中華人民共和国/遼寧省・吉林省・黒龍江省

中国東北地方の旅

ハルピン・牡丹江・チチハル・長春・沈陽・大連
(2001.8.28〜9.4)

奉天故宮大政殿

奉天故宮大政殿
清朝を建てた満州族(女真族)はかって遼から独立して金を建て宋を滅ぼして華北
を支配したが、モンゴル帝国に滅ぼされた後は大元、明の支配下に置かれた。明末
期になり再び勢力を盛り返してマンジュ国を建てやがて明を滅ぼして大清国を樹立
した。沈陽の故宮は1644年都を北京へ遷都するまで王宮として使われていた。


成田からNH903便で大連に向かった。 席は最後部の真ん中で最悪であったが、 黒にグレイのストライブの制服はしまって見えるとか、バンダナを巻いたりブラウスの襟を出したりして襟元で工夫しているとかホステスを観察して旅の出発の気分を楽しんだ。 大連空港は3回目である。空港の窓から見えるクリーム色の住宅群の鮮やかさは変わっていない。

ハルピン(HAERBIN)

大連よりXM229便でハルピンへ向かう。 山はない。大河が蛇行して大地をぬう。雲が浮かび大地に影を落とす。 集落が点在し集落と集落を結ぶ道が刻まれている。
ハルピンは黒龍江省の省都で人口約946万人である。 東清鉄道の建設により生まれた街で、東方のモスクワ・東方のパリと呼ばれロシア風の面影がある。姉妹都市である新潟市と週3便の航空便で結ばれている。


松花江遊覧 松花江遊覧

揚子江、黄河、黒龍江、珠江に次ぐ中国第五の大河である。松花江の源流は長白山の天池である。 スターリン公園の桟橋から遊覧船で松花江に出た。水流は少なく川幅も痩せて見えた。 岸辺には水浴を楽しむ老若男女の姿が見え、中には流れに揉まれながら江の 横断に挑戦するとわものもいた。 また、中洲には色とりどりの大小テントが張られたキャンプ場があった。


太陽島公園 太陽島公園

松花江をはさんで市街の対岸にある市民の憩いのための公園である。 市街から松花江を越える龍珠ロープウェイでも行ける。 園内はいたるところで花が美しい。奥の方にパルピン新潟友誼園がある。 ここの日本庭園を見るとやはり日本の感性は中国とは違うと公園の造りから も感じさせる。


ホテルはハルピン駅の近くの崑崙大酒店である。ロビーから駅前の混雑が見える。駅前広場は駅から吐き出される人々で異様なまでにごった返し、道路は往来する車と人が溢れている。

ロシア教会 ソフィア教会

レンガ造りのロシア正教の教会である。広場に憩う市民が集まっていた。何故か「哀愁のカサブランカ」のメロディーが流れていたのには驚いた。


スターリン公園 スターリン公園

松花江に沿って市民の憩いの場であるスターリン公園がある。 その中ほどに防洪勝利広場があり防洪記念塔が建てられている。 平原を流れる大河松花江は時として大氾濫の被害をもたらした。 この記念塔はハルピン大水害の復旧と防災工事の完成を記念したものである。 市民たちは河岸に腰掛け夕陽と河に浮かぶ遊覧船を見つめていた。

中央大街にあるロシア料理の店、樺梅西餐は地元でも人気が高くロシア料理を楽しむ市民で満員であった。私は新華書店を探すのに時間を費やしてしまい約束の時間を遅れてしまったので二階に確保できた席は狭かった。パン、バターにイクラ、ポテトフライ、魚のクリーム煮、ボルシチなどがテーブルに並べられ酒はウオッカではなく地元の白酒だった。味は中国風にアレンジされているということであるが、もともとロシア料理を熟知しているわけでもないので理解できない説明となった。


中央大街 中央大街

かってキタイスカヤ通りと言われた通りはハルピンの繁華街である。 モスクワをモデルにしたレンガ造りの建物が並び、石畳の街路は仕事を終えた市民がショッピングや夕食にと繰り出してにぎやかである。 野外演奏の歌声とネオンの輝きが北端の街にも発展の活気を漲らせていた。 後で聞いた話だがここの石だたみの下は水はけのため赤松の角材が敷き詰められているということだ。

牡丹江(MUDANJIANG)

