
暇日飯店から眺めた貴陽の街並み
NH947便大連経由沈陽行きは朝鮮半島を横切って大連へ向かった。一人旅は気楽なもので窓からの景色
が気兼ねなしに楽しめる。
早朝4時に起床し浦和駅4時58分の電車で羽田へ向かった。朝早い空港はいつもの賑わいはない。国際線
乗り継ぎカウンターでチェックインすれば目的の沈陽まで手荷物は関西空港で出し入れしないでも沈陽ま
で運んでくれる。NH141便関西空港行きはほぼ満席であったが、大連経由沈陽行きは空席が目立った。
大連空港では入国手続きを行った。2階の喫煙室から中国に来たのだなぁと心のなかでしたりながら町を
眺めると、目の前に日本では見かけない赤茶の屋根で黄土色の壁で統一された9階建て位のアパート群が
目に付いた。沈陽空港は草原の中の空港で街の建物らしい物は見えなかった。空は鉛色に曇り遠くの丘は
霞んで見えた。沈陽ではY氏と合流することになっており、空港のロビーで予定どおり会えた時はホット
した。武漢経由貴陽行きのSZ4662便は到着の遅れから出発が約一時間半の遅れとなった。禁煙とトイレの
匂いがする待合室での時間待ちはこたえた。飛行機は一面の雲海上をすれすれに飛んでいった。武漢に近
くになり雲が消え地上の明かりも見え空には月が輝いていた。
貴陽空港へ到着したのはもう10時をまわっていた。貴陽市は標高1000メートル以上の山間地にある。陸路
であれば山間地にのぼる感じを掴めただろうが、飛行機ではこの登る感じはまったく掴めない。貴陽空港
の薄暗いロビーでホテルまでどうしようかと考えていると青年が近づいてきてタクシーが要るのか?と話
しかけて来た。料金を確認したところ50元で行くというのでそのタクシーで貴陽市街のホテルへ行くこと
とした。タクシーの運転手はホリディインでは分らなかったので漢字の暇日飯店を示したところ目的地が
分ったようだった。高速道路をとばして約30分で目的地に到着した。
我々より30分遅れて到着したCさんと3人で夕食にタクシーで街に出かけた。もう12時近いというのに街頭
に照らされた歩道のテーブルをたくせんの人々が囲み飲み食いをしていた。冷えたビールがなかなか出て
こないのにやきもきしたがチンゲン菜、ザリガニを唐辛子などと一緒に炒めたもの、チャーハンなどで空
腹を充たした。四川省と近いということか料理は辛く香辛料の効いたもので訪問一日目の食事としては慣
れないので食が進まなかった。
唐辛子は唐の字がつくことから中国が原産で各地へ伝わったものだと考えていたが、どうもそうではない
らしい。原産は南米であり日本へはキリスト教の伝道にあわせて伝わったものであるようだ。そうすると
中国の四川省へは遠くシルクロードを経て伝わったのかも知れないし唐辛子を四川料理に使い始めたのは
そんなに長い過去のことではないかも知れない。食事が終わろうとするころテーブルの丈よりちょっと頭
を出す程度の男の子供がアルミの器を持って残飯を貰いにきた。Y氏がチャーハンの残りを全部器に移し
て与えると子供はうつむき加減に小声で謝謝と呟いた。
貴州省は総面積8032平方キロメートルで人口3500万人である。「天に三日の晴の日なし、地に三
里の平地なし、民に三分の銀もなし」という諺がある。雨や曇りの日が多く貴陽はその名のとおり太陽が
貴ばれる土地である。また起伏に富んだ地形で高い山や深い谷が多く平地が少なくそのため開発が遅れ中
国のなかで最も貧しいところの一つにあげられている。
次の日は安順市へ行くことになっていた。午前8時に現地の合弁会社のYさんがホテルまで迎えにきた。
安順市は貴陽から約90キロあり貴黄路という高速道路を日本製の車でとばした。街路樹越しに石灰岩の
山々が見え桂林の風景を思わせた。また所々に集落があり、パーズと呼ばれる平地では稲が実り、農民た
ちが人手だけを頼りに稲刈りや稲こきをしている様が見えた。Y氏はその姿を見て、自動車でなくトラク
ターや田植え機、稲狩り機など作って売ればいいだろうにと呟いた。Y氏は人々が昔なららの人手で作業
している姿を見ると感じるものがあるらしい。石灰岩の山なみや紅楓湖など風光明媚であり天候さえ良け
れば観光地として良いところだと感じた。
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![]() 安順市の朝 |
安順市は人口70万の都市であり標高は1393メートルある。最初に案内されたところは安順駅から500
メートルほど南華路を進んだ交差点のところにある西秀山ホテル別館である。広い中庭にロビーがあり、
若いシャオジェが出迎えてくれた。
西秀山ホテルには2泊した。部屋は居間、寝室、バストイレがあり一人で過ごすのには広いくらいである。
居間には透明な蒸留水のタンクがあり、湯と水の蛇口がついていて飲み水には不自由しなかった。お茶は
大きな茶碗に茶葉を入れ湯を注いで茶葉が底に沈むのを待ってから飲んだ。いつも思うがちょっとじれっ
たい。
一泊目は水道が断水して困った。ホテルの人がお湯の入ったポットと水差しを各部屋へ運んだ。髭剃りと
洗面はこれで足りシャワーは体をタオルで拭いて間に合わせたがトイレばかりはどうしようもなかった。
翌朝5時に目が覚めた。日本時間では午前6時である。中心街であるというのに鶏の鳴き声が闇のなかか
