中華人民共和国/江西省

江西省を訪ねて

Jiangxi
(2008.11.25〜12.1)


私にとって山西省はまだ未踏の省でした。2008年初冬、三清山と廬山を見る目的で江西省へ初めて足を踏み入れました。


江西省の旅、最終の第4回目は廬山の麓にある浄土宗の東林寺と朱子学の白鹿洞書院です。


東林寺
東晋太元6年(381年)慧遠が桓玄の寄進を得て創建した寺で浄土宗発祥の地として名高い。鑑真は日本へ渡航するまえに東林寺を訪れ東林寺の僧、智恩とともに来日している。日本の浄土宗につながる源流の寺である。

山門
昔であれば虎渓を渡るとその先で山門が迎えてくれるということに表現になるのであろう。しかし虎渓は見当たらないようである。山門の正面の壁に真新しく書かれた南無阿弥陀仏の文字が印象的である。

蓮池と護法殿
山門をくぐりぬけると広場の中心に宝池(蓮池)があり正面に護法殿、左右に鐘楼、鼓楼が建っている。蓮池に立つ観音菩薩像は両側の太湖石に比べ純白で眩しい。時間がたっても白さが変わらないというが本当であろうか?護法殿には弥勒菩薩、韋駄天、四天王が安置されている。

鐘楼と鼓楼
蓮池の両側に鐘楼と鼓楼は三重の楼閣である。建物の瓦は緑色、壁は朱色で統一されていて殿宇全体が現す景観は鮮やかである。

大雄宝殿と千仏塔
朱色の壁に黄色に染まった公孫樹が映える。背景の七層の千仏塔も青空にくっきりと映える。主殿の大雄宝殿の中には黄金に輝く釈迦、文殊、普賢の塑像が安置されている。この日は一般人は入場が禁止されていて残念ながら仏像を拝むことができなかった。


遠公堂
建物の中に慧遠和尚のが祀られています。

手植えの松
遠公堂の前に立つ松の古木は慧遠手植えと伝えられている。


虎渓三笑の伝説

この寺には虎渓三笑という逸話が残されている。登場人物等は慧遠と名士の陶淵明と陸修静、山上に住む神虎である。慧遠は一心修行に励み来客者を送るときでさえも虎渓橋を渡って寺から出なかった。もし虎渓橋を渡たるものならば、山上に住む神虎が必ず雄たけびをあげるであろう。ある日、慧遠のもとに名士陶淵明と陸修静が訪れた。慧遠は陶淵明と陸修静を虎渓橋のたもとまで見送るつもりであったが、語らいながら歩いて行いて行くうちに不覚にも橋を通り過ぎてしまったことに気づかなかった。神虎の雄たけびはいつまでも止まなかっが、三人ははたと悟りお互いに目を見合わせて大笑いした。世人はこれを虎渓三笑と称して今でも語り続けている。

虎渓三笑の石碑
遠公堂の左隣にある三笑堂の壁にはめこめられている虎渓三笑の石碑。拓本をとっているのだろう黒光りしている。

虎渓橋
虎渓三笑の舞台となった虎渓も虎渓橋も今はない。今は虎渓橋と刻んだ石碑が残るだけである。石碑は無残な破壊の傷跡を残している。


西林寺(車窓から撮影)
東林寺の西にならぶ西林寺は幾度か焼失し当時の建物は唐代千仏塔とよばれる唐の開元年間に建てらた7層の塔一基を残すのみである。六角形をした楼閣式塔の各階に仏がんが穿たれ南正面には各層ごとに扁額が掲げている。現在はすでに千仏塔のほかの殿宇が再建され、殿内には新しい塑仏像が安置されている。


白鹿洞書院

東林寺から廬山の嶺をはさんで東側の森のなかに儒学の聖地白鹿洞書院がある。白鹿洞という名は唐の貞元年間、この地に書斎を建て隠居した李渤が一頭の白鹿を飼っていたのでひとびとから白鹿先生と称され、この書斎を白鹿洞と呼んだことに始まる。
南宋代の哲学者朱子(朱熹)が淳煕6年(1179年)書院を再建して宋学を大成させ儒学の聖地として白鹿洞の名は天下に鳴り響いた。南宋時代には朱子、陸象山(九淵)、明代には王陽明(守仁)などがここで講学した。院内には礼聖殿、御書閣、明倫堂、碑廊と軒を連ねている。

白鹿洞書院の門
白鹿にちなんでか白壁の門である。この門をくぐると一本の道があり殿や堂が軒を連ねている。

書院

朱子祠

石に刻まれた朱子の像
朱子祠の正面に置かれています。清代に彫られたものです。

明倫洞

内部の様子
講義はこのように行われたのであろうか

朱子白鹿洞教条
画面から欠けた右の一行は「父子有親 君臣有義」と書かれている。朱子学の教育理念の精髄として後世まで遵守された。

石碑坊
石碑坊の先に正学之門がある。

白鹿の像
頭の良い子に育つようにと子供連れで訪れるひとも多いようだ。


南昌駅22時33分発2186次寝台列車で今江西の旅の起点となった杭州へ戻りました。初冬の西湖白堤を散歩してから帰国の途につきました。初めて江西省に入り主要なところを見てまわり大変満足できました。

江西省の旅    完     中華人民共和国へ戻る