牡丹江はハルピンの東南約350キロにある。 清朝発祥の地域であり日本人開拓団や満蒙開拓義勇軍の入植の多かった土地でもある。 牡丹江行き特快T409は8時定刻にハルピン駅を出発した。 我々の車輌は寝台車であった。座席の車輌でないのでメンバーの中には不満を洩らすものものがいたが、 今回の旅で最初の列車であったためか同調するものはなかった。
農村地帯である。実りをむかえた水田もある。古い藁葺きの農家も見える。 大地は単に平面でなく緩やかな波長でうねっていた。 阿城という駅を過ぎると低い峰峰が見えてきた。 松の森林で被われた峰峰をぬって列車はばく進した。 牡丹江に近づくと大地は広々と開けてきた。
空はいよいよ青く澄み渡り、白雲は遠く低く遊ぶ、 我特快列車に身おき、異郷の大地の所以を思う。

牡丹江駅牡丹江駅

中国の新学期は9月である。駅の出口には大学名を書いた看板を持って新入生を迎える学生達が目立った。 大学は全寮制であり学生は規律の厳しい寮生活をおくるのであるそうだ。


牡丹江市街に満州国当時の建物は大和ホテルと野戦病院しかないそうである。現地ガイドの健香玉さんの 日本語の解説は話し言葉でありおもしろい。


鏡泊湖鏡泊湖

牡丹江の南110キロにある鏡泊湖へバスで向かう。平原をぬって行く道路は高速道路並みに整備されていて快適である。 途中にある渤海鎮というところは7〜9世紀に栄えた渤海国の京である。
2時間ほどで目的地に到着した。鏡泊湖は1万年前の火山活動で松花江がせき止められできたもので、長さ45キロ、幅6キロ、水深40メートルと聞く。 6〜8月が観光シーズンであり観光客でにぎわう時間が短い。

山上平湖
水上山
北園風光
勝江南


吊水楼瀑布吊水楼瀑布

吊水楼瀑布は鏡泊湖八景の一つである。松花湖をせき止めた堰堤がアーチ状にくびれ流は滝となりアーチ状の底の部分から落ちていた。大雨が降り洪水になるとアーチ状のくびれ全面が滝となり雄大であるという。しかしこの雄大な滝も中国の広大さに量るといかにも小さく感じ旅の感動を漂白してしまう。


チチハル(QIQIHEER)

牡丹江からチチハルへは北東へ約700キロの夜行列車の旅である。 鏡泊湖から牡丹江市街にもどり市内の北山餐館で夕食をとった。 チチハル行き夜行特快は21時10分牡丹江駅を発車した。寝台車は両側2段の4人部屋であり扉は鍵がかかる。 持ちよった酒とつまみで小宴会が開かれようやく旅のメンバーも打ち解けてきた。チチハルで生まれたもの、ハルピンで生まれたものとかメンバーの満州との 関わりと今回の旅の目的らしきものが読めてきた。それぞれ思いを乗せた夜行列車は深夜の大平原を進む。真夜中、列車がハルピンを通り過ぎたころに目が覚めた。窓から夜空を見上げると満天の星が耀きオリオン座が傾いて見えた。東北大平原は広い。星が耀く闇の宇宙はもっと無限に広い。やがて夜が明けて午前7時10分にチチハル駅に到着した。


チチハルはダフールで辺境を意味するらしい。回族、モンゴル族、朝鮮族、満州族、ダフール族、エヴェンキ族、オロチョン族など20以上の少数民族が生活を営んでいる。ハルピンからチチハル間の都市と言えば油田の大慶市である。そのほかは大きな都市はない。農家の周りに畑作が展開されているが、湿地帯が多く見られ広々と展開した牧場に牛や馬が放たれいる。概してここらは牧畜地帯あると言って良いのであろう。


ジャー龍自然保護区扎龍自然保護区

湿地帯の平原は鶴や雁の繁殖地である。チチハル市外から20キロ離れたこの公園は1976年主に丹頂鶴の繁育工作の基地として造られたものである。丹頂鶴のほか白枕鶴、灰冠鶴などが見られる。檻に入れられた丹頂鶴は訓練されていて観光客が来ると檻から出されサービスをする。ここでは鴻飛鶴舞の絵の世界が演出されて いるが、あたりが広々としていて造りが小さく見えてしかたなかった。


