中華人民共和国/甘粛省
敦煌市

敦 煌 (1)

鳴沙山・月牙泉・玉門関・漢長城

Dunhuang
Mingshashan/Yueyaquan/Yumenguan/Hanchangcheng

(2007.9.19〜20)


敦煌市内の反弾琵琶像

敦煌の朝の6時半ホテルを出て散歩した。北京時間に対して約2時間ぐらいの時差があるようだ。通りはまだ真っ暗だが、もう地元の学生達が歩いて通学していた。陽関路と沙州路が交差する中心に反弾琵琶の像が立っていた。 煌びやかに着飾った舞人が琵琶を背負い、右足を高く跳ね上げ 身体を右に傾け長帯を翻して舞っている。 見上げているとどこからともなく太鼓がリズムを刻み 絃の音色とかん高い歌声が聞えてくる。心は絃に応じ、手は鼓に応ず。舞人は絃鼓一声、転蓬のごとく舞い始め 夜明けの街は華やかな舞楽の世界に変身する。


嘉峪関より列車で敦煌へ向う。
列車の旅は西安から蘭州へ、蘭州から嘉峪関へと夜行列車を利用したが、今回の嘉峪関から敦煌へは朝6時30分発の硬坐列車に乗車し昼間の列車の旅を楽しんだ。列車は荒涼とした砂漠を走りオアシスの駅に停車してだんだんに西へ進んでいく。嘉西回廊の標高は1890メートル程度が最高で徐々に下がっていく。7時14分玉門駅(標高1795メートル)を通過、左は遠方に祁連山脈がつづき、右に遠くぎざぎざの山並みが見える。オアシスの畑は玉ねぎが収穫時期を迎えていて紅い玉ねぎが畑でうずたかく積まれている。8時25分五華山駅(標高1605メートル)を通過。砂漠の河は堤防が筋をひいているだけで水の流れはない。小鹿が2匹なかよく走って飛んでいた。玉門鎮−軍良−(オアシスの町をでるとすぐ砂漠である)−河東−橋湾−(オアシス付近では綿花やオリーブ畑、羊飼いや野生の鹿など生命の息吹がまぶしく感じる。)−(列車の最後尾のデッキには石炭の湯沸しがある。デッキに出て4元で買ったマーボカップ麺に熱湯を注ぐ。鉄路が流れていく景色もすばらしいが、日本で生まれた中国育ちのカップ麺の味も格別である。)−11時30分瓜州駅通過−(周囲は土砂の大地から本格的な砂漠となる。砂漠にブルでかいた跡が見えるが耳かきでつけたあとのように小さく見える。−獅子頭−と列車は終着の敦煌駅は目前に迫っている。


ヤルタン
砂埃で汚れた列車の窓から砂漠を眺めていると砂漠の景色も一様ではないことがわかる。特に注目したのが土の塊である。一つ一つの土の塊の高さは1メートルもないが、無数に広がりって大海原の波のようである。これをヤルタン(竜推)というとガイドの説明があった。そうか・・・砂漠にも波があるのか・・・列車の窓は砂ほこりがひどくて開けられない。真っ青な空の下、列車は砂の海原を突進していく。

車窓から見たヤルタン(雅丹)


ミステリー敦煌駅
手もとにある地図では敦煌へ鉄路はひかれていない。敦煌駅もない。オジンは敦煌へは柳園で列車を降りバスで向うものと思っていた。旅先でガイドにもなんていう駅で降りるのかと質問したところ「敦煌」ですと回答があったが、多分柳園の間違えだろうと回答をにわかに信じることができなかった。しかし到着した駅は終着の敦煌駅なのでびっくりしてしまった。鉄路はどこで分岐したのだろうか??列車のなかでは全然気づかなかった。ターミナルビルも構内設備も建設中で待合室も改札口も仮設である。まさに敦煌駅は建設中である。地図にも載っていない。まだ完成していないのに列車が乗り入れられているのだ。まるで最近人気の青海鉄道に対抗しているようにも感じた。中国国内は観光客の争奪戦の時代に入っている。

建設中の敦煌駅(仮設の駅舎)


綿畑
敦煌近辺は綿畑が多い。列車の窓からも駅から市内へ向うバスの窓からも綿畑が一番目に付いた。畑は今がちょうど収穫時期で摘み取り作業をしている人々の姿がたくさん見られた。高さが膝頭にも満たない背の低い木が一面に植えてある畑もあり、こんな背の低い未熟なような木でも立派に白い綿の花をつけている生命力の強さに感心した。


鳴沙山で駱駝に乗る
鳴沙山は神沙山、沙角山とも言われ敦煌市内から南5キロメートルのところにあった。山の大きさは東西長さ40キロメートル、南北幅20キロメートルで標高は1200メートルである。頂上から多数のひとが滑り降りると山全体が雷のような鳴り音をたてることから鳴沙山と呼ばれことになったようである。沙は赤、黄、緑、白、黒の五色の色があるので五色沙とも言われる。粒は細かく風で沙は容易に移動し波紋をつけるが、不思議なことに山の稜線を大きく変えることはない。チケットを買って入場門から入ると正面に午後の光を受けて峰峰は極上のシルエットをつくっていた。履いてきた靴のまま沙漠に入るとたちまち靴の中に砂が入ってしまうので駱駝に乗る前に足袋を借りた。これは砂山を走りまわっても沙が靴に入らなくてとても便利です。


