中国/甘粛省
敦煌市
莫高窟
Mogaoku
(2007.9.20)
第96窟九層楼

この日の莫高窟は雲一つない晴天に恵まれた。
断崖に沿った九層楼は莫高窟のシンボルである。
その前に立った感動の一瞬です。
龍門や大同に引続き敦煌の仏像や壁画を実際に見たくてはるばるここまでやって来ました。
時代の変遷とともに移り変わる石窟の形、仏像の特色、壁画の文様やテーマ
こんな贅沢な切り口で観賞を楽しめるのも莫高窟の強みです。
敦煌の東に鳴沙山と向き合って三つの高い主峰を持つ三危山がある。その間に大泉河が溝を刻みこの西岸の断崖に千仏洞とも称される莫高窟がある。莫高窟は十六国、北魏、西魏、北周、隋、唐、吐蕃、五代、宋、回骨、西夏、元、明、清、民国と1600年もの時を越えてきた。1000窟を超える石窟が造営されたが、今では492窟が残り、延べ塑像2400体、壁画45000平方メートルが仏の世界を物語っている。
莫高窟の門

青色の横額が印象的
莫高窟物語
時は前秦の建元2年(西暦366年)、楽尊(らくそん)という僧が鳴沙山の麓にさしかかったところ、陽は峰に落ちあたりはすっかり暮れてしまった。次第に腹がへってくるし途方にくれた楽尊は茫然として四方を眺めるていると、東の方向から燦燦と耀く黄金の光が眼にとまった。よく見ると光の中でなんと千仏が煌いているではないか。驚嘆した楽尊はここで心有所悟して窟を造営したと伝えられている。
その後、莫高窟の造営は隋朝唐代前期に最盛期を迎え、唐代初期には有に千窟を数えた。その後、宋、西夏と石窟の建設や修繕が続けられたが、陸のシルクロードの衰退にあわせて莫高窟の造営活動も次第に衰落する運命をたどった。やがて元代以降開鑿は途絶え次第に人の記憶からも遠ざかっていった。
荒廃した莫高窟が再び注目されたのは清朝初期であったと言う。そして1900年6月、蔵経堂が偶然発見され、これを機に窟は蘇り仏教芸術の宝庫として注目を浴びている。
莫高窟北区
莫高窟は南区と北区に区分される。壁画や塑像を有する窟は南区に集中するが、北区の石窟は画工たちの生活の場でのあると考えられていたが、最近の調査で用途が明らかになった。北区は全体で243窟あり、用途によって僧房窟、禅窟、えい窟(僧や信者の遺体安置所)、礼拝窟、稟窟(倉庫)に分類された。元代に造営された秘密寺と呼ばれる第465窟が北区にある。この窟は全体で曼陀羅の世界を表現している。元代にはこのような密教の石窟が北区に造営されたのだった。
莫高窟北区

見物にあたって
@カメラは全面禁止。(窟内はもちろん莫高窟の入り口に入ったところから全面禁止です。)
A莫高窟見物の特徴は見物する窟の番号が現地に行かないとわからないことです。(ツアーによっては事前に知らされるものもあるようです。)このため私は事前に計44窟もの内容を調べておきました。窟内のどの場所にどんな仏像が安置されているのか、また天井や壁になにが描かれているのか、などある程度予備知識がないと実際説明を聞きながら対象を見ても、後々何が何であったのか記憶が頭の中で錯綜して整理がつかなくなると思います。
B洞窟内は暗いのでライトが必要です。小型のライトを用意しましたが、手もとの資料を見るのには役にたちましたが、直接塑像や壁画を照らすのには役不足でした。
石窟の入り口

