中華人民共和国/浙江省/紹興・寧波・普陀山・天台山
日本ゆかりの中国寺院を訪ねて
Riben fojiao yinyuan de siyuan
(2007.12.15〜20)
2007年の暮れに日本仏教ゆかりの寺院を訪ねて浙江省へ出かけました。
日本となじみの深い紹興、寧波、普陀山、天台山などを見てまわりました。
天台山
下方広寺・智者塔院・高明寺・国清寺
Tiantaishan
(2007.12.18〜19)
天台山へ向う
8時寧波のホテルを出発、高速道路を天台山へ向う。緑の多いのどかな風景が流れる。10時30分天台インターより高速道路から出る。途中バスを停めて現地ガイドを乗せた。女性ガイドのKさんの声は美しい声をしておりツアーメンバーに谷間から聞えてくる鳥のような美しい声と表現して話したら嫉妬のお言葉を頂戴してしまった。
天台山
天台山の主峰は標高1098メートルの華頂山である。天台宗の開祖知者大師(智ぎ)はこの山腹で悟りを開いたと言われている。入唐した最澄はここで天台宗を学び、日本の天台宗の開祖となった。また最澄はこの地からお茶の木を日本へ初めて持ちかえったと伝えられている。
天台山の奥は道が狭いので昼食を取った飯店で専用のバスに乗りかえた。不要な荷物は元のバスに残して乗り換えたが、このあと荷物を乗り換えたマイクロバスに残したと錯覚し荷物がないと小生が騒いでメンバーに迷惑を与えてしまった。老いぼれる年ではないのにと落ち込んでしまう私なのでした。(トホホ・・)
石梁瀑布
天台山を代表する名勝である石梁瀑布は天台山系の奥に位置する。マイクロバスを下車して曲りくねった急な坂道を下っていくと滝壷に着く。ここから見上げると見事な石の梁が弓なりにかかり二段に重なって滝は梁の下をくぐって落ちている。圧巻は弓なりの石の梁である。武闘映画の格好な場面である。
かってはこの滝を中心にして上・中・下と三つの寺(方廣寺)が営まれていたが、火災にあった上方廣寺は廃寺となり、現在は中と下の方廣寺が残っている。
庭園のモデルにもなった石梁瀑布

下方廣寺、中方廣寺
五百羅漢道場と言われている下方廣寺は東晋の創建で古い歴史をもつ。大雄宝殿は清代に再建されたもので屋根の先が弓のように曲り天を向いている。中央で黄金色の釈迦像が蓮華坐に座り、両端のニ弟子もこれまた金色である。出口の左右に弥勒菩薩と文殊菩薩が座り通りぬけるものたちを慈悲の眼で観ている。また両側の棚は五百羅漢像がびっしりと並んでいる。
| 下方廣寺の本尊 | |
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中方廣寺
下方廣寺を出てさきほど下りて来た道を登ってもどる。もどる道の中ほどで滝の上流の沢におりた。流れを岩を飛んで越えると石の太鼓橋がかかり中方廣寺の山門に辿り着く。本尊は阿弥陀如来であるが大掛かりな修繕を行っていたため拝めなかった。寺院の欄干に立つとそこは石梁瀑布の真上で眼下に石梁が横にかかり滝が真下に落ちていた。その先には森に囲まれた下方廣寺の全景が見える。
天台山中を歩いて下る。
中方廣寺を見てから天台山中を尾根伝いに知者塔院まで下った。左手に知者大師(智ぎ)が悟りを開いたという華頂山の峰が一望できる。知者塔院の山門が近づくにつれて参道の際にこの山で没した僧侶達の石の卒塔婆が立っている。
華頂山を中心とした天台山

知者塔院
開祖智ぎの肉身塔を安置することからこの名があるが正式には眞覚講寺と言う。石段を登り智者塔院と書かれた山門をくぐると中庭があり金桂や銀桂が植えられ枝を広げ空をつかんでいた。
開祖の肉身塔は六角ニ層の石造りで下層に智者大師像が安置されている。肉身塔の周囲には行満大師、章安大師、道遂大師など智者の弟子たちの肖像壁画が取り囲んでいる。
| 肉身塔 | |