駱駝に乗る
シルクロードの映像にたびたび登場する乗った商隊の列。さぞかし駱駝の乗り心地はよろしいのではないか映る。しかし思っていたより揺れてあぶなっかしくってけっこう大変で乗り心地も良くない。足もとの悪いところでは象のほうが安全に走れるのではないかとも思った。乗るときは駱駝はまず後ろ足から立つので乗る人は極端に前かがみになるし、次ぎに前足をたてるので後に仰け反ってしまうので最初はこのぎっちんばったんでびっくりしてしまう。そのうえ乗駱駝するときに鐙に足を懸けるのも忘れてしまい、オジンは走行中ずーと不安全乗車となってしまいました。注意力が散漫になったのはどうも60歳との年のせいではなく寝ぼけぐせがついたためだ。緊張感を維持していかないと・・・・。

・・・・駱駝は四匹が綱につながれ一列になってひとりの女の御者にひかれて砂の道を進みます。我々の隊は最後尾のお母さん駱駝にはかわいい子供の駱駝がおっぱいをもとめてついてきてましたよ。かわいっすね・・・

駱駝の刺繍がかわいい駱駝使い


月牙泉
駱駝を下りポプラの道を歩くと右手の砂山の窪地に三日月の形をした池がある。中国語では三日月のことを月牙(yueya)と言い池の形からこの名前がついている。東西218メートル、幅54メートル、平均の深さ5メートルと説明書きがあるが、実際見た感じではそれよりは小さく約半分ぐらいではないかと思える。池の底から祁連山の雪解け水が湧き出して千年以上に亘り池は砂に埋もれることがなかったというが、近年の開発で地下水が大量に使われ、池の水位が下がり存続にアラームがでているようである。そんなことは知らずして池の水は空を写し藍色にきらめいていた。景色を眺めていると夢の世界にいるようである。

丘の上には月泉閣という楼閣が建ちここの景色を決めている。西門には夕照の額が掲げてあり、さぞかし夕日で照り耀く景色は逸品であろう。丘のめぐりは丸い形をした月冠楡、硬い樹皮で身を守った胡楊(胡桐)や旱柳(左公柳)などが茂みをつくっている。昼間観光客や駱駝が踏みつけ砂に残った足跡は、夜風が吹き砂が帰り沙山は再び風の文様を取り戻す。ここの景色は生き物のように繰り返し呼吸をしているのだ。


玉門関へ向う
翌9月20日早朝、玉門関と漢長城に向けて敦煌賓館をバスで出発した。玉門関は敦煌市内から西北約100キロメートルにあって、漢代にあって中原と西域各国との往来の重要な関所であった。


鳴沙山が西に沈む涅槃仏
左手に鳴沙山の山並みを見て西へ西へとバスはひたすら走る。道は一直線であるが断層を下るような上下方向があった。50キロほど進むと道は右に折れて再び直進コースをとる。右折する直前、前方で鳴沙山の山並みが姿を消す。この西端の山の形が涅槃仏に似ていることから地元のひとびとは信仰の山として崇めているようである。死をイメージする沙漠の大地、この大地に衆生の救いである涅槃仏があらわれ、その向こうに夕日が沈む西方浄土が開けている。ここは仏の信仰の三拍子がそろっているありがたいの景色である。経変を思わせる景色を見て右折するとすぐ沙漠のど真ん中にチケット売り場の門がある。門から先玉門関まではさらに50キロもある。


はるばると玉門関
そこは風が吹いていた。人はまったく住んでいない。もちろん昔のように隊商の姿もない。こうして観光客だけがここを目指してやってくるのだ。遺跡に向って歩いていくと瓦礫の地面に砂が堆積した場所があり背の低い草が生えて風に揺れていた。これは沙漠では珍しくない植物でその名はラクダソウという。観察するとその草には棘があった。棘があるので駱駝は好まないだろうガイドに質問したところ、駱駝はけっこう好んでこの草を食べるそうである。ラクダソウとの名前の妥当性をゆるがすことはできなかった。背中から吹く風は強くなりやむことなく吹き続けていた。

関は南北26.4メートル、東西24メートルと高さ10メートルの垣で囲まれ西と北に門があった。玉門関の名は古代ホータンでとれた貴重な玉がここをくぐり中原に運ばれたことからこの名前がついたそうである。中原から運ばれた絹織物もまたここをくぐり頻繁に西域に運ばれていったに違いない。私は東から死と浄土が混じりあった世界へとやってきたのだ。私は茫然として漢の時代の西域への玄関口に立っていた。

北門をぬけると東西の方向にシルクロードの古道の跡が残っている。風で崩れた烽火台は煙りをあげることはない。そのさきで疎勒河(ソルク川)に沿って緑の帯がひろびろと続いていた。それはきわめて幻想的であった。瓦礫と緑の帯が織り成す強烈なコントラストは生と死の絵模様である。


漢長城
玉門関より西約10キロのところに前漢王朝によって建設された長城の残骸が残っている。この長城は紀元前121年より約20年かけて甘粛省の永登から西の羅布泊まで長城を築造したものである。壁は高さは2.5メートル、基礎幅は約3メートルある。極めて乾燥した気候は古代の形を残し、風化して崩れた壁からは葦が剥き出している。先に見える烽火台は前漢時代より魏、晋時代まで使われていた。


バスは来た道をひたすら帰って行った。ビデオを戻すように砂漠の景色ももどっていく。漢長城や玉門関、鳴沙山や月牙泉、彼らとの出会いは一時的だ。彼らは僕に語らいあれこれ説明したかった訳ではない。僕のこころのなかに無意識に焼きついたものそれが彼らの贈り物である。膝で握った指の間から砂がこぼれ落ちるように時が過ぎ去っても不意にこころに蘇えってくるものがある。それがきっと僕と君達との出会いの証なのだ。


次回は敦煌その2、莫高窟です。     中華人民共和国へ戻る