どの窟も頑丈な鍵がかけられていいます。
楊研究員の案内で約2時間ほどかけて合計10窟見物しました。具体的には第94窟→第96窟→第217窟→第172窟→第148窟→第130窟→第254窟→第249窟→第16窟・第17窟でした。
第94窟 唐 (清代修復) 三尊像、孟子像、千仏図
最初に案内されたのは第94窟でした。いきなり事前に準備してない窟だったので面食らってしまい「三尊、孟子、千仏」としかメモがとれませんでした。壁や天井は千仏がびっしりと描かれていた印象が残りましたが、窟の形や仏像、壁画が具体的にどのようであったのか、次々とまわった窟の印象が重なって行き、この窟の記憶はみごとにかき消されてしまいました。仏教、儒教、道教の三つが祀られていたように思えます。別途調べて書き足します。
第96窟 初唐(清・民国修復) 九層楼 北大仏
敦煌を象徴する高さ43メートル九層の朱色の楼閣のなかで高さ34.5メートルの弥勒大仏が倚坐している。下から見上げても大仏さまの顔は遥か上でどのような形なのかよくわからない。敦煌の断崖はコンクリートの荒打ちのような第四紀玉門系礫岩層に属し彫刻に適さない。このため礫岩層に大仏の粗形を彫りだしそれに粘土を盛り上げ形を整える石胎塑像という方法をとっている。この寺院は唐の則天武后の御世に建立された。自らを弥勒の再誕と僭称し帝位についた則天武后は諸州に大雲寺を建立させた。この北大仏は沙州の大雲寺弥勒大仏にあたる。この北大仏は清代に修復され顔は変えられが、当初のは龍門の奉先寺大仏、すなわち則天武后の面影に近似していたようである。
大仏の回りには回廊が設けられている。敦煌の人々は祈りをやめておりません。今でも毎年四月八日は仏前で礼拝し回廊をにぎにぎしく回って祈りを奉げています。
九層楼のなかに坐る北大仏

外から光がさし白い顔と朱色の楼閣が映えます。
第217窟 初唐(晩唐・五代・清代修復) (伏斗形方窟) 法華経変(化城喩品) 観無量寿経変
西壁の大龕は開鑿当初の仏像は失われ、龕内に描かれた十大弟子と八菩薩、主を失った光背を残すのみである。
南壁には法華経変が描かれている。中央の区画に釈迦説法図が描かれ、左右の両縁に化城喩品と法師品が縦長に描かれている。右側の化城喩品は緑の峰峰、山間を縫って流れる川など山水画の画法により描かれ、苦行して荒野を行く一行の物語が描かれている。案内人が西域を思わせる城に導いている。この城は疲れ果てた一行の疲れを癒すため案内人が神通力を用いて化作したものである。この城で元気を取り戻した一行はようやく宝処(涅槃)の場所に到達することができた。
北壁には中台に阿弥陀浄土経変と、左の外縁の序分義、右の外縁のに十六観で観無量寿経変が描かれた。人々は繊細に描かれた阿弥陀浄土の世界にあこがれたことであろう。
化城喩品

第172窟 盛唐 (前室と伏斗形頂窟の主室) 七尊像、観無量寿経変
西壁の龕には本尊仏倚像と二比丘四菩薩の塑像が並べられている。また、北壁・南壁に観無量寿経変が描かれ、東壁は入り口を挟んで左右に文殊菩薩と普賢菩薩が描かれている。
観無量寿経変は第217窟と同様、中台に阿弥陀浄土、左右の外縁に序分義、十六観が描かれているが、多点透視ですなわち視点を変えて描いているところが217窟のそれと異なる点である。全体を鳥瞰的にとらえ、中央の三尊段を仰ぎ見る視点で、宝蓋と中央の大殿は下から見上げる視点で、背後の両楼閣は水平の視点で、と多点透視で効果的な画に仕上げている。
観無量寿経変で舞う飛天

莫高窟は無限の飛天が舞う
第148窟 盛唐 (奥行7m幅17m高さ6m涅槃窟) 涅槃像 涅槃経変 薬師経変 観無量寿経変
アーチ状の天井に千仏が施され、今でも翡翠の緑色が鮮やかに残っている。その下窟の中央に身長15メートルもの涅槃仏像が身体を横たえている。後方の壁には弟子、天人、各国王子、菩薩、羅漢など83体がどれも悲しい顔をして見守っている。
また、西壁を中心に南・北壁にかけて涅槃経変が涅槃を物語り、東壁の窟口の左右には薬師経変、観無量寿経変が仏の教えを説いている。
柩を模ったアーチ状の石窟

