中華人民共和国/遼寧省/吉林省/黒龍江省
中国東三省国境の旅
Dong san sheng guojing
(2008.7.8〜20)
初夏に東三省の遺跡と中国と北朝鮮の国境を見てまわりました。
集安(Jian)
沈陽を出発した夜行列車は通化(tong hua)が終点であった。通化から集安までは約100キロの道程でバスで約二時間かかかった。
集安は高句麗の都がおかれた古都である。現在この地は中国吉林省に属し鴨緑江の流れを隔て朝鮮と接する国境の街である。緯度は日本の青森、河北省の承徳とほぼ同じ位置にある。
この地に高句麗文化が花開いたのは第10代山上王(197〜227年)が都を置いた209年から第20代長寿王(413〜419年)が平壌(ピョンヤン)へ遷都した427年までの王都としての約200年間と平壌遷都後も別都として高句麗滅亡668年までの約230年を加えた約430年間である。市街地の中心には国内城の城壁が残り、北方約2キロ離れた山地には丸都山城の跡がある。また、街の周辺には王陵や貴族墓葬など高句麗文化の遺跡が数多く残っている。
丸都山城
国内城と対をなすこの山城は東、西、北の三面を急な峰で囲まれた擂り鉢状の土地を周囲6329メートルもの石積みの城壁で囲ったものである。今この城跡は全てが畑であり宮殿があった場所もまた畑である。緑の中に所々顔を出した石積みのみが眺望台や城壁の姿を偲ばせてくれるだけである。眺望台の石積みに立ち眺望が開けた南を眺めると通溝河の流れの先に集安の街並が一望できた。
山城下貴族墓葬群
丸都山城の下を流れる通溝河の河岸に古墳群がある。ここに16基の大型の墓葬のほか合せて400基もの墓が残る。大型古墳は兄墓、弟墓などという名前がつけられた立派な石積みの古墳である。この古墳の前で国内旅行の姉妹が写真を撮ろうとしていたのを眼鏡をかけた日本人のおじさんが気がついて姉妹に話しかけてシャッターを押してやった。にこにこしてカメラの前に並んだ姉妹の姿からは漢族なのか朝鮮族なのか人種の見極めは定かではなかったが、なぜか漢族にはないこの土地から産まれた人たちの面影のようなものを感じることができた。もしかすると日本人のおじさんとこのむすめさんたちは1500年の時空を超えてしばらくでしたと再会したようなそんな不思議な気持ちになりました。
兎山墓区古墳群
| 古都の丘 | |
| ここは兎山という場所である。古墳群は丸都(国内城)を見下ろすこの小高い丘の上にある。太王陵の上に登って四方を見渡すとこの丘はいかにも神々が降臨するにふさわしい場所に思えた。ここには好太王碑や太王陵、将軍塚など高句麗王陵のほか高句麗貴族墓葬の五かい墳5号墓などが並んでいる。 この丘にスモモの木が数本あり今ちょうど赤い身を枝につけていた。これに呼応するかのように町のほうから「タオー(桃)」とスモモ売りの呼び声が聞こえてくるがおもしろかった。 |
![]() |
好太王碑
好太王(広開土王)は第19代(391〜412年)王である。王碑は息子長寿王によって建てられた。歴史書に欠かせない好太王碑の前に立つととても感動した。方柱形をした凝灰岩の石碑は高さ6.39メートルもあり、堂々とした姿には父好太王の敬う長寿王の思いがあらわれている。長年の風雪にさらされ碑の表面は風化して火山岩のようにごつごつしていてるが四面に刻まれた1775の文字は永遠を願った刻みの大きさ深さによって今でも文字の形をつないでいるのだ。
近くに展示館に碑文の展示があり、国どおしで解釈の分れる第一面に刻まれた辛卯年条項については各々解釈を併設展示することでこの国の面目が保たれている。

五かい墳5号墓
高句麗貴族の墓である。ここでは塚のなかに入って墓の中を見ることができた。墓道、甬道、墓室の三つで構成されていて、地下3〜4メートルに花崗岩で組んだ墓室がある。墓室にはなぜか三つも石棺床あり東西の棺床はなぜか両方の壁にぴったりと置かれていた。墓の石の表面に描かれた壁画がすごい。墓室の頭上の菱形の藻井にも四壁にもまた甬道の両壁にも壁画が描かれていた。墓室の東西南北に配した四神、古来の神々、仙人、龍、飛天など当時の鮮やかさを残す壁画には驚かされる。(なお、五かいのかい(kui)という漢字は兜を意味し五かいとはすなわち五つの兜型古墳という意味であるらしい。)
| 五かい墳5号墓 | 壁画(実際の壁画を模写したもの) | |
![]() |
![]() |
将軍塚
王陵のなかでもっとも立派なものは第20代長寿王のもとのされる将軍塚である。花崗岩の切石を積み上げて高さ13.1メートル、底辺の長さ31.58メートルのピラミッドのような形をしている。墓の四面には15屯を超す重石が11個も置かれ墓を永遠なものとしている。