龍沙公園龍沙公園

東北地方で最大の公園でありチチハル市民の憩いの公園である。中国の公園や動物園は遊園地とセットのところが多いがここも例外ではない。労働湖、三層の望江楼、清末期の英雄である寿山将軍を奉る寿公詞、関羽を祭る関廟などがある。望江楼は高台に立っていて登ると眺めが良い。四方を見渡すとチチハルの街は大平原に浮かんでいるように見えた。


孔子廟関廟

中に一人の袈裟をかけた僧がいた。乞食がきて祭壇の前でひざまづこうとしてよろめいた。僧は手をとってそれを助けた。


卜けい清真寺卜奎清真寺

こじんまりした寺院は旧日本人街の近くにある。100年楡の大木があるがそう広い寺ではない。天主の先端にある三日月、瓢箪、蓮の飾りは回教、道教、仏教のを示すシンボルである。今は回教寺院と使われている。
こんな北の地方に回教寺院があり回教徒がいるなんて不思議である。農耕民族には真似できない移動性がこんな北方まで伝えた原因かと思った。


16時38分発の列車でハルピンへ向かう。大慶一帯では場所を選ばないでいたるところで石油をくみ上げる装置が動いていた。列車の乗降口の壁に二本のマークが付けられているのに興味を持った。一本は1.4メートルの高さに、もう一本は1.1メートルの高さに引かれていた。児童購票標準とありどうも児童のチェックを年齢だけでなく背の高さで行っているようである。日本でも成長の早い児童はバスの運転手に質問されているのを見聞きしたことがあるが、ここでは自己申告ではどうでも立ち行かない彼らにとって高さ測るという即物的な方法が最も適していると私は勝手に解釈した。17時36分列車はハルピン駅に到着した。


朝から雷鳴が轟き雨であった。雨でもハルピン駅前は人ごみでごった返していた。雑踏は大きな待合室までは追ってこない。ホームに出ると構内は工事中であり足元が危ない。8時45分発の列車で長春へ向かう。面々として連なるとうもろこし畑もひまわり畑ももう珍しい風景ではなくなってきた。いくつもの駅をぬけて列車は南下する。やがて雲が切れて雨も止んだ。客車は時々中国語のアナウンスが流れるが大きな音で音楽も流す。この甲高い音楽のサービスは今乗車している列車だけでなく牡丹江行く列車もチチハルへ行く列車もみなそうであった。ここでは北国の春が流れ私の前に座った男がメロディにあわせて口ずさんだ。やがて12時4分に長春駅についた。駅前広場の前が旧大和ホテルであり新館で昼食を食べた。


長春(CHANGCHUN)

長春は吉林省の省都であり人口約643万人である。ポプラの街路樹は6月に柳絮が舞う夏の雪を演出することで有名である。元満州国時代にあっては新京と呼ばれた満州国の首都であり今でも旧政府の建物が市内に散見され利用されている。また高級自動車「紅旗」を造る第一汽車製造工場や長春電影製作所などが有名である。

長春駅長春駅

長春のような大きな駅には長さ約2.5メートル、幅1メートル程度の移動式売店が列車を待ちうけている。日本の狭いホームでは売り子が曳く売店は邪魔になるだろうが中国のホームは広く問題にならない。窓の客に向けて売り子が発する声はびっくりするくらい大きくて鋭い。駅に日本のように便利な自動販売機はなく暖かみがある店が連なっていいる。最近は店の女店員も愛想が良くなってきている。


儀皇宮儀皇宮

満州国皇帝時代の溥儀は4番目の夫人の王齢を最も気に入っていたようである。婦人の写真の裏面に「我的最親愛的王齢」と文字が残されている。勤民殿にある皇帝即位の儀式を行ったホールがありあまり広くない。 執務室や寝室など当時の皇帝の生活を垣間見ることができる。


長春市内長春市内

名門飯店から見た長春市内である。


人民大路人民大街路

長春駅から南にまっすぐ貫く大路が人民大街路である。ここは名門飯店の前であり、人民広場を経て長春政府、吉林省政府と官庁街をまっすぐ延び長春駅に行き着く.。
中日友好会館で朝鮮料理の夕食となった。会館は伊通河の辺にあり景色の良いところにある。ロビーでは白地に朝顔模様の浴衣を金色の帯でしめたかわいい小姐が迎えてくれた。料理は肉の質が良くなくおいしいものではなかったが、異国で飲む一合四拾元の日本酒は格別であり飲みすぎてしまった。


