に車を停めて参道を登る。間口三間の田舎じみた山門がありこれをくぐると松柏が立ち並ぶ参道が続く。曲がりくねった参道の両側はちょっとした出店が並んでいてにぎやかである。やがて万工池という大きな宝池があり、天童寺の伽藍が見えてきた。伽藍は地勢にそって低き所から高みへと厳格に配置されている。四方を山に囲まれている環境といい、斜面に建てられた伽藍の配置といい、永平寺とうりふたつである。
普陀山へ向う
普陀山へ行く朝はあいにくと雨と霧で視界がきかなかった。このため予定していた大樹発のフェリーはあえなく欠航、出航の見通しがたたなかった。しばらく待ってから舟山経由に切りかえてフェリーと高速艇を乗り継いで普陀山へ渡った。海はなぜか一面黄土色に染まっていた。普陀山へ到着したのは遅れて正午となってしまった。
普陀山の玄関(桟橋)
普陀山は四大仏教聖地の一つ
中国には四つの仏教聖地がある。観音信仰の普陀山、文殊信仰の五台山、地蔵信仰の九華山、普賢信仰の峨眉山である。船の隣りの席に中年の女性が坐ったので話しかけてみた。彼女は広州から巡礼にわざわざやってきたのだそうだ。仏教の信仰心は日本より中国のほうが篤いのではないかと思ったりした。
普陀山第一の名刹・普済寺
石碑坊を歩いて入ると別名放池と呼ばれる海印池がある。池には三つ橋がかかり山門に正対した平橋の真中に湖心亭が建っている。普済禅寺と紫の額がかかる山門をくぐると天王殿へつづく。天王殿は四方を四天王に守られた弥勒菩薩(布袋さん)が坐り、背後では韋駄天が立っている。つぎの主殿は通常は大雄宝殿であるがここでは観音霊場らしく円通殿という。円通とは観音菩薩の別号である。全身黄金で耀いた高さ6.5メートルの観音菩薩が坐り東西両壁に32体の観音像が端坐している。主殿の両側に拝殿があり東は弥勒菩薩を配した文殊殿が、西は普賢菩薩を配した普賢殿がある。また主殿の両側の回廊に羅漢堂が設けられ十八体の羅漢さまが並んでいる。海印池のほとりにある元代に建てた太湖石で組んだ五層の多宝塔は普陀山三宝の一つである。
清朝の加護を受けた法雨寺
普陀山第二の寺院である。天王殿、玉仏殿、九龍観音殿、御碑殿、大雄宝殿などの殿堂が建ち並らぶ。玉仏殿にはビルマより求めた釈迦牟尼玉仏像が坐っている。特に見事なのは南京の明故宮九龍殿をまねて建てられた九龍観音殿である。八本の柱には八条の龍が巻きつき首をあげ舞い下り、薄井に古典的な九龍戦珠の彫がほどこされ、盤頂で一条の龍が戯れている。殿の中央に光背に龍をほどこした大悲観世音菩薩が安置され左右に十八羅漢が並んでいる。奥の大雄宝殿は三世仏がまつられ東の耳殿は三聖殿であり仏教、儒教、道教の三聖人がまつられている。
観音伝説のある不肯去観音院
不肯去観音院(行かずの観音の院)は日本僧慧鍔が五台山から戴いた観音像を携え日本へ向け出航したが、海が荒れて如何しても舟が進むことができなかったので、ここに庵を結んで観音菩薩を安置した。この伝えのあるこの地が観音霊場普陀山発祥の地である。現在は観音長廊を進むと海に向って大士亭が建ち眼下に観音堂がある。美しい観音堂には金色に耀く十一面観音像が安置されている。
南海観音大仏
高さ33メートルの巨大な黄金の観音菩薩像が最近建てられた。観音霊場普陀山のシンボルである。
天台山へ向う
8時寧波のホテルを出発、高速道路を天台山へ向う。緑の多いのどかな風景が流れる。10時30分天台インターより高速道路から出る。途中バスを停めて現地ガイドを乗せる。女性ガイドのKさんの声は谷間から聞えてくる鳥のような美しい声をしていた。
天台山
天台山はもともとは道教の聖地であったところであるが、知者大師(智ぎ)が入山して天台宗を開いたところである。最澄は天台山に学び日本に戻り比叡山に天台宗を開いたゆかりの霊場である。
石梁瀑布
