中華人民共和国/河南省
開封市
                     

開  封

北宋の都として栄えた東京(開封)を初めて訪れた。
清明上河図に描かれた風景を重ね合わせたり
水滸伝の場面を連想しながら気分は夢ごこち。

kaifeng
(2006.5.30)


開封は古くからいくつも王朝が都を置いたが、北宋の150年間が全盛期であった。この統一王朝の都は山岳で囲まれた要塞の地ではなく交易の便のよいこの地に開かれ経済を繁栄のもととした。


治乱興亡がおりなす中国の歴史、一治一乱し、終わりてまた始まる。五代十国の戦乱のうちつづくうちに、ある日に雲が切れ再び晴天を見ることができた。

盛化を観るの吟    邵雍

紛紛たる五代 乱離の間
一旦 雲開けて 復た天を見る
草木 百年 新雨露
車書 万里 旧山川
尋常の巷陌にも 猶お簪祓あり
取次の園亭も 亦た管弦す
人は太平に老ゆるも 春は未だ老いず
鶯歌 日高くして眠りを害うこと無し

開封はかって百年太平の文化が花開いた。


しかし、街は度重なる黄河の氾濫により土砂に埋没してしまった。その為か今の開封には城壁らしきものが見えなかった。当時は皇城を外城が囲こんでいたようだ。皇城の中心には王宮があり、現在では龍亭が再建され龍亭公園となっている。なお、当時の姿をとどめる鉄塔や大相国寺も皇城の中に位置しており、繁塔は皇城外の外城内にあった。


龍亭

龍亭は清代に再建された建物である。午門をくぐり中山路を歩いていくと左右に楊家湖、潘家湖がひらけ涼しい風が湖面から吹いてくる。正面の朝門をぬけると中央に雲龍の浮彫りを施した70段ほどの石段が続きその真上に龍亭が天に向ってそそり立つ。階下より見上げると相当な威圧感がある。台に登り楼閣に入るとロウ人形により宋朝開基の式典の模様が再現されている。また台上からの眺めはすばらしい。潘家湖、楊家湖や開封の街並を見下ろしていると、天安門で建国を宣言する毛沢東の映像が脳裏に浮んできた。


鉄塔公園(開宝寺鉄塔)

龍亭公園から東北方向に鉄塔公園がある。もともとは開宝寺という寺であり北宋代1049年の創建である。鉄塔と称する高さ55.88メートル、8角13層の瑠璃瓦造りの仏舎利塔で創建当時のものである。鉄塔の壁面は仏陀像や菩薩像などの50種類もの浮彫りで埋め尽くされてされており当時の人々の信仰を偲ばれるが、現在では開封のシンボルとして当時の形をとどめるのみである。公園は広い。気持ちよい風が吹く。風は黄河から吹いてくるのだろううか?風はカンカカンカカンと鉄塔の風鐸を鳴らして私を宋の都東京へと誘ってくれる。


大相国寺

北斉の555年創建の寺である。北宋代に都の反映とともに大いに発展したようだ。かって弘法大師もたち寄った寺でもある。山門を入ると左右に鐘楼と鼓楼がある。その先の天王殿は布袋のような弥勒菩薩と四天王がまつられている。真中に池があり池にかかる橋を渡ると大きな香炉が置かれた大雄宝殿がある。ここには三世仏と十八羅漢塑像が安置されている。その次ぎの八角形の建物が羅漢殿である。八角形の軸にあたる中心亭に高さ7メートルの金箔をほどこした千手千眼観音がたち、その回りを八角の回廊がめぐっている。ひとびとは観音様の回りをめぐってあまたのご利益を願ったことであろう。その人々の祈りがこの八角殿のあちこちから蘇えってくるようである。最奥にはビルマ仏を安置した蔵経殿と弘法大師空海を記念した弘師堂がある。

相国寺と水滸伝

水滸伝は宋代を舞台とした武勇伝であり、当然都である開封を中心に展開した。唐の時代、竜虎山の伏魔殿という祠に108の魔王を封じこめた。時が流れ宋4代皇帝仁宗の御世、この祠があばかれ掘った穴から黒雲がわき上がり天せい星36柱、地さつ星72柱の計108柱の魔王たちが金の光となって飛び散った。その後60年が過ぎ、徽宗の御世に108柱の魔王はそれぞれが人に生まれ変わった。これら生まれ変わった面々が水滸伝の主人公たちである。滝沢馬琴の里見八犬伝の主人公たちもこの物語をモデルとしていることは言うまでもない。

天せい星36柱・天狐星の魔王の生まれ変わりとされる魯智深が、この大相国寺の菜園の番人として登場する。場面は菜園内、ならず者たちからもてはやされた魯智深が酔ぱらって気分をよくし、みんなが見ている前で柳の大木に抱きつき根こそぎひっこぬいて自分がいかに力持ちかを披露する。また、さらに62斤(約40キログラム)の禅丈を軽々と振り回してならず者たちを驚かした。この情景を菜園の外から見ていたものがいた。八十万禁軍の槍棒の林冲である。林冲はこれを見て魯智深にほれこむというように物語は展開していく。

魯智深

腕力が強く乱暴者だが一本気でいたって善良である。魯智深は三国志で言えば張飛、牛若丸では弁慶、清水の次郎長では石松であろう。本名は達、あだ名は花和尚。延安府(杭州)で金翠蓮親子をいじめていた肉屋の鎮関西を拳骨三発で殴り殺して逐電する。五台山に行き出家したが、酒を飲んで金剛像をたたきこわすなど大暴れして寺を追放される。その後、東京(開封)に来て大相国寺の菜園の番人になる。

林冲にあった魯智深はその後に仲間に加わり度重なる戦いに参戦し大活躍するが、最後は杭州の六和寺で静かに円寂する。波乱万丈な人生を生きようと結局はすべて夢のようなものであると水滸伝は語っているようだ。


繁 塔

繁塔は中心街からはずれ、市民の生活の場の中にある。開宝7年(974年)建築されたこの塔の名は興塔寺の興慈塔・天清寺塔であるが、殷民七族の繁氏がこの地に居住していたところから俗称繁塔と呼ばれている。建築当時9層の塔で高さ80メートルもあったが、黄河の氾濫により埋没し、元代に7層に、明代に現在の3層になってしまった。今の高さは約30メートルであることからして50メートルも埋没したことになる。六角形の塔の壁面は一面に小龕が穿たれ千仏がまつられている。これは仏像を彫刻した磚を壁面一面にはめ込んだものである。

北宋代の開封は三重の城壁に囲まれ120の坊、四大運河を全て城内にひき入れ、人口100万を超える政治・経済大都市に成長したが、1126年の女真族の金の侵入、元代以降は運河も東方へ離れるなど経済的な求心力もなくなり衰退していった。


大同から開封まで15日間の旅はここ開封で終わりました。今回の旅の切り口は仏教でした。石窟や寺院を巡ることで中国文化と仏教についていっそう感心を持つことが出来ました。そして今でも中国、朝鮮、日本の人々の心の共通項として仏教があるとの認識をあらためて確信できたのではないかと思います。
中原の旅  完

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