長春から沈陽の列車ではとうもろこしを売る男が乗ってきた。姿はいかついが愛想の良い男であった。男で旅仲間の一人が金額を間違えてたくさん買いこむはめになったのでメンバーにおすそ分けということになった。蒸したとうもろこしは熱くおいしそうであり満州平原の味は如何にと食べてみたらそう美味いものではなかった。昼食は食堂車で食べた。食器類が衛生的であるかどうか不安であった。


本渓(Benxi)

沈陽北駅から沈陽本渓高速道路で本渓市へ向かった。ガイドは任さんというにぎやかな小姐であった。市街地を抜けると渾河が流れていた。渾河の北を陽といい河の北に位置する町ということで沈陽とつけられたという説明があった。本渓付近は石灰岩の峰峰が連なっており、渓流は澄み日本の景色を思わせる。透明な流と砂利が豊富な河は珍しいと思った。


本渓鍾乳洞本渓鍾乳洞

本渓市街より35キロ、沈陽から155キロに位置する。1983年5月に開設した新しい鍾乳洞である。全長2300メートルで洞内は澄みきった冷気が漂い且つ地下水の自噴により平均水深1.5メートルの湖となっている。見物客は天井から滴る雫と寒さを避けるため防寒着を着て舟に乗り見物する。船頭は一人である。洞内は色とりどりの照明がほどこされていて、鍾乳石が描く自然の造形の世界に一層神秘さを加えていた。千仏盛会、南海椰林、巍巍雪山などスケールが大きいく天下一品である。


列車の昼食が原因であったのか、それとも鍾乳洞で身体が冷えたのが原因であるのか、本渓から沈陽に帰るバスの中で腹痛が始まり、夕食もほとんど食べられず沈陽のホテルでは薬を飲んで早めに休んだ。幸いにも翌日若干痛みが残ったが昼頃までに回復し安心した。


陽(SHENYANG)

沈陽は人口662万人で遼寧省の首都である。漢族を中心に満州族、回族、朝鮮族、シボ族、モンゴル族など29の民族が生活している。名前由来は水の北側は陽、南側は陰とするいわゆる風水からきており、瀋水の北に位置することから瀋陽と称されたものである。渤海国時代は瀋州と言った。欧米では満州語のMukdenと称されることもあるらしい。
かって瀋陽(奉天)は北京政府より東三省巡閲使と蒙彊経略使に任じられた張作霖の東北支配の拠点でもあった。しかし、1928年張作霖は関東軍により爆刹される。また後に中国で九・十八事変と呼ばれる柳条湖事件の場となった柳条湖は瀋陽郊外にあり、中国と日本の熾烈な権益争い舞台でもあった。


本渓から帰って夕食は老辺餃子館の餃子を食べた。14種類もの餃子が出たが体調が悪く残念ながらいろいろな餃子とその味を楽しむことができなかった。沈陽の町を歩きたかったがそれも出来ず心残りの晩であった。


沈陽北駅沈陽北駅

沈陽北駅は写真のような立派な駅である。もう一駅南に下った駅が昔の面影をとどめる二階建てレンガ造りの沈陽駅である。奉天の昔の玄関口1920年完成と聞く。東京駅を思わせる風格があり東京駅より先に完成したというのも満州発展期の熱意というものを感じさせる。
私たちが泊った凱莱大酒店は北駅の近くにあったがあまりにぎやかでなく、沈陽駅付近のほうがホテルも多く夜店も出る繁華街であったようだ。列車を乗り継ぐ旅行なので北駅近くのホテルの宿泊はやむを得ないものであると思われる。


沈陽故宮沈陽故宮

1625年に後金が遼陽から遷都した際に創建された王宮でヌルハチ、ホンタイジが住んだ。日本でいえば江戸期初期のことである。王宮は約6万平方メートルの広さがあり、東路、中路、西路に分れ約70棟の建物がある。北京市の故宮に比べ約10分の一ほどの規模である。東路はヌルハチ時代の建物で八旗制度を現す十王亭が八の字に並びその中心に八角形の大政殿がある。大政殿の柱と壁は朱色に塗られてあざやかである。紫の名牌と金龍が巻きついた柱が皇帝の権威を象徴している。中路はホンタイジ時代の創建であり、大清門、崇政殿、鳳凰楼、清寧宮と建物が続く。西路の建物は入関(1644年)以後のもので文遡閣には四庫全書が収容されている。