天台山を代表する名勝、石梁瀑布は天台山系の奥の方にある。途中の集落でマイクロバスに乗り換えて奥に入る。バスを降りて曲りくねった坂道をくだると滝の下にでる。見上げると滝口に太い石の梁がかかり流れは梁の下をくぐって滝壷へと落ちている。この滝を中心にかって上・中・下方廣寺が営まれていたが、上方廣寺は火災にあい廃寺となり、現在は中と下のみ参観できる。
庭園のモデルにもなった石梁瀑布
下方廣寺、中方廣寺
五百羅漢道場と言われている下廣寺は東晋の創建で古い歴史をもつ。大雄宝殿は清代に再建されたもので屋根の先が弓のようにみごとに曲り天を向いている。この宝殿の中央に金色の釈迦像が蓮華坐に座り、両端にこれまた金色のニ弟子が立っている。出口の西東には弥勒菩薩と文殊菩薩が座り通りぬける信者たちを慈悲の眼で観ている。また両側に棚があり五百羅漢像がびっしりと並んでいた。
下方廣寺を出てからさきほど来た道を登る。途中で道をそれて岩を踏んで沢を越え沢にかかる鼓橋を渡ると中方廣寺の山門がある。この寺の本尊は阿弥陀如来である。寺は大掛かりな修繕を行っていて境内は混雑していた。欄干に立って見下ろすと真下に石梁がかかり水が落ち、その先に森に囲まれた下方廣寺の全景が見える。
天台山中を下る。
中方廣寺を見てから天台山中を尾根伝いに知者塔院まで下った。左手に知者大師(智ぎ)が悟りを開いたという華頂山の峰が迫ってくる。知者塔院の山門が近づくにつれて参道の際にこの山で没した僧侶達の石の卒塔婆が立っていた。
華頂山を中心とした天台山
知者塔院
開祖智ぎの肉身塔を安置することからこの名があるが正式には眞覚講寺と言う。山門をくぐると布袋さまや韋駄天が迎えてくれる。中庭は金桂や銀桂が植えられ枝を広げ空をつかんでいた。肉身塔は六角ニ層の石造りで行満大師、章安大師、道遂大師など弟子僧たちの肖像壁画に囲まれていた。
知者大師の道場のひとつ高明講寺
黄色の壁とアーチの門のある山門は目を引き印象が残る。天王殿では四天王に守られた弥勒菩薩が正面で出迎えてくれる。その奥の大雄宝殿では十八羅漢にはさまれて黄金の三世仏が並んで座っている。このほかに腕を長く伸ばした長手羅漢などいきいきとした五百羅漢が並ぶ羅漢殿、僧衣をまとった女達が音曲にあわせナーマンダー(南無阿弥陀仏)ととなえていた四方殿などいくつもの殿堂が森に囲まれて建っていた。
天台山の主刹・国清寺
天台山の南麓にある国清寺は中国天台宗、日本天台宗の祖庭である。初名は天台山寺と言ったが、隋の楊廣皇帝が智ぎを尊って「寺若し成らば国即ち清からん」との意味をこめ国清寺と呼ぶようにと遺言したものである。建物は弥勒佛殿、雨花殿(天王殿)、大雄宝殿、観音殿の四殿、鐘楼、鼓楼、方丈楼など五楼、妙法堂、安養堂など四堂、梅亭、清心亭二亭などが建ち並んでいる。間口三間の雨花殿は四天王が仏界を守り、間口七間の大雄宝殿では阿難、迦葉のニ弟子を従えた釈迦牟尼仏が蓮華宝座で念仏を唱えている。左右の壁際には楠木で彫られた十八羅漢が並んで控え、出口の正面には善財と龍女を従え鯰に乗った慈航普渡南海観音が立ち、左右には文殊、普賢の両菩薩が坐っている。
天台山から諸葛八卦村へ
諸葛孔明の子孫が住む八卦村で今回の旅を締めくくった。八卦村は金華市、蘭渓市にある。金華ハムは日本でも有名であると旅のメンバーが教えてくれた。村落は鐘池と呼ばれる池を中心にして八方に路地がのび八卦陣の形をしているのがおもしろい。その円陣のなかに丞相祠堂や大講堂、百草園など諸葛氏に関係する建物などが散在している。丞相祠堂では占い老人からくじをひいて占なった。そうしたら吉とでた。当るも八卦、当らぬ八卦・・・・八卦陣???
八卦村の地図
初回は旅行の全体まとめました。次回から主だったゆかりの寺院を個別にまとめていきます。
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