中国/河南省
洛陽市
龍門は黄河支流伊河の両岸の断崖に造営された石窟です。
造営は北魏朝以降400年間も続きましたが盛唐期を境に衰えて行きました。
龍門石窟

龍門石窟景区
Longmenshiku
(2006.5.28)
龍門石窟は洛陽市南郊外12.5キロメートル、伊河の中流を挟んで両岸に開けている。ここを最初に訪れたのは今から10年前の1996年12月であった。伊河にかかるアーチ橋の龍門橋、石窟の入り口の石門や河畔の柳並木は以前と変っていなかったが、今は広い駐車場が用意されショッピングセンターや電動バスなどが出来て大勢の観光客が受け入れ可能となっている。前回、12月のどんよりと曇った龍門は、今回は5月の日の光耀くもと、伊河水碧にして琵琶峰青く 春風に柳枝なびき白壁に仏窟無数。
龍門石窟景区
伊河の西岸の龍門山には西山石窟があり、漫水橋を渡って東岸の香山には東山石窟、香山寺、白園がある。これらの全長1000メートルの総称が龍門石窟景区である。
石窟の規模
現存する窟龕は2345個、仏塔40余座、碑刻題記3600件、仏像10万余尊を数える。
開鑿された年代
龍門石窟は北魏代493年に開始され、東魏・西魏、北斉、北周、隋、唐、五代、北宋と400年余りの年代をかけて造営された。
西山石窟の主なものは北魏代の古陽洞、賓陽洞、蓮花洞、唐代の潜渓寺、万仏洞、奉先寺である。一方東山は北魏代の香山寺、唐代の看経寺となっている。
潜渓寺
門をくぐると第一番目の石窟が潜渓寺である。斉抜堂ともいう。初唐の貞観15年の完成である。
高さ9メートル、幅9.5メートル、奥行き6.5メートルの洞の中に七尊仏坐像がある。主仏は阿弥陀如来であり丸いふくよかな量感溢れる顔立ちをしていた。阿弥陀如来を主仏として弟子2体、菩薩2体、天王2体の構成である。方形の台座に結跏趺坐している主尊像は全体的に丸みをおび、衣文も繊細に描かれ唐期の特徴を備えているが、弟子像らはどっしりとして古風な形を留めている。
賓陽洞
次ぎは賓陽洞である。ここは北、中、南と三つの石窟と伊闕仏龕碑がある。景名元年(506年)〜正光4年(523年)の北魏末期に造営されたが北、南洞は途中で造営が中止され完成を見なかった。その後、南洞は初唐に再度造営が行われた。
中洞
北魏の宣武帝が勅願し造営したもの(いわゆる勅願窟)で、龍門では北魏期のものとしては最大の石窟である。奥壁には如来五尊像を中心にして左右に如来三尊像を配置している。主尊は釈迦如来坐像は高さ8.4メートルの顎を張った細長の顔立ちとボリューム感のある体形は雲崗像に通じるものがある。衣は双領下垂式大衣の右肩にもう一枚袈裟を重ね二枚の衣端を左腕にかけ、裾は台座に懸けられている。また光背は舟形光背のなかに同心円の頭光に挙身光を重ねている。左に老比丘立像と脇侍菩薩を右に若比丘立像と脇侍菩薩像を配置しておりどっしりとした体躯である。また、その両外側の三尊像の真中のずんぐりした如来立像は雲こう第六窟と同様中国式の衣制に変わっている。
南洞
貞観15年(641年)銘がある伊闕仏龕之碑によれば唐太宗の第四子の魏王・李泰が亡くなった母、文徳皇后を追慕して造営したものであるそうである。五尊仏坐像がある。像の高さは8.2メートルであり、四角張った頭、台形の胴体、縁側の台のような膝、彫りの浅い衣文などの隋期を思わせる特徴がある。さらによく見ると光背に唐草文様が彫られ、袈裟は左胸前で袈裟の端を紐でつるしているなどが気付く。
万仏洞
次ぎは大唐永隆元年(680年)十一月三十日完成と刻まれた万仏洞である。名前のとおり南北の壁一面に15000体もの小仏がびっしりと彫られている。正面は阿弥陀仏、ニ比丘、ニ菩薩の五尊が並びこれらを加えて15000体ということになるらしい。15000という数は大乗の考え方で現在、過去、未来の三世の十方世界の諸仏一切の諸仏をあらわしているということであるそうだ。主尊の阿弥陀仏は六角の台座に結跏趺坐しふくよかな手を左膝に乗せている。頭でっかちで親しみやすい顔面、肉づきの良い胴体、胴体のわりに膝が小さいなど北魏期の仏像に比べ人間味をおびてきている。その後壁に蓮の茎でつながれた54もの蓮華座がありおのおの菩薩が坐している。五尊阿弥陀仏と同根の茎でつながった蓮華座などは阿弥陀浄土変を表現しているということらしい。
蓮花洞
次ぎは北魏の孝昌三年(527年)前後に開鑿されたとされる洞で、窟頂に見事な大輪の蓮花が浮き彫りされている。その周囲に大きめな天女が彫り込まれている。主尊は釈迦牟尼立像で両側に文殊、普賢のニ菩薩を従えている。洞の入り口の上方に伊闕と刻まれており当時は伊闕洞と呼ばれていたようだ。また、南壁の小龕には二組の仏伝図(樹下思維図、樹下授法図)が浮き彫りされている。
