中国/河南省
鞏義市
                     

鞏義市は洛陽から東60キロに位置し、北は黄河、南は洛河に挟まれている。

鞏 県 石 窟

北魏時代の石窟寺院

Gongyishiku
(2006.5.29)


洛陽のホテルは高いプラタナスの街路樹が立ち並ぶ道路が分岐する三叉路の一角にあって目の前に公園が開けていた。朝と夕方公園は太極拳や舞踊を楽しむ市民たちでにぎわうっていて市民の立ち振る舞いも前来たときよりゆとりが感じられた。
ホテルを出て、白馬寺、宋陵を見て鞏義市内で昼食となる。昼食後バスに揺られ眠気が襲った。いくつもの街路を通りやがて岩壁が見え小さな寺院が建つ石窟寺に到着した。


寺の名前

ここは三蔵法師が出家した寺との伝えがあり、もともとは希玄寺、隋唐時代は浄土寺と呼ばれ、現在の呼び名な石窟寺である。石窟のある大力山の岩壁を背景にして寺院としては立派とはいえない建物が建っていた。


開鑿された年代

大力山南麓に位置する鞏県石窟は520年より北魏末534年前後にかけて5窟造営されている。


石窟の形

第五窟を除いてすべて窟の中央に方形柱を配する中心柱窟である。


本尊像

鞏県で最大の石窟は間口奥行きともに6.5メートル、高さ6メートルの第一窟である。中央に方柱を建てその四面に龕を穿ち、本尊坐仏、菩薩、仏弟子からなる五尊像が並んでいる。本尊の顔立ちは縦長の楕円形にちかいふっくらとしているが、首が長く胸は薄くすっきりしている。前にたらした双領下垂式の大衣と懸け裳は厚手であり衣文線は簡素である。全体として丸みをおびて穏やかな雰囲気をかもしている。また、台座の両脇に獅子がひかえ、光背周辺に飛天を配する。


皇帝・皇后礼仏図

第一、三、四窟の入り口左右に皇帝・皇后と考えられる礼仏図が彫刻されており北魏朝廷関係者によって開鑿されたと考えられている。


千仏龕

浮き彫りされた仏の数を計算したら1025との結果となった。


今晩の泊まりは鄭州市である。