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知者大師の道場のひとつ高明講寺
潅木の緑に映えた黄土色の壁と白い縁取りのあるアーチの入り口をもつ山門が目を引きつける。智者大師が天台山に開いた智者十二道場の一つで後唐代の天佑(904〜907年)年間に創建された。
伽藍は南北に天王殿、大雄宝殿、方丈が配置されている。天王殿では四天王に守られ弥勒菩薩が正面で出迎えてくれる。大雄宝殿では十八羅漢を従えて黄金色の三世仏が並んで鎮座している。また、このほか羅漢殿では腕を長く伸ばした長手羅漢など生き生きとした羅漢(五百羅漢)さまが一階と二階に並んでいる。
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一足踏み入れたとたん遠くから音曲にあわせナンマンダーとお経が聞えてきた。それは四方殿という建物で僧衣をまとった女性たちが集い音曲にあわせナーマンダー(南無阿弥陀仏)と唱えていたものであった。彼女たちは尼僧ではなく会社員であった。女性たちが唱えるお経はなんとなく艶っぽく感じられた。
天台山の主刹・国清寺
天台山の南麓にある国清寺は中国天台宗、日本天台宗の祖庭である。初名は天台山寺と言ったが、隋の楊廣皇帝が智ぎを尊って「寺若し成らば国即ち清からん」との意味をこめ国清寺と呼ぶようにと遺言したものである。
巨木が林立しあたりは薄暗い。門の前に渓流が流れている。宋代に架けたという豊干橋を渡ると正面に隠塀がある。黄土色の壁面に隋代古刹と書かれている。
建物は弥勒佛殿、雨花殿(天王殿)、大雄宝殿、観音殿の四殿、鐘楼、鼓楼、方丈楼など五楼、妙法堂、安養堂など四堂、梅亭、清心亭二亭などが山の斜面に建ち並んでいる。
弥勒殿は山門殿であり間口三間、正面に弥勒菩薩(布袋さん)が坐り背面に韋駄天像がある。また両側に金剛力士が立ち睨みをきかしている。雨花殿(天王殿)も弥勒殿と同じ間口三間で持国、増長、廣目、多門の四天王が仏界を守りっている。
主殿の大雄宝殿は間口七間あり殿の中心で蓮華宝座の上で本尊の釈迦牟尼仏が阿難、迦葉のニ弟子を従え念仏を唱えている。両側の壁際には楠木で彫られた十八羅漢像が並び、出口正面ではフダラク山を背景に善財と龍女を従え鯰に乗った慈航普渡南海観音がたたずんでいる。また、その両側には文殊菩薩と普賢菩薩が鎮座している。
観音殿は間口五間あり千手千眼観音像を中心に変幻自在に姿を変えた観音三十二応身の像が両側でぎやかに並んでいる。
大雄宝殿の東側に樹齢1300年という梅の老木(隋梅)ある。今でも春になると花をつけるというが、今の季節では爪をたてた龍が身をよじったようなあらわとなった枝が印象に残りました。また伽藍を登りつめ高みに佇むと重なる瓦屋根の先に高さ約60メートルあるという六面九層の隋塔が霧に霞んで見えておりました。
天台山を最後に今回の旅は終わりました。日本仏教にゆかりの深い寺院を訪れ遠く日本の僧侶たちを磁石のように引きつけた磁場に立って先人の思いを多少なりと感じることができればとこの旅に参加しました。結果としては先人が学んだところに行きついたという感動でありました。私にとって旅することはそれで十分なのです。
どこの寺院でも力士、四天王、弥勒菩薩、阿弥陀菩薩、観音菩薩、釈迦牟尼仏、羅漢、弟子などの塑像が整然と安置されていてたくさん仏像を見ることができました。しかし巨大で立派な仏像の多くは日本のそれとはだいぶ趣きが違うように見えました。どうしてなのか自分のこころのなかにしみてこないのです。仏像に会うとか出会うというような感じではないのです。中国の各地に残る石窟の仏像のほうが断然いいなと感じました。
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