北陵公園北陵公園

ホンダイジとその皇后の墓であり昭陵とも言う。日本では鳥居にあたる石碑坊は3つの通りに分かれていて真中は皇帝の通る口である。これをくぐって中へ進むと朱色の壁の大紅門がある。やはり3つのアーチ状の門がある。さらに進むと中庭の両側に華表と呼ぶ大石柱があり続いて馬、駱駝、象、麒麟、獅子などの石獣が並ぶ。隆恩門をくぐり奥の隆恩殿をぬけると城壁があり饅頭状の宝頂に行きつく。宝頂が墓である。この昭陵は明の陵ほどの壮大さはなく又手入れも行き届いていない。そもそも漢族は征服した満州族に対してあまりこころよく思っていないのではないかという思いがしたところである。


沈陽の夜を散策できなかったのは残念であり心残りであった。特快列車は13時50分沈陽北駅を発車した。列車は旧南満州鉄道を一路大連へ向かって走る。いよいよ今回の旅も終わりが近くなった。周水子国際空港を右に見て左にカーブして行くと列車は大連駅に到着した。


大連市大連市

夕食後、駅前の渤海明珠ホテルを抜け出し散歩にでた。午後8時すぎであったが人通りが多い。天津路をぬけ中山広場までいった。中山広場は若い男女が集まり語りあったり、バトミントンをしたりして憩っていた。若者たちにはかっての日本の若者たちのように健全な明るさが満ち溢れている。一番目に付いたのは4〜5人でグループになってゴム製の輪に羽をつけた春笛という羽を足で蹴って遊ぶ姿である。日本の蹴鞠みたいな遊びで蹴るものが鞠でなく春笛という羽根である。露天のおばさんから20元で春笛を買った。
帰りに大連駅前の勝利広場に立ち寄った。ここは地下に防空壕があるというが大ショッピング街になっている。午後9時を回り店は締まっていたが広場には観光客や地方人のための小さな出店がまだでていた。椅子を並べただけのコーヒー店もあり薄暗い光の中で若いボーイに一杯のコーヒーを注文した。ロシア人の家族が来て軽食と飲み物で団欒していた。


勝利広場朝の勝利広場

最後の朝、旧日本橋まで散歩に出た。朝早いので勝利広場も人影が少ない。店を開け始めた長江路を歩いて勝利橋(旧日本橋)まで歩いた。旧日本橋は1年半前に来たときと何も変わっていなかった。板張りの歩道を渡り旧ロシア人街まで足をのばした。ここは目を見張るくらい建物も道路もきれいに整備され観光地化しているのには驚いた。


星海公園星海公園

老虎灘公園や大連医科大学の前にある星海公園へも行った。どちらも1年半前にくらべて開発が進み整備されていた。なんと星海公園にはバンジ−ジャンプ台ができていた。また、近くに星海湾風景区が開発され星海広場は広大である。


水師営会見所跡水師営会見所跡

二百三高地、水師営会見所跡、東鶏冠山まで足をのばした。二百三高地は売店や駐車場が新しく整備されていた。東鶏冠山は一年半前では壕の中に入れたところが柵が設けられて入れなくなってしまったところが目立った。


漢族が清国皇帝の直轄地へ入植が許されたのは19世紀後半からでロシアの南下に対抗するためであった。漢族(華北人)が入植し遼河平原は大豆、とうもろこしなど畑作が発達し豊かな大地に変貌していった。満州族は街を通る人々から満州族は?と探しても見分けがつかないほど漢人化してしまったようである。中国近代史の始まりは辛亥革命であり「滅満興漢」がスローガンであった。東北三省を満州と呼ぶことについて旧日本の傀儡国を思わせることから嫌われるが、少数民族を優遇している中国が満州語を話せる満州人が数人しかいないという文化的な壊滅状態まで放置したのは日本憎しのことだけでは説明できないことではないかと思われた。日本に帰り満州族の娘が踊る様をテレビで見ることができた。ゆっくりくねらせた腰と手の振りはとてもかわいらしいものであった。
午後3時ごろ周水子国際空港を飛び立ち日本へ向かった。今回の旅は過って清国やロシアなどと利権をめぐって争った旧満州であったからかも知れないが、発展する中国を見て勃興する中華というものに対して古代より幾たびか遭遇し繰り返えした歴史的な教訓を通して日本国とその国民がこれからどううまくつきあっていくのか意識をあわせる時期にきていると思えた。やがて上空から宍道湖が見え日没した日本列島は暗く連なっていた。


終り

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