中華人民共和国/内モンゴル自治区
内モンゴル自治区フォロンバイル草原の旅
(3)戦争の博物館
Naimenggu hulunbaeier
(2009.6.6〜6.14)
2009年6月ノモンハン事変70年を迎えるということもあってノモンハンに行く内モンゴル自治区の旅行ツアーに興味をもった。内モンゴル自治区に行くのは初めてでわくわくして行きました。
内モンゴル自治区
面積118.3万平方キロメートル、人口2361.7万人、人口の約半数がモンゴル族が展開している。
ホロンバイル
今回訪れたホロンバイル地区は内モンゴル自治区の最東に位置する。ホロンバイルの名は草原にある二つの湖、ホロン湖とバイル湖に由来してる。モンゴルの言葉でホロンはカワウソを意味しホロンバイルとはオスのカワウソである。
ハイラル要塞北山遺跡
関東軍が1934年〜1937年末に完成させたハイラル要塞の跡で年間10万人もの中国国民が見学に訪れるという。敷地内にある博物館内では九・一八事変、満州国建国、抗日運動、ハイラル要塞、日本軍暴行、ノモンハン事変、ソ連満州侵攻、友誼長存という流れで展示されている。
ソ満国境をにらむハイラル北山陣地

博物館の建物の周囲には戦車や大砲などが陳列されている
地下要塞跡
(地下陣地見取り図)

(通道)

(医務室)


(通風機室)

(通気口(道内上部))

(通気口(地上部))

(兵宿舎)

(通信室)


(弾薬庫)

(地上要塞出入口)

ノモンハン戦役遺跡陳列館
満州国とモンゴルの国境をめぐる紛争、ノモンハン事変の現地を訪れてたが、モンゴル領の丘と国境の有刺鉄線が遠くに見えただけである。ノモンハン村はチャガンノールという湖のほとりにある。村外れに建てられた陳列館が記念碑のように佇んでいた。
陳列館遠景
(ノモンハン事変はあまり関心がないのだろうかここまで訪れるひとはほとんどないようだ)

陳列館の正式名称はノモンハン戦役遺跡陳列館
(展示はソビエト側のものが多く日本側は少ない)
(火炎瓶に使ったと思われる空瓶の陳列が目に止った)

(給電も止り自家発電で照明がようやく灯った)
国防教育や愛国主義教育の基地を示す金色のプレート

ノモンハン村
(人口300人の静かな牧畜の村である)

廃屋となった小学校
2002年に平山郁夫氏が建てた小学校は2004年に廃校になったそうだ

ハイラル平和公園
(ハイラル市内)
1945年8月7日関東軍はハイラル市内のの伊敏川にかかる伊敏橋?を爆破して撤退した。爆破した橋は断橋遺跡として残されている。
ソ連満州侵攻をイメージした像が平和公園のシンボル
(銃は平和の象徴でもある)
(ノーベル平和賞のオバマ大統領も平和のための武力行使を認めた)

伊敏川に残る破壊された橋の残骸

何故か日本人親子を思われる望郷と銘打った銅像がある

ハルビン駅
1909年10月26日午前9時過ぎに伊藤博文はハルビン駅構内で安重根により暗殺された。ホームのその地点にマークが付されている。伊藤は犯人が韓国人であると聞いて「馬鹿な奴だ」と話し数分後に絶命したとの証言がある。この証言をしたのが伊藤に同行した貴族院議員室田義文である。そのとき室田は伊藤の3メートル後ろに歩いていたという。室田は弾道の入射角が斜め上からのものであること、銃弾が拳銃ではなく騎兵銃であることなどを指摘して伊藤を射殺したのは露兵の股間から銃を発射した安重根とは別のものであるとも主張した。帰ってからこの暗殺事件を調べたところ米国ケネディ暗殺のような疑惑が伊藤暗殺にもあることについて驚きであった。
伊藤博文が暗殺された場所

暗殺場所を示すプレート

寛城駅でハルビン行きの夜行列車に乗り込んだ伊藤は車中漢詩を読んだという
万里平原南満州
風光闊達一天秋
当年戦跡止余憤
更使行人牽暗愁
此れが伊藤の絶筆となった
その翌年1910年8月22日韓国併合に関する条約が調印された
旧戦地を訪れるのであればもう少し歴史を知ってから来るべきであると反省している。しかしハイラル平和公園の望郷の銅像は誰が建てたのであろうか?中国人であるとするならばどのような気持ちで建てたのであろうか?
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