奉先寺
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龍門といえば奉先寺というほど最大規模の石窟寺院であり、どうしてもここの印象が強く残り他の石窟の印象が薄められてしまう。95段の石段を登ると正面に高さ17.4メートル、頭長4メートル、耳長1.9メートルの瑠舎那仏坐像が見下ろしている。双領下垂式に袈裟をまとい豊満な顔立ち、伸びた眉と切れ長の目、きちっと結んだ口の角は僅かに上に反りかえっている。じっと見上げているとなにか自然にこころが落ち着いてくる。 |
龍両側に献身的な阿難、迦葉の弟子像が立ち、その外側に高さ13メートルもの巨大な脇侍菩薩像が立つ。右菩薩像は腰を左右に振るしぐさを備え、薄い裙をとおして胸のふくらみや脚部の輪郭が見える。北壁の天王は甲冑をまとい、左手を腰にあて右手は手のひらに宝塔をのせ、右脚は妖怪を踏んでいる。また左隣の金剛力士像は眉をしかめた怒り目で前方を睨み、左手は胸にあてがい、右手の拳を振り上げ、腿の筋肉を隆起させて、勇猛果敢な姿を見せつけている。ニ弟子、ニ菩薩、天王、力士らはみな10メートル以上の高さがあり一層主尊を引きたてている。訪れる人を圧倒する巨大なモニュメントの正面には紅白の花束がたむけられていた。
葯方洞
次ぎは唯一北斉期に開鑿された洞である。洞口の両側に140種類もの病気治療の薬の処方が書かれていると聞いていたが、奉先寺を見て気が緩んでいたのか見落としてしまった。見るものを予めメモしておくべきであった。
古陽洞
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西山石窟の最後は古陽洞を見た。龍門で最も古い石窟で北魏の孝文帝が大同から洛陽に遷都した前後(493年ごろ)に造営が開始されたものである。奥壁に一仏、ニ菩薩の三尊が並んでいる。主尊の左手には古陽洞と銘が彫られている。主尊の如来は双領下垂の袈裟をまとい台形の台座に結跏趺坐している。衣文は左右対象のであり両膝は方形であり写実的とはいえない。北壁は上中下の三層に、南壁は上下二層に龕が穿たれ、長楽王夫人弥勒像、北海王元詳弥勒像、比丘慧成造像、ニ仏並坐像及び脇待菩薩立像造などが掘り込まれている。また窟頂を見上げると小龕が上部まで並んで穿たれている。 |
漫水橋
古陽洞を見て伊河にかかる漫水橋を歩き対岸へ渡る。天気は快晴空は青、両岸の山々と柳並木の緑を映し伊水の流れも緑に染まる。心地よい風が吹き視覚的にも体感的にもすこぶる気分爽快にさせる。
東山看経寺
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唐の則天期(700年)ごろになると西山より伊河対岸の東山へ造営が移った。ここは29人の羅漢像の浮き彫りがあるそうであるが、見物はしていない。この位置から眺める対岸の西山石窟群の眺めもまた格別である。 |
東山香山寺、白園
香山寺の創建は北魏に遡る。この山は香葛を産することから香山の名が付き、寺の名も香山寺となった。大和三年(829年)白居易が河南長官として洛陽へ赴任したころ、香山寺は長い間手を入れておらず荒れ果てていた。白居易は多額の資金を集め修繕を行った。太和6年(833年)自らを香山居士と号し、香山寺の仏光和尚と共に70歳以上の好友を集め香山九老詩社を結社した。酔吟先生とも呼ばれた白居易は仲間と酒を嗜み詩を吟じ、琴を弾じ、音楽を聴き、将棋を楽しんでいたが、会昌6年(846年)8月75歳で病没した。同年11月生前の遺言により香山寺北に位置する琵琶峰に葬られた。琵琶峰を登り柏の木立に囲まれた酔吟先生が眠る円形墓の前に立つ。昔は許しなく名前を石に刻むことは叶わなかったが、楼がかけられた墓前の石碑には唐小伝白公墓と刻まれていた。・・・琵琶峰とは琵琶行に因むものなのか・・・。今 伊水綿綿と音も無く流れ 当時耳に満ちた早瀬の音は聞こえない。白居易の長恨歌や琵琶行など読んで見たい。
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酔吟先生の詩より 酒を勧む |
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| 恥ずかしいことだが、ちなみに今、私は畑の恵みを肴に夕刻ひとり酒を飲むのを楽しみとしている。 帰り来た故郷より旧友すでに遠方に去り家に訪ね来る人なし 独り酌をして酒水口に含み窓外を眺めてはこころしずめる。 |
琵琶峰を下り龍門橋を渡って帰る。駐車場に着く途中は土産物屋が軒を連ねている。そこで小さな陶器を焼いた紫色の牡丹花のタテを買いました。洛陽牡丹と銘が入っています。