| 正面5段目の中央にある黒い四角は墓道の入口である。墓室はこの奥3段目の高さに設置されピラミッドのように地面にもぐることなく宙に浮いている。正方形の墓室に入ると二つの棺床が東西に配列されていた。 | ![]() |
| 墓道入口から見える丸都の全景 | |
| 振り向いて墓道から外を眺めるとなんと真前に丸都が一望できる。死しても生活した都の姿を見ることができるなんてうらやましい限りである。 | ![]() |
集安の国境
集安の街から見える山並みは朝鮮のものである。煉瓦工場であろうか高い煙突から白い煙が横になびいているのが見えている。川向こうがそっくり朝鮮であり集安は国境の街なのだ。
鴨緑江
ボートに乗って鴨緑江をクルーズした。対岸は朝鮮の農村風景が広がっていた。白壁の民家が軒を寄せ合った集落が見える。動く物は断崖を耕しとうもろこしでも育てるのか農民夫婦、河川敷で漁の準備をしているのか老人と子供、草を食む馬などわずかに捉えるばかりである。工場や自動車、オートバイ、トラクターなど街の騒音は全く聞こえて来ない。静かである。私はこんな状況のなか鴨緑江の流れに浮かぶ船上でこの静けさのどこかで銃口が潜み逃亡する仲間の背中を冷酷に狙っているのではないかなんてかってに想像してのどかな風景に意地悪く水を差していた。
国境大橋
鉄道は集安駅から鴨緑江にかかるこの鉄橋をわたり朝鮮へ延びている。全長589.23メートル高さ16メートルのこの鉄橋は日本が建設したもので1937年着工、1939年7月31日に竣工した。朝鮮戦争において四十数万もの中国義勇兵が渡河したのがこの橋であり中国義勇軍は国境まで迫った国連軍を南へ押し戻した。
現在列車は朝鮮満浦(まんぽ)まで日に1往復するだけのようだ。なお、この鉄路は朝鮮満浦を過ぎると江界(かんげ)〜煕川(ひちょん)〜順川(すんちょん)を経て360キロ先の朝鮮首都平壌(ぴょんやん)へとつながっていく。
ここではこの橋は日本軍国主義が中国東北の侵略の後に侵略の拡大と資源の略奪のために建設したと説明されている。この鉄橋はもしかすると徴兵された父が朝鮮から満州国ジャムスへ向うときに貨車に乗って渡ったのかもしれない。それが本当であるとすると67年を経てこの橋に立ち私は父の足跡とつながったことになるが、集安の鉄橋のほかに朝鮮と中国を結ぶ鉄路は丹東と図門の二本があり、この想像はまったく見当違いであると思うのである。そんな知識レベルでこの橋に立つのが恥ずかしい気がする。しかし、日本人にとっても中国人、朝鮮人にとってもそれぞれ忘れられない思いが渦巻きこすりあう橋であることは想像できた。
| 鉄橋を北朝鮮にむかって歩く | 北朝鮮側 | |
| 鉄橋を渡る線路は単線でこの左側に鉄板を渡して歩道がかけられていた。歩道の側面に架けられた数本の裸電線は切れていて通信の用をなしていないが、足元には細いケーブルが敷設されているのが確認できた。多分これは光ケーブルでこれで国境を越え容量の大きい通信が確保されているのではなかろうか思った。 銃を背負った監視員付きで鉄橋を途中まで歩いて渡った。橋の下の河川敷は畑が広がっていて足元から気持ちのよい風が吹きあげてくる。やがて鴨緑江の流れが見える位まで進んだところで制止された。ここまでかとため息をつきしばし立ち止まり対岸を眺めた。 眼は丘の上に建つ白壁の建物やその麓の並木道を歩く人影を捉え、耳は低く唸る鴨緑江の流れを越えてくる子供達の遊ぶ声を捕らえた。幼稚園や小学校の近くで聞こえてくる子供達のきらきらした声が印象に残った。 |
![]() |
| 中国側の監視所跡 | 中国側 | |
| 中国側には梁に集安口岸と掲げた高いアーチがたっている。このアーチは2004年に建設されたもので中国語では国門と言うようだ。国門の右手の河岸にコンクリートで固めた古びた二階建ての建物がある。これは過ってこの橋を警備した監視所の残骸である。二階の壁には攻撃のための銃眼が残り、便所が途中にある階段を下ると一階の部屋には煮炊きの跡が残っている。朝鮮戦争のときこの監視所で中国兵士と国境まで迫った国連軍が対峙したのかも知れない。広場のすみに一基の石碑が建ち、この橋の建設の経緯や朝鮮戦争のとき兵員渡河の状況などを語っていた。 | ![]() |
2002年に韓国へ行って慶州の天馬塚や公州の武寧王陵など朝鮮の文化に触れて感激したことがありました。今回これに高句麗の遺跡を追加することができてさらに感激しています。
集安の国境では高句麗というものの存在感、鴨緑江のとうとうとした流れ、対岸の白壁の朝鮮集落、断崖を耕す農民夫婦の姿、国境大橋で聞いた朝鮮の子供達のはしゃぎ声などが印象に残りました。
つづく 中華人民共和国へ戻る