ら聞こえてくる。それもいくつかの方向から呼応しているよう聞こえた。中国では小鳥の鳴き声を聞くこ
とも飛んでいる姿を見ることも稀である。街の露天ではインコに似た小鳥が籠につめこまれ売られている
のに自然界では鳴き声さえ聞こえないそんな無気味さを感じさせる。
ニ泊目の夕方2時間ほどこの街で一番広い南華路を散歩した。街路樹の広い歩道は敷き詰めた石がデコボ
コしていて歩きずらい。日本の歩道に比べれば格段に広くゆったりと歩める。電信局前えの公園では中国
将棋をするひと、それを取り囲んで観戦する人の山があり、また書や水墨画の展示を見入る人々など仕事
を終え開放された雰囲気が漂っていた。南華路にはいくつもの路地があり、歩道の切れ目にはリンゴなど
荷車に並べ売る露天が開く。露店から買ったのであろう二人の青年が公園の花壇に腰をかけて炒ったひま
わりの種を食べて殻を食い散らかしていた。安順駅に向かうころ仕事を終えそれぞれの町へ帰っていく人
々でごった返してきた。交差点や安順駅の広場では行き先を表示したマイクロバスが何台も停まっていて
運転手が大声で帰り客を呼び込んでいた。乗り込んだ客はみな安堵したような顔つきで発車を待っていた。
安順駅の広場には飲み食いをする店や果物を売るおばさんの店がいくつか陣取っていた。駅の中央の階段
を登ると2階にだだっ広い待合室があり、薄暗い照明の下で仕事を終えた人々や遠方へ出かける人々が椅
子に腰を掛けて列車を待っていた。窓から石灰岩の連なる山々が見えホームで長距離列車らしいディーゼ
ル客車が発車を待っていた。
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![]() 黄果樹大瀑布 |
安順から車で小一時間(約45キロ)とばした山岳地帯に黄果樹風景区という地区がある。貴黄公路もここ まででここから奥は一般道になっているようだ。ケーブルカーで谷に下りて白水河のほとりに出る。河沿 いの小道を歩いていくと大瀑布が見えてきた。河を渡るためおばさんから3元で草履を借りおばさんの案 内で河を歩いて渡った。滝のしぶきが雨のように降り注ぐなかゴウゴウと音を轟かせた雄大な大瀑布とそ の霧で煙る滝壷が目の前で見られた。運転手が傘を持てと言った訳が始めて理解できた。河を渡ったとこ ろでから登り道になる。大瀑布の裏には全長134メートルの水廉洞という洞窟がある。やせたサツマイ モを食べながらそのまま草履で登って行こうということに決めおばさんから5元で草履を買った。
![]() 大瀑布水簾洞 |
水廉洞は大瀑布の裏を貫き、所々滝を裏から見えるようになっていた。さすが東洋一と呼ばれるにふさわ
しい大瀑布である。河を渡り水廉洞をくぐり丘の上で滝を眺めたりして2時間ばかり草履で歩いたことで
気持ちの良い足の裏の感覚がジンジン脳に響いた。草鞋であるくことは健康に良いのだとみんなで話し合
ってこの経験を共有した。川沿いの小道にはお土産店が並んでいた。お土産にミヤオ族の民族人形を買っ
た。
貴陽と安順のほぼ中間にピンバ県という町がある。ピンバ(平バ)は平らな土地という意味であろうか?
安順に比べて開発が遅れているようで人力の自転車や荷車がたくさん見受けられた。ピンバの町をぬけて
いくと田園地域に入る。黒牛が放牧されている牧場があり、稲が実った水田、牛を追う人、痩せたアヒル
の群れ、おばあちゃん山(日本の榛名山の水沢を実家から見るとおばあさんが上を向いた形をしているか
ら妻がおばあちゃん山と名づけた。)など車窓から外の風景を見ているとなんとも言葉では言い尽くせな
い気持ちがこみ上げてくる。
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貴州は四川盆地と広西盆地との中間に隆起する雲貴高原の西部に位置する。山岳地帯が多いが標高2000メ
ートル程度の山が最高であって高山はない。また地図で地形を確認すると揚子江流域と珠江流域の分水嶺
にあたる。貴陽はその州都である。
![]() 貴陽市;明南河と甲秀楼 |
明南河が街の中心を流れ、中心街に毛沢東が右手をあげた大きな像のある人民広場や甲秀楼などがある。 建国50周年にあたる国慶節の前でありその準備が行われていた。中国の駅は概して街の外れにある。貴 陽駅は人民広場から2〜3キロ先にあるらしい。人民広場から甲秀楼の河岸の道には雑多な商品を並べた 露店や商店が並び人々でごった返していた。骨董品、釣具、花、鳥や猫や兎、金魚など品物は数え切れ ない。金魚は高級なものと思えるものまで露店で売っていた。甲秀楼は3層の楼閣で明代に鼈に似た大 石に堤を築いて対岸と結びその上に楼閣を築いたものが始まりであったとのことである。 翌日、ボリデインホテルを7時30分にチェックアウトし朝貴陽空港9時15分発のSZ4561便で上 海へ向かった。上海でJL792便に乗り換えて成田へと無事日本に帰国できました。貴州のような内陸 地でも発展が著しいと感じました。また昔ながらの方法で農業を営む少数民族もあり貧富の差が広がっ ているように思います。今の政策による富と歪がいつまで国民に受け入れられていくのか?これが今後 の中国の安定と成長を占う鍵ではないかと思います。