ゆっくり涅槃経変を見る時間が欲しかった。
第130窟 盛唐 (方錐形) 弥勒大仏(南大仏) 菩薩像 飛天 晋昌群太守楽庭環礼仏図 楽庭環夫人太原王氏礼仏図
鷹さ29メートルの窟に北大仏にならぶ高さ26メートルの石胎塑造の弥勒大仏が倚坐している。下から眺めると目鼻立ちのよい顔がくっきりと見える。北大仏より顔立ちが良い。頭上の伏斗形藻井には金龍の華蓋が描かれ、北壁上部には莫高窟で最も大きな飛天が空を舞っている。僧衣の太い衣文は一部あんこの藁が剥き出しになっていた。
供養者を描いた礼仏図もこの窟の特色であったが、主室へ向う甬道に描かれていたはずであったが、うっかり見落としてしまった。
南大仏

第254窟 北魏(隋代修復) (塔廟窟) 交脚仏像 降魔変 サッタ太子本生 難陀出家因縁 シビ王本生
北魏代を象徴する塔廟窟である。窟前部は人字披天井を形成し木造建築の内部を現わしている。中央の方柱はラテルネンデッケ(三角隅持ち送式天井)模様の天井に囲まれ、龕のたもとは夜叉像が描かれていた。正面の大龕には菩薩交脚像が安置され後壁には脇侍菩薩などが描かれている。また方柱の他三面は上部に闕形龕に菩薩交脚像が、下部円拱龕には禅定仏像が安置されている。
北壁の人字披下に難陀出家因縁、その左にシビ王本生が描かれており、鷹に肉を与えるために肉を裂いているシビ王とそれを止めようとして膝に縋りつく妃の姿が印象的である。また南壁の人字披下には降魔変、その右にサッタ太子本生が描かれている。サッタ太子本生は捨身飼虎図の物語であり腹をすかした母虎が七匹の子虎を食べようとする場面から虎に食われた太子の骨を収めた供養塔建立までの場面が描かれている。特に太子の身体に食らいついている母虎のするどいまなざしが眼にとまる。降魔変は悪魔たちが武器を振りかざして襲おうとしている中央で釈迦は動じないで静かに結跏趺坐し降魔印を結んでいる。悪魔たちの表情がおもしろいのと右下の妖艶な娘たちが着飾って誘惑しているが、左下では娘たちが老婆に変わっているのがまたおもしろい。
西域風のラテルネンデッケの天井とインド風の円拱龕、中国宮殿風の人字披天井と闕形龕など敦煌が東西交易の接点にあったことが現われている。
私は北魏代の仏像が好きである。2回方柱の周囲を回って菩薩交脚像と禅定仏を観賞した。当時の修行僧や礼拝者たちも少ない灯りのなか方柱の回りを右遶礼拝したことだろう。一周目は仏たちを拝み願いをかけ、二周目は壁画から仏の教えを学んだ。
シビ王本生

第249窟 西魏(塑像清代修復) (伏斗形方窟)
正面の西壁中央の大龕には胸元で帯を結んだ漢民族の衣装をまとった仏倚像が安置されている。しかし龕内両側の脇待菩薩は今は失われている。見上げると窟頂にラテルネンデッケの模様の格天井があり、ここから東西南北にのびた台形の面に様々な神々や人間模様を描いた壁画が目を引きつける。
西面の台形には阿修羅が日月をかざして立っている。頭上には阿修羅が守護する須弥山がそびえ、てっぺんにで兜卒天空へ通じる門が開いている。阿修羅の左右には宗達の絵を思い出させる雷公と風神をはじめ闢電、雨師、烏獲、朱雀、迦楼羅、飛天、羽人などさまざまな神々が舞っている。その下で僧が座り修行したり、鹿が水を飲んだりしている。右隅では一匹の猿が描かれ手をかざして天井人間の営みを眺めているように見える。
北面の台形では山中で狩猟する絵が見事である。野山を駆ける黄羊の群れや野牛、熊、狼、猪を狙い馬上の狩人が生き生きと描かれている。そのなかで特に馬上振り向きざまに矢を射る猟師の姿が印象的である。
東面の台形にはニ人の力士が魔尼宝珠を支え持ち天空には飛天が鮮やかに舞い飛ぶ。また力士の下に逆立ちした男や、烏獲、開明、玄武などが描かれている。また、南面の台形には鳳車に乗る人物像を中心に鳳凰に乗る男や飛天が描かれている。
この天井の壁画でもっともおもしろいと思ったのは、10個前後の人頭を一列に並べた頭を持つ開明である。開明は虎に類する獣身を持ち、頭は人頭が一列に並んでいる怪獣で東西南面のいずれにも描かれている。人頭の数は描かれた面で9や13と数が違っている。数の違いはなにか意味があるのだろうか?不思議である。
天井の阿修羅像

千仏が描かれた壁の上端にアーチ形の窓と屋根がかかった窓が交互に連なっている。窓辺で伎楽天たちが様々な誇張した動作をして法螺、箜篌、篳篥、縦笛、腰鼓、曲頚琵琶、横笛など懸命に演奏している。天井に描かれたぎやかな天宮の歓楽的・幸福的な世界を華やかな楽曲でたたえているようである。
法螺貝を吹く伎楽天

第16窟 晩唐 (宋代・清代修復) (背屏式窟) 仏坐像 供養菩薩図
馬蹄形の仏壇に清代修復された仏坐像、ニ比丘立像、ニ菩薩立像と小さな四供養菩薩坐像とが安置されている。背廟は窟頂に連なり壁面は千仏で満たされている。また甬道北壁にはきらびやかな衣装を身にまとった精微多彩な供養菩薩図が七体並ぶ。当初は八体あったが一体は第17屈の発見時に剥がされ第17窟の入り口にとられてしまった。
9尊像(清代修復)

第17窟 晩唐 (伏斗形方窟) 洪べん像 樹下人物図
もともと第17窟は第16窟の甬道北壁に開かれた洪べんの遺影を納める御影堂であった。何時如何してか今でも謎となっているが、あるとき洪べん像は第16窟の上にある第362窟に移され、この小洞窟には教典をはじめ古文書、絹絵、仏像などが封じ込められた。20世紀初頭、密閉されたこの窟が偶然発見され眠っていた5万点にも及ぶ経典や古文書が世界の注目の的となり、莫高窟が世界中に知れ渡ることになった。その後、洪べん像は第362窟から元の御影堂に戻され今に至っている。
入り口は小さく窟の中は暗かった。懐中電燈の光が十分でなかったが正面に鎮座する洪べん像の鋭い眼光と厳粛な容貌を感じることができた。しかし、背後の壁に描かれた双樹と二人の侍者は光がとどかず大変見ずらかった。
洪べん像と侍女

双髷のういういしい優婆夷の顔をゆっくりと観賞したかった。
あっと間に見物の時間が過ぎました。最後に案内された売店で説明員と別れ見物は終わりました。なにか途端に力が抜けて頭がボーとして木陰のベンチに腰を下しました。燦燦と照る日の光が眩しく、しばらく呆然と風になびくポプラの大木を眺めていました。
塑像や壁画を描いた職人さんはどんな人々であったろうか。・・・彼らが残した広大な壁画のなかに彼らの銘や自身の姿を描くことはなかった。・・・彼らは窟の寄進者のように壁画に登場したり博物館のケースの中に陳列されることはない。・・・砂漠に埋れた墓標をひっくりかえして探し出せ・・・彼らは北区の窟にわずかに痕跡を残したが煙りのように消え去った。・・・きっと職人さんたちは精魂込めた仏像や壁画のなかで仏さんになっているだろう。
莫高窟を訪れることで仏像や壁画により興味を持ちました。石窟の旅の終着点と思えた莫高窟は新たな旅への出発点となりました。